弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2011年4月20日

後水尾天皇

著者  熊倉  功夫     、 出版  中公文庫   
 
 徳川家康に立てつきながら長生きした天皇(上皇)についての本です。ゴミズノオテンノウとゴミノオテンノウの二通りの読み方があります。この本は、宮内庁にならって、ゴミズノオとよびます。
 生まれたのは、秀吉時代。千利休の切腹は、「下克上の精神」を凍結するための冷酷な宣言だった。秀吉が利休に切腹を命じたのは秀吉の心に利休がつくった茶の湯を否定しようとする気持ちがあったから。秀吉にとって、利休の茶の湯は魅力と危険をふくんだ数寄(すき)であった。利休は、茶の湯において下克上の精神をつらぬこうとする。その自由なふるまいは、「天下人」として秀吉の立場からすると許容しがたいものであった。
 徳川家康は、公家と武家を分離し、武家の官位は朝廷とは別に幕府において定めることを禁裏へ申し入れた。当時、権力の座から離れた天皇への権限といっても、もはや実質的な意味をもつものではなかった。権威の象徴としての官名、位階、称号授与の権限と年号制定権が主たるものだった。
 1615年(元和元年)7月、徳川家康は、大阪夏の陣の直後、対朝廷政策の仕上げとして禁中ならびに公家中諸法度を発した。これは禁裏に対して法制を発布した画期的なものだった。公家方は政治介入を禁じられ、幕府の公家支配を明文化した。そして、そのなかで天皇のつとめは芸能であるとされた。そのなかでも、学問を第一とせよ、とされていた。
 和歌の道こそ、天皇のもっともたしなむべき道である。天皇のつとめとしての芸能とは、現在の芸能とかいうのとは根本的に違っていると言えた。芸能とは、教養として心得ておくべき知識の総体をさす言葉である。天皇が文化面での最高権威であり、文化そのものの体現者である。そして、後水尾天皇こそ、歴代の天皇のなかで、この禁中ならびに公家中諸法度の規定をもっともよく体現した天皇であった。
 徳川家康の願いは、武家の娘が皇后となり、その皇子が天皇となって外戚の地位につくというものだった。徳川氏の女を入内(じゅだい)させるのは家康の悲願だった。
後水尾天皇の二条城行幸は記念すべきものだった。将軍私邸への行幸は、このあと江戸時代を通じて、ついに行われることがなかった。次に天皇が禁中を出たのは江戸幕府が崩壊したときだった。中世以来、幕府が天皇の権威を行幸というかたちで受けとめ、支配のテコとするパターンは、この後水尾天皇の行幸をもって終わった。それ以後、幕府は天皇の権威を必要としないほどの強大な権力をつくりあげていく。
行幸は、天皇の権威を広めるよりも、幕府への権力を誇示するところに目的があった。目を驚かす玉座など諸々の装束の金銀のデザインは、文字どおり黄金の世の現出を象徴するものだった。天皇の膳具はすべて黄金で彩られた。
 この寛永行幸をとおして、人々は、新しい時代の見事さ、そして、その頂点にある幕府の重さを思い知ったのだ。
 天皇は、鍼や灸のような身体を傷つける治療を受けることは古来できないことになっていた。後水尾天皇に腫れ物があっても、在位中は治療を受けられない。だから灸治を施すためには譲位させざるをえない。しかし、実は、まれに天皇に灸治が許される先例はあった。そこで、譲位やむないというのが公家衆の大勢だった。ただ、女帝への譲位は幕府は歓迎しなかった。当然のことながら、女帝は一代でその血統が絶える。徳川氏の血が皇統に入らない。
家光の乳母である江戸の局(つぼね、お福)を天皇に面会をさせようとした。このため天皇は不快だった。朝儀復興という天皇の念願が無位無官の女性の参内によって破られることになるからだ。結局、面会できたこの女性は、後に春日の局と称した。
 江戸時代の中期以降、朝廷から諸方面への貸付金は巨額にのぼり、その利子収入は朝廷の重要な収入源となっていた。
後水尾天皇は譲位したあと歌の道に精進した。2千首の歌が伝わっている。83歳で亡くなるまで、後水尾院は37人にのぼる子どもの父親となった。
学問と花を愛した天皇(上皇)の様子がうかがえる本です。ただ、冒頭に石田三成が家康の邸へ逃げ込んだと記述されていますが、これは現在では否定されていると思います。それというのも、この本は1982年に刊行されたものの復刊ですので、仕方ないことでしょう。江戸時代初期の天皇の実態が分かる本として紹介します。
(2010年10月刊。933円+税)

2011年4月 9日

江戸のエロスは血の香り

著者: 氏家 幹人、  出版: 朝日新聞出版 
 
巻末に主な参考文献・引用史料がたくさん紹介されています。これを見ると、江戸時代について書かれた本を相当よんだつもりになっている私ですが、学者に比べると赤子のようなものです。ちっとも読んでいません。だいいち、原典にあたっていないところが致命的な相違点です。
江戸時代、長崎に滞在していたある中国人は、日本人について、礼儀正しいが貞操を守らないと評した(『甲子夜話』)。江戸時代から今日に至るまで、日本人は老若男女の別なくかなりエッチなのである。
 江戸時代、武士の妻が貞節だったというのは幻想でしかない。文政7年(1824年)、吉原遊郭が炎上し、仮宅での営業が許された。すると、この仮宅を訪れた見物人の8割は女性で、しかも武家屋敷の女性が多かった。
 江戸時代の性の倫理は、過酷な刑が定められた一方で、思いのほか緩やかだった。泰平の世が続くにつれ、その傾向はさらに顕著になった。妻の不倫が発覚しても、処刑や流血沙汰に至るケースは稀になり、通常は間男(不倫相手)から寝取られた亭主に「首代」(くびだい)と呼ばれるお金が支払われて示談が成立した。「首代」は7両2分とされたが、大阪では5両。間男が貧しければ、さらに小さい額で示談が成立し、なかには夫が妻の髪を切るだけで事済みになった例もある。
 不義密通は武士の世界でも庶民の世界でも、日常茶飯化していた。皇族の男女だって駆け落ちしたくらいなので、大名や旗本の妻女駆け落ちも稀ではなかった。
 幕府や藩の役人は心中事件の処理に手心を加えていた。幕府自身が心中未遂で死にそこなった男女の扱いについて、幕府の定めた法を曲げるように勧めていた。心中未遂で晒し者となり非人の配下になっても、親族が非人頭にお金を払って身柄を引き取って、なんのことはない、二人はめでたく結ばれることがあった。そんな魂胆から、狂言心中を企む男女も少なくはなかった。うひゃあ、ここまでくると、驚きですね・・・。
 「茶呑男」という言葉を初めて知りました。正式な夫は持たないが、熟年の性欲を適度に満たしてくれる男友だちのこと。お一人様の老後を、「茶呑男」をこしらえて乗り切ろうという小金もちの女隠居がいた。
 江戸時代の本を読むと、現代の性風俗かと思うばかりです。日本人って、本当に変わらないのですね・・・・。
 
(2010年11月刊。1500円+税)

2011年4月 6日

鉄砲を手放さなかった百姓たち

著者 武井 弘一、   出版 朝日新聞出版 
 
 江戸時代の百姓は、意外にもたくさんの鉄砲を持っていたようです。害獣退治に鉄砲は欠かせなかったのでした。そして、百姓一揆には鉄砲を使わないという不文律があったといいます。これって、日本社会の不思議ですよね。
 百姓一揆のとき、鉄砲がヒトに向けて発射された例はない。武器ではなく、音をたてる鳴物として使用された。領主の側でも鉄砲は使わなかった。百姓へ向けて発砲してしまえば、たちまち支配の正当性を失ってしまうからだ。領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。うむむ、本当でしょうか、なんだか信じられない、そんな原則ですよね。
下野(しもつけ)国壬生(みぶ)藩は軍役で鉄砲80挺を出すのが決まりだったが、藩内の村から104挺もの隠し鉄砲が摘発された。軍役規定の1.3倍も鉄砲を百姓たちが不法所持していた。このように刀狩りによって日本人は丸腰になったという考えは間違っている。実際には、村々には、なお大量の武器がそのまま残されていた。刀狩の真の狙いは、百姓の帯刀を原則として禁じて身分を明確にすることにあった。そうなんですか・・・。
 鷹を数えるときは、「羽」ではなく「居」(もと)を使う。むひゃあ、ちっとも知りませんでした。こんな単位の呼び方があったんですね・・・・。
 鉄砲改めとは、幕府が村に広まっている鉄砲そのものを登録することを言う。つまり、鉄砲所持を禁止するのではない。鉄砲改めの狙いは、盗賊人が持つような、治安の悪化にもつながるような鉄砲を没収することだった。
 島原の乱のあと200年ほどは弓も鉄砲も不要になっていたと、水戸藩主の徳川斉昭が幕末のころに書いている。幕末になると、アウトローたちは、長脇差とヤリ・鉄砲をもって徘徊していた。
人宿(ひとやど)に、まだ死人でないヒトが捨てられていた。重病人を遺棄することがあたり前になっていた社会に徳川綱吉は、ヒトもふくめた生き物すべての生命を大切にすることを教諭しようとした。これが生類憐みの令なのである。また、野犬をどうするのかが、社会的な課題となっていた時代でもあった。うむむ、そういう見方もあるのですか。
 関東の耕地面積は、(20万町20万ヘクタール)から、江戸中期に70万町まで3.5倍も飛躍的に増えた。そして、鳥獣害に百姓は悩まされていた。
 享保2年から、幕府はあらゆる鳥を独占するため、鉄砲を取り締まっている。鳥が激減していた。幕府が鉄砲改めをおこなったのは、鷹場を維持・管理するため、不足していた鳥を確保することに狙いがあった。
 日本人にとっての鉄砲の意味を考え直させる本です。
(2010年6月刊。1300円+税)

2011年3月31日

日本1852

著者  チャールズ・マックファーレン、  出版  草思社
 江戸時代の末期、黒船に乗ってやってきたアメリカのペリー提督の日本についての知識が、こんなに深いもので裏付けられていたとは知りませんでした。
 この本は、著者自身が日本に来たことはなかったものの、日本に行ったことのある体験記、見聞記を集大成して、ペリー提督を含めた欧米の人々に日本と日本人の全体像を提供したものです。その内容は、当然ながら今日の日本とはかなり違ってはいますが、かなり当たっていると思わざるをえないところが多々あります。その意味で、江戸時代の日本、ひいては日本人が昔からあまり変わってないことをよく知ることのできる本でもあります。ペリーたちが、日本についてこんなに知って来日したなんて、私にとってまったくの驚きでした。
 本書が発行されたのは1852年7月。ペリー提督がアメリカを出港する4ヶ月前のこと。
 ザビエルたち日本に来た宣教師は、日本人を賞賛した。日本人の従順で他者に優しい気質。恩義を重んじる傾向にあること。今でも言われますよね。NHKのフランス語の講座で、フランス人による日本論で同じ指摘があります。
 徳川家康がなかでも喜んだのは幾何と代数だった、という記述があります。うひゃあっ、と思いました。単に世界の地理と情勢を喜んだというのではありません。ヨーロッパの数学を聞いて学んだというのです。家康を私は見直しましたよ・・・。
 日本人は礼儀正しく、好感が持てる。戦になると勇敢だ。仁義を重んじ、それに違反するものは厳しく処分される。礼節によって統治されている。日本より礼節が重視されている国は他にないだろう。神を敬うことには熱心である反面、多様な考えをもつことにも寛容である。
 日本人には、性的にも自制心がないという性癖がある。地方領主や有力者は、たくさんの妾をもっている。彼らは、この悪徳を矯正しようとした宣教師たちへ反感を抱いた。
 アヘン戦争の状況は、ことごとく日本人へ伝わっていた。
日本人とは、創意工夫の精神にみちた民族だ。豊富な資源と商業をはぐくむ能力。そこには十分な数の人口が存在する。この国を治める諸侯も高い知性を示している。こうした日本人の能力、エネルギー、起業家精神をみると、アジア諸国の中で一頭地を抜く存在になる可能性が高い。
 一般に、日本語の発音は明瞭ではっきり聞き取れる。
 漢語(中国語)は、HをHとしてはっきり区別して発音するが、日本人にはHもFも同じである。逆に、日本人の発音ではRとDは区別されるが、漢語ではどちらの発音もLに聞こえる。うへーっ、これってどうなんでしょうか。いまは逆のことが言われてますよね。
 女性も日本では帝位につくことができる。女性が治める素晴らしい時代もあった。
 女性の地位と立場は日本では相当に高い。他のアジア諸国の中でも飛びぬけて高い。江戸時代に住む女性は、コンスタンチノープルのトルコ女性の百倍もの自由があり、計り知れないほど大事にされている。日本の女性は隔離された社会に閉じ込められてはいない。フェアな社会的地位をもち父や夫と同じように遊びに興じている。
日本の政府は教義には無関心だ。どの宗派も自由に教義を戦わせている。政府の無関心さは、世界ではひどく稀で、賞賛すべきことだ。
 信長は坊主たちのしつこさに辟易しつつ、日本に存在する宗教の数を問うた。35と答えた坊主に、それなら36になっても一向に問題なかろう、宣教師は放っておけと提示した。
 日本の皇帝(天皇)は政治的な重みを持っていない。それどころか、帝の暮らしは、牢に入れられたようなものである。すべての大名はスパイや内通者の監視下にある。日本のシステムは、治める側の生活のほうが治められる側のそれより惨めだとも言える。人の嫉妬を利用した管理法は小さな藩でも同じだ。このように嫌悪感を催すような政府の仕組みにもかかわらず、一般の日本人はほとんどいつでも気さくに振る舞い、言いたいことを自由に発言している。ええーっ、これってまるで現代日本のことを言っているみたいじゃありませんか・・・。
 日本の法には血なまぐさ漂うが、現実の運用では死罪の適用に積極的ではない。裁く側に広い裁量権が認められているのだ。
  この風変わりな民族は本当に花が好きなのだ。ほとんどすべての家庭が裏庭に庭園を持ち、前庭には花をつける低木を植えている。この国を訪れる誰もが農業や園芸のレベルの高さを賞賛している。
 日本人の器用さや創造力はよく知られている。日本の製品の出来栄えは頑丈さ、安定性、仕上げの良さまで中国の製品を上回っている。日本人は社交的で遊びが好きな民族だ。しっかり働き、労働時間は長いが、祭りにはごちそうを食べ、大騒ぎをする。祭りでは、音楽、踊り、演劇がどの身分でも楽しめる。道化師や役者たちが町を練り歩く。曲芸師、手品師、ジャグラーたちが人々を楽しませる。
 日本人はきれい好きで、身分の高低にかかわらず、風呂が好きだ。日本の家は驚くほど清潔だ。
  子どもは全て学校に行かされる。学校の数は、世界のその国よりも多いと言われている。日本人は名誉を異常なほどに大事にする民族である。少し高慢で、仇討ちに価値を置き、少し好色なところがある。それが欠点である。
真面目だけど、遊びも好きで、かつ好色。それが日本人だというのは、現代にも通用する日本人論ではないでしょうか・・・。

(2010年2月刊。1600円+税)

2011年3月26日

絵草紙屋・・・江戸の浮世絵ショップ

著者  鈴木 俊幸、   出版  平凡社 
 
 まっこと、日本人っていうのは昔から本が大好きなんですよね。江戸時代、大人も子どもも、本屋の前に広く集まり、江戸では新刊本を、地方では古本を待ち焦がれていたのでした。
 地本(じほん)とは、江戸で、生産される草紙類のこと。豪華な印刷。錦絵は、江戸の繁華を象徴するものであり、最新の流行を盛り込んで、「通」の美意識にかなうお洒落なものだった。地本は、絵草紙屋という店で商われる。小売専業の店が江戸に出来て、錦絵を商品の主体とした。浮世絵のなかで、もっとも主要なジャンルは芝居絵である。相撲絵や吉原の遊女の姿絵も主要なジャンルの一つであった。
そして、きれいな浮世絵が店先に吊るし売りされている絵草紙屋は掏摸(すり)のかっこうの稼ぎ場でもあった。絵草紙屋の店先に吊るされていた浮世絵をポカンと大口をあけて眺めていると、そっとスリが近づいてきて、フトコロの財布を盗んでいってしまう。絵草紙屋の主人はそれに気がついても黙って成り行きを見ているだけ。そんな状況が紹介されています。昔も今も変わらない情景ですね・・・・。
絵草紙屋には、春画・書本の類も置かれていて、根強い人気商品だった。
 参勤交代などで、地方から江戸へ出てきた田舎にとって、「土産の第一」は、浮世絵だった。国元への土産に大量に買い付けた。田舎へ持って帰るのには、新版である必要はない。浮世絵は吊るし売りされていた。観光地であり、行楽地である浅草は、小売専業の絵草紙屋が登場した。
 江戸時代の貴重なメディアの一つであった絵草紙の興亡を知ることができました。
(2010年12月刊。2800円+税)

2011年3月20日

細川三代、幽斎・三斎・忠利

著者  春名 徹、  藤原書店 
 
熊本城の大広間が再現されたのを見ましたが、それはたいしたものです。佐賀城の大広間の再現にも感嘆しましたが、やはり熊本城のほうがはるかにスケールが大きいと思います。その熊本城の主であった細川家は、戦国時代を生き抜いて熊本に定着したわけですが、それに至るまでは決して安穏した状況ではありませんでした。そのことが実によく分かる本です。500頁もある分厚い本ですが、最後まで興味深く読み通しました。
細川家三代の基礎をつくった幽斎・細川藤孝は12代足利将軍義晴(よしはる)の側近、三淵(みつぶち)大和守晴員(はるかず)の次男である。ところが、実は、藤孝の本当の父親は将軍義晴であったとも言われている。いずれにせよ、藤孝は、織田信長と同年の生まれ、秀吉より3歳、家康より8歳上であった。
藤孝は足利将軍義昭につかえていたが、織田信長が抬頭するなかで、信長につかえるようになった。そして、ついに将軍義昭を見限り、信長についた。
藤孝は、信長が安土城を居城として京都一円を支配していたとき、丹後国の支配をまかされた。
天正10年(1582年)光秀が信長を殺害したとき、藤孝は光秀の娘を妻(玉。ガラシャ)としていた息子・忠興を試した。しかし、親子そろって、光秀には組みしなかった。幽斎と忠興父子は、秀吉支持で一貫した。
利休の切腹、朝鮮出兵そして秀次失脚によって細川幽斎も、忠興もきわどいところを切り抜けていったようです。そして、忠興の妻、ガラシャ(光秀の娘)は大坂方(石田三成)に攻められ、自決した。
細川家が本に書かれやすいのは、膨大な手紙が残されているからです。
忠興は、三男忠利に対して、現在するだけで1700通、その他をあわせると2千通も残っている。そして、忠利も、光尚あてに1400通が残っている。忠利の手紙の総数は4千通といいますから、半端な数ではありません。
徳川政権の確立期に、ひたすら情報を集め、政治の推移をうかがい、自らも家を保ち、それを円滑に後継者に継承するための過程を生彩ある筆で描きだしたのである。
すごいですね。細川家が熊本に入ってからも、いろいろありました。その一つが、島原の乱です。そして、阿部一族の事件の真相は・・・。これらについても大変興味深く、読み通しました。
                   (2010年10月刊。3600円+税)

2011年3月11日

日本人と参勤交代

著者 コンスタンチン・ヴァポリス、  出版 相書房
 アメリカの学者が江戸時代の参勤交代の実情を丹念に掘り起こした労作です。
 著者は、参勤交代の道の一部を実際にも歩いているそうです。すごいものです。
 加賀藩では、参勤交代はあくまで軍役であると意識して、藩士は自炊しながら旅をしていた。殿様はぬかるんだ道で駕籠を担がせるのはかわいそうだからと家臣を思いやって駕籠に乗らなかった。逆に、殿様が駕籠に乗らないため、年老いた家臣たちまで駕籠に乗れずに困ってしまった。このような参勤交代の旅をする人々の現実の姿を生き生きと描いています。
 通常、宿駅の通知は、宿は予定から通算して6ヶ月前には行われ、その時点で一行全員の宿の手配がなされた。大集団の定期的移動にかかる費用は膨大だった。藩全体の支出の5~20%が参勤交代のために費やされた。これに江戸藩邸と江戸詰め藩主の維持費用を加えると、全藩の収入の50~75%が消えた。うひゃあ、これはすごいですね。
 当初は、出費の多さを競った大名たちも、まもなく出費を切り詰めるようになり、宿や茶店から吝嗇の評判を受ける大名も少なくなかった。
 暮れ六つ泊まりの七つ発ち。これは、早朝4時に出発し、暗くなってからようやく宿に入るということ。なーるほど、ですね。
戦略上の理由から、大名に船旅が許されたのは大坂まで。あとは陸路を行くように要請されていた。だから船による参勤交代の絵を見かけないわけですね。
 大名が病気を訴えたとき、その多くは偽りだった。しかし、単に1~2ヶ月の延期しかなく、ずっと病気で、数年も参勤交代しなかったという大名はいない。
江戸時代の庶民にとって、大名行列は一種の劇場であった。それを藩主たちも十分に承知していた。衣装は、その豪華で彩り豊かな細部によって庶民の目を惹いた。
 行列の最大は2千人から3千人で、馬も400頭前後だった。それは加賀藩のこと。さすがは百万石ですね。これに対して、九州の諸藩は平均して280人の供を従えた。ただ、出立と到着時には、日雇人夫を雇い、威厳のために人工的な行列水増し策をとった。
藩主は常に携帯用のトイレと風呂桶も携えて行列した。ペットを連れて旅する大名もいた。
行列の道具のなかでは、地位の表象として、槍と難刀がもっとも重要であった。
 江戸屋敷に住む藩主たちは、長屋に住みながら欲食を楽しみ、書き物をし、将棋や囲碁などのゲームに興じて自由時間を過ごしていた。おおむね健康的な生活水準を維持していた。なるほど、そのような姿を描いた絵があります。
 江戸滞在は好奇心旺盛な藩士たちの人生を大きく変えるほどの影響をもたらすこともあった。文化的な生活を追い求める藩士たちは、江戸での生活体験を通じて、新しい知識の源泉や技術に触れ、また自藩にいては得られないような文化も体験した。
 江戸体験にはピラミット的な効果があり、実際に江戸まで旅をしてそこで生活した人々だけでなく、そうでない人々にまで影響を及ぼした。
なるほどと思わせる絵がたくさん紹介されています。参勤交代に参加した武士たちの日記まで掘り起こした結果だといえる貴重な労作です。江戸時代って、決して暗黒の停滞した時代ではなかったのですね・・・。

(2010年6月刊。4800円+税)

2011年2月18日

龍馬史

著者  磯田 道史、  文芸春秋  出版 
 
 坂本龍馬が暗殺されるにいたった幕末の情勢がきわめて明快に語られています。なるほど、そうだったのかと、私は何回となく膝を叩いたため、膝が痛くなったほどです。
坂本龍馬の生家は、高知県城下でも有数の富商である才谷(さいたに)屋から分家した、郷士(武士身分)の家柄だった。
 才谷屋は、高知のトップ銀行に匹敵する実力を持っていた。豪商・才谷屋は、6代目八郎兵衛直益のときに郷士株を手に入れ、長男が分家して郷士坂本家が誕生した。坂本家の屋敷は500坪の広さがあった。これは、500石クラスの上級藩士の武家屋敷に匹敵する広さだった。
江戸時代、武士でないものが武士になるのは、それほど難しいことではなかった。郷士の養子となるか、藩に御用金を献上して郷士株を入手する。後者のルートで郷士となったものを献金郷士と呼んだ。
坂本龍馬は、上士に比べれば差別的扱いをうける郷士の出身だったが、その分、お金には不自由しない富裕層だった。なーるほど、だから亀山社中という商社の発想がありえたのですね。
 城下にいる兵農分離された武士は、おとなしく明治新政府の方針に従ったが、兵農分離していない、みずから土地経営をしていた郷士たちは、自分たちの特権や土地経営がなくなるという危機感から激しく抵抗した。
 龍馬は、家督を継げない次男だったので剣術で名をあげようと考えた。だから、江戸で剣術道場に入門したのですね。
坂本龍馬は、誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設してみずから船を動かして実戦をたたかった。この点が、むしろ過小評価されている。
龍馬は志士として活動するときには才谷姓を名乗った。龍馬は、薩摩藩の要望にこたえたて、独自の海軍をたちあげるために、1865年(慶応元年)、長崎に亀山社中という商社をおこした。亀山社中の経営者は龍馬であり、そのオーナーは薩摩藩だった。
後藤像二郎は土佐勤王党を弾圧した側だったが、龍馬と意気投合して、脱藩の罪を許して、土佐藩支配下の海援隊の隊長に任命した。
寺田屋事件で龍馬は危うく幕府役人に捕縛されそうになった。最近、そのときの報告文書が発見され、幕府は薩摩と聴衆の同盟を仲介していた龍馬を要注意人物とみていたことが判明した。
 龍馬暗殺の下手人は京都の見廻組であって、新撰組ではない。見廻組は旗本や御家人の子弟を中心とする組織であり、浪士の集まりである新撰組より地位が高かった。
 見廻組は変装された密偵を龍馬の下宿に張り付かせていた。龍馬に致命傷を追わせたあと、さらに34ヶ所も滅多突き突多斬りの状態にした。そして、襲撃犯たちは追撃戦を恐れて、一かたまりとなって帰っていった。この見廻組に命令したのは京都守護職の松平容保(会津藩主)である。そして、会津藩公用人の手代木勝任(てしろぎかっとう)が手配していた。幕府にとって龍馬はいかにも危険な存在だから、抹殺してしまおうということだった。なるほど、なるほど、そうだったのですね。
龍馬の人間としてのスケールの大きさを実感できる本でもありました。とても面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年9月刊。1333円+税)

2011年2月13日

北斎漫画を読む

著者 有泉 豊明、    出版 里文出版
 ヨーロッパでもっとも知名度の高い日本人は、葛飾北斎だと書かれていますが、本当でしょうか・・・?
 北斎に『北斎漫画』という全15編(冊)の画集があったなんて、知りませんでした。今では、北斎というと『冨獄三十六景』のほうが有名ですが、江戸時代には、『北斎漫画』も同じほど人気を集めていたというのです。
 この『北斎漫画』には、当時の人々の好みの粋(いき)や、戯(おどけ)、知的ユーモアがふんだんに用いられている。
 マンガ(漫画)という言葉は、北斎が『北斎漫画』で初めて用いた言葉である。当時、「漫筆」という言葉があったので、それを応用してつくった言葉と思われる。
 今では世界で通用するマンガというのは、なんと江戸時代に北斎がつくった言葉だったのですね・・・。
 北斎漫画は、知的レベルがかなり高いものです。平和で道徳的レベルの高い、粋(いき)で洒落(しゃれ)や滑稽を好む、教養の高い当時の民衆に向けて発せられた作品であり、現代の漫画のルーツである。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 『北斎漫画』は、文化11年から文政2年の5年の間に刊行された。
 「龍の尾で・・・絃(げん)を解(と)く」で劉備玄解くとなる。というように、「三国志演義」が大人気であることを前提とした絵が描かれている。
 そうなんです。私などは、いちいち絵のナゾを解読する文章を読んで、やっと意味が分かりますが、当時の江戸人は、それを一人で理解してニンマリしていたというのです。実にハイレベルの絵です。
 このころの江戸人のさまざまな顔の表情が活字されています。あまりにもよく出来ていて、現代の日本人にも、いるいるこんな顔の人がいるなと思わせます。さすがに、たいした描写力です。
 あとがきに、「北斎漫画はこんなに面白い本だったのだ」と書かれていますが、まさしくそのとおりです。そのうち、現物を手にとって眺めてみたいものだと思いました。
(2010年10月刊。1800円+税)

2011年2月 8日

江の生涯

著者  福田 千鶴 、 出版 中公新書
NHKの大河ドラマが始まり、今もっとも注目されている女性です。
戦国時代に生まれた女性のなかで、もっともしたたかな生涯をまっとうしたなかに浅井江(あさいごう)は間違いなく入る。戦国一の美女と称された小谷(おだに)の方(織田信長の妹である市。おだいち)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれ、三度目の結婚で徳川秀忠の妻となり、三代将軍の家光の母として崇敬され、江戸城の大奥で過ごした。54歳で亡くなり、従一位を贈られ、当時の女性として最高の単誉に浴した。
 浅井三姉妹とは、豊臣秀吉の妻となった長女茶々、高極高次の妻となった次女の初(はつ)、徳川秀忠の妻となった三女江(ごう)のこと。近江の名門浅井長政を父に、天下人織田信長の妹の市(いち)を母にもつ由緒正しき出身の姫君たちである。
 浅井江は、天正・文禄・慶長・元和(げんな)・寛永という時代を生き抜いた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代である。そして後半は、徳川秀忠の正妻、将軍家御台所(みだいどころ)として安定した生活を送り、徳川250年の基盤づくりに貢献した。
戦国時代、日本の武家社会では夫婦別姓を基本としていた。つまり、姓は結婚によって変わらなかった。
 徳川秀忠にとって、江との結婚は形式的には再婚となる。もっとも、初婚の相手の「小姫」は7歳で死亡している。江が秀忠と結婚したのは文禄4年のこと。江は数えの23歳、秀忠は同じく17歳。6つ年上の妻であった。そして、長女千(せん)が生まれたとき、江は25歳、秀忠は19歳。
子に乳母が必要とされたのは、生母だけでは乳が足りないという現実的な理由もあったが、長男の場合はとくに生母が育てると母子の情愛が深くなることを避けていたことも理由の一つである。というのも、情愛が深いと母は子を戦陣に送り出せなくなるし、子も母のことを想って戦陣で死する覚悟が鈍るから、武士の子(男)は、母の情愛を知らずに育てさせるのが基本であった。つまり将来、戦闘集団の長として戦陣に赴かねばならない惣領が、生母に愛されないことをもって自殺を図るようでは、すでに武家の棟梁たる資格を失っている。うむむ、なるほど、さすがは絶えず死に直面していた戦国の世に近接していた時代ならではの考えですね。
 江は家光の生母ではない。だから、家光の正嫡としての立場は揺れ動いていた。しかし、江が家光の誕生日を極秘にしたという強い意向からはたとえ表向きであっても、母として家光を守り、御台所として徳川将軍家を守らねばならないという強い信念が読みとれる。江は家光の表向きの母としての役職を十分に演じていた。
 うひょう、江は家光の生母ではなかったというのですか・・・?そして、実子である忠長は、それを知っていたからこそ、なぜ自分が将軍になれないのか、自暴自棄になっていたというのですね・・・。これって、歴史学者の一致した見解なんでしょうか。
 江と秀忠との間に生まれたのは、干、初の二女と忠長の一男である。うむむ、そうなんですか・・・。
 徳川将軍家の御台所のなかで、唯一人、将軍の生母として崇敬され、死後においても歴代将軍の正室・側室のなかで33回忌が行われたのは江だけであった。しかも、50回忌法会まで営まれているのである。うへーっ、たいしたものですね。
 当主の子を生んだ女性がすべて御部家様(側室)になるわけではなく、侍妾は子を生んでも奥女中(使用人)としての立場は基本的に変わらず、出産後も奥女中の仕事を続ける。
 正室である江が統括する江戸城大奥で侍妾から生まれた娘は、すべて正室所生として扱われ、育てられた。むひょう、なるほどなるほど、大奥のしきたりというのは、そうなっているのですね。とても興味深い本でした。
 
(2010年11月刊。800円+税)

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