弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年5月10日
松の露
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 諏訪 宗篤 、 出版 早川書房
宝暦郡上一揆異聞。これが、この歴史時代小説のサブタイトルです。
ときは、徳川九代将軍家重の治世下。宝暦となってからも冷夏、長雨、害虫に襲われ、農村は疲弊していた。その前の享保の飢饉のときは、250万人が飢饉に苦しみ、餓死者が1万2千人をこえた。
中山道は美濃の関あたりで総州浪人の慶四郎が災いに巻き込まれた。浪人が郡上(ぐじょう)一揆にどうやって巻き込まれていったのか、そのきっかけの展開から読ませます。
郡上の領主である金森家は年貢(ねんぐ)をさらにしぼり上げようと考え、年貢の算定方法を変更することにした。すなわち、それまで一定額であったものを、毎年の稲の出来高を検見(けみ)したうえで変動させることにした。これに対して、村方(むらかた)の百姓たちが一斉に反発した。今でも重い年貢が暮らしを圧迫していて、今後さらなる増税となれば、田畑の枚数が少ない村方は、次の収穫まで家族が生きて暮らすことが困難となる。そこで郡上のすべての村は、検見法採用の申し渡しを拒絶した。村方衆による強硬な反対を受けて、検見法の採用はいったん差し戻しとなった。しかし、金森家があきらめたわけではない。
検見法が実施されると、村方の人々は強訴(ごうそ)を決行した。刀や槍、鉄砲こそもたないが、武士の百倍以上の村方人員を動員して政庁を取り囲んだ。このときは、ついに、国家老の連判する免許状を出させた。
この免許状をめぐって、金森家による反撃が始まった。免許状を取り戻そうとするのです。
村方の農夫たちは、実のところ、敗残の将兵を襲って鎧や刀を奪いとり、守護や豪族を叩き出して自治を敷いてきた者の末裔(まつえい)である。理不尽な暴政や増税にははっきり声を上げて抗(あらが)い、強訴したり、江戸まで出向くことも辞さない。対面や掟(おきて)に縛られる武士の弱点を突く、したたかさも持ちあわせていた。
ここで公事師(くじし)が登場。江戸時代の裁判において、現代の弁護士と似た役割を果たしていた人々がいたのです。
幕府も、当初こそ公事師を禁圧していましたが、呼出しその他で便利な存在だとして、やがて公事師を公認しています。
金森家は村方の百姓たちの一揆に対抗すべく破落戸(ごろつき)を雇った。
郡上一揆では、百姓たちは代官所へ向かって集団で要求をつきつける行動をするだけでなく、代表が江戸に出向き、老中の登場駕籠(かご)に駆け込み訴えもした。これが意外に大きな効果があった。
この本は剣豪小説でもあります。登場する浪人は目茶苦茶に剣が立ちます。バッタバッタと悪漢の手先たちを切り倒していくのです。
刀の優劣は技量の優劣の前では意味をなさない。技量が同等なら勝負を決めるものは、心の練度だ。
遺書で名指しして自ら先に腹を切るのを指腹と呼ぶ。いやあ、聞いたことがありませんでした。ときには書状とともに、切腹につかった刃を相手方に送って死を迫った。そ、そういうこともあったんですか...。でも、ほとんど無視されるでしょうね。
郡上大一揆は江戸時代のなかで、まれにみる大きな成果をあげたことで有名です。
それは、まず五手掛となったことに示される。通常なら町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三者で協議するところ、目付と大目付まで加わることになった。
そして将軍の意を体してことにあたったのは、将軍御側御用取次役の田沼意次。いわば新参者が、家康の有力家臣だった本多正信の家系の有力老中たちを押え込んだ。
そして、問題の金森頼錦は、改易され、陸奥の盛岡に永預とされて5年後に死亡。金森家の家臣団は全員が召し放ち。勘定奉行、大目付、郡代官なども改易され、御役召放、閉門・逼塞(ひっそく)となった。
村人のほうも処罰された。4人が獄門、10人が死罪、遠島1人、重追放6人、所払33人など...。
巻末に参考資料が紹介されていますが、「郡上一揆の会」なる団体もあるそうです。すごいです。歴史を読みものにした、ワクワクする本です。
(2025年2月刊。2300円+税)