弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2021年8月15日

ウィリアム・アダムス


(霧山昴)
著者 フレデリック・クレインス 、 出版 ちくま新書

三浦接針。つい先日、長崎県平戸市でアダムスの遺骨だと判明したというニュースが流れました。ええっ、徳川家康に重宝されて江戸に住んでいたのではなかったの...。そんな疑問がこの本を読んで解けました。徳川家康からはイギリスへ帰国しないでくれと懇願されていたようですが、家康が亡くなり、秀忠の時代には疎遠となり、イギリスが商館を開いていた平戸に行き、そこで病死したというのです。
でもアダムスにはイギリスに妻子がいるほか、日本にも妻子がいました。日本人の妻はカトリック教徒だったようです。アダムスの死後、どうしたのでしょうか。また、息子と娘がいましたが、その子どもたちはどうなったのでしょうか。秀忠はキリスト教を厳しく禁圧しましたので、ひょっとして、その犠牲になったのでしょうか...。そこらはこの本に書かれていませんが、ぜひ知りたいところです。誰か教えてください...。
それでも、三浦接針となるまでのウィリアム・アダムスと、彼を取り巻く世界情勢がよく解説されていて、とても興味深い本です。
ウィリアム・アダムスは、オランダ船に乗っていたけれど、イギリス人の航海士。このころ、イギリスはエリザベス女王の治世下。イギリスは、軍事力ではスペインの足下にも及ばないので、スペインとの全面戦争を避けていた。
それでもイギリス船はスペインの船を襲って掠奪していた。それで名を上げたのがフランシス・ドレイク。アダムスが青春時代を送った1570年代のこと。スペイン艦隊からイギリス船団が奇襲攻撃を受けてなんとかドレイクは逃げのびたこともあった。このように、イギリスとスペインは互いに憎悪の関係にあった。
イギリスはスペインの無敵艦隊との海戦で大勝しましたが、そのとき、ドレークの艦隊にアダムスも乗っていた。戦争のあと、アダムスはイギリスのバーバリー商会に就職し、船長あるいは舵取りとして働いた。そして、オランダ商船団がアジアに行くのに乗り込んだのです。
この船団の真の目的は、太平洋に面した南アメリカの海岸でスペインの拠点と船を狙って財宝を略奪し、それらの財宝をもとにアジアで貿易することにあった。
なので、アダムスの乗っていたリーフデ号が遭難して大分県臼杵湾にたどり着いたとき、船内には大量の武器があったのです。大型の大砲19門、複数の小型大砲、鉄砲5百挺、鉄砲弾5千発分、鈷弾3百発分、火薬50キンタル(3千キロ近い)、鎖帷子(くさりかたびら)入りの箱3個、火矢355本、現金2千クルサンド(4千万円)、そして毛織物入りの大箱11個。24人の船員には商人らしきものはおらず、船員は兵士の船体をしている。
イエズス会の宣教師たちは、このオランダ船の船員が「異端者」だと分かって、すぐに悪口を言いたてはじめた。
家康はこのとき59歳、アダムスは大坂城に連れてこられて家康から直接の尋問を受けた。ときに1600年5月12日のこと。家康は、イギリス人(アダムス)とオランダ人(ヨーステン)に興味津々で、質問を重ねた。ヨーステンは、八重洲と名を残しているのでしたよね...。
アダムスは世界地図を示して家康に話したようです。また、家康の命令で船の建造もしています。関ヶ原の戦いや大坂夏・冬の陣などで多忙な家康でしたが、アダムスをそばに置いて、いろいろと質問攻めしたようです。アダムスも、そのうちに身につけた日本語で答えていたと思われます。家康は好奇心旺盛の人物だったんですね。
イギリスとオランダ、そしてカトリックの宣教師たちとの敵対関係、競争関係にアダムスは翻弄されたようです。一枚岩ではなかったのです。三浦接針についての興味深い本でした。もっともっと知りたくなりました。
(2021年2月刊。税込1012円)

2021年7月 4日

天才 富永仲基


(霧山昴)
著者  釈 徹宗 、 出版  新潮新書

 江戸時代の中期に31歳の若さで亡くなった町人学者の話です。仏教について、まったく分からないままの私ですが、仏教経典を読破して、成立過程を明らかにして、仏教思想を解明した若き町人学者がいたというのですから、驚きます。20歳までに仲基は仏典をほぼ読破していたというのも信じられません...。
阿含(あごん)経典類は、釈迦滅像200年から300年たって現在の形にととのえられたもの。大乗経典は、仏滅後500年もたってから現われはじめたもの。般若経典や法華経は1~2世紀に成立し、華巌経は4世紀に成立した。大乗経典は、小乗経典成立後に編纂され、大乗経典を低く評価することで、自説の優位性を主張している。
 仲基はこう言った。インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)、中国は文を好む(レトリックを重視する傾向が強い)。日本は秘を好む(隠蔽する傾向が強い)。
 仏教経典が文字化されたのは釈迦滅後、2~300年してからのこと。それまでは口伝だった。初期の教えを伝えているパーリ語経典や阿含経典は、紀元前3世紀から紀元後5世紀までに編纂され体系化されていった。
 法華経や般若心経など日本によく知られている経典の大半は大乗仏教の経典である。その大乗経典は、大乗仏教の展開にともなって制作された。
 釈迦には3人の妻がいた。もともとの仏教では、肉食に対して、それほど厳格ではなかった。知らないことばかりでした。
 20歳までに仏教の経典をあらかた読み終えたなんて、とても信じられません。
(2020年9月刊。税込880円)

2021年6月27日

氏名の誕生


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書

私の名前(姓名)は霧山昴(きりやま・すばる)。これは養子縁組でもしない限り、一生変わりません。これが現代日本の当然すぎる常識。ところが、江戸時代は、名前(姓名)は年齢(とし)とともに変化するもので、一生同じ「名前」を名乗る男など、まったくいなかった。その常識が激変したのは明治時代の初めのこと。
この本は、このような常識の変化を丹念に追跡していて、もう頭がくらくらしてきます。何が何だか分からなくなってくるのです。それは、江戸時代の武士と庶民に通用していた常識と、朝廷での常識が別物だったことにもよります。明治維新によって朝廷が王政復古で昔のように変えたくても、ことは簡単ではなく、あれこれ変更を重ねて、ますます混迷をきわめていくのです。ここらあたりは読んでいて、まったく五里霧中。とてもついていけませんでした。
現代日本における人名の常識は...。人名は「氏」と「名」の二種で構成されていて、「氏」は先祖代々の大切な家の名で、「名」は親がつけてくれたもの。「氏名」を恣意的に変えることは、原則としてありえないこと。
ところが、江戸時代の名前で親が名づけるのは幼名だけで、改名は適宜なされていて、「かけがえのないもの」でもない。この二つの常識は、まるで違うもの...。
江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名そして隠居名という4種類の改名があるのが一般的。幼名は親などが名づけるが、15歳か16歳で成人したあとは、本人が自ら名を改める。
江戸時代の名前は、社会的な地位をある程度は表示する役割を担っていた。たとえば、~庵(あん)は医者一般がよく名乗るもの。名前は身分格式にもとづく秩序を重視する近世社会において、社会的な地位を相手に知らせる役割をもっている。
江戸時代、庶民も苗字(みょうじ)をもっていたが、それは自ら名乗るものではなく、人から呼ばれるものとして用いられていた。
この本ではありませんが、江戸時代の庶民も「氏名」をもっていたが、それは名乗るものではなかったので、あたかも庶民は「氏」をもたなかったかのように現代日本人が大いなる誤解をしたと指摘する本を読んだことがあります。
江戸時代の庶民にとって、苗字とは、自分から他者に示すものではなくて、呼ばれるものだった。また、「壱人両名」(いちにんりょうめい)という、一人で二つの身分と名前を同時に保持することができていた。これは、イメージとしては本名とペンネームの関係ですが、本質的にはまったく異なります。それぞれ、公の場で通用するものだからです。
そして、明治8年、山県有朋が、徴兵事務のために、平民に必ず名乗らせることにして以降、ついに現在の戸籍制度が完成したのでした。つまり、国が国民を兵隊にとる便宜をあくまで優先した結果として、現在の私たちの常識が成り立っているのです。
江戸時代は夫婦別姓でしたし、死後も別墓が当然だったのです。繰り返しますが、現代日本の常識は江戸時代の日本には通用しません。とても興味深い本でした。頭の体操にもなります。ぜひ、あなたもチャレンジしてみてください。
(2021年5月刊。税込1034円)

2021年5月30日

湯どうふ牡丹雪


(霧山昴)
著者 山本 一力 、 出版 角川書店

久しぶりに山本一力ワールドを楽しみました。俗世間の垢にまみれて、ちょっとギスギスした気分のときには、このワールドにどっぷり浸ると、心の澱(おり)がすっと抜けていき、全身に新鮮な血が流れてくる気がしてきます。血生臭い殺人事件が起きることもありません。詐欺事件が起きそうで、どうなることやらと、ハラハラしていると、途中から予期せぬ展開となり、しまいにはほっと心休まる結末となって...。そして、そこに至るまでに江戸情緒をたっぷり味わうことのできるのが、山本一力ワールドの心地良さです。
江戸時代にもメガネ屋という職業が本当にあったのでしょうか...。創業120年を迎える老舗(しにせ)眼鏡屋(メガネ屋)のあるじは、知恵と人情で問題に挑む、お江戸の名探偵。こんなオビの文句なのですが...。
江戸は小網町のうなぎ屋も登場して、江戸情緒をかき立てます。
店の自慢のタレに含まれたミリン、しょう油、うなぎ脂そして酒が備長炭で焼かれると、旨味(うまみ)をたっぷり含んだ、あの煙となる。
薬種(やくしゅ)問屋では、3種の丸薬を売って名高い。乙丸は、男の精力増強剤、丙丸は武家や老舗商家の内室・内儀が顧客。丁丸は小児の夜泣き・疳(かん)の虫・夜尿症の症状改善に効く。これは、漢方薬の薬局として今もありますよね...。
「明日は味方」が家訓の一つ。これは、今日をひたむきに生きていけば、迎える明日が味方についてくれるということ。なあるほど、そうなんですよね。
江戸町内で人気のあった瓦版(かわらばん)の記者を「耳鼻達(じびたつ)」と呼んでいた。
ストーリー展開が意表をついていて、その展開に心がこもっていますので、最後まで、安心して読み続けることができます。期待から裏切られることがないって、すばらしいことですよね...。
(2021年2月刊。税込1980円)

2021年5月 4日

高瀬庄左衛門御留書


(霧山昴)
著者 砂原 浩太朗、 出版 講談社

いやあ読ませる時代小説です。久々にいい時代小説を読んだという余韻に浸っていると立川談四楼が本のオビに書いていますが、まったく同感です。
司法修習生のときには山本周五郎を読みふけりました。弁護士になってからは藤沢周平です。そして、最近では葉室麟でした。
ちなみに、「士農工商」という言葉が学校の教科書から消えていることを、つい先日、知りました。武士の下に農民、工業従事者そして商人という階層があると教えられてきましたが、武士が支配階級であることは間違いないとしても、農・工・商には上下の格差はないというのです。なるほど、なるほど、です。もともと、この言葉は中国に起源があり、そこでは、フラットな「たくさんの人々」という意味で、使われているのであって、階層間の格差の意味はないというものだというのです。
しかも、士については、商売人が成り上がることもあったし、できたことが、いくつもの実例で示されています。そして、士をやめて商を始めた人もいたわけです。
時代小説ですから、当然のように班内部の抗争を背景としています。ただ、小さな藩だからなのか、それほどの極悪人は登場しません。
主人公は郡方(こおりがた)づとめの藩士。妻は病死した。一人息子は、父親の職業を引き継ぐのだが、あまりうれしそうでもない。郡方は領内の村々をまわって歩く。
野山を歩き風に吹かれると、おのれのなかに溜まった澱(おり)がかき消える。どろどろとしたものが、空や地に流れて、溶けていく...。この心地良さは他に代えがたいものがある...。
登場人物が、実は複雑にからみあっていて、それぞれの役割を果たしながら、謎が解明されていく趣向はたいしたものです。今後ますますの活躍を祈念しています。
(2021年3月刊。税込1870円)

2021年3月13日

椿井文書


(霧山昴)
著者 馬部 隆弘 、 出版 中公新書

『東日流(つがる)外三郡誌』は偽書と確定していると思いますが、古代の東北に未知の文明があったとするものですから、ロマンをかきたてるものではありました。
『武功夜話』も偽書だと断言する本(洋泉社新書)を読むと、そうだよね、偽書だろうねと思うのですが、今でも偽書だと思わず平気で引用したり、いや全部が嘘ではないとする人がいたりして当惑させられます。
この椿井(つばい)文書(もんじょ)は、椿井政隆(1770~1837年)が依頼者の求めに応じて偽作した文書の総称。中世の年号が記された文書を近世に移したという体裁をとることが多いので、だまされやすい。
なるほど、コピー機がないわけですから、人の手で写しをとるしかないときに、元の文書はどこに行ったか知らないけれど、これがその写しだと言われると、紙質の新しさなんて問題にならないわけです。椿井文書は近畿一円に出まわっていて、今でも村おこしに活用されているとのこと。恐ろしいことですね...。
村と村とが対立・抗争している状況で、その有力な解決策の根拠として椿井文書が登場する。必要に迫られ、求めに応じてつくられた偽文書だった。
椿井政隆は、意識的に未来年号を使用したと考えられる。つまり「平成33年1月」というような、ありえない年号を表記したのです。これは、偽文書だと訴えられたとき、戯れでつくったものと言い逃れができるような伏線だと考えられる。さすがに考えていますね...。
国絵図にしても、描写に描写を重ねたとすることで、紙や絵の具が新しいことを怪しまれないように工夫した。
信じたい人々に、その信ずる材料をせっせと供給していたというわけです。
トランプ大統領がインチキ選挙があったと叫ぶと、「そうだ、そうだ」と応える人がいるのと、本質的に変わらない現象ですね...。
(2020年4月刊。900円+税)

2021年2月28日

むさぼらなかった男・渋沢栄一


(霧山昴)
著者 中村 彰彦 、 出版 文芸春秋

渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマが始まることは知っていました(もっとも私はドラマをみることはありません)が、新しい1万円札の顔にもなるのですね。こちらは自覚がありませんでした。
渋沢栄一は三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎とは長く反目しあっていたとのこと。この本によると、岩崎弥太郎は、専制主義的な独占論を主張していたといいます。さもありなん、です。日本の財界って、昔も今も、自分たちのことだけ、金もうけ本位で、国民全体のことを考えようという発想がハナからありませんね。本当に残念です。教育にしても、すぐに役立つ、つまりダメになれば使い捨てる、目先の「人材」育成しか考えていないくせに、大声をあげて道徳教育を強調するのですから、ほとほと嫌になります。そんな財界の権化ともいうべき岩崎弥太郎と反目しあったというのですから、私はそれだけでも渋沢栄一の肩をもちたくなります。
江戸時代の末期、まだ幕府があったころにフランスに渡って、パリで開かれた万博(万国博覧会)を見学し、渋沢栄一はすっかり認識を新たにしたのだそうです。これまた、さもありなん、です。
渋沢栄一は、パリにいたとき、ロシア皇帝アレクサンドル2世、フランスのナポレオン3世、プロシャの皇太子らと一緒に競馬をみたとのこと。1867年6月のことです。
渋沢栄一は、もちろん船でフランスに向かったのですが、横浜を出てマルセイユ港に着くまで48日かかっています。船中でフランス語を勉強したようです。そしてフランスには1年8ヶ月も滞在して、大いに勉強したのでした。
幕末のころ、長州藩は大量の洋式銃を購入できたわけですが、それはアメリカの南北戦争が終わった(1865年)ことによるというのを改めて認識しました。南北戦争が終わって不要となった武器・弾薬類が大量にもち込まれたのです。
イギリス人商人のトーマス・グラバー(長崎の有名な「グラバー邸」の主)から、長州藩はゲベール銃3000挺、ミニエー銃4000挺を購入しました。坂本龍馬の亀山社中が紹介して、長州藩の井上(馨)と伊藤(博文)が交渉にあたりました。この大量の洋式銃の威力はすさまじく幕府軍の兵士たちをなぎ倒してしまい、長州勢の完勝、幕府軍の惨敗となったのです。
渋沢栄一は、埼玉県深谷市の農家の生まれです。農業を営むかたわら養蚕業そして藍(あい)を製造していました。つまり商才を父親から譲り受けたのです。そして、その才能を見込まれて農民から武士に取り立てられたのでした。幕末のころ、農民の子が武士になった例はたくさんありました。新選組の近藤勇や土方歳三、芹沢鴨などもそうです。
明治になって渋沢栄一は政府の要職に就き、さらには辞職して第一国立銀行に入ります。もちろん、そこで大活躍したわけですが、なんと渋沢栄一の肖像の入った額面5円の銀行券が発行されていたそうです。新1万円券の渋沢栄一の登場は「2度目のおつとめ」になるのでした。
財界人が自分と自分の会社の金もうけしか考えず、国の政治をそのために金力で動かそうとするなんて、サイテーですよね。そんなサイテーの財界人が今の日本に(昔もそうだったでしょうが...)、あまりに多すぎて、ほとほと嫌になります。まあ、それでも、ここであきらめてはいけないと思っているのです...。
(2021年1月刊。1600円+税)

2021年2月23日

女だてら


(霧山昴)
著者 諸田 玲子 、 出版 角川書店

江戸後期に活躍した女性漢詩人、原采蘋(さいひん)の半生を小説にして紹介しています。舞台は筑前国秋月藩。儒学者の原古処(はら・こしょ) の娘が主人公。
秋月黒田家は、本家の黒田家とのあいだでお家騒動の渦中にある。
原古処は、藩校稽古館(けいこかん)の教授、そして、古処山堂という私塾を開いた。秋月藩主の覚えもめでたかった。ところが、文化8年、秋月黒田藩で大騒動が勃発し、原古処は教授職から罷免されてしまった。その後、原古処は娘を連れて江戸参府の旅に出た。
そして、父・古処の死後、娘は男になりすまして、再び旅に出る。本藩の専横に苦しめられている秋月黒田家に、本藩には意のままにできない藩主後継者を迎えて家の存続を図り、真の独立を成し遂げる。これが真の目的...。
学問に身を投じ、おのれの名を世に知らしめるためには、諸国を旅して見聞を広め、人脈を築いておかねばならない。そうなんですよね...。
女性の一人旅なんて、危険だからしているはずがないと思っている人は多いわけですが、実は、江戸時代、女性が旅をすること、そしてたまには一人旅も少なくなかったのです。
主人公が江戸に向かうとき、秋月藩の許可は得られず、久留米藩子の養女になって、江戸参府を目ざした。
采蘋の恋人として登場する駿河国の田中藩士の石上玖左衛門も実在の人物だということです。
女流漢詩人が男装して活躍する、大活劇、そしてミステリー小説といった雰囲気のある本です。まさしく「女だてら」の世界です。秋月黒田藩と結びつけて小説が展開していく様子は、なんとも想像力のたくましさに驚嘆させられます。
秋月郷土館には、キリシタンを「壊滅」させた原城の戦いを描いた絵巻物の実物があります。圧巻です。まだ見ていなかったら、ぜひ行って見てきてください。
(2020年9月刊。1800円+税)

2020年12月24日

武士に「もの言う」百姓たち


(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版 草思社

 江戸時代の百姓をもの言わぬ悲惨な民とみるのは、実態からほど遠い。実際の百姓たちは、自らの利益を守るために積極的に訴訟を起こし、武士に対しても堂々と自己主張していた。
 この本は、信濃国(しなののくに。長野県)の松代(まつしろ)藩真田(さなだ)家の領内で起きた訴訟を詳しく紹介し、百姓たちが長いあいだ訴訟の場でたくましくたたかっていたことを見事に明らかにしています。
 内済(和解)によって丸くおさめるという裁判の大原則を拒否し、あくまで藩による明確な裁許を求める「自己主張する強情者」が増加していたこと、藩当局としても事実と法理にもとづく判決によって当時者を納得させようとしていたことが詳しく紹介されていて、とても興味深い内容です。
百姓たちは、訴訟テクニックを身につけ、ときにしたたかで狡猾(こうかつ)でもあった。
 この本のなかに江戸時代の田中丘隅(きゅうぐ)という農政家の著書『民間の省要(せいよう)』が紹介されていますが、驚くべき指摘です。
 「百姓の公事は、武士の軍戦と同じである。その恨みは、おさまることがない。武士は戦においてその恨みを晴らすが、百姓は戦はできないので、法廷に出て命がけで争う」
 つまり、百姓にとっての訴訟は、武士の戦に匹敵するほどの必死の争いだったという。
たしかに百姓は裁判に勝つために、武士に向かって、ありったけの自己主張をする。それを裁く武士の側も、原告と被告の双方を納得させられる妥当な判決を下さなければ、支配者としての権威を保てない。
 江戸時代の人々に訴訟する権利は認められていなかった。紛争の解決を領主に要求する権利はなく、領主が訴訟を受理するのは義務でなく、お慈悲だった。
しかし、これは建前であって、現実は百姓たちは武士たちが辟易(へきえき)するほど多数の訴訟を起こした。百姓たちは、「お上(かみ)の手を煩(わずら)わす」ことを恐れはばってばかりではなかった。
 「公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)」は、一般には公表されない秘密の法典で、それを見ることのできたのは、幕府の要職者や一部の裁判担当役人に限られていた。しかし、これも建前上のことで、実際には公事宿が幕府役人から借りて写しとり、それをさらに町役人が写しとったりして広く民間にも内容は知られていた。
 現代日本人の多くは、できたら裁判に関わりたくないと考えているが、江戸時代の百姓たちは違っていた。不満や要求があれば、どんどん訴訟を起こした。江戸時代は「健訴社会」だった。というのも、裁判を起こしても、すべてを失うような結果にはならないだろう。仲裁者が双方が納得できる落としどころをうまくみつけてくれるだろうという安心感に後押しされて、百姓たちは比較的容易に訴訟に踏み切る決断をなしえた。訴訟に踏み切るためのハードルは、むしろ現代より低かったと考えられる。
 藩にとっては、領内の村々が平穏無事であることが、藩の善政が行き渡っている何よりの証拠だった。なので、判決において、当事者たちが遺恨を残さないようにするための配慮がなされた。
 江戸時代の実情を改めて考えさせられました。
   (2012年12月刊、1800円+税)

2020年11月23日

商う狼、江戸商人・杉本茂十郎


(霧山昴)
著者 永井 紗耶子 、 出版 新潮社

実在した江戸商人を生き生きと描いた歴史(経済)小説です。圧巻の迫力ある描写に思わず息を呑み、頁をめくる手がもどかしく思えたほどです。
ときは、天保の改革をすすめた老中・水野忠邦が登場する直前、文化・文政、徳川家斉のころ。商人、杉本茂十郎は「毛充狼(もうじゅうろう)」と呼ばれて恐れられ、人々はおののいていた。体は、強くしなやかな狼(おおかみ)。手足は狐狸(こり)の如く、人を蹴落とす鋭い爪をもつ。尾は蝮(まむし)の姿で、2枚の舌をちらつかせて、毒牙を剥く。そして顔は精悍な人の顔。その額には「老、寺、町、勘」の4字の護符をいただいている。その歪(いびつ)な化け物は、メウガ(冥加)メウガと鳴き声をあげながら、江戸の市中を駆けていく。
杉本茂十郎は山深い甲斐から江戸へ来て、奉公人として勤めていた飛脚問屋に婿入りした商人だったが、飛脚の運賃値上げでお上に直談判して新たな法を整えると、次は江戸2千人の商人を束ねる十組(とくみ)問屋(どいや)の争いごとの仲裁に成功し、その十組問屋の頭取となり、流通の要となる菱垣廻船(ひがきかいせん)を再建し、さらに老朽化して落ちた永代(えいたい)橋を架け替え、その修繕などを行う三橋会所(さんきょうかいしょ)の頭取として手腕を発揮し、同時に町年寄次席として政にも携わるようになった。
茂十郎の下に、江戸商人から集められた冥加金は一国の蔵をこえ、そのお金を求めて、町人だけでなく武家たちも頭を下げる。幕閣にもその名を知られ、老中、寺社奉行、町奉行、勘定奉行も茂十郎のうしろ盾となった。茂十郎のソロバンをはじく指先ひとつで、千両、万両のお金が右から左へと動いていた。
またたく間に江戸商人の頂点に駆けのぼった茂十郎は、表舞台に躍り出てから、わずか11年あまりで、お上からすべての力を奪われ失脚してしまった。
江戸の人は、お金の話を忌み嫌う。そんなにお金が嫌いなのに、貯め込むことには余念がない。町人も武家も、商人を強欲だとそしる。それでも武家は、商人の上納金は欲しがる。なんとも歪(いびつ)で、おかしな話だ。
商人が商いをして、お金が正しく世の中をまわっていれば、暮らし向きは豊かになる。
お金は、然るべく流さなければ、いらないものだ。
十組問屋は、100年前に小間物を扱う大坂屋伊兵衛が、立ち上げたもの。それは、仲間外の商人を締め出すことが主たる目的だった。十組とは、河岸組(かしぐみ)問屋、綿店(わただな)組、釘鉄問屋店組、紙店組、堀留組、薬種問屋、新堀組、住吉組、油仕入方、糠(ぬか)仲間組、三番組、焼物店組、乾物店組、...。いずれも、江戸の大商人たちだ。多くの商人、町人が暮らす江戸において、十組問屋の2千人が江戸の富を独占している。その懐に蓄えられたお金は、大藩の江戸屋敷にも負けない。そして、そのお金が市中に出回らないことこそが江戸の最重要課題だったが...。
江戸時代の商人の心意気も大きなテーマとして扱っている本です。
(2020年6月刊。1700円+税)

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