弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年8月15日

幕末維新史への招待

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 町田 明広 、 出版 山川出版社

 幕末の日本にやってきたアメリカのペリー艦隊と、その結果としての日米条約は、アメリカ国内での南北戦争(1861~65年)の直前のことだった。浦賀沖にペリー艦隊が来たのは1853(嘉永6)年6月のこと。翌1854年3月に日米和親条約が締結され、安政3(1856)年7月、総領事ハリスが来日した。ハリスとの交渉で安政5(1858)年6月、日米修好通商条約が締結された。
アメリカにとって、日本と関係を結ぶことは、太平洋横断航路における石炭補給地の確保、および捕鯨船員の救助という一石二鳥の策であった。日本は、まずは航路上の寄港地であって、日本との通商自体の優先順位は低かった。
 ペリーがアメリカを出航(1852年11月)したときの大統領はホイッグ党のフィルモア。しかし、1853年3月、民主党のピアースが大統領になった。そして、1860年5月、幕府の使節たちがワシントンで会った大統領は民主党のブキャナンであり、同年11月には共和党のリンカンが大統領となっている。
 文久3(1863)年6月の下関戦争のとき、アメリカの軍艦ワイオミング号は、南部連合軍の軍艦を追撃するために東アジア地域に派遣されていた軍艦であり、日本自体は赴任地ではなかった。
 慶応3(1868)年1月、南北戦争が終了していたので、兵庫の開港にあわせて、アメリカのアジア艦隊に属する軍艦が日本近海に終結した。
ロシアのプチャーチンはアメリカのペリーに対抗するために派遣されたというのは間違い。そうではなく、ペリーが日本と結んだ条約と同じものをロシアにも得ることが目的だった。
 文久1(1861)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に軍事哨所を建設した。それは対馬の全島を獲得するまでの意図はなかった。対馬の良港に海軍の拠点を設置するのが目的だった。
 明治政府にとって、千島列島の統治は、予想をはるかにこえる困難なものだった。千島列島に残留したアイヌはロシア語を母語とし、日本語はまったく分からない。しかも、彼らはロシア正教の信者だった。
この本を読んで最大の驚きは、幕府末期に、すでに欧米は海底にケーブルを敷設していたということです。ただし、まだ太平洋の海底には敷設されてはいませんでしたが...。それにしても、早くも大陸間で電話が通じていたのですね...。
 もう一つの驚きは、沖縄です。もちろん、当時は、琉球です。琉球に王様がいたことは知っていますが、江戸時代の人々は、琉球人を「異国人」とみていて、日本人だとは思っていなかったし、琉球人も、自分たちは琉球人も、自分たちは琉球人であって日本人とは思っていなかったというのです。なるほど、そう言われたら、そうでしょうね。ただ、琉球人と日本人が全然別の民族だというのは、私はそうは思いません。
また、ペリーが、日本より先に琉球に寄港していたこと、ペリーは那覇に合計して5回も寄港していたというのは初めて知りました。
 しかも、ペリーは、太平洋を渡って日本に来たのではなく、大西洋からアフリカのケープタウンを回って、シンガポール、次いで香港・上海を経由して琉球にやって来たのです。
 面白いこと、知らないことが満載の本でした。
(2025年5月刊。1980円)

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