弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2018年12月 8日

赤い風

(霧山昴)
著者 梶 よう子 、 出版  文芸春秋

川越藩の藩主は、かの有名な柳沢吉保です。私が最近扱った一般民事事件で、柳沢吉保の子孫だと自称する女性が、人の好い高齢の男性から次々に大金を詐取していったというのがありました。
この本では、柳沢吉保は単なる悪役ではありません。将軍・綱吉のお気に入りではあり、その意向を体して行動するのですが、それでも、藩の百姓の生活向上も考え、荒涼たる原野を2年で畑地にするよう厳命を下すのです。そんな無茶な話はないと、現地の人々から総スカンを喰うかと思うと、案外、話がすすんで畑地づくりが取り組まれていきます。やはり、百姓だって、自作の畑は欲しいのです。でも、どうやったら荒れ地を畑につくりかえられるのか・・・。
この本では、そのあたりの実務的な作業過程が、とても行き届いていて、迫真の描写になっています。同時に、入植した百姓たちのなかにも不和が生じます。それをいったいどうやって落ち着かせるのか。紆余曲折あって、なんとか畑地が出来上がります。
ここは水田にはできない台地の畑地だったので、サツマイモが植えられました。
江戸にも舟運を利用して運ばれ、サツマイモは、やがて庶民の間食として大人気になりました。
「九里(くり)よりうまい十三里」という、この十三里とは、江戸から川越までの距離をさすといわれています。「九里」は、そのころの間食だった栗をさし、それより(四里)うまい、つまり、川越のサツマイモは栗よりうまいという洒落(しゃれ)が出来たのです。
江戸時代の開墾・畑づくりの大変さがひしひしと伝わってくる、気のひきしまる本でした。
埼玉県三芳町史が参考文献にあがっています。
(2018年7月刊。1800円+税)

2018年11月30日

島原の乱

(霧山昴)
著者 神田 千里 、 出版  講談社学術文庫

九州で見るべき古戦場跡と言えば、原城と田原(たばる)坂ですよね。ちょっと違いますが名護屋城も欠かせません。もちろん私はいずれも行ったことがあります。行っていないのは龍造寺隆信が討ち取られた沖田畷(おきたなわて)という島原半島の古戦場です。今、どうなっているのでしょうか。きちんと保存・表示されているのでしょうか。ご存知の方はお教えください。
さて、島原の乱です。この本にも参考文献として紹介されている吉村豊雄の三部作はその詳細な記述に驚嘆しました。小説としては飯嶋和一の『出雲前夜』が読ませますよね。市川森一の『幻日』にもぐいぐい惹かれてしまいました。
この本は、2005年に中公新書から刊行されたものを、その後の批判を受けて「あとがき」で反論も加えたものです。
原城の戦いで、幕府側の鎮圧軍は総勢12万人。その1割の1万2千人の死傷者を出した。これに対して籠城軍3万7千人は山田右衛門作を除いて皆殺しになったとされています。ところが、著者は捕虜も籠城軍には逃亡した者もいるという説を肯定しています。最終決戦の前までに1万人が城から抜け出したとも書いています。
籠城していた3万人もの人々が本当に皆殺しになったのかどうか、知りたいところです。また、山田右衛門作は天草四郎の側に支えていた重臣の一人なわけです。幕府軍と通報していたことがバレて裏切り者として処刑されようとしたところ、一人だけ助かったというのですが、その救出の過程も具体的に知りたいところです。激戦が続いているなか、重臣の一人だけが助かるなんて、嘘みたいな話ではありませんか・・・。
著者は、一揆の目的はキリシタン信仰の容認であり、飢饉も重税も、こうした要求を先鋭化されるきっかけに過ぎなかったと考えています。
一揆の参加者はキリシタンといっても、いったんはキリシタンを棄教し、再びキリシタンに復帰した人々が大半です。つまり、「転びキリシタン」が主体なのです。ところが、同じ「転びキリシタン」であっても、天草の一部の地域の人々は一揆に加わらなかったというのです。それは、当時の日本に存在したキリシタンが一枚岩ではなかったことを反映していると言います。
キリスト教宣教師内部での派閥争いが、島原の乱に対するキリシタンの帰趨に影響を与えたと考えられる。
一揆の指導部は有馬家旧臣たち、合戦に習熟した武士身分の牢人たちだった。
当時は、藩の軍隊といっても、少数の武士に多数の「百姓」が従うという構成をとっていた。このような藩の軍勢と対峙するキリシタン一揆側も、天草四郎を大将とし、これを擁立した少数の牢人たちを中村として村の百姓たちを大量に動員したものであった。つまり、身分的な構成内容は同様のものだった。
秋月の郷土資料館に秋月藩の原城合戦絵巻があります。これは一見の価値があるものです。そこには「百姓」の軍隊というイメージは描かれていないように思いましたが、私が見落してしまったのでしょうか・・・。
文庫本ですが、島原の乱に関する本格的な研究書で、大変知的刺激を受けました。
(2018年8月刊。1090円+税)

2018年11月17日

出島遊女と阿蘭陀通詞

(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版  勉城出版

江戸時代は厳しい鎖国がとられていたというのが定説でしたが、最近では、案外、日本は世界の情報をさまざまなルートで入手していたとされています(と思います)。
その窓口のひとつが、長崎は出島にあったオランダ商館です。そこに出入りするのは通詞(通訳です)と商売人(商工業者)だけでなく、一群の遊女たちがいました。
オランダ商館にいる異人たちは、その大半が10代か20代の青年たちでしたから、日本人女性との交流も盛んであり、実は商館内に遊女たちが寝泊りしていたようです。
日本最古の仏和辞書も、このオランダ語通詞たちが、オランダ語によるフランス語の辞書を翻訳してつくられたものでした。これは最近のNHKラジオ講座で得た知識です。長崎の歴史・文化博物館に原物が展開されているそうです。ぜひ見てみたいです。
この本によると、オランダ商館の人々が日本語を習得することは禁じられていたとのこと。キリスト教の布教を恐れたことと、密貿易を未然に防止する必要からのようです。ですから日本人通詞たちが活躍するわけです。ところが、出島での宴会風景を描いた絵(有名な川原慶賀の、写真のように精密な再現図)によると、そこに遊女が存在するのですが、必ずしも通詞がそばにいるわけではありません。要するに、出島に出入りする遊女たちは、どうやらオランダ語を聞いて話せていたらしいのです。
そして、遊女たちがオランダ人に宛てた手紙がオランダのハーグにある国立文書館に100通もあることが判明したのです。江戸時代の女性の手紙ですから、私にはほとんど読めませんが、それでも、いわゆるカナクギ流の文字ではなく、流れるような草書体の立派な筆づかいです。
著者は、オランダ語通詞たちが、ルビのようにオランダ語を手紙に書き添えているのに助けられて、その100通あまりの遊女の手紙を解読したのです。本当に学者って、すごいですね。盛大なる拍手を贈ります。意外な事実を知りました。オランダ人とのハーフの子どもたちもそれなりに生まれたことでしょうね。最近よんだ本(泡坂妻夫『夜光亭の一夜』)に、そのような生まれの遊女が登場します。
(2018年4月刊。3600円+税)

2018年11月 7日

刀の明治維新


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版  吉川弘文館

刀というと武士の特権として、武士だけが腰に差していたというイメージがあります。
しかし、江戸時代は、百姓も町人も刀を腰に差していたのです。ええっ、そんなバカな・・・。
でも、旅する男たちを描いた絵には、たしかに腰に刀を差しています。百姓も町人も、旅には脇差という短い刀を帯びた。なあんだ、百姓・町人が差していたのは短い刀(脇差)だけだったんじゃないか・・・。そう思うのは早トチリなんです。
たとえば、伊勢神宮への参拝を案内する御師(おんし)は、身分は百姓なのに、腰には大小の二本の刀を差していた。また、旅籠(はたご)を営む百姓が腰に大小二本の刀をさしている絵もあります。
刀を差している(帯刀)者が武士とは限らないのです。江戸時代には、「帯刀」した姿で歩く、武士以外の人間がかなり存在していたのでした。
当時の絵が紹介されていますから、これは疑うわけにはいきません。
江戸時代、刀と脇差の組み合わせを「大小」と呼び、この二本を腰に帯びることを「帯刀」と呼んだ。そして、この「帯刀」の歴史は、実は、それほど古くなかった。それは、戦国時代の末期以降の風俗であった。
中世の合戦は、馬に乗り、弓矢を主体としていた。太刀と腰刀を2本セットとみて特別視し、それを武士の代名詞とする文化は、中世には存在しなかった。
刀と脇差を一緒の帯に差し込む風俗は、戦国時代に、雑兵や下級の武士たちから発生したものと考えられる。
江戸幕府は、刀を差すことはもちろん、刀剣の所持も禁じず、刀・脇差の没収もしなかった。江戸という都市部において、刀は、武士と町人とを外見で決めて区別するための身分標識ともなっていた。
江戸時代の後期になると、幕府は長脇差をよばれるものだけは、強い態度で禁止した。
百姓・町人は、脇差を帯びていた。当初は常に差していたが、やがて吉凶と旅行などの際に限るようになった。したがって、江戸時代の民衆が「丸腰」だったというのは、近現代につくられた「まったくの虚像」である。
神職は帯刀していた。江戸時代は神事の際は帯刀することになっていた。
19世紀になると、御用町人への帯刀許可の増加によって、大小を帯びた町人が、再び江戸を闊歩(かっぽ)する状況が生じた。
刀と武士、そして町人と百姓との関わりが深く分析されています。大変楽しく読み通しました。知らないことって、本当に多いですよね。
(2018年8月刊。1800円+税)

2018年9月 8日

木喰上人

(霧山昴)
著者 柳 宗悦 、 出版  講談社文芸文庫

木喰(もくじき)上人(しょうにん)とは、真言宗(真言宗)の僧であって、江戸時代にたくさん輩出した、木喰戒(もくじきかい)を守る僧を呼ぶ。
著者が大正14年から15年にかけて全国を調査し、5百個の仏躰を目撃してまとめたのが本書です。
木喰上人は、北海道から四国、九州まで足を運んでいます。安永2年から寛政12年まで、28年間に及ぶ旅です。
木喰戒は、火食を避け、また肉食を摂(と)らない。しばしば、木の葉や木の実で足りた。五穀やソバ粉を生のままとった。ソバ粉は特に好むものだった。チベットを旅した日本人僧もソバ粉を主食としていたことを思い出しました。それでよく生きられたものだと思いますが、なんと80歳の長寿と健康を誇ったというのです。少量の食物で、全国を旅して、病気にかかることなく80歳まで長寿をまっとうしたなんて、なんと素晴らしいことでしょう。
このほか、温泉に浸るのは好んでいますし、お酒もたしなんだようです。
ときに弟子が同行していますが、基本はひとり旅です。
木喰上人の彫った仏像はいかにも独創的で、見る人に圧倒的なインパクトを与えます。固定した形式からは自由。伝統への執着がなく、また伝統への反抗もない。木喰上人の仏像は、無心から生まれた。
木喰上人の仏像には模倣の跡がない。したがって、何らマンネリズムがない。ある作風への固守もなく、また慣例的な様式もない。旧習への追従もなく、同時に新案への作為もない。因襲への愛も、憎しみもない。
木喰上人が仏を刻んだのは、いつも夜だった。誰も、それを見ることは許されなかった。開眼(かいげん)の日までは、不浄の眼に触れるべきものではないからである。
昼間は木喰上人にとってことのほか多忙であった。なぜなら、病める者に治療を施していたから。
わが心、にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり
木喰上人の仏像は、円突上人の仏像と似ています。どちらも素朴さをありありと残しつつ、いかにも尊い仏様の表情です。
村々をめぐりながら、仏像を刻みながら、村人たちにどんな話をしたのか、どうやって91歳という長寿を木喰戒を尊守しながらもまっとうすることができたのか、とても興味深く、惹きつけられた文庫本です。
(2018年4月刊。1800円+税)

2018年8月25日

戊辰戦争の新視点(下)

(霧山昴)
著者 奈倉 哲三 ・ 保谷 徹 ・ 箱石 大 、 出版  吉川弘文館

幕末から明治はじめにかけての戊辰戦争のとき、ヨーロッパやアメリカから大量の銃が日本に輸入されていたことを知りました。
イギリスから制式軍用銃だったエンフィールド銃(エンピール銃)が15万挺ほども入ってきていた。フランスのナポレオン3世はシャスポー銃を2000挺、幕府に贈った。
フランス式大砲である四斤砲は分解して搬送可能だったので、道路条件が悪く山路でも搬送できたため、多用された。
幕末維新期の日本には、全部で70万挺の小銃があったと推測される。そして、新鋭の後装連発銃も少なくなかった。
オランダの歩兵銃はゲベール銃という。有効射程は100メートルほど。
アメリカの連発式のスペンサー銃は弾薬の補給に苦労した。
イギリスのアームストロング砲は戊辰戦争で使われたことが確認できるのは、佐賀藩の二門の6ポンド砲だけ。
三井は、開戦直前に薩摩藩に1000両を献金した。その前、三井は琉球通宝の引換を請負い、薩摩藩の御用達となった。同時に、将軍の家族の御用達をつとめていて、天璋院篤姫に呉服を納めている。三井は京都を本拠としたが、大阪にも店があり、大阪町人としての顔をもち、大阪の大両替商たちと縁戚であった。
秩父・飯能あたりでは幕府軍に対する親近感があり、民衆も幕府軍を支えて新政府に抵抗した。ところが敗戦が続くなかで「賊軍」と決めつけられ、殺害されていった。
面白いのは、このような政府軍に倒された人たちの墓が今も残っていて、「脱走様」と呼ばれて徴兵忌避の信仰対象となっていたということです。「脱走様」の墓所を参拝すれば、徴兵を逃れられると地域で伝わっていた。つまり、兵役逃れの信仰対象だったのです。
みんな戦場になんか行きたくないし、戦死者になるより生きて働いていたいと考えていたのです。もっとも戦争とは無縁のはずの年寄りたちが若者たちのホンネを代弁していました。
(2018年3月刊。2200円+税)

2018年8月24日

百姓たちの戦争


(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂

著者は島原・天草の乱を、いわゆる百姓一揆ではなく、「合戦」、つまり戦争とみています。百姓一揆なら領主側に要求をつきつけ、その実現を目ざそうとするわけですが、島原・天草の乱では、そのような要求実現行動はみられず、幕藩軍との合戦をくり返し、城を占領して、最終的には島原城に立て籠った2万7千の一揆勢は全員が命を失った。
軍事的な訓練などほとんど出来ていない百姓主体の一揆勢が、「侍の真似できない」気力で武士たちに向かっていった戦いを、現地では「合戦」と呼んだ。この「合戦」は4ヶ月に及んだわけであるので、まさしく戦争と呼ぶにふさわしい。
一揆の直前、島原藩松倉家そして唐津藩天草領の寺沢家で、それぞれ御家騒動が起り、家臣が集団で退去し、牢人となる事件が発生している。そして、それぞれ逃走したのは「若衆」たちであり、この牢人たちが一揆の中枢部に入ったことは間違いない。
一揆の首謀者は、意識して10代の少年たちを集めていた。
彼らは、信仰復活工作の象徴をつくり出すこと、信仰を復活、公然化させ、信者たちを統合し、象徴となる「天子」、「天帝」としての「四郎殿」(天草四郎)をつくり出すことを狙った。「若衆」たちは、「四郎殿」に仕えて、その分身として活動するために、松倉家・寺沢家から集団で逃走したとみられる。
一揆勢は、占領した城を死守することを通じて、「デイウス(神)への奉公」を尽くし、「神の御加護」、具体的には「神の国」による救援を信じた。
島原一揆勢が「本陣」と定めた原城は石垣、堀、虎口など、城の要害機能は基本的に残っていた。そして、原城の所在する有馬村には、島原藩の注文で「千挺」もの鉄砲をつくった「鉄砲屋」大膳がいた。口之津にあった武器庫の鉄砲・弾薬類も、この「鉄砲屋」が製作し、調達していたとみられる。
一揆勢が戦略上もっとも重視し、懸念していたのが「玉薬」の数量である。一揆蜂起の時点では、まとまった玉薬を管理下に置ける見通しがあったからこそ、一揆は武力の発動・戦争への飛躍することになった。
原城に立て籠った一揆勢は2万7千人ほど。
原城のなかは、村ごとに集まり、村社会の地域連合体だった。また、軍事組織として確立された。軍奉行という一揆指導部が存在した。
そして、天草四郎は「天守」に籠って、一揆勢の前に姿を現すことはなかった。
原城の一揆勢の軍事力の柱は鉄砲であり、1000挺ほど所持していたとみられる。その泣きどころは、火薬の乏しさにあった。一揆勢は幕藩軍の総攻撃の直前の2月21日夜の夜襲で「鉄砲の薬箱2荷」を奪ったが、それが、すべてであった。そのほか一揆勢の主力武器は石だった。ちなみに宮本武蔵も、石による負傷を受けた。
原城戦争の実態を詳しく知ることのできる本です。原城跡には2回行きましたが、感慨ひとしおでした。
(2017年11月刊。1900円+税)

2018年7月21日

江戸の骨は語る

(霧山昴)
著者 篠田 謙一 、 出版  岩波書店

2014年7月、東京の「切支丹屋敷跡」から3件の人骨が発見された。
新井白石が尋問し、藤沢周平が『市塵』に描いた江戸時代の潜入宣教師シドッチの人骨ではないのか・・・。
この謎を解いていくスリリングな過程が生き生きと描かれていて、人体をめぐる科学の進歩・発達を実感させてくれます。結論を先取りすると、今のDNA鑑定は、人骨となった人物がイタリアの中部地域に居住していたというところまで特定できるのです。ですから、そこまで判明したら、当然のことながら、その人骨はイタリア人のシドッチだと特定されます。
徳川幕府によるキリスト教信者の弾圧が強まり、潜入・潜伏していた宣教師たちが、あるいは残酷に処刑され、また棄教(ころび)していった。それを知ったローマ教皇庁は、日本への宣教師の派遣をついに断念した。
シドッチは、切支丹屋敷に幽閉されたものの、年に銅25両3分と銀3匁(もんめ)ずつを支給され、拷問もなく過ごした。しかし、4年後の1713年に、シドッチの世話をしていた長助とはるという夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したため、3人とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチは、10ヶ月後の1714年に47歳で衰弱死した。
シドッチが切支丹屋敷内に埋葬されたというのは、キリスト教関係者の間では広く知られていた。そして、実際に、その切支丹屋敷内から3件の人骨が保存状態も良く発見されたのです。では、本当にシドッチたちか、どれがシドッチか・・・。その探索が始まります。
東京の地下は、土質が粘土質で、嫌気的な環境が保たれやすいので、人骨は残りやすい。九州では、地面の下から人骨が消失していくのに対して、関東では、地面にしみ込んだ雨水が人骨を溶かすので、上面にあたる部分から骨が消失していく。
古代人骨のDNA分析では、歯の内側の空所である歯髄腔の内側面を削り、内部の象牙質を用いることが多い。
古代の人骨のなかで、最もDNAをふくむのは、頭骨の内耳の周辺の骨。人骨中に残るDNAの保存に関しては、水は大敵。酸性に傾いた日本の土壌では、しみこむ水も酸性を示し、骨中に残るDNAを破壊する。
DNA分析の技術の進展がこの人骨をイタリア人であると断定できるまで進んだタイミングで発掘されたことになる。
江戸時代の男性の平均身長は156センチ。ところが問題の人骨は身長が170センチをこえている。
シドッチの遺骨が発見されたのは、没後300年という節目(ふしめ)の年であり、2014年は日本とイタリア修交150周年でもあった。
すごいですね、人骨がイタリア人であることを確実に断定できるまでDNA分析ができるとは・・・。
(2018年4月刊。1500円+税)

2018年7月13日

原城の戦争と松平信綱

(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂

これは面白い。ワクワクしながら読みすすめました。わずか150頁もない本なのですが、じっくり精読したため、私としては珍しく半日もかかって読了しました。
表紙の絵は島原の乱に出動した秋月藩の活躍ぶりを描いた屏風の一部です。わざわざ秋月にまでいって現物を見る価値のある屏風絵です。島原の乱の100年後に描かれたものではありますが、悲惨な原城の戦場が実にリアルに再現されていて、資料的価値は高いとされています。
この本の何が面白いかというと、島原の乱で抜け駆けした佐賀・鍋島藩主が将軍家光から特別表彰までもらったのに、一転して幕府の法廷で、被告席に立たされ、よくて国替え、あるいは藩としての存続すらあやぶまれる事態になったのです。将軍家光は熊本の加藤家の取りつぶしを断行した実績がありました。なぜ、そんなことになったのか・・・。
ここで、42歳の松平信綱が登場します。「知恵伊豆(ちえいず)」とまで言われるようになったのは、まさしく、この島原の乱の陣頭指揮と、その後の軍法裁判で将軍家光を巻き込んだからなのです。
それにしても、将軍家光が臣下(老中です)の邸宅に出かけ、信綱と夜を徹して語り明かし、朝帰りしたということまで記録がのこっているのですね。これって、毎日の新聞に首相動静が記事になっているのと同じです。
何を一晩、家光と信綱の二人は語りあったのか・・・。島原の乱の抜け駆けを軍法裁判にかけると同時に、先代からの老中たちをいかに辞めさせるのか、語りあっていたようです。
つまり、親子といえども、将軍が代替わりすると、親の将軍の取り巻きの老中たちは、新しく将軍になった子ども将軍にとっては、まさしくうっとうしい存在であって、それに替えて幼いころから周囲にいた気心の知れた者たちを老中にして、名実ともに実権を握りたいというわけです。
ところで、家光はこのころうつ症状にあったとのことです。そんなことは初耳でした。
原城に籠った一揆勢は、板倉重昌は総攻撃を強行して失敗し、取り残されたところを一揆勢に殺されてしまったのでした。そこで、今度は負けられないとして信綱は総攻撃の日を設定し、抜け駆けは許さない、抜け駆けしたら軍法裁判にかけると明言していたのでした。ところが、ここで幕府に恩を売ろうと考えた鍋島藩勢は前日に戦を仕掛けたのです。鍋島勢が抜け駆けしたのは総攻撃予定の前日でした。その状況を見て、慌てて他の軍勢も出撃し、幸運にも天草四郎を見つけ出し、首をはねたというわけです。
では、何が問題なのか・・・。決められた出撃予定を日になっていないのに、鍋島勢は二の丸を攻めはじめたのでした。では、なぜ、いったん家光が特別に鍋島軍勢を賞賛したのか。それには筆頭老中の土井利勝がからんでいます。土井利勝は鍋島藩主とは深い関係にあり、加増まで画策していました。
でも、戦場では臨機応変に機を見て予定を変更して突入すべきときがある。理屈ばかり言うな・・・。そんな声も出たようです。たとえば、有名な大久保彦左衛門も、その一員でした。なるほど、戦場では予期せぬことも起きるでしょう。でも家光の威光をバックとした信綱は、ひるまずに先輩老中の抵抗をはねのけ、軍法裁判の開催にこぎつけました。結局、家光将軍の下した裁判の結論は予想以上に軽かった。
前将軍・秀忠時代の重臣(土井利勝ら3人の老中)は、新将軍・家光の時代が動いていくときに邪魔になるということです。幕府の上層部における権力抗争、将軍を巻き込んだ派閥抗争の様子が活写され、果たしてこの軍法裁判はどうなるのか、頁を繰るのももどかしいほどでした。将軍って、必ずしも独裁者ではなかったのですね。この事件のあと、いよいよ老中たちによる集団指導体制が固まっていったようです。
江戸時代初期の幕府の内情を知ることができました。ご一読をおすすめします。
(2017年11月刊。1500円+税)

2018年7月 8日

北斎漫画3


(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎

「奇想天外」編です。よくも、これだけの絵が描けたものです。まさしく北斎は天才画家というほかありません。
ところが、この本の解説によると、北斎は同時代の江戸の人々からは、それほど高い評価を受けていませんでした。日本では、北斎は「卑しい絵描きだ」と言われ続けてきた。「六大浮世絵師」のランクでは、上から鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東州斉写楽、歌川広重そして葛飾北斎だった。
浮世絵師が評価されていなかったって、意外ですよね。今では、北斎は、「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」だと評価されています・・・。
北斎は、75歳を過ぎてからは、いわゆる浮世絵師ではなくなっている。
北斎は、とにかくありとあらゆるものを描こうとしていた。目には見えない、幽霊や鬼や化け物も描いている。
北斎は、ある意味、日本人離れしている。
北斎は、模倣の天才だったし、真似ることそれ自体が創作活動だった。自分自身も模写している。
北斎は、90歳で死の床に就いたとき、神様に「あと10年ください」と命乞いをしている。「宇宙の真理をつかんで、真の画家になるために、もう少し長生きさせて下さい。10年が無理なら、せめて5年でもいいから・・・」
この3巻のテーマは「奇想天外」なので、宗教的画題、幽霊、妖怪などがふんだんに登場しています。そのひとつひとつに豊かな表情があるので、見ていて飽きることがありません。やはり北斎は天才としか言いようがないことを、ひしひしと実感するのです。
(2017年11月刊。500円+税)

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