弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2020年10月10日

日本史、自由自在


(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 河出新書

東大の史料編纂所の教授である著者は、小学生のころから日本史が大好きだったとのこと。
私も、そう言えば日本史というか歴史物は大好きでした。小学生のころは偉人伝をよく読んでいましたし、中学生のときは山岡壮八の「徳川家康」を読みふけりました。高校に入ると、日本史の教師が、いかにも歴史を愛しているという風情で熱心に教えてくれましたので、その感化を受け、私も歴史が大好きになり、いつも満点に近い成績をとり、これだけは自慢でした(数学がパッとしませんので、理系志望を3年にあがる寸前に文系に切り替えました。理系クラスにはとどまりましたが...)。
著者は友人から「日本史がよく出来るって、どういうことなわけ?」と尋ねられたといいます。はてさて、どういうことなんでしょうか...。
史料をもとにして「考える」からこそ、日本史という学問は楽しい。
そうなんですよね。日本史を深く知ると、考える材料がたくさん手にすることができるというわけなんです。
著者は、「令和」という年号について、「これは良くない」と批判して、大炎上したとのこと。その理由は何だったのでしょうか...。
645年の「大化」が一番初めの年号。ところが、その後、年号のない空白の期間もある。うひゃあ、知りませんでした。701年の大宝からはさすがに継ぎ目なく定められている。つまり701年ころが日本という国の大きな画期になっている。
奈良・平安の貴族は、修めるべき教養として、4つの道があった。律令のことを勉強する明法道(みょうほうどう)、算数を勉強する算道。文章道と明経(みょうきょう)道の二つは、中国の文献を学ぶもの。貴族にとって、歴史とは、日本史ではなく、中国史を指していた。
戦国大名の師匠は中国史を学んでいるお坊さん。織田信長もそうだった。
岐阜城という「阜」とは小高い山、丘という意味なので、岐阜は岐山と言える。この岐山は、周王朝の始祖、武王の父親(文王)の本拠地。つまり、信長はこれから新しい王朝を起こすぞという姿勢を示すため、岐阜城と名づけた。信長は、中国の歴史をこのようによく勉強していた。
水戸光圀は、南朝、後醍醐天皇の皇統こそが正統だ、北朝系に正統性はないと考えていた。勤王家といっても、現在の朝廷は偽であり、まさに将軍が治める世の中なのだ。これが水戸学の本当の姿だった。ええっ、これって本当なんですか...。
水戸光圀だけでなく、新井白石も同じように考えていた。すると、水戸は勤王派というより、徳川将軍中心派ということになります。ところが、後期水戸学は、光圀とはちがい、将軍より近い存在が天皇だと考える国体論です。明治維新を実現した「志士」たちは、みな、この国体論で動いていた。
そして、幸徳秋水は、「明治天皇を殺して何が悪い。あれは偽物ではないか」と主張した。これを聞いて山県有朋たち明治政府の首脳部はあわてた。それで、南朝と北朝の矛盾をなんとか解消するよう命じられたのは、東大の史料編纂所だった。なーるほど、そんな経緯があったのですか...。
日本人が昔、肉を食べなかった理由は、調味料が塩しかなかったから。肉を食べるにしても、焼くか炒めるかだけど、食用油がなく、醤油がなく、味噌もないと大変。茹でても塩だけだと、物足りない。
昔の中国では、魚の王様は鯉(こい)。今は、海の魚のほうが人気があるとのこと。そして、江戸時代の日本人にとっての一番は鯛(たい)、次に鯉(こい)。
平安時代の「芋粥(いもがゆ)」は、サツマイモではなく、自生するつるみたいなものから甘味をとっていた。つまり、柿で甘味をとっていた。なので、虫歯は少なかった。女性のお歯黒も虫歯予防のため。
豚を食べないので、ビタミンB1をとれないから脚気になってしまう。昔の貴族は酒をがぶがぶ飲むので、糖尿病になる。肺病、糖尿病そして脚気が多かった。日本人が肉が美味いというのを知ったのは明治になってからのこと。なーるほど、やはり調味料は大切なのですね...。
朝鮮では一貫して「文」が上だったのに対して、日本では「武」が優先されてきた。そして、日本に軍師はいない。文官にして軍事にあたる軍師なるものは、日本には大江広元のほか、いない。
黒田官兵衛も竹中半兵衛も、みな本質的に武士なので、軍師ではない。
石田三成は「ミツナリ」ではなく、「カズシゲ」と読むべきだというのを初めて聞きました。一も二も三も、みな「カズ」と読むのだそうです。
知らないことだらけの日本史の話、オンパレードでした。
(2019年12月刊。810円+税)

2020年7月 4日

歩く江戸の旅人たち


(霧山昴)
著者 谷釜 尋徳 、 出版 晃洋書房

江戸の人々は旅を楽しんでいたようです。
誰が旅をしていたのか...。
平均年齢は30歳代ですが、最年長は50歳代後半でした。
5歳まで生きのびるのは、出生者全体の3分の2、40歳時点での生存者は当初の半分、晴れて60歳の還暦を迎えるのは3分の1。70歳に達するのは当初の2割。
ということは、旅に出た50歳代の男性は、連日の長距離歩行に耐えうる健康体を維持していた人々だった。
では、江戸の人は1日にどれくらい歩いていたのか...。男性で1日に35キロ、女性は28キロ超。1日に70キロ歩くのも不可能ではなく、最大50キロが普通だった。
朝の4時から7時ころに出発し、宿泊地には午後4時から6時ころに到着する。1日に少なくとも7時間、長いときには15時間にも及び、平均して10時間ほど。
江戸時代の庶民は寺社への参詣(さんけい)を旅の目的として藩の了解を得ておいて、真の目的は道中の異文化に触れて遊ぶことにあった。
近世庶民は、信仰を後ろ盾にして日本周遊旅行を存分に楽しんでいた。
伊勢参宮が最大だったのは文政13年(1830年)で、3月から6月までに427万人に達した。日本人の庶民の6人に1人が行った計算になる。
江戸の人々の歩き方は、現代日本人とは違っているようです。爪先歩行、前傾姿勢、小股・内股、歩行が奇妙であること。
日本人は歩行のとき足を引きずる。また、音を立てて歩く。こんなことに外国人が驚いています。
いまはコロナの関係で、それこそ自粛させざるをえませんが、日本人の旅行好きは昔からだということもよく分かる本です。
旅行ガイドブックがたくさん売られていました。それだけ需要があったわけです。
この本は江戸の旅人たちの様子をいろんな角度から紹介していて、大変勉強になりました。
ところで、旅の安全性はどうだったんでしょうか。女性の一人旅も少なくなかったと聞きましたが、本当でしょうか。ケガしたり、病気したときには、どうなる(なった)のでしょうか...。次々に疑問が湧いてきます。
せっかくここまで明らかにしていただいのですから、続編も大いに期待します。どうぞよろしくお願いします。
(2020年3月刊。1900円+税)

2020年5月16日

せき越えぬ


(霧山昴)
著者 西條 奈加 、 出版  新潮社

東海道は箱根の関をめぐる人情話です。ころは文政の時期。シーボルトが時代背景として登場してきます。そうです、蘭学に目を向ける人々もいた時代です。
私は、この本を読みながら山田洋次監督による時代劇『たそがれ清兵衛』に出てくる下級武士のつつましい暮らしぶりの情景を思い出しました。
主人公は武士といっても、わずか四人扶持でしかない武藤家の跡取りです。勉学よりも行動力で世の中をまっすぐ渡ろうという正義感があります。
主人公が少年時代に通った道場では、出自や家柄はまったく斟酌(しんしゃく)されず、平等に扱われた。この道場には町人の子も参加していたことになっています。果たして本当にそんな「平等」優先の道場が江戸時代にあったのでしょうか...・。
また、主人公の親友は、蘭学を教えてくれる塾に通っていたということになっています。そして、それが周囲の圧力から閉鎖されたというのです。
これまた、本当にあった話なのだろうか、と疑問を感じました。
恐らく、どちらも本当のことなのでしょう。身分制度が固定していたと言われている江戸時代でも、お金をもつ町人が大金を出して武士になれていたようです。やはり、お金の力は偉大なのですね...。
関所の役割、関所破りの実態、そもそも江戸時代の旅行というのは、どんなものだったのか...。関所破りは、どれほどあっていたのか、失敗して処刑されたという人はどれほどいたのか...、いろいろ知りたくなります。
それにしても、じっくり読ませるストーリーでした。いろんな伏線がどんどんつながっていくのには、小気味の良さも感じられます。江戸情緒たっぷりの良質の時代劇映画をみている気分で、最後まで一気に読みすすめることができました。
(2019年11月刊。1500円+税)

2020年5月 4日

奇妙な瓦版の世界


(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版 青幻舎

瓦版(かわらばん)とは、江戸時代に大変な人気を博していたマスメディア。明治に入ってからも20年以上は存続していた。ただし、もっとも勢いのあったのは、江戸時代の中期から末期にかけてのこと。
和紙に記事と絵が摺(す)られていた木版画で、簡易な新聞のようなもの。
江戸時代には瓦版とは呼ばれず、読売(よみうり)、一枚摺(いちまいずり)、絵草子などと呼ばれていた。
瓦版は基本的に違法出版物であり、幕府は瓦版によって庶民に情報が流通することに危機感をもち、早くも1684年(貞享元年)には瓦版の禁令を出している。それでも、瓦版は庶民のなかでしぶとく生き続けた。
瓦版は店舗販売ではなく、町中で読売という売子が売っていた。売子は深い編笠で顔を隠して売っていた。瓦版は墨摺1枚4文、100円ほどで、多色摺だと倍以上した。
瓦版は商売のため、もうかるためのもので、作成者に社会的使命はなかった。
黒船に関する瓦版の絵は大変迫力がありますが、これは長崎版画のオランダ船図を模倣したものという解説に、なるほどそうだろうなと納得しました。単なる遠くからの目撃で、これほど細密に黒船を描けるとは、とうてい思われません。
九隻の黒船について、八隻が瓦版で紹介されていますが、船や乗組員の名前に正解に近いものが多い。例えば、船名のレキスンタンはレシントン、ホウハワタンはポーハタン。通訳のホツテメンは、ポートマン、五番船の大将「フカナン」はブキャナンなど...。
ペリー一行に対して日本の高級料亭として名高い「百川」(ももがわ)の料理を提供した。その費用は1500両(今の1億5千万円)。ただ、魚介類中心の料理だったので、ペリーたちの評価はあまり高くなかった。瓦版は、その食事風景を描いています。当時の庶民の好奇心を満たしたことでしょう。
幕末には写真が登場しますが、その前には絵しかなかったわけですので、瓦版の絵とそれを紹介する文章は大変貴重なものだと思います。楽しく眺めることのできる瓦版の世界でした。
(2019年12月刊。2500円+税)

2020年3月14日

隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン


(霧山昴)
著者 山岸 昭 、 出版  人文書院

日本での布教に生涯を捧げたポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・デ・アルメイダは、実は隠れユダヤ教徒「マラーノ」の家系に属していた。知りませんでした...。
アルメイダは1525年にリスボンに生まれたユダヤ人、しかも1496年にユダヤ人追放令が公布されたあと、祖国ポルトガルに生き続けることを選んだ改宗ユダヤ人「マラーノ」の家系に属している。
アルメイダは23歳のときに祖国ポルトガルを脱出し、インドのゴアに渡った。しかしゴアも、ユダヤ人には厳しい都市だった。青年医師アルメイダは日本に来て、大分で大友宗麟の協力を得て、乳児院を建て、乳児の養育をはじめた。アルメイダは助手に日本人をつかい、医師養成に力を入れたことから、内科医療にたけたパウロやミゲルという日本人医師が生まれた。
アルメイダは日本の習慣をよくわきまえており、日本の人々と談話し、その心をつかむことに成功していた。ルイス・フロイスは、「アルメイダは、天草に布教し、成功した」と報告した。これが島原・天草一揆につながっていく。
14世紀のスペインで、突如として6千人以上のユダヤ人が血祭りにあげられた。犠牲者は7万人以上で、迫害を避けるため、ユダヤ人の多くは父祖の信仰をすてざるをえなかった。そして改宗キリスト教徒となった。このような改宗者は、「マラーノ」(豚)と呼ばれた。
フランシスコ・ザビエルのころ、異端審問所の広場で17人が生きたまま火あぶりに処せられた。このとき、ザビエルも同地にいた。
クリストヴァン・フェレイラは、禅宗に帰依し、日本人女性を妻とし、忠二郎のほか女の子までもうけていた。フェレイラは、1614年の禁教令から20年間ほど過酷な潜伏生活をしていた。1633年の穴吊りから始まる17年間も、厳しい棄教者としての生活を余儀なくされた。そして、フェレイラ(沢野忠庵)は、日本に南蛮医学をもたらした。
長崎の隠れキリシタン発見の手がかりは、「サンタ・マリア」像だった。5万人いると推定された。五島では、復活信者が3万人いて、潜伏を持続させた信者が1万人いた。
永井隆医師の妻は原爆によって亡くなったが、浦上三番崩れのときに牢死した吉蔵の曾孫にあたる。
隠れキリシタンを導いたイエズス会宣教師のなかに隠れユダヤ教徒(マラーノ)がいたというのは、私にとって新鮮な驚きでした。
(20年10月刊。2900円+税)

2020年3月 7日

天草島原一揆後を治めた代官、鈴木重成


(霧山昴)
著者 田中 孝雄 、 出版  弦書房

天草島原一揆のあと無人状態になった村々へ周辺から人々が移住させられました。そして、統治困難な天草の地を江戸幕府の代官として見事に治めた鈴木重成の生涯をたどった本です。地元民から今に至るまで慕われている代官がいただなんて、ちっとも知りませんでした。
鈴木重成は大坂で代官職・奉行職をつとめているころ、島原・天草でキリシタンを主力とする大がかりな一揆が起きたことから鉄砲奉行として征討軍に加わった。
そして、天草・島原一揆の鎮圧後、幕府代官として戦後復興にあたった。移民の誘致、年貢の大幅減免、社寺の再興につとめた。一揆で亡くなったキリシタンを仏式で弔うこともした。
鈴木重成が亡くなると、地元の人々は、供養碑を建立し、社を築いて「すずきさま」と呼び、敬慕の念を今に至るまで抱いている。
島原の乱は1637年(寛永14年)に発生した。
征討軍として幕府は板倉重昌と石谷定清を派遣し、重ねて、老中・松平信綱と戸田氏鉄の派遣を決めた。このときには、まだ板倉たちは現地に到着さえしていなかった。
板倉と石谷が現地・有島に着陣したのは12月6日のこと。その前の11月27日に、幕府は重ねての上使として松平信綱と戸田氏鉄の派遣を決定した。
松平・戸田が島原に到着したのが1月3日で、1月1日に原城総攻撃で板倉は戦死した。
「総大将板倉が戦死したので、幕府はあわてて老中松平信綱を差向けた」
という俗説は間違い。
比較的早い段階で松平と戸田を重ねて追討使としたのは、一揆を鎮圧したあとの始末が目的だった。鈴木重成は老中松平とともに鉄砲奉行として大坂城内の大砲数門と多くの玉薬を持って、板倉の戦死の3日後に有馬に到着した。
キリシタン一揆鎮圧後の仕置きという老中松平の負った本来の使命は具体的には鈴木重成の手に委ねられた。こうして、天領天草の初代代官となった鈴木重成は天草の復興を一身に負うことになった。
重成のかかえた課題は二つ。領民のくらしをどう向上させるか。宗教間対立が生んだ悲劇をどう克服するか。全体の年貢率は平均で田が23%、畑が18%に抑えられた。
重成は、貢租は二義的とし、復興を第一と決断した。
天草の庄屋の文書によって、重成時代の年貢率は15%から25%で推移していたことが判明している。
そして、重成は島原の代官まで兼務したのです。重成は天草の復興のためには神仏信仰への回帰が重要課題だと考えた。寺々が焼かれ、仏像をなくした村の無残な現実を見ていた。そこで、一般に新寺の建立を幕府が禁止していたなかで、重成は天草で社寺を復興させた。そして、一揆終結から10年間に再興した寺々で、亡くなったキリシタンについても亡魂供養を行った。 
歴史的事実をいろいろ発掘している貴重な本だと思いました。
(2019年6月刊。2200円+税)

2020年2月 1日

大江戸史話


(霧山昴)
著者 大石 慎三郎 、 出版  中公文庫

日本史上、間接税を最初に導入したのは田沼意次である。
田沼意次は、小姓組番頭格をふりだしに、小姓組番頭、側衆御用申次、側用人、さらに老中に準ぜられたあと、老中となった。しかも、側用人の役も兼帯した。老中は幕府正規の役職の最高位、側用人は正規ではなかったが、将軍の信任を得れば老中をうわまれる、いわば裏の最高権力者である。この両ポストを握った最初の人物が田沼意次だった。いわば、意次は幕府はじまって以来の権力者なのである。
郡上踊り(ぐじょうおどり)は、一夏を通して行なわれる特異な祭り。これは1754年(宝暦4年)から足かけ5年という長さでたたかわれた郡上一揆でずたずたになった領民を融和するために始められたもの。
九代将軍・家重の時代(1745~1760年)は、「全藩一揆の時代」として知られている。江戸時代でもっとも大がかりな全藩あげての一揆が多発した時代。
郡上一揆は内部に徹底抗戦派の百姓(立百姓)と妥協派(寝百姓)とに分かれての内部抗争もあって、長引いた。結局、幕府の最高機関である評定所にもちこまれ、農民側も多数の犠牲者を出したが、領主(金森頼錦)は改易(かいえき)、幕府のなかでも老中・若年寄・勘定奉行などが、私的に藩を支援したとして改易などの厳罰に処せられるという前代未聞の措置がとられて終結した。
この幕閣処分で、幕府内の直税増徴(年貢増徴)派は幕府の中心部から一掃された。
そして、変わって田沼意次たちの一派が登場して間接税の導入をすすめた。「敵」に一番打撃を与えたという意味では、領主を改易させたうえ、それを支援した幕府権力中枢にも多大の打撃を与えた群上一揆が最右翼である。
20年以上の本ですが、内容的に紹介したい話のオンパレードでした。
(1992年3月刊。460円+税)

2019年12月31日

カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿


(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版  勉誠出版

江戸時代、オランダはヨーロッパ人として対日貿易を独占していた。長崎の出島で1641年から1858年まで218年間も、それは続いた。
そして、カピタン(オランダ商館長)は当初は毎年、次いで4年に1度、江戸にのぼった。166回にものぼる。これは朝鮮通信使の12回、琉球使節の18回に比して断然多い。
カピタンの江戸参府の道中、一行を数日、止宿させた定宿(じょうやど)を阿蘭陀(おらんだ)宿と呼んだ。江戸、京、大坂、下関、小倉にあった。
江戸では本石町3丁目にあった。現在、JRの新日本橋駅のあたりに「長崎屋」があった。
1826年の参府にはシーボルトが随行していた。1850年の江戸参府が最後になった。
オランダ人としては、カピタンのほか書記1人、医師1人の合計3人。日本人のほうは60人ほど。
1850年分については京都の「海老屋」の宿帳(御用留日記)にその全員が書き残されている。
カピタンの江戸参府旅行は、宿駅を早朝に出立し、次の宿駅で昼食をとる休憩、そのあと引き続き次の宿駅まで旅して泊まる。この一休一泊を基本方針とする旅程だった。
献上物・進物は余分に持参し、無事だと残品が出る。それを売るのは許されていて、元値の5割増で買いとられ、それが元値の3倍で転売された。すると、幕府高官も阿蘭陀宿もずい分の定期的収入となった。
シーボルトが随行したときにはピアノまで運んでいた。
カピタンたちを見ようとどこでも見物人が押しかけてきて、大混雑した。役人は、その整理で大変だった。鉄棒をもった制止役人は汗だくだった。
江戸城でカピタンが将軍に会うときには、カピタンから将軍の顔は見えないほど。ところが、御台所をはじめ、将軍一族の女臣たち、大奥の女性たちが御簾のうしろから見物していた。入口の襖の前後には、大名の子どもたちや坊主が重なりあって、じっとカピタンたちを見つめて座っていた。
ケンペルが将軍に面会したのは「御座空間」だったことが、ようやく判明した。
カピタンの江戸参府が詳細に再現されています。日本人って、本当に昔から好奇心旺盛だったんですよね・・・。高価な本ですので、図書館でどうぞお読みください。
(2019年7月刊。6000円+税)

2019年12月29日

潮待ちの宿


(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  文芸春秋

うまいですね・・・。しみじみとした気分となって江戸情緒をたっぷり味わせてくれる本です。「歴史小説の名手が初めて挑む人情話」だとオビにありますが、まさしく、そのとおりの出来ばえです。
岡山県笠岡市の港町が舞台となっています。ときは幕末から明治のはじめのころです。長岡の河井継之助まで登場してくるのには驚かされますし、長州藩の負け武士たちもあらわれるなど、幕末のころの史実も踏まえていて、一気に読ませる力があります。
主人公の志鶴(しづる)は、貧乏な親から口減らしのため、小さな旅館に奉公に出され、そこでおかみ(女将)の伊都(いと)らに支えられて成長していきます。その姿が各話完結でつながっていくのです。作者の想像力の豊かさには、ほとほと驚嘆するばかりです。
そして、泊まりに来る客、そして女将を慕う人々など、人物描写がよく出来ていて、私も一度は、こんな人情話を書いてみたいものだと、ついつい身のほど知らずに思ったことでした。
潮待ちの宿というタイトルもこの本の話の展開に見事にマッチしています。小さな港で起きる話を「待つ」という言葉で貫いているのに、心地良さを感じさせます。
この本の最後に、出版前に読書会を開いて、いろいろな意見をもらったことが紹介されて、参加者の名前がずらりとあげられているのは、どういうことなのでしょうか・・・。これらの人々の感想によってストーリー展開がいくらか変わったということなのか、もっと知りたいと思いました。
今年よんだ本のなかでもイチオシの本の一つです。
(2019年10月刊。1750円+税)

2019年12月21日

さし絵で楽しむ江戸のくらし


(霧山昴)
著者 深谷 大 、 出版  平凡社新書

私は江戸時代に大変興味があります。現代日本とまったく違った時代であるようで、実はものすごく連続性がある時代なのではないかと今では考えています。
その江戸時代の実際の様子を絵で実感できるって、すばらしいことです。
年始の挨拶まわりは、1月1日は休んで、1月2日からしていた。というのも、1月1日は、旧年中の疲労がたまっているから、門を閉ざして休んでいたからだ。うひゃあ、そうだったんですか・・・。現代日本で、コンビニやスーパーが1月1日から開いているのは異常なんです。みんな休みましょうよ。
そして、もっていくお年玉はお金ではなく品物、たとえば、手ぬぐいや扇(末広がりで縁起がいい)だった。
新春の挨拶用語としては「御慶(ぎょけい)」という言葉がフツーだった。ええっ、聞いたことない言葉です・・・。
江戸時代は、キセルに詰めるタバコが大流行していた。「舞留(まいとめ)」と「龍王」が当時のタバコの有名ブランド。そしてタバコを売る店では、歯磨き用品も売っていた。
嫁入り婚となったのは江戸時代から。そして、結婚式は夜の行事だった。新郎と新婦は並んで座ってはいなかった。
二月の初午(はつうま)の日は、6歳か7歳になった子どもが寺子屋に入門する日だった。そして、寺子屋に入学するときには、子どもたちは、それぞれマイデスクを持ち込んだ。
町人社会は、50歳ころまでに隠居するのが通例だった。
江戸時代、下駄は高級品だった。裸足で外出する人も多かった。だから履物を玄関先で脱いだまま放置しておくと、盗られる恐れがあった。下駄はぜいたく品だったが、足袋も高級だった。遊女は冬でも足袋をはかないのが常だった。
江戸時代は、家族が一つの卓を囲んで食事するという習慣はなかった。めいめいが自分の膳に向かって食べた。
たくさんの図をもとにした解説なので、よくイメージがつかめます。
(2019年8月刊。800円+税)

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