弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

江戸時代

2015年1月 5日

風花帖


著者  葉室 麟 、 出版  朝日新聞出版社

 もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
 北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
 小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
 根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
 それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
 双方とも武士の面子をかけた争いです。
 江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)

2014年12月20日

鬼はもとより


著者  青山 文平 、 出版  徳間書店

 江戸時代の小さな藩の財政立て直しの話です。よく出来ています。アベノミクスの失敗は明らかですが、それは弱者切り捨てまっしぐらだからです。かつての「年越し派遣村」がビッグ・ニュースになったときのような優しさが今の日本にないのは不思議なほどです。
 アベノミクスは、原発・武器・カジノというのが目玉でもあります。とんでもないものばかりです。これで、子どもたちに道徳教育しようというのですから、狂っています。
藩札は、宝永4年(1707年)にいったん禁止された。その後、新井白石の改鋳があり、貨幣の量が激減し、世の中が金不足となって、享保15年(1730年)に再び許可された。
 正貨と藩札を交換する札場の項では、その数や配置のみならず、用員の取るべき態度まで示され、受付の御勤めに限っては、商家に委託するとされた。
 藩札の板行には、小判や秤量(ひょうりょう)銀などの正貨の裏付けが不可欠だ。
 一両の小判を備え金(そなえかね)にして、三両の藩札を刷る。1万2千両を備え金にして、3万両の藩札を刷る。それだけの正貨があれば、いつ、藩札を正貨へ変えてくれと言われても応じることができる。換金さえ約束されたら、紙の金でも立派に貨幣として通用する。
藩札板行を成功させるカギは、札元の選定や備え金の確保といった技ではない。藩札板行を進める者の覚悟だ。命を賭す腹がすわっていなければならない。
 藩札は専用の厚紙でつくり、偽札を防ぐために透かしを入れる。紙の厚い、薄い差を使って絵を描く。偽造防止の手立ては、透かしだけではない。複雑な文様のなかには、市井のものには字とは見分けられない梵字や神代文字がさまざまに組み込まれている。このありかを知らないと、同じ文様のようでもずい分と違ってくる。一枚一枚では分からなくても、多くを集めると、誰の目にも明らかなほどの違いが生じてくる。
 藩札の十割刷りを強行した藩は一揆を招いて、結局、幕府から改易処分を受けて、藩そのものが滅亡した。別の小藩では、強力な藩札によって、他国に負けない強力な特産物を育て、藩が一手に買い上げて領外に売る。その代金は正貨で受けとる。これで藩は丸もうけとなる。
 では、何を特産物とするか・・・。浦賀に、魚油と〆粕、大豆を送ってもうけるという。
 この商法を藩内に定着させるために取られた手法に驚かされます。小説とは言え、ぐいぐいと惹きつけられるのでした。私は、出張先の鹿児島の中央駅に着いて2時間あまり、駅ビルの喫茶店で読みふけったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)

2014年11月 1日

天の星、地に花


著者  帚木 蓮生 、 出版  集英社

 久留米版では江戸時代に何回か目ざましい大一揆が起きています。
 享保13年(1728年)と宝暦4年(1754年)の2回です。
 1回目の享保13年のときは藩当局の年貢の引き上げが撤回され、家老は閉居を命じられ、奉行が切腹させられた。しかし、百姓のほうは一人に犠牲も出さなかった。
 ところが、宝暦4年のほうは、3万人もの百姓が立ち上がって要求を貫徹したものの、その後の藩当局の巻き返しによって、1回目の死罪は18人、そして2回目は19人が死罪となった。死罪となったなかに、1回目に大庄屋が一人と庄屋が3人、2回目にも庄屋が2人ふくまれていた。
 この本は、大庄屋の息子と生まれて病気(疱瘡)のあと医師となって村人の生命・健康をたすけた高松凌水を主人公としています。
 貴賤貧富にかかわらず、診察には丁寧、反復、婆心を尽くせ。医師たるもの、済世救苦を使命とせよ。
 弁護士生活40年の私にも反省を迫る言葉です。日頃、ともすれば、能率と効率に走りがちになるからです。
 一回目の享保の一揆をおさめた家老の稲次因幡が床の間に飾っていた掛け軸の言葉は
 天に星、地に花、人々に慈愛 
 だった。
 3万人が筑後川の河原に集結したという久留米藩大一揆については、いくつか紹介する本もありますが、専門的な文献は乏しいような気がします(あったら、ぜひ教えてください)。その中で、この本は、医師の目を通して、当時の農村部の生活を描きつつ、人生を生きる意義を問いかける本となっています。
600頁の本です。じっくり味わいながら読みとおし、胸の奥にほのかに明るさと暖かさを感じることが出来ました。この著者の本は、いつもいいですね・・・。
(2014年8月刊。1900円+税)

2014年10月19日

幕末維新の漢詩


著者  林田 愼之助 、 出版  筑摩選書

 幕末の志士たちが、見事な漢詩をつくっていたことを紹介した本です。
 江戸時代は、漢詩が本格的に成熟をみせた時期である。
 平安時代には、嵯峨天皇や菅原道真などの漢詩人がいるが、まだ唐詩の模倣段階にあった。室町時代には、宋(中国)からの帰国僧、絶海中津、義同周信などのすぐれた漢詩人が登場するが、禅風詩が多かった。
 徳川幕府は朱子学を政道の基本にすえたので、武士階級の教養として、漢学、儒教の学を修得することが不可欠となった。その一環として漢詩をつくるのが、ごく普通のこととなった。
 文人が誕生し、自律した存在となり、武士だけでなく富裕な商人層にも普及した。
 漢詩についても、格調主義から、自由で砕けた宋代風の詩風が流行した。漢学的なものに反旗を翻す専門的な詩人・文人が相次いだ。幕末になると、倒幕に動く憂国の志士たちが、さかんに時世を慷慨(こうがい)する詩をつくった。
 佐久間象山(しょうざん)、藤田東湖(とうこ)、吉田松陰、橋本左内(さない)、高杉晋作、西郷隆盛らは、折につけ浮沈する思いや感慨を、多くの漢詩に託している。その詩の出来栄えは、江戸期の専門的な漢詩人にくらべて、少なくとも見劣りしない詩的力量を発揮している。
 人間 到処 有青山
 (じんかん、いたるところ、せいざんあり)
 山口県生まれの僧、月性の有名な漢詩の一節です。
 「人間」は、中国風に「じんかん」と読むのが漢詩文の常識で、世の中、世間という意味。
 詩をつくる人は温潤で、詩を好まない人は刻薄である。詩は、もともと情より出ずるもので、詩を好まない人は、情が稀薄である。
 西郷隆盛が西南の役で敗れ、ふるさとの城山で自刃する直前につくった漢詩がある。
 尽日 洞中 棋響 閑
 (じんじつ、どうちゅう、ききょう、のどかなるを)
 日がな一日、この洞窟の中で碁を囲み、その音が響くなかで、のどかに暮らしていることだ。
 洞窟のなかで、死の寸前まで隆盛は囲碁をしていたというのです。これには驚きました。
 竹角一声響
 指揮非有人
 弱氓皆猛虎
 潤屋乍微塵
 酷吏空懐手
 姦商僅挺身
 撫御誰違道
 乱党本良民
 これは山田方谷が体験した松山藩内に起きた百姓一揆のありさまを詠じたものです。
 一揆にたちあがった農民は善良な民である。政治が道を間違えているのだと、方谷は百姓一揆を詠じて、はっきりと政治の疲弊を断罪している。
幕末の志士たちの教養の深さに感服しました。
(2014年7月刊。1700円+税)

2014年7月13日

浮世絵に見る江戸の食卓


著者  林 綾野 、 出版  美術出版社

 浮世絵に描かれている江戸の人々の食べているものが紹介されています。同じものが、現代の日本の料理として写真で紹介されていて、比較できるのです。どちらも食指を動かす秀れものでした。
 ガラスのすのこの上にもられた紅白の刺身が描かれています。うひゃあ、ガラスのすのこって、江戸時代にもあったのですね・・・。
 江戸前ウナギを女性が食べようとしている浮世絵があります。「江戸前」とは、隅田川や深川でとれたウナギのことを言い、江戸の外でとれたウナギは「旅うなぎ」と呼ばれた。
 江戸のうなぎは、背中から開き、蒸してからタレをつけて焼く。身はふんわりとやわらかく、外は香ばしく仕上げるのが江戸流だ。
 今まさに串に刺したエビの天ぷらを食べようとする女性が描かれています。
 天ぷらは、江戸の屋台料理の定番だった。火事の多い江戸では、室内で油を使うことが禁じられていたため、天ぷらはまず屋台で普及し、値段も安かった。そのうち、天ぷらは屋台だけでなく、料理店でも供されるようになった。
 5月になると、初鰹(かつお)。江戸っ子の初夏の楽しみの一つだった。初物を食べれば、寿命が75日のびると言われ、粋な江戸っ子は、いくらか無理してでも初物を買い求めた。
 江戸の人々も猪や鹿などの獣肉を食べていた。ただし、「山くじら」と呼び、それを食べさせる店は「ももんじゃ」と呼んだ。
 江戸の豆腐は、堅く、しっかりしていた。江戸っ子にとって、茄子(ナス)は身近で、かつ愛された野菜であった。
 幕府は、ナスやキュウリなどの促成栽培を幕府はたびたび禁止した。野菜の価格高騰を恐れてのこと。
 毎年夏、本郷にあった加賀屋敷の氷室(ひむろ)から、将軍に雪を献上する儀式があった。
 芝居が始まるのは午前6時のころで、終演は夕方5時ころ。土間に座る客を「かべすの客」と呼んだ。
 江戸時代の人々とがたくましく生き抜いていたこと、美味しく食べるのを好んでいた点は現代日本と変わらないことなどを知ることができました。それにしても、浮世絵って、まるでカラー写真のようですね。
(2014年3月刊。2000円+税)

2013年12月23日

剣術修行の旅日記

著者  永井 義男 、 出版  朝日新聞出版

江戸時代は、現代日本の私たちが想像するほどには閉鎖的でも、固定的な社会でもなかったことがよく分かる本です。
 20歳前後の佐賀藩の若者が、諸国へ武者修行の旅に出かけ、行き着いた先で当地の人々と親しく懇親を深めていたのでした。
 この本の主人公は佐賀藩の二刀流の使い手の若き武士です。幕末の2年間、東京(江戸)はおろか、遠く東北は秋田まで出かけています。青年武士の名前は、牟田文之助高惇(たかあつ)。鍋島家の家臣です。
 文之助は訪れた藩のほとんどの藩校道場でこころよく受け入れられ、思う存分に、他流試合をしている。しかも、夕方になると、文之助が宿泊している旅籠屋(はたごや)に昼間、道場で立ち会った藩士らが次々に訪れ、酒盛りをしながら歓談している。そして、出立を延期するように懇願され、地元の名所旧跡や温泉に案内された。
牟田文之助は鉄人流の免許皆伝を得ていた。鉄人流は宮本武蔵の二刀流の流れを汲む。牟田文之助は、嘉永6年(1853年)8月、藩から諸国武者修行の旅を許可された。ときに24歳(満22歳)。佐賀藩は、「文」では優秀な者を各地の漢学塾や蘭学塾に留学させていたし、「武」では剣術や槍術にひいでた者に諸国武者修行をさせていた。
 江戸時代の教育は文武とも基本的に家庭と個人のやる気にまかされていた。
 諸藩に藩校ができたのは、ほとんど江戸時代の中期から後期にかけてだった。
 御家人でも読み書きができない人もいた。無教養な幕臣は多かった。剣術の稽古など、一度もしたことのない幕臣は多かった。
 全国諸藩のなかでも、佐賀藩の藩士教育の充実は際立っていた。
剣術流派は、わずか3、4流が江戸時代になって次々と枝分かれし、江戸末期には700流以上にまでなった。
 江戸時代の中期に、竹刀と防具という画期的な道具が工夫され、剣術は飛躍的に発展した。竹刀と防具の採用で試合形式の稽古、うち込み稽古ができるようになり、剣術はがぜん面白くなった。人々は初めてスポーツの面白さに目覚めた。画期的な娯楽の登場だった。当時は娯楽が少なかった。
 江戸においては、剣術道場は当時のベンチャービジネスだった。剣術で頭角をあらわすのは、武士の家に生まれること、武家の血筋であることはまったく無関係だった。もって生まれた才能と、その後の努力で決まった。
 諸藩は藩士が武者修行にでるときには、手当を支給していた。ただし、旅費は出るものの、交際費までは出ない。許可が下りると、藩から修行人に手札が渡される。手札は藩の身元保証書で、いわばパスポートである。この手札を示さないと、藩校道場は修行人を受け入れなかった。
 修行人宿には無料で泊まれた。藩相互に修行人を優遇する慣例ができあがっていた。
 諸藩の藩士の諸国武者修行は、当時の旅行業界にとって大きな市場だった。修行人は年間を通じて大切な顧客だった。ただし、当地で武者修行の実績のない修行人は普通の旅人扱いとなり。有料となった。
 武者修行の実態は他流試合ではなく、他流との合同稽古だった。衆人環視のなかで勝敗が明らかになるような他流試合はしなかった。大勢の修行人が諸国を、遍歴していた。
 そして、気に入ったら、そこに何日も何週間も、果ては1ヶ月以上も長滞在することがあった。そして、現地の人々と親しく交流していた。
このように、藩の垣根をこえた交流があっていたわけです。この日記を書いた文之助はその後、明治になって佐賀の乱に加わり、懲役3年の刑を受けています。明治23年に61歳で亡くなったというのですが、詳しいことは分かっていないようです。
 それにしても、幕末に、このように伸び伸びと諸国を遍歴して武者修行をしていた青年武士がいたなんて、驚きますよね。江戸時代のイメージが一新しました。江戸に関心のある人には一読を強くおすすめします。
(2013年8月刊。1600円+税)

2013年7月30日

江戸の風評被害

著者  鈴木 浩三 、 出版  筑摩選書

江戸時代にも風評被害があった。ええーっ、ホントですか・・・。
 ソバを食べた者が中毒死した。この噂が広まってそば屋の休業が続出した。近く小判の改鋳(かいちゅう)があるらしい。この噂が広まって、金融(両替)に支障が発生した。江戸時代の日本って、現代日本とあまり変わらないんですね・・・。
 ただし、江戸時代には「風評」とは言わず、浮説、虚説、風説と言っていた。
 江戸時代、情報の伝達は驚くほど早かった。江戸城内に起きた政変や有力閣僚の任免は、その日のうちに江戸中の上下が知るところとなった。天保の改革で有名な水野忠邦が失脚したときには、その日の夕方には、江戸の市民がその屋敷を取り囲んで投石に及んでいる。これって、すごいことですよね。もちろんテレビもラジオもない時代ですからね。早刷りの瓦判(かわらばん)でも出たのでしょうか・・・。
 文化10年(1813年)4月ころ、江戸市中に「ソバを食べると、あたって死ぬ」という風評がにわかに広がった。ソバを食べる人が激減し、そば屋の休業が続出した。
 昨年の出水によって綿作が不作となり、その畑にあとからまいたソバが江戸に出回ったことによるという、もっともらしい理由がついていたという。もちろん、デマだったわけです・・・。
 このような風説の調査、報告、取締りに関わったのは、南町奉行所、町年寄、名主というもので、江戸の都市行政機構にもとづく法令伝達のプロセスがあらわれている。
 江戸時代、町内に寿司屋が1、2軒、ソバ屋も1、2軒というほどの密度で存在していた。風説を流した浪人は、逮捕されて死刑(斬罪)となった。同じように講釈師で戯作者の馬場文耕も獄門とされた(宝暦8年、1758年)。ただし、浮説、虚説で処刑された例は決して多くない。
 名主の配下には、職能集団としての家主の集団があった。町年寄、名主集団は、相当に広い範囲の自治能力をもった公法人、公共団体として機能していた。260年にわたって、小さな組織で江戸の行政、司法を運営できた効率性の理由は、なによりも町年寄りなどを使った間接統治システムの成功にあった。
 天明6年(1786年)9月、江戸で「上水に毒物が投入された」という浮説(噂)がでまわり、上水から水をくむ者がいなくなった。当時の水道は、将軍の仁政の象徴として扱われていた側面があった。
 田沼政権の追い落としの一環として反田沼派によって計画的・意図的にこの浮説が流された可能性がある。
 なーるほど、そういう側面もあるんですね・・・。
 元禄15年(1702年)に赤穂浪士の討ち入りは、将軍綱吉の治政下、幕府批判のうずまくなかでの出来事だった。江戸の人々は、綱吉政権への不満もあって、赤穂浪士を英雄視した。討ち入りの予想日時や、討ち入り後の処分についても喧伝される状況だった。
 ええーっ、そんな風説が流れていたのですか、知りませんでした。
 江戸の火災は多かったが、その大半は、実は放火だった。明暦の大火は、幕府によって改易された大名の家臣による反幕行動としての放火だった。
 なんだ、そうだったのですか、これも知りませんでした・・・。
 確実に景気を刺激したのは、火災だった。江戸の人々は火事を喜んだ。「宵越しの銭」をもてないような下層階級の人々は火事で潤ったので、火事は、「世直し」と呼ばれた。
 江戸の消防組織は、自在に火事をコントロールする能力を備えていた。
江戸の人々の生活の実際を知ることのできる本です。
(2013年5月刊。1700円+税)

2013年7月27日

犬の伊勢参り

著者  仁科 邦男 、 出版  平凡社新書

ご冗談でしょう・・・。江戸時代の中期に犬が単独で歩いて伊勢神宮にお参りをしていたというのです。フィックションではなく、実話として記録がいくつもあるといいます。信じられません。
記録に残された初めは、明和8年(1771年)4月のこと。最後の記録は明治7年。
 誰が記録したのか。たとえば松浦静山は『甲子夜話(かっしやわ)』に、日光からの帰り道に、伊勢参りの犬と道連れになったと書いた。
滝沢馬琴の息子は、千住(江戸)で伊勢参りの犬を見たと『八犬伝』執筆中の父親に報告している。根岸肥前守鎮衛(やすもり)の『耳袋』にも登場している。
 犬は、その首にひもを通して名札を付けていた。そして、銀の小玉がくくりつけてあった。飼主の所書と伊勢代参の犬であえることを示す札を首から下げていたのである。犬は人に声をかけられると立ち寄って餌をもらい、人の合図でまた家を出ていく。ええーっ、そ、そんなことが・・・。
 江戸時代には、日本中に信じやすい善男善女があふれていた。こういう時代だからこそ、犬は伊勢参りをすることができた。
 司馬遼太郎は犬の伊勢参りをウソだと断定したようです。著者は、司馬遼太郎でも、間違えるときは間違えると厳しく批判しています。まあ、司馬遼太郎が疑うのも当然だと私も思いますが・・・。
 幕末のころ、欧米に出かけて見聞きした日本人は、犬に必ず飼い主がいることに驚いた。そして、犬に税金までかかるとは・・・。
もともと日本の犬には値段がなかった。犬にお金を出す人などいなかった。
江戸時代の人間と犬との関係は、今とは感覚がまったく異なるようです。
 おとぎ話のような「実話」として面白く読み通しました。
(2013年3月刊。800円+税)

2012年8月30日

米軍基地の歴史

著者   林 博史 、 出版    吉川弘文館 

 日本全国に戦後65年もたつのにアメリカ軍基地があります。首都に外国軍基地がある独立国は日本くらいだというのですが、考えてみれば異常な事態が続いていますね。オスプレイを岩国基地に配備する問題も、日本政府がアメリカの言いなりで、主権がどこにあるのか改めて疑わせました。
 この本はアメリカ軍基地が世界のどこにあり、日本はどんな位置を占めているのかを明らかにしています。私は、フィリピンにならってアメリカ軍基地を一刻も早く日本から追い出し、そこを広大な商業、住宅地として再生すべきと思います。日本の景気回復に役立つのは明らかです。
 世界各地にアメリカ軍は展開しているのが、1万人以上のアメリカ兵がいるのは、ドイツと日本そして、韓国のみ。
アメリカのメア元日本部長は沖縄の人々を「ゆすりとたかりの名人」と中傷したが、思いやり予算をみたら、その言葉は、そっくりアメリカ政府にあてはまる。そうなんですよね。アメリカ軍ほど、日本人の税金によって恩恵をこうむっているものはありません。盗っ人、猛々しいとはメア元部長のことです。
 アメリカは対ソ連との戦争を予想して、そのとき大量の核兵器をつかう計画を立てていた。1949年12月、オフタックルという戦争計画は、292発の核兵器と2万発近くの通常爆弾をソ連に投下するものだった。それを実行する部隊は、アメリカ本土だけでなく、沖縄からも出撃することになっていた。
 イタリアは、今日にいたるまで旗艦1隻を母港として受けいれてはいるが、空母は受けいれていない。日本は空母をふくめて10数隻の艦船を母港として受け入れている。
 アメリカはトルコに核ミサイルを配備し、ソ連はキューバに核ミサイルを配置していた。アメリカは、冷戦期には、アメリカのほか18ヶ国に、海外領土19ヶ所に核兵器を配備していた。沖縄には、17種類の核兵器が1954年から1972年6月まで配備されていた。そして、日本本土には、1954年12月より1965年7月まで配備されていた。
 1960年ころのアジア太平洋地域におけるアメリカ軍の核兵器配備数は沖縄800発、韓国600発、グアム225発、フィリピン60発、台湾12発、合計1700発だった。
 1967年には、沖縄に1300発、韓国900発、グアム600発、その他あわせて3200発が、アジア太平洋に配備されていた。アメリカ軍にとって、沖縄は核の貯蔵と核兵器作戦を沖縄から展開する自由が確保された場所だった。
 沖縄に1000発前後の核兵器があっただなんて、そら恐ろしくて身震いしてしまいます。その廃棄処分はちゃんとやられたのでしょうか・・・?
アメリカは独裁国家ではなく、自由と民主主義を建前とする国だ。だから、野党がアメリカ軍基地の全面撤去あるいは縮小を公的に揚げて選挙で勝利して政権についたとき、その新政権の要求をまったく拒否することはできない。
 日本保安条約だって、一方的に破棄通告すれば1年後には失効するのです。日本は冷戦の克服に真剣に取り組もうとせず、むしろ冷戦を利用してみずからの戦争責任・植民地責任を棚上げして、経済成長を遂げるなど、自国の利益しか考えてこなかった。
 日本人として耳の痛い指摘もありますが、世界中にあるアメリカ運基地のため、武力紛争が多発しているのも現実ですよね。一刻も早くアメリカ軍基地を日本からすべて撤退させるべきでしょう。
(2012年5月刊。1700円+税)

2012年8月11日

霖雨

著者   葉室 麟 、 出版  PHP研究所

 豊後日田にあった咸宜園(かんぎえん)を主宰していた広瀬淡窓とその弟・久兵衛の生き方を描いた小説です。しっとり読ませてくれる時代小説でした。
 咸宜園は私塾といっても、今の公立大学のようなものだったのでしょうね。心ある若者たちが入門して勉強にいそしんでいました。
 咸宜園では、毎朝5時に起きて清掃し、6時から7時まで輪読する。朝食のあと8時から正午まで学習し、昼食をとったあと1時から5時までが輪読と試業で夕方6時に夕食となる。夜7時から9時まで夜学して、夜10時に就寝する。
咸宜園では、女性の門人も受け入れていた。
 広瀬淡窓の実家は屋号を博多屋と称し、淡窓の8歳下の弟が家業を継いでいる。そして、この博多屋は、日田代官所出入りの御用達(ごようたし)商人として財をなしてきた。
 日田は幕府直轄地の天領である。北部九州の中央に位置し、筑前、筑後、豊前、肥後と日田を結ぶ日田街道が通る交通の要衡だ。美しい山系に囲まれ、河川の多い風光明媚な水郷であり、豊後(ぶんご)の小京都とも呼ばれる。
日田の代官所にいる西国郡代は九州の天領15万石を差配すると同時に、諸大名にもにらみをきかせる、いわば幕府の九州探題であった。
 広瀬淡窓が咸宜園を開いたのは文化14年(1817年)。この年、日田に新しい代官として塩谷大四郎が着任した。この年、49歳。それまで幕府の勘定吟味方(かんじょうぎんみがた)をつとめ、日光東照宮の造営などにあたっていた。
 塩谷大四郎は、日田代官所に着して4年後に西国郡代に昇格し、布衣(ほい)を許された。そして、塩谷君代によって咸宜園への干渉はさらに強まった。
広瀬淡窓は、16歳のとき、福岡の亀井昭陽の父である亀井南冥(なんめい)の塾に入門して萩尾徂徠学を3年にわたって学んだ。しかし、淡窓は徂徠の考え方に批判があった。徂徠学は、ややもすれば政治学に傾き、聖人君子の道である儒教から遠ざかることへの不満だった。
 淡窓は、塾の運営において、入門者に対してまず「三奪」を行った。入門するにあたっては、年齢、学歴、身分の三つを奪って平等とし、同じことから出発させる。これは、武士、農民、町人の身分差のつきまとう社会にあっては、容易に成しがたいことであった。月旦評(げったんひょう)とは、月初めに塾生の前月の評価を行い、これによって4等級(あとでは9等級)に分けること。さらに、成績によって、塾内の都講(とこう)、講師、舎長、司計などの役職を分掌した。成績至上主義のようだが、淡窓の評価は厳正であり、学問だけでなく、日頃の素行も評価の対象とした。身分制にしばられないなかで月旦評は、一人ひとりを平等に評価することであり、塾生たちを発奮させた。
 日田の商人のうち、代官所御用達の富商は、7、8軒あり、七軒衆とか八軒士などと呼ばれた。広瀬家も、その中に数えられるが、日田地生え(じばえ)の商人ではなく、初代が筑前福岡から移住して田畑を耕し、かたわら小さな商いを行った。四代目が岡、杵築、府内三藩の御用達となり、大名貸しなど、金融業も行うようになった。五代目は、鹿島藩、大村藩の御用達もつとめるようになった。
 六代目の久兵衛は、日田代官所の年貢米の集荷、江戸、大坂への回漕、さらには納入された金銀を預かる掛屋となった。掛屋は、代官所から公金を見利息で預かり、大名や町人、農民に貸し付けることが認められていた。これを日田金(ひたがね)と呼ぶ。
 日田金は代官所の公金であることから、借りた大名が踏み倒すとは考えられない。そのため、掛屋には、社寺、公家、富豪から資金が流れ込んだ。日田金は総額2百万両に及び、このうち百万両が大名貸しにまわった。
 淡窓の咸宜園と同じころ、大阪では大塩平八郎が洗心洞という私塾を起こして盛んだった。
 このあと、小説は大塩平八郎の乱との関わりが語られていきます。
大変勉強になる本でした。男女の心理の機微についても学ぶところ大でした。
(2012年6月刊。1700円+税)

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