弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2025年4月12日

ニセコ化するニッポン


(霧山昴)
著者 谷頭 和希 、 出版 KADOKAWA

 私はスキーしませんので、ニセコのパウダースノーの良さが実感できません。ところが、ニセコの近くのペンションに泊まったことがありました。かなり前のことです。
今や人口2万人のニセコ町あたりに外国人観光客が160万人も来ていて、1泊が最低でも10万円とか15万円で、なんと1泊170万円というホテルもあるそうです。ニセコの公用語は英語で、富裕層の外国人観光客によってニセコは占められている。うひゃあ、そうなんですか...。そして、ニセコのコンビニ(北海道ローカルのセイコーマート)には、1万3千円の高級シャンパンが並んでいる。いやはや、こんな町にはとても近づけませんよね...。ニセコは、富裕層以外には敷居の高い観光地になってしまった。しかし、それでいいのだ。誰でも行けるニセコではない。それを求めたら、富裕層は逃げていく。
 今の世の中は「選択と集中」が求められているというのが著者の主張です。なるほどなるほど、そうなんでしょうね...。
 ニセコが成功した秘訣は、「選択と集中」によるテーマパーク化にある。「ニセコ化」に成功するとそこはにぎわう。そして、その陰で「静かな排除」が起きている。
東京の豊洲市場にある「千客万来」では「インバウン丼」(海鮮丼)は、なんと1万5千円もする。うに丼だと1万8千円。大阪の日本橋にある商店街「黒門市場」にも、神戸牛の串焼きは1本4千円、カニの足は4本で3万円という。目の玉が飛び出るほどの高さに呆れます。 
東京・渋谷は、インバウンド観光客の7割近くが訪問するところ。大々的な再開発が進行中で、高級ホテルがなかったのに、つくられつつある。かつて渋谷は学生を含む若者の町だったのですが...。渋谷は、もう若者の街ではない。ターゲットが変わったのだ。
東京の新大久保は、「韓国テーマパーク」化している。「韓流の街」なのだ。
 スタバとは、テーマパークである。私もスタバは利用しますが、他のコーヒーチェーン店よりカフェラテが出てくるのが遅くて、いつも少しだけイラっとしています。
 マック、すき家に次いでスタバの店は日本に多いそうです。かつて鳥取県にはスナバはあってもスタバはなかったのですが、今はあるようですね。
ブレンドコーヒーは、ドトール250円、タリーズ360円、スタバ380円。いやあ、こんなに違うのですね。私は、外に出て本を読むために入りますので、1時間すわれたら、250円であろうと380円であろうと気にしません。タバコをすわないのですから、1日にそれくらいの出費を気にする必要はありません。
 「びっくりドンキー」という日本人向けハンバーグに特化された飲食店チェーンが紹介されていますが、私は入ったことがありません。九州にもあるのでしょうか...。
 そして、丸亀製麺。ここは、「粉から手づくり」をモットーとし、それを客によく見えるようにしています。そして、トッピングをいろいろ選べますので、子どもは大いに喜びます。私も孫と一緒に入ったので、分かるのです。
 失敗したテーマパークとして、日光・鬼怒川にあった「ウェスタン村」、そして夕張市の観光施設が紹介されています。私の住む町にもちゃちなテーマパークがオープンし、わずか4年で倒産・閉園しました。その結果、30億円もの負債をかかえ、10年間、毎年3億円ずつ市は返済していきました。始める前にコンサルタント会社が一致して「赤字化必至」だと警告していたのに、それを市民に隠して市長たちは始めたのです。そして、たちまち赤字になって倒産しました。住民訴訟で市長の責任を追及しましたが、勇気のない裁判官たちは、市長の責任を弾劾しませんでした。今も思い出すたびに怒りがこみ上げてきます。
たまには、こんな本を読んで、世の中の動きを知らないといけないと思ったことでした。
(2025年1月刊。1650円)

2025年4月11日

追跡・公安捜査


(霧山昴)
著者 遠藤 浩二 、 出版 毎日新聞出版

 警視庁公安部のとんでもない大失態を二つ紹介した本です。一つは30年前の警察庁長官狙撃事件、もう一つは最近の大川原化工機事件。
 まずは、國松孝次(くにまつたかじ)警察庁長官が銃撃された事件です。高級マンションから出勤しようとしたところを銃撃され、瀕死の重態になったのでした。
 結局、犯人は逮捕されないまま、公訴時効が成立してしまいました。しかし、著者たちは、銃撃した犯人はオウム真理教とは関係のない、中村泰という人物(最近、病死)であることを突きとめ、さらには、犯行を手引・援助した人物まで追跡しています。
 ところが、警視庁公安部は最後まで「オウム犯人説」にしがみつき、時効成立後の記者会見でも、そのことを高言した。そのため、オウムに訴えられて敗訴したという醜態を見せた。奇怪千万としか言いようがありません。
この本で注目されるのは、公安部といつも張りあう関係にある刑事部が特命捜査班をつくって、中村泰を犯人として証拠を固めていたという事実です。
 警視庁公安部は定員1500人で、公安部なるものは東京にしかない。公安部長は多くの県警本部長よりも格上の存在。公安部は家のかたちから「ハム」という隠語がある。
犯行を自白し、その裏付もとれている中村泰は1930年に東京で生まれ、東大を中退している。現金輸送車襲撃事件を起こし、強盗殺人未遂罪で無期懲役となり、2024年5月に94歳で病死した。
 のべ48万人もの捜査員を投入し、警察の威信をかけたはずの捜査は成果をあげられず、失敗に終わった。ところが、2010年3月30日、公訴時効を迎えた日に、青木五郎公安部長は記者会見して、「やっぱりオウムの組織的テロ」と述べた。
 それなら誰かを逮捕できたはずでしょ。それが出来ないのに、こんなことを堂々と発表するなんて、信じられません。案の定、オウムから名誉棄損で訴えられて100万円の賠償を命じられました。とんだ笑い話です。これは米村敏朗という元警視総監の指示とみられています。とんでもない思い込みの警察トップです。
 二つ目の大川原化工機の事件もひどいものです。東京地検はいったん起訴しておきながら、初公判の4日前に起訴を取り消した。私の50年以上の弁護士生活で起訴の取消なるものは経験したことがありません。よほどのことです。
 これは、功をあせった警視庁公安部のとんでもない失態ですが、それをうのみにして起訴した塚部貴子検事のミスでもあります。
 そして、誤った起訴の責任を追及する国家賠償請求裁判において、警視庁公安部の警察官2人が、驚くべきことを証言したのです。
 「まあ、捏造(ねつぞう)ですね」
 「立件したのは捜査員の個人的な欲から」
 「捜査幹部がマイナス証拠をすべて取りあげなかった」
 ここまで法廷で堂々と証言したというのは、よほど、公安部では異論があり、不満が渦巻いていたのでしょう。
大企業だと必ず警察OBがいるのでやりにくい。会社が小さすぎると輸出もしていない、従業員100人ほどの中小企業をターゲットにする。これは公安警察幹部のコトバだそうです。とんでもない、罪つくりの思い込みです。自分の成績をあげ、立身出世に役立つのなら、中小企業の一つや二つなんて、つぶれても平気だというのです。
 それにしても、大川原化工機では、社長らが逮捕されても90人の社員がやめることなく、また取引も続いていて、会社が存続したというのも驚きです。よほど社内の約束が強かったのでしょう。もちろん、みんなが無実を確信していたのでしょう...。すごいことですよね。警察の取り調べのとき、ICレコーダーをひそかに持ち込んでいて、取調状況を社員が録音していたというのにも驚かされます。捜査状況の録音・録画の必要性を改めて実感しました。
(2025年3月刊。1870円+税)

2025年4月 9日

「新しい外交」を切り拓く


(霧山昴)
著者 猿田 佐世、巌谷 陽次郎 、 出版 かもがわ出版

 「手取りを増やす」と称して支持を急増させている政党は、自民党の大軍拡予算にはもろ手をあげて賛成しています。そして、消費税の税率引き下げも要求することはありません。つまり、戦争に備えて軍備を拡張せよ、そのためには生活の切り下げは我慢せよと言っているのです。
 「手取りを増やす」どころではありません。ところが、マスコミ操作がうまいので、若者の支持を集めています。いずれは化けの皮がはがれるでしょうが、怖いのは、こんな与党支持勢力もあって、どんどん戦争が間近に迫っていることです。
 「新しい外交」は外交・安保政策のシンクタンクである「新外交イニシアティブ(ND)」のかかげているものです。
平和と民主主義、そして人々の多様性、人権、人としての尊厳に何の関心も持たないトランプがアメリカ大統領として、我が物顔で振る舞っているなか、戦争には戦争、武力には武力ということではなく、いろんなパイプを通じての外交努力が今、本当に大切だと思います。
トランプ大統領のアメリカは、今、国際秩序を目茶苦茶に破壊しつつある。日本は、そのようなアメリカに対して、これまでのように、ひらすら追従するのではなく、積極的に対話を求め、助言し、説得していかなければならない。
 これが、この本の主張です。まことに、そのとおりです。アメリカの国益と日本の国益は違います。アメリカが日本を守ってくれるなどという幻想を日本人は一刻も早く捨て去るべきです。
「アメリカ・ファースト」にこり固まっているトランプが捨て身になって日本を助けてくれるなんて、そんなことを信じるほうがどうかしています。振り込み詐欺(特殊詐欺)にひっかかって泣いている人が、いやあの人はきっとお金を返してくれるはずだ、信じたいと言っているのと同じです。ありえないことは、ありえないのです。
日本は今や「平和国家」という看板をおろして、「世界3位の軍事大国」になりつつあります。軍事予算が単年度で8兆円をこすなんて、信じられません。少し前まで5兆円をこすかどうかで大騒ぎしていたのがウソのようです。そして、この軍事予算の増大はオスプレイなど、アメリカの軍需産業がうみ出した老朽品、欠陥機をひたすら買い支えるために費消されるのです。嫌になります。
 また、武器輸出を「防衛装備移転」と言い換え、国民の目をごまかしています。
フィリピンにも、かつては広大なアメリカ軍の基地がいくつもありました。しかし、1992年に、すべ手のアメリカ軍基地を撤退させ、そこは民生用の工場とショッピングセンターになって繁栄しています。日本だって、同じことが出来るはずです。
この本でNDは、制度化されたマルチトラック(重層的な)外交を強力に提言しています。
 外交の制度化とは、国と国との関係を継続的に、定例化された関係にするということ。制度化すると、各国が省庁横断的に担当者を置いて、相互にメールなどでの日常的なやりとりをして、顔の見える関係になる。それによって情報公開も進み、危機対応も容易になっていく。そうして深い相互協力が実践されていき、戦争への機会費用が高くなって、国同士の衝突を避けるようになっていく。
 重層的(マルチトラック)な外交は、国の政府に限らず、知識人、議員、地方自治体、市民社会、ビジネス経済界など、各層で定例化され、恒常的で密な関係を構築していくこと。
 なるほど、ですね。弁護士会のレベルでの定期的な交流だって必要というわけです。日本人が弱いところを大胆に課題として提起した本です。広く読まれてほしいと思いました。
(2025年1月刊。1980円)

2025年4月 1日

戦後日本学生セツルメント史の研究


(霧山昴)
著者 岡本 周佳 、 出版 明石書店

 私は大学1年生の4月から3年生の秋まで学生セツルメントにどっぷり浸っていました。2年生のときに東大闘争が始まって1年近く授業がなかったので、なおさら地域(川崎市幸区古市場)をうろうろすることが多かったのです。
セツルメントで初めて社会の現実、そして日本社会の構造というものを認識するようになりました。あわせて自己変革が迫られたり、大変な思いもしました。でも、そこには温かい人間集団(セツラーの仲間たち)があり、とても居心地のいいところでした。
いったいセツルメントって何なの...、そう訊かれると、簡単には今なお言葉で表現できません。ボランティア活動なんでしょ、と言われると、いや、ちょっと違うんだけど...、そう思います。学生の慈善事業なんでしょ、そう言われると、もっと違う気がします。
 私は、地域の子どもたちを相手にする子ども会パートではなく、青年労働者と一緒のサークル(やまびこサークル)で活動する青年部パートで活動していましたが、サークルとは別にセツラー会議を開いて議論していましたから、「お前たちは俺たちをモルモットみたいに観察してるのか?」という疑問をぶつけられたこともありました。もちろん、そんなつもりはまったくありませんでした。
ただ、サークルに来ている若者たちの職場や家庭環境などを踏まえて、出てきたコトバや態度の意味をみんなで考えて深めていきました。これを総括と呼びます。この討論を文章化して合宿のなかで討議するのです。おかげで文章を書くのが苦にならなくなりました。それどころか、ますます好きになり、今もこうやって文章を書き、モノカキと称するようになったのです。
 セツルメントでは、実践記録を書くことが重視された。実践記録を通して「何を書くか」セツラーは鍛えられる。まさしく、そのとおりです。
 著者は、現在は静岡福祉大学社会福祉学部の准教授ですが、大阪府立大学でセツルメントのセツラーとして、児童養護施設に毎週通い、子どもたちと一緒に遊ぶという活動をしていました。
 この本は、学生セツルメントについて、通史として実証的に戦後の展開を明らかにしたものです。「学術書という性質上、全体を通してやや堅く、読みづらいと感じられるかもしれない」とありますが、たしかに、セツルメントに従事していたときの感動、そして、それを今、どのように仕事や生活に生かしているかという生々しい証言レポートがありません(実践記録の紹介はありますが...)ので、面白みにやや欠ける気はします。
 それでも、さすがに学生セツルメントの通史というだけあって、その歴史的変遷がよく分かりました。学生セツルメントは完全に消滅したと思っていましたが、実は今なお全国に10ヶ所ほど残っているということも知りました。でも、それは地域というより養護施設であったりするので、果たして学生セツルメント活動と言えるのかどうか、いささか疑問も感じられるところです。
 私が学生セツルメント活動に参加したのは1967(昭和42)年からのことですが、前年(1966年)に全国で活動しているセツラーは1万人を超えていました。そして、年1回の全セツ連大会は1000人ほども集まり、大盛況でした。大阪か名古屋で開かれた大会に参加するため東京駅から大垣どまりの夜行列車に乗って、みんなで行ったこともありました。東京駅のホームで「団結踊り」を踊ったり、まるで修学旅行気分の楽しさでした。
 私は若者パートでしたが、そこでは労働者教育というものはまったく感じられず(別に労働文化部があり、そこでは学習活動もすすめられていたようです)、むしろ私たち「学生が働く若者から学ぶ部分が非常に大きかった」というのは、まったくそのとおりです。セツラーは実践を通して学ぶということです。
 「労働の場に拠点を置いて労働者を変革するという考え方」を「生産点論」としていますが、私の実感にはあいません。それよりむしろ「学生自身が労働者との関わりを通して、何を学ぶかに力点が置かれている」という評価こそ私にはぴったりきます。「学びの内実は、観念的なものではなく、事実を通して現実を考える」ということです。
子ども会や栄養部の活動においては、「地域や住民らの要求を受けて住民とともにその生活課題の解決を図るという運動的性格」もありましたが、私にとっては、「セツラーの人間形成の場」としての意義が最大でした。
 1989年に全国学生セツルメント連合(全セツ連)は機能停止を宣言しました。しかし、これをもって全国一斉にすべてのセツルメントが解散し、機能を停止したというものではありません。すでに1983年には学生セツルメントの置かれた厳しさの指摘があります。これは1980年代に入って学生運動が衰退していったことと無関係ではありません。ところが、1980年代に入っても量的には拡大していったという事実もあるというのです。1983年時点でも全セツ連には全国67のセツルが加盟していて、新しく加盟しようとしているセツルもありました。
しかし、社会矛盾が以前ほどストレートに見えない状況にあり、セツルが財政難に直面し、運動に意義を見出せないセツラーが増加していくなかで、書記局体制が確立できなくなったのでした。全セツ連が1989年に機能停止をしたあとも、全国的なセツルの交流会は開かれました。1990年には第1回全国学生セツルメントフェスティバルが開かれ、2005年まで定期的に開催されたのでした。
 2019年の時点では、9つのセツルで確認されていますが、北海道、東北、関西であり、関東にはありません。ただし、名称からセツルをはずして子ども会としているのが、池袋や堀の内などにもあります。また、川崎セツルメント診療所やセツルメント菊坂診療所のようにセツルメントの名称をそのまま残しているところもあります。
 大阪府立大学セツルは、地域実践を離れて、児童養護施設で今も実践しています。
 最後に、終章の一文を紹介します。
 「戦後の学生セツルメントは、主体的かつ継続的な地域実践を通して地域の現実や要求に応じて新たな実践を創り出しており、結果ではなく、その過程を重視した。また、徹底的な討論や、地域住民とともに地域の現実に向きあって創り出された実践を通してなされたセツラー自身による主体的意味づけには一定の評価ができるのではないだろうか。また、人間形成・自己教育の側面もあった」
 350頁もの大作です。私も取材を受けましたし、私の本も紹介していただきました。本当にお疲れさまでした。学生セツルの通史を、こんなに立派にまとめていただいて、心よりお礼を申し上げます。著者より贈呈していただきました。重ねてお礼を申し上げます。
(2025年2月刊。5400円+税)

2025年3月29日

バルセロナで豆腐屋になった


(霧山昴)
著者 清水 建宇 、 出版 岩波新書

 ええっ、こんなタイトルで岩波新書になるの...、それが読む前の第一印象でした。
 読み終わってみると、違和感はきれいさっぱり消えていました。サブタイトルは「定年後の『一身二生』奮闘記」となっています。朝日新聞の記者が定年後、スペインのバルセロナで豆腐屋を開業して10年間がんばった体験記です。家業が豆腐屋というわけではありません。それなのに、なぜ豆腐屋を、それもスペインのバルセロナという地方都市なんかで...。
 著者は記者時代、ヨーロッパ絵画の特集記事のためスペインにも行っています。 そのとき、どこよりもバルセロナが気に入ったのでした。街が美しく、食べ物がおいしい。そして、アジアから来た異国の人という奇異の目で見られることがなかった。これが、バルセロナを気に入った理由です。
 では、なぜ豆腐屋なのか...。豆腐や油揚げ、納豆が大好きなので、それなしの生活は考えられない。ならば、自分でつくってやろう。いやはや、とんだ(飛んだ)思考法ですね。私にはとても真似できません。大学生の長男、中学生の長女、次女に計画を話すと、すんなり受け入れられた。その前に妻(カミさん)の了解は得ている。
 2010年4月、62歳のとき、バルセロナで豆腐屋を開業した。今から15年も前のことなのに、とても詳細かつ具体的に話が展開していくのに驚きます。当時のメールやら計画書、領収書などが全部保存されていたからのようです。さすがは元記者ですね。まずは豆腐づくりの修業です。もちろん日本でします。
 油揚げの生地は、豆腐よりはるかに薄い豆乳でつくる。凝固せず、無数の小片が浮かんでいる状態にしてから水を抜き、型箱で固める。それを短冊状に薄く切り、最初は低温で、次に高温で揚げると、ふくらんでキツネ色になる。油揚げの生地の固さは、親指と人差し指で押して確かめる。がんもの生地は練っている途中でヘラを突っ込み、その手ごたえで判断する。大豆の煮え具合いは湯気のにおいでつかむ。青臭いにおいがするうちは、まだ煮えていない。甘いにおいがするようになれば出来あがりだ。豆腐づくりは全身をセンサーにしてやる仕事。手ごたえやにおいは数字に出来ないから、書くことも出来ない。途中からメモ帳とペンの出番はなくなった。
 なーるほど、手指の感覚にモノを言わせるのですね。私には出来そうもありません。
 著者の妻は佐賀市出身、名門の佐賀西高卒です。バルセロナでは鍼灸師そしてヨガの師匠として活躍しました。
豆腐屋の朝は午前5時起床に始まる。そして、店に着くと豆腐づくりを開始。午前中の販売を終えて、午後3時に一日で最初の食事をとる。
 ええっ、大丈夫なの...と驚くと、なんと著者は体重92キロだったのが、豆腐屋を始めて75キロまで落ちたとのこと。つまり、肥満だったのです。1日2万歩も歩いたそうです。
 豆腐屋には一年中、完全な休日というものはない。丸一日オフとなるのは、年に数回ある連休の初日だけ。忙人不老。忙しい人は老(ふ)け込まない。
 「あなたは、なぜその仕事を辞めないのですか?」
 この質問に対する答えこそ、職業選択の参考になる。なるほど、そのとおりでしょう。五大ローファームに入って企業法務の大きな歯車の一つになって何十年もして、果たして人生に満足できる人がどれほどいるか、私には疑問でなりません。
 奥付の上に著者紹介があり、はたまた驚きました。なんと、私と同世代(正確には私より1年だけ上)、団塊世代なのです。『論座』の編集長、「ニューステーション」のコメンテーター、論説委員を経たあと、スペインで豆腐屋を開業したわけです。その勇気と行動力に対して、心より敬意を表します。
 面白い本でした。
 
(2025年1月刊。960円+税)

2025年3月28日

ルポ・京アニ放火殺人事件


(霧山昴)
著者 朝日新聞取材班 、 出版 朝日新聞出版

 2019年7月18日、京都アニメーションの第1スタジオの正面入り口から入って、バケツに入れたガソリン10リットルをまいて放火し、たちまち3階建てのスタジオを全焼させた。このとき70人いた社員のうち36人が殺され、32人は重軽傷を負った。犯人の青葉真司(当時41歳)も大火傷して逮捕された。
 火傷の回復を待って青葉被告の裁判員裁判は2023年9月に始まり、23回におよぶ裁判があり、被害者遺族が次々に被告人に質問した。
 青葉被告の弁護人は責任能力のないことを主張したが、判決では責任ありと認定され、死刑判決が下された。
青葉被告の両親は父親のDVによって母親が逃げ出し離婚したあと、無職の父親が兄と本人、そして妹の3人と一緒に暮らしたが、絶えず父親に殴られる生活を送った。青葉被告が21歳のとき、父親は亡くなった。
 青葉被告はコンビニで店員として働いたり、派遣社員になって工場で働いた。やがてネットのゲームにはまり、昼夜逆転の生活を続けた。そして2012年にコンビニ強盗事件を起こして実刑判決を受け、刑務所に入った。刑務所生活のなかで京アニの作品を鑑賞し、自分もノートに小説のアイデアを書いていった。
 2016年、長編小説を京アニ大賞に送って落選。2018年11月、京アニ作品をテレビで見て、自分の小説に書いたアイデアが盗用されたと思った。
 「小説がつっかえ棒だった。そのつっかえ棒がなくなったら、倒れるしかない。どうでもいいやと思った」
 犯行直前、京アニ近く、現場脇の路地に腰かけ、十数分間、考えごとをした。
 「自分のような悪党にも、少なからず良心の呵責(かしゃく)があった」
 法廷で次のように答えた。
 「底辺は押し付けあい。押し付けあいの世界は、食いあいになっている世界で、どう生きるかしか考えていなかった」
 判決は2024年1月25日。朝から京都地裁周辺は雪がちらついていた。
 この本によると、被害者遺族に3回も被告人質問をした人がいるそうです。よほど納得できなかったのでしょうね。そして、意見陳述もしていますので、5回も法廷に立ったとのこと。
 大変むごい、残酷な放火大量殺人事件です。その犯人の人間像を明らかにするのは、この日本社会の病巣を究明するという大きな意味があると思います。再び起こしてはいけない犯罪ですから...。
(2024年11月刊。1980円)

2025年3月22日

算数を教えてください!


(霧山昴)
著者 西成 活裕 、 出版 かんき出版

 フルタイトルは「東大の先生!文系の私に超わかりやすく算数を教えてください」です。
 私の場合、大学入試は文系一択でしたが、高校3年まで理系クラスにいて、「数Ⅲ」まで履修しました。微分・積分も理解でき、不得意科目ということではありませんでしたが、図形問題は苦手でした。そこは直観がモノを言う世界で、私には直観が欠けていたのです。つまり、図形を眺めて、ひらめくところがありませんでした。こればかりは練習問題や過去をいくら積み上げても身につかないと決断し、高校2年の終わりの春休みに文系志望を固めたのです。今考えても正解だったと思います。論理的思考力とちょっとした文章力(たとえば「30字以内に大意を要約せよ」といった設問を得意としていました)で生きていくことにしたのです。これは今に生きています。
 さてさて、この本です。「実は、算数は奥が深い」と表紙に書かれています。まったくそのとおりです。小学校の算数を身につけ、中学校の数学が理解できたら、世の中に理解できないものはない。私は、そう考えています。
 なので、今回は小学生を対象とする算数の本に挑戦してみました。少し前には中学数学にも挑戦しました。高橋一雄の『語りかける中学数学』(ベレ出版)です。800頁をこす大部の本なのですが、私は中学数学を真面目に学ぼうと思って、最後まで読み通しました。6年前のことです。ただし、「最低でも3回は復習してください」とありましたが、1回通読しただけなので、理解できたという自信はありません。でも、この本には著者の数学を理解してもらいたいという真剣な情熱はよくよく伝わってきました。
 この算数の本に戻ります。ひらめきが必要。あれ、なんか違わない?こっちじゃないの?そんな動物的嗅覚が大切。
 意識的に直感と論理を行き来する脳を鍛えることは算数や数学に限らず、大人になったときに絶対に役立つ。
日本は、計算は10進法、時刻などは12進法と使い分けてきた。
 干支(えと)も12進法。和算は算木やそろばんを使っていたので、計算を紙に書く習慣がなかった。1,2,3...。そして0(ゼロ)を導入したことによって初めて、紙での計算ができるようになった。
 数学とは言語。算数の世界を旅するためには、その世界の言語を覚えないといけない。無駄がなく、解釈の違いが起きないからこそ数学は世界共通言語になれた。
 文章の理解とは、その状況を頭の中でイメージできるかどうかの勝負。
 九九を習う目的は「掛け算の筆算が出来るように、81パターンが暗算できるようにすること。九九のなかで、絶対に覚えないといけないパターンは36しかない。
小数は中国生まれで、ヨーロッパに伝わったのは、わずか500年ほど前のこと。
 分数は数ではなく、計算途中をあらわしたもの。時間、速さ、距離の関係は、実は割合。
 図形は、数学の原点。図形の決め手は、妄想力。想像力や妄想力、イメージをする力をどうやって養うか...。それは、小さいときから、どれだけ遊んできたかによる。いろんな「形」に実際に触れる体験を伴う遊びをどれだけしたか...。円は三角形の集まりでできていると、イメージする。
 予備校で講師のアルバイトをしていた経験を生かした本でもあるそうです。なんとなく分かった気にさせるのは、さすがです。400頁近い本なのに、2000円しないのもいいですよね。
(2024年10月刊。1980円)

2025年3月16日

フロントランナー、いのちを支える


(霧山昴)
著者 朝日新聞be編集部 、 出版 岩崎書店

 フロントランナーとは、自ら道を切り拓く人。10人のフロントランナーが本書に登場します。
 若者を孤独の淵(ふち)から救い出すサービスを提供するNPO法人。24時間365日体制で、チャットで相談に乗る。大学生のときに始めた大空幸星さん。
 カルト宗教の被害者を救済にいち早く取り組んできた紀藤正樹弁護士。
 野宿者支援、賃貸物件に入るとき保証人を300人分も引き受けた「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅誠さん。
 大牟田市の不知火病院の徳永雄一郎医師も登場します。全国に先駆けて1989年、うつ病専門病棟「海の病棟」を開設したのです。川に面して、陽光が降り注ぐ開放的な病棟です。私も見学したことがありますが、なるほど、こういう施設だと気が安まると思いました。
 天井は雨の音が聞こえる設計、天井には川のゆらぎが映り、潮の満ち引きが感じられる。部屋に入る光の角度や風向きも綿密に計算。徹底的に五感を刺激するため。
 4人部屋だが、座ると本棚の陰になって互いに見られない。プライバシーを保ちつつ、寂しくはない、安心できる空間。38床の病棟を建てるのに4億円かけた。
 海の病棟に入院すると、同じようにうつ病に悩んでいる人に出会って、良くなっていくケースを見ることで、自分も回復するというイメージができ、治療効果が上がることが多い。
うつ病にかかる職種は変化している。開設して初めの数年間は、公務員や教師といった「きまじめタイプ」、バブル末期の90年代初めは接待漬けの商社員、働き過ぎのIT系社員、そして最近は、超高齢社会となっている関係で看護師や介護職員が多い。
 実は徳永医師は私と中学校で一緒だったのです。二代目の医師ですが、時代の要請にこたえて意欲的に取り組んでいることにいつも刺激を受けています。
 徳永医師から贈呈を受けました。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
(2024年10月刊。1900円+税)

2025年3月13日

異端


(霧山昴)
著者 河原 仁志 、 出版 旬報社

 本のタイトルからは、何をテーマとする本なのか、見当もつきません。
 新聞記者たちが有力者や社上層部の意向に従わず、思ったことを、事実にもとづいてニュースにして報道する。これが異端。でも、読まれるし、ついには社会を動かしていく。
 昨今のSNSで、オールドメディアと決めつけられ、軽く馬鹿にされている風潮があるのは、活字大好き人間の私にはとても残念です。ただ、NHKが典型的ですが、権力の言い分をそのまま垂れ流しているとしか思えない記事があまりに多いというのも情けない現実ではあります。
 西日本新聞の傍示(かたみ)文昭記者の名前を久しぶりに見ました。弁護士会が大変お世話になった記者です。当番弁護士や被疑者の言い分を知らせる報道に大いに力を入れてくれました。
 1992年2月、2人の小学女児が殺された事件の報道では、久間(くま)三千年(みちとし)被告を犯人と決めつける報道ばかりでした。ところが、本人は一貫して否認していて、当時、始まったばかりのDNA鑑定もきわめて杜撰なものだったのです。
 久間被告は、それでも死刑判決となり、刑が確定すると2年後には執行されてしまいました。異例のスピードです。傍示記者は、自らがスクープを放った身でありながら、事件を再検討する企画を立て、社内の異論を抑えて連載記事を始めました。たいしたものです。
 次は、沖縄防衛局長が記者たちとの懇談の場で、オフレコとされているなかで、「犯す前に犯すと言いますか」などと、いかにも下品なたとえで、辺野古埋立の環境アセスメントについて語ったことを報道した琉球新報の内間健友記者の話です。
オフレコと断った場での発言であっても報道することが許されることがあることを私は改めて認識しました。政治家などの公人が「オフレコ発言」をしたとき、市民の知る権利が損なわれると判断させる場合には、報道してもかまわないのです。
 オフレコ発言であっても、公共・公益性があると判断した場合、メディアは報道する原則に戻るべきなのです。なるほど、そうですよね...。
 オフレコ発言だとあらかじめ宣言されていたとしても、無条件で何を言っても書かないとメディアが約束しているのではないということです。
 中国新聞は週刊文春の記事と張りあいました。自民党の河井克行・元法務大臣と妻の河井案里の選挙違反報道です。このとき、広島の議員、首長に対して、広く現金がバラまかれました。自民党の県議に対して1人50万円の現金が「当選祝い」として手渡されました。やがて、その出所は首相官邸つまり安倍晋三首相のもとであることが疑われはじめました。例の内閣官房機密費から1億5千万円が出たとみられています。
 前に、このコーナーで河井克行元法相が出獄後に刊行した本を紹介しましたが、河井元法相は、今なお事件の全貌を明らかにせず、深く反省している様子もありません。そして、中国新聞を左翼の新聞とばかりに非難しています。呆れたものです。
 この本を読みながら、やはりジャーナリズムに求められるのは権力の腐敗を暴き、それによって庶民の目を大きく見開かすことにある、そう確信しました。
(2024年11月刊。1870円)

2025年3月12日

追悼ー大石進さんー


(霧山昴)
著者 大石進さん追悼文集 編集委員会 、 出版 左同

 日本評論社の社長・会長を歴任した、布施辰治の孫である大石進が亡くなったのは2024年2月のこと(享年89歳)。
大石進は若いころ、日本共産党員として、山村工作隊員の一人だった。オルグ活動の一環でリヤカーに映画ファイルを積んで、関東近郊の農村に出かけて無声映画の弁士をしたこともあった。つまり、暴力革命を信奉して活動していたこともあったということなんでしょう。中国共産党の毛沢東の影響が日本に強かったころのことです。「農村から都市を包囲する」というのは、広大な中国大陸ではありえても、狭い国土の日本でうまくいくはずもありませんでした。この体験が『私記・白鳥事件』にも生かされていると私は思います。
つまり、戦後まもなくの混沌とした社会情勢のなか、戦争(兵隊)体験者がうじゃうじゃいた世相とともに白鳥事件の真相に迫ったのです。同時に、白鳥事件を担当した上田誠吉弁護士(私も親しくさせていただきました。偉大な先輩として、今も敬愛しています)の苦悩にも言及しています。
 大石進は布施辰治の孫であることを長らく周囲に口外していなかった。祖父のことを話したのは1983年、石巻市での布施辰治30回忌追悼会が初めてではないかとされています。大石進が48歳のときですから、ずい分と長く、祖父のことを語っていないわけです。
 大塚一男弁護士の息子さん(茂樹氏)の紹介文には驚きとともに、なるほど、そうかも...と思いました。
 「父思いではない息子」とあり、「大塚(一男)も、息子には無理筋の追及および罵倒を惜しまないのが日常的だった。60年代はパワハラなど当たり前の時代であった」
 まあ、私なんかも胸に手を当てて、息子に対してどうだったのかと、いささか反省もさせられました。申し訳ないことです。真剣ではあったのですが...。
 私は、亡父の昭和初めの東京での7年間の生活を本にして刊行しました(『まだ見たきものあり』。花伝社)が、そのなかで布施辰治が弁護士資格を奪われ、治安維持法違反で逮捕されたとき、両国警察署の留置場内で盛大な歓迎会が開かれたことを紹介しています。信じられない実話です。どうぞ私の本もお読みください。
 石川元也弁護士、そして森正先生より贈呈していただきました。ありがとうございます。
(2025年2月刊。非売品)

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