弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ロシア

2008年12月 9日

モスクワ攻防1941

著者:ロドリフ・ブレースウェート、 発行:白水社

 1612年のポーランド軍も、1812年のフランス軍も、1941年のドイツ軍も、すべて同じルートをたどってモスクワを目ざした。ロシア軍は以上すべてのケースでスモレーンスクで抗戦し、1812年と1941年にはボロジノーで踏みとどまって抗戦した。1941年のドイツ軍は、ナポレオン軍とほとんど同じくらい馬匹輸送に依存していて、モスクワに接近するまでにナポレオンよりずっと長い日数をかけた。ドイツ軍侵攻が違っているのは、快速の機甲戦力を駆使して多数のロシア兵を包囲し、捕虜にする能力を持っていた点だ。
 ドイツ側の数字によると、捕虜にしたロシア兵は、7月10日から10月18日までに225万人をこえる。
 ナポレオンは1812年6月24日にモスクワ攻略を開始し、9月14日にモスクワに到達するまで83日かけた。ヒトラーは1941年6月22日に開始して、12月5日まで166日かかったがモスクワに到達することはできなかった。
 ドイツ軍はモスクワ攻略を目ざすタイフーン作戦を10月初めに開始した。中部軍集団の戦車部隊が北と南から迂回してロシア軍前線に約480キロの突破口をこじあけ、70万以上のロシア兵を捕虜にした。10月末までにモスクワからわずか130キロの地点まで迫り、しばらく停止させたのち、11月15日に進撃を再開した。しかし、ロシア軍が頑強に抵抗し、ついに12月5日、ドイツ軍の最後の総攻撃は阻止され、ロシア軍の反攻が始まった。
 モスクワ攻防戦は、第2次大戦でも、最大の、したがって、史上最大の会戦である。双方あわせて700万を超える将兵がこれに加わった。モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、6ヶ月にわたって続いた。ソ連は、この攻防戦だけで92万6000人もの戦死者を出した。この犠牲者数は第2次大戦全体を通じての英米両軍の犠牲者数の合計よりも多い。
 モスクワに至る道の夏の砂塵はヒトラー軍の戦車や車両のエンジンを摩耗させ、詰まらせ、ついには立ち往生させた。冬の酷寒は夏の炎暑におとらずすさまじい。12月から2月まで、マイナス40度以下に下がることもある。しかし、最悪の時期は秋から冬、冬から春への季節の変わり目だ。このとき近代的に舗装された道路以外は、すべて泥沼と化す。ナポレオンとヒトラーの軍勢を押しとどめたのは、実は冬将軍ではなく、この泥濘だった。
 スターリンは見境のないテロルを発動した。1973年と38年にはソ連全国で250万人もの人が逮捕された。4万人もの人々を刑場あるいは収容所に追いやり、全国で80万人もの人が処刑された。法廷で審理されることなく殺されたり、尋問中ないし獄中で死亡した人はこれよりもっと多い。
 スターリンによる粛清期に、ソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%が処刑された。いやあ、何回聞いても信じられない、ひどい、おぞましいスターリンの圧政です。独裁者であるトップが狂うと、こうなってしまうのですね。
 1941年1月、ソ連最高統帥部は2度にわたって国土演習をおこない、赤軍がドイツ軍の攻撃に対処する能力を検証した。いずれのシナリオでも防御側の敗北という判定が下された。赤軍が戦闘準備を完整するまでは、なにがなんでも戦争を避けなければならないことが明白となった。
 独ソ戦争の勃発は、完全にイギリスの思うつぼだった、スターリンは、そんなトリックに引っ掛かるつもりはまったくなかった。スターリンの希望的観測は、破滅的な脅迫観念と化した。ドイツが自らの意思でロシアと戦うなんて絶対にありえない。このようにスターリンは確信していた。
 1941年6月21日の真夜中にヒトラーがソ連国境に投入した兵力はナポレオン軍の6倍、300万の兵員、2000機の航空機、3000両の戦車、75万頭の馬。これらが3個の軍集団の戦闘序列下にあった。これに対して、ロシアは170個師団、400万の兵員を擁していた。ただし、その多くはまだ東部から移動中だった。
 スターリンは開戦後1週間の緊張にすっかりまいってしまっていた。ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで、彼の権威はひどく失墜した。その結果、スターリンは虚脱状態になって別荘にひきこもった。6月30日政治局の面々が別荘にやって来たとき、スターリンは自分を逮捕しにやって来たと不安に思い、「君らは何をしに来たのかね?」と問いかけた。ところが、この人々が腑抜け連中であることを見抜いたスターリンは自信を取り戻した。
 この記述に私は眼を開かされました。あの独裁者スターリンも、一瞬、弱気になっていた時期があったのですね……。
 ドイツ軍の進撃に対してロシア軍は意外なほど抗戦した。最後まで徹底して抗戦した。無謀な逆襲を仕掛け、自殺的な波状攻撃を仕掛けた。これはドイツ兵に脅威を感じさせた。結局、これがモスクワを救ったのです。
 モスクワの若い女性たちも、男性にひけをとらないほど熱心に従軍を志願し、前線で電話・通信兵や衛生兵・軍医として活躍した。赤軍の前線勤務軍医の約40%、衛生兵の全員が女性であり、17人がソ連邦英雄の称号をうけた。うち10人は死後の追贈だった。
 実践部隊の戦闘員として従軍した女性も多かった。中央女子狙撃手学校の卒業生は、戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺した。全部で80万人もの女性が戦時中、赤軍に勤務した。この女性兵士たちの活躍ぶりと、それが戦後は評価されなかったことを詳しく語った本は先に紹介しました。
 スターリンは、赤軍将兵の後退を阻止するためにNKVD阻止隊を組織した。阻止隊は2万6000人を逮捕し、1万人を射殺した。戦争中に100万人の軍人が軍法会議で判決を受けた。その3分の1は脱走によるもの。40万人が刑の執行を猶予されて、懲罰部隊に編入された。懲罰部隊の死傷率は異常に高く、通常の部隊の6倍だった。
 ドイツ軍の捕虜となってソ連に送還された元捕虜200万人が「洗い出し」システムにかけられ、34万人が労役大隊に送られ、28万人が逮捕された。
 スターリンの存命中、ロシア人はまともな歴史を書くことができなかった。
 スターリンの致命的な誤りにもかかわらず、ナチス・ドイツ軍のモスクワ信仰を阻止したのは、老若男女を問わないロシア人の自発的な犠牲的行動によるものであったことがよく分かる本です。当時の写真も豊富にあって、状況がよく伝わってきます。なんだか数字をたくさん紹介してしまいましたが、実はモスクワ市民の戦時下の日常生活の様子などもたくさんの写真とともに紹介されていて、興味深いものがあります。
(2008年8月刊。3600円+税)

2008年10月22日

戦争は女の顔をしていない

著者:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ、 発行:群像社

 久しぶりに思いっきり感動しました。人間、そして社会の実相にトコトン深く迫った本だと思います。戦争という極限の状態に追いやられたとき、人間がどういう行動をとるのか、そして、平和を回復したとき社会がその過去の極限状態についてどう評価するのか。予想をはるかに超えた厳しいマイナス評価がなされます。すると、極限状態に置かれていた人々は一体どうなるのか…。
 つい最近、NHKスペシャルで、イラク戦争に従軍したアメリカ人女性兵士が本国へ帰還してから悲惨な状況に置かれている様子が2回にわたって放映されていました。戦場で13歳の少年を殺してしまった女性兵士が、我が子を素直に抱けなくなってしまったというのです。とても衝撃的な番組でした。よくぞここまで映像にできたものだとNHKを再評価したほどです。この本は、そのアメリカ人兵士と同じ状況が第二次大戦を戦ったソ連赤軍の女性兵士にも起きていたことをまざまざと浮き彫りにしています。
 ソ連では、第二次世界大戦に100万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。
 わたしが子ども時代をすごした村には女しかいなかった。女村だ。男たちはみな戦争に駆り出されていた。女の子たちの中には「前線に出なけりゃいけない」という空気が満ちていた。
父が殺された。兄も戦地で亡くなった。母は訊いた。「どうしておまえは戦争に行くの?」その答えは、「お父さんの敵討ちに」。
 女性用の狙撃兵訓練所があった。敵といったって人間だから、ベニヤの標的は撃っても、生きた人間を撃つのは難しい。人をはじめて撃ったときは恐怖にとらわれた。自分は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった。たまらなかった。
 戦線から戻ってきたとき、21歳のなのに、すっかり白髪だった。
 狙撃兵は2人一組で働いていた。部隊から「勇気を称える」メダルをもらったのが19歳。すっかり髪が白くなったのが19歳。最期の戦いで、両肺を打ち抜かれ、2つ目の弾丸が脊椎骨の間を貫通し、両足が麻痺して戦死したとみなされたのも19歳だった・・・。
 女の子たちは、戦闘機にも飛行士として乗った。飛ぶだけでなく、実際に彼女らは敵機を撃墜した。
 戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだった。これは厭だった。夏も冬も、4年間も、戦場ではいていた。
 クルクス大戦車戦にも女の子たちが兵士として参戦していたそうです。
 ドイツ軍は、従軍していたソ連の女たちを捕虜にとらなかった。ただちに銃殺した。
 通信兵をしていた女の子の心臓に弾丸があたった。ちょうど、鶴の群れが頭上を飛んでいった。
「残念だわ、あたし。ね、あ、あたし、本当に死んじゃうのかしら」
 そのとき、郵便が配達された。
 「あんたの家から手紙が来てるの。死んじゃダメ」
 母親からの手紙だった。
 「あたしの大事な、かわいい娘や」
 手紙は終わりまで読み上げられた。そのあと、アーニャは目を閉じた。その様子を見て、医者は「奇跡が起きた」と叫んだ。
 簡易塹壕や焚き火のそばで、むき出しの地面に何年も寝泊りすることが、何年も軍用ブーツや軍用外套を着ていることが、どうして18歳から20歳の女の子にできるのか。しかし、戦争の中でも、女性らしい日常は忘れられてはいなかった。
 戦争はどんな色かと聞かれたら、こう答える。「土色よ」。工兵にとっては、黒や、砂の色、粘土の色、地面の色だと・・・。
 私たちは、恋を胸のうちで大切にしていた。恋愛はしないなんて、子どもじみた誓いは守らなかった。恋していた・・・。
 ソ連の従軍兵士たちは15歳から30歳で出征していった人たちで、看護婦や軍医だけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが、戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。戦争が終わると、従軍手帳を隠し、支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかった。「戦地に行って、男の中で何をしてきたやら」と、戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。
 取材される女性たちは、戦場でのあの地獄を追体験したくないといって語りたがらなかった。
 戦後何十年もして、ジャーナリストが『プラウダ』に女たちも戦争に行ったことを初めて書いてくれた。従軍していた戦闘員の女性たちが家庭を持てず、今も自分の家もない女たちがいること、その人たちに対して国民みんなに責任があるということを書いた。それから初めて戦争に行っていた女たちに少しずつ注意が向けられるようになった。
 すさまじい戦争の実相がよくぞ語られています。胸の奥底深くに迫ってくる衝撃の本でした。一読されることを、皆さんに強くおすすめします。 
(2008年7月刊。2000円+税)

2008年3月 7日

虚栄の帝国 ロシア

著者:中村逸郎、出版社:岩波新書
 プーチンのロシアからは目を離せません。どうやら景気はいいようです。
 高騰する原油価格に支えられるロシアは、近年、石油バブルの様相を呈している。2006年の世界主要都市の生活費ランキングで、モスクワが前年の4位から一気にトップに躍り出た。3年連続して首位だった東京は3位に転落した。
 世論調査によると、82%の回答者がロシアでの生活を気に入っていると答え、この5年間で収入が36%上昇したという。
 1970年代から80年代までのモスクワに長期滞在するソ連邦構成国の出身者は5万人だった。いまや、250万人の出稼ぎ労働者がいる。旧ソ連構成国で外国への出稼ぎを希望する人の75%がロシアに来る。その90%が不法就労者であり、ロシア社会の闇の部分に囲いこまれている。彼らは家族を故郷に置いて単身赴任でやって来る。家族への毎月の平均的な送金額は100ドルほど。
 出稼ぎ労働者はロシア経済に貢献している。しかし、その働く場所は、たとえば建設現場のように危険と隣りあわせ。もし災害で負傷したらどうなるのか。
 転落死亡事故が起きて遺体の処理に困って、建物の壁のなかに埋めこまれ、あとで悪臭に気がついた入居者が遺体を発見したケースもある。
 うむむ、これってポーの『黒猫』でしたか、同じような話がありましたよね。
 ロシア全土の警察署で姿を消す外国人が急増しているという噂がある。警察に抗議して消された人は、永久に遺体が発見されることはないだろう。
 モスクワ市警察が正式に確認した外国人の合法就労者は10万人にみたない。300万人の外国人労働者の3%ほどでしかない。
 警察官は抜きうち検査にやって来て、お金を徴収する。警察官の規律の乱れはひどい。社会秩序の再生は、警察官の犯罪をいかに取り締まるのかにかかっているとさえ言われている。警察官たちの大規模な犯罪集団が形成されている。
 タジキスタン大使館は、自国民がモスクワの警察官に不当な暴行などを受けたときの心得を新聞にのせている。モスクワの警察官による傷害事件が後を絶たないために、その未然防止策と、暴行を受けたときの対処法を示しているわけだ。そのいくつかを紹介します。
 自分が取調室にいた痕跡を残す。机の裏に何かを書き記し、殴られたときの血痕を残す。暴行を受けたら、医師の診察を受ける。殴った警察官の特徴をよく覚えておく。同情的な警察官がいないか、見つけておく。
 ところが、この対処法は形ばかりで、ほとんど効果はあがっていない。大使館は、ロシアに抗議することができないでいる。
 ロシアにも外国人嫌いのスキンヘッドが台頭している。
 いやあ、ロシアの闇の深さは恐ろしいものがありますね。
(2007年10月刊。2600円+税)

2008年2月28日

アレクサンドル?世暗殺(下巻)

著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
 1866年の暗殺未遂のあと、学生紛争に参加した若者たちの多くが、退学処分となった。彼らはたいてい裕福な家庭の出だったから、ロシアの大学を追われた者たちは外国に留学した。
 マルクスは、喜んで彼らに「いろは」から説明した。マルクス以後の哲学は、すべて世界を説明するだけのものだった。マルクスの哲学は世界を変えなければならないというものだ。だが、ロシアはまだ早すぎると厳しく釘を刺した。ロシアにはまだプロレタリアがいないからだ。バクーニンは、ロシアにおける革命の希望をロシアの国民性、圧政者と貴族に対する農民の憎悪においた。地主であり、地主の子孫であるバクーニンは、地主たちが首を吊され、その屋敷が焼かれたステンカ・ラージとプガチョフの乱を楽しそうに想起した。
 マルクスは頭のばかでかい浅黒いユダヤ人であるのに対して、エンゲルスは頭が非常に小さくて、背の高い、亜麻色の髪のアーリア人だった。そして資本家で金持ちのエンゲルスが、天才で反資本主義の闘士であるマルクスの面倒をみていた。
 1868年から翌年にかけて、首都ペテルブルグで学生紛争の新しい波が起こった。ちょうど100年後の1968年6月から東京でも学生紛争が起きました。私は大学2年生のときに体験しました。『清冽の炎』(花伝社)は、そのときの東京大学の様子が詳細に描かれています。
 ナロードニキは、プ・ナロードと叫んで、人民の中へ入っていった。ところが、人民は、想像もできないほど汚い住居と服、非常に不健康で貧しい食事のなかで生活していた。これは動物の生活なのか、それとも人間の生活なのか、疑問を発せずにはいられない。ナロードニキたちは、愛する民衆との交流に耐えきれず、次々に農村を離れていった。4000人のナロードニキが逮捕された。38人が発狂し、44人が獄死し、12人が自殺した。1877年、193人のナロードニキが現体制の転覆を謀って組織をつくったという容疑で裁判にかけられた。その弁護人として、ロシアの花形弁護士が全員集合した。ロシアのインテリに名を知られた35人の優秀な弁護士たちがナロードニキを弁護した。
 判決は、28人に懲役労働、75人に刑罰の宣告、90人が無罪となって、うち80人が流刑された。この迫害は、民衆の中へ入るという平和的な考えを死滅させた。ナロードニキは危険な変貌をとげた。
 ロシア皇帝を暗殺するため、宮殿の地下にダイナマイトが持ちこまれた。鉄道爆破が失敗したあとのことだ。皇帝と息子たちが宮殿内の「黄色の食堂」に入ろうとしたとき、突然、ただならぬ轟音がして足元の床が盛り上がり始めた。もしも床が固い花崗岩でなかったなら、食堂はすべて吹き飛ばされ、皇帝一家は全滅しただろう。
 もし、悪漢どもが皇帝の宮殿にさえ爆弾を仕掛けることができるのなら、どこに安心と安全を求めたらいいのか・・・。
 ペテルブルグは前代未聞のパニックに襲われた。ドストエフスキーの住むアパートの隣にバランニコフが住んでいた。憲兵隊司令官暗殺の共犯者であり、お召し列車爆破事件に参加したテロリスト「人民の意志」一味の一人だった。
 1880年10月、逮捕された「人民の意志」党員たちの「16人裁判」が行われた。うち5人が死刑判決となった。
 アレクサンドル皇帝は3人を減刑し、2人を絞首刑とした。久しぶりの死刑だった。世間の人々は暗殺事件と死刑を忘れていたのに、久しぶりに思い出させられた。
 皇帝を暗殺しようとするグループは、皇帝の外出を常時見張る監視班をつくった。その結果、日曜日に通るコースはいつも同じことが判明した。
 テロリストたちは、皇帝を殺しさえすれば、民衆の反乱が始まると信じていた。彼らの偏執的な願望は、皇帝を暗殺して、革命を起こすことだった。
 1881年3月1日。午後2時15分。アレクサンドル2世が馬車に乗ってすすんでいると、小柄な男が白いハンカチに包まれた爆弾を投げつけた。皇帝は無事で、その男はすぐに捕まえられた。皇帝は、すぐに現場を立ち去ろうとせず、むしろ、現場を見ようと歩いて戻ろうとしたところ、運河の柵のそばにいた若者が皇帝の足元に物を投げつけた。皇帝も周囲を囲んでいた将校たちも、全員いっせいに倒れた。
 出血多量で衰弱した皇帝を運ぶのを手伝った者の中に、3人目の暗殺者がいた。彼は脇の下に書類鞄を抱えていた。これも爆弾だった。彼は前の2人が失敗したときの暗殺者だった。
 ロシアのアレクサンドル2世皇帝が暗殺されるまでのロシア社会の実情、そして暗殺者たちのことがよく分かります。これほど皇帝暗殺に執念を燃やす集団がいて、それを受けいれる素地がロシア社会に会ったことを初めて知り、驚いてしまいました。先日のパキスタンのブット元首相の暗殺も知りたいと思ったことです。
(2007年9月刊。2300円+税)

2008年1月29日

上からの革命

著者:渓内  謙、出版社:岩波書店
 タイトルだけでは、いったい何の本なのか、よく分かりません。サブ・タイトルにスターリン主義の源流とあります。この本を読んでみて、スターリンの独裁権力形成過程の研究と名づけてほしいという感想を私はもちました。いえ、タイトルにケチをつけているということではありません。読んですごく勉強になりましたが、読む前には何についての本だろうかと皆目見当がつかなかったので惜しいと思ったということです。
 著者の名前は、たにうち・ゆずると読むそうです。2004年2月に亡くなられています。東大名誉教授だったそうです。ロシア現代史が専攻です。レーニンの死後、スターリンがまだ独裁的権力を確立する前、1928年から1929年にかけての2年間のソ連を詳細にあとづけ、分析しています。大変勉強になりました。スターリンといえども一挙に独裁者になったのではないのですね。そのことが改めてよく分かりました。
 スターリンを書記長に選出したソ連共産党の新指導部が最初に直面した重大な課題は、1927年10月以降、深刻化の度合いを深めつつあった穀物調達テンポの低落の阻止だった。これを放置すると、都市その他の消費地の食糧不足を招き、ひいては確立された工業化路線を脅かす危険もはらんでいた。
 12月末には、党指導部はパニック状態に陥っていた。調達テンポの急速な引き上げは至上命令となった。
 1928年のスターリンが起草した政治局決定によると、穀物調達に関する中央委員会の指示を達成しない地方党組織の書記は、党規約所定の手続きによらずに中央委員会が罷免できるとした。これは、党書記の全権のもとに、すべての国家、社会組織を一元化する体制の確立が図られたということである。
 調達方法における強制的契機の強化は、統治構造における党書記の位階制の影響力の拡大と並んで、治安警察(オゲペウ)など強制装置の役割が政策の実現過程において突出する傾向を随伴した。
 穀物危機を緊急に打開するための非常手段として、内戦体制の復活を思わせる組織的措置が採られた。この内戦体制への復帰は、完全に党組織主導により行われた。地方の非同調的態度に対する中央の対応は、威嚇と圧力の加重、とりわけオゲペウ権力の利用であった。
 1928年1月15日、スターリンは中央委員会全権代表としてシベリアに出張した。
 1928年の時点では、スターリンは、まだ機構の人であって、個人的独裁権力を確立してはいなかった。スターリンの意思が自動的に党と国家の意志となるというシステムはこの時期には実在していなかった。
 シベリアでの経験をふまえて、スターリンは党組織の浄化を指令した。その対象となったのは、「農村の誰にも損害を与えないで、すべての農民の間で人気を保つことに務め、クラークと断固たたかうことのできない者たち」のこと。つまりは、農民の気分を無視できない良心的な人ということでしょう。なにしろ内戦状態にあるというのですから。
 穀物の供出を拒否したのは、実際には多くは中農であって、クラークは少なく、貧農も少なくなかった。ある管区では、処罰されたのは、中農64%、貧農25%、クラーク7%という割合だった。
 穀物危機に際して、党組織が非常措置適用主体として農村に君臨し、農民と対峙した局面があった。都市と工場から多数の党員が全権代表として農村に送られ、農村党組織、農民コムニストはその分肢として行動することを要求され、抵抗する組織と個人は排除された。農民は、もはや党の安定的同盟者ではなかった。
 農村では、都市に比べて党の組織的基盤は脆弱であり、農民に対する党の日常的影響力は弱かった。穀物情報を戦時的に規制し、農民の動向をふくめて一種の軍事機密として扱われることになった。
 農村において、クラークはいなくなったと考えられていた。クラークは都市の活動家の想像のなかだけに存在した。しかし、党にとってクラークとの闘いは終わらなかった。むしろ、隠れて機をうかがっている存在としてクラークはみなされた。その実体は、農村にある実体的秩序そのものとの闘いであった。歴史的に都市と工業を社会基盤として生成を遂げたボリシェヴィキ党は、農村では組織的に微力だった。
 革命後、統治の党になって党員数は急増し、1921年に58万人、1925年には 100万人をこえた。農村出身の党員も増加したが、それは内戦に勝利する必要から農民出身の兵士に門戸を広げた結果であり、農村における日常活動の成果ではなかった。
 スターリンは、1929年10月の時点では、農村における党の絶望的無力を率直に認めた。農村には、党とはまったく無縁な数千万の農民の大海が広がっている。
 1929年初め、地方党組織あての党中央の声明は、選挙過程への党の強力な介入を指令した。党とコムソモールの系列から多数の責任活動家を農村に投入すること。
 1927年の選挙では、選挙権を剥奪された者が、前回の3倍(選挙民の3.6%)に達した。1929年の選挙では、それがさらに増え、4.1%になった。そして、その基準が客観性を欠いた恣意的な事例が多発した。剥奪の実際は、中農の選挙過程からの脱落をもたらした。
 1929年4月に開かれた党中央委員会で、ブハーリンらは最後の抵抗をした。スターリンのやり方は農民との結合を重視したレーニンの考えに反すると指摘した。しかし、ブハーリンは圧倒的大差でもって敗れ去った。急速な工業化をすすめるために必要な穀物を農民から入手するためには、国家的強制の行使も辞さないという決意が支持されたのだ。
 こうやって、スターリンの強権的独裁が確立していったのです。なるほど、ですね。パンがなくてどうするんだ、という声には誰しも弱いところですよね。530頁もある大部な学術書ですが、ロシア革命の内実を少しうかがい知ることができました。
(2004年11月刊。11,000円+税)

2008年1月 9日

アレクサンドル?世暗殺(上)

著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
 1881年3月1日、ロシアのアレクサンドル?世が暗殺された。
 専制、正教、国民性というこの3要素は、ロシアでは不滅の原理であった。スターリンも、ロシア国民には神と皇帝が必要であると言い、自らを皇帝とし神とすることで、スターリンはマルクス・レーニン主義を新しい宗教と化した。ロシアの急進革命家たちが建設したボルシェヴィキの帝国は、彼らが憎んだニコライ1世の帝国に驚くほど似ていた。
 ロシアの上流社会はフランス語で会話し、宮廷の最有力メンバーは全員ドイツ系からなり、皇帝たち自身も90%以上、ドイツの血が混じっていた。
 ドイツの諸公国は、久しくロシアの皇帝たちが妻を選ぶためのハーレムと化していた。昨日まで田舎の公女だった者たちが、貧弱な両親の宮殿を出て、野蛮な絢爛さでヨーロッパ人を驚かすロシアの宮殿に入っていった。花嫁候補のリストにあがっていたのはドイツの公女たちだった。
 有名なフランス人作家キュスティーヌ侯爵はロシアを訪問して次のように書いた。
 「これまで私は、真実は人間にとって空気や太陽のように不可欠だと思っていた。だが、ロシア旅行はそうした確信を揺るがせた。ここでは嘘をつくことが王座を守ることであり、真実を語ることは根幹を揺すぶることなのである」
 こう書いたキュスティーヌの本は当然のことながらロシアで発禁となった。しかし、ロシアでは禁止ほど効果的な宣伝はない。キュスティーヌの書はロシアの全教養階級に読まれた。皇太子アレクサンドルも読んだ。
 何もかも検閲によって圧殺された沈黙の国に、国外発信の暴露的な言説が響きはじめた。国外に自由ロシア出版所をつくり、非合法に国内にもちこまれたロシアの教養階級はひそかにこれを読んでいた。誰が情報を流していたのか。実は官僚たち自身だった。官僚の誰かが同僚を蹴落としたいと思ったとき、皇帝に密告しても効果はないが、国外に送れば直ちに皇帝の反応が得られた。皇帝が一番それをよく読んでいたからだ。
 ロシアの軍隊は世界一偉大な軍隊とされたが、それを構成しているのは、一切の権利を剥奪された農奴階層の兵士たちであり、残酷きわまる体罰が横行していた。
 ニコライ皇帝がヨーロッパ随一とみなしていたロシア軍はまたたく間に敗北した。なぜなら、ロシア軍はナポレオン1世時代の装備でナポレオン3世の兵士たちと戦わされていたからだ。
 ニコライ皇帝が死んだとき、国庫は空っぽ、軍は孤立無援、軍備は時代遅れ、ロシア海軍には蒸気船もない。ヨーロッパでは、どこでも体刑は廃止されていたが、ロシアではいまも容赦ない鞭打ち刑が存在した。どこもかしこも不足と腐敗ばかり。農奴制が残存し、当事者不在のまま裁判が進行し、賄賂がすべてを決していた。
 ロシアの皇帝は、何よりもまず厳しい存在でなくてはならなかった。
 ロシアの皇帝って、残忍でなければ周囲から皇帝にふさわしいとは認められなかったそうです。そして、スターリンはそれに見習ったというのです。ちっとも知りませんでした。
 ロシアの歴代皇帝はみな、農奴制廃止に経済的効果があることを理解しながら、結果としての政治的不利益を恐れていた。専制体制に立脚した帝国には調和が必要であった。
 農奴制の存在のおかげで、国家は農民のための裁判所や多数の警察官をもつ必要がなかった。地主が農民の裁判官かつ警察官として、彼らを監督していた。
 ロシアでは、すべてが隠されているが、秘密はひとつもない。
 1861年3月5日、アレクサンドル?世は奴隷制を廃止した。これはアメリカ合衆国の奴隷解放よりも早かった。おまけに内戦も伴わなかった。ただし、どちらも、その解放者は暗殺された。
 1864年、アレクサンドルは法の前で全国民が平等だと宣言した。にわかに出現した弁護士の中から、高名な雄弁家たちが排出し、国中にその演説が引用されるようになった。
 1860年代にインテリゲンツィアという言葉が誕生した。この言葉はアレクサンドル皇帝による一連の大改革の産物なのである。
 1866年4月4日、アレクサンドル2世は夏の庭園を出ようとしてピストルで撃たれた。しかし、皇帝は無事だった。ところが、ロシア皇帝の不可侵性はこれによって決定的なダメージを受けた。それまでもロシア皇帝は殺されてきた。ただ、それは宮廷の中で、秘密裡になされ、国民向けの公式発表では卒中などによる病死とされていた。ところが、民衆の目の前で銃で撃たれた。神聖なる皇帝の不可侵性というオーラが破壊されてしまった。
 ロシア皇帝と、それをとりまくロシアの宮廷のおどろおどろしい内情がよく伝わってくる本です。
(2007年9月刊。2300円+税)

2007年12月28日

株式会社ロシア

著者:栢 俊彦、出版社:日本経済新聞出版社
 プーチン大統領の支配するロシアから目を離すことはできません。
 ロシアの経済成長を支えているのは、原油高を背景とする個人消費と投資の拡大である。
 新生ロシア政府は、1992年、国営企業の民営化にあたって、バウチャー方式という手法を採用した。政府が国民一人一人に一定金額のバウチャー(民営化証券)を無料配布し、国民はこれをつかって民営化企業の株式を取得できるとした。
 当初の民営化政策が一段落した1994年から、金銭による民営化が始まった。1995年、それまでとまったく違うタイプの民営化が実施された。後に「担保オークション方式」と呼ばれるトリッキーな手法である。これによって、資源産業を中心とする巨大な資産が一部の資本家に移管された。
 ユーコス事件は、現代ロシア最大の疑獄事件である。それは、1990年代前半の民営化以降続いた国家資産の争奪戦が行き着いた結果であり、エリツィン時代に台頭した支配勢力(新興財閥=オリガルヒ)がロシアの伝統的権力機関に屈するプロセスであった。国内の欧米派勢力(とくにユダヤ人)とロシア派勢力との路線対立が、ロシア派勢力の逆転勝利で決着をみたということができる。
 ロシアの権力機関内では、このユーコス事件を機に国益第一主義が確立し、1992年以降に欧米諸国が敷いたオービット(軌道)からロシアは離脱しはじめた。
 ユーコスは2004年に解体され、ホドルコフスキーは禁錮8年でシベリアに、レベジェフは同じく8年間、北極海に近い監獄に収容された。
 ホドルコフスキーは「泥棒貴族」としての出自をロシア国内では拭いきれず、欧米の庇護者をバックにプーチン政権を強引に押さえこもうとしたのがつまづきの始まりだった。ブッシュ政権に気に入られてからは自信過剰に陥り、プーチン政権との衝突を避けられないものとした。
 ロシアの大企業が資源系を中心に、政治と深く結びつきながら発展してきたのに対し、中小企業は逆に政府に忘れ去られ、自力で生き残ってきた。それだけに、成長している中小企業の経営者は強烈な個性を持っている。
 中小企業の経営者の成長がロシアの民主主義の基礎を生み出しつつある。ロシアの将来は、中小企業の発展が握っている。
 ここで紹介されているいくつかのロシアの中小企業が日本の経営論を学び、生かしながら発展しているというのは、日本人の書いた本だからなのでしょうか・・・?
 統一ロシアにみられる単独与党のモデルは日本の自民党である。かなり長いあいだ、大統領府内で自民党のモデルを研究した。党派性と安定性の結合がもっとも重要だ。
 1990年代以降、ロシア社会では年齢層ごとに意識の断層が生じた。ソ連崩壊時に 10代後半に達し、コムソモールの教育を受けた人と、まだその年齢に達していなかった人では意識は大きく異なる。現在30歳以下の若者は社会主義についての意識はほとんどなく、市場経済の社会を前提として受け入れている。ましてや20歳前後の人生観や価値観となると、おばあちゃんは宇宙人と同じ。何を言っているのか全然分からない、というほど距離がある。
 うむむ、なるほど、ロシアにおける世代間の断絶は日本以上でしょうね。
(2007年10月刊。1900円+税)

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