弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

人間

2020年7月 7日

あたいと他の愛


(霧山昴)
著者 もちぎ 、 出版 文芸春秋

「ゲイ風俗のもちぎさん」って、その世界では有名人らしいですね。ツィッターのフォロワーも47万超だとのこと。まったく私の知らない世界です。
父親は自殺し、母親は「毒親」。苦しい家庭環境でも、初恋の先生(男性)、腐女子(BL大好き)の友だち、ゲイの仲間、そして実姉。
「かけがえのない出会いと愛と優しさと勇気が、あたいを支えてくれた」
これはオビのコトバですが、まったくそのとおりの苦難にみちみちた生活を著者は今日まで送ってきたのでした。
母親について、「ちょっとヒステリックな母ちゃん」と言ったり、「いわゆる毒親のシングルマザー」としたり、「母ちゃんも不安に怯えてただけの人間だったのかなって感じる時もある」としています。
父親は著者が小学1年生のころ、借金ができて偽装離婚したあとに自殺しました。
生活保護を受けた母親は、給与明細の出ない自営業の店でアルバイトしろと娘(著者の姉)に押しつけ、姉は週6日アルバイトして高校を卒業した。そして、母親はコインゲームに入り浸っていて、家事もあまりしない。
母親は高校生、父親は中卒で働いているとはいえ、まだ20歳前。そして、母親はまもなく妊娠した。母親は箱入り娘で、ちょっとワルな父ちゃんに惹かれて一緒に夜遊びばかりするようになった。それで生まれたのが姉。母親の実家は、その後も母親を甘やかし続けた(らしい)。
父親が商売に失敗して借金をこしらえ、生活が行き詰まると、母親は子どものように毎日騒いで、父親に非難の声を浴びせ続けた。そして、父親は精神的に参って偽装離婚を申し出て、そのあと...。
母親は、一変した。それまでのただの専業主婦から、自分が母親であることを嫌悪した苛烈な独裁者のように変化してしまったのだ...。
母親は、よくわからないタイミングで怒った。
初対面の人にはとにかく気をつかって体裁よく振る舞う。
著者に向かって、「あんたは産むんじゃなかった」とよく言った。
これって、絶対に子どもに言ってはいけない言葉ですよね...。
母ちゃんは、いま思えば少女だった。自分は守られるべき弱い人間なんだと暗に訴えていた。
誰かが母ちゃんを少女のように庇護下に戻してケアしてあげれば、母ちゃんも救われたかもしれない。母ちゃんは、どこまでもこの人は逃げてしまう姿勢なんだと著者は子ども心に感じた。
カナコは誰よりも優しいのに、体格や話し方、性格から、周囲が「女性らしくない」と判断して、それでからかい始めた。きゃしゃな女性らしさをもたないから、粗暴な人間だと勝手に決めつけて...。
社会は変わらない。他人は変えられない。だから自分のアイデンティティを変えるか隠せばいい。それがカナコの学んだ処世術で、変えられない自分の特徴をもつカナコにとっての残酷な現実だった。カナコは高校2年生の著者にこう言った。
「おまえはゲイさえ隠せば、あたしみたいに笑われ者にならないんだよ。同じ生まれもっての『普通じゃない人間』でも、おまえとあたしは違う。だから、おまえは絶対にゲイってバレないように生きろよ」
インターネットの世界を通じて、意外に、この世界にはゲイがたくさんいること。お金を支払って性行為に及ぶ大人が多いことを知った。ただ、『売春』すると、お金のためとはいえ、あたいは少しずつ、心が死んでいくような思いがした。
「相手を否定したり、屈服させるためだけに生き続けたらダメだ。他人に生き様の動機を置いていたら、それは自分の人生を自分の理由で生きられない無責任な奴になるってことなんだぞ。失敗しても他人のせいにする大人になる。だから母親を見返すためだけに生きた大人にはなるな」
これは、ゲイ風俗の店で著者が働いていたときの店長のコトバだそうです。すごい店長ですね、カッコイイです。すばらしい。まったくそのとおりだと私も思います。こんな大人に出会えて、著者はこんな心を打たれる本を書いて自分の母親を振り返ることができたのですね...。いい本でした。
(2019年11月刊。1200円+税)

2020年7月 1日

母がしんどい


(霧山昴)
著者 田房 永子 、 出版 角川文庫

母と娘の関係も、父と息子の関係にまさるともとらないほど難しいのですね。
この文庫は、コミック・エッセイなので、パラパラと読めますが、そこで描かれている情景は、あまりに重たくて、どうにもたまりません。
まわりから見ると、仲良し親子。だけど、「お母さん、大好き!」って思ったことがない。
なんの問題もない、しあわせ家族。だけど、実は、お父さんとしゃべったことがない。会話は、いつもお母さん越し。
お母さんは、いつも「あなたのため」と言う。だけど、本当に私のためなの? お母さんがやりたいから、やっているとしか思えない...。
マンガで描かれているので、視覚的に問題状況が理解できます。いやあ、これって、子どもには大変な試練だな...と思ってしまいました。
親がしんどいという気持ちに苦しんでいる人が、なぜ苦しいかというと、親からフェアではない目にあわされてきているから。一方的にいろいろされてきたうえ、なぜか「おまえが悪い」という言葉によって、その責任を押しつけられる、つまり、いきなりに「加害者」として扱われてきたことによる。
「自分が悪い」というのが基本にある考え方がしっかり身についているから、家庭の外に起きることまで、すっかり「自分が悪い」で片付けるようになってしまう...。
「おまえが悪い」という親の言葉を「自分が悪い」として生きていると、親と一心同体の状態にあるのと同じ。なので、まずは親から自分を引き離す作業が必要。「おまえが悪い」というけれど、そうしたのは親なのだ。つまり、ちゃんと被害者の立場に立ち切ることが大切。
ちょっと前まで、娘が母親を非難・批判するなんて許されないことだった。まして「毒母」なんていう言葉を投げつけるなんて、とんでもないことだった。でも、昭和が終わり、平成になってまもなくから、それが可能になった...。
「母の愛」と信じてきたものが、実は、「母による支配」だったと自覚することによって、母から離脱し、人間として自立できる。ということのようです。同性である母と娘の関係のむずかしさを少しばかり実感して理解することができました。
では、父親(夫)は、どうしたらよいのか...。この本の解説は、父親に期待することは、ただひとつ、ちゃんと母親(妻)をケアしてもらいたいということ。
うむむ、これまた簡単そうで、実は、そんなに容易だとは思えません...。
時宜にかなったマンガ・エッセイの文庫本だと思いました。
(2020年2月刊。600円+税)

「デンジャー・クロース」というベトナム戦争を扱ったオーストラリア映画を博多駅の映画館でみました。ベトナム戦争は私の大学生のころ、何度となく「反対!」を叫んでデモ行進をしたものです。
この映画は、オーストラリア軍がベトナム戦争に加担していたこと、南ベトナムで北ベトナム正規軍2000人からオーストラリア軍中隊108人が包囲・襲撃されて残った「ロングタンの戦い」を実写化しています。
オーストラリア軍がベトナムに派遣されていたことを詳しくは知りませんでした。陸・海・空の3軍あわせて5万人も派兵していて、450人の戦死者、そして2400人もの戦傷者を出しています。
この「ロングタンの戦い」は、まだオーストラリアでのベトナム反戦運動が盛んになる前の、1966年(昭和41年)8月18日に起きました。オーストラリア軍の戦死者は18人。みんな20歳前後の若者です。これは私とほぼ同じ年齢(1歳か2歳だけ年長)です。
そして、北ベトナム軍の戦死者は確認されただけでも245人。1割以上です。
「デンジャー・クロス」(極限着弾)とは、味方に対して超至近距離で砲撃することを要請すること。味方の小隊がこの砲撃で全滅してしまう危険もあるもの。
ベトナム戦争を描いたものとして、迫真の場面の連続で、すっかり固まってしまいました。

2020年6月27日

やまと尼寺精進日記


(霧山昴)
著者 NHK「やまと尼寺精進日記」制作班 、 出版 NHK出版

ただ今、NHKのEテレで放映中らしいですね。この本を読むまで知りませんでした。なにしろ、日頃はテレビをまったく見ないものですから...。
奈良の山深いお寺に暮らす2人の尼さん、お手伝いの女性1人の計3人。尼さんは、さすがに2人ともツルツル頭です。その笑顔の写真からは、愉快な笑い声まで聞こえてきそうなほど...。
奈良の山奥にひっそり3人の女性が住んでいるかと思うと、実は、いろんな人がこの山寺(尼寺)にやって来て、同時にいろんなものを持ち込みます。
そして、この山寺の庭や近くの山で四季折々に採れるものが、バラエティーに富んだ、美事においしい料理に生まれ変わります。
この料理の写真がまた実に素晴らしいのです。ぜひぜひ一度は味わってみたいと思わせる料理のオンパレード。こんな美味しそうな料理を自分たちでつくって食べていれば、そりゃあ自然に笑顔になるでしょうよ...と、いらぬやっかみまで生まれてきます。
住職は料理の達人。食べることへの情熱は誰よりも強く、どんな食材もおいしく調理してしまう。そばにいたら、食いっぱぐれのしようがない人。
わが家でも先月、梅の実がザル2杯分とれましたが、この山寺では採れた梅の実で、梅酒、梅味噌、梅干しの天ぷら、梅の甘露煮といろいろに味わいます。すごーい...。
秋のギンナンも、天ぷら、ギンナンご飯、かぼちゃ団子の上のアクセントに...。
冬には薪ストーブで焼くピザ。具材は、コーンに干しトマト、干しかぼちゃ、シイタケの煮物、じゃこピーマン、自家製チーズ。いやはや、なんとも美味しそうですよね...。
もう放送開始から2年になるそうですが、楽しそうな尼寺精進日記を私も近いうちに見せてもらうことにします。この本は、写真集としても人物も料理もピカピカ輝いていて、見事な出来映えです。
(2019年11月刊。1600円+税)

2020年6月22日

パンツははいておけ


(霧山昴)
著者 早乙女 かな子 、 出版 幻冬舎

タイトルを見て、パンツ・ルックつまり女性にとってのズボン姿のことかな、それでも、なんだか変なタイトルだな...、そう思っていると、本文を読んで、パンツとは昔で言う女性用パンティのことでした。ええっ、じゃあ、これってどういう意味なの...。
著者は超教育ママの下で小学生のときまでは超優良生徒でした。そして中高一貫の名門中学に入ったころから自我に目ざめ、モーレツ・ママと激しいバトルを展開するようになります。その前に酒乱の父による家庭内暴力があり、被害者である母親の部屋に逃げ込むと、そこで母娘のバトルが展開するのです。
まったく読むだけで息が詰まって窒息しそうになります。父と息子も難しい関係にありますが、母と娘のバトルの深刻さは想像以上のものがあるようです。
やがて著者は中卒フリーターとして働きはじめますが、簡単に生活できるはずもありません。人間関係そして人生に見切りをつけて6階から飛び降り自殺を試みます。すると、奇跡的にたいしたケガもなく助かるのです。同じ病院に、同じように自殺を企図して車椅子生活になった少女がいました。「あなたみたいになりたい」とつぶやいたら、その娘(こ)に思い切り顔を叩かれてしまいます。そのときは、その娘がなぜ怒ったのか分かりませんでした。
幼いながら母を喜ばせるのが自分の使命だと察知し、母の期待する「いい子」に育とうとした。母の絶対王制と父の暴力の狭間で育った三人の子ども(2人の兄と著者)は、とても仲が良かった。というか仲良くせざるをえなかった。
小学校で不登校となり、秋葉原にコスプレに出かけた。
中学2年生になると、父の暴力がひどくなった。父の母のケンカを止めず、兄と弟は静観に徹する。
中三の秋、首をくくって自殺企図。そのとき、兄からは「オレたちだって、こんな状況で、がんばっているんだ、甘えるな」と叱られ、弟からは、腹を思い切りけられた。そして小児病院精神科へ入れられる。
著者も母も、それぞれ、ままならない生きづらさを抱えて、かろうじて二本足で立っていた。そんな女同士、互いのフラストレーションを吐き出す口実を見つけるために、いつも互いがボロを出す瞬間を毎日、監視しあっていた。
完璧主義の母親は、物事に対して少しでも欠落している点を見出すと、ひどくヒステリックになる節があった。娘の「中卒」という欠落点にアレルギーのように過敏に反応して、人格レベルでダメ出しをする。
人間はケンカしているときほど、互いの物理的距離が近くなってしまう。相手の粗(あら)を探してやろうと息巻いて、相手の行動をいちいち見てしまい、また争ってイライラする悪循環に陥る。だから、ムカつくときほど、ぐっとこらえて離れたほうがいい。
なーるほど、そういうことなんですね...。
もう人生がどうでもよくなっていた。こんなに価値のない人間、ぐちゃぐちゃに原型をとどめることなく、犯しつくされて、粗末にされて、死にたい。でも、私とのセックスに対価としてお金を払ってくれる人がいたら、うれしい。そんなチリみたいにはかない希望ももっていた。そんな思いで、援助交際を成し遂げるべく、パンツを脱いで、宇宙空間どころか、ラブホテルのなか、得体のしれないオッサンの前で素っ裸になってベッドに身を放っていた。感情のスイッチをオフにして、目を閉じる。そこには一片の悔いもためらいもなかった。自暴自棄になっていた一方、自分に価値があるのか確かめるため、ベッドで裸になっていた。
あるとき、知人の男性が著者に言った。
「自分だけが不幸しているような、その悲劇のヒロインヅラが気に入らん」
たしかに、「凄惨な家庭に生まれた自分」というのに酔って、いざというときの言い訳にしていた。私はこんなに大変なんだから、みんな私に配慮して、助けてよ。こんな主張がいつも心の奥底にへばりついていたから、中学のときクラスからも孤立したし、兄弟からも見放された。
「メンヘラ」という言葉で形容されるそれは、自分の弱い部分をずるく利用して、周囲から大事に甘やかしてもらおうという、おのれの傲慢さのあかしだった。
「もうハタチこえた大人なら、人のせいにしないて、自分の人生を生きてみい」
結局、著者は大学受験のための勉強を再開し、現在は国立の奈良女子大学の学生として在学中とのこと。
著者の最後の呼びかけは、「あなたの大切な人のため、そしてあなた自身のために、人間どんな状況に置かれても、心は錦で、腰にパンツは、はいておけ」というものです。心に迫ります。
電車の中で一心不乱に読んでいたら、いつのまにか目的地の駅に到着していて、慌てて降りました。月並みな表現ですが、ハラハラドキドキのいい本です。あなたもどうぞ読んでみてください。
(2020年2月刊。1300円+税)

2020年6月20日

萩尾望都・作画のひみつ


(霧山昴)
著者 萩尾 望都 、 出版 新潮社

萩尾望都が絵を描いている様子が写真で紹介されています。
そして、アイデアがかたちになる前のクロッキー帳も公開されています。
著者はクロッキーブックに思いつくままにプロットやセリフを書いていく。このクロッキーブックは、月に1冊は使う。
著者は福岡のデザイナー学院で2年間、ファッションデザインの勉強をしていたので、衣裳にも詳しい。
著者がマンガ家になるのを決意したのは、大阪での高校2年生(16歳)のとき。19歳でマーガレットに金賞で入賞し、20歳で上京した。23歳のとき、「ポーの一族」シリーズ第1作を発表。
すごい早熟なんですね。なにしろ2歳で絵を描きはじめ、4歳のときには四コママンガも描いていたというのですから...。
私は、SF長編「11人いる!」にショックを受けました。絵といい、ストーリーといい、まったく想像を絶しています。これは著者がまだ26歳のとき。
「残酷な神が支配する」にも圧倒されました。まったく考えも及ばない世界とストーリー展開だったからです。
この本には、たくさんの原画が紹介されています。もちろん、ストーリーのあるマンガですから、1枚の絵を描けば足りるというものではありません。ストーリー展開にそって人物が動いていきます。
そのとき肝心なのは、やはり、なんといっても目のようです。ほんのちょっとした目つきの違いがストーリー展開を支えるわけです。そこをうまく描きわけていくわけです。まさしく天才的としか言いようがありません。
手塚治虫を尊敬しているとのこと。やっぱり、ですね。
あまり社会的発言はしていないようですが、3.11についてはマンガにしているようです(すみません。読んでいません)。
「永久保存版」と銘うってあるだけのことがある、豪華カラー図版満載の本です。萩尾望都ファンでなくても、少しでも関心があれば、ぜひ手にとって眺めてみてください。
著者は私と同じ団塊世代。著者の母親は私の母と同じ福岡女専の同級生でしたので、著者の顔写真をみるたびに著者の母親そっくりだと思ってしまいます。
(2020年4月刊。2000円+税)

2020年5月23日

旅人の表現術


(霧山昴)
著者 角幡 唯介 、 出版 集英社文庫

著者の旅行体験記である『空白の五マイル』そして『極夜行』には、ため息を吐くのも忘れてしまうほどに圧倒されてしまいました。もちろん、その旅行から無事に生還して体験したことを文章化しているわけですが、その旅行では極限の窮地に置かれ、どうやってこの死地から脱出するのか、つい手に汗を握ってしまいます。
著者は初めから文章や本を書くことを前提に探検や冒険に出かけている。
はじめのころは、行動者としての自分、表現者としての自分が分裂し、自己矛盾をきたしているのではないかというジレンマにかなり悩まされた。しかし、今では、このジレンマに苦悩することは、ほとんどなくなった。それは探検家としての行動者的側面と、書き手としての表現者的側面が自分のなかで無理なく一つにまとまっていると感じることができるようになったからだ。
なーるほど、ですね。なんだか悟りの境地にある仙人みたいです。
冒険とは、死を自らの生の中に取り組むための作法である。
経験とは、想像力を働かせることができるようになることだ。自分だけの言葉で語ることのできる事柄を、自分の中に抱えこむということだ。冒険のあいだ、死にたいする想像力をもつことができる。
探検は冒険の一種だ。冒険というのは、個人的な行為だ。主体性があって、生命の危機にかかわる行為であれば、それは冒険だ。探検は、それに未知の部分が加わる。
探検はアウトプットを必要とする。冒険はアウトプットを最終的な目的としない。
本多勝一、開高健の作品もすごいと思って読みましたが、著者の探検記も、生と死の極限状態をギリギリのところまで究めようとしている壮絶さがあります。
この本は、そんな著者がいろんな人と対談しているので、さっと読めますし、ああ、そういうことだったのか...と、いろいろ教えてくれました。
(2020年2月刊。700円+税)

2020年5月 7日

僕たちは育児のモヤモヤをもっと語っていいと思う


(霧山昴)
著者 常見 陽平 、 出版 自由国民社

43歳にして父となり、今は2歳児の子育てに専念してはいない、専業主夫業です。
朝5時に起きて、娘が起きてくる7時までの2時間だけが唯一、自分の自由になる時間。
まず風呂に入って、防水仕様のスマホで朝刊を確認する。紙ではないのですね。
朝7時になると、家族の朝ごはんをつくる。
朝7時から9時までの2時間は、妻と娘のために使う。
自分の思いどおりになる時間はほとんどなくなった。
子どもは大人の思いどおりには動いてくれないもの。
イクメンという言葉は嫌いだ。イクメンと呼ばれるのには強い抵抗がある。
子どもは、会社や社会全体で、助けあい補いあいながら育てていくべきもの。
今しか見ることのできない世界を見に行くというスタンスで、子育ての時間を楽しむようにしている。家事は仕事、労働だ。家事・育児・介護は「いのち」がかかっているので、サボることができない。
著者は1日7時間睡眠を死守しているとのこと。私も以前はそうでしたが、今は1日6時間です。ただし、昼か夕方に20分ほど横になるよう努めています。やはり40代、50代と同じようにはいきません。
大事なことは、優先順位とクオリティ。
朝、娘が熱を出すと、著者と妻の一日の仕事のスケジュールが一変してしまう。子育て中は、娘のご機嫌など、そもそも不確定な要素が多く、いつも追われているような生活になる。
子育ては、模索の毎日。子育ては現実。子育てしていると、知らないことばかりなのを自覚し、猛反省させられた。
本当にそのとおりです。弁護士生活46年になっても、世の中、知らないことばかりなのです。
男性にとっての子育ての大変さと楽しさがよく伝わってくる本でした。私も5歳と2歳の孫が半ば同居していますので、彼らを見ていると、なるほど、人間ってこういうものなのかと教えられます。
(2019年8月刊。1200円+税)

2020年5月 5日

トキワ荘の時代


(霧山昴)
著者  梶井 純 、 出版  ちくま文庫

 私が小学生のころ、『少年サンデー』が週刊誌として発売されました。1959年(昭和34年)のことです。しがない小売り酒屋の三男坊だった私は、そんなマンガ週刊誌なんて親に買ってもらえませんでした。でも、同じクラスに医者の息子がいて、彼から借りて読むことができたのです。
そのなかに「スポーツマン金太郎」というのがありました。作者は寺田ヒロオです。スポ根ものというより、ほのぼのタッチに近いというイメージが残っています。トキワ荘では「テラさん」として登場したのでした。
テラさんは、仲間たちから愛され、信頼される人柄でした。トキワ荘アパートがあったのは豊島区で、このころ木造賃貸アパートが東京一密集していたうちの一つだったのです。
トキワ荘アパートが建ったのは1953年(昭和28年)初めのこと。ここに手塚治虫が入居し、その年の暮れに寺田ヒロオも住むようになった。一部屋の家賃は月3千円。寺田ヒロオのマンガは、なんかふんわりした、笑いだとしても微笑するくらいのマンガ、それが一番好きな世界だった。
手塚治虫は、けっして見下した態度をみせず、誰に対しても励ましの言葉を忘れなかった。これは、才能というより、生来の気質だった。
寺田ヒロオは、他からは落ち着いているようにみえたが、本人に言わせると、動作ものろいうえ、うまく口もきけないので、無口になるしかなかったからだということになる。
安孫子は、かしこく、陽気さと筋道だった思考による積極的な対話を得意としていた。安孫子は、マルクス『資本論』も読んでいたとのこと。さすがです。
そして、若いマンガ家たちは、よく映画をみていたようです。赤塚不二夫も石森章太郎も映画キチガイだったとのこと。
トキワ荘にいた若いマンガ家たちにとって、寺田ヒロオは常におとなびたまなざしで仲間を見守る存在だった。寺田ヒロオへの信頼感は、無限にやさしい家父長に対するもののように、ほとんど絶対的なものだった。
赤塚不二夫は、従業員わずか6人の零細工場で働く中卒の工員だった。それで偉大なマンガ家になったのですから、すごいことですね。
1957年ころ、池袋の居酒屋で寺田や安孫子が飲んでいる写真があります。なんだか、ほのぼのしてくる雰囲気の写真です。
トキワ荘によって立つ若いマンガ家たちの息吹のなかで苦闘する寺田ヒロオの足どりを知り、なんだかほっとする思いでした。読後感のすがすがしい文庫本です。
(2020年2月刊。880円+税)

2020年5月 3日

松本清張が『砂の器』を書くまで


(霧山昴)
著者 山本 幸正 、 出版 早稲田大学出版部

あまり本を読まない、小説を読まない人でも、日本人なら松本清張の名前を知らない人は、まずいないと思います。
松本清張は1960年ころが最盛期だったのでしょうか。平均で毎月11本もの作品を発表していたのです。驚くべき作家です。
この多作を支えていたのは、松本清張が口述筆記をしていたからで、専属の速記者がいまいした。そして、松本清張は、文語体で話していたのです。これまたすごいことです。
朝9時から仕事にかかり、夜の11時にはどんなことがあっても終わりにした。徹夜は絶対にしない。午後4時ころ、30分間は必ずお昼寝した。
1日に20枚から25枚の原稿を書く。1日10時間、1時間に2枚の割合だ。
週刊誌4本、月刊誌5本の連載をかかえていた。
松本清張は地方紙、ブロック紙、全国紙の夕刊そして朝刊というように一歩一歩ステップアップしていった。
『砂の器』は、その前の1960年5月から翌年4月まで新聞小説として読売新聞の夕刊に連載された。
そして、この『砂の器』は、ミリオン・セラーといっても436万部もの超ベストセラーだ。2位が『点と線』206万部、3位が『わるいやつら』228万部、そして4位は『ゼロの焦点』215万部となっている。
松本清張の作品は今なお、繰り返しテレビでリメイクされて放映されている。今もやってますね。なので、松本清張は、まぎれもなく現役の作家なのである。2019年3月、フジテレビは『新・砂の器』を放映した。死してなお、松本清張はますます健在である。
新聞小説は特殊な小説だ。400字詰め原稿用紙3枚半の原稿を毎日掲載し続ける。読者の興味をつなぐ工夫が必要とされる。新聞小説は、小説を読むことを第一には考えていない購読者を満足させなければならない。こった表現は避け、会話をできるだけ多くして、紙面を文字で覆い尽くさないように心がける。
新聞小説は、読者という他者を、否応なく書き手に意識させてしまう特殊なジャンルの小説なのだ。読者を退屈させないために、筋も境遇も人物も、みんな創作しようとする姿勢は、まさしく松本清張のものだ。
野村芳太郎監督の映画『砂の器』は、橋本忍と山田洋次が脚本を担当している。そして、『砂の器』は、この映画のあとは、すべて原作ではなく、この映画を規範としている。
映画の感動をもとに原作を読むと、「あまりのつまらなさに愕然とする」と酷評する評論家すら存在する。ええっ、そ、それは、いくらなんでも言い過ぎでしょう...。
本書は早稲田大学の博士論文を出版したものですから、やや学術論文としてくどい(難しい)ところもありますが、松本清張が『砂の器』を書くに至った前後を深く掘り下げたものとして、関心のある人には一読をおすすめします。
私はコロナ問題で仕事が暇になったので、喫茶店にこもって半日で読みあげました。
(2020年3月刊。4000円+税)

2020年4月25日

デジタルで読む脳、紙の本で読む脳


(霧山昴)
著者  メアリアン・ウルフ 、 出版  インターシフト

 たった一文字でも音読するときは、視覚野にある特定のニューロングループのネットワーク全体を活性化し、そのネットワークは同じくらい特定の言語ベースの細胞グループのネットワーク全体に対応し、そのネットワークは特定の調音運動神経細胞グループのネットワーク全体に対応する。すべてがミリ秒の精密さ。基本的にこれら三つの原理の組み合わせが読字回路の基礎となる。この回路は、二つの脳半球、脳半球それぞれの四つの葉(前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉)。そして、脳の五つの層すべて(最上部の終脳とその下に隣接する間脳から、中間層の中脳、そして下位の後脳と髄脳まで)からの入力を取り入れる。
本を読むという行為には、意識を変える側面があり、それを通して、私たちは、希望をなくしてやけになったり、秘めた感情に恍惚とし身を焦がしたりし、それが何を意味するのか、感じられるようになる。
私たちは孤独でないことを知るために本を読む。過去20年間で若者たちの共感が40%低下し、この10年でも最も急激に低下している。この共感喪失の主な原因は、若者たちがオンライン世界を渡っていくには、どうしてもリアルタイムでじかに話す関係から注意をそがれてしまうことにある。現代テクノロジーのせいで、私たちは互いに距離を置くことになる。共感は、他者を掘り下げて理解することでもあり、異なる交代どうしのつながりが強まっている世界では欠かせないスキルなのだ。
活字の字を読むとき、運動皮質が活性化する。それは文字どおり、皮質の跳躍に近い。共感には、知識と感情の両方を必要とする。
現代の若者は、自分が何を知らないかを知ろうとしない。知識が発展するためには、私たちは絶えず背景知識を増やす必要がある。デジタル刺激がひっきりなしに続けば続くほど、ごく幼い子どもでさえ、機器を取り上げられたときに退屈と倦怠感を訴える。注意過多、恒常的注意力分散、注意力不足が起きる。
デジタル機器に取りかこまれているということは、注意散漫の世界に生きていることを意味する。同じストーリーであっても、活字本で読んだ学生のほうが画面で読んだ学生より筋を時系列順に正しく再現できるという実験結果がある。デジタルに慣れて、脳の新奇性中枢がピカピカの新しい刺激を処理すると報酬を与えられるようになり、いつのまにか中毒ループに入ってしまう。これは、持続的な努力と注意に対する報酬を得たい前頭前皮質にとってマイナスだ。私たちは長期的な報酬を求め、短期的なものをあきらめるよう、自分を訓練する必要がある。
読解力達成度のもっとも重要な予測因子のひとつは、親が子どもに読み聞かせをする量だ。子どもに毎日、読み聞かせをし、毎晩、物語を読むことを儀式化する。子どもに自分たちの文化への準備をさせ、生涯の教訓を教える物語だ。あらゆる文化に見られる普通の道徳律は、物語で始まる。私たち人間は物語を話す種(しゅ)なのである。
4年生の読解レベルと学校での落ちこぼれには相関関係がある。アメリカ州当局の刑務局は、将来的に必要になる刑務所のベッド数を、4年生の読解力の統計をもとに見積もっている。
流暢な読みをするには、言葉の働きだけでなく、言葉がどういう感情を生むかについても、知る必要がある。共感と視点取得は、感情と思考の複雑な識別の一部であり、その二つが合わさると、より深い理解が促される。バイリンガルの成人のほうが、モノリンガルの成人よりも、話し言葉の柔軟性をはるかにたくさん身につけていることが実験の結果、判明した。
やっぱり人間にとって、とくに子どもにとって必要なのはデジタル機器ではなく、昔ながらの親による本の読み聞かせなのだということが改めてよく分かりました。
(2020年2月刊。2200円+税)

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