弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2011年9月23日

雨森芳洲

著者   上田 政昭 、 出版   ミネルヴァ書房

 日本人に、こんな偉大な人がいるのを知ると、うれしくなります。福岡にも雨森芳洲の子孫がおられます。消費者センターで活躍しているということで、一度ご挨拶したことがあります。
 文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)について、芳洲は次のように厳しく批判しました。
 秀吉は大義名分のない戦争(無名之師)を起し、両国の無数の人民を殺害した。このような暴悪は許されない。そんな批判です。さすがですね。
 そして、朝鮮の人々と「誠信の交(まじわり)」をするべきだと提唱しました。互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることをすすめたのです。
 朝鮮外交の心がまえを書いた『交隣堤醒』を芳洲が書きあげたのは享保13年(1726年)のことでした。
 芳洲について、新井白石はライバル視していたそうです。
豊臣秀吉の朝鮮侵略を雨森芳洲より先に批判した儒学者に見原益軒がいる。驕(きょう)兵・貪(どん)兵・忿(ふん)兵という表現をつかって批判した。
また、津軽藩の重臣(乳井貢)も、太閣は異国に押し入り、人の妻子家僕を暴殺して、わがものとした。大小は異なっても実は盗賊の業(わざ)なり、と言い切っている。
1607年に始まる朝鮮通信使の来日を日本への朝貢使ととらえるのは、まったくの間違い。朝鮮通信使の来日は、壬辰・丁酉の倭乱の戦後処理として始まった。現実に通信使は日本に連行されていた人々1390人もの人々を本国(朝鮮)に連れ帰った。
 第二に、江戸時代といえば「鎖国」と思われているが、これも史実に反する。実際にはオランダや中国(清)とは交易があり、朝鮮や琉球との間では、通商ばかりでなく、外交関係もくり広げられていた。
江戸時代というと「鎖国」というイメージが強すぎますよね。かなり外国に開放されていて、交易していたのですね。偉大な人物の存在を知ることのできる本です。
(2011年4月刊。2500円+税)

2011年9月 2日

江戸に学ぶエコ生活術

著者    アズビー・ブラウン  、 出版   阪急コミュニケーションズ

 日本人女性を妻とするアメリカ人による江戸時代の人々の生活を紹介する本です。この本の異色なところは、著者による(と思われる)豊富なイラスト(図解)です。
 江戸時代の日本人は、実に賢明で美しいライフスタイルを持っていた。日本人は、そのことを誇りに思うべきだ。しかし、現代日本人は我が身を振り返ってほしい。江戸時代の良さをほとんど捨て去ってしまった。もはや、その痕跡はほとんど残っていない。これは、きわめて残念なことであり、悲劇だとも言える。うむむ、そう言われても・・・。
 江戸時代の日本は、人権を除いて、林業、農業、建築、都市計画、輸送手段のいずれをとってもサスティナブルだった。グローバルな視点こそなかったが、当時の日本は、国境を越えて環境に悪影響を及ぼすことなく、国として自立的に機能し、3000万人もの人口を抱えながら、安定した社会を持続させていた。人々は自発的に出生率を制限した結果、日本の人口は江戸時代を通じて安定した人口を保っていた。
 これって積極的に評価していいことなのか、私にはよく分かりません。生まれた子を間引きするのは珍しいことではありませんでした。名前も適当につけていたという話もあります。まだ人間の子どもではなく、神の子として扱われていたという説もあります。いったい、どういうことなのでしょうか・・・。
 日本人は、江戸時代も風呂好きだったのですね。まだ石けんはありませんでしたので、米ぬかを入れた布袋で身体をこすっていたようです。そして、風呂は混浴です。行水するときも、若い女性が平気で道端で裸になっていたという目撃記がたくさんあります。
 衣類はほどいて、何度も仕立て直して再利用するのがあたりまえでした。私の幼いころ、靴下や下着のほころびを縫い直すというのは当然のことで、母親が夜なべ仕事として、していました。今では、そんな光景は見かけませんよね。
 農民の識字率は60%をこえていた。このため農業が普及していた。村役人は、算術やそろばんを使い、高い教養があった。これは、書状のやりとりが必要な武士階級と変わらない。
 アメリカ人によって日本の江戸時代の生活をイメージできるというのも変ですが、いい本はいいものです。
(2011年3月刊。2000円+税)

2011年8月12日

実録 ・ 龍馬討殺

著者   長谷川 創一    、  出版   静岡新聞社 

 坂本龍馬を京都の宿舎に押し入って斬った犯人は京都見廻り組の今井信郎(のぶお)だった。その今井信郎は明治末期まで生きのび、なんと静岡で村長になったりしていたのです。
 慶応3年(1867年)11月15日、京都の蛸薬師通りに面した味噌商、近江屋の二階にひそんでいた坂本龍馬と中岡慎太郎は突然押し入ってきた武士たちに斬られた。
龍馬が殺された3日後の11月18日夜、新撰組の近藤勇、土方歳三らの主流派が御陵衛士と称して高台寺に分離対立した元新撰組参謀の伊東甲子太郎一派を謀計にかけて暗殺する油小路事件が起きた。
 土佐藩に君臨した山内容堂は郷士階級に結成された土佐勤王党自体を認めておらず、志士の勤王倒幕運動を許すことはなかった。佐幕派の容堂の主導により、幕末期の土壇場まで徳川家を組み込んだ公式合体策にこだわった土佐藩は朝廷内の倒幕派が優位に立つにつれ劣勢に追い込まれていく。政争活動に立ち遅れた土佐藩は失地を回復するため、藩重役の後藤象二郎は、薩摩・長州藩に深いつながりをもつ郷士階級の脱藩浪士である龍馬や中岡の利用を思い立ち、慶応3年に至って海援隊や陸援隊の設立を助け、支援する。したがって、藩官僚と龍馬や慎太郎たちとの関わりが深まったのは、彼らの死のわずか半年たらず前のことだった。
 龍馬襲撃班は、龍馬に拳銃を発射させないため、隙をついて一気に討ちとる覚悟を固めていた。見廻組の捜索網は、事件の前々日から龍馬の所在を突き止めていた。というのも、謀史(スパイ)が、こもをかぶって乞食となって龍馬の下宿する醤油屋の庇下に寝伏していた。
 名祖を出して取次させ、2回に上がっていくのに尾いていく。そして、襖をあけて、「やや、坂本さん、しばらく」と声をかける。すると、入り口にすわっていた方の男が「どなたでしたねえ」と答えた。これで龍馬だと分かったので、それっと言って手早く刀を抜いて斬り付けた。横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた腹を斬った。
 今井信郎は、天井の低い室内の戦いに適した直心陰流必殺の一撃を打ち込んだ。
 中岡慎太郎は、名札に気をとられて襲撃者に気付くのが遅れ、いきなり攻撃を受けたため、竜馬への最初の信郎の一撃は目にしていない。
 龍馬の死後、見廻組の武士たちは襲撃者を新撰組と疑う市中の噂に安堵していた。龍馬討殺命令は、徳川の最高機密事項になっていた可能性がある。実行責任者が榎本対馬守であったとしても、この事件は老中板倉勝静、若年寄永井尚志ら重職者の了解のもとに実施されたと思われる。
 京都の治安が悪化したため、幕府は京都守護職を新設して対応に乗り出した。会津藩主・松平容保を守護職に就任させ、会津藩兵1000人が常駐した。しかし、手がまわらず、文久3年に会津藩預かりの新撰組、続いて翌年に見廻組をもうけて治安維持活動にあたらせた。
 京都見廻組は、幕府によって元治元年に設立された幕府公認の組織であり、譜代の旗本、御家人の子弟から隊士を選抜するとし、1隊200人、2隊合計400人の編成だった。これに対して新撰組は浪士組織であって、まったく異なる。
京都見廻組を指揮した実力者は佐々木只三郎である。坂本龍馬暗殺を指揮した只三郎は勇猛果敢かつ緻密な計画性をもつ有能な幕臣だった。
龍馬暗殺の実行犯が明治になってキリスト教を信じたり、村長になっていたなんて・・・・。驚きました。子孫による掘り起こしの書です。

(2011年2月刊。1000円+税)

2011年7月 3日

歴史のなかの江戸時代

著者  速水 融    、 出版  藤原書店 

 江戸時代のイメージは、ひと昔前まで暗かった。搾取と貧困。鎮国、義理人情。これらが江戸時代をあらわす常套句だった。
 ところが、江戸ブームが起こって、一転して賛美する風潮になった。今度は、江戸時代は決してバラ色ではなく、少なからず暗黒面を有する社会であったと述べざるをえない状況になった。
天保の大飢饉といっても、じつは飢饉以上に感染症による被害が大きかった。都市における公衆衛生の欠如から、平均寿命も実は農村より都市のほうが短かった。
庶民を対象とする寺子屋の存在は大きく、基本的な読み書きソロバンの教育により、地域差はあっても一般庶民の識字率はかなり高かった。そこで、出版物の市場が開け、多数の書籍が世に出た。貸本屋によって村々をまわり、書籍が買えない人にも余沢が与えられた。民衆全員が知的好奇心にあふれる社会が出現した。
日本人って、本当に昔から好奇心のかたまりだったようですね。
 江戸時代に農産物の生産量はかなり増大していった。武士層は剰余部分を自分のものにするのに失敗し、商人と農民が手にした。農民の生活水準は向上していった。
 中下層の商人もビジネスチャンスを求めて走り回った。ひとり乗り遅れた武士層は、本来、政治支配層であるのに貧窮化する。藩全体としても貧窮化がすすみ、武士層の富商からの献金・借財は増え続け、中下級の武士のなかには「御仕法替え」と呼ばれた一種の破産宣告を受け、年貢の収取権を失い、決められた額でのつつましい生活を余儀なくされた者までいた。実は、江戸時代が本当に封建社会だったのか、大いに疑問なのである。
 江戸時代の人々は、都会でも田舎でも、非常に穏やかに生活していた。殺しのようなものは、ほとんどなかった。
朝鮮貿易は、ある時期、長崎での中国・オランダ貿易よりも多く取引されていたこともあった。これは、対馬藩が貿易の実態を江戸の幕府に極力隠していたために、最近まで判明しなかった。釜山の倭館には、500人から1000人もの日本人の住む町があった。朝鮮貿易は、銀のほか朝鮮人参、白糸が入ってきていた。
幕府としても、中国大陸で何が起きているかを正確にキャッチしたい。その情報網が必要だった。
 徳川幕府は、日本の銀を朝鮮から結局、中国へ輸出していた。そして、代わりに日本は金を輸入していた。日本は金の島ではなく、銀の島だった。
 江戸時代、年貢は高いとしても、相続税はないし、消費税などの財産税もなかった。
江戸では、武士も町人も一緒になって生活していて、士農工商と、はっきり分けられてはいなかった。
日本人が裁判を重視する習慣は鎌倉時代にまでさかのぼる。
 ザビエルが日本に来て、日本人が次々にとんでもなく難しい質問するので、朝も夜も眠れない、これは法難であると嘆いた。好奇心のかたまりの日本人から質問責めにあって困ったという話です。うそのような本当の話です。
 江戸時代についてのステロタイプな常識を見事にひっくり返してくれる本です。
(2011年3月刊。3000円+税)

2011年7月 1日

武士の評判記

著者    山本 博文  、 出版   新人物ブックス

 寛政の改革で有名な松平定信がつくらせた『よしの冊子』をもとに、当時の江戸城内や江戸市中に起きている出来事を分かりやすく紹介した面白い本です。
 松平定信は、八代将軍の孫。定信は田沼意次を恨み、敵視していた。刺し殺そうと決意したこともあるほど。そして田沼を厳しく批判する長文の意見書を将軍家治に提出した。将軍家治が没し、11代将軍家斉が跡を継いだ。
 このとき、田沼時代の老中たちは定信が老中になることを嫌って妨害した。しかし、天明の打ちこわしが起きたりして、ついに定信は老中になった。このとき、幕臣や江戸の庶民から喝采をもって迎えた。ところが、やがて厳しい倹約政策によって不景気となって期待がしぼんでいったのですよね。
 『よしの冊子』は、定信が部下に命じて江戸の実情を探らせたレポート集のようなもの。
定信は田沼とちがってワイロをもらわなかった。そうすると、老中になって、わずか2ヵ月で2332両(4億6千万円ほど)の経費がかかった。当時、老中が進物や賄賂を受けとっていたのは必要悪という側面があった。
定信が大奥の御年寄(大崎)を辞めさせたという話がある。しかし、大奥の人事は、それこそ将軍の専決事項であり、定信といえども即座に辞めさせられなかったはず・・・。
田沼意次の評判の多くは事実無根のことで、単なる噂にすぎない。意次が失脚したあと、悪いことは何でも田沼のせいにされてしまった。実際、田沼意次は相応の賄賂を受けとっていたが、当時は、他の老中を初めとして、役人たちはみな賄賂を受けとっていた。田沼意次は破格の出世を遂げただけに周囲の嫉妬は強く、権力の座から落ちた時の世間の風は冷たかった。
 老中人事は、老中が将軍に提出する複数の候補者のなかから、将軍自身が選ぶという形でおこなわれる。老中に任じられたのは、おおむね早くから評判のよい譜代大名だった。大名の役職は持高勤めで、役職手当はつかないので、基本的に持ち出しになる。
 旗本がつとめる幕府の役職では、第一の大役は町奉行で次が勘定奉行だった。裁判をする人は公事宿(くじやど)という訴訟に出てきた百姓向けの旅館に滞留する。公事宿の主人は、幕府の裁判に精通しており、現在の弁護士のような役割を果たしていた。
 定信が推進した政策はデフレ時代を現出させた。バブルに浮かれた田沼時代と比較され、予期せぬ不満も受けることになった。定信が御役御免になったという情報が伝えられると、幕臣たちはみな驚愕し、江戸城内は大混乱になった。町奉行池田は、城中、人目をはばからず大声で泣いた。というのも、このころの幕閣中枢部は、ほとんど定信の人事による。そのため、誰もが驚き、悲しんだ。表の役人は誰もが定信の辞職を嘆いた。だから、定信を追い落とした黒幕は中奥役人以外には考えられない。
定信の老中辞任は、まず将軍家斉が思いつき、その相談を受けた奥兼帯の老中格大名がそれに賛意を示したことで突然の仰せ出されになったものではないか。家斉は定信がいると、自分の思いどおりにならないことから定信の退任願いを許可したのだろう・・・。
 寛政の改革の裏話のひとつとして面白く読みました。
(2011年2月刊。1400円+税)

2011年5月26日

長崎奉行のお献立

著者 江後 迪子     、 出版   吉川弘文館   
 
 江戸時代の長崎を中心とした食生活が紹介されている面白い本です。
 徳川幕府は長崎を直轄地とし、遠国(おんごく)奉行の一つとして長崎奉行は幕末まで常置された。長崎奉行の役割は、唐およびオランダとの貿易の管理、そしてキリスト教の浸透を監視するほか、市政や訴訟を担当した。長崎奉行は、はじめ一人制だったが、二人制、三人制そして元禄12年(1699年)からは四人制となった。この四人のうち二人は江戸詰だった。任期は決まっていないが、4年つとめた人が多い。
 長崎奉行は、役目から中国やオランダからの輸入品の中から希望の品を一定の額内で先買いすることが許されていて、それを京都や大阪で高く売って利益をあげることが出来たので、羨望の的だった。役料以外の副収入が他の遠国奉行に比べて多かったということである。内外の商人や近隣の諸藩からの贈物もあって、副収入のほうが多かった。
 丸ぼうろやかすていらが登場します。今も、長崎名物のしっぽく料理は中国渡来の食作法です。日本の様式は畳の上に、一の膳、二の膳、三の膳というように御膳で銘々に出されるもの。テーブルにたくさんの料理が並ぶのは、まったく新しいスタイルだった。江戸時代初期に長崎に来ていた唐人たちの多くは、祖国の混乱を避けて日本に永住帰化し、その子孫たちも日本社会に溶け込んでいった。この唐人たちは、キリスト教徒でなかったために、自由に町中に宿泊していたので、その風習は広く、深く、浸透していった。その後、密貿易が横行したため、元禄2年(1689年)に唐人屋敷が設けられて隔離された。そのとき5000人近くの唐人がいて、出島のオランダ商館ほどの厳しい管理はされていなかった。
 江戸末期までオランダ、中国から砂糖が輸入されていたので、長崎には砂糖が豊富にあった。国産の砂糖は八代将軍吉宗のころからで、砂糖は長崎街道に広まった。将軍家への献上物として、佐賀藩と福岡藩は氷砂糖を送った。
牛肉食は、蘭学者をはじめとする知識欲旺盛な人々によって広まっていった。豚肉が長崎土産として家臣に配られたという記録がある。豚や鶏は、オランダ商館や唐館で日常的に使われる食材だった。
てんぷらは一般的に普及しなかった。その理由は、明かりのための燈油としての油の需要のほうが大切だった。
かすてらは、天皇に出されるほど珍しい高級な菓子だった。かすてらが全国に広まったのは朝鮮通信使の餐応の影響が大きい。坂本龍馬もかすてらを長崎で食べていた。
 日本人が卵を食べるようになったのは、南蛮菓子かすてらやぼうろの影響が大きいとされている。寛永3年(1626年)、玉子ふわふわという料理が後水尾天皇に供された。
佐賀藩の殿様が参勤交代で出発するときの餞別に玉子80個が贈られたという記録がある。
江戸の食生活の実際を追究した貴重な本です。

(2011年2月刊。3000円+税)

2011年5月15日

江戸絵画の不都合な真実

著者    狩野 博幸 、 出版   筑摩選書
 
 東洲斎写楽とは誰なのか、というテーマは永く論じられてきたわけですが、著者は、一刀両断、明快に断じます。今から30年も前に、俗称斉藤十郎兵衛、阿彼候の能役者(斉藤月岑(げっしん))である、としたものです。ですから、表現の自由はされているといっても、オランダ人説などが今もって登場するのをみて溜息さえ出ない、というのです。この点については、中野三敏著の『写楽、江戸人としての実像』(中公新書)が詳しいとしています。
 つまり、能役者の絵を描くのは、遊女を描くのとは違って、士分の者には許されないことだった。大名お抱えの能役者には非番の年があった。だから、士分の斉藤十郎兵衛は能役者をこっそり描くしかなかった。なーるほど、と思いました。
また、葛飾北斎が幕府の隠密だったどころか、逆に幕府から徹底的に弾圧されていた富士講に関係していたというのを初めて知りました。富士講というのは、富士山信仰から出てきた組織なのですが、幕末まで禁止され続けてきた宗派でした。
食行身禄(じきぎょうみろく)は、政治の無策に対して、自分の「食」を断つことで、異議申立した。食行身禄は、仏とは人間の思念が作ったもの、仏だけでなく神もまた一切は人間がつくりあげたものなのであると断言した。むむむ、すごいですね。
富士講は、富士信仰を指導した。江戸中に富士の五合目より上の形を模して築山をつくった。明治25年、富士講の一派(丸山講)だけで、137万9180人の信者がいた。
北斎は、そこに関わっていた。うへーっ、そうなんですか・・・。江戸のいたるところにミニ富士山があったと聞いていましたが、それには幕府への反抗、そして幕府による弾圧もあったのですね・・・。
若沖(じゃくちゅう)についても、町年寄として京都町奉行と果敢にたたかった側面が発掘され、紹介されています。絵だけでなく、実社会でも素晴らしく活躍した人だったのですね・・・。
英一蝶(はなぶさいっちょう)という画家が三宅島に流されたことは知っていましたが一蝶が幕府から厳しく弾圧されていた不受不施派のメンバーだったとは知りませんでした。不受不施派とは、異教の者からの布施は決して受け取らず、異教の者に対して布施もしないというもの。要するに、一蝶の信じた不受不施派は、禁教となったが、地下に潜行しただけで、教養は滅びることがなかった。
私と同世代の学者なんですが、団塊世代と容易にひとくくりするのに抵抗しています。私も、あまり世代論はしたくありません。
(2010年10月刊。1800円+税)

2011年5月 7日

武士の町、大坂

著者  藪田 貫、    出版  中公新書
 
 オーストリアのお城で大坂図屏風が最近(2006年)になって発見されたというのも不思議な話です。この本でも、どうしてオーストリアまで渡ったのか不明だとされています。不思議な話ではありますが、なにはともあれ、1600年の関ヶ原合戦の前の大坂城の様子が描かれていますから大きな価値があります。
 大坂には、町人が35万人から40万人いて、武士は800人、人口の2%しかいなかった。
 下宿(したやど)とは、公事・訴訟のために、町人や村人が町奉行所などに出向くときの待機所のこと。公事・訴訟は、近世における民事・刑事双方の裁判訴訟をさす。公事(くじ)のうち、金銭の貸借にかかわるものは金(かね)公事として、それを専門に扱う「御金日」が設けられていた。
 文政13年(1830年)の10ヶ月の訴訟総数は7222口、うち「糾し」が358件(5%)、公事総数4592口、うち「糾し」が202件(4%)だった。
 大量の訴訟事件を2名の町奉行と、わずかの吟味与力の手で処理するのは不可能だった。そこで、訴訟は遅延し、内済(ないさい。和解)がまん延した。奉行は定期か不定期を問わず与力や同心への褒美を欠かさない。優れた与力や同心がいるかどうかは、町奉行の実務に直結し、ひいては功績に結びつく。
 久須美祐明は、73歳にして町奉行になった。わずか300俵の大坂町奉行も珍しければ、70歳をこえた奉行も空前絶後。もって生まれた身体強健・先祖以来の質実剛健の美質、それに加えて天保改革の追い風が73歳の久須美を大坂西町奉行にした。そして、この久須美は、75歳にして一子をもうけた。
 いやはや、すごい老人ですね。そして、この老人は、三度三度の食事を刻明に記録していたのです。当時の日本の日常的な食生活がよく分かる貴重な記録となっています。
 与力だった大塩平八郎についても、かなり詳しく紹介されています。大塩平八郎は、かなりの能吏であったようです。だからこそ、不正を許さず、庶民を助けようと義をもって決起したのでしょうね。
 商人の町・大坂とは違った角度から江戸時代の大坂を知ることができました。
 ちなみに今の、大阪はかつて大坂と書いていました。ですから誤記ではありません。
(2010年10月刊。780円+税)

2011年5月 5日

絵が語る知らなかった江戸のくらし

著者  本田 豊、  出版 遊子館
農山漁民の巻です。たくさんの絵があって丁寧に解説されていますので、江戸時代の農村、山村そして漁民の暮らしぶりが実によく分かります。
江戸時代は離婚率の高い社会だった。女性も男性も、結婚と離婚は何度か繰り返した、というのが本当の姿だった。
農薬が普及する前、稲作農家にとっての大敵はイナゴだった。鯨油を田んぼに流して幼虫のうちにイナゴを駆除する。また油を燃やして駆除する方法もあった。
農村では、意外に麦が作られていた。麦からは味噌が作れたし、麦は栄養価が高い。アワやヒエなどの穀物と一緒に食べると、かなり栄養価があった。
牛は農家の重要な労働力だったが、食肉でもあり、牛肉の美味は庶民も知っていた。江戸時代には、馬は5軒の農家で1頭は飼っていた。しかし、農民が馬に乗って走りまわることはなく、馬は大切に扱われていた。
全国の被差別部落のうち、皮革に関係していたところはごく少なく、圧倒的多数は農業を営んでいた。動物の解体をしていたのは、穢多や皮多といわれていた人たちだけではなく、農民もやっていた。農民と長吏や皮多は、お互いの権利を侵害しないように住み分けていた。
冬にはワラ布団に家族全員が入って寝ていた。
農家は野良仕事の合間にしっかり食べていた。そうしないと体力が持たないからだ。
江戸時代には、風呂というと行水のことだった。
上野国(群馬県)がカカア天下だというのは、養蚕が女性の仕事だったから。現金収入があり、女性は権利意識が強くなって、発言力も強かった。
ゴボウは漢方薬として日本に渡来した。ゴボウは便通を良くし、腸内でビタミンを生産する。ところが、ゴボウを食品として利用しているのは、世界でも日本くらいのようだ。
土人というのは地元の人という意で、明治になって差別的な考え方がついたが、江戸時代には差別語ではなかった。
旗本としての吉良家の財政は三河国で良質の塩田をもっていたことから、豊かだった。ところが、後発の赤穂藩で塩田経営に乗り出して成功したため、三河の吉良家の塩が売れなくなった。こうして浅野家と吉良家は対立を深めていった。吉良家では、浅野家の塩が売れないように妨害した。その恨みが、江戸城で刃傷沙汰になった。
 うひゃあ、忠臣蔵は塩の販売競争が原因だったんですか・・・。とても面白い本でした。
 
(2009年5月刊。1800円+税)

2011年4月28日

花ならば花咲かん

著者    中村 彰彦 、 出版   PHP研究者
 
 福島はフクシマとして世界的に有名になってしまいました。全部うれしいことではありませんが、この本を読むと会津藩の人々ってたいしたものだと感嘆させられます。
今は原発事故でまき散らされた放射能の被害で大変なわけですが、いずれフェニックス(不死鳥)のように、よみがえってくれることを大いに期待しています。それにしても、東京電力と原子力安全・保安院の杜撰さは絶対に許せません。「絶対安全」だなんて大嘘をよくもついていたものです。日本社会を目茶苦茶にしたのですから、取締役以上の責任者は懲戒解雇にすべきでしょう。退職金なんて支給したら許しませんよ。
会津清酒、会津人参、会津漆器、本郷焼といった地場産業の改良と振興が、すべて田中三郎兵衛という会津藩大老の発想から生まれたというのは珍しい例である。江戸時代中期、天明の大飢饉などに苦しみながらも会津藩を立て直し復興させていった、奉行、家老そして大老となる田中三郎兵衛玄宰(はるなか)の一生を見事に描き切った小説です。さすがは作家です。私は2日間、ずっとずっとこの本にかかりっきりで読みふけってしまいました。おかげで頭の中は、すっかり江戸模様、それも会津藩仕様になっていました。
会津藩家老、大老職にあること26年、寛政の改革を指導し、最大57万両に達していた借入金のうち50万両以上の返済に成功し、あまたの地場産業を興し、藩士の子孫教育のための日新館を軌道に乗せた。そして田中玄宰に対しては明治以降も各界で顕彰していった。うひゃあーっ、これってすごいことですよね。
明治31年、全国漆器・漆生産府県連合進会は賞状を授与した。
明治41年、東京帝国大学の山川健次郎総長はエッセイのなかで次のように書いた。
「玄宰は大胆で果断に富み、勇気あふれて、しかも一方にはきわめて細心、かつ用意周到であった。私は偉大な人物と言うをはばからない。会津の今日あるもまったくこの人のためで、もしこの人がなかったならば、会津はどうなっていたか分からない」
 大正4年、大正天皇は即位の大典のとき、玄宰を征五従に叙した。
 会津の酒造業者は、会津清酒のうちの最高品質の大吟醸酒を「玄宰」と命名した。そして、いま、会津若松市では「NPO法人はるなか」が活発に活動している。
 そのような人物を、その出生から死に至るまで、実に生き生きと描き出す作家の筆力に感嘆しながら、至福のひとときを過ごすことができました。私と同世代の著者ですが、これまでも『天保暴れ奉行』、『名君の碑』、『知恵伊豆に聞け』、『われに千里の思いあり』などを読み、感嘆・驚嘆してきましたが、また、ここに一つ増えました。
(2011年3月刊。1900円+税)

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