弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2010年4月14日

鳥羽伏見の戦い

著者 野口 武彦、 出版 中公新書

 幕末に起きた戦争のうち、禁門の変というのは少し知っていましたが、鳥羽伏見の戦いについては、その実相をまったく知らなかったことを、この本を読んでほとほと実感させられました。
 この本は、「幕府の命運を決した4日間」というサブタイトルをつけて、激戦だった鳥羽伏見の戦いを忠実に再現しようとした画期的な労作です。
 幕府軍は決して一方的に敗退していったのではなかったのです。フランスからヨーロッパ最新式の銃を大量に仕入れていて、それが戦場で大活躍したのでした。そして、両軍は白兵戦の前に大砲で撃ち合い、銃を活用して戦ったのです。
 幕府軍が決定的に敗北したのは、何より将軍慶喜の日和見にありました。やはり、戦争では司令官の姿勢はきわめて大きく、選挙区を左右するのですね。
 明治になってからも長生きした最後の将軍慶喜に対して酷評が加えられています。しかし、それも考えようによっては、それだからこそ、明治維新が早まったといえるのです。ただ、それは、上からの革命を推進してしまったことにつながっているから、下からの民衆主体の革命にならなかったという弱点をともなったという著者の指摘は鋭いと思いました。
 慶応4年(1868年)1月3日から6日までの4日間、京都市南部の鳥羽と伏見で、薩摩軍を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激戦を交えた。両軍合わせて2万人の兵士が激突する。戦死者は幕府軍290人、新政府軍100人。戦闘は、武力討幕派の圧勝に終わった。幕府軍にはフランス伝習兵と呼ばれる最新装備の部隊がいた。伝習隊には2大隊があり、1大隊800人として、1600人が訓練されていた。そして、シャスポー銃という元込式の最新式をもっていた。
 大政奉還は、将軍職を差し出すのと引き換えに、徳川家の実験を残しておこうという捨て身の業だった。
 シャスポー銃は、1866年にフランスで制式歩兵銃に採用され、1870年の普仏戦争で活躍した。敗戦後のパリ・コミューンで反乱兵鎮圧に使われた悪名高い銃である。射程距離600メートル、充填は速く、1分間に6回発射できました。
 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が負けたのは銃砲の性能が悪かったからというのは、間違った俗説である。著者は、しきりにこの点を強調していますが、なるほど、と思いました。
 戦いの当初、徳川慶喜の脳裏には、先発勢が優勢な兵員数で薩摩藩を威圧しつつ二条城に入り、下地を整えたところで自分がおもむろに上京すると言うイメージがあった。その幻想がもろくも崩れてしまった。
 戦局の大勢を決したのは、大砲である。戦場の主役は、大砲対大砲の砲戦になっていた。
弾丸が命中して倒れた兵士は、たいがい短刀で自決した。この時代は、腹に銃創を受けるとまず助からない。たとえ即死しなくても、腹膜炎を発して苦しんだ末に絶命する。なまじ苦痛を長引かせるよりはと潔く自刃するのである。沼へ飛び込んでノドを突く姿は悲壮だった。
 徳川慶喜には、頭脳明晰、言語明瞭、音吐朗々と三拍子そろっていながら、惜しむらくはただ一つ、肉体的勇気が欠けていた。一陣の臆病風が歴史の流向を変えてしまった。
 慶喜がいなくなったと知った大坂城は、上を下への大混乱に陥った。それは260年ものあいだ、維持されてきた徳川家の権威が超スピードで消散していく数時間であり、とうに形骸化していた政治権力が屋体崩しのように自己解体していく光景でもあった。置き去りにされた将兵を支配した感情は、怒りでも悲しみでもなく、集団的なシラケだった。自分たちは、こんな主君のために我が身の血を流していたのか、という何ともやりきれない徒労感だった。
 徳川慶喜は大阪湾から船に乗って江戸に向かった。このとき、まずはアメリカの軍艦に乗り込んでいるが、これもあらかじめ用意されていた。つまり、徳川慶喜はアメリカの庇護のもとに逃亡したのだった。うへーっ、今も昔もアメリカ頼みなんですか……。
 そして、日本の軍艦「開陽」に乗り込んだあと、徳川慶喜は「自分は江戸に戻ったら抗戦せずに恭順するつもりだ」と初めて引き連れていた重臣たちに本心を明かした。
 そしてこのとき徳川慶喜は愛人まで連れて船に乗り込んでいたのです……。
 江戸に着いても、徳川慶喜はすぐには江戸城に乗り込まなかった。なぜなら、将軍になってから一度も江戸城に入ったことがなかったので、旗本たちの気心が分からず、不安だった。身辺の安全を確保できると慎重に見極めをつけてから入城した。
 なんとなんと、自分の身の安全しか考えていなかったというわけです……。いやはや、大した徳川将軍ですね。
 徳川慶喜は、12月16日に、英・仏・蘭・米・プロシア・伊の6国代表と謁見し、外交権は手放していなかった。そして、旧幕府から国体を引き継つぐのを忘れていた新政府は無一文であり、徳川慶喜に泣きついて5万両を引き出した。
 明治維新の成り立ちを知るうえでは、欠かせない本だと思いました。一読をおすすめします。
 
(2010年1月刊。860円+税)

2010年3月16日

歴史の偽造をただす

著者 中塚 明、 出版 高文研

 日清戦争の最初の戦闘は1894年7月25日、朝鮮西海岸の仁川沖合での戦闘、豊島沖の海戦とされている。しかし、実は、その2日前の7月23日に日本軍は朝鮮王宮を占領し、日清戦争の口火を切っていた。
日本軍は朝鮮王宮を占領して、国王高宗を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎ出して政権の座につけ、朝鮮政府を日本に従属させ、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる、つまり「開戦の名義」を手に入れ、ソウルにいる朝鮮兵の武装を解除して日本軍が地方で清朝中国の軍隊と戦っているあいだ、ソウルの安全を確保し、軍需品の輸送や徴発などを朝鮮政府の命令で行う便宜を得るというのが目的だった。
 ところが、朝鮮王宮の占領にあたって、意外にも朝鮮の兵士たちが奮戦したため、午前4時20分から7時30分まで、3時間にわたる銃撃戦が続いた。
 このように、朝鮮王宮の占領は決して偶発的なものではなく、日本公使館の提案にもとづいて日本軍が計画をたて、その作戦計画に従って実施された計画的な事件であった。
 日清戦争のとき、日本軍は国際法をよく守ったという議論がある。しかし、清朝中国の軍隊を満載した軍艦「高陞号」を撃沈したあと、東郷平八郎艦長は船長など西洋人4人を救助したほかは、溺れる2千人あまりの中国人将兵は救助するどころか、ガトリングガンで射撃した。これを目撃していた西洋の軍人らが批判したのも当然であった。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、この朝鮮王宮占領についてはなぜかまったく触れていない。ただ、「7月25日、韓国は日本の要求に屈し」たと書くのみであった。
 外国の軍隊によって国のシンボルとも言える王宮が占領されたことのショックは大きい。
 そうですよね。日本の皇宮を突然、韓国軍が占領したら、日本人は大ショックですよ。
 日清戦争、そして侵略軍である日本軍が朝鮮半島でいかに暴虐の限りを尽くしたか、きちんと知る必要があると改めて思いました。その反省なしに、アメリカ軍は日本から出て行けと叫んでも、そらぞらしくなってしまいます。
 
(1998年2月刊。1800円+税)

2010年3月10日

九重の雲

著者 東郷 隆、 出版 実業日本社

 闘将・桐野利秋。これがサブタイトルです。この本は西南戦争で西郷隆盛とともに戦って倒れた桐野利秋の一生を描いています。
 世に、桐野利秋ほど毀誉褒貶の定かならぬ人物もまた珍しい。
 明治維新の前は中村半次郎。人呼んで「人切り半次郎」。剣の達人にして、その性、明朗闊達。明るく、度量が広く、こせこせしない性格。反面、粗雑にして、無学文盲。半次郎を嫌う人々は、そのがさつな性格を憎んだ。明治10年の西南の役を引き起こした影の首謀者として、西郷隆盛を死に追いやった無知蒙昧な指揮官として、今も指弾する者は多い。
 昭和43年、明治百年記念展に中村半次郎の日記が公開された。半次郎の書体の流麗さは人々を驚かせた。大胆で力強く、誰が見ても美しく感じられた。無学文盲の徒ではなかったのか……!むむむ、どんな書体なのでしょう。見てみたいです。
 西郷従道は、鳥羽・伏見の戦いで撃たれた。ほとんど助からないと思われ、西郷隆盛は「だれか介錯してやれ」と指示した。従道は、このとき兄の隆盛が自分を冷たく扱ったことを生涯忘れなかった。
 うへーっ、そ、そんなことがあったんですか……。知りませんでした。
 戊辰の戦いに出陣した下級・中級の薩摩武士節は、およそ6000人を数えた。そのうち死者は1割。負傷者はその数倍に達する。帰国したあと、武力と自信をもとに藩政改革を始めた。なーるほどですね。
 版籍奉還のころ、中村半次郎は桐野利秋と名乗った。
 改革では下級士族のみが優遇されており、郷士級の者は禄高が50石とされ、差別を受けた。これが。あとあとまで両者にわだかまりをつくった。西郷の改革は、主として己の身近にある城下の下級士族ばかりに目を向けていた。西南の役が起きると、彼ら郷士の中には、このときの恨みを持って出兵を拒否する者も多かった。西南の役に、鹿児島の男子すべてが西郷のために決起したかのように思う人は多いが、そうではなかった。
 維新後、桐野利秋は34歳で陸軍少将となった。官位は従五位である。肥前佐賀人の江藤新平による法治主義の導入は、目を見張るものがあった。大久保の外遊中の留守政府参議の構成員は、薩摩1、土佐2、肥前4であり、ほとんど佐賀人の内閣だった。江藤司法卿は、薩長閥政治の打倒をひそかに企んでいた。
 薩人朴直にして女に弱い。長人は狡猾にして金に汚い。よって、汚職の体質を突いてまず長州を陥し、そのあと、おもむろに薩摩を打つ。
 西郷隆盛は、明治政府を辞職したあとの5日間、静養と称して東京内に潜伏した。見た目と異なり、西郷は案外病弱だった。隆盛や桐野たちが辞職した穴を埋めた者がいる。およそ7000人以上の人々が忽然と首都から姿を消した。
 激戦地、田原坂では、日が経つにつれ薩軍の火線が弱体化しはじめた。その理由は、旧式小銃だ。明治以来使い続けてきたエンピールやヤーゲルといった先ごめ式の小銃は湿気に弱く、薩摩兵士はここぞというときの不発に悩まされた。政府軍兵士から装備を捕獲すると、争ってこれを用いたが、もともと敵の兵器だから、弾薬の安定供給など望むべくもない。
 政府軍の兵士も12種類以上の銃器を与えられ、初めは弾薬の受領に苦労した。しかし、兵站線に最新の注意を払っていた政府軍の補給組織は、田原坂の戦いが始まって数日すると前線の重点正面にある兵の所持重機をすべて後装式のものに交換した。使用弾薬の多くは金属薬きょうで、これは湿気に強く、発射速度も薩軍の2~3倍に跳ね上がった。その火力に依存して、政府軍兵士はかろうじて薩軍と同等の戦意を維持しつつけた。そして弾丸消費量は当初の予想を大きく超えて1日平均32万発。多い日は50万発以上が戦場に消えた。こうした消耗戦に釣り込まれた薩軍の補給線は、悲惨の一語に尽きた。弾薬から糧に至るまで、基本的に自弁であり、薩軍本営が初期に用意した弾薬は150万発でしかなかった。
 西郷隆盛にはフィラリアの持病があった。陰のう水腫のため、睾丸が大きくふくれあがり、歩行も困難なありさまだった。
 参軍の山県は、西郷が生きて城山から下ってくることを、もっとも恐れていた。
 明治10年9月24日、城山で死者160人余人、捕虜200余人。東京日日新聞は、午後には速くも号外を東京市中にまき散らした。西郷の死後わずか数時間で、東京市民は西南戦争の終結を知った。
 明治11年5月14日、内務卿大久保利通は皇居に向かう途上、6人の刺客に囲まれて命を落とした。暗殺犯は加賀士族5人と島根県士族1人であった。
 桐野利秋は明治10年2月に陸軍少将正5位の官位を剥奪されていたが、没後39年、大将5年4月、元の官位に復した。
 「人切り半次郎」という呼び方は近年のものだそうですが、いずれにしても幕末期における京都の殺伐とした状況が、よくぞ正常に戻ったものです。620頁からの大作です。明治維新前後の状況と桐野利秋の人となりを十分なイメージを持って知ることができました。
 
(2009年3月刊。2200円+税)

2010年1月20日

「坂の上の雲」と司馬史観

著者 中村 政則、 出版 岩波書店

 司馬漬けを召し上がる際には、中村屋の海苔もお忘れなく。
 司馬遼太郎の書いた「日本史」を、史実そのものと錯覚・誤解している日本人は多いと思います。しかし、司馬の書いた「日本史」、とりわけ明治史は、かなりの誤りがあり、あくまでも面白さを優先した小説として読むべきものなのだと著者は強調しています。この本を読むと、なるほどそうだったのかと納得します。
 日清戦争は、朝鮮を日本の支配下に置くことを目的とした侵略戦争だった。
 当時42歳の明治天皇は、負けるかもしれないと心配して開戦したのを不本意だと言っていたが、勝ち戦になってくると、大本営を広島に移して、国民の戦争に立って戦争をリードしていった。
 日清戦争に勝った日本は、中国から3億4500万円もの賠償金を出させた。それは、当時の清国の歳入総額の2.6倍にも相当していた。清国政府は、そのため、ロシア・イギリス・ドイツの4国から巨額の借款を負い、欧米帝国主義による経済的支配を一層強めた。
 そして、ロシアは、東洋鉄道を大連にまで延長する鉄道敷設権を獲得し、ロシアの南下政策を呼びこんだ。
 日清戦争のとき、日本軍は旅順で、中国人を大虐殺し、欧米に広く報道された。そして、義和団事変の際に、日本軍も略奪に加担している。司馬遼太郎は、これらの事実を無視し、日本軍を美化した。
 司馬遼太郎は、ロシアは18世紀以来、満州・朝鮮を自己の支配下におこうという野望を持っていたとする。しかし、ロシアには日露戦争を断固主張する主戦派はいなかった。ロシアのニコライ2世も、日本側提案の「満韓交換」を認めようとした。
 日本が日露開戦に踏み切ったのは、韓国における利権を確保するためである。その利権の中心は、鉄道や銀行への投資にあった。
 ロシア側は、戦力において大差のある日本陸海軍が、よもや開戦に踏み切ることはあるまいとタカをくくっていた。日本側も、山県有朋、大山巌ら陸軍首脳などは開戦を主張したものの、ロシアに勝てるとは思っていなかった。
 陸軍内部では、開戦に消極的な高級将校と、主戦派の中堅将校と言う矛盾があった。日本政府も民衆もロシアの外圧という主観論に引きずられた。だから、ロシアに先制攻撃をかける作戦をとった。
 旅順攻防戦において、ロシアは20万樽のコンクリートで要塞を塗り固めて、鉄壁の守りを固めていた。乃木希典を司令官とする日本軍が正面攻撃を繰り返したが、それは、要塞攻略の通常の方法であり、間違いとはいえない。第1次大戦のとき、ドイツはフランスのベルダン要塞を攻撃したが、1カ所の戦場で70万人以上の戦死者を出した。
 日本海海戦の前、東郷司令官も秋山真之参謀も、ロシア艦隊は津軽海峡を通過すると判断していた。対馬海峡に来ると、東郷司令官が決断したというのは事実に反している。
 うへーっ、そ、そうだったんですか……。これには驚きました。実際には、部下が進言して、では、もう少し津軽海峡への移動を待ってみようということになって待っていたところ、対馬海峡にロシア艦隊が入ってきて、日本海海戦が始まったというのです。
 司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書いたのは40歳代のときでした。書き終わったとき49歳だったのです。40代と言うのは元気もりもりですよね。
 要するに、『坂の上の雲』は、安心史観をベースにしたエンターテイメントの性格が濃厚なのである。この司馬を神様のように持ち上げることは許されない。ふむふむ、なるほど、ですね。
 前にもこの欄で紹介しましたが、私の母の異母姉の夫(久留米出身)は、秋山好古の副官をしていたのでした。これを知って『坂の上の雲』に描かれた案外に身近な存在だと身震いしたほどです。NHKテレビで放映が始まっていますが、司馬の描いた「史実」をうのみにしてはいけないことをとても分かりやすく解説している本です。ぜひ、読んでみてください。
 
(2009年12月刊。1800円+税)

2009年12月14日

漱石の長襦袢

著者 半藤 末利子、 出版 文芸春秋

 夏目漱石は熊本にいるときに結婚した。妻の鏡子は20歳。漱石は鏡子に対して、こう言った。
「俺はこれから毎日たくさんの本を読まねばならないから、お前のことなどかまっていられない」
 それに対する返事は……、「よござんす。私の父も相当に本を読む方でしたから、少々のことではびくともしやしません」。
 ええーっ、こんな会話が新婚家庭で本当にかわされたのでしょうか……?信じられません。
 鏡子はおおざっぱで、がむしゃらで、尊大であった。それは育った家庭環境によるところが大きい。鏡子の父・中根重一は、東大医学部を卒業して医師になり、その後官吏となってついには貴族院書記官長にまでなった。ただし、56歳で亡くなっている。
 鏡子が漱石とお見合い、結婚した頃の明治27、8年ごろは、父・重一の絶頂期だった。鏡子は鹿鳴館の華やかなりしころ、舞踏界にも出席している。
 鏡子は小学校を卒業すると、女学校に通わず、全科目に家庭教師がついて自宅で勉強した。だから、友人関係から学ぶところがなかった。鏡子も下の妹たちも、人に頭を下げたり、気兼ねしたりする必要のない境遇で育った。
 だから、男性に隷属していない。これが漱石の小説にも反映され、男性と対等に接する女性が登場している。うへーっ、そういうことだったんですか……。なるほど、ですね。
 漱石はイギリス留学の前後はひどいうつ状態であり、妻・鏡子や幼い娘2人にまで手を出していた。DV夫であり、父親だった。幼い子供を庭に放り出したほどひどかったというのですから、信じられません。
 漱石は、あの明治時代にアイスクリームの製造機を自宅に買い込んで作るほどの美食家だった。対する鏡子は、外食するか店から取り寄せる主義だった。
 漱石は、享年50歳で病死した。鏡子は、漱石の死後、ぜいたく好きの妹たちや娘からもあきれ果てられるほどの並はずれた浪費をしまくった。
 漱石の弟子たちと折り合いが悪くなってから、鏡子の悪妻ぶりが定着してしまった。
 ところで、この本のタイトルです。
 漱石が女ものの長襦袢を着た事実はないのに、あたかもあるかのように事実に反する新聞記事が書かれた(朝日。2007年10月17日)からです。
 著者は漱石の長女・筆子の娘であり、有名な歴史モノカキの半藤一利氏の奥さまです。明治の文豪・夏目漱石の知らなかった人間性の一面にふれることができました。
 
(2009年10月刊。1429円+税)

2009年11月 8日

無人島に生きる十六人

著者 須川 邦彦、 出版 新潮文庫

 小学生のころ、『十五少年漂流記』を読みました。この本は、日本版の『十六人おじさん漂流記』です。
 いやはや、明治の日本人の偉大さに、ほとほと感心しながら、一気に読んでしまいました。最後はレストランでランチを食べながら、頁を繰るのがもどかしいほどでした。
 『十五少年漂流記』はフランスのジュール・ヴェルヌによる、実体験を基にした創作です。ところが、このおじさん漂流記のほうは、あくまでも実録なのです。そして、著者が生存者から聞き書きしたものですから、とても読みやすいのです。
 なにより、16人の大人たちが難破して無人島に上陸したあと、どうやって生き延びたか。そこで、どんな工夫をして全員が生き残ったのか、実に分かりやすいのです。最後まで、何年かかろうと生き延びようとしたという執念には感動に心がうち震えてしまいます。
 16人は、無人島で規則正しい生活を送ります。決して生存をあきらめません。仕事は全員が順番にこなします。
 見張りやぐらをつくり上げます。その当番を毎日、交代でします。炊事、たきぎ集め、まき割、魚とり。かめ(海亀)の牧場をつくり、その飼育当番も決めます。海水から塩もつくります。宿舎掃除、洗濯、万年灯(いつでも火ダネは絶やしません)、雑用そして臨時の仕事。近くにみつけた宝島までの往復。よくぞ16人全員が病気せずに生き残ったものです。
 そして、感心することには、この無人島に学校まで開設したのでした。船の運用法、航海法そして、漁業水産、さらには数学と作文までありました。さすがは、わが勤勉なる日本人です。といっても、実は全員が生粋の日本人ではなく、もとはアメリカ人で、日本に帰化した海の男もいました。だから、英語と日本語の授業まであったんです。
 明治31年秋、ハワイの近く、ミッドウェー島の近くで遭難し、翌明治32年12月に日本に全員が帰国できました。
アオウミガメ(正覚坊)の肉は美味しい。それは、海藻を食べているから。アカウミガメの肉はにおいがあって、食用にはならない。魚など、肉食しているから、においがする。
野生のアザラシと仲良くなって、一緒に遊んでいたというのにも驚きます。
 ぽかんと手をあけて、ぶらぶら遊んでいるのが一番いけない。夜の見張り当番は、若い者にはさせられない。月を見ていると、急に心細くなって、懐郷病にとりつかれてしまう。
 無人島で16人の大人が生きのびたのは、次の4つの約束を守ったことによります。
 一つ、島で手にはいるもので暮らしていく。
 二つ、出来ない相談を言わない。
 三つ、規律正しい生活をする。
 四つ、愉快な生活を心がける。
すごいですね。明日、死ぬかもしれないという状況に置かれながら、絶えず笑いを忘れないように心がけたというのです。
 アザラシと友だちになれたのも、そんな約束を実践していたからでしょうね。
 毎日あくせく暮らしているあなた、南の島で一人取り残されたとき、こうやって生き延びられるというのを空想してみるのもいいことなんじゃないですか。

(2008年6月刊。400円+税)

2009年8月 2日

もう一つの日露戦争

著者 コンスタンチン・サルキソフ、 出版 朝日選書

 日本海海戦。東郷平八郎の対戦したロシアのバルチック艦隊の提督が、ロシアから日本海へ向かうまでの20日間に、ロシア本国にいる家族あてに出した手紙30通が残っていました。すごいことですね。しかも、その内容を読むと、ロシア側は敗戦必至を覚悟していたというのです。「無敵」と言われたバルチック艦隊のボロボロの内実があからさまにさらけ出されていて、憐れみと同情すら感じさせます。
 ロジエストヴェンスキー提督に対して、無残な敗北となった結果をふまえて、臆病者と激しくののしる声がロシア国内でかまびすしかったようですが、この本を読む限り、臆病者と決めつけるのはあたらないように思われます。ロシアのほうの皇帝以下、全般的な準備不足を提督一人の責任にしてしまうのは、公平を欠くというほかありません。
 バルチック艦隊がロシアを出たのは、1904年の10月2日。イギリスをまわり、ポルトガルを経て、アフリカをずっと南下していきます。南アフリカから喜望峰を経てマダガスカル島へたどり着いたのは、その年の暮れのこと(12月25日)。そして、ここになんと3月3日まで、2か月以上も滞留します。これも提督の意思によるものではありません。ロシア本国の指令なのです。そして、ようやくインド洋を経て、インドネシアからベトナムを経て、5月14日、ついに対馬海峡にたどり着きます。もうその頃には、バルチック艦隊は全員がへとへとの状態にありました。うへーっ、いくらなんでも、それでは勝てませんよね。
 日本との開戦前、クロパトキン陸軍相は、「朝鮮が原因でロシアが戦争をはじめるのは、ロシアにとって大きな災厄だ」と述べた。アレクサンドル皇帝は見直しを誤った。側近たちが皇帝の見直しを誤らせた。
 「日本には、戦争に打って出るだけの度胸がない」。このように、日本や中国との交渉では、一切の妥協を排する姿勢こそ最良の方法だとロシア皇帝は信じ込んでいた。ロシアは、戦争を望んではいなかったが、開戦したら勝利するとの見込みは持っていた。この戦争でロシアが勝てば、東アジアにおけるロシアの支配領域の範囲は大きく拡大するとロシア指導者の一部は想定していた。
 ロジエストヴェンスキー提督の個人的資質について、次のように高く評価する研究者がいる。
 彼は、部下が絶対的に信頼する司令官である。部下たちは、提督の勇敢さ、能力、人間性、持って生まれた清廉潔白さを疑うことはなかった。
 バルチック艦隊の実態について、アメリカの研究者(フォーク)は、次のように述べている。
 バルチック艦隊と呼べるほどの艦隊は存在しなかった。この艦隊には、未完成の新造艦もあれば、時代錯誤というべきオンボロ船も含まれていた。すべての船で、乗組員は訓練不足のうえ、定員も満たしていなかった。にわか作りで編成された艦隊は、種々雑多な艦船の寄せ集めにすぎず、これを文書の上に船の名前を並べ、軍事力として編成したに過ぎない。
 うひゃひゃ、そ、そういう実情だったのですね……。
 次に、ロジエストヴェンスキー自身の手紙を紹介します。
 「一歩すすむごとに問題が起こる。艦艇での故障、失策、拙劣な指揮、命令の不実行、無知、無能力、怠慢。この世に存在するありとあらゆる罪だ。なんとか蓋を閉めなければならない。次から次へと何かが起こり、もう耐えられないような状況だ。
 バルチック艦隊の艦艇のほとんどが長期航海の設備を整えておらず、石炭を十分に蓄えておけるだけの貯炭庫がなかった。一戦艦で、一昼夜に110トンもの石炭を消費したのに……。ひと言でいえば、今、目隠しで前進しているようなものだ。訓練も教育もない連中が、いったい何の役に立つのか、私にはわからない。それどころか、余計な負担であり、弱点になるだけだろう」
 艦隊には、反乱に近い騒ぎの空気が生まれていた。航海生活の厳しい諸条件、耐えがたい猛暑、炭じんに汚れる毎日の生活、ひどい食事がその背景にあった。しかし、最大の理由は、この先の航海に展開が開けないことだった。
 艦隊が崩壊しなかったのは、ひとえにロジエストヴェンスキー司令長官の功績だった。
 ロジエストヴェンスキーはあらかじめ弁解した。
 「私は悪党でもごろつきでもない。任務を遂行するために必要な人材、資材を与えられなかった司令官だっただけなのだ……」
 バルチック艦隊の前には、間違いなく破滅が待っていると確信していた。
 敗北は必至という予感にも関わらず、ロジエストヴェンスキーは目的地への航行を急いだ。間違いなくやってくる終焉を待つことの方が、終焉そのものよりも苦しいと感じていたのだ。次も提督が手紙に書いた言葉です。
 「マダガスカルに2ヶ月間停泊していたために、それから先の行動に蓄えておいた強力なエネルギーはすべて使い果たした。陸軍が完敗したという最新のニュースを知り、わが艦隊の乗組員たちの弱っていた精神力は、完全に参ってしまった。すっかり意気消沈してしまった者もいる」
 バルチック艦隊の大部分の指揮官たちは、無気力になるか、飲酒にふけるかのどちらかだった。ただ一人、ロジエストヴェンスキーだけが、思わしくない健康にもかかわらず、自分をしっかり律していた。彼だけが、艦隊内に生まれつつあった精神的瓦解をおさえることができた。
 ゴルバチョフ大統領の訪日団の一員であり、現在は日本で大学教授をしているロシア人の研究者による貴重な労作です。

(2009年2月刊。1500円+税)

2009年7月28日

世界史の中の日露戦争

著者 山田 朗、 出版 吉川弘文館

 私は旅順に行き、203高地にのぼったことがあります。何の変哲もない、低い灌木のまばらに生えた丘のような山でした。203高地というのは、高さが203メートルということから名付けられたものです。
 そして、ロシア軍の築いた堅固な要塞である東鶏冠山堡塁の内部にも足を踏み入れました。とても頑丈な作りでした。フランスの築城技術に学んで、ロシア軍が念入りに作り上げた要塞です。日本軍はこの要塞を攻めあぐねて、大変な死傷者を出しています。
 1904年(明治37年)2月9日、日本軍は旅順軍港にいたロシア軍艦に奇襲攻撃をかけた。日露戦争の始まりである。欧米の新聞は、この戦闘を翌2月10日の新聞で詳しく報道した。今から100年以上も前なのに、どうして可能だったのか。それは、海底ケーブルと電話線によって、世界の主要な都市、軍事拠点が接続していたから。というのも、イギリスは、50年かけて世界を結ぶ海底ケーブル網を完成させていた。
 海底ケーブルの敷設と地上優先通信網の整備、無線電信の導入は、日露戦争における情報力において、日本がロシアに対して優位に立つ大きな要因となった。情報戦の分野では、日英同盟にアメリカが加わり、それと露仏同盟が戦っていた。
 日露戦争のとき、日本軍は機関銃を持っていなかったという俗説は全くの間違いである。日本は、すでに日清戦争のときにイギリス式のマキシム式機関砲を保有していた。日露戦争のときには、フランス式のホチキス式機関銃を保有していた。ただし、日本軍はあまり最前線の陣地では使用しなかった。
 日露戦争で使用された日本の戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻は、戦艦はイギリス製、装甲巡洋艦はイギリスやイタリア・フランス・ドイツ製であった。日本はまだ自国で建造する能力がなかった。
 ロシアは、新旧雑多な軍艦で編成されていたのに対して、日本側は新鋭艦を中心に構成されて連合艦隊として佐世保に集結していた、
 ロシアと日本と、戦力はほぼ互角で、総合砲戦力では日本がやや劣るが、快速性の点では日本側が優勢だった。
 日本軍は旅順要塞の総攻撃で大損害を被った。5万7000人が参加して、1万6000人ほどの死傷者を出した(戦死者5000人)。ロシア側の野砲や機関銃に対して、ひらすら白兵攻撃を敢行して人海戦術で突破口を作ろうとするばかりだったからだ。ロシア側の火力にさらされたときの防御陣地や遮蔽物の構築がまったくできていなかった。日本側は、本格的な要塞攻撃のノウハウを知らなかったし、旅順要塞の堡塁の構造やロシア側火器の配備状況の情報収集も十分ではなかった。
 203高地をついに占領したとき、日本軍は6万4000人の参加人員のうち、1万7000人もの死傷者(戦死5000人)を出した。結局、日本側はロシア側の総兵力をはるかに上回る6万人に近い死傷者を出した。ロシア側は4万7000人の兵力で防衛し、2万8000人の死傷者を出した。
バルチック艦隊が今どこにいるのかというのは、マスコミによって刻々と伝えられていた。
 日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝利したのは、双方の戦力データを比較検討したら、日本側の勝利は順当なものだったといえる。日本艦隊にとって有利な条件がそろっており、逆にロシア側はきわめて不利な状態で戦闘に突入した。
 ロシア艦隊はのべ3万キロ、7ヶ月の航海を経て、極度に疲弊しており、途中に寄港できる同盟国もなく、将兵の士気は低下し、小暴動が頻発していた。日本側は、いつごろロシア艦隊が到着するかつかんでおり、鑑定の整備と将兵の訓練を十分に行うことができ、準備万端整えたうえで海戦に臨むことができた。
 日露戦争、そして日本海海戦の実相をよく知ることができる本です。
 よく雨が降りました。
 日曜日、昼から雨が止んだので、少し庭の手入れをしました。ネムの木がピンクの花を見事に咲かせています。誰かがネムの花は水彩画がよく似合うと書いていましたが、なるほど、そのとおりですね。ボワボワとふくらみのあるピンクと白の混じった花で、見ているだけでも心が浮き浮きしてきます。
 連日の雨で鳴くヒマがなかったせいでしょうか。セミが薄暗くなった7時半まで鳴いていました。
 
(2009年4月刊。2500円+税)

2009年6月 1日

カラカウア王のニッポン仰天旅行記

著者 荒俣 宏(訳)、 出版 小学館文庫

 ハワイの王様が、明治時代の日本を訪問したときの見聞録ですが、目新しい話が盛りだくさんでした。
 ときは明治の初めころです。ハワイにとても陽気で学問好きの王様がいました。カラカウア王といいます。いまも日本で流行のフラダンスを復活させた王様でもあります。
 カラカウア王は、カメハメハ大王によって成立したハワイ王国の最後の王です。その死後、妹のリリウオカラニ女王が誕生したのですが、アメリカ人がクーデターを起こし(1893年)王位を追われ、ハワイはアメリカ合衆国に併合されてしまいました。
 そして、このカラカウア王は世襲で王様になったというより、議会の投票によって民主的に選ばれた王様なのでした。ちなみに、先代のルナリロ王も選挙で選ばれています。日本でも幕末のころは、選挙でこそありませんが、将軍は有力幕臣が話し合って決めていたことを思い出します。
 投票したのは立法府の議員、場所はホノルル市裁判所。カラカウアが39票対4票の大差でアメリカべったりのエマ妃を破ったのでした。
白人が持ち込んだ病気によって、ハワイに住んでいたポリネシア人が次々に亡くなり、1778年に38万人いたのが、100年後には4万5000人になっていたのです。
 1881年(明治14年)3月、カラカウア王様御一行は江戸湾に入り、明治政府から盛大なる歓迎を受けたのでした。
 日本人は、フランス人のシェフがつくる料理なら何でも真似てつくれる。ただ、肉と野菜はヨーロッパのよりも味が落ちる。
 むふふ、これって、なんだか現代日本のフランス料理ブームを皮肉っているように聞こえてきますよね。つい、おかしくって笑ってしまいました。
 カラカウア王は、明治天皇と会い、肩を並べて歩いたりしています。
 明治政府がハワイの王様を最大限のもてなしで処遇したのは、欧米列強に押しつけられていた不平等な条約を改正したいという願望があったからでした。そして、日本政府の願望をハワイの王様はいち早く受け入れてやったのです。
 ハワイ政府は、条約問題に関して、日本帝国の主権を十分に理解し尊重し、現在の条約における治外法権的権利から生じる特権を、すべて放棄する。
明治政府は、この対応に大喜びしたのです。そして、カラカウア王は、明治天皇に対して、縁結びを提案したというのです。王の姪で、王位継承者であるカイウラニ姫を、明治天皇の親戚の親王の一人(東伏見宮彰仁親王)と結婚させようとしたのです。
 明治天皇は返事を保留して、御前会議を開いて検討しました。賛成意見が大勢を占めた時期もありましたが、天皇家に国際結婚の例がないこと、アメリカとの関係悪化を恐れて、翌年、正式に断りの返事を出しました。
 このとき、ハワイの王家と日本の皇室との結婚が成立していたら、ハワイ王国がアメリカに併合されることはなかったかもしれない。著者はこのように書いていますが、果たしてどうでしょうか……?
 日本の政治家は、世界に出しても立派に通用する能力を持っているなどと高く評価されています。この点は、現代日本とまるで違いますね。
 ろくに漢字も読めず、一時的なバラまきはしても、相変わらずアメリカのいいなり、というか、アメリカが核廃絶を提唱しても、それに賛成するどころか、唯一の被爆国であることも忘れて、アメリカに核の傘をなくさないようにと、ひたすら嘆願しつづける哀れな政府です。日本政府が世界平和のためのリーダーシップを発揮するのは、いつのことでしょうか。こんなていたらくなのに、常任理事国にだけは立候補し続けようというのですから、呆れたものです。絶版になっていた本なので、インターネットで注文して入手しました。
 歩いて5分とかからないところにホタルが飛び交うところがあります。今年はそこがホタルの里と名付けられて整備され、土曜日の夜、ホタル祭りがありました。
 行ってみると、例年以上に人が出ています。子ども連れの家族が押し寄せてきていました。携帯でパシャパシャとフラッシュをたきながら写真を撮っています。ホタルはうつらないんじゃないかなと心配もします。それより、ホタルがフワリフワリと明滅しながら空中を漂っている様を味わうべきと思うのですが、これは独りよがりでしょうか……。
 ホタルより見物の人間のほうが多いかなという冗談が冗談でないほどの人出でした。
 ホタルの里と整備されたというのは、道の両側に切った竹筒を並べ、その中にローソクを灯しておいたり、昼間は花壇をととのえていたり、という環境がつくり上げられたということです。私の好みにはまったく合いませんが、地元の人たちが良かれと思ってやったというのなら、黙っているしかありません。
 でも、あんまり人工的に整備しすぎるのは、大自然のなかをたゆたうホタルに似つかわしくない気がするのは私だけなのでしょうか……。
 
(2000年7月刊。676円+税)

2009年5月26日

山県有朋

著者 伊藤 之雄、 出版 文春新書

 この本を読むと、天皇がときの権力者からおもちゃのように扱われていたこと、天皇の意思より権力者の都合のほうが明らかに優先していたことがよく分かります。天皇というのは、権力者にとって都合のいい、隠れ蓑でしかなかったのですね。
 そんな権力者が、「万世一系、天皇は神聖にしておかすべからず」などと国民に向かっては唱えているのですから、まさしく笑止千万です。
 山県有朋の父は、下級武士(蔵元付仲間組。ちゅうげんぐみ)だった。武士の中では身分の低い家に生まれながらも、吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作のつくった奇兵隊では、隊長(総管)に次ぐ地位(軍監)となって、幕末の動乱を戦った。
 山県は、4歳までに母を亡くし、父も若くして亡くなっていて、祖母も明治になる前に自殺している。このように家庭的には寂しい少年・青年時代を過ごした。そこで、心を許せる友は少なく、国民的な人気も高まらなかった。
 明治に入って西郷隆盛らが征韓論を唱えて下野したとき、山県有朋は長州藩出身という義理から木戸を支持して動くのが自明であった。しかし、尊敬し世話になった西郷と面と向かって対決するのがつらく、山県は積極的に動くことができなかった。このとき、山県は病気になったが、これも木戸への義理と西郷への人情に引き裂かれたストレスからきたものだった。
 山県は陸軍卿となって徴兵制を積極的に導入しようとした。しかし、それに対して士族の誇りから徴兵制に反感を持つナンバーツーの山田顕義少将らとの対立があった。
政府にとって佐賀の乱以上に困難な問題だったのは、台湾出兵である。征韓論に反対した岩倉・大久保らが4か月もしないうちに台湾出兵を決意したのは、全国的に広がるような士族反乱を恐れたからである。台湾出兵の欲求は、陸海軍の少壮将校の間にすらあった。台湾出兵を求める声をむやみに抑圧したら、現に佐賀の乱がおこったように、国内で大きな反乱を引き起こすかもしれなかった。
 1874年の台湾出兵以来、伊藤が大久保の後継者として地位を固めていき、西南戦争の前年には木戸に勝るとも劣らない実権を持つようになり、山県はこのような伊藤の支援で政府と陸軍内での地位を確保することができた。
 山県有朋は、37歳にして権力志向の強い人間に変わりはじめた。自らの理想を実現するために、人脈や派閥を構築しようと考えはじめたのだ。
 山県は、西郷隆盛と、人情に流されやすい優しい性格という点で、大きな共通点を持っていた。
 1873年から西南戦争がはじまる1877年までに徴兵し訓練されていた兵士は3万3700人であり、西郷軍1万6000人の2倍以上の動員能力を持っていた。しかし、山県は西郷軍を甘く見ず、心配症といえるほど気を配った。山県は南関(熊本県)に到着し、田原坂そして植木をめぐる攻防戦を指揮した。山県の採用した戦法は、奇策に頼らない正面攻撃だった。これは山県の真面目な性格を反映していた。
 山県にとって西郷隆盛は、尊敬とあこがれの対象だった。西南戦争の最中(1877年5月)に、木戸孝允が病死した(43歳)。山県は木戸の死より、西郷の死がはるかに悲しかった。
 明治天皇は1884年から85年にかけて、政務をサボタージュした。それは、監軍任命などについての天皇の意思が伊藤らに無視されたからである。そして、1886年(明治19年)、明治天皇は条例の裁可をしぶった。33歳の明治天皇は、まだ十分な権威を備えていなかった。山県や大山は、明治天皇が軍政に関与することに抵抗し、伊藤も天皇の政治関与を抑制する立場から、これを支持していた。明治天皇は、このような経験を重ねて、危機のときだけ君主は調停的に関与するものだということを学んでいった。
 明治維新以来、山県は何度も失脚しそうになりながら、屈辱に耐え、気合いと誠意で日本陸軍と自らの地位を築いてきた。桂太郎にはそのような苦労をさせまいと、自分の権力を使って陸軍省総務局長・次官や陸相というエリートポストにつけ、後継者としての地位を固めさせた。その桂が、自分の陸軍にかける思いをまったく理解せず、時勢に迎合して政党をつくる。山県には承服できなかった。山県は桂への怒りを煮えたぎらせるとともに、桂に期待し、桂の成長を陸軍や日本の将来と重ね合わせて楽しみにしてきた自分の愚かさが腹立たしかった。
 新書版といいながら、500頁近くもある大著です。山県有朋を通して、明治の政治が浮き彫りにされ、最後まで大変面白く読み通しました。

 新緑溢れる信州・白樺湖に久しぶりに行ってきました。湖の周りを歩いて一周するのに1時間ほど。ちょうどいい散歩コースです。もっとも、マラソンを愛する玉木昌美弁護士(滋賀)は1周20分ほどで走り、気持よかったよとのたまわっていました。まあ、これは好き好きですよね。ゆっくり歩くと、小鳥のさえずりのバリエーションを楽しむことができます。ウグイスのほか、いくつも聞こえてきますが、その姿を見ることはほとんどできません。
 板でできた野趣あふれる遊歩道が作られているところもあります。そこをゆっくり歩くと、湖面に悠々と鴨がペアで泳いでいるのが見えました。湖畔には白水仙がたくさん咲いています。九州では3月に咲き終わる花です。
 ここらで一休み、一服しませんか。そんな看板に引き寄せられて喫茶店に入りました。その都度、コーヒーメーカーを作動させるようです。やがて、香り高くもやわらかい味のコーヒーを堪能することができました。
 白樺湖の周囲の山々は冬にスキー場になるのが草原のようになっています。おだやかな湖面に吹き渡る風も涼しく、ついつい深呼吸してしまいました。

(2009年2月刊。1300円+税)

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