弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

イギリス

2013年8月18日

暮らしのイギリス史

著者  ルーシー・ワースリー 、 出版  NTT出版

イギリスにはまだ行ったことがありません。大英博物館には、ぜひ行ってみたいのですが・・・。
 かつて寝室は雑魚寝(ざこね)状態でやすむ、半ば他人との公共の場であった。睡眠とセックスだけに特化するようになったのは、たかだか19世紀になってからにすぎない。同じように、浴室も19世紀末まで、独立した部屋として存在すらしなかった。
 その昔、人生最大の悩みと言えば腹を満たせるものがあるか、あたたかい寝床で眠れるか、結局、この二つの問題に尽きていた。
 何百年にもわたり、国王や貴族は寝室では肌着姿で通した。下着姿の王は、召使の注視に慣れる必要があった。もともと下着は、あえて人目を意識して、垣間見せるようにもできていた。
 王の衣服を暖炉の前で温め、王が袖を通すまで暖かい状態に保っておくのは、信頼あつく地位の高い召使のみに任された仕事だった。
 女王は、他人の助力なしに服を着ることができなかった。中世の騎士は、下着としてのパンツを着用しなかった。チューダー朝の宮廷人は、下剤を偏愛していた。
中世は男性が不能になれば、離婚もやむなしという時代だった。国王や貴族の子づくりは、国事行為に似て、きわめて重要であり、半ば公的性格も帯びていた。
公共浴場は男女「混浴」であり、中世の人々は、大挙して同時に入浴していた。ひとりで入浴する習慣はなかった。
 16世紀になると、浴場の評判はかげり出し、浴場という言葉は売春宿と同義になっていた。そして、18世紀になって入浴は徐々に復活してきた。
18世紀まで、歯医者という職業はこの世に存在しなかった。チューダー朝の理髪師は外科医を兼ね、散髪、抜歯そして手足切断まで行っていた。
 王が臣下とはいえ人前で用足しをするものだから、貴族も人前で何らはばかることなく用を足した。
 17世紀になると、豪邸・宮廷には水洗便所が四方八方に設けられていた。チューダー朝からスチュアート朝を通じて、イギリス人口の30%が人生の一時期に召使として働いていた。召使として働くことは何ら恥ずべきことではなかった。主人との縁故は、社会的特権をうみ出し、生活の庇護にもつながった。主人と召使は生活全般にわたって文字どおり一体であり、中世の居間では寝食を共にするのが常態だった。
 結婚は万人の義務だった。17世紀末、イギリスは結婚を通じて国家財政を潤すため、婚姻税が導入された。
 中世の農民は、鹿などの狩猟を法律で禁じられていた。こうした動物は、地主や王侯貴族の楽しみのためにとっておかれた。農夫にとって、牛や羊肉などの赤身の肉は夢でもおがむことのできない贅沢品だった。
 果物は、生野菜と同じく、卑賤な食べ物と考えられていた。
 中世イギリスの人々の生活の実態を教えてくれる本です。意外なこともたくさんありました。
(2013年1月刊。3600円+税)

2013年7月12日

チャーチル

著者  ポール・ジョンソン 、 出版  日経BP社

チャーチルの伝記です。実は、あまり期待せずに読みはじめたのでした。ところが、意外に面白くて、つい一気に読み終えました。
 チャーチルが人生で何度も失敗したことも、率直に語られています。そして、チャーチルが両親に愛されずに育ったこと、それをカバーしてくれる女性(乳母)がいたことは驚きでした。父親はチャーチルをこの子は頭が悪いと決めつけ、母親は社交界に忙しかったのです。
チャーチルの顕著な特徴は、精神的で、冒険好きで、野心的で、複雑な知性をもち、情に厚く、勇気があり、打たれ強く、人生のあらゆる側面に強い情熱をもつといった点は、どちらかといえば母親から受け継いでいる。
 母親は社交界一の華でありたいという強い欲求を実現した。母親は、この地位を10年以上にわたって維持した。
 イギリスの政治家のなかで、英語をチャーチルほど愛した人はいない。またキャリアを築くため、キャリアが傷ついたときに名誉を回復するために英語の言葉の力をここまで一貫して利用した人もいない。チャーチルは生涯にわたって原稿料が主な収入源になった。
 言葉をお金に変える点で、決定的な役割を果たしたのは母親だった。
 若きチャーチルは戦争を探した。特別許可を得て、記者として、あるいは兵士として戦場に赴く。新聞記事を書き、本を執筆する、これがチャーチルの行動パターンになった。チャーチルは26歳で国会議員に当選した(1900年)。急速に名誉と地位を獲得したが、他方で数多くの批判者や敵もつくった。軽率で傲慢で生意気で反抗的で自慢げな跳ね返りものだと言われた。
 チャーチルは下院議員になった。出世が目的であったことは間違いない。チャーチルは、当時もその後も、矛盾の塊だった。
 戦場にいたチャーチルは、捕虜収容所に入れられ、脱走した体験をもっていたので、機会あるごとに戦争の恐ろしさを同僚の下院議員に警告した。
 チャーチルは下院の選挙で6つもの肩書きを変えた。保守党、自由党、連立派、立憲派、挙国一致派、国民保守党。
 チャーチルは、演説原稿を用意し、すべて暗記し、練習し、間合いを計算して、何ごとも偶然には任せないようにした。原稿なしに話していて、突然、次の言葉が出てこなくなるという大失態を演じたからである。これって、よくあるんですよね。いきなり頭のなかが真っ白になってしまうのです・・・・。
海軍の高級将官はチャーチルをとんでもない政治家だと嫌った。しかし、士官や下士官、水兵たちはチャーチルを英雄として歓迎し、給与・待遇を改善したあとは、とくに信奉した。
 チャーチルは生涯にわたってフランスびいきだった。しかし、ドイツ軍の演習を視察すると、フランスよりドイツ軍の方が比べものにならないほど良いことを理解した。
 チャーチルは、ユダヤ社会と密接な関係を築いた。一貫して、ユダヤ人寄りだった。イスラエルの建国にチャーチルは貢献した。
 チャーチルはシャンパンを好んだ。そして、いつも葉巻を手にしていた。吸っていたわけではない。喫煙までの所作が好きだったのだ。
 チャーチルは演説の前に酸素を2缶用意して吸入し、気分を高めた。
 1925年、チャーチルは財務相になったとき、予算演説をするときは、公邸から下院まで歩いた。山高帽をかぶり、襟が毛皮の大きなコートを着て、蝶ネクタイをつけ、家族をしたがえ、笑みを浮かべ、手を振って、自信と成功を発散させる。
 チャーチルは日本がイギリスに敵対することはないと信じ込んでいた。チャーチルのこの間違いはイギリスに悲劇をもたらした。
 日本がイギリスと戦う理由はない。日本との戦争の可能性は、理性的なイギリス政府が考慮しなければならないことではない。
 これは、チャーチルの残念ながら間違った言葉です。日本人として複雑な気持ちです。
 1929年のアメリカ・ウォール街の大暴落によって、チャーチルも元手の大金を失っただけでなく、巨額の借金を負うことになった。そこで、チャーチルは、執筆料を2倍に増やし、新しい契約を交渉し、演説旅行した。
 インドのガンジーについて、重要な人物であることを見抜けず、チャーチルはガンジーを「半裸の乞食僧」にすぎないと切り捨ててしまった。
 そして、1932年12月、チャーチルは交通事故で重傷を負った。
 交通事故によって精神的、肉体的な激しい苦痛を味わった。だが、どれも耐えられないものではない。自分を哀れむ時間はないし、力もない。後悔したり、恐れたりする余地はない。自然は慈悲深く、人間にしろ獣にしろ、その子どもたちにそれぞれの力を超えるような試練を与えることはない。危険な人生を歩み、起こることを受け入れるべきだ。何も恐れることはない。すべてはうまくいくのだ。
 1935年。チャーチルは、午前中を執筆と自宅(別宅)の煉瓦積みですごした。1日に200個の煉瓦を積み、2000語の文章を書いた。チャーチルはヒトラーの『我が闘争』を読み、そこに書かれていることはヒトラーの明確な意図だとみた。
 1930年代のイギリスは、平和主義が大流行していた。武装解除に多くの国民が賛同していた。だからチェンバレン首相は、ヒトラーにころりとだまされたのでした。
 チャーチルは独裁者ではなかった。その命令は一つの例外もなく、文書で行い、明快に指示した。口頭の命令も、すぐに文書で確認した。これに対して、ヒトラーはすべて口頭で命令した。
チャーチルは第二次大戦が始まったとき65歳。終わったとき70歳。1日16時間はたらいた。チャーチルには、優先順位を正しくつかむ特異な能力があった。
 チャーチルの生涯で、絵を描く以上の楽しみはなかった。チャーチルの絵は素人離れしているとのことです。ぜひみてみたいものだと思いました。
 チャーチルは人に対する憎しみをもたなかった。そのため、生涯を通して、大きな喜びを手にすることができた。
 私も、人を憎まないようにすることを心がけています。大切な教訓がたくさん盛り込まれている興味深い本でした。
(2013年4月刊。1800円+税)

2013年5月11日

成功する人の「語る力」

著者  フィリップ・コリンズ 、 出版  東洋経済新報社

イギリスのブレア元首相のスピーチライターによるスピーチ原稿のつくり方を紹介する手引書です。
 優れたスピーチを書く技術を身につけたければ、書く内容が定まっていなのに書きはじめたり、内容そのものよりも耳に心地よいスピーチをすることは避けなければならない。
 いいスピーチは、骨組みがしっかりしている。
 スピーチは、いちばん核となるテーマを一行で表してみること。もし、一行でまとめられないのなら、自分のテーマがまだ分かっていないということ。
スピーチが果たす基本的な機能は、情報性、説得力と刺激の三つである。
 スピーチとは、一度マイクの前に立ったら、誰かに邪魔されることなく、20分は話ができる素晴らしい機会である。
 スピーチでは、できるだけわかりやすく明確に話すことが必要だ。
スピーチに最適なのは午前11時ころ、最悪なのは昼食直前だ。聴衆は、まだ話をきく態勢になっていない。
効果的に説得するにはコツがある。まずは寛大な態度を示す。そのうえで、論理立てて相手の意見を切り崩していくこと。初めから反対論者を叩きのめそうとしてはいけない。
 スピーチするとき、あなたという人格が伝わることが大切だ。そして、聴衆が遠くからでもわかるように、あなたの個性をわざと目立たせる工夫も必要だ。
 ひとたびステージにあがったら、ゆったりとふるまう。前口上は短く終わらせ、やや長めの間を取って、これからスピーチを始めるのだと聴衆に知らせよう。
 ステージ上では、少々大げさに話す。いつもの調子で話してしまうと、迫力に欠け、あまりやる気ないように見えてしまう。そして、話すペースに変化をつける。
オバマ大統領の秘密は、すべてその声にある。オバマは歌うように言葉を発する。オバマの原稿を読んでも、それほどの感動はない。
とても実践的なスピーチ原稿のつくり方の本でした。
(2013年4月刊。1500円+税)

2013年1月 6日

知られざる大英博物館

著者  NHKプロジェクト 、 出版  NHK出版

実はイギリスにはまだ行ったことがありません。ヒースロー空港に乗り換えで降りたことはありますが、外には出ませんでした。大英博物館でロゼッタストーンの原物、そして、カール・マルクスが通っていた机と椅子を見てみたと思っているのですが・・・。
ニューヨークにあるメトロポリタン美術館には行ったことがあります。そのエジプトの館に足を踏み入れたときの、膨大な物量に圧倒されると同時に、これってみなエジプトからの略奪品じゃないのかしらんと疑ってしまいました。ヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割支配の「成果」ではないでしょうか。
 大英博物館にしても、ナポレオンのエジプト遠征の失敗から、イギリスがその成果を横取りしたというものです。それにしても古代エジプトの栄華はすごいものです。しかも、それが何千年も脈々と続いていたというのですからね。
 そして、なんと言っても古代エジプトについて文字があって、それが解読されているため、当時の生活そして社会構造まで分かると言うのがすごいことですし、読んで楽しいのです。
 大英博物館の展示室で公開されているのは膨大な収蔵品のわずか1%のみ。残る99%は人知れず収蔵庫に眠っている。古代エジプトコレクションは15万点、展示室にはそのうち3500点のみ。
 古代エジプトにもパンがあり、給与としてパンが支給されていた。通貨はまだなかった。
 古代エジプトの人々は、死後、再生復活できると固く信じていた。来世には「イアル野」という楽園が待っていて、そこで幸せに暮らせると信じて疑わなかった。そのために必要と考えられていたのがミイラだった。
 ミイラを腐らせるものは、とにかく除去された。内臓は取り出され、死後も来世で必要と考えられていた4つの臓器、つまり肝臓・肺・胃・腸は専門の壺カノポスに入れられ、ミイラとともに埋葬された。体に残された唯一の臓器は心臓だった。心臓は、その人物の人格そのものであり、死後、冥界の神オシリスの前で受ける「最後の審判」を通過するときに必ず必要だった。
 逆に、脳は「鼻水」だと勘違いしていて、鼻の骨を砕いて、そこから特殊な棒ですべてをかき出していた。
そうなんですか・・・。頭の脳を大切なものと思わなかったというのは、不思議です。
古代エジプトでもワインが飲まれていた。ただし、ファラオ(王)や貴族など、裕福な人々の飲み物だった。庶民は主にビールを飲んでいた。
今から3200年前、古代エジプトに生きた「ケンヘルケプシェフ」という名前の書記は、手紙、教科書、会計簿などのパピルスを集めていた。
 子どものころは、とにかく勉強させ代、そうしないとダメな大人になってしまうぞ、お前が学問に通じていれば、人々は皆お前の言葉を信用するだろう。
 これは、「アニの教訓」と呼ばれているものです。
 古代エジプト社会では、文字が書けることは、想像する以上に重要なことだった。人々は書記になることを望み、そのための教育を受けることを切望した。
 パピルスのなかにはラブレターもある。男女が交互に語りあうかたちで、17篇の愛の詩が書かれている。
 古代エジプトでは、結婚は夫婦間の契約を結ぶ意味もあった。結婚すると、夫婦の財産の3分の1の権利を得ることができた。また、夫が死んだときには、遺産の3分の1が妻のものとなり、残りの3分の2は継承者のものとなった。その継承者のなかにも妻がふくまれていて、子どもたちと財産を分けることになっていた。
 さらに、離婚する権利は男女双方が持っていた。古代エジプトは、女性の権利も認められた、男女平等の社会だった。
王墓はファラオの罪名中に造り終えることが求められた。もし、建設途中でファラオが亡くなってしまえば、その時点で作業は中止された。
 パピルスにはピラミッドのつくり方を解説し、その計算問題などまであるというのには、驚きました。しかも、かなり高度な数式が使われているのです。
パピルスには、ファラオから支払われる給料の遅延に抗議してストライキが発生したことまで記録があるとのこと、これには腰を抜かしそうになりました。
知られざる古代エジプトのいくつかを知ることのできる本でした。
(2012年6月刊。1800円+税)

2012年9月 6日

ネゴシエイター

著者    ベン・ロペス 、 出版    柏書房 

 さすが、交渉のプロは目のつけどころが違うなと感嘆しながら読んだ本です。テーマは身代金目的の誘拐事件で、犯人といかに冷静に交渉するか、というものです。
 誘拐事件は、毎年2万件が報告され、当局に通報されるのは1割のみ。
誘拐事件の半数以上がラテンアメリカで起きている。メキシコでは毎年7000件の誘拐事件が報告されている。実際には、もっと多い。コロンビアでは1日に10件の誘拐事件が発生している。
 ラテンアメリカで救出作戦によって無事に生還する人質は21%。誘拐事件の7割は身代金の支払いで解決している。力ずくでの人質救出は10%のみ。誘拐は、ウィークデイの午前中、被害者の自宅ないし仕事場あたりで起きる。
 誘拐の被害にあうのは地元の人間であって、海外居住者や旅行者ではない。
ロンドンでは、誘拐に備える保険の保険料が年間1億3000万ドルにもなる。ブラジルは、年間の誘拐発生件数が世界第3位。サッカー選手の家族が狙われるようになった。
 ネゴシエイター(交渉人)には、破るべからず大切な二つの黄金律がある。一つは銃を使わないこと。二つ、自分自身で交換をおこなわないこと。
現場に出た交渉人は待つことに耐えなくてはならない。誘拐犯がもつ最強の武器の一つが待たせること。誘拐犯が再び連絡してくるまで、何週間もかかることがある。数ヶ月あるいは数年ということもある。たいていの場合、待つのは拷問に等しく、コンサルタントに大きなプレッシャーがかかる。しかし、どんなときにもどっしりかまえていなければならない。少なくとも、そう見えるようでなくてはいけない。
交渉人は話し上手でなければならないと思われている。しかし、もっと重要なことは、聞き上手であること。電話で、向こうの言うのに耳を傾けることだ。
睡眠を奪うことは、誘拐犯が使用できる、きわめて効果的な拷問手段だ。
 人質は、たいてい、もっとも基本的な人間の機能を奪われる。そして内に秘めた不屈の精神をくじかれる。もし、誰かを手なずけたければ睡眠を奪うのが、何よりてっとり早く、有効な方法だ。
個人富裕層を狙った誘拐は、かなり高度な計画が求められる。犯罪者たちは、時間をかけて標的となる人物の習慣や日課、警備状況などの情報を集める。
交渉人として事件を担当することを合意して最初にすることは何か?それは、小便である。合意した瞬間から、次はいつ小便するチャンスがあるか分からないからだ。
スケジュールはサディスト的にすさまじいものになり、全エネルギーと時間を事件の解決に集中させることになる。交渉人のいる部屋は、危機管理室となり、一般人の立ち入り禁止、鍵がかかり、無期限で24時間つかえ、電話とインターネットがつながっていて、コンピュータープリンターそれから、たくさんの電源ソケットがあり、誘拐犯との会話はすべて録音できることが必要だ。さらには、防音装置のあることが望ましい。
 生存確認のもっとも良い方法は、電話で人質と話すこと。人質しか答えを知りえない質問する。
 決して、こちらから電話を切らない。常に誘拐犯が電話を切るのを待つ。彼らが切り忘れる可能性があり、いつの間にか犯人たちの個人的な話が聞こえてきて、交渉の場で優位に立てるかもしれないからだ。
 交渉人は、ふつうは誘拐犯の言い値の10%にまで下げさせる。時間は交渉人の味方である。
 誘拐犯との交渉を指揮官にさせてはならない。その下位にいるものなら、「まずボスに相談しなければ・・・」と言って牛歩戦術を使える。
なーるほど、誘拐犯との交渉にあたる交渉人が職業として成り立つ理由がよく理解できました。
(2012年7月刊。2200円+税)

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