弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2022年2月12日

江戸の旅行の裏事情


(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版 朝日新書

コロナ禍のせいで、私はこの2年間、福岡県の外へ一歩も出ていません。本当は、国内どころかフランスにも旅行するはずだったのですが...。
日本人は昔から旅行が大好きでした。それは戦国時代の宣教師たちのレポートでも明らかです。江戸時代は治安が良く、道路網も旅館も整備されましたから、殿様の参勤交代だけでなく、庶民も連れだって旅行に出かけていました。それは伊勢であったり、温泉であったりしました。成田山詣でには講が組織されていました。
伊勢参宮には御師(おんし)が活躍した。御師は、祈祷に携わる神職ではあるものの、営業部員ないし、旅行代理店のような仕事もしていた。800家を数えた。
御師と講が団体の参詣宮を増加させ、ひいては江戸の旅行ブームを牽引した。
また、江戸後期には、身分の上下にかかわらず、湯治(とうじ)つまり温泉旅行がブームになっていた。湯治は7日を一廻りと数え、三廻りするのが一般的だった。東は熱海・箱根、西は有馬の人気が高かった。
女性も旅行に出かけていた。関所破りも珍しくはなかった。
江戸も旅行の対象となり、『江戸名所記』や『江戸買物独案内』が刊行されて喜ばれていた。
吉原は人口8千人のうち遊女は2千人。吉原には男女を問わず、昼も夜も全国からの観光客でにぎわい、観光客相手の飲食業が盛んだった。
そして、江戸では、全国の寺社が出開帳(でかいちょう)を企画した。
私は最近『弁護士のしごと』という冊子を刊行しましたが、そのなかで、江戸の庶民がいかに旅行を楽しんでいたか、また、男女を問わず旅日記を書いていたことを書きつづったのですが、これが予想した以上に驚きをもって受けとめられ、大好評でした。
江戸時代の250年間というのは庶民にとって決して暗黒の時代ではなかったのです。ほとんど戦争のない、平和な時代を庶民はそれなりに楽しく過ごしていたのだと私も今では考えています。
(2021年11月刊。税込891円)

2022年2月 2日

柳河藩の政治と社会


(霧山昴)
著者 白石 直樹 、 出版 柳川市

柳河藩がどういう藩なのか、初めてその全体像を知ることができました。大変詳細なのですが、読みやすい文章になっていて、すいすいと読みすすめることができました。この本には、知らなかったことがたくさんあると同時にいくつも驚かされました。
その第一が、藩主すりかえ作戦に成功したということです。鑑広が8歳(幕府には12歳と届けた)で藩主となったものの、わずか3年後、11歳で病死してしまった。大名当主が17歳未満の場合には養子が認められなかったので、幕府に藩主の死亡を届けたら、お家断絶になってしまう。そこで、藩主の鑑広は生きていることにして身替りを立てることになった。誰を身替りに立てるかでいくつか案を検討したが、結局、鑑広の弟・保次郎(5歳)を鑑広に仕立てあげることになった。中継ぎで藩士の誰かを立てたとき、もしもその藩士に子どもが出来たら、その母親が藩主だと主張する危険もあり、ともかく弟の保次郎を身替りでいくことにした。ただ、保次郎まで17歳になる前に死んだらどうするのかという心配があった。幸いにも保次郎は若死しなかった。
いやあ、そんなことまでしたのですね...。藩主の顔が広く知られていなかったというのが作戦成功の前提だったのでしょう。
柳河藩の財政状態はずっと苦しかったようです。七代藩主鑑通のとき、藩主の主導で藩財政を改革し、立て直すことを宣言した。これは、逆に家老・奉行たちから意見書が出されたことへの対抗策でもあった。鑑通は、財政難は家老や奉行、役人たちの「不埒(ふらち)」に起因していると考えていた。たとえば、さまざまな名目で年貢が納められていない土地があるのをやめさせようとした。そして、これは、鑑通が藩財政再建で頼りにした大坂の大名貸・加島屋(かじまや)の要求によるものだった。加島屋は蔵元就任の条件として、藩財政の改善を要求し、鑑通はこれを承諾したのだった。
大名貸の茨木屋が柳河藩へ貸し付けた金員の返済を求めて、柳河藩の大庄屋8人を相手どって大坂町奉行所に訴え出たというケースも面白いです。
茨木屋が貸し付けた相手はあくまで柳河藩。しかし、借用証文に大庄屋8人が名を連ねていたので、大庄屋を被告として訴え出た。ところが、大坂町奉行は、大庄屋たちを大坂まで呼びつけておきながらも、審理を開かないまま、茨木屋の訴を却下した。それは、武士身分者の金公事(かねくじ。金銭貸借訴訟)についての裁判権はないという理由だった。柳河藩は訴訟を回避すべく大庄屋は藩士であるとして、帯刀を認めていた。
ところが、茨木屋はあきらめず、今度は、江戸の幕府寺社奉行に提訴した。茨木屋は、柳河藩が茨木屋に返済すべき米(または銀)を大庄屋たちが横領していると新しく主張した。評定所で審理されたが、この評定には、町奉行大岡忠相も出席している。評定所では、茨木屋からの借銀の主体は大庄屋なのか柳河藩なのか、大庄屋とは農民の代表ではないのかという2点が主たる争点となった。
評定所は即日結審し、大庄屋による横領の事実は認められないとして、茨木屋の訴えはまたもや却下された。ただし、滞っている返済金は多額なので、柳河藩は茨木屋が納得する返済方法を協議するよう勧告された。そこで、柳河藩は茨木屋に対して年賦返済をすることになったようで、享保10年冬から返済しはじめた。
このように大名貸は、藩側が返済しないときには控訴も辞さないという事実が、その後の大名貸との関係で教訓となった。
柳河藩では、久留米藩で起きたような大規模な一揆は起きていない。ただ、上内村(大牟田市上内。かみうち)の農民600人が熊本藩領南関へ逃散するという事件が起きた。享保13(1728)年11月のこと。村役人が高い年貢をかけたことへの反発を理由としたもののようだが、幕府の老中や勘定奉行の介入もあり、結局、逃散した農民たちは全員、帰村した。その処分として、村役人のほうは家財を没収したうえ領外へ追放、頭取の百姓12人は死罪、頭取同然の者13人は没収・追放という厳しいものだった。
享保17(1732)年に始まる飢饉によって餓死者が1000人ほども出た。病死者も同数ほどいたので、藩としての対策がとられた。藩は領内の「極難者」が4千人以上いるとみていた。こんなときには、村内の富裕者が米などを拠出して困窮者に対して施行していた。
400頁以上もある大作ですが、休日にじっくり読み、大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込1500円)

日曜日に孫たちに手伝ってもらってジャガイモを植えつけました。メークイン、男爵、キタアカリそしてアンデスの乙女です。6月に収穫できるはずです。
 コロナ第6波の急速な感染の広がりに、恐れおののいています。学校や保育園で閉鎖も増えているようです。PCR検査が十分でないとか、検査キットが払底してしまったなど、政府の無策ぶりに怒りを覚えます。「中国の脅威」に備えて軍事予算を増大させていますが、国民の健康を守るのが先決です。

2022年1月29日

輝山


(霧山昴)
著者 澤田 瞳子 、 出版 徳間書店

石見(いわみ)銀山を舞台とする時代小説です。いやあ、すごいです。読ませます。作家の想像力のすごさを実感します。自称モノカキの私には、とてもこれほどの筆力はありません。情景描写もすごいし、ストーリー展開が思わず息を呑むほど見事なのです。そして、いくつもの伏線が終点に結びついていき、ついにクライマックスに達します。
私は、この本を2日間かけて読み終えました。まさしく至福のひとときです。
ただ、読み終わって、あれ、待てよ、どこかで、この本と同じようなストーリー展開を読んだ気がするなと思い至りました。でも、それがどんな本だったのか、具体的には思い出せません。
ともかく、鉱山にしろ農業にしろ、江戸時代の人々が大変な苦労をして、それをやりとげていたのは歴史的な事実です。石見銀山でも同じように苦労しながら働いていた人々、そして、それを管理する人々がいます。それぞれ、思惑はいろいろあって、お互いにぶつかりあいます。
それを生のデータとして提供するのではなく、細かい鉱山の採掘状況を描写しつつ話を展開させ、読み手の心を惹きつけていく。さすがです。
銀山で働く労働者は、じん肺でヨロケにかかって若くして、40代に死に至ります。この本では「気絶(きだえ)」と呼んでいます。でも、それぞれ親や子をかかえているから、先が短いのを知りながらも耐えて働くのです。
そして、それを扱う商人がいて、そのうえに藩がいる。そんな構造のなかで、人々はもがき、また、いくらかは楽しんでもいるのです。
「破落戸」とは、「ならずもの」と読ませるのですね。知りませんでした...。
(2021年9月刊。税込1980円)

2022年1月 8日

恵比寿屋喜兵衛手控え


(霧山昴)
著者 佐藤 雅美 、 出版 講談社文庫

1994年の第110回直木賞受賞作です。27年も前の本を今ごろ読んだ理由(わけ)は、先ごろ江戸時代の公事師(くじし)は江戸の訴訟で重要な役割を果たしていたことを各種文献によって私が論証したのを読んだ弁護士仲間から、この本を紹介されたからです。うかつでした。公事師の活動状況が、こんなに見事に小説になっているなんて、まったく知りませんでした。
公事師は刑事裁判にも関わりますが、基本は民事裁判です。といっても、この小説もそうですが、江戸時代の裁判は民事と刑事が混然一体となっているところがありました。もちろん奉行所はどちらも扱えます。
裁判は、手付金返還請求の被告とされた人の弟が公事宿(くじやど)に駆け込んでくるところから始まります。なので、純然たる民事訴訟のはずで、奉行所は証文を当事者双方に出させて、口頭で双方を審問します。公事宿の主人(公事師)はその場に立会していますが、代理人ではありませんので、代弁はしません。
被告として受けて立ち、裁判を争いたいという「六助」に宿の主人は、裁判にはお金がかかることをじっくり説明した。ところが、「六助」は、それでもいいと言いはった。
「御白州(おしらす。裁判所)では、間違っても小賢(こざか)しく振る舞ってはいけない。公事訴訟にはまったくもって詳しくない。見てのとおりの田舎者。と、むしろ愚直をよそおうのがいい。賢くはないが、頑固一徹者、という印象を与えられたら、なおいい」
これって、今の裁判にも十分通用する注意です。
公事買(くじかい)といって、買ってまで公事訴訟をおこす、公事になれた家主が江戸には少なくなかった。
そうなんですね、昔から日本人は裁判が好きだったんです...。
金公事(かねくじ。金銭貸借を扱う裁判)は、役人が当事者を脅かしたりすかしたりしているうちに、なんとなく内済(ないさい。和解・示談)の方向へ話がすすんでいく。そして、金銭支払いのときは、無利息・長期月賦の「切金(きりがね)」を利用することで決着が図られることが少なくなかった。これを歓迎する人も、もちろんいるが、庶民には不評だった。
この本では、旅人宿と百姓宿とがニラミあっていて、お互いに先方の縄張りに浸食しようとして、しのぎを削っている様子も描かれています。
あと、この本が読ませるのは、公事宿の主人が、自らの妻が病床にいるあいだに、妾を囲って子を産ませ、そのことを気に病んでいる、といった心理描写も出てくるところにあります。
まことに幅の広い、そして奥の深い人間観察をふくむ、公事師が大活躍する人情話でもある文庫本です。あなたもぜひ、ご一読ください。
(2019年9月刊。税込713円)

2021年10月20日

今に息づく江戸時代


(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 吉川弘文館

江戸時代は、これまで想像されていた以上に、豊かで成熟していた。江戸にいる将軍は天から日本国民の統治を委ねられ、国主(大名)は将軍から領民の統治を委ねられていた。「ここで「天」とは「天皇」の意味ではない。
大名行列が通るとき、民衆は恐れて道を避けるが、権力者(大名たち)をそれほど気にしていないのが常だった。大部分の者は平然と仕事をしていた。武士と農民は、お互い遠くで見て見ぬふりをしてやり過ごした。これが当時の社会的知恵・作法だった。
幕末(1865年)に来日したシュリーマン(トロイ遺跡を発見した)は、日本は平和で、総じて満足しており、豊かさにあふれ、きわめて堅固な社会秩序があり、世界のいかなる国々よりも進んだ文明国だと評した。
そして、日本人は、あまり信心深くない。月に1回、お寺に行くか行かないかくらいだと来日した外国人からみられていた。
村々は、武士が城下町に移り住んでいたことから、農民による自治が行われていた。庄屋は読書・そろばん能力が必須だった。そして公文書によって任務を引き継いでいた。
江戸時代の武士たちによるチャンバラ(切りあい)は少なかった。路上で刀を抜いたら、処罰の対象になった。長刀は公務用、小刀は自殺用だった。小刀で他者を傷つけることはなかった。
江戸の役人たちは、犯罪を武力弾圧するより、予防措置に力を入れていた。
徳川吉宗が八代将軍になったのは「革命」だった。
「享保革命歴史」という当時刊行された本がある。ここで「革命」とは、王朝・王統が変わって新たな統治者が生まれることをいう。うひゃあ、これは知りませんでした...。
吉宗は、儒学や和歌などの教養は乏しかったが、実用的な学問に関してはとても関心をもっていた。薬学に通じ、全国各地に朝鮮ニンジンを植えさせ、国産化・普及につとめた。吉宗は、洋書の輸入禁止を緩和した。
吉宗は「足高(たしだか)制」をとって、有能な著者をどんどん採用していった。実力主義・能力主義の時代に入ったのだ。
吉宗は今日まで続く官僚システムを整備した。
公文書の整理に着手したが、分析に手間どり、なかなか進まなかった。
吉宗の下にいた大岡裁きで著名な大岡忠相は、もっとも官僚らしい官僚だった。法と公文書の整備こそ官僚制の基礎をなしている。
日本人の教育力と教育熱に支えられた江戸教育は、250年という長期の平和を実現し、独自の日本型文明を築いた。寺子屋は全国に1万5千もあったが、実際にはその5倍ほどあった。
ロシア海軍のゴローニンは、「全体として一国民を他国民を比較すれば、日本人は天下を通じてもっとも教育のすすんだ国」だとした。成年に達したら、男女とも、読み書き、数の勘定ができた。
江戸城の大奥にも官僚組織があった。大奥は、当時の活発な女性たちを象徴する場でもあった。
江戸城の無血開城について、勝海舟と西郷隆盛の会談で成立したことになっているが、大奥にいた二人の女性が、それぞれ官軍へ使者を送り、また幕府軍の爆発をおさえたこときちんと評価すべきである。薩摩から嫁入りした篤姫と朝廷から降嫁した和宮である。
自信にみち、たくましく働き、ときに花見や芝居見物を楽しむアクティブな女性たちがいるのに、来日していた外国人たちは驚いていた。
200頁あまりの薄い本ですが、江戸時代が実は今に続いていることを実感させられる記述のオンパレードでした。
(2021年7月刊。税込2420円)

2021年9月22日

江戸移住のすすめ


(霧山昴)
著者 冨岡 一成 、 出版 旬報社

江戸の町人の日常生活が多面的に紹介されている本です。江戸時代を美化しすぎてはいけないと考えていますが、かといって変化に乏しい暗黒の日々を庶民が過ごしていたというのではないように思います。江戸の人々も今も私たち(現代日本人)と同じく、たくましく、したたかに、また、しなやかに日々を謳歌していたと思います(思いたいです)。そこには山本周五郎の描く、しっとりとした日々もあったのではないでしょうか...。
幕末期の江戸の人口は120万人。町人人口は58万人。町人は270万坪の区域に住んでいたので超過密状態。人口密度にして1平方キロに4万人。今の2倍ほど。江戸の庶民の多くは、裏長屋と呼ばれる四畳半ひと間、6畳ひと間のスペースに一家で暮らしていた。
裏店に住む住民は、すべて無税、水道代もタダ。安い賃料を支払うだけでよかった。
家賃は、四畳半ひと間で月300文。収入の高い大工の1日の収入は500~600文。
水は、井戸水は塩気が多いので、水売りから買って飲んでいた。
部屋には押入れがなく、タンスがあるくらい。いえ長火鉢(ひばち)はあった。布団は屏風で隠すだけ。流しがあり、七輪はあったが、便所は外の共同便所。
ご飯は朝に1日分のお米を炊いて、夕食は冷や飯を茶漬けでさらっとすませる。江戸の長屋に掛け蒲団はない。長屋には、いろんな物売りがやって来た。江戸の人々が物を捨てることは、まずない。茶碗がこわれたら、焼き継ぎ屋に直してもらう。道に屑(くず)が落ちていても、それは紙屑拾いが仕事として集めるものなので、町人がみだりに屑を拾ってはいけない。
江戸の人々は、「です」とか「である」とは言わない。「であります」とも言わない。「である」とか「であります」は明治のはじめに士族がつくったコトバ。「です」とは「でげす」と同じで、芸者のコトバ。江戸の人は「でございます」、女性は「でござんす」と言った。
江戸の人たちは、「キミ」も「ぼく」も言わない。これは明治のコトバ。相手には、「おめえ、てめえ、貴公(武士)」、自分のことは「おれ、おいら、あっし、わっち、拙(せつ)」と言った。目上の相手には「おまえ」、目下には「てめえ」、自分は「わたくし」と言った。
江戸には、1日に千両のお金が流れる場所が3ヶ所あった。ひとつは鼻の上、目で楽しむ芝居町。江戸3座で昼間に千両のお金が動いた。鼻の下、口で味わう魚河岸(うおがし)で、朝のうちに千両の商いがあった。おへその下は吉原。ひと晩に千両が使われた。この三大繁華街を「日千両」とも呼んだ。
江戸時代のエコな生活に戻ることはできませんが、江戸の人々は生活を楽しむ工夫をしながら、きっと毎日を生きていたと私は考えています。
(2021年2月刊。税込1650円)

2021年9月 5日

「名奉行」の力量


(霧山昴)
著者 藤田 覚 、 出版 講談社学術文庫

江戸時代にも「傾向と対策」のような受験参考書があったそうです。これには驚きました。もちろん私も大学受験のときには「傾向と対策」を愛用していました(今はないようですね)。そして、年2回のフランス語検定試験を受験するときにも、「傾向と対策」を活用しています。
江戸時代に「学問吟味(ぎんみ)」という試験があり、これの「傾向と対策」として、『対策則』という遠山景晋(かげみち)の書いた本がある。この遠山景晋は、入墨(いれずみ)をした名奉行と噂の高い遠山金四郎景元(かげもと)の父親。景晋は、受験するときには、他説(朱子以外の説)を交えないこと、日本語訳の適切さの2点が大切だと強調した。うむむ、なるほど、ですね...。
町奉行は、旗本が就任できる幕府の役職のなかで、もっとも上級の重職だった。
町奉行には任期がなく、長くつとめた人もいれば、数年で交替する人もいた。その下に仕える与力・同心は、世襲のように勤務していた。与力・同心は、町奉行のなかで隠然たる力をもっていて、町奉行は人形で、与力・同心が人形遣い(つかい)という関係にあった。
名奉行と言われた人は、部下の与力・同心を甘く使ったので、この御奉行ならと思って仕えてよく働いた結果、奉行が名奉行とほめられただけのこと。反対に、虫の好がない奉行が着任すると、与力・同心は敬遠して面従腹背で協力しないので、奉行は2年から3年で転任せざるをえなくなり、町奉行所から追い出されたも同然になった。
江戸の町民にとって、奉行は交替するもの、与力・同心は代々世襲でつとめるものなので、町人の利害にとっては町奉行所より、与力・同心のほうが重要だった。
ふむふむ、なーるほど、そういうことなんですね...。
天保の改革(1841年~)を始めた老中の水野忠邦は、ほとんどの役所から無視されてしまった。そして、ついに2年後に失脚した。ところが、9ヶ月後に老中に返り咲いて、世の中を驚かした。にもかかわらず、1ヶ月もせずして水野忠邦は頭痛や下痢・風邪などを理由として欠勤するようになり、ついに翌年2月に辞職した。
いやあ、そ、そうだったんですね...。
江戸時代には、贈り物を買い取る商売があった。
江戸時代の金利の相場は、もともと15%であり、それを12%に引き下げようとしたのが、幕府の金利政策だった。
江戸時代の実相を知るには、手頃な文庫本です。ぜひ、一読してみてください。
(2021年1月刊。税込1056円)

2021年8月25日

伊能忠敬の日本地図


(霧山昴)
著者 渡辺 一郎 、 出版 河出文庫

私の住む町にも伊能忠敬が来て測量したようです。町の中心部に、それを記念する碑が建っています。江戸時代に日本全国を歩いて測量してまわって詳細な日本地図をつくったことで有名な伊能忠敬の日本地図にまつわる話が山盛りの文庫本です。
伊能忠敬の関係資料は今から10年前(2010年)に国宝に指定されたそうです。当然のことだと門外漢の私も思います。ともかく貴重な測量図です。ところが、そんな貴重な伊能図がフランスとかアメリカに流出していたようです。それを現地で探し出していく著者の執念にも驚嘆しました。
伊能忠敬の家は息子も孫も若くして亡くなり、いったん絶えたが、幕末に伊能家は再興することができ、伊能図や文書類を維持・管理できたということのようです。大変な苦労が必要だったことでしょうね。ともかくスペースをとったと思いますので...。その資料の保存には伊能家の女性たちが活躍したことも紹介されています。やはり、女性の力は偉大です。
伊能忠敬の書庫から解放されて庶民のものになるのは、伊能図が幕府に提出(1821年)されて50年たった明治になってからのこと。江戸時代には、厳重な実測量を必要としていなかった。
伊能忠敬は商才を発揮して酒造業、米穀売買、金融業を営み、資産3万両(1両を15万円として、45億円)という資産家だった。事業に成功した忠敬は49歳のとき隠居した。息子は28歳。江戸に出て、天文・暦学を志し、19歳も年下の幕府天文方髙橋至時(よしとき)に入門した。忠敬は、地球の大きさが話題になっていることを知ると、自ら、測量してやろうと思った(らしい)。天文・暦学は面白いけれど、かなり難しい。しかし、測量なら自分でもやれる。忠敬はそう考えたのだ。
伊能忠敬は、終始一貫して現場指揮をつとめた。全測量期間を通して従事したのは伊能忠敬だけ。忠敬は歩測で測ったのは、第一次測量のときだけ。第二次測量からは、間縄(けんなわ)を張って測っている。天体観測は伊能隊の表看板で、1晩に、多いときは20個以上の星を測った。忠敬が測った恒星は、こぐま座、カシオペア座、しし座など、誰でも見られる普通の星。忠敬は自宅で測定した恒星の高度表をもっていたので、それと比較して緯度を求めた。伊能隊には経線儀がなかった。結果として、伊能図は北海道と九州がかなり東偏している。
間宮林蔵は忠敬の弟子である。忠敬は日本中を歩いてまわったが、忠敬は持病もちで、それほど体が丈夫なほうではない。なので、測量隊が進行するときには、主催者であるから村々では医師を待機させていた。
貴重な伊能図の発見と紹介が要領よくなされています。ありがとうございました。いちど、ぜひ現物をみてみたいと思いました。
(2021年5月刊。税込1089円)

2021年8月22日

和算


(霧山昴)
著者 小川 束 、 出版 中央公論新社

江戸時代、庶民においても「読み、書き、珠算(そろばん)」は必要なものと考えられていた。江戸時代の人々は、みな算数が社会において重要な知識、技能であることを理解していた。「そろばん(珠算)が何の役に立つのか」などと文句を言うモノはいなかった。江戸時代、珠算は必須の技能だったからだ。
神社に奉納した絵馬のようなものとして算額がある。江戸時代、数学の愛好者は互いに問題を解いたり、算額を奉納していた。神社は数学の発表の場だった。現存する最古の算額は、1683年のもの。関ヶ原合戦(1600年)から83年たっただけ。このような算額奉納は世界に例がなく、日本独自の文化現象。現存している算額は884枚だが、復元された91枚、文献に出てくる1646枚を加えると、2621枚にのぼる。
算額は天明(1781~1789)年ころから急激に増えはじめ、1800年から1809年にピークを迎えた。この10年間だけで、算額は300枚近い。算額は東日本に多く(東京369枚。次は岩手184枚、福島153枚、長野109枚、新潟105枚)、西日本は比較的少ない。
江戸時代の人々が数学を学ぶとき、初歩を終えると、数学を教授する師匠の下に入門するのが普通だった。数学にはいくつかの流派がある。
数学を教えながら、全国各地を歴訪した人がいたというのも驚きです。法道寺善という安芸国(広島県)出身の人です(1820年生まれ)。法道寺は、豊前(大分)、肥後、長崎、北陸道、東山道を遊歴し、各地で数学を教授したといいます。
江戸時代の人々にとって、もっとも身近な算学(数学)の教科書は、「塵劫記(じんごうき)」だった。1627年に刊行された、この本によって近世日本の数学文化は一挙に花開いた。
江戸時代の数学は世界的にみて最先端をいく成果をいくつもあげた。関孝和は日本の和算の創始者。関は存命中は1冊の本しか出していないが、一般人には難しすぎる傑作だった。
江戸時代の数学は、抽象的な計算技能と、その応用分野としての平面幾何、立体幾何から成り立っていた。そんな数学文化が継続できたのは、幾何の問題を無尽蔵に生み出すことができたから。そこには、図形の美しさという美的感覚、複雑な計算の完遂という高揚感があった。
なーるほど、すばらしいんですね。アルファベットも、X・Yもない時代、そして0(ゼロ)もなくて、どうやって計算していたというのか、ぜひ知りたいところなんですが...。
(2021年1月刊。税込1980円)

2021年8月15日

ウィリアム・アダムス


(霧山昴)
著者 フレデリック・クレインス 、 出版 ちくま新書

三浦接針。つい先日、長崎県平戸市でアダムスの遺骨だと判明したというニュースが流れました。ええっ、徳川家康に重宝されて江戸に住んでいたのではなかったの...。そんな疑問がこの本を読んで解けました。徳川家康からはイギリスへ帰国しないでくれと懇願されていたようですが、家康が亡くなり、秀忠の時代には疎遠となり、イギリスが商館を開いていた平戸に行き、そこで病死したというのです。
でもアダムスにはイギリスに妻子がいるほか、日本にも妻子がいました。日本人の妻はカトリック教徒だったようです。アダムスの死後、どうしたのでしょうか。また、息子と娘がいましたが、その子どもたちはどうなったのでしょうか。秀忠はキリスト教を厳しく禁圧しましたので、ひょっとして、その犠牲になったのでしょうか...。そこらはこの本に書かれていませんが、ぜひ知りたいところです。誰か教えてください...。
それでも、三浦接針となるまでのウィリアム・アダムスと、彼を取り巻く世界情勢がよく解説されていて、とても興味深い本です。
ウィリアム・アダムスは、オランダ船に乗っていたけれど、イギリス人の航海士。このころ、イギリスはエリザベス女王の治世下。イギリスは、軍事力ではスペインの足下にも及ばないので、スペインとの全面戦争を避けていた。
それでもイギリス船はスペインの船を襲って掠奪していた。それで名を上げたのがフランシス・ドレイク。アダムスが青春時代を送った1570年代のこと。スペイン艦隊からイギリス船団が奇襲攻撃を受けてなんとかドレイクは逃げのびたこともあった。このように、イギリスとスペインは互いに憎悪の関係にあった。
イギリスはスペインの無敵艦隊との海戦で大勝しましたが、そのとき、ドレークの艦隊にアダムスも乗っていた。戦争のあと、アダムスはイギリスのバーバリー商会に就職し、船長あるいは舵取りとして働いた。そして、オランダ商船団がアジアに行くのに乗り込んだのです。
この船団の真の目的は、太平洋に面した南アメリカの海岸でスペインの拠点と船を狙って財宝を略奪し、それらの財宝をもとにアジアで貿易することにあった。
なので、アダムスの乗っていたリーフデ号が遭難して大分県臼杵湾にたどり着いたとき、船内には大量の武器があったのです。大型の大砲19門、複数の小型大砲、鉄砲5百挺、鉄砲弾5千発分、鈷弾3百発分、火薬50キンタル(3千キロ近い)、鎖帷子(くさりかたびら)入りの箱3個、火矢355本、現金2千クルサンド(4千万円)、そして毛織物入りの大箱11個。24人の船員には商人らしきものはおらず、船員は兵士の船体をしている。
イエズス会の宣教師たちは、このオランダ船の船員が「異端者」だと分かって、すぐに悪口を言いたてはじめた。
家康はこのとき59歳、アダムスは大坂城に連れてこられて家康から直接の尋問を受けた。ときに1600年5月12日のこと。家康は、イギリス人(アダムス)とオランダ人(ヨーステン)に興味津々で、質問を重ねた。ヨーステンは、八重洲と名を残しているのでしたよね...。
アダムスは世界地図を示して家康に話したようです。また、家康の命令で船の建造もしています。関ヶ原の戦いや大坂夏・冬の陣などで多忙な家康でしたが、アダムスをそばに置いて、いろいろと質問攻めしたようです。アダムスも、そのうちに身につけた日本語で答えていたと思われます。家康は好奇心旺盛の人物だったんですね。
イギリスとオランダ、そしてカトリックの宣教師たちとの敵対関係、競争関係にアダムスは翻弄されたようです。一枚岩ではなかったのです。三浦接針についての興味深い本でした。もっともっと知りたくなりました。
(2021年2月刊。税込1012円)

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