弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2025年5月10日

松の露


(霧山昴)
著者 諏訪 宗篤 、 出版 早川書房

 宝暦郡上一揆異聞。これが、この歴史時代小説のサブタイトルです。
 ときは、徳川九代将軍家重の治世下。宝暦となってからも冷夏、長雨、害虫に襲われ、農村は疲弊していた。その前の享保の飢饉のときは、250万人が飢饉に苦しみ、餓死者が1万2千人をこえた。
 中山道は美濃の関あたりで総州浪人の慶四郎が災いに巻き込まれた。浪人が郡上(ぐじょう)一揆にどうやって巻き込まれていったのか、そのきっかけの展開から読ませます。
郡上の領主である金森家は年貢(ねんぐ)をさらにしぼり上げようと考え、年貢の算定方法を変更することにした。すなわち、それまで一定額であったものを、毎年の稲の出来高を検見(けみ)したうえで変動させることにした。これに対して、村方(むらかた)の百姓たちが一斉に反発した。今でも重い年貢が暮らしを圧迫していて、今後さらなる増税となれば、田畑の枚数が少ない村方は、次の収穫まで家族が生きて暮らすことが困難となる。そこで郡上のすべての村は、検見法採用の申し渡しを拒絶した。村方衆による強硬な反対を受けて、検見法の採用はいったん差し戻しとなった。しかし、金森家があきらめたわけではない。
 検見法が実施されると、村方の人々は強訴(ごうそ)を決行した。刀や槍、鉄砲こそもたないが、武士の百倍以上の村方人員を動員して政庁を取り囲んだ。このときは、ついに、国家老の連判する免許状を出させた。
 この免許状をめぐって、金森家による反撃が始まった。免許状を取り戻そうとするのです。
村方の農夫たちは、実のところ、敗残の将兵を襲って鎧や刀を奪いとり、守護や豪族を叩き出して自治を敷いてきた者の末裔(まつえい)である。理不尽な暴政や増税にははっきり声を上げて抗(あらが)い、強訴したり、江戸まで出向くことも辞さない。対面や掟(おきて)に縛られる武士の弱点を突く、したたかさも持ちあわせていた。
 ここで公事師(くじし)が登場。江戸時代の裁判において、現代の弁護士と似た役割を果たしていた人々がいたのです。
 幕府も、当初こそ公事師を禁圧していましたが、呼出しその他で便利な存在だとして、やがて公事師を公認しています。
金森家は村方の百姓たちの一揆に対抗すべく破落戸(ごろつき)を雇った。
 郡上一揆では、百姓たちは代官所へ向かって集団で要求をつきつける行動をするだけでなく、代表が江戸に出向き、老中の登場駕籠(かご)に駆け込み訴えもした。これが意外に大きな効果があった。
この本は剣豪小説でもあります。登場する浪人は目茶苦茶に剣が立ちます。バッタバッタと悪漢の手先たちを切り倒していくのです。
 刀の優劣は技量の優劣の前では意味をなさない。技量が同等なら勝負を決めるものは、心の練度だ。
遺書で名指しして自ら先に腹を切るのを指腹と呼ぶ。いやあ、聞いたことがありませんでした。ときには書状とともに、切腹につかった刃を相手方に送って死を迫った。そ、そういうこともあったんですか...。でも、ほとんど無視されるでしょうね。
郡上大一揆は江戸時代のなかで、まれにみる大きな成果をあげたことで有名です。
 それは、まず五手掛となったことに示される。通常なら町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三者で協議するところ、目付と大目付まで加わることになった。
 そして将軍の意を体してことにあたったのは、将軍御側御用取次役の田沼意次。いわば新参者が、家康の有力家臣だった本多正信の家系の有力老中たちを押え込んだ。
そして、問題の金森頼錦は、改易され、陸奥の盛岡に永預とされて5年後に死亡。金森家の家臣団は全員が召し放ち。勘定奉行、大目付、郡代官なども改易され、御役召放、閉門・逼塞(ひっそく)となった。
 村人のほうも処罰された。4人が獄門、10人が死罪、遠島1人、重追放6人、所払33人など...。
 巻末に参考資料が紹介されていますが、「郡上一揆の会」なる団体もあるそうです。すごいです。歴史を読みものにした、ワクワクする本です。
(2025年2月刊。2300円+税)

2025年5月 3日

本の江戸文化講義


(霧山昴)
著者 鈴木 俊幸 、 出版 角川書店

 大学でゼミの先生から講義を受けている気にさせる本です。
 江戸時代が進むなかで、江戸だけではなく、全国的に無学文盲の人がいなくなり、みんなが本を読むようになりました。そして、本は買う本と借りて読む本の2つがありました。借りて読むほうの本はたくさんの人が読むため、本の表紙は厚い紙で出来ている。
 なるほど、なるほど、そうなんですね。
そして、本を読むのは黙読ではなく、声を出して読みます。素読と同じです。ほら、「し、のたまわく...」というやつですよ。
 戦国時代と江戸時代の大きな違いは、強力で安定的な政権が生まれ、長期にわたって戦争のない時代が誕生したこと、260年あまり一つの政権によって一国が保たれていたのは、世界史上ほかにないこと。
 ええっ、そ、そう言い切っていいんでしたっけ...??
 この長期にわたる安定の最大の要素は、民衆の幕府への信頼。平和の時代をもたらし、維持していることを民衆は素直にありがたく思っていた。
 民衆が平楽を享受していたことは私も間違いないと思いますが、さすがにここまで言い切っていいのか、やや、ためらってしまいます。
 江戸時代の人々は、日本が「鎖国」していたとは思っていなかった。「鎖国」というのは近代になって貼られたレッテルにすぎず、実態のない幻想だ。
 なるほど、朝鮮通信使は何十年かに一度、大行列を仕立てて国内を巡行しましたし、オランダのカピタンたちも江戸まで出かけていますよね...。
 生活の隅々にまで及ぶ厳しい農民統制を示す「慶安の触書」なるものは、今では教科書から一掃されている。これは幕府によって全国的に出されたものではないことが分かったから。
 江戸時代、身分は固定されたものではなかった。有力町人は、お金の力で名字帯刀(みょうじたいとう)を許された。検地にしても農民が自由に売買するため、農民のほうから実施するよう願い出ることもあった。
 江戸時代の百姓は、かなり自由に、したたかに生きていた。
西洋諸国とは違って、民衆が文字を手に入れ、文章を理解することを江戸時代の為政者は怖れなかった。むしろ、触書を理解し、道徳を身につけるのに有用だと判断して、民衆が文字知を獲得することを阻害しなかった。
 寺子屋が全国各地にあった。都市部では「女寺屋」といって女子だけを受け入れるところもあった。千葉県東金(とうがね)の寺習塾の記録によると、文政4年(1821年)に男子59人、女子27人、天保2年(1831年)に男子33人、女子24人。天保9年(1838年)に男子40人、女子33人だった。授業料(束脩。そくしゅう)は半年500文。
江戸時代、本に定価はなかった。売値は、客と交渉して決まった。
日本近世は、パロディの時代。男色を「アブノーマル」として排除しようとするのは明治になってからのこと。江戸時代には、マイノリティでもなんでもなかった。武将に稚児はつきものだったんですよね。
井原西鶴を現代の小説家のように考えてはいけない。江戸時代にそんな職業はない。十返舎一九は初めて原稿料だけで生活できた。たいてい「副業」をもって、それによって生活していた。
「南総里見八犬伝」は発売1年間にせいぜい500部ほどの発行部数でしかなかった。
蔦屋重三郎は、時代の動きを敏感にとらえて、それに対応する天才的な能力のあった希有(けう)な本屋。惜しいことに脚気(かっけ)のため、寛政(1797年)に48歳で亡くなった。ビタミンB1の不足。白米の食べすぎかな...。
江戸時代の本屋と書物そして文化人の動向を詳しく知ることが出来ました。
(2025年1月刊。2200円)

2025年4月 6日

雪夢往来


(霧山昴)
著者 木内 昇 、 出版 新潮社

 江戸時代、雪深い越後の国に住む鈴木牧之(ぼくし)は郷土のことを江戸の人々に知ってもらおうと、郷土の風景、民話そして雪深い冬の景色を書きつづった。書き上げたからには書物として売り出さなくてはいけない。そこで、江戸の書き物問屋にあたり、作家に頼った。
 本書で出てくるのは、山東京伝、十返舎一九そして滝沢馬琴と、今も高名な作家たち。そんな作家たちは、果たして越後の無名の民(たみ)が書いたものに注目し、それを書物として世に出してくれるだろうか...。
 鈴木牧之の書いた『北越雪譜』は今なお語り継がれる高名な書物です。ところが、刊行されるまで、なんとなんと40年もかかってしまったのでした。これでは刊行するまで著者が生きていたというのが不思議なほどです。私も先日、30年ぶりに亡父の歩みを本にまとめ直しました。30年前は自費出版でしたが、今回は出版社から刊行することが出来ました。やはり、うれしいものです。
 書本(かきほん)にして江戸で配ればそれで十分だったのに、山東京伝に送ったことから、話が大きくなり、板本(はんぽん)という、思ってもみなかった夢が手の届くところに立ち現れた。迷走は、おそらくそこから始まった。
夢というのは、一度見てしまうと、そこから逃れられぬものかもしれぬ。必ず板本にしなければならない。妄念に取りつかれて、ここまで来てしまった。いつしか、書く楽しさや良いものを書きたいという純粋な衝動から大きく逸(そ)れて、ただただ己(おのれ)の筆力を証したい。みなに認めさせたい、名を上げたい、という欲心で、ここまで走ってきた。いやあ、よく分かりますね、この気落ち。田舎(地方都市)に住んでいながらモノカキと称して東京の出版社から本として刊行するというのは、みなに認めてもらいたい、あわよくばモノカキとして名声を得たいという欲心からのことです。間違いありません。
 「雪中の洪水の話、熊捕(くまとり)の話、雪の中で、飛ぶ虫の話、雪崩(なだれ)に巻き込まれた人の話...。気がつけば、ずい分と多くの綺談(きだん)を書いたものにございます。この地のことを書いておるとき、私は心くつろいでおりました」
 天保8年の秋、『北越雪譜』初編3巻が板行された。初めこそ、さして話題にもならなかったが、雪深い国の慣習や綺談は江戸の者に驚きをもって迎え入れられ、ふた月も経(た)つと、摺(す)るのが間に合わぬほどの評判となった。『北越雪譜』二編は初編同様、大きな評判をとり、鈴木牧之の名は江戸のみならず、広く知れ渡ることになった。越後塩沢の名士として村の者にも崇(あが)められ、わざわざ遠方から彼を訪ねてくる者まであった。
皐月(さつき)の、心地よい風が抜ける日の暮れ時に、鈴木牧之は静かに人生を終(しま)った。
一番最初に山東京伝の伝手(つて)で、二代目の蔦重(つたじゅう)のところで刊行しようとすると、50両がかかると言われたので、さすがの鈴木牧之も二の足を踏んだのでした。
 そうなんです。モノカキを自称するくらいで無名そのものが出版社から本を刊行しようとすると、現実には頭金を求められるのです。私も当然、毎回、負担しています。印税収入なんて、残念ながら夢のまた夢なのです。それでも、1回だけ福岡の本屋の店頭で私の本(「税務署なんか怖くない」)が並べられているのを見たときは小さな胸が震えるほど感激しました。
(2024年12月刊。2200円)

2025年3月25日

江戸の犯罪録


(霧山昴)
著者 松尾 晋一 、 出版 講談社現代新書

 長崎奉行「犯科帳」を読む、というのがサブタイトルなので、出島があり、オランダとの貿易の窓口になっていた長崎ならではの密貿易犯罪が多く紹介されています。
ところで、「犯科帳」とは、そもそも何なのか...。
 この新書が扱っているのは長崎奉行所での審理にもとづく刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記録されている。期間は1666(寛文6)年から1867(慶応3)年までのもので、145冊ある。
長崎奉行は単独で判断を下すことはできず、必ず上級機関の指示を仰ぐことになっていた。刑事案件については、老中から幕府評定所に下付され、評定所において評議が行われ、その結論が老中にあげられるという手続きだった。
 そして、江戸に伺いを出すときには、長崎奉行は事件の経緯をまとめた報告書に加え、その判決案も添えていた。ほとんどの場合、判決案はそのまま採用されたが、なかには覆されることも時々あった。
 有名なジョン万次郎も日本に帰国したときは、長崎に送られ、揚屋(あがりや。上級身分の者が拘束された)に入れられて取り調べを受けている。
 長崎奉行は原則2人。1人が江戸にとどまり、1人が長崎に常駐する体制がとられている。奉行に伴われて江戸から長崎に派遣される武士は多くはなく、200人ほどで、年々、減っていった。
 通事は通訳するだけでなく、唐人関係の捜査権も付与されていた。
長崎は、幕府にとって「頭痛のタネ」だった。長崎で死亡した長崎奉行も数人いる。
 長崎では公事方御定書が軽んじられる土地柄だった。
長崎には、「ケンカ坂」と呼ばれる坂がある。1700(元禄13)年12月19日に発生した大ゲンカでは、28人が裁かれ、うち18人が死罪となった。これは、鍋島藩の家臣と長崎の町年寄をつとめる名家の下人との大乱闘事件。
 オランダ船を舞台とする抜け荷(密貿易)は多かった。
 1732(享保17)年秋から翌18年の春にかけてウンカ類が大量発生し、西日本は大飢饉となった。そこで、長崎奉行は諸国の米を長崎に送られ、なんとか一人の餓死者も出すことはなかった。しかし、住民の不満から米屋の打ちこわしが起きた。
 1667(寛文7)年には朝鮮への武器輸出が問題になった。
 1675(延宝3)年には、唐船を購入してカンボジアとの交易を図ったことが露見した。信じられないような密輸事件が起きていたのですね...。
 本来、抜荷は発覚したら死罪だったが、将軍吉宗は罰則を寛刑化した。罪人に自訴(自首)を促し、それで抜荷を抑制しようとするものに変わった。死を覚悟しても抜荷するのは、なんといっても利益が膨大だったから。元手の8倍もの利益が上がることがあった。
 1686(貞享3)年、オランダ人8人が関わる密貿易事件が起きた。このとき日本人が28人も関与していたし、日本人には死罪が命じられた。
 朝鮮へ渡海して、人参を買い求めて日本で高く売ろうとする人々もいた。仕入れ値の6倍で日本で売れた。偽(にせ)人参として、桔梗(ききょう)の根を売りさばいた悪人もいた。
「犯科帳」には、長崎で起きた事件であっても、必ずしもそのすべてを記録したものとは言えない。
 「犯科帳」は、現在の犯罪書のような、当時の長崎における犯罪とその処罰が整理され、系統書に記された記録だとは単純に言いきれない。
長崎の遊廊は、丸山町の遊女屋30軒、遊女335人、寄合町には遊女屋44軒、遊女431人いた。遊女は基本的に自由に遊郭を出入りできていた。
 長崎をめぐる犯罪、そして処罰の実例がよく分かって勉強になりました。
(2024年10月刊。1200円+税)

2025年3月 8日

朝鮮通信使にかける魂の軌跡


(霧山昴)
著者 嶋村 初吉 、 出版 東方出版

 通信使とは、朝鮮王朝が派遣した外交使節。通信とは、信(よしみ)を通(かわす)という意味。
 徳川家康が豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交修復に乗り出し、通信使の派遣を要請した。これに応え、朝鮮王朝は1607年から1811年まで12回、300人から500人もの使節団を派遣した。
 江戸城で国書を交換する。使節団は漢城(現ソウル)から江戸までの2000キロを踏破した。通信使が来日するたびに、日本では朝鮮ブームがまき起こり、大きな文化交流がなされた。
 与謝(よさ)蕪村(ぶそん)の句。
高麗船(こまぶね)の よらで過ぎ行く 霞(かすみ)かな
瀬戸内海を往く6隻の朝鮮通信使船をうたった句。
朝鮮通信使は100人ほどで、それに航海士などが加わるので、総勢は300人から500人になる。船は6艘。正使船、副使船、従事官船という3艘に、貨物船が加わる。対馬藩の船が先導する。朝鮮通信使絵巻や船団図などに描かれている。
馬上才は、日本にはない、朝鮮ならではの馬上の曲芸。徳川将軍家光が来日を熱望し、江戸城馬場で馬上才が披露された。馬上横臥、馬上立倒といったいろいろな曲芸が演じられている様子が『馬上才図巻』に残っている。
朝鮮通信使を饗応(きょうおう)した料理が再現されていた。ツバメの巣、カラスミ、焼きウズラなどの山海の珍味10種類の料理が、7つの饗応膳に盛り付けられた。
江戸時代の対馬藩の朝鮮貿易は仲介貿易だった。博多商人を通して国内産を、琉球を通して南方産を入手し、それを釜山にある草梁倭館で売買した。
宗義智に嫁いできたマリアは小西行長の娘。関ヶ原の戦いでの敗戦後、マリアは義智から離縁されて長崎へ下っていった。
国書は朝鮮国王から日本の将軍へ送る書面。書契は朝鮮国王から対馬島主にだけ出している書面。
朝鮮通信使に関する記録は、2007年10月、ユネスコ世界記憶遺産に登録された。この登録は日本政府を通してではなく、日韓の民間団体が共同しての申請だった。
今では、文科省のHPにも紹介されている。
この朝鮮通信使は、日本が朝鮮を植民地支配するなかで意図的に消した大きな友好の歴史だった。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』というのがあるそうです。ぜひ観てみたいものです。テレビで放映されたのでしょうか...。
朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会が1995年に第1回が対馬市で開催されて以来、2023年まで既に30回も開かれている。いやあ知りませんでした。たいしたものです。
釜山市では、その三大祭りの一つに朝鮮通信使祭りがなっているそうです。
厳原(対馬)と博多を結ぶ海運学を生業とする松原一征氏の通信使復興を目ざす歩みが紹介されている本でもあります。
(2024年10月刊。2500円+税)

2025年2月23日

蔦屋重三郎、江戸を編集した男


(霧山昴)
著者 田中 優子 、 出版 文春新書

 法政大学の元総長である著者は江戸文化の研究者で、NHKの大河ドラマ「べらぼう」の主人公として蔦屋(つたや)重三郎が目下、売り出し中なので、急きょ書き下ろしたのです。
蔦屋重三郎は「地本(じほん)問屋」の一人。文字と絵が合体した本をつくるのが仕事。江戸には146軒の地本問屋が存在した(1853(嘉永6)年)。1850年ころの江戸の寺子屋への就学率は70~80%。
 江戸時代の浮世絵は肉筆画ではなく、その中心は印刷物。そして、1765(明治2)年ころ、「見当(けんとう)をつける」という技法が完成し、浮世絵は突然、あざやかな色彩を帯びた。画期的なカラー浮世絵を始めたのは鈴木春信。
 浮世絵は多色刷りの時代となり、下絵師、彫師、摺師という分業でつくられた。
 中国版画のきわめて高い技術が導入された。多色にするには、色ごとに重ねて刷る。
 平賀源内は高松藩の武士だった。源内はゲイだったから吉原には出入りしなかったが、吉原細見の序文を書いた。
1777(安永6)年、蔦屋重三郎は洒落本(しゃれほん)を刊行した。道陀楼(どうだろう)麻阿と名乗る著者の正体は、秋田藩江戸留守居役・平沢常富だった。そして、この洒落本から黄表紙が生まれた。洒落本を絵本にしたもの。
 1785年、蔦屋重三郎は、山東京伝の洒落本を刊行した。
 1791年、蔦屋重三郎は身上半減(財産の半分を没収)、山東京伝は手鎖(てじょう)50日の刑を受けた。これは、老中・松平定信の寛政改革に逆らったから。手鎖は庶民のみに科せられる刑だった。
天明時代、狂歌師たちが集まり、活躍した。この集まり(連)には、武士も町人も職人も、そして版元も役者も参加していた。そのほとんどが20代から30代。
 蔦屋重三郎は、天明狂歌という文学運動を粘り強く編集・出版して歴史に残した。
 東洲斎写楽が活躍したのは1794(安政6)年から1795年にかけての10ヶ月間のみ。おおざっぱで乱暴なアマチュアの絵。しかし、緊迫感がある。
 役者の舞台における劇的な瞬間がとらえられている。写楽は誰にも師事しておらず、挿絵や表紙のプロセスもなく、いきなり出現した。
 写楽は浮世絵の素人。なので、繊細で精密な線は描けない。毛髪も着物も大雑把。写楽の芝居絵は、人間が登場人物のキャラクターを化粧や鬘(かつら)や衣装や表情や身体全体で表現して成り立っている。そうなんですか...、ちっとも知りませんでした。
 遊里、吉原を含む江戸の文化の奥深さを感じさせる新書でした。
(2024年12月刊。1100円)

2025年1月25日

蔦屋重三郎


(霧山昴)
著者 松木 寛 、 出版 講談社学術文庫

 江戸で出版業が社会的にも重みを増し、企業として確立するようになったのは17世紀半ばの明暦のころ。江戸の書商たちは、書物問屋仲間と、地本(じほん)問屋仲間という仲間組織を結成した。
 書物問屋というのは、堅い内容の数の書籍を商い、仏教関係書、歴史書、医学書などを扱った。地本問屋は、草双子や絵双紙などの地本(読み物ですね)を扱った。
 蔦屋(つたや)重三郎は、18世紀後半の天明・寛政期に活躍した有力な地本問屋だった。江戸芸術界のそうそうたる立保者たちを援助し、彼らに発表の場を与えたプロデューサーといえる。太田南畝、山東京伝、恋川春町、喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九、滝沢馬琴と並べ立てたら、びっくりしてしまいます。
 天明期には狂歌が大流行した。それは京都のインテリ貴族階級に始まったが、やがて庶民のあいだにも広まり、大坂そして江戸に波及して大流行した。狂歌の集まりが盛んだったようです。
そして、天明から安永、文化になると黄表紙が全盛期を迎える。山東京伝などです。1万部も売れていたそうですから、その繁盛ぶりに驚かされます。そして、政治を諷刺する黄表紙が続々発刊されるのです。
 ところが、天明の田沼時代から、松平定信に変わると、寛政の改革が始まり、暗転します。ついに、山東京伝は手鎖50日、蔦屋重三郎も財産半分没収という処分を受けました。このあと、浮世絵に重点が移ります。蔦屋の後半生は歌麿抜きでは語れない。
 そして、蔦屋は東洲斎写楽を一気に売り出した。寛政6年5月のこと。大首絵30種を同時に出版。しかも、大判雲母摺(きらずり)。この大首絵には圧倒的な迫力がある。
 ところが、著者は第3期になると、まったく投げやりの、魂の抜けた形ばかりになる。第4期は洞落してしまった作品ばかり。そして、ついに写楽は消えてしまったのでした。
 第3期が駄作だというのは、ある原型があって、それをコピーしたようなものだからだというのです。そして、著者は写楽が歌舞伎の実際を見ないで描いたのではないかとしています。
 さらに、自分の替え玉をつかったともしているのです。いやあ、まいりました。写楽の絵をじっくり見たことのない者として、第3期、第4期の作品なるものが駄作だといわれても...。まるで分かりません。
 写楽の正体は八丁堀に住む、蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛だというのが今のところの最有力説です。蔦屋重三郎は48歳のとき、脚気で若くして亡くなりました。
 NHKの大河ドラマの主人公になっていますよね...。評判はどうなんでしょうか。
 
(2024年10月刊。1210円)

2025年1月19日

落語の地図帳


(霧山昴)
著者 飯田 泰子 、 出版 芙蓉書房出版

 江戸切絵図で旅する噺(はなし)の世界。江戸市中が舞台となっている古典落語を地域ごとに紹介している、実に楽しい本です。
 切絵図とは、江戸時代後期大流行した住宅地図のようなもの、町々の様子を知るには格好の材料になっている。
 切絵図は、頻繁に改訂し、絶えず最新情報を提供した。携帯に便利な切絵図は江戸に不案内な者にとっては江戸土産品(みやげ)だった。江戸切絵図は、尾張屋が32種、近江屋が43種を刊行している。
 江戸の町割は平安京を手本とした。1区画は京間(きょうま)で、60間(けん)四方。
 所払(ところばらい)は、居住する町から出て行けというもの。今の感覚では刑事罰とは思えない。
 今の有楽町や新橋駅あたりは、江戸幕府の始まりのころは、まだ東京湾の中にある。
 夏、両国橋で大花火が揚がった。橋の上流が玉屋、下流は鍵屋が陣どって技を競いあった。富裕層は涼み船、そうでない者は橋涼みをした。
馬喰町にある公事宿(くじやど)には、一般客は泊まれない「百姓宿」と、旅の客も利用できた「旅人宿」があった。
「本郷も兼康(かねやす)までは江戸の内」。「兼康」は、今の本郷3丁目にあったようです。
 日本橋通1丁目には白木屋があった。越後屋、大丸屋と並ぶ、呉服の大店。
 切絵図には桜並木もしっかり描かれている。花の時季には、よしず張りの茶店が出て見物客でにぎわった。庶民の人気の筆頭は隅田川堤。
 絵がたくさん紹介されていますので、視覚的に楽しめる本になっています。
(2024年7月刊。2300円+税)

2025年1月18日

写楽


(霧山昴)
著者 渡辺 晃 、 出版 角川文庫

 ときは、寛政の改革で有名な松平定信が活躍したときより少しあとのこと。
 寛政6年5月に現われ、わずか10ヶ月したら姿を消した絵師、写楽。
 長らく写楽の正体は不明とされてきましたが、現在は四国は阿波国徳島藩の能役者・斎藤十郎兵衛だというのが有力説。
売り出し当時は、今ほど爆発的な人気はなかったようです。ところが、海外へ浮世絵が流出していくと、海外で写楽を高く評価する本が出て(明治43(1910)年)、その評価が日本に逆輸入され、写楽への評価が一変した。
 ふむふむ、よくある日本人の行動パターンですね、これって...。
 東洲斎写楽を押し出した版元(出版社)は、蔦屋(つたや)重三郎。背景に雲母をぜいたくに使った黒雲母(くろきら)摺(ずり)の役者大首絵で、大当たりをとった。
 寛政の改革のあと、江戸三座である中村座、市村座、森田座は、いずれも資金難に陥って休座した。その代わりを都座、桐座、河原崎座が興行した。
 写楽の大首絵には、ふてぶてしいまでの迫力を感じさせるもの。必死さ、緊張や恐怖の感情が看てとれる。顔を大きく描き、なおかつ身体の一部に動きをつけ、さらに縦長の構図に収めるのが写楽の大首絵。
 写楽は、二重まぶたや、まぶたの上のラインの描写を役者たちに施している。
 亡くなった役者を追悼して出される追善絵。これに対して、役者の死後すぐに出される絵を死絵という。
 蔦重は寛政の改革に際して、過料により身代半減という処罰を受けた。しかし、蔦重はめげることなく、逆に錦絵の分野でさまざまな趣向の作品を刊行していった。
 今も知られる一枚絵の名作は、むしろ写楽の処罰後のものが多い。蔦屋重三郎が亡くなったあとは、番頭の勇助が店を継承し、四代、幕末まで続いている。すごいですね。
 写楽の絵は、いつ見ても圧倒されて、思わず声が上がってしまいます。カラー図が楽しい写楽に関する文庫です。
(2024年9月刊。1340円+税)

2025年1月 8日

島津氏と薩摩藩の歴史


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 吉川弘文館

 薩摩藩と島津氏の強さがどこから来るのか、私は前から大変興味があります。
 島津という地名は都城市にあり、そこに島津荘があった。
島津氏も、いろいろ内紛が起きています。総州家と奥州家との争いというのもありました。
 室町時代の遣明船は細川氏が中心で、堺の商人が主導権を握っていた。薩摩の坊津(ぼうのつ)で硫黄を積み込み、島津氏の警護で中国へ渡航していた。坊津は日本の津の一つとされるほど、対明(外)貿易で栄えた。島津氏はまた、琉球貿易を独占していた。
 ザビエルは薩摩出身のアンジローに接し、当時の日本人が名誉を重んじ、盗みに厳しい罰を与え、知識欲が旺盛で、食事は少量で肉食せず、米で作る焼酎を飲み、海岸の砂を掘って温泉に入ると書いた。
 またザビエルは鹿児島で布教を許された。次のように報告した。
 「今まで発見された国民のなかでは最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のなかには見出せない。日本人は親しみやすく、一般に善良で、害意がない。知識欲が旺盛で、善良で、社交性が高い。」
足利学校の七代の当主は、大隅の伊集院氏の一族。
城下士は半農半士の外城(とじょう)衆中を「肥(こえ)たんで士(さむさい)」と呼んで軽視していた。安永9年、外城衆中を郷士と呼び改めた。
 江戸幕府の初期のころ、島津氏は、日本最大の貿易大名だった。
 薩摩藩は藩士の子弟の教育にも熱心に取り組んだ。子どもは年齢により、二才(にせ)と稚児に分けられた。二才は14.5歳から24.5歳までの青年。稚児は小稚児(6~10歳)、と長(おせ)稚児がいた。小稚児の教育は長稚児が、長稚児の教育は二才が行った。二才たちは互いに鍛錬しあった。
 薩摩藩の産金量は佐渡に次ぐ2位。全国の3分の1の産金国だった。薩摩国で金がとれていたなんて...、知りませんでした。
 島津重豪は、その娘(茂姫)が将軍家斉の御台所になったので、将軍の岳父として権勢を振った。いやあ、これは知りませんでしたね...。
 万延元年(1860年)の8月に生麦事件が起きた。そして、イギリス海軍が鹿児島市中に放火し、3分の1を焼失させた。イギリス海軍はアームストロング砲で砲撃した。薩摩藩は果敢に反撃し、イギリス艦隊も大破一隻、死傷者63人。これに対して、薩摩側は城下の市街地の10分の1が焼失した。しかし、当時、世界最強を誇っていたイギリス軍が退却した結果に世界は驚いた。
 「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということ。日本は勇敢であり、ヨーロッパ式の武器や戦術にも長(た)けていて、降伏させるのは難しい」
 長州藩のほうは四国連合艦隊にたちまち砲台を占拠されるなど、屈服させられましたが、鹿児島湾での戦いは「日本が勝った」のでした。
 ざっとざっと薩摩藩の歴史をおさらいした気分です。
(2024年9月刊。2200円+税)

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