弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2019年10月13日

義民が駆ける


(霧山昴)
著者 藤沢 周平 、 出版  中公文庫

徳川家斉、水野忠邦。将軍と有力老中が3つの藩のお国替えを画策し、地元百姓の一揆の前にもろくも敗退し、計画は撤回された。この過程が忠実に再現されていきます。ウソのようなホントの話ですから、もとより面白くないはずがありません。
そして、そこはさすがの藤沢周平です。じっくり味わい深く読ませます。
幕府当局内の力関係を背景に、意思決定が少しずつ実現していくのです。ところが、対象となった^荘内藩では、藩当局と豪商たちが反対に動きます。そして、肝心なのは百姓たちの動き。
これを誰が動かすのか・・・。村のきもいりたち、それを背後で動かす豪商の存在。
川越藩主は、将軍家斉の24番目の男子を養子に迎えている。その川越藩主が実入りのいい荘内藩への移封を望んだ。川越藩が荘内に移れば、15万石から実収21万石になり、長岡藩は7万石が15万石になる。逆に荘内藩は半減する。何の落ち度もないのに移封されて半分に減収を余儀なくされるのは、いかがなものか・・・。
明日は我が身のように思い、内心では反対したい藩主が少なくなかった。でも、実力ある水野忠邦には容易に逆らえない。ことは着々とすすんでいく。
村内の寄合いが始まった。肝煎(きもいり)、長人(おとな)が集まるなかで、国替えに反対して、江戸へ請願に繰り出そうということになった。
いや、すぐに結論が出たわけではない。反対する人も慎重論者もいた。しかし、きびしい年貢の取立てが始まって飢え死にするの必至。それなら、そうならないように行動に移すしかない。次第に話がまとまり、村人たちが普段着のまま、江戸へ向かう。
頼みの相手から助力を断られ、すごすごと宿へ引き返す。ところが、さすがに裁判(訴訟)を専門に扱う公事宿は違い、百姓たちに知恵と工夫を授けた。
百姓たちは地元で2万人も集まる大集会を2度も開いた。ついに百姓たちが大々的に立ち上がったのだ。
初版は1976年9月に刊行されています。ずっしり読みごたえのある文庫本でした。
(2013年10月刊。743円+税)

2019年9月28日

江戸の古本屋


(霧山昴)
著者 橋口 侯之介 、 出版  平凡社

日本人は昔から本が大好きだったことがよく分かります。
昔の日本人は、本を読むというのは、声を出して読む、音読するのか普通だったようですね。寺子屋で、「し、のたまわく・・・」と声をそろえて習っていたことの延長線にあったのでしょうか・・・。
寛永のころ(1624年から1644年)、収益を目的として本を刊行する商業出版が始まった。出版する本屋が京都だけで、享保年間(1716~1736)には200軒も存在していた。
大阪の本屋も享保11年に89人だったのが、享和1年(1801年)に130人、文化10年(1813年)には、343人に達した。江戸では、京保7年に本屋仲間が47軒で結成された。
江戸時代を通じて、大手の書林といえども出版だけで収益をあげることはできず、古本業務を基礎として、さまざまな本に関する仕事をこなしていた。
江戸には、文化5年(1808年)に貸本屋が656軒あり、販売網として組織化されていた。
江戸時代の本屋は現代の出版社のように間断なく新本を出し続けるということはなかった。新刊本は数年がかりで、数点が同時進行しながら製作されていた。本づくりは慎重にすすめられた。出版活動は、数多くの業務のひとつに過ぎなかった。江戸時代の本屋は、出版物を刊行するだけでなく、卸売りも小売りもすれば、古本のような再流通までを担う産業だった。きわめて特殊な商形態だった。
本屋は講をつくっていた。講は情報を収集する場であり、金融的側面ももっていた。古書の交換システムを機能させ、娯楽的側面もあった。
本屋の仲間同士の支払いは2ヶ月後の清算が慣行だった。
セドリとは、同業の本屋を回って本を仕入れる行為をいう。また、風呂敷包みを背負って江戸中を歩いて本を買い集め、それを売って商いする者のこともセドリと呼んだ。
本屋の古本業務が盛んになったのは、書物の収集に熱心な顧客が増大したことが背景にある。それまでの寺院や公家、大名家だけでなく、神社や民間の学者、医者、富裕な商人にも収集する層が広がっていった。そして、村々の役人、町役人や一般商人にまで収集の層が広がった。
本替(ほんがえ)とは、本屋が現金でなく、お互いに本を送るという実物による交換であって、これは、余計な資金の移動を避ける合理的な商習慣だった。
いま、小さな本屋がどんどん閉店しています。本当に残念です。ネットで注文するのは便利ですが、やはり神田の古本屋街のように手にとって眺める楽しさは格別なのです。アマゾンに負けるな、そう叫びたい気分です。
(2018年12月刊。3800円+税)

2019年8月25日

日本人のひるめし

(霧山昴)
著者 坂井 伸雄 、 出版  吉川弘文館

私にとっても、昼食に何を食べるかは関心事の一つであり、なるべく美味しくて、量の少ないものを心がけています。
ヨーロッパでは、1日3食のうち昼食がもっとも重要視されているとのこと。でも、フランスを旅行しているときには、昼食もさることながら、夜8時にスタートする夕食も楽しく語らいながらの食事として、1日のフィナーレを飾るものという印象を受けました。
カナダエスキモーの社会では、人々が集まって一緒に食事をする習慣がない。ニューギニア高地にも、1日1回、蒸し焼きにした野菜を集まって食べるだけで、あとは、1人1人が勝手に焼いたイモを食べている。
縄文時代の日本列島の人口は26万人。大部分は東日本に集中していた。文化は西から、当然、西日本のほうが人口も多いと思っていたのですが・・・。
日本人男子の平均身長は、縄文中期に159センチ、古墳時代に163センチ。ところが、鎌倉時代は159センチ、江戸時代は157センチ、明治の初めは155センチでしかなかった。これは、縄文時代の食糧資源が豊かだったことを意味している。うむむ、そうだったのですか・・・。
平安時代は1日2食が普通だった。鎌倉時代の初期、朝廷をふくめた公家社会では1日3回の食事が定着していた。ところが、戦国時代になっても、武士は1日2食が基本だった。庶民のあいだで1日3回の食事が普通になったのは、江戸時代、17世紀半ばすぎからで、まだ300年ほどの習慣でしかない。
弁当というのは、江戸時代までは容器を指していたが、やがて食べ物を意味し、容器は弁当箱と呼ばれた。明治から昭和前半が弁当の最盛期。芝居弁当が幕の内弁当と呼ばれるのは、幕間(まくあい)に食べることから。松花堂弁当は、仕切りのある箱に詰めた弁当のこと。
給食は、明治に入ってからの新しい言葉。給食のはじまりは、兵士に対する給食。学校給食での好き嫌いと大人になってからの嗜好(しこう)とのあいだには、強い相関関係が認められる。
学校給食は、アメリカであまった脱脂粉乳(家畜のえさ)や小麦のまたとない受け入れ先だった。
学校給食の普及は、朝のパン食の習慣を家庭に普及させる引き金となった。
日本人がカレーライスを大好物としているカラクリなど、食事にまつわることが集大成してある楽しい読み物です。
(2019年3月刊。2200円+税)

2019年7月20日

壱人両名


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版  NHKブックス

江戸時代について書かれた本は、それなりに読んだつもりなのですが、この本を読んで、まだまだ知らないことがこんなにあるのかと驚嘆しました。
1人が2つの名前をもっている。そして、武士としての名前と町人としての名前をそれぞれもっている。また、公家と町人、武士と百姓など、さまざま。
これは、当時の社会ルールにしたがって生きていくうえで必要な仕組みだった。ただし、それが公認されていたわけではなく、何か事件が起きると、1人が2つの名前をもっていることが問題視された。
たとえば、2つの名前をもっていると、裁判のとき砂利の上に座るのか、板張りに座るのかといった扱いの違いがあった。
公家(くげ)の正親町(おおぎまち)三条家に仕える大島数馬と京都近郊の村に住む百姓の利左衛門。二人は名前も身分も違うが、実は同一人物。この人物は大小二本の刀を腰に帯びる「帯刀」した姿の公家侍(くげざむらい)「大島数馬」であると同時に、村では野良着を着て農作業に従事する百姓「利左衛門」でもあった。一人の人間が、あるときは武士、あるときは百姓という、二つの身分と名前を使い分けていた。
これを、江戸時代に、「壱人両名」(いちにんりょうめい)と呼んだ。
江戸時代は、人の名前は、出世魚のように改名するのが普通だった。ただし、それは、同時にいくつもの名前をもっているということではない。つまり、江戸時代の人間も「名前」は一つしかない。公的に使用できるのは、人別などを通じて「支配」に把握された「名前」だけ。
この一人に一つしかないはずの「名前」を同時に二つ持つ者を「壱人両名」と呼んだ。
江戸時代には、僧侶には僧侶の、武士には武士の、商人(あきんど)には商人の、それぞれの身分にふさわしい名前と姿(外聞)があり、それは身分や職業を、およそを他者に知らせる役割も担っていた。
「壱人両名」は、村や名跡と化した名前や身分を、縦割りである各「支配」との関係を損ねることのないよう、維持・調整できる合理的な方法として、平然と行われていた。ただし、それは声高に奨励されてはならないものだった。
武士身分をもったまま、「町人別」まで保持して町人身分になっている者は少なくなかった。壱人両名は、ごくありふれたことだった。しかし、何かでそれが発覚すると、「所払い」などの処罰が加えられた。つまり、壱人両名は、江戸時代の社会秩序の大前提、とくに縦割りである各「支配」との関係から、表面上うまく処理するために行われていたのであって、その状態が他人を騙したり、村や町を苦しめたりしない限り、表沙汰にされることはなかった。
うひゃあ、知りませんでした・・・。
(2019年4月刊。1500円+税)

2019年6月 9日

江戸の不動産

(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版  文春新書

江戸という町は明暦の大火(1657年)によって、劇的に変化したようです。
明暦の大火のあと、江戸近郊の農村地帯に続々と家が建ちはじめ、そこに人が住み、急速に町場化していった。それまでは古町といわれた三百町のみが町奉行の支配下にあったが、芝・三田から下俗・浅草までの三百町も町並地(市街地)と認定されて、町奉行の支配に組み込まれた。その後、さらに、本所・深川・浅草・小石川・牛込・市谷・四谷・赤坂・麻布の259町が町並地として町奉行支配となった。ええっ、深川が当初の江戸になかっただなんて・・・。
江戸幕府は、火災が起きると、焼け跡の町を召し上げ、火除地(ひよけち)に設定した。
そして、隅田川に架かる両国橋は、明暦の大火のあとにつくられた。1日に2万3千人から2万5千人が往来していた。武士たちは、老中の許可を得て土地交換をしていた。
老中が率先して、あたかも「地上げ」のような取り引きを繰り返していた。だから、交換を名目とした土地売買に歯止めがかかるはずもない。
地面売買口入(くちいれ)世話人という不動産業者が江戸にはいた。
拝領した土地がありながら、そこには居住せずに他家に同居したり、別の土地に借地している御家人は多かった。町人に貸して地代収入を得ていたのだ。
町人地には売買が認められていて、公定価格が設置されていた。江戸の1等地だと坪単価で1両を下ることはなかった。
建物を貸して賃料をとると、火災のときのリスクは大きい。それは土地を貸していてもリスクはあった。そのうえ、天保の改革のときには、地代・店賃の引き下げ金が発せられて、地主・大家はもうからなくなった。世話料や交際費なども地主・大家の負担として軽くはなかった。
それでも、江戸に不動産をもっているのは、拠点の確保とビジネス上の信用・担保に大きな意味があった。
江戸の社会では土地が固定していたというのは、単なる虚像でしかない。現実には、武士・町人・農民が入り乱れて活発な不動産取引がなされて、土地は激しく流通していた。
ええっ、ええっ、そ、そうなんですか・・・。驚くばかりの江戸の不動産取引の様子が語られていました。
(2019年3月刊。820円+税)

2019年5月18日

千里の向こう


(霧山昴)
著者  蓑輪 諒、 出版  文芸春秋

坂本龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎について、初めて具体的イメージをもつことができました。
坂本龍馬は、その実家の坂本家は才谷屋という高知城下の豪商の分家。龍馬より4代前に、武士株(武士の身分)をお金で買い、にわか侍になった。
中岡家は、安芸郡北川郷において14ヶ村を束ねる「大庄屋」である。
江戸時代、封建制社会は、えてして身分にうるさいが、なかでも土佐藩の厳しさは特筆すべきものがあった。
藩内の武士階層は、「上士」と「下士(郷士)」に大別され、下士は、たとえば下駄を履くことや、夏に日傘を差すことも出来ず、原則として城の総構えの内側には住んではならないなど・・・、細々とした禁則があり、上士から差別された。
土佐侍たちは、剽悍(ひょうかん)で知られ、かつて長宋我部氏は彼らを率いて近隣をことごとく切り従え、1時は、四国全土をほぼ併呑した。その恐るべき長宋我部遺臣たちが万が一にも諜叛などを起こさないようにするため、山内氏は彼らを「下士」として取り立てて懐柔しつつ、古参の山内家臣である「上士」と明確な差をつけ、身分によって屈服させようとした。下士は上士に逆らっては生きられない。
この幕末当時の「尊王攘夷」という語には複雑な意味がある。この語自体は、過激思想でもなければ、政治的な立場の違いを表わすものでもない。このころの日本人にとっては、天皇を尊ぶことも攘夷を望むのも、ごく普遍的な考えであり、条約を結び、国を開いた江戸幕府でさえ、建前としては尊王攘夷を奉じている。
ただ、その攘夷をいつするのかで大きく分かれてくる。多くの強硬派・過激派の志士は、即時に攘夷を断行すべしとしている。もう一方は、現在の不当条件であっても、当面は容認し、将来、交易によって国力が整ったら、攘夷を断行する。なーるほど、ですね。
長州藩は、攘夷成功の栄誉に酔いしれていた。長州藩は、1ヶ月もしないうちに完敗を喫し、存亡の危機へと立たされてしまった。
慎太郎と龍馬は、これでも同じ土佐人かと思うほど、気質も考え方も正反対だ。
慎太郎は、土佐藩士たちを啓蒙するため政治論文を書いた。時勢論と呼ぶ。理屈屋の慎太郎らしく、緻密な理論と冷静な源氏認識に立脚しつつ、その語調は大いに熱っぽく真剣だった。富国強兵というものは、戦の一家にありと慎太郎は表現した。
残念なことに龍馬とともに慎太郎は30歳で果てた。
(2019年2月刊。1700円+税)

2019年4月30日

火付盗賊改

(霧山昴)
著者 高橋 義夫 、 出版  中公新書

火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)は、はじめは非常の役職だった。盗賊が跳梁(ちょうりょう)して手に負えない、あるいは火付けが横行するといった非常のときに、幕府が先手頭に命じて取締らせた。
火付け盗賊改は、はじめ火付改、盗賊改に二分されていた。元禄12年(1699年)いったん両職を廃止し、3年後に盗賊改を復活させ、元禄15年に博奕(ばくち)改を盗賊改に兼務させ、享保3年(1718年)に三職をまとめて兼務させることになった。
火付盗賊改は、本役、加役ともに役料というものがなかった。役目を果たしたときに、頭には金3両ほどの褒美、与力や同心にもなにがしかの賞金があたえられるくらいのものだった。なので、加役をおおせつけられたばかりに、ひどく困窮する先手頭も少なくなかった。
享保の改革の時代に、火付盗賊改の役扶持が40人扶持とさだまり、与力は現米80石、役扶持が20人扶持となった。役扶持の不足は、当然のことながら1人に袖の下を要求したり、配下とした目明しが役得のごとくゆすりたかりめいた悪事に走るなどの弊害を生んだ。
火付盗賊改が庶民に嫌われた原因は、吟味中の拷問だった。享保以来、拷問には慎重ではあったが、廃止されることはなかった。
科人(とがにん)の中から、目はしのきく者をえらび出し、罪に問わない代わりに密偵として使う。これを目明しとか岡っ引と呼んだ。町奉行や火付盗賊改にとっては重宝だが、庶民にとってはこれほど迷惑な存在はない。捕えられて死罪となった人々のうち、どれほどが無実の罪を着せられたことか・・・。
有名な長谷川平蔵は、親子二代にわたる火付盗賊改だった。田沼時代から松平定信の寛政の改革のころである。長谷川平蔵は、人足寄場を創設した功績によって、歴史に名を残した。無宿人対策である。無宿人の匡正(きょうせい)は容易ではないが、扱い方次第では10人のうち5人は真人間に改心させる可能性があるとした。
平蔵が寄場の囚徒にさせたのは、手職のある者には大工、建具、着物、塗師をさせ、手職のない者には、米搗(こめつ)き、油絞り、炭団(たどん)、藁(わら)、木細工、紙漉(す)きなど。これらの製品は、町の商人に鑑札を与えて売りさばきを許した。
江戸時代の警察の仕組みと実情が分かる新書でした。
(2019年2月刊。860円+税)

2019年4月28日

江戸暮らしの内側

(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版  中公新書ラクレ

江戸時代の庶民の暮らしぶりがよく分かる本です。
「大坂夏の陣」以降、日本国内で大きな戦争が絶えたのは、支配層たる武士より、多くの庶民による「不断の努力」があってのことと理解すべき。平和が、強大な江戸幕府の恐怖政治によって実現したなどと考えると、江戸時代の真の姿はまるで見えなくなってしまう。
著者のこの指摘は大切だと私は心をこめて共感します。
江戸時代の庶民からもっとも学ばなければならないのは、生活文化、暮らしの文化だ。
江戸時代は楽園ではないし、そこで生きていた庶民は、現代以上に大きな困難に直面していた。しかし、当時の人々の多くが見せた生き様(ざま)は、疑念の余地もないほどに真摯なものだった。それは、当時において、いわゆる道徳教育がきわめて重視されていたためでもある。この道徳教育の究極の目標は、常に平和の維持だった。
長屋の小さな家は、1月あたり500文(もん)で借りられた。500文は現代の1万2500円にあたる。家賃は意外に安価だった。
江戸は上水道だけでなく、下水道も整備されていた。排泄物は一切下水には流れ出なかった。
地主と大家は違う人物で、長屋の住人を管理させるために雇っていたのが大家だった。
江戸はよそ者の集まりであり、長屋を「終(つい)の棲家(すみか)」とするつもりだった者は、ほとんどいなかった。
江戸の食事は朝夕の2回。米を炊くのは朝で、1日1回。夕食の白飯は、茶漬けにして食べるのが普通だった。昼食は元禄年間に定着した。そして、三食すべて白飯(お米)を食べていた。
棒手振り(ぼてふり)とは、行商人のこと。免許制だった。
江戸の庶民は現代日本人と体型がまったく違っている。足が短く、重心が低かった。60キロの米俵1俵を1人で持って歩けるのは普通のこと。
江戸の庶民は、「さっぱり」を何より好んだ。そのため、とにかく入浴が大好きだった。毎日、入浴する。料金は銭6文。
江戸の男性労働者は、数日おきに髪結床の世話になった。髪結床は、江戸に1800軒の内床があり、そのほか出床をあわせると2400軒以上もあった。料金は20文、500円ほど。
就学率は、江戸後期に男子が50%、女子が20%。全国に寺子屋が1万以上、江戸だけで1200以上あった。寺子屋は、まったく自主的な教育施設であり、幕府や藩がつくらせたものは全然ない。ここで朝8時から午後2時まで勉強した。基本は独習で、習字の時間がもっとも多かった。
江戸時代の人々は、人間の幸福を人生の後半に置き、若年の時代は晩年のための準備の時代と考えていた。
まだ若手の学者による江戸時代の暮らしぶりの明快な解説です。一読の価値ある新書だと思います。
(2019年1月刊。820円+税)

2019年4月20日

そこにあった江戸


(霧山昴)
著者 上条 真埜介 、 出版  求龍堂

幕末から明治初めにかけての日本を外国人が撮影した写真が集められています。当時の日本人の膚黒さを実感させられます。白黒写真だったのを彩色して、カラー写真のように見える写真集です。
もちろん自動車なんて走っていないわけですが、それにしても住還道路が幅広いことに驚かされます。両側にワラぶきの民家が建ち並び、道路の真ん中を排水溝が走っています。ほこりっぽいけれど、清潔な町だったのですね。
子どもたちの姿は、ほんの少ししか写真にとらえられていません。子育てするのも子ども、とりわけ娘でした。子だくさんだったようです。
幕末に来日した西洋人たちは物にとらわれない日本人の暮らしぶり、清らかな目をしている日本人の子どもたち、そして満面に屈託のない笑みをたたえる農村の子どもらに心が打たれたようです。
「犬が向こうからやって来た。私は威嚇するように屈んで小石を拾った。犬は気にせず歩いてくる。私は、それに驚き、慌てて手の中の石を犬のほうに投げた。どこの国でも、犬は石を拾おうとする人影を見ただけで他所へ行く。しかし、日本では違う。その犬は、どうしたことか、足元に転がる石を見て首を傾けると、近くに寄ってきた。犬の顔は優しかった。こんな国があるのか、オーマイ」
子どもだけでなく、犬にまで驚いたのでした。
妻籠(つまご)とか大内宿(しゅく)など、江戸情緒をたっぷり残しているところありますよね。ぜひ行ってみたいです。九州にも、島原とか知覧に武家屋敷が一部残っています。実際に居住すると不便なことも多いでしょうが、観光資源ともなりますし、昔の人の生活をしのぶ格好の学習資材としてぜひ保存・活用してほしいものです。
大判の写真集ですし、4500円もしますので、ぜひ図書館で手にとって眺めてみてください。きっと江戸時代のイメージが豊かになりますよ・・・。
(2018年11月刊。4500円+税)

2019年4月14日

踏み絵とガリバー

(霧山昴)
著者 松尾 龍之介 、 出版  弦書房

イギリス人のスウィフトの『ガリバー旅行記』に日本が登場してくるなんて、初めて知りました。しかも、踏み絵のことが書かれているというのです。さらに、夏目漱石が、この『ガリバー旅行記』を絶賛しているというのです。世の中には、驚くことが多いですね。
『ガリバー旅行記』は、4篇から成っていて、第一篇は「小人国」、第二篇は「大人国」だけど、第三篇は、太平洋上の島々を訪問したもので、そのなかに日本が含まれている。
そして日本に上陸するときには、イギリス人のガリバーはオランダ人になりすます。そして、江戸で日本の皇帝(将軍)に会ったとき、オランダ人がしている踏み絵の儀式を免除してほしいと願った。
踏み絵は日本人だけで、オランダ人が出島でも踏み絵をさせられたことはない。
オランダ人は、キリスト教徒として恥ずべき行為(踏み絵)までして、日本との貿易を独占しているという噂が立っていた。それは、嫉妬ややっかみにもとづくものだった。
イギリスは、オランダに対して常にライバル意識をもっていて、ついには戦争までするようになった・・・。
スイフトが『ガリバー旅行記』を書いた(1726年)のは、59歳のときだった。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』と同じころだ。
『ガリバー旅行記』は、皮肉やブラックユーモアに満ちた、大人のための文学である。
ガリバーが旅行する国々のなかで、唯一、日本だけが実在する。
ヨーロッパの人々は、マルコ・ポーロ以来、ずっと日本に熱い眼差しを向けてきた。ヨーロッパの人々は、現代日本人が想像する以上に、日本のことをよく知っていた。しかも、それがスキャンダラスなだけに強く印象が残った。
九州諸藩で踏み絵が続けられたのは、踏み絵が同時に戸籍制度として機能していたから・・・。うむむ、なるほど、そういう側面もあったのですか・・・。
(2018年10月刊。1900円+税)

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