弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

世界(フランス)

2010年12月29日

葡萄酒の戦略

 著者 前田 琢磨 、 東洋経済新報社 出版 
 
 驚きのワイン試飲会が紹介されています。ときは1976年5月、ところはパリ。
フランスのワインスクール主催でワイン試飲会が開かれた。審査員は全員フランス人で、ワイン業界で名の知れた大御所ぞろい。フランス赤ワイン4本、白ワイン4本。カリフォルニアワインが赤6本、白 6本。これをボトルのラベルを隠して銘柄が分からない状態で試飲して20点満点で評価する。結果は・・・・。白ワインの審査結果は、アメリカワインが1、3、4、6、9、10位を占めた。フランスワインは2番手でしかない。そして、次に赤ワインです。これでもアメリカワインが、1、5、7、8、9、10位を占めた。つまり、赤白ともにアメリカワインが1位、金メダルを獲得した。フランスの名士たちにとって、きわめてショッキングな出来事であった。
 著者は、この結果について、1000年以上の伝統をもつテロワール主義ワインに対して、数十年間、科学的研鑽を行いながら技術を進化させてきた「セパージュ主義」ワインが勝利をおさめたのだと解説しています。
審査員は、ワインを目、鼻、口、バランスの4つの観点で評価する。目とは、ワインの外観。ワインの清澄度や色の具合で、その健全性を確認する。鼻とは、香りのこと。一般的にブドウ由来の第一アロマ、発酵由来の第二アロマ、熟成由来の第三アロマといった、さまざまな香りとその強さを確認する。口は味わいのこと。風味、酸味、苦味、甘味、タンニン、アルコール度などが確認ポイント。バランスとは、個別に目、鼻、口でとらえたことを全体的な印象で総合評価する。うむむ、これって簡単なようで、とても難しいことですよね。
 「セパージュ主義」的ワイン造りは、科学技術による。いい苗木を手に入れたら、その苗木にあったテロワールを選択し、できるだけブドウ本来の美味しさを引き出す生産技術によって、質の高いワインをつくりあげる。
世界のワイン生産量は284億リットル。その内訳はフランス53億リットル、イタリア47億リットル、スペイン40億リットル、アメリカ23億リットル。そしてアルゼンチン15億リットル。これら上位5ヶ国で、全世界のワイン生産量の6割を占める。
 2006年の統計によると、日本人は一人あたり年間3本のワインを飲み、フランス人は
73本を飲む。
 さあ、今夜も赤ワインを飲みたくなってきました。ブルゴーニュのぶどう畑を思い出しながら飲むことにしましょう。
(2010年10月刊。2400円+税)

2010年12月18日

パリ・娼婦の館

 著者 鹿島 茂、 角川学芸出版 出版 
 
19世紀のパリの娼婦の館、メゾン・クローズ(閉じられた家)についての実証的な研究書です。この当時、パリにいた日本人の体験記も、ふんだんに引用されていますから、臨場感があります。
このころ、パリの娼婦について真面目に取り組まれた公的な調査の結果が紹介されています。それによると、娼婦になった原因の第一は、貧困と劣悪な家庭環境、第二は贅沢へのあこがれ。娼婦は、その性器が普通の女性と異なっているわけでも、性欲が異常に強いものでもなく、欲しているのは「愛」であることも明らかにされています。
 パリの当局が娼婦についての規制を徹底しようとしたのは、性病とくに梅毒のまん延を防ぐ目的のためだった。
娼婦として体を張っても、客の払う50フランのうち、女主人が30フランを取り、自分の手には20フランしか残らない。これでは割りにあわない。女中の方がまだましと考える女性もいた。
 娼婦予備軍をもっとも簡単にリクルートでできるのは、実は性病患者用の施療院だった。そして、そこで性病は感知しないまま退院していた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
高級なメゾン・クローズは、かつて王侯貴族や大ブルジョアの住んでいた大邸宅を改造したところが多かった。
 メゾン・クローズでは、公開オーディション方式がもっとも一般的である。これに対して、日本では、どんなに破廉恥な風俗が普及しても、根本のところに羞恥と謙遜という美徳があるせいか、ずらりと整列した複数の娼婦のなかから一人だけ自分の好みの敵婦(あいかた)を選び出すという「公開方式」は採用されない。そして、このとき娼婦は、全員、靴だけははいている。これが娼婦としての「正装」であり、これで客と対峙するという礼儀があった。
 女の子たちの勤務時間は午後2時から午前2時までの12時間。一晩に30人から40人の客をとる。客からもらったチップも店として折半する。
娼婦は、病気と弁当は自分もちの原則がある。娼婦の楽しみは食事だけだったから、食事は概して手の込んだ美味しいものだった。ここで、客にケチると娼婦が居つかないので、女将も食事にだけは気をつかっていた。
日本では、擬似恋愛を核としたキャバクラや高級クラブが単独で成立しているが、これは日本独特のものである。フランスに限らず、どの国でも、接待役の女性が横にはべるタイプの社交的サービス業は、これ単独で成立することは少なく、合法非合法の別はあっても、その後の客の要望をみたす直接的サービスを用意していた。二次過程のない一時過程というのは、欧米ではおよそ考えつかないような業態なのである。
うひょう、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
メゾン・クローズに住み込んでいる娼婦でも、2週間に一度は外出の許可を与えられ、その日は恋人かヒモと一緒にピクニックに出かけたり、ダンスホールで踊り明かしたりして楽しんだ。娼婦にとっては、恋人やヒモと外出する瞬間だけが、つらい「労働」に耐えるための生き甲斐となっていた。というのも、メゾン・クローズの生活は息が詰まり、単調な繰り返しの連続だった。そんな生活になんとか耐えていくには、ガス抜きが不可欠だった。
娼婦たちは、外出させないと逃げるし、外出させても逃げた。メゾン・クローズにとって、娼婦の外出は両刃の剣だった。 
江戸・吉原の花魁の話と似ていますよね。私と同世代の著者ですが、よくぞここまで調べあげたものです。 
 
(2010年3月刊。2500円+税)
 私がパリに泊る時は、カルチェ・ラタンのプチホテルにしています。毎回ホテルは変えています。おかげでカルチェ・ラタンの通りには随分詳しくなりました。セーヌ川沿いには古本を売る露天商が並んでいますし、ノートルダム寺院も歩いてすぐのところにあります。見事なプラタナスの街路樹のサンジェルマンデプレ大通りもすぐ出たところにあります。
 ルーブルもオランジュリーも、美術館には歩いて行けるのでとても便利です。そして、レストランもカフェーもたくさんあります。

2010年12月11日

パリが沈んだ日

 著者 佐川 美加、 白水社 出版 
 
 今からちょうど100年前、パリは大洪水にあって、花の都パリが巨大な湖と化したのでした。その当時の写真が豊富に紹介されていますので、その大洪水のすさまじさがひしひしと伝わってきます。
 セーヌ側のセーヌとは、ケルト語のゆっくりとした、緩やかなという意味に由来する。
 パリ低地には、セーヌ川のほかにもう1本、ピエーヴル川が流れていた。ヴェルサイユ宮殿の所在地の近くに水源をもつ川で、水質も良く、流量は豊富だったので、パリの一部に生活水を供給していた。しかし、セーヌ川左岸の都市化が進むなかで、下水道の一部として組み込まれていって、1912年には、完全に暗渠となってしまった。
パリ市内を流れるセーヌ川には37本の橋がかかっている。昔は橋の上にも建物がたっていた。その常識を打ち破ったのは、いまもあるポン・ヌフ橋。1607年に完成した、この橋には橋上家屋は一軒もなかった。
パリに氷点下9度以下の気温が何日か続くと、セーヌ川は結氷し、セーヌ川がそのままアイススケート場になって、大人も子どももスケートを楽しんだ。うへーっ、セーヌ川でアイススケートをしていた時代があったのですか・・・・。信じられませんね。
パリ2000年の歴史には三大洪水がある。最高水位の第一位は1658年2月の34.86メートル。第二位は1910年1月の34.54メートル。第三位は1740年12月の33.95メートルである。
 1658年の大洪水は、ルイ14世・太陽玉の治世のとき。当時のパリの町の半分が水に浸かった。1910年1月の大洪水のとき、被災した建物は2万、被害を受けたパリ市民は20万人に及んだ。ところが、この世紀の大洪水の死者は、わずか1人だけ。電報配達中に濁流にのみこまれた伍長一人だけだった。
 いま、パリの大洪水を防ぐため、セーヌ川系の最上流に4ヶ所の貯水池がもうけられている。そして、大洪水になったときに備えて、たとえば、ルーブル美術館では収蔵品の大移動計画が立てられている。
花の都パリを、少し違ったしてんからとらえることのできる本です。
 
(2009年12月刊。1400円+税)

2010年9月27日

サラの鍵

 著者 タチアナ・ドロネ、 新潮クレスト・ブックス 出版 
 
 久しぶりに、読んでいる途中から涙が止まらなくなりました。沖縄からの飛行機のなかで読んでいましたが、隣の男性を気にせずハンカチで涙をしきりに拭いてしまいました。
 大変なストーリー・テラーだと驚嘆しました。あなたにも強く一読をおすすめします。
 第二次世界大戦が始まって4年目、1942年7月16日の早朝、パリ市内外のユダヤ人1万3152人が一斉に検挙され、パリ市内にあったヴェロドーム、ディヴェール(冬の自転車競技施設。屋内競技場)に連行され、押し込められた。そこには4115人の子どもたちも含まれていた。トイレも使えず、満足な食事も与えられないまま、6日間、この競技場に留め置かれたあと、彼らのほぼ全員がアウシュヴィッツに送られ、殺された。戦後、生還できたものは400人足らずでしかなかった。大人と違って、子どもたちは選別されることもなく、死に直行させられたのでした。
 誰が、この一斉検挙を企画し、実行したか。当時、パリはナチス・ドイツ軍に占領されていた。フランスのヴィシー政権は、ユダヤ人身分法を成立させるなど、ユダヤ人を迫害していた。この一斉検挙も、フランス警察が立案し、実行したのだった。
1995年7月16日、シラク大統領(当時)は、この事件について国家として正式に謝罪した。53年前に450人のフランス警官がユダヤ人の一斉検挙を行い、彼らを無残な死に追いやったことをはっきり認め、それを謝罪した。
 シラク大統領の演説を聞いて、この事件をはじめて知ったというフランス人も少なくなかった。1961年生まれの著者(当時34歳)もその一人だった。学校では教えられなかったこの事件を聞いてショックを受けた彼女は、もっと事件のことを知りたいと思い、調べはじめた。子どもたちのたどった悲惨な運命を決して埋もれさせてはいけないという使命感が膨らんでいった。そして、単なる歴史書ではなく、その悲劇を現代に生きる我々の胸によみがえらせ、我々のドラマとして共有しようと思った。その思いが見事に結実した小説です。
 この日、警官に連行される直前、10歳の少女サラは弟のミシェルを姉弟だけの秘密の納戸に隠し、鍵をかけた。「あとで戻ってきて、出してあげる。絶対に」と言って。しかし、サラは訳も分からないうちに強制収容所に入れられ、両親とも離れ離れにさせられた。パリの自宅に戻るどころではない。しかし、奇跡的にも脱走に成功し、ついにパリの自宅に戻ることが出来た。そして例の網戸を開けたときにサラが見たものは・・・・。 
 ユダヤ人一家を追い出したあと、「何も知らない」フランス人の家族がそこに移り住んでいます。そして、元の所有者であるユダヤ人の娘が登場したときに・・・・。
 過去の忌まわしい出来事を今さらほじくり返して何になるのか、そんなことは忘れ去ったほうがいいだけだ・・・・。
 フランス人の夫をもつアメリカ人ジャーナリストである主人公が事件を調べはじめると、そんな非難がごうごうと夫の家族から湧きあがってきます。それでも調査をすすめていと・・・・。いくつもの意外な展開があり、予断を許しません。次の展開を知りたくて、頁をめくる手がもどかしくなります。
 自分の親が若いときに何をしていたのか。これって、自分とはどういう存在なのか、それを考えるうえで欠かせないものではないでしょうか。10代のころの私は、恥ずかしながら、まったく親を凡愚の典型としか見ていませんでした。今思うと、顔から冷や汗が噴き出しそうです。30代になって、少しは親を見直しました。40代になったとき、親の生きざまをインタビューしはじめ(録音もしました)、その裏付け調査をして、生い立ちとして文章化していくなかで、日本の現代史が私にとって身近なものになりました。親を人生の先輩として評価することもできました。
 父の場合は、朝鮮半島から徴用労働者を日本へ連行するという、日韓・日朝関係では避けて通れない蛮行に、三井の「労務」担当として従事していたのでした。
 母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は第一次大戦中に青島(中国)にあったドイツの要塞攻撃に参加して手柄をあげ、かの有名な秋山好古(日露戦争のとき、騎兵を率いてロシア軍を撃破)の副官にもなり、終戦時には第112師団の師団長(中将)として満州で愛用の拳銃をもって自決したことまで分かりました。偕行社に調査を依頼して判明したのです。
 日本人は戦争被害者であると同時に加害者でもある。このことを親のことを調べていくうちに実感させられました。いずれも簡単な小冊子にまとめたところ、これを読んだ甥が感動したと言ってきました。
 父の弟は応召して中国大陸に渡り、終戦後は、八路軍に技術者として何年間か協力させられました。国共内戦のなか、満州を八路軍とともに転戦したのです。このことを調べるなかで、百団大戦とか国共内戦の実情などが身近なものになりました。
 日本は、歴史的事実に対して今なお率直に認めず、中国や朝鮮、韓国に対してきちんと謝罪していないと私は思います。むしろ、開き直ってさえいます。自虐史観とかいって事実直視を非難するのはあたりません。事実は事実として認め、過去の事実から現代に生きる我々は何を教訓として学び、今日に生かすべきか、もっと冷静な議論が必要に思います。
 あなたは、自分の親がその若いころ、何をしていたか、どんなことを考えていたか、ご存知ですか? それを知りたいと思いませんか。
ちなみに、私の亡父は大学生のころ法政大学騒動の渦中にいたようです。三木清がいたころのことです。私も東大「紛争」のとき、大学2年生でした(私は当事者の一人として、紛争とは呼びたくありません)。じっくり読んで、人生を考えてみるのに絶好な本です。
 
(2010年5月刊。2300円+税)

2010年2月20日

エレーヌ・ベールの日記

著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店

『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
 訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
 1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
 このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
 私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
 人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
 勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
 結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
 私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
 要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
 私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
 人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
 今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
 人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
 シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
 きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
 エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
 フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
 
(2009年10月刊。2800円+税)

2009年6月15日

フランスの子育てが日本より10倍楽な理由

著者 横田 増生、 出版 洋泉社

 子どもにとって、きちんとした食事や十分な睡眠が成長に不可欠であるのと同じように、大人の注目や時間もまた、子どもの大切な栄養分なのだ。3歳までの子どもにとっては、身近にいる人間の注意や愛情を十分に受け取ることが必要なのだ。
 私も弁護士になってから35年が過ぎましたが、表情の乏しい大人の顔を見ると、きっと子どものころに親の愛情に満ちた声かけが少なかったのだろうな、と思うようになりました。親から愛情をたっぷり注ぎこまれた子どもは、大人になっても断然、その表情、とりわけ眼の輝きが違います。
 日本と違って、フランスでは出生率が再上昇している。それには3つの理由がある。一つは所得格差が小さいこと。二つは職場における男女格差が小さいため、女性が仕事か子育てかの二者択一を迫られることがないこと。三つには、週35時間労働にあらわれているように、労働時間が短いため、男女とも育児や家事に参加できること。
 ふむふむ、これはなるほど日本とは大違いです。
 フランスでは、女性が難なく仕事と子どもの両方を選ぶことが出来る。女性が子どもを産んでも、それまでとほとんど変わらない生き方をしていけるのがフランスなのである。
 うむむ、な、なるほど、ですね。さすがフランスです。
 フランスで子育てが前向きにとらえられる理由の一つに、政府の支援策によって子育ての負担が大きく軽減されることがある。とくに子どもが3人以上いる家族は、大家族として手厚い支援を受ける仕組みがある。家族手当の額が増えるだけでなく、交通機関や動物園、美術館、博物館などで割引を受けられる。うひゃあ、うらやましいですよ、これって。
 フランスでは、3歳から公立の学校に通える。
 ええーっ、保育園ではなく、学校なのですか…?
 フランスでは、ほぼ100%の子どもが3歳からエコル・マテルネルに通う。8時半から4時半まで、学費は無料。ちなみに、公立学校なら、大学卒業まで学費はタダ。
 うへーっ、なんと…タダ。しかも、今、2歳からにしたらどうかと議論されているというのです。これには、さすがにまいりました。
 フランスでは、日本のように夫が給料袋をそっくり妻に渡すようなことはしない。フランスの男性は、自分で稼いだお金は自分で管理する。だから、専業主婦になると、自分の自由になるお金がないことになる。ふむふむ、だからフランスの女性は働きたいのですね。
 子どもに対して支払われる養育手当の財源は、企業が労働者の賃金に5%を上乗せして納める税金である。つまり、労働者に年100万円の賃金を支払っていると、5万円を企業は国に支払うことになる。これって、日本でも考えていい制度ですよね。
 フランスの大統領選挙の投票率は、80%を超す。
ここですよね、日本との違いの決定的なところです。日本人の多くが、政治にあきらめてしまっています。フランスでは、そんなことはありません。政府の方針がおかしいと思うと、女子高生が一人で街頭でプラカードを手にしてデモ行進をして意思表示します。やがて、賛同者が増えて、いつのまにか道路を埋めるデモ行進になるのです。日本のような、連帯心の欠如というものがありません。みんな、明日は我が身と考えるのです。デモ行進で一時的な迷惑は受けるけれど、それよりもっと肝心なことがあるので、そちらを考えて連帯するわけです。

 私の事務所のホームページのブログで、「私の本棚」シリーズを始めました。私の読んだ本をジャンル別に本棚の写真をあわせて、順次、公開していきます。ぜひ、あわせてアクセスしてみてください。

(2009年3月刊。1400円+税)

2009年4月 8日

ナポレオン帝国

著者 ジェフリー・エリス、 出版 岩波書店

 ナポレオンは9歳で陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官大学校を16歳で修了して砲兵少尉に任官した。砲兵中尉となったあと、大佐としてフランス正規軍に復帰し、トゥーロン攻囲戦で活躍して、24歳にして准将に昇進した。そして、准将のとき、1795年10月の王党派蜂起事件を鎮圧して名をあげた。
 この事件は、一般市民を鎮圧するためフランス大革命以降初めてパリ市中に公然と正規軍が投入されたという点で重要であり、先例となった。
 1796年3月、未亡人ジョゼフィーヌ32歳と結婚したとき、ナポレオンは26歳だった。彼女には前夫との間に子どもが2人いた。
 第一統領となったナポレオンは、秘密警察を配置して警察事態をひそかに監視しようと考えた。この業務をおもに担当したのがパリ警視庁である。警視総監は、名目上フーシェの指揮下に置かれていたが、実際にはナポレオンに対してのみ責任を負った。つまり、パリ警視庁は警察省から事実上独立して動いていた。
 ナポレオンは革命期の党派抗争を非建設的なものだったと考え、抗争を超越する立場に自身を置き、抗争が政治に及ぼしかねない衝撃を解消しようとした。
 1800年12月、ナポレオンを爆弾で暗殺しようとした企ては失敗に終わったが、わずか数秒差のことだった。犯人は王党派であったが、ナポレオンは事実を捻じ曲げてジャコバン派やバブーフ主義者130人を国外追放する口実に利用した。
 1810年までにパリで刊行を許された新聞は4紙のみとなり、いずれも政府の代弁機関であって、ナポレオンの戦勝を念入りに賞揚した。そのプロパガンダの狙いは、市民兵の士気を高揚せることにあった。
 ナポレオンは、信心深いわけでなく、カトリックの教義に好感を抱いてはいなかったが、その有用性をはっきり認識していた。社会の基盤をなし、イデオロギーによる鎮痛剤として有用なものとみ、教会に対して和解を持ちかけた。
 ナポレオンは民法典をつくる4人の委員会に頻繁に出席し、議長をつとめ、陣頭に立って草案内容に指示を与えた。これによって妻は法律上、夫に従属する存在となった。つまり、民法典の成立によってもっとも不遇をかこったのは、間違いなく女性であった。
 ナポレオンに仕える軍の将官の大部分は、さまざまなブルジョワ階層出身者であった。
 ナポレオンの大陸軍の将校集団は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政名士という新改装を生み出そうという構想だった。
 普通の兵士のほとんどは、貧困層出身、とくに小作農階層出身の青年男子であった。
 金銭にゆとりのある者は、代理人を立てて徴兵を遁れることができた。
 脱走兵は年平均で9600人にも及ぶと推計されている。徴兵は各地で抵抗運動を引き起こし、不正行為も誘発したが、山賊との戦いについてはナポレオンの憲兵隊に有産階級から期待が集まっていた。
 ナポレオンは、白紙から出発した変革者というより、既に知られ実践されてもいた軍事手法を整理し、一つにまとめあげた人物であった。そして、ナポレオンは天賦の即興の才を発揮した。しかし、ナポレオンは自分の大権を他人と共有することをひどく嫌った。ナポレオンが戦場で手にした成功は、その場しのぎの結果だった。
 以下、省略しますが、大変興味深い記述が続いており、ナポレオンそのものとナポレオン帝国の実相がよく分かる本でした。
 チューリップ500本が見事に咲きそろいました。一番に咲いていたものは花びらが落ち始めています。
 今年はじめて、玄関わきの植え込みにチューリップを植えてみました。ピンク・白・黄色の大きな花です。朝、出るときにそのカラフルな花を眺めると、さあ、行ってくるよ、と足取りが軽くなります。
 チューリップのほか、フリージアが咲き始めました。赤や黄色の小さい花をたくさんつけ、とても甘い香りをふりまいています。
 ボタンのつぼみが大きくなってきました。5月を待たずに4月のうちに咲いてくれるかもしれません。楽しみです。隣家の玄関脇にライトブルーのアイリスの花も見えます。我が家の庭は、春真っ盛りです。
(2008年12月刊。2600円+税)

2008年9月28日

アシナガがゆく

著者:辻本 公一・斉藤 護、 発行:徒歩々庵編集工房
 いやあ、驚き、呆れ、恐れ入りました。こんなことを思い立ち、そして、それを実行する人が、この世の中にはいるんですね。信じられません。だって、パリからスペインまでの1800メートルを2ヶ月かけてテクテク歩いていったというのですよ。それも、いい年齢(とし)した弁護士のおっちゃん(67歳)が…。私の方はちょうど膝に神経痛が出て、歩くのも不自由していたときに読みましたから、余計に驚嘆してしまいました。
大阪には、狂歩楽々宗なる得体の知れないグループがあるとのことです。しかも、そのメンバーたるや、今の大阪弁護士会長、元の日弁連副会長まで加わっているというのです。なんだか西欧社会を背後で操っているというフリーメーソンみたいではありませんか…。(失礼しました)
 この本はまず、その狂歩楽々宗の有力信徒の一人である佐伯照道弁護士より贈呈されました。途中まで読んでいたところ、なんと恐れ多くも狂歩楽々宗の教祖様である辻本公一弁護士からも贈呈本が届いたのです。私のかねてより敬愛する石川元也弁護士の紹介で送るとの添え書きがついています。これは大変なことになった。そう思って後半を読み進めていったという次第です。
 いったい、2ヶ月間も、フランスをパリからスペインにかけて歩きとおすなんていう発想はどこから出てきたのでしょうか…?あとがきによると、大阪でも通勤するのに往復を歩いていたということです。1年間に360キロを歩いたと書いてありますので、毎日1キロ歩いたというわけですね。すごいですよね、これって…。それで、音に聞くコンポステル巡礼路へ行ってみよう、そして、美しいというフランスの田舎も見てみたいと思うようになった、というのです。なるほど、フランスの田舎町は美しいです。でも、でもですよ。一人でテクテク歩くのです。それも重たいリュックサックを背負って、なんですよ。私なんか、考えただけでも足が引きつってしまいそうです。
 パリから歩いていく途中で、ロワール川の古城めぐりのお城も登場します。シャンボール城やブロア城などです。私も3年前の夏に行ってきました。タクシーで一日かけて回りました。観光バスよりはゆっくりできたと思いますが、それを歩いて回ったとは…。
 ブロアもいいし、アンボワーズもいいところです。レオナルド・ダヴィンチが生活していたお城でもあります。この本には、歩いた風景が写真で紹介されています。うんうん、こんなのどかな情景って、フランスのあちこちにあるよね、そこをゆっくりのんびり歩くって、人生最高の贅沢だよね。私もそう思います。だけど、でも、ですね…。
 アシナガ氏は、ホテルに泊まって朝食をとって、だいたい午前9時ごろに歩き始めたようです。たまには3日間ほど同じホテルに泊まって、休養もしたようです。それはそうですよね。そして、一日9時間も歩いたことがあるそうです。一日に30キロとか40キロも歩くのです。しかも、雨が降っていても歩いたというのです。すごーい。
 ホテルはケータイで前日のうちに予約していたようですが、たまにはぶっつけ本番であたったりもしています。道に迷ってしまって夜になってもホテルが見つからず、道を尋ねたところ、親切な母娘に車でホテルまで送り届けてもらったこともあるといいます。やはり、見知らぬ国での一人旅は大変な冒険です。
 ところが、フランスではひなびた村にもとびきり美味しい料理を出してくれるレストランとホテルがあるのです。そこが、フランスの旅の良いところです。
 壁には風雅な飾り物。趣味のいい調度品、ゆったりとしたテーブルの配置、テーブルの上には古風なローソクスタンド。実に落ち着いたくつろぎの空間を演出している。若い夫婦二人で切り盛りしているホテル・レストラン。夫は厨房で料理を、妻はテーブルを回ってメニューを配り、注文を聞き、料理やワインを運び、天性の美しい笑顔で、お客と和やかに言葉を交わす。その挙措は精錬され、優雅なことこの上ない。
 アペリティフはカシスのキール。本日のスープはバジリコ入りの熱々スープ。メインデッシュは盛り付けも鮮やかな鴨のステーキ。味も申し分なし。ワインにもハズレたころは一度もない。
 いやあ、ホントなんですよね。さすが、うまし国、フランスだけのことはあります。どんな田舎に行っても、美味しい料理を期待できる。それがフランスです。
 田園地帯を歩いていると、牛が物珍しそうに近寄ってくる。眠たそうな目でじっと見つめ、トコトコと寄ってきて、「おっちゃん、どこ行くん?」と聞いてくるのもいるほど…。
 やはり、狂信的な信者というしかありません。いやはや、見事な道中記です。写真もまた素晴らしいですね。 感心、感嘆、感銘を受けました。
(2008年8月刊。?円)

2008年9月13日

フランスに学ぶ国家ブランド

著者:平林 博、 発行:朝日新書

 フランスは超大国ではない。核保有国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国であるが、経済規模や人工などの観点からすると、中規模国家である。面積を除いて、日本の方が経済力などで上まわる。しかし、フランスには独特の国家ブランドがある。フランスには、独自の「国のかたち」があり、強い発信力がある。
 そうなんですよね。まるで下駄の雪みたいに、踏まれてもバカにされてもひたすらアメリカの言いなりになる日本とはまったく違って、フランスは独自路線を少しでも強調しようとします。もっとも、今のサルコジ大統領は露骨な親米政策を打ち出していますが…。
 サルコジはかつてトヨタ自動車がフランスに進出するに当たって、弁護士としてアドバイスしたことがあり、トヨタの招待で日本にも一度来ている。サルコジの父はハンガリー貴族であり、ソ連赤軍から逃れてフランスに亡命した。母はギリシャ出身のユダヤ人。サルコジはパリ大学は卒業したが、グランゼコール(シアンス・ポ)に入ったものの卒業はしていない。フランスのグランゼコールというのはエリート中のエリートを輩出する大学です。
 フランスは欧州諸国の中でもっともユダヤ人が多い。60万人いる。フランスを旅行すると、町並みを出た途端、豊かな田園風景が広がる。
 フランスは穀物、乳製品、ワインなどの生産量は自国民の消費量を上まわる。果物や野菜も十分に生産しているが、輸入もしている。カロリー・ベースで計算したフランスの食糧自給率は122%(2003年)。フランスより自給率が高いのは、オーストラリア(237%)、カナダ(145%)、アメリカ(128%)である。
 フランス人は食料の安全保障を当然に必要なことと考えている。
 そうなんです。そこが日本と決定的に違います。日本人は、政府の間違った食糧政策を盲信させられています。食べ物は、お金さえあれば好きなように買えると思いこまされています。でも、そんなことは決してないのです。食料と水は、今や世界を制覇する道具と化しているのです。少なくとも、食糧自給率の向上に今すぐ日本政府は真剣に取り組むべきです。だって、日本の食糧自給率は、せいぜい40%しかないのですよ…。
 フランスの就業人口の4分の1は公務員か国営企業に勤める準公務員である。
 今の日本では、公務員を一人でも減らしたらその政治家の大手柄になります。一方では政治家の口利きと称して子弟を公務員として送り込んできたわけですが、目下、そのことが最大争点の一つとなりつつあります。
 また、フランスでは、いくつかの宗教系の私立学校を除いて、学校はすべて公立ないし国立である。入学金も授業料もごくわずか。北欧となると、そのいずれもタダだそうです。
 ニースから電車に乗って、カーニュシュルメールというところに行きました。駅前に無料のシャトルバスがあるとガイドブックに書いてありましたが、見あたりません。駅から歩いてルノワール美術館を目指しました。強い陽射しを浴びながら坂道をのぼっていったのです。ちょうど昼前のことでした。なんと、午後2時まで昼休みだというのです。汗が一度に噴き出してきました。仕方がありません。もう一つの目的地である古城にまわり、一休みしたあと、再びルノワール美術館に出かけました。オリーブの木が植えられている広大な丘にルノワールが晩年を過ごした建物が残っていました。ルノワールの絵って、本当にいいですよね。見ていると、気持ちがほんわか、ゆったりしてきます。暑いなか苦労してたどり着いた甲斐はありました。
(2008年5月刊。740円+税)

2008年9月 8日

フランスものしり紀行

著者:紅山雪夫、出版社:新潮文庫
 私は大学生のころからフランス語を勉強していますし、フランスにも5回ほど行きましたので、それなりにフランスのことは知っているつもりでしたが、なんのなんの、まだまだ知らないことばかりだということを思い知らされる本でした。この夏にフランスへ行ってきましたが、フランスへの飛行機のなかで一生懸命にこの本を読んで予習しました。
 パリはフランス語ではパリですが、英語ではパリスと、語尾のスまで発音しますよね。パリの語源はパリシイ族に由来する。
 3年前にはロワールの城めぐりとモン・サン・ミッシェルそしてボルドー、サンテミリオンを歴訪しました。この本にもロワール川流域にある美しい城がいくつか紹介されています。アゼ・ル・リドー城、シノン城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城です。その優美さ、壮大さは思わず息を呑み、足を停めてしまいます。素人カメラマンでも美しく撮ることができます。
 そして、この夏は南フランスをまわってきましたので、そちらを紹介します。
 アルルはゴッホが住み、こよなく愛した町です。駅から歩いて10分もかからないところに旧市街入り口の古い門があります。
 ゴッホは、アルルは明るい色彩効果のため、日本のように美しく見える、と言ったそうです。もちろんゴッホが日本に来たことはなく、日本の浮世絵を見ていたことからの連想です。中心部にローマ時代の円形闘技場がほとんど完全な形で残っています。近づくと本当に圧倒されてしまいます。よくもこんな巨大な石造りの建物をつくったものです。この本によると、ローマ帝国が滅亡したあと集合住宅としてつかわれていたのが保存に幸いしたのだそうです。なーるほど、ですね。
 アルルの郊外に有名なゴッホの「跳ね橋」があります。私は20年近く前にアルルの町から歩いていこうとして、見つからずに断念したことがありました。今回、タクシーに乗って「跳ね橋」に行ってみて、歩いていけるような距離ではないことを実感しました。ガイドブックに女性の一人歩きは厳禁と書いてありましたが、私は、女性だけでなく、男性もやめたほうがいいと思いました。なにしろ遠すぎるし、迷い子になるのは必至だと思ったからです。ゴッホの「跳ね橋」は再現されていますが、晴れていたら絵になるロケーションにありました。残念なことに、私の行ったときには曇り空でしたので、絵にはなりませんでした。
 アルルから、タクシーでレ・ボーに行きました。ここは前にも一度行ったことがあるのですが、奇岩城としか言いようのない断崖絶壁の町です。
 松本清張がレ・ボーを題材に『詩城の旅びと』(NHK出版、1989年)という本を書いています。清張は次のように描きました。
 レ・ボーは、アルピーマ山塊の一部が平野に向かって突出した細長い岩山の上にあり、まわりを断崖絶壁で囲まれていて、まさに難攻不落としか言いようがない天然の要塞である。岩山の上に城塞の廃墟が延々と連なっている。
 私も一番高いところまでのぼりましたが、とても風が強くて吹き飛ばされそうなほどでした。写真でお見せできないのが残念です。
(2008年5月刊。590円+税)

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