弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2018年4月18日

新・日本の階級社会


(霧山昴)
著者 橋本 健二 、 出版  講談社現代新書

現代日本の貧富の格差は拡大する一方ですが、著者は、もはや「格差」ではなく「階級」になっていると主張しています。
900万人もの人々が新しい下層階級(アンダークラス)に属しているといいます。
ひとり親世帯(その9割が母子世帯)の貧困率は50.8%。貧困率の上昇は、非正規労働者が増えたことによる部分が大きい。アンダークラスの男性は結婚して家族を構成するのがとても困難になっている。アンダークラスには、最終学校を中退した人が多い。資本家階級には、世襲的な性格がある。
資本家階級の人の身長がもっとも高く、アンダークラスはもっとも身長は低い。体重は、資本家階級がもっとも重く、アンダークラスがもっとも軽い。その差は7.1キロ。これって、アメリカでは、逆なんじゃないでしょうか。超肥満は貧困を意味し、スーパーリッチな人々はとてもスリムだと聞いています。お金をかけてダイエットし、スポーツジムで鍛えているのです。
排外主義の傾向が強いのは男性であって、女性ではない。自己責任論は、資本家階級と旧中間階級に肯定する人が多い。パートで働く主婦層は自己責任論を強く否定している。
アンダークラスの人々は、格差に対する不満と格差縮小の要求が平和への要求と結びつかず、むしろ排外主義に結びつきやすい。
自己責任論は、本来なら責任をとるべき政府を免責し、実際には責任のない人々に押しつけてしまう。「努力した人が報われる社会」というスローガンは、単に格差を正当化するためのイデオロギーになっている。
アンダークラスの人々が絶望感から排外主義に走り、また投票所に出向かないことによって、特権階級は金まみれの生活を謳歌しているというのが日本の現実ではないでしょうか。やはり、国民みんなが投票所に出向いて、日頃の生活実態にもとづいて、自分の要求を素直に反映して投票したら、この日本の恐らくもっとまともなものに変わると思います。投票率が5割ちょっと、というのではアベの専横独裁を許すことになり、私たちの生活はいつまでたっても良くなりません。
(2018年1月刊。900円+税)

2018年4月15日

健康格差

(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版  講談社現代新書

貧困家庭の子どもたちに肥満が増えている。
アメリカでは大人も子どもも、肥満しているということは貧困のあらわれです。食生活が十分でないことを意味しているからです。スリムな身体を維持するためにスポーツジムに通うようなことは、金銭的な余裕のない低所得層には不可能に等しいのです。
非正規雇用の人は正社員より糖尿病(網膜症)を悪化させる割合が1.5倍も高い。30代から40代の現役世代に糖尿病患者が増えている。歯周病の悪化がそれをもたらしている。
非正規雇用の人々は、炭水化物を多くとる食事に偏りがち。米、小麦、じゃがいもの3点セット。安くて、こってり味で、すぐに腹一杯になるものを好む。激安の牛丼は、その最たるもの。牛丼やラーメンを好む。逆に、野菜、魚、肉は高いので買えず、食べない。
50代の男性の5人に1人弱がひとり暮らし。30年前の3倍強に増えた。女性では、80歳以上の女性の4人に1人がひとり暮らし。30年前の9%が今では26%になっている。
肥満防止対策としては、先に野菜を食べ、10分おいて炭水化物をとること。ベジ・ファーストと呼ぶ。
カップラーメンには、1食あたり5グラムの食塩がふくまれている(大盛りサイズだと9グラム以上)。一食だけで、塩分のとりすぎになる。
健康対策で見落とされがちで、意外に有効なのは「歯磨き」。そうなんですよね。ですから私も、朝に3分間、夕に5分間、タニタの時計を目の前にして励行しています。
両親が生活に追われていて余裕のない世帯に低体重児が多い。
健康格差は、自己責任論では解決できない。日本では、健康格差は、雇用の問題が大きい。健康格差を放置すると医療費が増大し、国家支出が増えてしまう。その前に対策・予防すると、みんなが助かる。
自己責任論のマジックから一刻も早く脱却したいものです。
(2017年11月刊。780円+税)

2018年4月14日

黙殺

(霧山昴)
著者  畠山 理仁 、 出版   集英社

選挙権を得てから私は棄権したことがありません。投票所で入れたい人がいないときは、わざわざ「余事記載」をして無効票を投じます。私にとって、投票するのは権利であって、義務でもあります。最高裁の裁判官の国民審査にしても、ムダなことだと分かっていても、ご丁寧に全員に×印をつけています。
みんなが投票なんてムダなことだと思っていたら、この社会には民主主義はないし、専制君主による独裁を甘んじて受けいれるしかなくなります。権利に甘えてはいけません。
ところで、誰が候補者になっているのか、その人は何を訴えようとしているのか、きちんと考えずに投票している人が少なくないのも現実です(少なくとも、私はそう考えています)。
初めから当選しそうもない候補者をマスコミは「泡末候補」と呼び、その政策をまともに紹介することはありません。著者は、その「泡末候補」にながく密着取材してきた。フリーの記者です。「泡末候補」と呼んではいけない、あえて呼ぶなら「無頼系独立候補」と呼ぶことを提案しています。
いまの選挙制度はおかしいことだらけです。その最大は死票続出の「小選挙区制」です。「政治改革」の美名のもとに、あれよあれよというまに実現してしまいました。「アベ一強」という、おかしな政治がまがり通っているのも、この小選挙区制の結果です。
もう一つは戸別訪問の禁止です。欧米の選挙運動では、テレビのCMとあわせて戸別訪問を活発に展開していますが、当然のことです。ところが、日本では戸別訪問は買収供応の温存になるとか、まるで客観的根拠のない不合理な理由で全面禁止のままです。これは現職有利にもつながります。
この本では、さらに供託金制度も問題視しています。フランス、ドイツ、イタリア、アメリカには供託金制度そのものがありません。供託金制度のあるイギリスでも7万5千円、カナダとオーストラリアは9万円。韓国は高くて150万円。ところが日本では、衆・参議員は300万円、政令指定都市については240万円。
かつてはフランスにも供託金制度があった。ただし、4千円から2万円ほど。それでもフランスでは高すぎる、必要ないという声があがり、1995年に供託金制度は廃止された。日本で供託金制度が出来たのは1925年のこと。普通選挙の施行とあわせて、供託金制度がスタートした。
「無頼系独立候補」の素顔を知ることができる本でした。

(2017年11月刊。1600円+税)

2018年4月13日

職場を変える秘密のレシピ47

著者 アレクサンドラ・ブラックベリーほか  、 出版  日本労働弁護団  

今や労働組合の存在感があまりに薄くて、連合と聞いても、有力な団体というイメージがありません。かつて、総評というと、医師会以上の力をもって社会を動かしていたと思うのですが、医師会も自民党の支持母体というだけで社会的に力がある団体とは思えません。
この本は、アメリカで労働運動に運動を取り戻すということで1979年に発足した「レイバー・ノーツ」が発行したものです。日本労働弁護団は、この本(英語版)をテキストとして2017年2月から月1回の読書会を開いてきたとのこと。なるほど、アメリカノ労働運動の実践をまとめた本ですが、日本でも大いに参考になるものだと読んで思いました。
「誰も会議に来てくれない」と嘆く前に、Eメールや掲示板での知らせでは不十分なので、個人的に会って一対一で勧誘する。そして、会議に来てくれたら、気持ちよく有意義な会議にする。事前にちゃんと準備しておき、参加してくれたことに敬意を示す。議題設定は参加したいと思うようなものにする。
組織化するためには、聴くのが8割、話すのが2割(多くとも3割にとどめる)とする。話すときに携帯電話はしまい、相手の目を見て話す。時間をかけて話を全部聴く。誘導せず共感する。
「私がリーダーです」と言ったり、リーダーに自ら名乗り出る人は、たいてい本当のリーダーではない。情報通になりたがったりするだけであったり、最後までやり通せないことが多い。仲間からあまり好かれていなかったりもする。本当のリーダーは、みんなが自分で行動するようにすることができる人。
仲間を増やすには、まず一つは勝利をあげる必要がある。それによって、懐疑的な人たちをその気にさせる。奥の手はいきなり出さず、小さく産んで育てていく。最初に大失敗してしまうと、キャンペーンは行き場を失い、打ち切るしかなくなる。
キャンペーンの勝利は、それまで築いてきたコミュニケーションのネットワークを通じた一対一の対話によって得られる。SNSもビラも新聞もいいけれど、一対一の面と向かった対話を何より優先させること。
アメリカのレイバー・ノーツの全国大会には2300人もの参加があり、日本からも多くの人が参加しているとのこと。なるほど、この本に書かれているような経験交流が全国規模でなされるのであれば、大きな意義があると思います。
憲法に定められた労働基本権がまったくないがしろにされているような日本の現状です。ストライキが死語になっている社会なんて絶対おかしいと私は思います。なんでも自己責任ですませてしまい、弱者をたたいて喜ぶ風情、流れは一刻も早く変えたいものです。とても実践的な、いい本です。大いに活用されることを心から願います。

(2018年1月刊。1389円+税)

2018年4月 7日

母の家がごみ屋敷

(霧山昴)
著者 工藤 哲 、 出版  毎日新聞出版

いま全国各地で問題になっているゴミ屋敷について、その現状と対策が具体的に紹介されていて大変勉強になりました。
ゴミ屋敷を生み出している当の本人やその家族には既に問題解決能力を喪っている人が多いようです。ですから、行政的に解体・撤去すれば終わりということではなく、そのケアも大切だということです。なるほど、そうだろうなと思いました。
セルフネグレクトは、自己放任。自分自身による世話の放棄・放任だ。この状態が続けば、室内(家屋内)にゴミや物がたまって不衛生になり、何かのはずみで引火して火災を起こして本人ないし周囲に迷惑をかける。また、本人の健康も悪化していく。
本人が認知症にかかっていたりして、自覚がなく、ときに開き直るので、行政もうかつに手出しができないことも多い。
たまっているゴミが歩道を占拠しているときには、道路交通法違反として逮捕した例もある。また廃棄物処理法違反で摘発した例は少なくない。自治体が行政代執行で撤去することもある。放置されたゴミの撤去費用として200~300万円かかることがある。
地方自治体では、このための条例を政令したり、専門部署を設けて対応しているところも少なくない。埼玉県所沢市では、「ゴミ出し支援制度」をもうけていて、利用者が10年間で500世帯超と、3倍に増えた。
この本を読んで驚いたのは、実は、20代、30代の若い人でもゴミ屋敷のようになってしまう人が増えているということです。何らかのきっかけで、無気力、ひきこもり状態になってしまった結果なのです。
モノはあふれているけれど、住む人はますます孤立しているというのが、現代の日本社会だということです。直視すべき日本社会の現実のひとつだと思いました。
(2018年2月刊。1400円+税)

2018年4月 6日

日米地位協定

(霧山昴)
著者 明田川 融 、 出版  みすず書房

読めば読むほど腹の立つ本です。いえ、もちろん著者に対してではありません。歴代の日本政府に対して、そのだらしなさというより、もっとはっきり言えば、ひどい売国奴(ばいこくど)根性に怒りを覚えます。
日本はアメリカの全土基地方式を受け入れている。これは、アメリカ軍がいざとなれば、日本国内のどこであっても好き勝手に基地として使えるというものです。こんな屈辱的な方式を日本政府は受け入れているのです。許しがたいことです。そして日本の外務省は、その日本政府の方針の下で唯々諾々とアメリカの言いなりに動いています。日本の官僚機構として恥ずかしい限りの集団というほかありません。
日本占領軍のトップだったマッカーサーは、一貫して強固な沖縄要塞化論者だった。日本本土は徹底した非軍事化でよいが、沖縄は徹底した軍事化でのぞむという二つの顔があった。マッカーサーは沖縄の人々は、民族的にも文化的にも日本本土の人々とは異なると考えていた。とんでもない思い違いです。
日本地位協定についてのアメリカの基本的な考え方は、アメリカ軍の駐留を日本から要請し、アメリカが同意するという論理、つまり、日本に頼まれてアメリカ軍を置いてやるのだから、アメリカ軍や軍人・軍属・家族の権益くらいは日本は受忍してもらわないといかん。そして、そこは、当然に治外法権だし、すべての駐留費用は日本が負担すべきだというものです。ひどい話です。
アメリカ軍が基地としていたところに環境汚染物質が埋められていたとき、その現状回復義務をアメリカは負わず、すべてを日本側の負担となっている。情けない話です。まるで日本はアメリカの植民地です。
沖縄国際大学にアメリカ軍ヘリコプターが墜落したとき、その一帯をアメリカ軍がたちまち立入り禁止区域とし、日本の警察・消防の立入まで拒否した。ええっ、ウソでしょ。そう叫びたくなりますが、そんなアメリカ軍の横暴を許しているのが日本地位協定なのです。
アメリカ軍の将兵が日本で犯罪を起こしても日本側は一次裁判権を放棄するという密約にしばられて手を出せません。いかにも不平等・不公平・不条理です。これは、日本政府のアメリカへの忠実さと誠実さですが、同時に日本国民への不忠・不誠実でもあります。
日本は憲法にしたがって十分な防衛力をもっていないので、自国の安全をアメリカに依存しているのだから、モノ(基地)とカネ(防衛支出金)でアメリカに「貢献」しまければならない。この論理に自民党政府と外務省はとらわれている。
アメリカ軍の駐留経費の7割を日本は負担している。ドイツは3割でしかなく、韓国・イタリアだって4割なのに、異常な比率となっている。しかも、日本は光熱水料を全額負担している。
日本は、モノ・カネ・ヒトの三分野で、アメリカに全面的に協力させれているが、そんな国はほかに存在しない。いったい日本はアメリカに対し、どこまで「協力」したらよいのか・・・。
憲法についてアメリカ押しつけ憲法だと叫ぶ人は、日本地位協定の屈辱的な内容と運用については沈黙を守っています。すべてはアメリカに日本の安全を守ってもらっているからという幻想によります。一刻もはやく目を覚ましてほしいものです。
本分282頁の堂々たる研究書です。ご一読下さい。

(2018年2月刊。3600円+税)

2018年4月 4日

記者襲撃


(霧山昴)
著者 樋田 毅 、 出版  岩波書店

アベ首相の朝日新聞バッシングは異常です。権力による言論弾圧としか言いようがありません。ウヨクによるアサヒ叩きも、同じように日本の言論の自由を制圧するものでしかありません。
今度の朝日の財務省の文書改ざんに関するスクープはまさしくクリーン・ヒットでした。さすがのアベ首相も朝日新聞は間違いだと言えず、3秒間だけ頭を下げて神妙な顔で申し訳ないと国民に対して謝罪せざるをえませんでした。
この本が問題にしたのは、今から31年前の1987年5月3日の朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)が散弾銃を持った目出し帽の若い男に襲われ、29歳の記者が亡くなり、42歳の記者が重傷を負ったという日本の言論史上かつてないテロ事件です。残念なことに「世界一優秀」であるはずの日本の警察は犯人を検挙できないまま時効となりました。
この事件を事件の前に阪神支局に勤めていた著者が執念深く追求していったのです。その真相究明の過程が詳しく語られています。
後半のところに勝共連合・統一教会も疑われていたこと、統一協会には秘密組織があったことも紹介されています。でも、私には「赤報隊」の声明と統一協会とは全然結びつきません。やっぱり、テロ至上主義の過激な日本人右翼が犯人だったとしか思えません。
朝日新聞については、私はそれなりの新聞だと評価しています。それは、今回の財務省の改ざんスクープでも証明されました。それでも、この本が問題としている役員応接室での右翼(野村秋介)の自殺における朝日新聞社の対応には疑問を感じます。自殺した右翼男性は2丁拳銃をもっていたのでした。1丁は朝日新聞の社長に、1丁は自分に・・・。しかし、実際には2丁とも自分に向かって発射し、朝日新聞の社長は無事だったのでした。さらに、このとき、朝日新聞社は社会部に知らせていなかったというのです。これも、おかしなことです。
アベ首相が朝日新聞を叩くとき、それに手を貸すようなマスコミがいるというのもまた信じられないことです。昔から、独裁権力は各個撃破するのが常套手段です。「明日は我が身」と考えるべきなのに、対岸の火事のようにぼおっと見過ごしているなんて、信じられないほどの感度の鈍さです。
マスコミ、言論の自由の確保は、私たち国民ひとり一人の自由に密接にかかわるものとして大切なことだと痛感させられる本でもありました。

(2018年2月刊。1900円+税)

2018年4月 3日

昭和解体

(霧山昴)
著者 牧 久、 出版  講談社

国鉄の分割・民営化はどうやって実現したのかを30年たって真相をたどった本です。読みすすめむにつれて、どんどん暗い気分になっていき、心が沈んでいきました。日本の民主主義は、こうやって破壊されていったんだな、それを思い知られていく本でもあるのです。
国鉄の分割・民営化を実現したことを自分たちの手柄としてトクトクと語る人々がいます。それは今のJR各社のトップにつらなる人たちです。でも、どうでしょう。JR九州の3月ダイヤ改正は見るも無残です。そこには、公共交通機関を支えているという理念はカケラもなく、純然たる民間会社として不採算部門(列車)を切り捨てて何が悪いのかという開き直った、むき出しの資本の論理があるだけです。過疎地に住む学生や年寄りといった人々の利便など、まったく視野のうちにありません。すべてはもうけ本位。いまJR各社は豪華なホテルを建て、ドラッグストアーを展開し、海外進出にいそしんでいます。
私が弁護士になって2年目の1975年(昭和50年)11月に1週間のスト権ストが打ち抜かれました。日本で最後のストライキと言えるでしょう。この闘争の敗北によってストライキが死語になり、日本の労働運動は衰退してしまいました。
労働者が労働基本権を主張すると、「変なヤツ」と見られる風潮が広がり、それは「カローシ」という国際的に通用する現象につながってしまいました。そしてやがて、「自己責任」というコトバが世の中にあふれました。さらに、貧乏なのは本人の努力が足りないからで、同情に価しないという冷たい心情をもつ人が増えてしまいました。
労働組合が頼りにならなくなり、あてにされないなかで、連帯とか団結という気持ちが人々に乏しくなってしまったのです。
目先の利益に追われ、軍事産業であっても仕事さえくれたら、食べられたらいいという人が増えてしまいました。
順法闘争が起きたとき、マスコミは人々の募った不便をことさらあおりたて、ついに人々は駅舎を襲うという暴動まで起こしたのでした。たしかにストライキが起きると、誰かが迷惑を受けます。でも、それが他の人々の権利行使だと分かったら、少々のことは我慢するしかありません。
たしかに、労働組合の暴走も現場にはあったのでしょう。だからといって、憲法に定められた労働基本権を無視するようなマスコミ報道は許されないはずです。
権力側は、戦後の日本の労働運動を中枢となって進めてきた国労をぶっつぶすことを目標として、あの手この手と周到に準備していたことがよく分かる本です。やはり情勢の正確な認識は難しいのです。
JR九州をふくめてJR各社が民間企業としてもうけを追及するのは当然です。でも、あわせて乗客の利便・安全性も忘れずに視野に入れておいてほしいと思います。九州新幹線のホームに見守る駅員がいないなんて、恐ろしすぎます。テロ対策どころではありません。JR各社には反省して是正してほしいです。

(2017年6月刊。2500円+税)

2018年4月 1日

ご用命とあらば、ゆりかごからお墓まで

(霧山昴)
著者 真梨 幸子 、 出版  幻冬舎

デパート外商部で働く人々を主人公とする連続小説です。主人公が次々に入れ換わりますので感情移入は難しいのですが、多面的に多角的にデパートの内外で働く(うごめく)人々を描いていて、読みはじめたら最後まで目が離せませんでした。つまり、私の得意とする読み飛ばしは出来なかったということです。
ただし、しっとりとした情緒とか雰囲気を味わうというものでもありません。この人たちの人間関係は次にどう展開していくのだろうかと、関心が先へ先へ進んでいくのです。
いろんな略語が出てきます。そのひとつがトイチです。トイチっていったら、ヤミ金。10日で1割の高利金融のことかと思うと、さにあらず。トイチとは、上得意客をさす。上という漢字をバラすと、カタカナのトと漢数字の一になることから来るコトバ。
デパートの外商とは、店内の売場ではなく、直接、顧客のところへ出かけて行って販売すること。外商という部門は、もともと呉服屋のご用聞き制度がルーツ。店舗では、店員と客は、その場だけの関係だが、外商と顧客の関係は、それこそ一生もので、「ゆりかご」から「墓」までお世話するのが外商の仕事。ある意味で、執事または秘書とも言えるし、顧客の話し相手になったり、日々の相談に乗ったりするのも外商の仕事なので、コンパニオンとも言える。
外商は究極の営業職だ。なので、誰かれ構わず愛想を振りまいていては、いざというときにエネルギー不足になる。エネルギーは、大切なお客様のためにとっておかなければならない。だから、優秀な外商は、めったやたらに笑うことはないし、口数も少ない。
なるほど、そういう仕事なんだと納得させてくれるショート・ストーリーが次々に展開していきます。そして、そこに現代社会の怖い落とし穴まであるというわけです。
でも、デパート自体が落ち目ですよね。今は、どうなんでしょうか。今後も生きのびられるものなのでしょうか・・・。外商を支えてきた超富豪は日本でも増加する一方なので、恐らく生きのびてはいくのでしょうが・・・。
軽い読み物とは思えない、ホラーストーリーのおもむきもある本でした。

(2018年1月刊。1400円+税)

2018年3月30日

告白、あるPKO隊員の死

(霧山昴)
著者 旗手 啓介 、 出版  講談社

この本を読むと、日本はつくづく検証というものをしない国なんだと思いました。私のなじみの言葉で言うと総括していないということです。ただ、総括という言葉は、例の連合赤軍事件での大量リンチ殺人事件のときに冒用(誤用)され、今では嫌な響きをもつコトバになってしまいました。とても残念です。
ことが起きたのは1993年5月4日の午後のこと。カンボジア北西部の国道691号線を走っているとき、突然ポル・ポト軍の部隊に襲撃されたのです。日本人警察官1人(高田警部補)が亡くなりました。このとき、日本政府は箝(かん)口令をひいて関係者に沈黙を命じました。ところが、日本以外の国は、ちゃんと事件を検証した結果を報告書としてまとめているというのです。
その場に同じようにいたスウェーデンでもオランダでも、カンボジアPKOに関しての検証がなされ、報告書がつくられて公表されている。また、ストックホルム国際平和研究所は、カンボジアへの文民警察官派遣は失敗だったという報告書を刊行している。しかし、日本ではすべてが闇の中である。
それをNHKスペシャルの取材班が掘り起こしたのです。日本政府の怠慢というか、秘密主義には、あきれるというより怒りを覚えます。
今のアベ自民党とちがって、まだまともだった宮澤喜一首相、そして官房長官の河野洋平も、日本政府としてカンボジアPKO派遣の実態をしっかり検証することなく、闇の中に置いて、国民の忘却を待ったのでした。
カンボジアPKOに日本の丸腰の警察官を派遣したのはカンボジアにはいちおうの平和があるということが前提でした。しかし、現地ではポル・ポト派の軍隊が健在で、実際には内戦状態は続いていたのです。そこへ丸腰の日本警察官75人がカンボジア全土に散らばったのでした。選挙監視が主たる任務です。自衛隊600人は施設大隊としてまとまっていましたので、安全面では、はるかに恵まれています。ところが、丸腰の日本人警察官は、75人が数人ずつカンボジア全土にばらまかれたのですから、どんなに不安だったことでしょう・・・。
当時は、今と違ってスマホもケータイもありません。電気などのインフラもありませんので、本部との通信が出来ないのです。これではたまりませんよね・・・。
ポル・ポト派の現地幹部だった人の証言もありますが、どうやら襲撃したのはポル・ポト派の一派で、日本人を殺害するのではなくて人質にとろうとしていたようです。ところが、日本人たちの車列にしたオランダ人将校が自動小銃で反撃したことから銃撃戦になり、ついに日本人が1人死んだということのようです。さもありなんと思いました。
総括されていな点では司法界、とりわけ裁判所でも同じことです。戦前の法務官僚が当然のような顔をして最高裁判事になったりしています。ひどい話です。戦前の日本軍が中国をはじめとする東南アジア各地で虐殺していたことを掘り起こすと、そんなのは「自虐史観」だとか言って、事実から目をそらそうとする日本人が少なくありません。これもまったくの間違いだと私は思います。そして、今、戦前の日本軍を美化して、同じように海外へ戦争をしに出かけようとする勢力がうごめいています。結局は、金もうけのためです。やめてほしいです。そんなことは・・・。

(2018年3月刊。1800円+税)

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