弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2020年2月 1日

大江戸史話


(霧山昴)
著者 大石 慎三郎 、 出版  中公文庫

日本史上、間接税を最初に導入したのは田沼意次である。
田沼意次は、小姓組番頭格をふりだしに、小姓組番頭、側衆御用申次、側用人、さらに老中に準ぜられたあと、老中となった。しかも、側用人の役も兼帯した。老中は幕府正規の役職の最高位、側用人は正規ではなかったが、将軍の信任を得れば老中をうわまれる、いわば裏の最高権力者である。この両ポストを握った最初の人物が田沼意次だった。いわば、意次は幕府はじまって以来の権力者なのである。
郡上踊り(ぐじょうおどり)は、一夏を通して行なわれる特異な祭り。これは1754年(宝暦4年)から足かけ5年という長さでたたかわれた郡上一揆でずたずたになった領民を融和するために始められたもの。
九代将軍・家重の時代(1745~1760年)は、「全藩一揆の時代」として知られている。江戸時代でもっとも大がかりな全藩あげての一揆が多発した時代。
郡上一揆は内部に徹底抗戦派の百姓(立百姓)と妥協派(寝百姓)とに分かれての内部抗争もあって、長引いた。結局、幕府の最高機関である評定所にもちこまれ、農民側も多数の犠牲者を出したが、領主(金森頼錦)は改易(かいえき)、幕府のなかでも老中・若年寄・勘定奉行などが、私的に藩を支援したとして改易などの厳罰に処せられるという前代未聞の措置がとられて終結した。
この幕閣処分で、幕府内の直税増徴(年貢増徴)派は幕府の中心部から一掃された。
そして、変わって田沼意次たちの一派が登場して間接税の導入をすすめた。「敵」に一番打撃を与えたという意味では、領主を改易させたうえ、それを支援した幕府権力中枢にも多大の打撃を与えた群上一揆が最右翼である。
20年以上の本ですが、内容的に紹介したい話のオンパレードでした。
(1992年3月刊。460円+税)

2019年12月31日

カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿


(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版  勉誠出版

江戸時代、オランダはヨーロッパ人として対日貿易を独占していた。長崎の出島で1641年から1858年まで218年間も、それは続いた。
そして、カピタン(オランダ商館長)は当初は毎年、次いで4年に1度、江戸にのぼった。166回にものぼる。これは朝鮮通信使の12回、琉球使節の18回に比して断然多い。
カピタンの江戸参府の道中、一行を数日、止宿させた定宿(じょうやど)を阿蘭陀(おらんだ)宿と呼んだ。江戸、京、大坂、下関、小倉にあった。
江戸では本石町3丁目にあった。現在、JRの新日本橋駅のあたりに「長崎屋」があった。
1826年の参府にはシーボルトが随行していた。1850年の江戸参府が最後になった。
オランダ人としては、カピタンのほか書記1人、医師1人の合計3人。日本人のほうは60人ほど。
1850年分については京都の「海老屋」の宿帳(御用留日記)にその全員が書き残されている。
カピタンの江戸参府旅行は、宿駅を早朝に出立し、次の宿駅で昼食をとる休憩、そのあと引き続き次の宿駅まで旅して泊まる。この一休一泊を基本方針とする旅程だった。
献上物・進物は余分に持参し、無事だと残品が出る。それを売るのは許されていて、元値の5割増で買いとられ、それが元値の3倍で転売された。すると、幕府高官も阿蘭陀宿もずい分の定期的収入となった。
シーボルトが随行したときにはピアノまで運んでいた。
カピタンたちを見ようとどこでも見物人が押しかけてきて、大混雑した。役人は、その整理で大変だった。鉄棒をもった制止役人は汗だくだった。
江戸城でカピタンが将軍に会うときには、カピタンから将軍の顔は見えないほど。ところが、御台所をはじめ、将軍一族の女臣たち、大奥の女性たちが御簾のうしろから見物していた。入口の襖の前後には、大名の子どもたちや坊主が重なりあって、じっとカピタンたちを見つめて座っていた。
ケンペルが将軍に面会したのは「御座空間」だったことが、ようやく判明した。
カピタンの江戸参府が詳細に再現されています。日本人って、本当に昔から好奇心旺盛だったんですよね・・・。高価な本ですので、図書館でどうぞお読みください。
(2019年7月刊。6000円+税)

2019年12月29日

潮待ちの宿


(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  文芸春秋

うまいですね・・・。しみじみとした気分となって江戸情緒をたっぷり味わせてくれる本です。「歴史小説の名手が初めて挑む人情話」だとオビにありますが、まさしく、そのとおりの出来ばえです。
岡山県笠岡市の港町が舞台となっています。ときは幕末から明治のはじめのころです。長岡の河井継之助まで登場してくるのには驚かされますし、長州藩の負け武士たちもあらわれるなど、幕末のころの史実も踏まえていて、一気に読ませる力があります。
主人公の志鶴(しづる)は、貧乏な親から口減らしのため、小さな旅館に奉公に出され、そこでおかみ(女将)の伊都(いと)らに支えられて成長していきます。その姿が各話完結でつながっていくのです。作者の想像力の豊かさには、ほとほと驚嘆するばかりです。
そして、泊まりに来る客、そして女将を慕う人々など、人物描写がよく出来ていて、私も一度は、こんな人情話を書いてみたいものだと、ついつい身のほど知らずに思ったことでした。
潮待ちの宿というタイトルもこの本の話の展開に見事にマッチしています。小さな港で起きる話を「待つ」という言葉で貫いているのに、心地良さを感じさせます。
この本の最後に、出版前に読書会を開いて、いろいろな意見をもらったことが紹介されて、参加者の名前がずらりとあげられているのは、どういうことなのでしょうか・・・。これらの人々の感想によってストーリー展開がいくらか変わったということなのか、もっと知りたいと思いました。
今年よんだ本のなかでもイチオシの本の一つです。
(2019年10月刊。1750円+税)

2019年12月21日

さし絵で楽しむ江戸のくらし


(霧山昴)
著者 深谷 大 、 出版  平凡社新書

私は江戸時代に大変興味があります。現代日本とまったく違った時代であるようで、実はものすごく連続性がある時代なのではないかと今では考えています。
その江戸時代の実際の様子を絵で実感できるって、すばらしいことです。
年始の挨拶まわりは、1月1日は休んで、1月2日からしていた。というのも、1月1日は、旧年中の疲労がたまっているから、門を閉ざして休んでいたからだ。うひゃあ、そうだったんですか・・・。現代日本で、コンビニやスーパーが1月1日から開いているのは異常なんです。みんな休みましょうよ。
そして、もっていくお年玉はお金ではなく品物、たとえば、手ぬぐいや扇(末広がりで縁起がいい)だった。
新春の挨拶用語としては「御慶(ぎょけい)」という言葉がフツーだった。ええっ、聞いたことない言葉です・・・。
江戸時代は、キセルに詰めるタバコが大流行していた。「舞留(まいとめ)」と「龍王」が当時のタバコの有名ブランド。そしてタバコを売る店では、歯磨き用品も売っていた。
嫁入り婚となったのは江戸時代から。そして、結婚式は夜の行事だった。新郎と新婦は並んで座ってはいなかった。
二月の初午(はつうま)の日は、6歳か7歳になった子どもが寺子屋に入門する日だった。そして、寺子屋に入学するときには、子どもたちは、それぞれマイデスクを持ち込んだ。
町人社会は、50歳ころまでに隠居するのが通例だった。
江戸時代、下駄は高級品だった。裸足で外出する人も多かった。だから履物を玄関先で脱いだまま放置しておくと、盗られる恐れがあった。下駄はぜいたく品だったが、足袋も高級だった。遊女は冬でも足袋をはかないのが常だった。
江戸時代は、家族が一つの卓を囲んで食事するという習慣はなかった。めいめいが自分の膳に向かって食べた。
たくさんの図をもとにした解説なので、よくイメージがつかめます。
(2019年8月刊。800円+税)

2019年12月12日

三河吉田藩・お国入り道中記


(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版  集英社インターナショナル新書

江戸時代の参勤交代の実情を知ることのできる興味深い新書です。
参勤交代には、人材派遣会社(人宿)から臨時雇いの人夫が加わっていたことも知りました。そして、参勤交代とは関係ありませんが、三河吉田藩は島原の乱(原城一揆)に際して松平伊豆守(「知恵伊豆」)とともに従軍していて、その子孫はずっとあとまで藩内で優遇されていたということまで知りました。つい先日、原城跡を現地見学した身として、これまた興味深い話でした。
参勤交代は時期が定められていた。外様大名は4月、譜代大名は6月か8月。
近隣の大名同士の癒着を防ぐためもあって、ある大名が江戸へ出仕(参勤)したら、その近隣の大名が交代で国元へ戻った。経路も幕府によって決められており、許可なく他のコースを通行してはいけなかったし、寄り道もできなかった。
東海道は、150家の大名の経路に指定されていたため、参勤交代シーズンには、多くの大名行列でにぎわった。そのため、宿舎の確保に責任者は苦労していた。
参勤交代は、幕府が大名財力を削るための制度だと言われているが、それは結果としてそうなっただけのこと。大名同士が行列人数の多さや道具の華やかさを競いあっていたが、街道の混雑や藩財政の圧迫を招いたことから、幕府は人数を規制するお触れを出すなど、むしろ歯止めをかけていた。
本書は、1841年(天保12年)に江戸から吉田(愛知県豊橋市)までお国入りしたときの参勤交代について、当時35歳の吉田藩士・大嶋左源太豊陣(とよつら)の書いた文書の紹介をもとにしています。
「知恵伊豆」と呼ばれた吉田藩の始祖・松平信綱(初代)は、「才あれとも徳なし」と評されていた。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・。ちっとも知りませんでした。だから原城総攻撃のとき、3万人みな殺しを指揮したのですね・・・。
松平信綱は、この島原の乱に1500人の軍勢を(正規の家臣は100人)を率いていて、3人の武士と陪審(又者)3人の計6人が討死し、103人が負傷した。
「島原」とは、信綱を初代とする松平伊豆守における唯一の武功を指し示す言葉であり、後代の当主や家臣団にとってきわめて重要な意味をもった。大嶋左源太豊陣の祖先である豊長も島原へ出陣した。元禄4年(1691年)当時、島原扈従100人のうち、家が断絶しているのか半数の50人。生存者わずか10人だった。
参勤交代の実務を担うのは、宿割・宿払・船割の三役。
宿割(やどわり)は、宿舎を確保する。
宿払(やどばらい)は、宿泊代や食料費・燃料費などの支払いをする。
船割(ふなわり)は、行列が何川を渡る手筈を整える。
中間(ちゅうげん)は、総人数345人のうち2459人もいた。そのほかは士分53人、足軽33人。この中間は、非武士の武家奉公人で、その多くは人材派遣業者である人宿(ひとやど)の三河屋から派遣されていた。三河屋は、いくつもの大名家の参勤交代を請け負っていた。
大名行列の75%は中間であり、派遣労働者で成り立っていた。
人宿は、委託先である大名に対して、通日雇の給金として高額な代理を請求していた。行列の人数を確保しなければならない大名側は、言われるがまま払った。
人宿などは、通日雇の給金をピンハネして、莫大な利益を得ていた。
お供する家中(士分)には、道中計(どうちゅうばかり)という、吉田へ着いたら、すぐに江戸に戻る人間と、詰切(つめきり)という、吉田に着いたら次の江戸参府まで滞在する。この二つがあった。
交通費・宿泊費・食事代など、旅をするのに必要最低限の部分が公費負担だった。
映画に出てくる、「下に~、下に~」という掛け声とともに庶民は道ばたで土下座するというのは、徳川御三家などに限られていて、それ以外の大名行列は「脇寄れ」というくらいで、庶民は行列の進行を妨げないよう道の脇に寄るだけでよかった。
『道中心得』という15ヶ条のこの吉田藩は他藩から借りてきたマニュアルを活用していた。
いやあ勉強になりました。さすが学者です。
(2019年5月刊。840円+税)

2019年12月 9日

「生類憐みの令」の真実


(霧山昴)
著者 仁科 邦男 、 出版  草思社

生類憐みの令から個々の動物に対する愛情はほとんど感じられない。
著者は、このように断言します。ええっ、では一体なぜ、なんのためのものだったの・・・。その謎を解き明かしていく本です。最後まで面白く読み通しました。
徳川五代将軍綱吉は、将軍になる前の27年間、松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と呼ばれていた。娘のほか馬と鶴には特別な愛情をそそいでいたが、それ以外には犬をふくめて可愛がったという形跡はまったくない。
江戸城内に「御馬屋」はあっても「御犬小屋」はなかった。
綱吉は、少年時代から人や動物の死に対する嫌悪感が強かった。12歳のとき、明暦の大火を体験している。このときは綱吉邸も燃えている。死者は10万人をこえ、町には、人や牛馬、犬猫の死体が山積みされた。
鷹狩りの鷹は、犬の肉が餌として与えられていた。
江戸城内には狐が多く、大奥では、狐が嫌がる狆(ちん。犬の種類)を座敷に放して、狐の侵入を防いでいた。
生類憐みの令は、まず、江戸限定の犬の車事故防止・養育令として登場した。当時の江戸には、大八車(だいはちぐるま)が2000台もいた。そして、犬が大八車にひかれて死亡する事故が相次いだ。
町の犬たちは、あらゆる生ゴミを食べるので、町の清潔さを維持することに貢献していた。
大八車による犬や猫の事故については処罰されたが、逆に故意でない人身事故は罪に問われなかった。「人」の生命は軽く、「生類」の生命は重かった。
令が出たことで、江戸の町には人を恐れない犬が次々に生まれていった。
綱吉は、虫を飼うことも禁止した。ただし、江戸限定だった。
綱吉が本当にこだわり続けたのは馬だった。
生類憐みの令の「生類」のなかに「人」はふくまれていない。
綱吉が力をいれたのは「捨て子の保護」ではなく、「捨て子の根絶」だった。綱吉は捨て子を防ぐため、町民の妊娠まで報告させた。
綱吉のころの江戸には、5000人をはるかにこえる非人がいた。
綱吉は理屈を好んだ。少年時代から学問が好きだった。
犬小屋の話は有名ですが、収容された犬は、ストレスから来る病気などのために早死したようです。知らなかったことがたくさんありました。
(2019年9月刊。1800円+税)

2019年11月24日

原城と島原の乱


(霧山昴)
著者 服部 英雄、干田 嘉博、宮武 正登 、 出版  新人物往来社

2008年2月に開かれたシンポジウムをもとにして、島原の乱をふくめて原城の意義を多面的に探った本です。
1528年(天正10年)に天正遣欧使節団として、はるかヨーロッパへ旅だった4人の少年、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノは、いずれも原城近くの日野江にあった有馬セミナリヨの卒業生だった。原マルチノと中浦ジュリアンは有馬セミナリヨの一期生、千々石ミゲルが二期生。伊東マンショだけが、あとで有馬セミナリヨで学んでいる。ところが、8年後に帰国したとき、日本はキリスト教が禁止されていた。
それでも、4少年は豊臣秀吉の閲見を受けているし、活版印刷機を日本に運んできて、それでキリスト教関係の本を印刷などしている。
原城のなかには竪穴建物が密集していたが、この竪穴建物には戸別に炉やカマドといった暖房や煮炊きかかわる造構物が見つかっていない。これは籠城中に失火を起こさないように高い規律を守り、また人々は寒さに耐えていたということが分かる。旧暦の12月から2月までの3ヶ月なので、今の暦でいくと、2月から4月にかけてのことでしょうが、寒いことには変わりありません。
食料を集中管理して、調理し、食事を配給していたと推測されている。
原城は外周が4キロメートルに達する。大きすぎるほどの城だった。
原城に立て籠もっていた一揆軍は、イエズス会を通じてポルトガルの援軍を得る戦略を描いていた可能性が高い。さらに、全国の隠れキリシタンに蜂起を呼びかけ、内乱状態が全国一斉に湧き起こることを狙っていた。
かつてのキリシタン時代、島原半島には最盛時7万5000人ものキリシタンがいた。今、カトリック信者は100人ほどしかいない。
原城跡の現地に立ち、ガイド氏の説明を聞き、帰宅してからこうやって本を読むと、原城そして島原の乱がいっそう身近に思え、また人々の祈りが今に通じている気がしてきます。
(2008年11月刊。2200円+税)

2019年11月15日

海に生きた百姓たち


(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版  草思社

なるほど、そうだったのか・・・、ぞくぞくするほど知的好奇心がかきたてられ、心の満たされる思いのする本でした。
日本人って、昔から裁判が大好きだったんですね、このこともよく分かる本です。なにしろ海辺に生きる男たちが真っ向から相反する主張を書面にして代官所でぶつけあうのです。これを裁く当局は大変だったと思います。もちろん、その多くは話し合いで解決した(させられた)のでしょうが、納得いかないほうは、しばらくすると蒸し返すのでした。
そんな実情が古文書を読み解いて判明するのですから、こたえられません。
この本は、奥駿河湾岸で長らく眠っていた古文書を渋沢敬三が発掘し、世の中に公開した成果を踏まえていますので、話は具体的ですし、何より証拠があります。
海辺の村の百姓たちは漁業だけをしていたわけではない。農業・林業・商業など多様な生業を漁業と兼業している百姓が大多数だった。なので、漁業に特化したイメージのある漁村ではなく海村(かいそん)と呼びたい。著者は、このように提起しています。
江戸時代の人々は魚介類をとって食べる量は明治期を下まわり、現代よりはずっと少なかった。それは、動力船と冷蔵・冷凍技術の未発達による。エンジンなどの動力がなければ、漁船は漁師が手で漕ぐしかない。沿岸漁業だけでは、漁獲量に限界がある。また、魚は生鮮食品で、長く保存できない。
江戸時代の人々は、新鮮な刺身などは、めったに食べられなかった。
瀬戸内海や金谷村の事例をあげて、浜方百姓(漁師)と地方百姓(農民)とのあいだには、ときに深刻な利害の対立があったことが明らかにされています。
ただ、農業と漁業は共存が難しいというだけでなく、補いあう関係にもあった。
漁師たちは、船の網を操る技術とともに、浮力や長い時間、海中にいられる耐寒能力が求められた。それで相撲取りのような体形が適していた。そして争いごとが起きることも少なくないので、相手を威圧する相撲取りの体形の者が必要だった。
さらに、海中での体温低下を防ぐためには酒が必要で、漁師たちは日常的に酒を飲んで海に入った。また、酒の勢いが争いをエスカレートさせることもあった。漁村は、酒の一大消費地だった。
奥駿河湾の伊豆国内浦の400年間の古文書が日の目を見た。渋沢栄一の孫の渋沢敬三が病気療養に来ていて出会った古文書である。
漁師は、まったく割に合わない商売だ。漁師は、乞食に次いでなりたくないもの。
親は泣く子どもに、「漁師の子にくれてやる」と脅していた。
その一方で、ここの漁師はぜいたくだとも言われた。たびたび大漁となると、大いにうるおったからだ。
村々の漁師と魚商人とは、相互依存関係にあったが、価格決定や代金支払いをめぐっては対立する場面も生じた。商人側が同業者団体をつくったのに対抗して、村々の側も議定書を結んで力をあわせた。
網子(あんご)と津元(つもと)とが争い、代官所へそれぞれ書面で訴えた。津元は経営者で、網子がその下で働く労働者。当局に納税するにあたって、よその町人が入ってきて請負するやりかたもあったが、それを排除して村請とした。すると、村内での津元と網子の対立が生まれることになった。
1649年(慶安2年)、網子たちが津元の不法を幕府の代官に訴え出た。そして、100年後の1748年(寛延1年)に今度は津元4人が網子の不法を訴え出た。幕府の代官は1750年(寛延3年)7月に判決を下した。これは、いくらか網子側に有利な内容だったが、双方ともに不満だった。そして、津元側はすぐに判決の内容の変更を求めて代官に願書を提出した。
村同士の争いも起きていた。1765年(明和2年)3月、内浦六カ村が静浦の獅子浜村を訴え出た。幕府は同年12月に判決を下した。しかし、獅子浜村はこれを無視したようで、31年後に再び内浦などの5ヶ村が訴えた。
いずれも生活がかかっているだけに必死だったのです。この訴えの文書は、それぞれにもっともと思われる内容ですので、裁きを受けもつ当局の苦労は大変だったことと思います。
それにしてもよくぞ、このような古文書が残っていたものです。やはり、私のような記録魔そして保存魔が昔からいたのですね・・・。
解読して解説していただいたご労苦に頭が下がります。ありがとうございました。
(2019年7月刊。2200円+税)

2019年11月13日

原城発掘


(霧山昴)
著者 石井 進、服部 英雄 、 出版  新人物往来社

久しぶりに原城へ行ってきました。今回は初めてのガイド付きでした。有馬キリシタン資料館でビデオを見て展示物・年表で島原の乱の経緯をざっと勉強して、いざ原城へ出発します。今では原城内へは車の乗り入れが禁止されていて、近くの観光拠点に車を停めて、そこからマイクロバスで本丸近くまで向かいます。
ガイドは地元の女性でしたので、昔は(戦後まもなくは)原城の海岸(浜辺)には古い弾丸があちこち落ちていて、子どもたちが拾っていたという昔話も聞くことができました。ついでに、イルカウォッチングも出来ると聞いて、驚きました。イルカウォッチングは天草だけだと思い込んでいました。原城と天草はまるで対岸という関係なのですね。原城の発掘は、まだまだ進行中のようです。いくたびに少しずつ整備がすすんでいます。
島原半島の口之津(くちのつ)に修道士アルメイダが上陸したのは1563年(永禄6年)。口之津は九州管区内におけるキリスト教布教の中心となった。
口之津港は天然の良港で、1567年(永禄10年)から南蛮船の入港地となった。やがて貿易港は長崎に移るが、有馬領内にはキリスト教が深く根付き、1580年(天正8年)、セミナリヨも建てられた。
島原の乱が始まったのは1637年(寛永14年)10月25日。島原城をまず襲ったが、落とせず、一揆軍は原城にたて籠もった。3万人の一揆軍は12月から翌年2月までの3ヶ月間、12万人の幕府軍と戦い抜いた。
2回の大きな戦闘があった。1回目は1月1日の総大将・板倉重昌が戦死した戦闘。2回目は、総攻撃・落城した2月29日。焼け跡が検出されることから、総攻撃の日は、本丸一帯は一面、火の海となり、激しい戦闘となったと推測される。
原城にたて籠った人々はキリシタンが多かったが、みんなキリシタンではなかった。はじめに農民一揆だった。
夜、原城から海のそよ風に乗って流れてくる信者の歌が幕府軍の陣営まで聞こえた。
幕府軍のなかにも、元キリシタンの人々がたくさんいただろう。どんな思いで、その歌を聞いたのだろうか・・・。
籠城していた2万3000人(あるいは3万7000人)が1人(絵師の山田右衛門左)を除いて、全員が殺害されたというのは本当なのか・・・。
服部英雄教授は異論を唱えています。
生き残った人々を、一人一人、尋問(査問)して、どこの誰で、なぜ参加したのかを問いただしたということがあった。また、女子や子どもには手出しをするなという軍律が当時はあったはずだ。
薩摩で一揆の首謀者たちが2ヶ月後に捕まり、大阪に送られたという記録もある。さらに、小型の船があったのではないか・・・。
私は、今回、原城跡の現地で、3万人もの骨は見つかっていないという話を聞きました。まだまだ地中に眠っているのかもしれませんが、一揆の参加者3万人近くを全員殺してはいないのではないかという気がします。
なお、オランダ船が原城の一揆軍を砲撃したという事実がありますが、これには、オランダが当時、ポルトガルと戦争をしていたことが背景にあることも知りました。オランダがプロテスタントで、ポルトガルがローマ教(カトリック)の国であるということから、宗教戦争であり、国の独立をかけた戦争でもあったのです。
広い広い原城跡の現地に立ち、ここに3万人もの人々が3ヶ月間も生活し、周囲を埋める12万人の幕府軍と戦ったのかと、感無量でした。
(2000年3月刊。2200円+税)

2019年11月 3日

いも殿さま


(霧山昴)
著者 土橋 章宏 、 出版  角川書店

いま、わが家の敷地内に芋畑があって、やがて芋掘りパーティーが開かれます。保育園の園児が老健施設のじいちゃん、ばあちゃんと一緒に芋掘りをして楽しむのです。芋を植えるときも老・幼一緒でした。その前はジャガイモ植え付けと掘り起こしでにぎわいました。恐らくでっかい芋がゴロゴロ掘り起こされることでしょう。
そんな芋ですが、日本に古くからあったのではありません。
江戸時代に少しずつ普及していったのです。種芋は薩摩藩にありました。まさしくサツマイモ(薩摩芋)だったのです。よそ者を受け入れない薩摩藩に忍び込み、種芋をひそかに買い求めて、島根で育てた代官がいたのでした。
石見(いわみ)銀山で有名な石見の代官所に赴任した井戸平左衛門が飢饉対策として芋を植え付けるに成功した実話にもとづく感動的な小説です。
ところが、幕府の命令で勝手なことをしたとして井戸平左衛門は代官を罷免され、唐丸(とうまる)駕籠に乗せられ、江戸へ護送されます。地元の人々が見送りました。
江戸幕府では、平左衛門の処分をめぐって評定所で意見が分かれました。
大岡忠相(ただすけ)は、平左衛門の働きを高く評価していました。
しかし、自分の役目を完遂したことを悟った平左衛門は処分の結果を待たず自ら切腹してしまいました。
島根には平左衛門の功をしのんで、各地に芋塚が建てられ、井戸神社まで建立されたとのことです。
いつの世にも骨のある役人がいるものですね。ふと、前川喜平・元文科省事務次官を思い出しました。
(2019年3月刊。1600円+税)

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