弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2019年2月23日

大名家の秘密

(霧山昴)
著者 氏家 幹人 、 出版  草思社

この本を読むと、つくづく、江戸時代も現代日本と共通する思考があったことに気がつき、驚かされます。いえ、もちろん、この本のなかでは同じ江戸時代でも考え方が大きく変わっているという指摘がなされていて、すべて同じだったということではありません。
たとえば、残虐な復讐が平気でなされていた時代がありました。でも、親と子の難しい関係や勢力争い(派閥抗争)、からかいや嫉妬が横行していたことなど、現代日本の大企業で起きていることにつながっていると思わずにはいられませんでした。
江戸時代の下級武士、町人そして庶民の本当の生態を知りたいなら、『世事見聞録』(青蛙房)をぜひ読んでください。なんだなんだ、現代日本で起きていることは江戸時代に起源があった(いえ、当時も同じだった)ことを知ることができます。たとえば、江戸時代の庶民の家庭ではカカア天下がどこでもあたりまえで、亭主は女房の尻に敷かれてもがいていたなんてことが手にとるように分かります。
この本は、四国の高松藩士である小神野(おがの)与兵衛が18世紀半ばに書いた『盛衰記』と、それを徹底的に検討した中村十竹の『消暑漫筆』によって、水戸藩の初代殿様である徳川頼房(よりふさ)、2代の徳川光圀(みつくに)、そして高松藩の初代殿様の松平頼重(よりしげ)、2代の松平頼常という殿様の行状を生々しく明らかにしていて、とても興味深い読みものになっています。
そこでは、武士の忠臣美談など「武士道」のイメージなんてまるで通用しません。江戸前期の激越な武士世界(ワールド)を目のあたりにすることができます。ぜひ、あなたも覗いてみてください。
頼重は徳川頼房(徳川家康の末子)の最初の男子でありながら、頼房の命で見ずにされる(堕胎)ところを、家臣に救われ、京都で少年時代を過ごしたあと、頼房の養母(英勝院)の尽力で徳川家光に拝謁し、高松藩主となった。また、頼重の弟である徳川光圀は、本来なら兄の頼重が継ぐべき水戸徳川家を自分が継いだことを悔い、兄頼重の子を水戸藩主に迎えようと考え、自身がはらませた子を強制的に水にするよう命じた。こうして光圀の長男である頼常もまた犠牲になるところだったが、頼重の尽力で無事に誕生し、京都に身を隠したあと、こっそり高松に迎えられた。
家光もまた、長男でありながら父母に嫌われ、祖父の家康と春日局(かすがのつぼね)の力で継嗣となった。このように、親子の情愛から疎外された者たちが、それぞれに絆(きずな)を求めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
は私も知っています。ところが、
「ゆびきり、かまきり、これっきり」
「ゆびきり、かまきり、嘘ついたものは地獄の釜へ突き落せ」
「ゆびきりげんまん、嘘ついたらカマキリのタマシイ飲ます」
いろいろなヴァージョンがあるのですね、驚きました。
頼房は威公、頼重は英公、頼房は青年時代、かぶき者だった。ところが、青年期を過ぎても、頼房は泰平の世にうまく順応できなかった。
光圀も、若いころは、キレると何をするか分からない乱暴者。とりわけ16.7歳のころは、奔放なふるまいが目立った。三味線を弾き、刀は突っ込み差し。衣服は伊達に染めさせ、襟はビロウドという典型的なかぶき者ファッションで、両手を振りながら闊歩していた。このため、世間から、「とても水戸様の世子とは見えない。言語道断のかぶき者だ」と後ろ指をさされていた。
江戸初期には想像を絶する報傷(復讐)がありえた。たとえば、領主の苛政に対する不満が爆発し、年貢の取り立てに来た役人を殺害する事件が起きた(1609年ころ)。領主側は直ちに兵を差し向けてその村を包囲し、村人を皆殺しにした。
高松藩の2代殿様の頼常(節公)は、光圀の子だったが、水にされかけた。光圀の兄頼重(英公)の指示によって生後1ヶ月足らずで節公は京都に逃げて生きながらえた。
高松藩主として、英公と節公は、どちらも名君として定評がある。しかし、この二人のあいだには、終生、埋めることのない溝が横たわっていた。
英公は隠居してもなお、あまりに不遜で気ままに振る舞い、節公にはそれが気に入らなかった。そして、節公には、その息子に無関心で冷淡だった。
節公の子を流した家臣は徹底してイジメられた。ひそかに養育することを内心では期待していたのに、指示された言葉どおりに赤児を殺したことを命じた殿様(節公)は許せなかった。
こりゃあ、たまりませんね、家臣の身からすると・・・。
いやはや、江戸時代の殿様も大変だったんですね。しみじみそう思いました。
(2018年9月刊。2000円+税)

2019年2月13日

村役人のお仕事


(霧山昴)
著者 山﨑 善弘 、 出版  東京堂出版

徳川社会は、村を基盤とした兵農分離の社会であり、村の運営は村役人らによって支えられる傾向が非常に強かった。
徳川社会を構成している最大の要素は村だった。その構成員の大半が百姓で、全人口の8割前後。支配者である武士は1割以下。
全国の村の数は、元禄10年(1697年)の時点で6万3千ほど。
領主は名主を中心とした村役人を通じて間接的に百姓を支配する方法をとった。幕藩領主は、村役人に村政を代行させることで、全国6万3千の村々を掌握し、百姓を支配した。
村の総括責任者は名主(なぬし)。地域によっては、庄屋あるいは肝煎(きもいり)。
名主は家格にもとづき領主によって任命されることが多く、百姓たちの推薦があるときでも、領主の許可が必要だった。
組頭(くみがしら)は、百姓の推薦や入札(いれふだ)で選任されるのが一般的だったが、この場合も領主による許可を必要とした。百姓代の選任方法は、百姓の推薦が一般的だった。
村は自治の単位であり、村役人がその先頭に立っていたことは事実だったが、村は幕藩領主によって支配の単位とされ、村役人はその内部で領主支配を実現する任にあたっていた。
村役人のうち、ときに重要な立場にあったのは名主で、名主は村の政治と自治の両方を担う存在だった。つまり、名主は村の行政官であるとともに村の代表者でもあった。
庄屋は村民の一員として公認され、村政を委任されていた。
村民は庄屋を、あくまで彼らの一員として公認し、村政を委任する形をとることによって、自分たちの代表者としてとらえ返した。
名主を中心として不断に働く村の自治に依拠することで、幕藩領主は村の支配も円滑に行うことができた。前者(村の自治)が後者(村の支配)を補完していた。
一般百姓が選挙によって名主を選んだことから、名主が村の代表者として位置づけられていたことは明らかだ。
年貢の徴集と上納は、名主の仕事のなかで、もっとも重視されていた。年貢や諸役などを村に上納させる制度を「村請(むらうけ)制」と呼び、その中心的役割は名主が担った。
名主は、ほとんど名誉職のようなものだった。
江戸時代、百姓はきちんと休んでいた。ただし、百姓の休日は全国共通ではなかった。徳川時代の百姓の休日は村ごとに決められていた。
徳川時代の後期には、商品・貨幣経済の進展によって農村内にも華美な風俗が浸透していった。そして、貧富の差が拡大した。
名主の仕事は、税務・警察・裁判などに及ぶ幅広いもの。徴税を行い、治安の維持に携わり、裁判権がなくても村の紛争解決にあたった。
大庄屋は、庄屋の上意に位置する村役人だった。大庄屋は村役人であり、百姓から任命された。自治を行うような性格(惣代性)はもたず、もっぱら藩権力の領内支配を担う藩役人的存在だった。
村の構成そして自治の実際を知ることが出来る、面白い本でした。
(2018年11月刊。2200円+税)

2019年1月27日

大名権力の法と裁判


(霧山昴)
著者 藩法研究会 、 出版  創文社

江戸時代の藩政において法令がどのように機能していたのか、学者の皆さんが、それぞれの研究成果を発表した論文集から成る本です。主として刑罰法規とその運用状況が語られています。私の関心は民事、とりわけ分散にありましたので、それを紹介します。
分散とは、今でいう破産のことです。
元禄期の岡山藩における分散の実情が紹介されています。
分散の開始にさいしては、債権者と債務者の同意が要件であった。債権者が債務者を破産させて債務を弁済させるのと、債務者が破産を申立てて債務を弁済するのと、二つあった。つまり、債権者申立の破産と自己破産の二つがあったわけです。
債権者が分散によって決着したので、「以後申分無之」と確言したときには、たとえ債権者は僅少の弁済しか得られなかったとしても、それで満足し、今後は債務者に対して弁済を請求しないと保証したことを意味する。
分散は、身代のつぶれた債務者に対する債権者の温情による債務処理という側面をもっていた。つまり、分散によって債権者は、早期に弁済を得られるが、僅少の弁済額で満足せざるをえない危険を負担し、他方、債務者は、今後債務を弁済する責任を免除された。このように、分散は、いわば経済的に破綻した債務者に対する債権者の温情による債務処理でもあった。
江戸時代にも破産手続というべき分散の手続があり、それなりに合理的な手続だったことが理解できました。
(2007年2月刊。8000円+税)

2019年1月26日

大名絵師、写楽

(霧山昴)
著者 野口 卓 、 出版  新潮社

東洲斎写楽の役者絵は、いつ見てもすごいです。圧倒されます。目が生きています。見事な人物描写です。
写楽絵が登場したのは寛政6年(1794年)のこと。フランス革命(1789年)の直後になります。この皐月興行で役者の黒雲母(くろきら)摺(ず)り大判大首絵を28枚、続く盆興行、顔見世興行と多量に出し、翌年の初春興行では少し出しただけで、それきり跡形もなく消えてしまった。だから、今なお、写楽とは誰なのか、その正体を究めようという人々がいる・・・。
いえいえ、写楽は、阿波つまり徳島の能役者で斎藤十郎兵衛だと決まっているじゃないか。私も、実はそう考えていました。
ところが、この本は、いやいやそうじゃないんだ、実は写楽は徳島藩主になった佐竹重喜(しげよし)なのだ、その正体を隠すために二重三重のトリックを使ったという展開の本です。
小説なので、どれほど史実にもとづいているのか私には分かりませんが、その展開はとても面白いものがありました。
写楽こと重喜は、徳島藩主になってからあれこれ藩政を改革しようとし、家臣内の猛反発を受けて失脚してしまうのです。藩政よろしからずと幕府に隠居を命じられたのでした。32歳で徳島藩の江戸屋敷、そして徳島の大谷別邸で暮らすようになった。
重喜は狩野派に学んだうえ、平賀源内から蘭画の手ほどきを受けた。
喜多川歌麿、葛飾北斎、司馬江漢、円山広挙、谷文晁そして山東京伝など、そうそうたる絵師がいるころのこと。
大谷公蜂須賀公重喜候を連想させない名前として東洲斎写楽が考案された。
そして、役者の錦絵を描かせて売り出すのは、蔦屋(つたや)重三郎だった。重三郎は耕書堂という屋号で版元を営んでいた。徳島藩の現藩主は重喜の息子。前藩主が徳島を出て勝手に江戸に移り住んでいることが発覚すると幕府当局から厳しくとがめられる危険がある。したがって、すべては隠密に事を運ばなければいけなかった。
絵師の世界、そのすごさが活写され、よくよく伝わってきます。電車の往復で読了し、幸せな気分になりました。
(2018年9月刊。1900円+税)

2019年1月20日

男たちの船出

(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  光文社

圧倒的な迫力があります。喫茶店で、いつものように原稿を書いていて、ちょっと頭休めのつもりで読みはじめたら、もう止まりませんでした。いえ、この先どういう展開になるのか、それを知りたくて、ついつい頁をめくってしまうのです。ついに、トイレに行くのまでガマンして、身動きすらせずに読みふけって読了してしまいました。
千石船づくりに果敢に挑戦する船大工の父子の話です。ところが荒波にもまれて、船は次々に難破して、手だれの船大工たちが亡くなっていくのです。
佐渡ヶ島に渡って、そこで荒波とたたかいながら千石船づくりに挑戦します。ようやく成功したかと思うと、荒波の脅威の前に船は沈没し、命がけで挑んだ若き船大工は命を落とすのです。さあ、次は、父親の出番。もう引退しようと思っていた父親がカムバックして、見事に千石船を誕生することができるのか・・・。手に汗握る、息もつかさない展開です。
同じ著者の『巨鯨の海』もすごい迫力の漁師の話でしたが、負けるとも劣りません。思わず数えてみると、書棚に著者の本が13冊並んでいます。ですから、この本は14冊目に読んだ本でした。プロの筆力のすごさを実感させられます。
「神仏には病魔退散を願うだけにしろ。船づくり(船大工)は神仏に頼ったら駄目だ。頼ったら最後、詰めが甘くなり、いい船は造れなくなる」
なるほどですね。苦しいときの神頼みもほどほどにすべきのようです。
弁財船とは物資の輸送に使われる大型の木造帆船のこと。北前船(きたまえぶね)、菱垣廻船(ひがきかいせん)、樽廻船(たるかいせん)は、それぞれ航路、形態、積み荷からそう呼ばれていっただけで、すべて弁財船。
弁財船が抱えるもっとも大きな問題は、舵(かじ)やそれを収納する外艫(そとども)にあった。弁財船の本体はきわめて堅牢な構造で、岩礁にでも衝突しない限り壊れるものではない。だが、舵と外艫だけでは弱かった。舵は船尾から直下に長く延びており、複雑な構造をしているので、海が荒れると壊れやすく、また流木や鯨が直撃しただけで折れることもある。これまで難破した弁財船の大半は、舵と外艫に何らかの損傷を受けたことが原因だった。
「つかし」とは、航行もままならないほどの暴風に出あったとき、帆を下げて「垂らし錨(いかり)」を下ろし、大きな船首を風上に向けて暴風が去るのを待つという暴風圏での対処法のこと。
塩飽(しあく)には死米定(しにまいさだめ)がある。海の事故で亡くなった者の遺族に、定期的に米が支給されるという一種の保障制度のこと。
元禄時代、塩飽所属の船は427隻、船手衆は3460人を数え、3万石の大名と同等の動員力をもっていた。
和船造りは、航の設置から始まる。航は洋船の竜骨と同じ役割を果たす船の大黒柱のようなもので、和船の航は幅広の厚板となる。工程は、主に大板を組み合わせていくことですすむので、これを「大板造り」と呼ぶ。そのなかでもとくに重要なのは、「はぎ合わせ」と「摺合せ」で、ここに大工の技量が問われる。
「はぎ合わせ」とは、何枚もの板をはぎ合わせて大板を造り出す技術のこと。船の需要が増して巨材の入手が困難となったために発達してきた。
「摺合せ」とは、航、根棚、中棚、上棚などの大板どうしを組み上げていく際に、縫釘を打つ前に隙間なく調整する作業のこと。
この小説には異例なあとがきがあります。次のように書かれています。
「本作は、事前に読書会を開催し、ご参加いただいた方々のご意見をできる限り反映しました」
そのうえで参考文献も明記されています。
まあ、それにしても登場人物の性格描写といい、情景の書きあらわしかたといい、頁をめくる手に思わず力が入ってしまうほどのすごさです。新年早々、心おどる小説に出会えたことに感謝します。
(2018年10月刊。1800円+税)

2019年1月19日

「アメリカ彦蔵自伝1」

(霧山昴)
著者 ジョゼフ・ヒコ 、 出版  平凡社

著者は1873年(天保8年)生まれ、太平洋を漂流し、助けられてアメリカで国籍もとって幕末の日本に通訳としてやってきました。
1862年(文久2年)に刊行した『漂流記』は、江戸時代としては唯一の漂流記でした。
この本を読むと、意外にも多くの日本人が漂流してアメリカの地を踏んでいます。
生地は播磨国の宮古村(兵庫県加古郡播磨町)。
彦蔵は、アメリカで14代の大統領フランクリン・ピアースに会見したうえ、暗殺前のリンカーン大統領にも会っています。
イギリス領事(あとで公使)のオールコック(当時50歳)とも面識がありました。
彦蔵は、日本では、アメリカ市民として行動していました。久しぶりに実兄と再会したとき、兄は疑っていたのでした。そこで、彦蔵が町内の誰彼の名前をあげて、いろいろ尋ねたことから、ようやく本当に自分の弟だと納得したのです。
「とうとう、うれしそうなほほえみが兄の顔にひろがり、口もとがほころび、ついに兄はわっと泣き出し、大粒の涙が頬を流れ落ちた。もう、二人のどちらも、ことばも出なかった」
幕末の日本は殺伐としていました。暗殺が続きます。ついに桜田門外の変が起きて、井伊直弼が暗殺されます。井伊大老のことを彦蔵は「摂政」と呼んでいます。
そして、そのころアメリカでは南北戦争が展開中でした。日本では、生麦事件のあとイギリス艦隊が鹿児島を砲撃し、また、連合艦隊が長州藩を下関で壊滅させます。
日本人でありながらアメリカ国籍をとって日本に戻り、通訳そして実業家として活躍した人物の目を通して幕末の世相が語られています。大変興味深く読みました。
(2003年9月刊。3400円+税)

2019年1月18日

日光の司法

(霧山昴)
著者 竹末 広美 、 出版  ずいそうしゃ新書

「百姓は菜種(なたね)きらすな、公事(くじ。訴訟)するな」
という呼びかけが近世の村社会で叫ばれました。
ということは、それだけ実は裁判が多かったということです。
当事者は、勝つか負けるかの必死の請願・訴訟を展開した。日光宿は、そんな人々を助け、また円滑な「御用」の処理のために奉行所と村人の間にあって活躍した。
日光奉行の職務の一つに公事(くじ)訴訟があった。江戸時代、争論や訴訟といった「公事止入」は、村の秩序を維持するうえで、戒めるべき行為だった。身をもちくずし貧乏になる原因の一つとして、「公事好み」(訴訟を好むこと)があげられた。
しかし、実態は、地境や入会地・用水をめぐる村内の争いや村と村の争論、あるいは私人間の金銭貸借訴訟など、領主や村役人層が、公事出入の非を百姓たちに絶えず、説きあかさなければいけないほど、公事出入は発生していた。
日光には、日光目代(もくだい)や日光奉行と深く関わりあい、「日光宿」(にっこうやど)と呼ばれて活動した公事宿が3軒ないし6軒ほど存在していた。
公事宿の活動を今に伝える史料として済口証文(すみくちしょうもん。和解調書)と、願書が残っている。
日光宿は、謝礼を受けて、訴訟になれていない者たちの訴訟行為を助けた。目安や願書等の文書を作成したり、訴訟に必要な知識・技術を提供した。ときには、本来、差添人(介添人)となるべき町村役人とともに奉行所まで行き、白州にのぞんだ。
江戸時代、幕府・領主は、訴訟ができるかぎり当事者の自発的な内済(ないさい。示談・和解)によって決着させる方針だった。これは日光目代・日光奉行も同じで、この内済を扱う人を「扱人」(あつかいにん)とか「内済人」と呼んだ。日光領では、日光宿も有力名主や年寄と並んで扱人となっていた。
尋問や命令の伝達のため役所へ出頭を命ずる差紙(さしがみ。召喚状)を、日光宿も日光奉行所から当事者ないし関係人に送達した。すなわち、日光宿は、日光奉行所やその関係役所の上意下達の伝達期間として機能し、下役的役割を担っていた。
著者は日光高校の教員です。とても分かりやすく、日光奉行所の活動の全貌を理解できました。昔から日本人は訴訟嫌いどころか、訴訟大好きだったことがよく分かる本です。
(2001年4月刊。1000円+税)

2019年1月 6日

江戸の目明かし


(霧山昴)
著者 増川 宏一 、 出版  平凡社新書

江戸時代、目明かしがもっとも使われたのは天保の改革のころ。ということは、江戸も末期ということになります。
天保4年(1833年)に判決が言い渡された「三之助事件」では、処罰された士分の者だけで33人、百姓・町人をあわせると総勢64人が処罰された。与力・同心そして目明かしである。
水野忠邦が主導した天保改革の真の狙いは思想統制にあった。反対意見を封殺して、幕府の権威を取り戻そうとした。そのために出版規制を強めた。
このころ、かるた賭博もさいころ賭博も、特別な賭場ではなく、普通の民家でおこなわれ、商人、職人、主婦が気軽に参加していた。
目明かしは、元犯罪者であることが多い。目明かしになる最初のきっかけは、自分が捕えられたときや入牢中に、他人の犯罪を訴えること。訴えた犯罪者は減刑されたり、特赦された。幕府は、犯罪捜査に役立つとして、これらの元犯罪者を目明かしとして採用した。元は犯罪者であった目明かしの弊害はすぐに表れた。江戸市中では、目明かしと自称して強請(ゆすり)をする者があとを絶たなかった。
このころ、現在の東京23区より狭い地域に60万人の町人が住んでいた。これを、わずか100人弱の同心で取り締まるのは不可能だった。そのため、同心の補助として目明かしが必要とされた。しかし、この目明かしは、お金をむさぼりとって賭博を見逃した。
目明かしは、奉行所の収入から同心を通じて定期的に手当を与えられていた。ところが、目明かしたちは、些細なことで町民に難癖をつけて強請(ゆす)ることを日常的におこなっていた。目明かしとその子分たちは、権力公認の暴力団ともいえる存在だった。
債権者より依頼されて借金の取立てをするときには、債務者に犯罪の容疑となる証拠もないのに逮捕し、その親類に借金を返済したら釈放するといって返済を強要する。取立がうまくいったら、債権者に礼金を強請る。
目明かしは、入牢したら裏切り者として牢内でリンチされる危険もあったので、入牢することを非常に恐れていた。
天保8年(1837年)に大坂の与力だった大塩平八郎の乱が起きた。
水野忠邦は天保14年(1843年)に老中を罷免された。明治維新まであと20年ほどです。水野忠邦は、その後いったん老中に再任された(1844年)が、翌年に辞職し、完全に失脚した。
天保の改革が終わって庶民がひと息ついたとき、黒船が来航し、世情は騒然とした。
明治維新の直前には、目明かしとその子分、そしてその手引たちが1500人ほどもいて、その横暴は目に余るものがあった。目明かしの存在じたいが治安を揺るがす問題となり、幕府も取り締まる姿勢を示さざるをえなかった。
目明かしは、決して「正義の味方」ではなく、非道の輩(やから)だったということがよく分かる面白い新書でした。
(2018年8月刊。780円+税)

2018年12月31日

佐賀藩アームストロング砲


(霧山昴)
著者 武雄 淳 、 出版  佐賀新聞社

佐賀に行き、維新博なるものを見学してきました。幕末のころ、佐賀は弘道館をつくり、人材を育成・輩出したこと、反射炉をつくってアームストロング砲をイギリスから輸入したばかりでなく自分でも製造し、活用していたというのです。
明治10年の西南戦争で田原坂が最激戦地となったのは、重いアームストロング砲を馬と人力で引き上げるには、この道しかなかったからだということのようです。上野の彰義隊も佐賀藩のアームストロング砲の前に壊滅したとされています。
いったい、なぜアームストロング砲は、それほど威力があったのか、ぜひ知りたいと思って本書を購入し、認識を深めました。
アームストロング砲は、イギリスのアームストロングにより1855年に発明されたもの。それまでの青銅鋳物(いもの)製ではなく、鉄製砲身をもち、砲尾より装弾ができる。しかも、砲身は錬鉄の4層構造。後装式施条砲は、この当時の最新鋭の兵器で、射程距離、射撃精度、そして連射性で際立った性能を有している。アメリカの南北戦争、日本の戊辰(ぼしん)戦争でフルに活用された。
アームストロング砲は、1分間に2発ないし3発と連射性があり、最長3600メートルの射程距離があった。錬鉄による層威砲身なので、砲身の強度が確保された。錬鉄の細長い棒をつくり、それを加熱して芯金に巻きつけ、コイル状にしたものから鍛造加工で筒状にした。そして径の異なる筒を焼バメして層を重ねて、砲身の強度を確保した。
佐賀藩は、アームストロング砲を完全に自前ではつくれなかったようです。というのも、佐賀藩のつくった反射炉に錬鉄をつくる性能はあっても、錬鉄をつくるパドル炉の機能がなかったからです。したがって、アームストロング砲に似せたものまでつくって明治になってしまったのではないかと著者は書いています。
それにしても、佐賀藩だけが当時、鉄製大砲をつくっていたのですね。知りませんでした。
佐賀藩は鉄製大砲を200門をつくっただろうというのです。
かの白虎隊が奮戦した会津戦争でもアームストロング砲が活用されたとのことです。
初代の司法郷として近代的な裁判制度をつくろうとした江藤新平については、もっと知りたいと考えています。今後の課題です。
(2018年2月刊。1800円+税)

2018年12月24日

江戸城御庭番

(霧山昴)
著者 深井 雅海 、 出版  吉川弘文館

将軍直属の隠密(おんみつ)集団として有名な「御庭番」の実情に迫った本です。その人事や報告書を丹念に紹介していますので、なるほどそうなのかと納得できます。
御庭番は将軍吉宗が始めたもので、和歌山から引きつれて来た武士の一団だった。御庭番の家筋は、吉宗が将軍家を相続するにともなって幕臣団に編入した紀州藩士205人のうち17人を祖とする。紀州藩で隠密御用をつとめていた薬込役を幕臣団に編入した。
御庭番は直接、将軍に報告することもあった。つまり将軍御目見の存在だった。しかも、仕事ができると見込まれたら、異例の昇格を実現していた。御庭番出身で勘定奉行にまで大出世した者が3人いる。そのほかの奉行になった者も4人いる。
御庭番は、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだとき、将軍独自の情報収集機関として設置された。この将軍直属の隠密という点が、他の隠密とは異なる最大の特色だった。
御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けて、諸大名や遠国奉行所・代官所などの実情調査、また老中以下の諸役人の行状や世間の国聞などの情報を収集し、その調査結果を国聞書にまとめて上申し、将軍は、その情報を行政に反映させていた。
御庭番の偵察は老中などの幕府内を対象とすることもあり、町奉行の無能を報告すると、その奉行は左遷された。
薩摩藩を対象としたときには町人になりすましたようだが、さすがに薩摩藩への潜入はせず、熊本・長崎・福岡などの周辺で聞き込みをしている。
御庭番の結束は固かったが、それは、報告するときには上司(先輩)の了解を得て書面を作成していたことにもよる。
大変興味深い内容なので、途中の眠気も吹っ飛び、車中で一気読みしてしまいました。
(2018年12月刊。2200円+税)

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