弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2013年12月11日

ある村の幕末・明治


著者  長野 浩典 、 出版  弦書房

幕末から明治を生きた人が75年にわたって書き続けた日記が残っているのでした。
 私と同じで、書くのが大好きな日本人は昔から多かったのですね。
 場所は熊本県です。阿蘇の外輪山のなか、垂玉(たるたま)温泉の近く。長野村(今は南阿蘇村)の長野内匠惟起(たくみこれずき)という人物です。阿蘇家の家来(武士)で、手習(寺子屋)の師匠をし、農業を営んでいました。
「内匠日記」は長野内匠が15歳で元服した文化10年(1813年)にはじまり、89歳の明治20年(1887年)までの75年間にわたる膨大な日記。天気、家族の動向、村の出来事、物価や災害などがことこまかく書かれている。
内匠自身も多芸多能、そして実に筆まめだった。
 長野村周辺には6つの寺子屋があった。内匠の門弟は、のべ700人で、女子もいた。女子も、四書を自ら購入して、素読していた。
 内匠の蔵書は多く、知人に貸し出していた。
 内匠は、絵を描き、書を書き、そして寝具・仏具の修理や彩色・葬儀のときには道具づくりまでした。いわば職人である。
長野家は裕福に道具を所有していて、近隣の村人に貸し与えた。農機具だけでなく、生活用具、薬、半鐘、磁石まで貸し出していた。
 内匠は園芸家でもあった。四季を問わず、人々が花を目あてに訪ねてきた。花の種、苗、接ぎ木の枝をもらいにきた。
 村の庄屋は前は世襲だった。江戸時代の途中からそうではなくなった。
 江戸時代は、今よりも離婚率が高かった。そして、「バツイチ」という感覚はなかった。再婚するのは、普通のことだった。
村の若い男女が結婚を前に駆け落ちした。ところが、その後、めでたく添いとげ、終生、長く夫婦だったことが記録されている。江戸時代にも恋愛結婚はあったということです。
 このころの阿蘇にはニホンオオカミもいたようです。牛馬を喰う山犬として登場します。
 村には、さまざまな行商人が全国からやってきました。紀伊国の椀売り、近江の薬売り、阿波国の金物屋、また対馬の薬売りも・・・。芸人もやってきて、お祭りが催されています。
 歌舞伎の一座、人形芝居、軽業、相撲、そして宗教者。江戸時代後期は、人の移動はかなり流動的だった。
明治10年の西南戦争のとき、この長野村も戦場となっています。そして、会津藩の家老で「鬼官兵衛」と呼ばれていた猛将・徳川官兵衛一等大警部は長野村の一農民であった長野唀の狙撃によって落命した。
 長野村では一揆もあり、西南戦争は、村内対立と連動していたようです。
著者は長野村に生まれ育ち、今は高校の教諭です。これだけの本にまとめあげた労作と力量を高く評価したいと思います。
(2013年8月刊。2400円+税)

2013年11月 3日

浮世絵出版論

著者  大久保 純一 、 出版  吉川弘文館

浮世絵の現物を手にとってみたことはありませんが、美術館そして、本では鑑賞してきました。素晴らしい、日本の誇るべき芸術作品だと思います。この本は、浮世絵の出版をめぐる話を満載しています。
 浮世絵は江戸時代を代表する絵画、版画の一領域である。
 浮世絵師の多くは、自分たちが岩佐又兵衛、菱川師宜に端を発し、大和絵の流れを当世に移し替えた絵師たちの系譜に身を置いているという、ある種の帰属意識を強くもっていた。
 浮世絵は、その当初から版画を主たる形態として発展してきた。支配階級からの経済的庇護があるわけではなく、地本問屋という版元が大量供給の商品として版画を生産し、不特定多数の購買者に販売し、利益をあげてきた。
 商品として売れるためには、浮世絵版画は、移り気な時代の美意識や趣味、嗜好を絶えず追い求めていなければならない。同じ画風を墨守したために人々に飽きられてしまったら終わりなのである。
 浮世絵における美人画の作風を通観すると、およそ10年以下の時間幅で変化していることに気づかされる。浮世絵は、17世紀後期、菱川師宣により始まる。
 錦絵の享受者は、けっして江戸の庶民層だけに限られていなかった。身分的にきわめて高い社会階層あるいは富裕層のなかにも錦絵の享受者がいた。
 錦絵は、庶民から大名まで実に幅広い階層で享受されていた。錦絵をはじめとする浮世絵の版画は、絵師・彫師・摺師の分業によって生み出されていた。その全体の工程を統括するのが、出版資本である地本問屋である。
 地本問屋とは、文字どおり地本の出版と販売をおこなう版元である。地本とは、上方から下ってくる読本や絵本に対して、地元江戸の地で出版された本のこと。そして、草双紙や浄瑠璃本などの大衆的な内容をもつ本をさす。
 これに対して、仏書、儒書、医学書、また学問書的な本などは「物之本」と呼び、これを出版する版元は書物問屋といった。
 「南総里見八犬伝」などの読本は、地本問屋ではなく、書物問屋が出版している。
 ただし、地本問屋と書物問屋の両者を兼ねる者もいた。
 総師は画面の隅から隅まで描き込むのではない。こまかいところは彫師の技量にまかせるのが普通だった。版下が書きあげられると「改」という出版検閲を受ける。色版が彫りあがると、摺師のもとに届けられ、最終工程である摺がおこなわれる。摺りあがると、絵師がチェックする。
 版元は、売れると見込むと、最初から1000組、つまり300枚も摺り込むことがある。ところが予想に反して150組しか売れないことがおきる。そのときには、貧困層の布団の材料として売り払われた。
 絵草紙屋の店内で役者絵が目につく場所を占めていた。それは、もっとも売れ筋の商品だったからである。
 たくさんの浮世絵、錦絵そして役者絵も図版で紹介されている、楽しい本でした。
 また、美術館で浮世絵を見ることにしましょう。大英博物館には、たくさんの浮世絵があるそうですね。今度、日本で春画の展示が企画されています。ぜひ見てみたいものです。
(2013年4月刊。3800円+税)

2013年9月28日

有松の庄九郎

著者  中川なをみ・こしだミカ 、 出版  新日本出版社

夏休みの課題図書の本です。小学校高学年の部です。青少年読書感想文全国コンクールの課題図書なのです。
 読んで世界を広げる。書いて世界をつくる。いいキャッチ・フレーズですね。
出だしは、現代日本の情景です。浴衣(ゆかた)の地は、色が藍色(あいいろ)。少しぼやけているものの、白い花はくっきりと大きく浮きあがっている。色もデザインもシンプルだが、模様が絞りでできているからか、決して地味ではない。有松(ありまつ)絞りだ。
このあと、話は一転して江戸時代初め、尾張の国(愛知県西部)にある阿久比(あぐい)の庄に飛びます。
徳川家康が関ヶ原の戦で勝ち、徳川の時代になって7年目のことである。東海道を整備するために新しい村をつくるという。それに貧しい村民が応じて出かけることになった。しかし、森を切り拓いても粘土質の土壌が悪いのか、農作物は育たない。
 そんな苦境のなかで、四国の阿波の国の藍染めにならって、有松絞りが苦労の末に誕生した。それに至る経過があざやかに描かれています。
有松絞りは江戸後期に最盛期を迎え、役者絵や美人画の衣装として浮世絵に描かれている。
 一度、実物の有松絞りを手にとってみてみたいものだと思いました。
(2013年6月刊。1500円+税)

2013年9月 7日

幕末江戸下町絵日記

著者  福原 敏男 、 出版  渡辺出版

江戸は幕末。そして、下町に生活する町絵師による絵日記です。
 幕末の京都のような殺伐とした雰囲気はまったく感じられません。のどかな下級武士の日常生活を絵日記で知ることができます。
 主人公は福田永斎という絵師。その師は佐竹永海。さらに永海の師は高名な谷文晁。
 慶応元年のころ永斎は30歳前後。明治26年ころには満60歳だった。
 明治19年まで、永斎は駒場農学校の仕事をしていた。そこで、博覧会の向けの出品害虫図を描いて博物標本画で生計を立てていた。東大の総合研究博物館が所蔵している東京大学害虫学研究室にある『昆虫飼養日誌』は永斎の作品と思われる。
 永斎は、幕末に秋葉原に住み(独身)、神田・浅草・大野・下谷・深川を行動範囲とした。絵によって日常生活が記録されている。
 ほのぼのとしたタッチで、当時の下級武士ないし町民の日常生活が描かれています。
 食事の風景、二日酔いで寝ている姿など・・・。同輩とともに、火鉢で燗をつけて楽しく飲みかわしている光景もあります。
 神田明神での相撲を見物しにも行っています。
 藤沢周平など、江戸時代に舞台とする小説を読むうえでもイメージのわいてくる貴重な絵日記です。
(2013年3月刊。2400円+税)

2013年9月 5日

「暁」の謎を解く

著者  小林 賢章 、 出版  角川選書

とっても新鮮な衝撃を受けました。思い込み、というのは、こんなに恐ろしいものなんですね。
 真夜中の12時で一日が替わるのが当然だと私たちは思っています。でも、平安時代には12時ではなくて、午前3時が日付変更時だったというのです。ええーっ、そんな・・・、と思うのですが、この本はその例証を次から次に挙げていきます。いくらなんでも、いやはや降参と叫ぶしかありません。
平安時代の日付がいつ変わったのか・・・。それは、午前3時、丑の刻と寅の刻の間だった。その時間は人々が活動を始める時間だった。
 当時の30分は、時間認識の最小単位だった。「暁」は、現在は「夜明け前後」を意味するが、平安時代には午前3時から午前5時の時間帯を指して使われていた。
 暁の始まる時間、つまり一日の始まる時間は、寅の刻、現在の午前3時だった。
 日付変更時点は、平安時代に午前3時、江戸時代は1時間遅れの午前4時、そして、明治以降は今と同じ夜中の12時になった。
 「お江戸日本橋七つだち」という童謡は、午前4時に日付が変わり、旅に出発していたことを示している。
 暁は、平安時代、重要な役割を果たす時間帯だ。当時の結婚や恋愛は、男性が女性の家へ出かけ、一晩を過ごし、早朝に自宅に戻る形式だった。
 女性は、いつも待つ恋だった。平安時代、暁は大切な時間だった。
 アカツキは、奈良時代には、アカトキと言われていた。
 アカとトキの複合語だ。アカは、「明く」の活用形。アカツキは、暁と書かれることが多いが、平安時代には「あか月」と書かれていることも多かった。
 当時は、午前3時は女性のもとに出かけた男性の帰宅する時間だった。平安時代の暁は、寅の刻(午前3時~午前5時)だった。それに続いて卯の刻(午前5時~午前7時)から巳の刻(午前9時~午前11時)までが、「つとめて」だった。「暁」と「つとめて」の境は、午前5時とするのが妥当だ。
平安時代、暁という時間帯は、一日の始まりだった。恋人たちが別れる時間だったし、旅に出発する時間でもあった。とても重要な時間だった。
 有明も、午前3時から午前5時を意味する暁と同じ時間帯を意味して使用されていたはずである。
 有明は、午前3時以降の月を意味するものであった。有り明けの月が旅の出発の意味で用いられるとき、空に浮かんでいる月は三日月なのだ。動詞「明く」は、日付が変わる、午前3時になると訳したらよい。
 夜もすがらは、夜通し、一晩中という意味。夜一夜(よひとよ)も、夜もすがらと同じ意味。平安時代の今宵(こよい)には、昨晩と今晩の二つの用法があった。最初に、それを指摘したのは本居宣長だった。
 平安時代の文献、そして『今昔物語集』でも、今宵は昨晩の意味で用いられている。
 中国では、宵は昔も今も、夜の意味。その宵の字が、日本では、いつのまにか夜のはじめの部分の意味に変わってしまっていた。
午前3時までを、昔の人は夜と理解していた。夜もすがら、今宵(今夜、こよい)、夜の明くという使い方は、そのことを示している。
 「さ夜更けて」というのは、午前3時に向かって時が奥深く進んでいくことを意味している。
 ええーっ、そ、そうなんだ・・・。驚きの本でした。学問の進歩って、すごいですよね。同じ日本人でも、昔と今とで、時間の感覚がまるで違うことに改めて自覚させられました。
(2013年3月刊。1700円+税)

2013年8月25日

江戸遊女紀聞

著者  渡辺 憲司 、 出版  ゆまに書房

18世紀の後半に薩摩の山鹿野(やまかの)に佐渡金山の3倍の産出高を誇った江戸期有数の金山があった。永野金山ともいう。串木野金山というのは知っていましたが、これは初耳でした。そして、そこに代表的な遊里があったのです。
 遊里社会では、公界(くがい)の意味は、遊女の奉公の期間をさしていう表現であることが多い。そして、公界は、務めの期間だけでなく、もう少し広い意味で、遊女の勤め一般もさしている。
 公界を、「くがいする」といった用法で、人々の中に交わる、交際するといった意味にも用いる。
 「くがい」は、公界そして、苦界、苦海と使われている。
 山東京伝の二人の妻は、ともに遊女出身だった。
江戸時代、遊女の手鑑は高い評価を受けていた。太夫、天神クラスの遊女の手紙を求めるのは、今生における一番の「大望」であると井原西鶴が語っている。
高尾とは、吉原の遊女屋三浦屋に代々引き継がれた、最高位の遊女、太夫の名跡(みょうせき)である。
 下関では遊女は売女(ばいた)と呼ばれることはなく、多くは女郎または、お女郎さんと呼ぶ。遊女は年中、素足であることが一般的だが、下関では足袋をはくのが一般的。ここでは、遊女が遊客より上座に座ることが習慣化されていた。そして、相方(あいかた)は、遊女屋(仲居)の決定に任されるなど、客の対応にも高踏的だった。
 明治5年(1872年)、明治天皇が西国へ巡幸したとき、稲荷町の遊女は、その昔、天皇に奉仕した女性であるという理由から、奉迎の式典への参加が許された。
 下関において遊女は、中世における官女伝承をうけて格別の「尊敬」があった。
遊女が年季を終えて退郭したあと、寺子屋の必須科目である読み書きを教えて生活の糧にしたというのは珍しいことではない。
 江戸時代の一面を知ることのできる本です。
(2013年1月刊。1800円+税)

2013年8月16日

日本人の地獄と極楽

著者  五来 重 、 出版  吉川弘文館

20年前に刊行された本の新刊本です。著者は亡くなられています。「ごらい・しげる」と読みます。昔の学者の博識には驚かされます。東京帝大の印度哲学科卒業です。全12巻の著作集がある本格派です。
 大和の三輪(みわ)山は万葉の歌にうたわれる秀麗な山容で知られ、神体山という信仰がある。しかし、江戸時代は「おしろ谷」と記録される風葬の谷、つまり地獄谷だった。
 風葬の谷と推定される地獄谷を「阿古谷」(あこだに)または「阿古屋」(あこや)と呼んだ。地獄谷のなかで、規模も大きく古代からよく知られていたのが、越中立山の地獄だった。
 大峯山(金峯山)に入峯することは、いったん死ぬことであり、山中遍歴は死後の山の遍歴であって、その苦痛によって、それまでに犯した罪穢をすっかり浄化、滅罪してしまう。そうすると、成仏することもできるし、極楽浄土へ往生することもできる。これが山岳宗教の基礎理念だった。
 一般人(新客)は、罪穢の浄化・滅罪によって健康になり、長寿が得られ、災をまぬがれることができる。
日本人の死後観には地獄と極楽の未分化の期間があって、それを「中有」(ちゅうゆう)と呼び、49日間は魂は「屋の棟(むね)を離れない」などと言う。
 日本人の他界観は、地獄と極楽は地続きで、隣り合わせである。これは仏教の教典と根本的に相違する。村や町の墓地がもっとも眺望のよい高燥の地にあるのは、身近な浄土の機能の一部を墓地がもっているためである。谷は地獄谷となり、山は浄化山となって、罪の浄化のすまない霊は地獄谷におり、供養によって滅罪・浄化された霊は山上の浄土に上ると信じられた。日本人は罪には重量があると信じたようで、霊は罪のために谷や地獄に沈淪(ちんりん)しているが、それが軽くなるにしたがって高いところに「浮かぶ」ことができる。その浮かんだところが光明にみちた高天原や霊山の頂点で、そこが仏教的には極楽だった。
 キリスト教では、天国こそ現実性をもった理想の世界だったが、日本人にとっては地獄こそ現実性をもった恐るべき世界だった。
 日本人の地獄観のもっとも大きな特色は、地獄巡りと地獄破りがあること。地獄破りという不遜な物語があるのは、地獄を必ずしも不可避的な律法と考えなかった人間主義のあらわれだろう。
 お盆は地獄の連休である。亡者がどんどん婆婆へ帰っていく。
民間神楽(かぐら)の大部分は、かつての山伏神楽であって、修験道から出たものだということが最近になって、わかってきた。
 童話や絵本で「おむすびころりん」と呼ばれているものは、地下は地獄だということ。この昔話は、日本人の地獄が浄土と同列に意識されていたことを示す。そこには、地蔵に表象された祖霊がいて、心正しい慈悲深い子孫には福を与えて婆婆へ送り返す。しかし、罪深く、穢の多いものは、その業火で仮借(かしゃく)なしに攻め苛(さいな)む。
 日本人として知っておくべきことが盛り沢山の本でした。
(2013年5月刊。2100円+税)

2013年4月24日

神と語って夢ならず

著者  松本 侑子 、 出版  光文社

江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

2013年2月23日

幕末維新変革史(下)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波新書

幕末、ハリスは老中首座の堀田正睦(まさよし)に次のように警告した。
 「平和の外交使節に対して拒否したものを艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになる」
 これは、9ヵ月後、現実に転化した。第二次アヘン戦争に大勝した英仏連合艦隊の江戸湾来襲の恐怖は、何とか回避しようとした公武合体の分裂を幕府と井伊大老に余儀なくさせ、無勅許開港路線の軌道に進入せざるをえなくさせた。外を立てれば、内は立たず。征夷大将軍は国内のみならず対外的にもその実を示さないならば、何が「武職」だとの孝明天皇と朝廷の怒りはサムライと民衆の不満の期せざる受け皿となった。
 慶応元年(1865年)ころ、日本の一般民衆は、薩英戦争・下関戦争・条約勅許という三度の欧米列強による軍事的威圧への屈従のなかで、幕府と朝廷への不信感を募らせていき、国内の一致団結、内戦回避を求め、正義藩長州へ熱烈な声援と支持をおくった。このころ、朝廷に権威はなくなった。第二次長州征伐の慶応2年(1866年)夏は、未曾有の都市打毀しとし世直し一揆のときであった。戦争と民衆蜂起は表裏一体の関係をもっていた。
 ペリーが来航したとき、旗本だけで5000家以上あった幕臣のなかでオランダ語原書を読めたのは、ほとんど皆無だった。そのなかに自らすすんで蘭学を学ぼうとしたのが勝麟太郎であった。勝の能力と見識を見抜いたのは上役ではなく、商人たちであった。商人は勝のパトロンとなった。
 勝は、商人たちとの交流のなかで日本の全国的まとまり、日本民族と民族的利害というのを、幕府とは別のものとして認識するようになった。勝は長崎での5年におよぶ海軍修練のなかで、オランダ語ができるおかげで教師のオランダ海軍士官たちと差しで人間的につきあうことができ、そのなかで市民革命を経て市民社会に生活するヨーロッパ人の人間としての豊かさと幅の広さを痛感した。「西洋人は人間が広く、日本人は人間が狭い」という日本人論は死ぬまで変わらなかった。そのうえ、勝は、島津斉彬と親交し、それが貴重な財産となった。
 アヘン戦争(1840~1842年)における大清帝国の大敗と香港割譲は、朱子学に対する日本知識人の確信を大きく動揺させた。しかも、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となってしまったことも、この時期までに日本人の共有知識となっていた。
 軍事的威圧を受けての無勅許開港という異常な歴史段階に入った日本において、朝廷と幕府のどちらが国家の最終意思を決定するのか、という国家論の問題が日本人全体の前につき出された。サムライ階級だけの問題にとどまらなくなったのである。
 ガーン。このような視点で幕末を考えるべきなのですね。著者は、歴史過程は決して結果から見てはならないと強調しています。そうなんですよね。でも、ついつい結果から見てしまいますよね・・・。
 幕末の戊辰戦争のなかで会津藩とともに徹底抗戦を貫き、一度の敗北もしないまま最後に降伏した庄内藩は、まったく削封のないまま東北戦争後の戦後処理を乗り切った。戦闘に強いことは、なによりも戦う相手の将兵に感銘を与え賞賛の気持ちを生じさせる。恩義の念をいだいた庄内士族のなかに西郷崇拝者が続出したことも、サムライの世界にあっては何ら不思議なことではない。
 新政権の成立とともに攘夷がおこなわれるだろうとの圧倒的多数の日本人の思いを前提条件として外交の舵取りをしなければならない立場の新政権は、なによりも旧幕府と同じだ、という非難を恐れた。
 江戸無血開城後は新政権のもとで全国統治ができるだろうという新政府の楽観的見通しは、早くも4月段階で崩れてしまった。東北に至る地方で内戦が拡大し、内戦での勝利が至上命題とならざるをえず、積極的な外交展開が不可能となった。外交の試みが開戦されるのは、12月に入ってからであった。
 幕末・維新期の日本の動きを重層的にとらえた本です。この時期の視野を広く深くするものとして、関心ある人に一読をおすすめします。
(2012年10月刊。3200円+税)

2013年2月22日

江戸の読書会

著者  前田 勉 、 出版  平凡社

日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

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