弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年9月15日

久留米城とその城下町

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 古賀 正美 、 出版 海鳥社

 久留米城と篠山(ささやま)城と、どちらが正しいのか...。
 この本によると、江戸時代まで久留米城と呼ばれていて、明治になってから篠山町にある城として、篠山城と呼ばれるようになったとのこと。藩も久留米城を公的な名称としていた。
 久留米が文書で登場するのは、14世紀半ばのこと。
 高良大社、高良山座生が久留米城主だった。
 戦国時代になって久留米城に小早川秀包(ひでかね)が入場した。毛利元就(もとなり)の九男として生まれ、小早川隆景の養子となった。
 小早川秀包とその妻(大友宗麟の娘)はキリシタンであり、城近くに教会堂を建てた。今は久留米市庁舎の敷地となっている。
その後、関ヶ原の戦いのあと、田中吉政は、柳川城を居城としながら、久留米城も支配した。
 さらに、有馬豊氏が、支配するようになった。久留米藩21万石である。久留米城には本丸はあっても、天守はない。
 黒田騒動が起きて、筆頭家老の栗山大膳は奥州南部藩へ配流されたが、有馬藩は栗山大膳の家臣9人を抱えた。このことから、福岡の黒田藩とは不仲となった。
 江戸時代初期、長崎・出島のオランダ商館のドイツ人医師ケンペルが江戸参府の途中で久留米城下を通行していて、日記を書き残している。元禄5(1692)年3月と5月のこと。久留米の城下町は1千戸とか2千戸とか書いている。
 幕末期の久留米城下町の町民人口は8千人ほど。それを8人の町別当でおさめていた。この8人の町別当のうち5人が藩から処分を受けたことがある。
 町別当は、8人いて、毎年2人ずつが交代で年番をつとめた(年行司)。
久留米の城下町の町人の生活ぶりを知りたくて読みました。お盆休みに3日間、久留米の図書館に行って調べものをしたときに、この本を知って購入したものです。
(2018年3月刊。2640円)

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