弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2012年7月 8日

花晒し

著者   北 重人 、 出版   文芸春秋

 私と同世代の作家です。惜しくも3年前に亡くなっています。なかなか、じっくり読ませる時代小説です。いずれも短篇なのですが、話はずっと続いていきます。
 女がひとり、深川で生きていくにはね、暗くなっちゃあいけないんだ。気持ちが落ち込んでいても、明るく振る舞うんだよ。暗い気分で、暗い素振りじゃあ、ますます沈んでしまう。自分もそうだけど、周りのみんなの気が沈み、人が離れっちまう。辛いときこそ、明るく振る舞うんだ。そうすれば、人がよくしてくれる。いいかい。覚えておくんだ。けどね、明るいだけじゃ駄目だ。気張って意気地も見せないとね。大事なのは、明るさと意気地さ。そうすれば、あんたなら大丈夫だ。しっかりと生きていける。
なーるほどですね。いい言葉ですね。
 娘をたぶらかしてなぶりものにする悪徳武士(サムライ)に小気味よく復讐する話があります。胸のつかえがおります。そして、芝居がかった噂によって近所の稲荷に参詣人をたくさん集めて景気を盛り上げる話があります。
 実際、江戸の人々は神社やお寺に物見高く大勢参集していたようです。娯楽の少ないとき、人々の好奇心を満たす対象だったのでしょうね。
 そして、人が集まるところには店が立ち並ぶのです。稲荷鮨がどんどん売れるのでした。しっとりとした江戸情緒をたっぷり味わえる時代小説です。
(2012年4月刊。1500円+税)

2012年6月28日

百姓たちの幕末維新

著者   渡辺 尚志 、 出版   草思社

 江戸時代、全国にあった村は6万3千ほど。現在、全国の地方自治体は1800なので、一つの地方自治体に35ほどの村があった計算になる。平均的な村は、人口450人、戸数60~70軒、耕地面積50町、村全体の石高450~500石。
 江戸時代の百姓は、二重の意味で農民と同義ではない。一に、百姓のなかには、漁業、林業、商工学など多様な職業に携わっている人たちがふくまれていた。第二に、農業をすることが即百姓であることにはならなかった。
 農村における本来的な百姓とは、土地を所有して自立した経営を営み、領主に対して年貢などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられる身分呼称であった。つまり、百姓とは、特定の職業従事者の呼称ではなく、職業と深く関連しつつも、村人たちと領主の双方が村の正規の構成員として認めた者のことだった。
 百姓たちは、先祖伝来の所有地を手放すことについて非常に大きな抵抗感をもっていた。土地を失うということは御先祖様に顔向けできない大失態だった。
無年季的質地請け戻し(むねんきてきしっちうけもどし)慣行が存在した。
 借金返済期限がすぎて請け戻せず、いったんは質流れになった土地でも、それから何年たとうが、元金を返済しさえすれば請け戻せるという慣行が広く存在していた。質流れから、10年、20年、場合によっては100年たっても請け戻しが可能だった。
 これは、村の掟だった。村人たちが全体として貸し手に有形無形の圧力をかけることによって、この慣行は有効性を発揮した。
 百姓たちがとった没落防止策として、経営の多角化を徹底させることがあった。
 19世紀、とりわけ幕末になると、百姓たちもファッショ運に敏感になってきた。江戸などの大都市での流行が村にも波及し、10年周期くらいで流行が変遷した。
 江戸時代は、今以上に古着が広く流通していた。
 江戸時代の百姓が米を食べられなかったというのは、明らかな誤りだ。年間1石(150キログラム)以上の米を食べていた。近年の日本人の年間消費量は一人あたり60~65キログラムなので、倍以上も食べていた。ふだんは、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や粥(かゆ)や雑炊を食べ、婚礼などのハレの日には米だけの飯を腹一杯食べた。
江戸時代の百姓が肉類をまったく食べなかったというわけでもない。魚、鮮魚はあまり食べなかった。多くの村人が年貢納入に苦労しているときには、それを当人の自己責任に帰してすまさず、村役人が中心となって村として借金し、そのお金を困っている村人たちに融通していた。隣人の苦境を我がこととして、村全体で対策をとった。村人の所有地が貸し手に渡ってしまったあとは、そこからの小作料を納めないと言うことで貸し手に対抗した。
 江戸時代、幕府や大名・旗本は、領地の村々に対して、村全体の年貢納入額と各村人への割り付け方の原則を示すだけで、あとはすべて村に任せていた。実際に村内のここの家々に年貢を割り当て徴収するのは村だった。このように、年貢を一村の村人たちの連帯責任で納める制度を「村請制」という。したがって、領主は、村の一軒一軒がどれだけ年貢を納めているのか、正確には把握していなかった。
 村での年貢の割付・徴収業務を中心的に担ったのは、村役人、とりわけ名主だった。したがって、年貢の滞納者が出たとき、名主は自費で立て替えてでも上納しなければならなかった。
 村々では、村役人に無断で抜地などの不正な土地取引がさかんに行われたため、村役人も土地の所有関係を把握しきれていなかった。土地台帳が実態を反映しなくなっていた。
村人たちは、農産物価格の適正化を求めて国訴(こくそ)を起こした。幕府に訴え出たのです。日本人は昔から裁判が嫌いだったなんて、とんでもない誤りです。すぐに裁判に訴えるのが日本人でした。江戸時代は、実にたくさんの裁判が起こされています。
 百姓たちが代官をやめさせるのに成功した例もあります。老中や勘定奉行などの幕府の要人に対する非公式の働きかけを百姓(名主)がしていたのでした。
 江戸時代の百姓は、脇差を差すことが認められていた。
 江戸時代の村々には、多数の刀や鉄砲が存在していた。百姓一揆は、統制のとれた秩序と規定ある行動だった。一揆勢は、武装蜂起して武士と戦うことは考えておらず、人を殺傷するための武器も携行していなかった。手に持ったのは、自ら百姓であることを明示するための鎌や鍬といった農具だった。身につけた蓑や笠も、百姓身分を示すユニフォームだった。
 百姓一揆は反権力の武装蜂起というより、今日のデモ行進に近い。ただし、処罰を覚悟していた点が合法的なデモ行進とは異なる。
 ところが、19世紀になり、百姓一揆のあり方に変化が見られた。領主に対する要求より、買い占め、売り惜しみなどの不正行為をしたと見なされた富裕な百姓・町人に攻撃の矛先が向けられるようになった。武士に対するたたかいから、庶民内部の争いへと変わっていった。百姓一揆のなかで攻撃対象の百姓・町人の家を襲って建物・家財を破壊する打ちこわし頻発した。そのなかで一揆勢の秩序と規律が乱れ、略奪・放火・暴力行使など、従来の百姓一揆では見られなかった逸脱行為も発生するようになった。
 このように百姓一揆が攻撃性・暴力性を強めるにつれて、鎮圧する領主側との武力衝突も起こるようになった。
 江戸時代の村の様子そして百姓一揆の実態を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。1800円+税)

2012年4月25日

井関隆子の研究

著者   深沢 秋男 、 出版   和泉書院

 幕末を生きた旗本婦人に関する本です。幕末といっても、水野忠邦と同時代を生き、天保の改革についても、あれこれ論評しています。それだけ幕閣の内情を知る立場にあったのです。
 60歳で亡くなっていますが、50代に物語を創作し、日記のなかで、鋭く世相を斬っています。現代日本女性とまったく変わらない驚くべき批評家です。
日記のなかで井関隆子は冷静な批判・批評を貫いている。鋭い感受性と、それに支えられた厳しい批判的精神にあふれている。そして、それは決して止まるところを知らない。
 幼いころの隆子は、常に利口ぶって、生意気な言動をする、差し出がましいふるまいをする、こましゃくれた、年の割に大人びた、そんな女の子だった。原文では、「この子は、常にさくじり、およづけたる口つきの子供」と言われていたとあります。
 そして、少女時代の隆子は、自宅の庭に蛇がよく出るのを見つけては打ち殺していた。それを見た母親は、私のためにはありがたいが、女の子に似合わないことをするものではない、ことにあなたは巳年の生まれなんだからとたしなめた。すると隆子は、巳は私の年なので、私の思うようにしてどこが悪いのかと言い返した。さらに付け加えて十二支など中国の人の考えたもので、もとからあったものではない。だから自分の生まれ年だからといって、どうということはない。こんな迷信を神のように信じ込んで祀ったりするのはうるさいことだと言った。
 うひゃあ、これが、江戸時代に生きた少女の言動だなんて信じられませんよね。蛇を打ち殺すということ自体が男でもなかなかできないことです。そして、生まれ年が十二支の巳年だから慎めという母親に対して、そんなのは迷信に過ぎないことだと言い返すなんて、その大胆不敵さには思わず腰を抜かしそうになりました。
 江戸詰めの武士が品川宿の遊女と心中した事件についても日記に詳細に書きとめています。養育費をとって預かった子どもを次々に殺していた老婆、ネズミ小僧など、当時の事件が生き生きと日記に記録されています。
 隆子は迷信を信じない、実に合理的な考えの持ち主だった。家相見、地相見、墓相見など、いずれも不用のものとした。
隆子はきわめて好奇心の強い女性だった。
 地獄売春、陰間、ふたなり、相対死、駆け落ち、ネズミ小僧、遊女の放火事件、女髪結僧侶と奥女中の事件など、かなりきわどい話題も自在に書きとめられている。
 そして、花見だ、月見だといっては家中集まって酒を飲み、何かにつけて酒を飲んで楽しんでいる。隆子が酒を大好きなことを心得ていて、家中みなが母であり、祖母である隆子を大切にしていた。
隆子が物語として描いた江戸の様子を紹介します。
 人前では礼儀正しく、恥じらいあるものが、かげでは猥りがわしい行動をとっている。このうえなく尊ばれている僧侶が、陰で酒色にふけっている。課役を逃れるために賄賂を贈る大名、出世のために幣をおくる旗本たち。水野忠邦をモデルとする少将は、色好みで、負けじ魂のみ募り、その身分に似合わず文才もない。税金の増額から来る庶民生活の窮乏、公の人事の不公平、少ない禄に対する旗本たちの不平不満・・・。
江戸時代とは一体どんな時代だったのか、大いに目を見開かせる貴重な研究書です。少し高値の本ですので、図書館で借りて読まれたらいかがでしょう。
(2004年11月刊。1万円+税)

2012年3月31日

伊予小松藩会所日記

著者  増川 宏一 、  北村六合光  、  出版   集英社新書   

 日本人の日記好きは昔からのことです。なんでも文字にして残したがる習性は、私にもしっかり受け継がれています。私は今年2冊目の本を編集して発刊しようとしています。写真もふんだんに盛り込んで、読んで楽しい冊子を目ざしています。
 この本は、なんと150年間もの長きにわたって書きつづられてきた藩の公用日誌を読み解いたものです。その苦労のほどがしのばれます。
 舞台は、愛媛県の小松町。藩の人口は1万人。武士はわずか数十人しかいない、ごくごく小さな伊予小松藩の公用日誌です。
 小松藩の家臣のうち武士は60人、足軽は40人。士分として扱われたのは幕末時に  130人。これに足軽や小者をふくめても200人ほど。これが家臣団とされていた。
 家老は1人だけ。喜多川家が家老を世襲した。家老の禄高は400石。藩政は、家老と数人の奉行の合議制によっていた。家老が公用の政務をつづった記録を「会所日記」という。この会所日記は150年間にわたって書きつづけられたが、小藩なので、領内の隅々にまで目が行き届いている。そこで領民の生活の実情を知ることができる。
 小松藩は、大きな商人からだけでなく、公家や近在の百姓からもお金やお米を借りていた。
領民のぜいたくを禁止する倹約令は次のような内容だった。
 ひさし付きの家や瓦葺の屋根を禁止する。
 お寺で三味線や琴で高声をあげ、にぎやかに振る舞うことを差し止める。
 衣類や髪かざりが華美になっている。象牙のかんざし、絹の帯をしめているのは倹約令にそむく。
下級武士については、武家以外の農民や承認との縁組を認めていた。これは、減俸への有効な対応でもあった。
 幕府は各藩に対して藩札の発行を禁止していた。それは、通貨の混乱を防ぐための措置である。しかし、小松藩は、幕府の公許をえないまま、非合法の藩札発行にふみ切った。ただ、藩札には藩の名前は入れなかった。名前も藩札ではなく、「銭預り札(ぜにあずかりふだ)」とした。しかし、印刷と発行には、藩が全面的に取り組んだ。
この銭預り札を発行して、藩の権威で強制的に流通させることによって、藩は領内で通用している銀を吸い上げることができた。そして、銀は、江戸屋敷の費用や大阪での支払いに充てることができた。つまり、消費にまわされた。
藩札発行にふみ切った慢性的な財政危機の一因は、参勤交代の旅費と江戸屋敷の維持費だった。藩の年貢収入の半分はこのために支出された。
小松藩の参勤交代時の行列は総勢110人。随員としての藩士は30人ほど。それでもこれは、全藩士の半分に近い。
小松領内で殺人や傷害、強盗のような凶悪で粗暴な犯罪は起きていなかった。ほとんど、空き巣狙いのような窃盗犯である。平和な藩だったようです。
江戸時代の人々の生活が実感として伝わってくる本でした。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年3月16日

旗本御家人

著者  氏家 幹人   、 出版   洋泉社歴史新書y   

 おさそいとは、職務上の過失などを犯した幕府の役人が罷免されたり、病気と称して辞任すること。
御宅(おたく)とは、幕臣が重大な過失を犯したとき、夜になって名代(みょうだい)の者が若年寄の御宅に呼び出され、監察官である目付立ち会いの下、役職の剥奪と厳重な謹慎を申し渡されること。
いずれも、現代の用語とは全然ちがった意味の言葉だったのですね。
 幕府の職場では、陰湿で卑劣なイジメが習慣化していた。それによる殺人事件も起きていた。
蔵宿師(くらやどし)は、お金に困った蔵米取りの幕臣から高額の礼金を受け取って、蔵宿に多額の借金を強請(ゆす)るワルな連中のこと。
番町のあたり(千代田区には有名な番町小学校があります)には、旗本などの武家屋敷が並ぶので、上品でお堅い町だと思っていると、実は、番町辺の武家の息女たちは、当地の風として淫奔な娘が多く、処女は百人に1人くらい。千二百石とか五百石とかの立派な旗本の息女たちの色恋沙汰には歯止めがかけられなかった。番町辺の旗本のお嬢さんというと、それだけで良縁がまとまりにくかった。
うひゃあ、これって全然イメージがこわれてしまう話ですよね。まあ、日本は、昔から性的に解放されていたことで世界に冠たる国というわけなんですが・・・・。
 江戸城内には、老衰場(ろうすいば)と呼ばれる場所があった。旗奉行、鑓(やり)奉行には高齢者が多い。73歳で旗奉行になったり、69歳で鑓奉行になったりしていた。そして、在職中に没することが少なくなかった。83歳で大奥の取締り等が職掌の留守居に就任した人物もいる。
 ところが、他方で、年齢についてはゲタをはかせて届け出ることが常態化していたのでした。なぜか?
大名や旗本の当主が17歳未満で亡くなると、養子が許されず、家は断絶するという相続の法があったからである。そこで、息子の年齢をあらかじめ何歳も高く届ける詐称が慣例となっていた。
 出生届は、いいかんげんだった。すると、幕臣の弟子たちは、本来なら17歳で受験すべき素読吟味に8歳や9歳でトライしなければならないことが起きていた。
与力や御従などの御家人の地位は「株」として実質的に売買が許されていた。百姓町人でもお金を出せば、御家人すなわち御目見以下の幕臣になることができた。そして、ひとたび御家人になれば、御目見以上の旗本に昇格し、さらには幕府の要職に就くことだって可能だった。いま想像する以上に、幕臣社会とりわけ御家人社会には庶民出身者は多かった。川路聖謹と井上清直の兄弟も、正真正銘のなりあがり組である。
 遠山金四郎に似た奉行が実在したというもの面白い話です。能勢甚四郎は、八代将軍吉宗のときに町奉行に就任したが、かつて通った新吉原の遊女たちから「お久しぶり」と声をかけられたというのです。ええっ、本当の話なんでしょうか・・・・。
 江戸時代のことを知るというのは、本当の日本人の姿を知ることだとつくづく思います。
(2011年10月刊。890円+税)

2012年2月24日

盆踊り、乱交の民俗学

著者   下川 耿史 、 出版   作品社

 日本の女性が昔から弱かったはずはない。これは弁護士になって38年になる私の確信です。もちろん、弱い女性も存在します。しかし、そんなことを言ったら、日本の男性の方がよっぽど弱いのです。自殺する日本人の6割以上は男性です。私が弁護士になって驚いた三つのうち一つが、日本では(恐らく全世界で)、不倫というのは日常ありふれた出来事だということです。もちろん多くの場合、男性が仕掛け人です。しかし、その積極的な受け皿に女性がなっています。というか、それは、いわば男女「同罪」なのです。ですから、本書の冒頭に次のように書かれているのも納得です。
 「見知らぬ相手との性関係は、つい最近まで、日本人の性関係の基本とされていた」
 そうなんです。つい最近まで露天風呂どころか銭湯での混浴も平気だったのが日本人なのです。これは、私自身の体験にも裏付けられた事実です。
 盆踊りは、本来は年に一度の乱交の場であった。
 黒い覆面に目穴だけを開けた踊り子による盆踊りが日本各地にある。これは、好きあっている男女が誰に顔を見られることもなく、お互いは浴衣の柄などで確認しあって逢い引きを楽しんだ証しであった。
古代日本では若い男女は近所の山に登り、気が合ったら、その場で性的な関係を結ぶという風習があった。これが歌垣(孀歌。かがい)である。
 女性をものにするには、歌垣で歌を抜露することが慣例となっていた。同時に、女性が男性を歌で負かすことによって、性的関係を拒否することも可能だった。
 『万葉集』の額田王、平安時代の和泉式部など、奈良や平安時代の日本に優れた女流歌人が輩出したのは、まさに歌垣の伝統によるものだった。
 平安時代の初め、男女の混浴を戒むという混浴禁止令が出された(797年)。これは、そのころ潔斎という神聖な行動が混浴というどんちゃん騒ぎに堕ちていたことを表している。宮廷人たちは、決して品行方正ではなかった。
 夜這い(よばい)は、南北朝時代から鎌倉時代にかけて、村落共同体の構造の基本として定着していた。女性が男性の下へ通うケースも多く、こちらは「ヨバイト」と呼ばれた。
 若者組と娘組と夜這いの三つは不即不離の関係にあった。
 青森見黒石市の盆踊り「よされ祭り」は、3日間は、まったく性が解放されていた。奈良県吉野郡十津川村の盆踊り、四国山中の木頭村の盆踊りも同じく。この盆踊りは1961年ころまでは確実に存在していた。
もっとも、日本では、性関係は女性の主導で行われることが多かった。宮本常一も、「日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それは、もともと男を選ぶためのものであったと言っていいほど、踊りにともなって情事が見られる」と指摘している。この点、私もまったく同感です。
 強姦はひどいし、許せませんが、不倫の多くは女性主導ではないか、私は長年の弁護士経験をふまえてそう推察しています。
 女性は弱いし、されど強し。これが私の実感なのです。建て前ときれいごとだけに終わらせない日本史を語りあいたいものです。
(2011年10月刊。2000円+税)
 朝、雨がやんで、ウグイスの高らかに鳴く声が聞こえてきました。いよいよ春到来です。日差しもやわらかくなってきて、重たい外とうを脱ぎすてたように心もいくらか軽くなりました。
 夜、自宅に帰ると、大型の白封筒が届いていました。あっ、合格したんだ。うれしくなりました。1月に受験したフランス語の口頭試験に合格していたのです。21点が合格基準点で、26点とっていました。実際にはしどろもどろだったのですが、なんとか国の情報開示のあり方を語ろうとしたことを認めてくれたのでしょう。まあ、これからもあきらめずにがんばりなさいという合格証書をもらいましたので、引き続きがんばるつもりです。

2012年2月18日

とっぴんしゃん(上・下)

著者  山 本  一 力 、 出版   講談社

 うまいですね。読ませますね。家族で楽しむ時代小説とオビに書かれていますが、まさにそのとおりです。
 大人の私が読んでも十分に楽しめる内容ですが、小学校の中学年以上だったら、ワクワクしながら読みすすめていくのではないでしょうか。
 町内で子供たちの駆けっこが始まります。町内対抗リレーです。仲町と冬木町が走者をそれぞれ7人ずつ出して競争するのです。大人も応援団として取り巻きます。
 走る直前は食べすぎない。バトンタッチはうまくやる。第一走者で差をつけたほうが精神的に楽になるから走者の順番はそれを考えて選ぶ。いろいろ知恵をしぼりながら本番にのぞみます。
ところが、本番では稽古のときのようにはうまくいかず、足がもつれたり、波乱万丈です。日頃、足の速いのを自慢していても、バトンタッチで失敗したり、世の中、何が起きるか分かりません。そして、最後にゴールインしたのは・・・。
単なるスポーツ根性ものの話ではありません。それにしても、息もつかさず読ませる技は、いつもながら見事なものです。さすがに毎日小学生新聞に連載したものだけはあります。
 子ども時代の心に帰って、ハラハラドキドキしながら上下巻を楽しく読み通しました。
(2011年11月刊。1400円+税)

 この春はじめてウグイスの鳴き声を聞きました。まだ本格的な調子ではなく、目下、練習中という感じで、少しせわしい鳴きかたでした。
 朝の日差しもすっかり春めいてきました。チューリップもぐんぐん芽を伸ばしています。いま庭に咲いているのは、黄水仙です。

2011年12月25日

蜩の記

著者   葉室 麟 、 出版   祥伝社

 ひぐらしのき。このように読みます。しっとり味わい深い、江戸時代の武士を描いた小説です。休日、コーヒーショップをハシゴしながら読みふけりました。
 戸田秋谷(しゅうこく)は、かつて郡奉行(こおりぶぎょう)まで勤めていた。若い頃から文武に優れている。江戸表の中老格要人にまで出世したが、今では山村に幽閉され、藩史の編纂にあたらされている。10年内に完成した時点で切腹という処分を受けている。
話は秋谷が切腹を免れることになるかどうか、なぜ切腹される事件を起こしたのか、その真相は何か・・・。スリルにみちた展開なので、片時も目が離せません。そこで、寸暇を見つけてコーヒーショップに入りこんで読みすすめ、一気に読了することが出来たのでした。この作者の筆力は、いつもながら、たいしたものです。
 藤沢周平は東北の架空の海坂(うなさか)藩を舞台にしてますが、こちらは、福岡藩に近い羽根(うね)藩ということですので、秋月藩あたりを想定しているのかなと思って読みすすめました。
 子どもたちが登場し、恋人を大切にする女性もいて、いろどりあざやか、すっきりした読後感の一冊です。
(2011年11月刊。1600円+税)

2011年12月 3日

新、倭館

著者  田代和生    、 出版  ゆまに書房   

 鎖国時代の日本人町、というサブ・タイトルのついた本です。
江戸時代、日本は完全な鎖国をしていたわけではない。朝鮮半島に、10万坪、500人の日本人の住む町「倭館」があった。全員が男性である。そこの人たちは江戸幕府公認で貿易に従事していた。
 対馬藩がニセの国王印をつかっていたことを知っても、江戸幕府はそれを貿易のために黙認した。
 そうなんですよね。長崎のオランダ出島だけでなく、また琉球朝貢貿易だけではなかったのです。
 朝鮮半島の南端の釜山に10万坪という広大な敷地をもつ「倭館」が存在した。そこに 400~500人が住んでいた。江戸時代の全期間のみならず、明治期の初めに至るまで、外国の地にあった唯一の日本人町である。もちろん、幕府公認だった。
 江戸時代には、長崎出島にオランダ商館と唐人屋敷、そして鹿児島城下に琉球館があった。
 釜山にあった倭館の歴史は古く、そして長い。創設は15世紀の初め、朝鮮王朝が渡航してきた日本人を応接するために客館として都においたことに始まる。
 新倭館(草梁倭館)は、現在の釜山の市街の中心、龍頭山公園の一帯にあった。
対馬島を支配してきた宗氏の出自は、実ははっきりしない。もともとは惟宗(これむね)という姓で、平安時代以来、九州太宰府の在庁人の流れをくむ一族であった。対馬へ渡って次第に武士化していき、自ら島主を名乗って、宗姓に改めた。
 米の生産がほとんど望めない対馬では、使船の経営権を宗氏の家臣団や特権商人に割り当てる方式(使船所務権)が中世から続いていた。家臣へ土地を与えるかわりに、船(交易権)を与えるという対馬らしいやり方がとられた。
 寛永6年(1629年)ころ、対馬藩の内部は一枚岩ではなかった。実力派の重臣、柳川氏が主家である宗氏と対立していた。柳川氏は、肥前にある宗氏の飛地領2800石のうち1000石が与えられていた。それも家康の直命だった。これは、一大名家の陪臣の地位を越えている。
 対馬では、日朝関係をとりしきるうえで、公文書を偽造していた。対馬での印鑑の不正使用を証明する模造印14個の木印が最近発見された。
 朝鮮国書の偽造は、徳川時代よりさかのぼり、豊臣時代にはじまったことが証明された。柳川氏が偽造を幕府に通報して大問題となったが、結局、幕府は、なんとか従前どおりの日朝外交を継続できるよう、宗氏の温存をはかった。
 新倭館は33年間にわたる移転交渉の末、丸3年の歳月をかけて駿工した。この誕生は、強い政治力とあわせて、豊富な資金力が可能にした。
 対馬藩の知行高は無高(むだか)。麦を石高に換しても2000石にならない。
 三井(越後屋)は、巨額の融資をして深江屋を丸抱えし、一種のダミー商社として、もっぱら対馬経由の絹織物買いを開始した。
 あの三井が対馬経由で中国産品を輸入していたなんて、初めて知りました。
 そのころ日朝間では活発な外交、貿易、交流がなされていたことを実感させてくれる本です。
(2011年9月刊。1800円+税)

2011年11月17日

幻日

著者  市川 森一    、 出版   講談社   

 島原の乱について、またまた読ませる小説の登場です。先に紹介しました『出星前夜』(小学館)も読ませましたが、今回もなかなかの力作でした。さすがは天下に名高い脚本家だけあります。
 島原と天草は、旧領主の有馬晴信と小西行長がキリシタン大名だった影響もあって、キリシタン信徒の多い地域だった。そこで公布された禁教の触れは、逆にキリシタン信徒の結束をうながした。為政者が改宗させるために試みる残忍な拷問の数々も、かえって邪宗の門徒を増やしていくという不思議な現象を生んだ。
 キリシタンにとって、信仰のための死はパライソ(天国)の狭き門をくぐる免罪符にほかならない。一揆軍の指揮者たちは、戦闘を指揮する評定衆と、信仰生活の指導にあたる談合衆に分かれている。
 高来郡の口之津からキリシタンの布教活動を開始したイエズス会は、ポルトガル語で「コンフラリア」という信徒組織を導入した。その仕組みは、村々のキリシタン信徒が男50人に女子どもを加えた単位を一つの小組として、その小組が10組で大組となる集団をつくり、その大組の長を組親と称し、ほとんどは看坊が組親を兼ねた。
 看坊(かんぼう)は、信徒の懺悔(ざんげ)の聞き役とし、「水方」(みずかた)は洗礼を授ける役。教え方はキリシタンの教理を伝授する役を務めた。
 コンフラリアは、浄土真宗の「講」の仕組みと共通するところも多く、日本人信徒に無理なく受け入れられた。
 幕府・支配層はキリシタン摘発に躍起となったが、その先頭にたつ庄屋層がキリシタンの元締めの看坊であり、コンフラリアの組親だったから、これでは盗賊に夜警を命じるようなものだった。
 庄屋たちは、代官所には「わが村には、もはや一人のキリシタンもおりません」と何年も偽りの報告をしていた。そして、島原半島のキリシタン組織は、強靭な団結の根を芋づるのように地底に張りめぐらしていた。
 島原一揆勢も天草一揆勢も、背後に、有馬勢には有馬家の遺臣団が、天草勢には小西家の遺臣団が、それぞれ参謀格でついていた。
 ローマのイエズス会本部は、慶長2年(1597年)4月、ヴァリニャーノ宛に在日イエズス会宣教師たちの日本での軍事介入を厳禁する指令を公布していた。
 交易商人とポルトガル船長はポルトガル対日本の全面戦争を目論んでいた。ローマから帰国した4人の遣欧使節のうち、3人は司祭に叙任され、千々岩ミゲルだけが棄教して俗界に戻った。このドン・ミゲルこと千々岩清左衛門こそ、天草四郎の実父である。四郎の母親は、イザベルといって、ポルトガルのリスボアから流れてきた、船乗り相手の娼婦だった。天草四郎は、慈悲屋(枚貧施設)の施設で育てられた。つまり、背教者ミゲルが異国の娼婦に生ませた罪の子を、天命をかけた大反乱の棟梁に担ぎあげているというわけだ。
 4人の遣欧使節のうち、伊東マンショは、長崎の教会で司祭に叙任された直後に病死した。39歳だった。
 原マルチノは、慶長19年のキリシタン大追放令で、マカオに追放され、その地で60歳の生涯を閉じた。
 千々岩ミゲルは棄却したあと、ひっそりと63歳のときに長崎の貧民窟で息絶えた。
 ローマに渡った少年たちのなかで、中浦ジュリアンだけが64歳まで生きのびて、殉教した。
原城の籠城者は122万7千人ほど。およそ1万人が決戦前後に原城を脱出した。
 一揆鎮圧の戦費は、40万両、ざっと600億円、1日に7億5千万円も消耗した。
 その結果として、松倉藩は改易され、松倉勝家は斬首の末路をたどった。寺沢賢高は発狂して悶死し、この両家は断絶した。
 原城跡にもう一度行ってみたくなりました。
(2011年6月刊。1700円+税)

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