弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年8月31日
暦のしずく
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 沢木 耕太郎 、 出版 朝日新聞出版
江戸時代の中期に活躍した講釈師・馬場文耕が講談のなかで、時の幕府中枢を批判したら、なんと斬首・獄門となったという史実が物語になっています。江戸時代に深く関心のある身として、これは読まずばなるまい、そう思って読みはじめたのです。朝日新聞に連載されていたそうで、堂々550頁を超す大作となっています。
講釈師とは、今の講談師のこと。今日の日本でも人間国宝に指定される講談師がいます。一龍斎貞水、神田松鯉など。残念ながら話を聴いたことはありませんが、女性講談師がいま何人も活躍していますよね。
講談のなかで、時の政府をチクリチクリと批判するのは当然のことです。時の政府を持ち上げるばかりの講談だと、歯が根元から浮いてしまって、最後まで聴こうとも思わないでしょう。でも、聴衆が聞きたいのは政治演説ではありませんので、適当な批判にとどめます。そこらあたりのサジ加減がとても難しいとは私も思います。
馬場文耕を死刑(獄門)にする判決文が残っている。
「かねてより古い軍記物などを講釈して生活していたが、貧しさのあまり衣服の手当てもままならず、聴衆に援助してもらうべく、極秘の物語を講釈すると喧伝(けんでん)し、現在、公儀で吟味中の事件を文章にし、実際にそれを講釈した」
当時の出版物(書物)には、版木を掘って印刷したものを束ねる刊本と、筆で書き写したものをまとめて本にする写本の二つがあった。刊本は、幕府の許可が必要のため、あまり過激な内容のものは出すことができなかったが、原稿を書き写すだけの写真は、簡単に世の中に出すことが出来たため、政治的に過激なものが出されていた。馬場文耕の作品は、すべて写本であった。
江戸時代の読者には、写本は、書かれているのは事実に違いないという思いがあった。
えっ、待って...。もしかして、これって、現代SNSのフェイクニュースを真実と思い込む人と似ていませんかね...。うむむ、難しいところですよね。とんでもないインチキ政党(参政党)の言っていること(外国人は犯罪が多い...)を真実だと思い込んだ日本人が何百万人いたという事実に、私は身の凍る思いがしています。
美濃(みの)郡上(ぐじょう)の金森家の苛政を馬場文耕は取りあげました。まさしく、公儀が内密に問題として取りあげたテーマです。ここの百姓一揆は、結局のところ、劇的な勝利を遂げるのです(首謀者は獄死したとしも...)。
ときは徳川九代将軍家重、そして田沼意次(おきつぐ)の時代です。
田沼家は、将軍吉宗のときに紀州から江戸入りしたのですね...。江戸時代も中期になると、公事宿(くじやど)が反映していました。江戸の人々は不正そして権力の横暴に対して黙っていなかったのです。それは自分の生命を賭けての抗議でもありました。
金森騒動については、五手掛の裁判となった。寺社奉行、北町奉行、勘定奉行そして大目付と目付の五人が裁判体を組んだ。この評定所で吟味中の金森騒動を講釈師が取り上げて、あれこれあげつらうなど、幕府にとって許せるものではなかった。その結果は、老中や若年寄、勘定奉行が改易やら重追放、「永預け」「逼塞」など、いかにも厳しい処断がなされた。江戸時代の処分としては空前絶後の厳しさだった。そして、百姓一揆の側も、牢内で次々に死んでいった。そして判決は獄門が4人、死罪10人だった。
文耕に対しては、「不届き至極(しごく)につき、見凝(みこ)らしのため、町中引き廻し、浅草において獄門を申し付ける」となった。
いやあ、すごく重たい内容の本でした。それにしても、同時にその心意気を大いに買いたい気持ちで一杯になりました。いい本です。
(2025年6月刊。2420円)