弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年8月 6日

宇宙就職案内

宇宙

著者  林 公代 、 出版   ちくまプリマー新書  

 夏の夜は、寝る前にベランダに出て望遠鏡で月面を見るのが楽しみです。それが出来るのは2ヵ月もありません。満月になった月世界をじっと見つめていると、ウサギこそ跳びはねたりはしていませんが、きっとここには生物が隠れてすんでいる。そんな気がしてなりません。ベランダに出て夜の冷気で火照った身体を冷やし、ゴザシーツに身体を横たえると、すうっと安らかに眠ることができます。さすがに窓全開ということはしません。風をひいたら困りますから。若いころに、ベランダで毛布にくるまって寝たこともありましたが、外は夜は意外に冷えこむものですから、年齢(とし)とった今は、そんな無茶は決してしません。
 現代の天文学者は、夜はちゃんと眠っている。うへーっ、そうなんですか。夜中じゅうずっと、空をのぞいているものとばかり思っていました。
 実は、ほとんどの天文学者は望遠鏡にさわらせてもらえない。望遠鏡を操作するのはオペレーターと呼ばれる専門の技術者で、コンピューターによって操作している。天文学者は観測よりも、観測データと向きあっている時間のほうが長い。
 日本で、天文学を職業としている人は700人ほど。
 天文学者は1日を24時間ではなく、30時間制をとっている。
 観測屋は天候に左右されるから根気と気の長さが大切だ。
 宇宙飛行士の危険の確率は1%。往復の宇宙船で100回に1回は事故が起こる確率がある。ええっー、これって、すごく高い危険率ですよね。なにしろ事故が起きたらほとんど即死でしょうからね・・・。
 宇宙船では、水が最高のぜいたく品だ。1人3.5リットルの水を消費する。この水をロケットで運搬すると、コップ1杯の水が30万円になる。そこで、尿から飲料水をつくっている。昨日のコーヒーが今日のコーヒーになり、また明日のコーヒーが作られる。味は、地上で飲む水とそれほど変わりはない。
 昔、朝起きたときの最初の尿を飲むと健康にいいというのが流行していました。私の同期の弁護士も実践していたようです。でも、何となく抵抗がありますよね。といっても、宇宙では仕方のないことですね。雪山で遭難したときなど、自分の尿を飲んで助かったという話はよき見聞きしますので、それよりまだはるかにましでしょうね。
 宇宙飛行士の一日の生活はスケジュールがぎっしりで、ものすごく忙しいとのことです。15分刻みで作業が組まれているそうですから、大変です。途中で作業放置して、ごろっと横になって休むこともできないのでしょうか・・・。なにしろ、四六時中、地上の健康管理チームに見張られているようですから、相当タフな神経じゃないともちませんね。
これまで宇宙にとびだした人類は500人。そのうち7人が一般人の旅行客。20億円という旅行代金を支払って宇宙に行った。大富豪だ。そして、日本人13人をふくめて世界で500人が予約待ちをしている。すごいですね。世界には、物好きで生命知らず、そしてお金の使い道に困っている富豪がこんなにたくさんいるわけです。
 日本の宇宙産業の市場規模は2009年まで8兆円に近い。
 宇宙って、遠いようで、案外、近いところもあるなって思いました。
(2012年5月刊。780円+税)
10月の気候・稚内
稚内に行ってきました。稚内空港で飛行機から降りて外に出ると、冷やっとしました。37度の福岡から昼間でも23度という世界にやって来たのです。
 さすがは日本最北端。日差しは強いものの、夕方になると膚寒さを感じ、九州の10月でしょう。
稚内で驚いた三つのこと
 第一に、商店街を歩いていると、シャッターの閉まっている店が多いのは全国共通ですが、ナントキリル文字があちこちに。ロシア人向けなんです。たしかに、チラホラ見かけます。
 第二に、街角(まちかど)に運命鑑定の男性を三人も見かけました。女の子たちが足を停め熱心に聞いていました。道行く若者に呼びかける積極性も見せます。まるで、東京・銀座です。
 第三に、住宅地の真ん中に空地にエゾシカが2頭、立っていました。稚内は海に面していると同時に、すぐ山が迫っているのです。

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2012年8月 5日

ローズ・ベルタン

ヨーロッパ

著者  ミシェル・サポリ 、 出版   白水社  

 舞台はフランス大革命の前夜のフランスです。かの有名なマリー・アントワネットに仕え、モード大臣とも呼ばれた女性が主人公です。
 ローズ・ベルタンは奇抜なファッションで、当時の上流階級の女性を夢中にさせました。そして、宮廷が衣装に費やす費用は膨大なものとなったのです。といっても、モード大臣の下では大勢の庶民が働いていたのです。それはフランス国内だけでなく、イギリスの片田舎にまで及んでいました。冨はいくらか循環していたのです。
 フランスの片田舎に生まれて花の都パリに上ってきた貧しい女の子がお針子さんからブティックの店員そして王女の衣装係にまでなって、ついには全ヨーロッパの王室を相手として商売していたのです。その並外れた想像力(デザイン)はたいしたものですよね。
 王妃アントワネットに対して、母のマリア・テレジアは次のように忠告した。
「身だしなみには常に気をつけるように。あなたの年齢で身だしなみに関心がないなどというのは、もってのほかです。自分の立場をわきまえるように。フランスの王族方が長い間陥っている愚かな習慣に、あなたも染まってしまうようなことには、絶対になってほしくないのです。体型にも、体裁にも、決して怠慢な態度をとらないように。ヴェルサイユをリードするのは、あなたなのです」
 ローズ・ベルタンは、15年間、ほとんど毎日、王妃アントワネットと二人きりで顔をあわせた。国王のそばに商人が出入りするのは、宮殿の規則で厳しく禁じられていた。ところが、ベルタンは王妃の寝室に足を踏み入れていたようだ。
 1778年、ベルタンは宮廷で「モード大臣」の称号を得た。ベルタンは、間接的に現実の権力を手にした。アントワネットが王妃だった時代の女性の肖像画を見ると、ほとんどすべて、お気に入りのモード商ベルタンの衣装をまとっている。ベルタンの店は、「ムガール帝国」という名前だった。華々しいショーウィンドウによって道行く人々の目を楽しませ、購買意欲をかきたてた。店の正面には大きな字で「妃殿下御用達」と揚げていた。
 仕立て屋とモード商の違いは、石土と建築家との違いのようなもの。ベルタンは針をもったわけではなく、ひたすらアイデアを生み出した。
 ベルタンは、1776年9月に協同組合ができたとき、序列の頂点に立った。そこで、絶大な権力を行使し、絶対的な影響力をもって、政府に対しても商人たるブルジョワジーの一代表者となった。
モード商の仕事は製造業ではなく、職人たちが生産した商品をさらに輝かせること。ベルタンは固定給で終身雇用の社員を30人も雇っていた(1779年)。そして、取引先の業者は120(最大734)もいた。
フランスの大革命が始まるとさすがのローズ・ベルタンも没落してしまいますが、最後までマリー・アントワネットに差し入れしていたようです。偉いものですね。
 知られざるフランス大革命直前のパリのモード社会を知ることができました。
(2012年2月刊。2200円+税)

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2012年8月 4日

結いの島のフリムン

司法

著者   春日 しん 、 出版   講談社

 保護司、三浦一広物語というサブタイトルがついた本です。非行少年・少女をあたたかく見守り、更生につとめている保護司の活動を紹介しています。南の島の奄美大島では、人々がのんびりのどかに暮らしていると思っていましたが、現実は大違いのようです。
 かつて、奄美大島の産業界で隆盛を誇った大島紬(つむぎ)も、現代人の着物離れから著しく衰退し、特産の黒砂糖の産業も思わしくない。島を訪れる人の数が減ると、島で働く人の仕事が減り、仕事がなくなると家庭のなかに不和が広がって夫婦が別れ、子どもとひとり親の母子、父子の家庭が増えた。奄美では、ひとり親家庭が全体の4割をこえている。
奄美大島は、本州など四島を除くと佐渡島に次いで面積5位の大きさをもち、人口7万人の美しい島だ。
保護司の三浦一広は、奄美市役所福祉政策課・少年支援係に勤務している。NPO法人奄美青少年支援センター「ゆずり葉の郷」の中心人物でもあり。また、奄美合気道拳法連盟の統帥範代である。その教育方針は、許し、認め、ほめ、励まし、感謝する。すごいですね。私など、なかなかできませんね。励まし、感謝するというのは年齢(とし)相応にできるようになりました。でも、許し、認め、ほめというところがまだまだです。他人(ひと)のあらがすぐ目につき、それを批判(非難)し、けちをつけたくなります。
 大きな声による説教の効果は3ヵ月しか続かなかった。信頼してほめた言葉は、説得しなくても心の底から子どもを変えた。なーるほど、そうなんでしょうね。やっぱり、誰だって、自分を認めてくれる人になら心を開きますよね。
 非行少年たちの心を変え、親も感謝し、本人も喜ぶ循環型の治安維持活動。これが、2004年、日本初の試みとして奄美に発足した少年警護隊だ。その成果として、2年間で、奄美の犯罪件数は675件から313件へと半減した。少年非行も96件から32件へと、3分の1に激減した。
三浦一広は1年365日、1日24時間、問題をかかえるこどもとその家族のために、夜眠る間もケータイを離せず、2時間過ぎに受信をチェックする。必要とあれば、夜中の何時でも、現場にとびだしていく。ええーっ、こんなことって常人にはできませんよね。体は大丈夫でしょうか、心配です。
奄美大島には、消費者相談で全国的に有名な禧久孝一氏もおられます。狭い島だと思いますが、二人も全国的知名度をもつ地方公務員がいるなんて、なんと幸せな島でしょうか。
 今後とも、健康にだけは留意していただき、ご活躍を祈念します。
(2012年3月刊。2800円+税)

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2012年8月 3日

社会の真実の見つけかた

アメリカ

著者   堤 未果、 出版   岩波ジュニア新書  

 日本がアメリカのような国になってはいけないと改めて強く思わせる本でした。アメリカン・ドリームなんて、年収1億円とか金融資産が1億円以上の人だけに縁がある世界なんですよね。多くのアメリカ人、そして大多数の日本人は地に足のつかない夢をみて、いつまでもアメリカに幻想をいだいているように見えます。私はとっくにアメリカを見限りました。だから、私はフランス語を勉強しています。
 アメリカには、日本のような皆保険制度はない。65歳以上の高齢者と低所得層だけが公的保障を受け、その他の国民はみな自己責任で民間の医療保険に入らなければならない。加入しても、患者と医師とのあいだに医療保険会社という中間業者が入るため、生命よりも利益が最優先されるしくみだ。
医師や病院は保険加入者を自分たちの病院に患者として回してもらう代わりに、医療保険会社から人件費削減や診療時間短縮をして利益を上げるように、いろいろ指示される。
患者が診療を受けられるのは医療保険会社のリストの載っている医師のみで、高い保険料を払っても、いざ治療を受けたあとで保険金を請求すると、保険会社に支払いを渋られ、払い切れずに破産するケースがとても多い。アメリカの自己破産の理由ナンバーワンは医療費である。
落ちこぼれゼロ法(2002年)は、生徒の成績が悪ければ教師は降格やクビで、学校への助成金は削減する。その後も、成績が上がらなければ、助成金を全部カットして学校自体を廃校にする。
学資ローンは4年生大学では平均3万ドル、修士なら12万ドル、医学部なら15万ドルの借金となる。卒業と同時に、若者の肩にのしかかる。家を手放せば借金が消える住宅ローンとは違い、学資ローンには消費者保護法がきかない。
 2008年、帰還兵の3割がPTSDや脳損傷に苦しんでいる。30万人が重度のうつ病である。帰還兵の自殺者がイラク・アフガニスタンでの戦死者数を上回っている事実が公表された。
 アメリカの肥満児を生み出す原因は、貧困、親の栄養知識のなさ、そして運動不足である。
教師の2人に1人は5年以内に辞める。かつて、教師は、女性にとってあこがれの職業ナンバーワンだった。今は違う。落ちこぼれゼロ法、そして、親の理不尽な要求が教師を辞めさせている。子どもは、親と学校、そして地域社会という三つの手によって育てられてきた。この三つのどれが欠けても、子どもは不安定になる。しかし、今のアメリカでは、この三つとも崩れかけている。親と教師、地域社会がばらばらに分断されている環境で、一番不幸になるのは子どもたちだ。
 いま、大阪の橋下「教育改革」がアメリカのまねをしようとしています。でも、アメリカでは失敗したとされているのです。教師を「敵」とするような「教育改革」によって子どもたちが本当に幸せになれるはずがありませんよ。
 それにしても、NHKをふくめて日本のオール・マスコミが橋下、維新の会をあんなに天まで高く持ち上げるのは、あまりに異常です。もういいかげんやめてほしいと切に思います。小泉「改革」の失敗を繰り返したくありません。
(2012年4月刊。820円+税)

 脱原発の声をあげながら首相官邸のまわりを取り巻く市民が増えています。私も近くだったら、ぜひ参加したいです。
 初めは数百人から始まったのが、今では10万人、20万人という規模になりました。鳩山さん(元首相)も参加したようです。
 でも、マスコミの扱いが小さいですよね。とくにNHKなんて無視そのものです。マスコミは、財界と同じで脱原発に流れが怖いのでしょうね。日本経団連の会長が脱原発なんてとんでもないと公言しています。まるで、お金の亡者ですね。お金より生命ですよね。

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2012年8月 2日

第一次世界大戦(下)

ヨーロッパ

著者   ジャン・ジャック・ベッケール、 出版    岩波新書 

 今ではフランスとドイツが戦争するなんてとても考えられません。でも、わずか100年前は、両国民はお互いに敵とみて殺せ、殺せと叫んでいたのですよね。不思議な気がします。
 第一次大戦の根本的な特徴は、それが兵器の戦争になったこと。大砲が主役となった。フランスの戦死者の7%が砲弾によるものだった。フランス軍には、360万の負傷と280万人の負傷者が記録されている。これは、かなりの負傷者が2度以上、負傷していることを意味する。そして、フランスの負傷者の14%は顔面を負傷している。
毒ガスをつかいはじめたのは、1915年4月、ドイツ軍だった。しかし、多くのドイツ軍上級将校は、むしろ、それに抵抗しており、すすんで使用しようとしたのではない。
 1918年におけるドイツ軍の準備砲撃で使用された砲弾の4分の3がガス弾だった。フランス軍が始めてガス砲弾を使用したのは1915年9月からで、ドイツ軍が使ってわずか5ヵ月後だった。
 ドイツは大砲の砲弾に4万8000トンの化学物質を使用したのに対して、フランスは半分の2万3000トンだった。毒ガス被害者の数は限りなく大きかった。フランスの死傷者は13万人、ドイツは10万7000人だった。
 フランス軍とドイツ軍は塹壕で相対峙した。ときにわずか数メートル、一般に数百メートル離れていた。フランスの塹壕は完成度がもっとも低かった。最低の衛生条件。気候への隷属。冬の寒さ、季節の雨。泥は強迫観念となった。
 1916年のヴェルダンの戦闘は、フランスとドイツの間の恐るべき、空前絶後の殺戮の象徴になった。ヴェルダンでのドイツ軍の準備砲撃は「肉ひき器」と呼ばれたが、その砲火の雨にもかかわらず、敵を壊滅させるのに成功しなかった。
 1916年2月から12月までも続いたヴェルダンの戦闘において、フランス軍は戦死者16万人をふくむ40万人の兵士が犠牲となった。ドイツ軍は戦死者14万人をふくむ33万人が犠牲となった。全体として、1916年に130万人の兵士が死傷した。100万の戦死。
ドイツ軍から、1917年と1918年に10万人の脱走兵があった。これはドイツ兵全体の1320万人に比べると、驚くほど少ない。ドイツの軍事裁判官は48件しか死刑宣告しなかった。
 フランス軍では、反乱した兵士に対する554人の死刑判決のうち、執行されたのは49人のみ。反乱者の大部分は戦争に対して抗議したのではなく、しばしば無為に戦死させられるやり方に対して抗議していた。
 1918年、終戦による講和会議の展開と条約の条文はドイツ軍に憤慨を引き起こした。フランス人は喜んでよさそうだが、実際には違っていた。フランス人の態度は複雑だった。フランスの国会で条約は1919年10月、372対53票で批准された。反対票のうち49票は社会党だった。
 戦争が終わったとき、フランスとフランス社会は間違いなく貧しくなっていた。貧窮の主要な犠牲者は、中産階級だった。
フランスは戦勝国でありながら、勝利を祝うことはまれだった。
ドイツは、戦争で若者の相当な部分を犠牲にした。200万人の死者、400万人の負傷者である。戦争はドイツ領ほとんど及ばなかったため、日常生活から遠く、切り離されたものだった。よく理解されていないままの戦争だったから、勝者が求めた賠償金の金額に対するドイツ人の抗議は激しかった。戦後、700万の兵士がドイツへ復員した。ドイツでは、ワイマール共和国が存在した全期間を通じて不当な敗北の心の責任者という、左翼に対する非難は人々の心につきまとっていた。
 1919年1月にベルリンで起きたスパルタクス国の反乱の鎮圧は、この増悪にみちた暴力を反映している。社会民主党政権と共産党との関係は裂け目が常に刻印されていた。
 1933年のヒトラーの政権得票まで、左翼政党のあいだに討たれた裂け目を乗りこえることはできなかった。ワイマール共和国が受けた襲撃に対して共同戦争を作ることはできなった。そして、労働者が離れていった。
 なぜ、ヒトラーがドイツで選挙によって政権を握ったのか、少し分かったように思いました。
(2012年3月刊。3200円+税)
 アメリカの映画館のなかでバットマン映画の上映中に銃を乱射する男がいて、何人もの人が亡くなりました。
 これで銃規制が強まるかと思うと、かえって銃が一般市民に飛ぶように売れているとのことです。その発想は、映画館のなかで銃をぶっ放す男がいたら、そいつをすぐにうち殺せばいいんだというものです。でも、映画館内で撃ちあいになればなれば、さrに被害者は拡大するのは必至ですよね。
 アメリカって、つくづく野蛮な国だと思いました。

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2012年8月 1日

毛沢東、大躍進秘録

中国

著者   楊 継縄 、 出版   文芸春秋

 毛沢東の最大の罪状の一つが大躍進政策下で3600万人もの中国人が餓死したという事実です。その後の文革大革命の過ちに匹敵する罪悪です。
著者は中国共産党のエリート記者として活躍していたのですが、大躍進時の中国の実情を暴いたこの本は中国では発禁となっているとのことです。
止むことのない革命的大批判、見たり聞いたりする残酷な懲罰、それらは怯(おび)えの心理状態をつくり出す。それは毒蛇や猛獣を見たときの瞬間的な怯えとは異なり、神経や血液のなかに溶け込んで生存本能となる怯えなのである。人々は、熱い火を避けるように政治的危険を避ける。
皇帝が一番偉いという考えの強い中国では、人々は中央政府の声を権威とみなす。中国共産党は、中央政権という神器をつかって、全国民に単一の価値観を注入する。経験の浅い青年たちは、この注入された価値観を心から信じ、世間を知る親たちは、あるいは神器に対する迷信から、あるいは政権に対する怯えから、自分の子どもが政府と異なる考えをもたないよう、常に子どもが従順でいうことを聞くよう要求する。
 1958年から1962年の間に中国全土で3600万人が餓死した。餓死者の特徴は、死に瀕して発熱はなく、反対に体温は下がる。
 死の前の飢餓は、死そのものより恐ろしい。トウモロコシの芯、野草、樹の皮を食べ尽くし、鳥のフン、ネズミ、綿の実、それらすべてを口にした。白い粘土(観音土)も口に入れた。死者の肉は、他人だけでなく、その家族すら食糧にした。当時、人肉食は特別なことではなかった。
公共食堂制度は、大量の餓死者を出した主要な原因である。公共食堂を始める過程は、家庭を消滅させる過程であり、農民から略奪する過程でもあった。
 公共食堂が始まった最初の2ヵ月あまり、人々はどこの食堂でも、やたらに飲み食いした。食糧が浪費された。公共食堂は、幹部特権化の基地にもなった。
 公共食堂のもっとも大きな効能は、プロレタリア独裁を一人一人の胃袋にまで徹底させたことである。公共食堂を始めてからは、生産隊長は「法廷」の長となった。そのいうことを聞かないものには飯を与えない。公共食堂とは、実際には、農民たちが飯茶碗を指導者に渡すことである。つまりは、生存権を指導者に渡すことであった。飯茶碗を失った農民は、まさに生存権を失った。
 
 農民が大量に餓死しているとき、幹部は分け前以上に食べている。これは普遍的な現象であった。
 1958年の夏秋以降、毛沢東は、公共食堂を何回となくほめたたえた。
 1960年12月に事実上、公共食堂は解散した。しかし、毛沢東は公共食堂が次々につぶれていく状況に非常に不満だった。
劉少奇や周恩来は毛沢東に反対したことはあったが、毛沢東には逆らえず、ときには、毛沢東よりもっと過激なことさえ言って火に油を注いで、さらに助長した。毛沢東に積極に加担した者、保身のために余儀なく支持した者、権力にとりいった者、無知蒙昧だった者、ドサクサに紛れてもうけた者など、いろいろいた。
 1958年の「人民日報」は完全にホラ吹き競技大会の紙面となっていて、ホラ吹きを組織していた。農民が農村で大量に餓死する一方で、都市の需要をまかないつつ、豚や卵は輸出されていた。政府の買い上げ目標が高いため、買い上げ作業は困難をきわめた。政府は、農民が食料を上納できないのは生産隊が食料を隠匿しているからだと考えた。
 1959年の廬山会議において彭徳懐は毛沢東を批判する私信を毛沢東に送り届けた。このころ、毛沢東は両目を失い指導者の地位を失うかもしれないと心配していた。
 毛沢東は、軍の高級将校たちの間に団結がないことから安心して手が打てた。周恩来や林彪は、毛沢東が彭徳懐を批判したとき、その保身に走った。周恩来も彭徳懐に対して、井戸に落ちた者にさらに石を投げつける態度をとった。
 毛沢東は1940年8月の百団大戦について否定的評価を下していた。これも彭徳懐の歴史的に重要な誤りとみなしていた。
 中国とはどんな国なのか、毛沢東の誤りはなぜ生前にただされなかったのかという点を学ぶことのできる本です。
(2012年3月刊。2800円+税)

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2012年8月31日

弁護士たちの国鉄闘争

司法

著者    刊行委員会 、 出版    岡田尚法律事務所 

 JRの前は日本国有鉄道でした。そこには国労という強大な労働組合があったのです。その国労つぶしのための高等戦術が国鉄の民営・分割でした。
 私が大学生のころには、日本でも、労働者も学生も、なにかといえばストライキをして、街頭でデモ行進していました。今や、ストライキという言葉は死語と化してしまいました。デモ行進も滅多にお目にかかりません。首相官邸の周辺を何万人の市民が取り囲んでも、テレビや大新聞はまったく報道しませんので、デモや集会までもが日本ではないも同然になってしまいました。
 この本は、国労つぶしに抗して闘った国労、そして争議団を支えていた弁護士たちの奮闘記が集められています。私の同期、同世代が何人もいますが、弁護士になって5ヵ月から取り組み、今では弁護私生活30年をすぎたと語る人までいます。それほど長期の集団的なたたかいでした。したがって、この本を通じて、日本社会の一断面を認識することができます。また、読んで面白い本です。
 弁護士は、権利闘争において脇役であり、サポーターであり、アドバイザーであるが、国鉄闘争においては、弁護士に闘争への参加意識は強かった。『弁護士たちの国鉄闘争』という本書のタイトルには、その思いが込められている。
 昔の京都地労委の驚くべき審理状況が報告されています。なんと、証人尋問の途中であっても、証人も代理人もタバコを吸うことができて、そのため、JP側代理人もタイミングをはずされることがあった。信じられない光景です。
国鉄・JR側の法務課に裁判官出身の専門家(江見弘武)がいて、労務対策の抜け道を指南していたという指摘を読んで、私は許せないことだと思いました。
 裁判でたたかうか、地労委でたたかうかという選択を迫られたとき、神奈川の弁護団は体験にもとづき地労委を舞台としてたたかうべきだと主張し、議論をリードしていったようです。なるほど、さすがだと思いました。
 地労委の救済命令は柔軟で裁量性があるからです。私も神奈川県で弁護士生活をスタートさせたとき、同期の岡田弁護士に頼み込んで地労委の審問にかかわらせてもらいました。福岡に戻ってきてから地労委にかかわったことは残念ながら一度もありません。
裁判所で争うことは、「敵の土俵」で戦うようなものだ。不当労働行為の救済機関として労働委員会があるのだから、この土俵に敵(国鉄・JR)を引っぱり込んで勝利を勝ちとろうと神奈川の弁護団はこぞって主張した。
 刑事裁判では、あくまでも証拠と論理に基づいて事実を究明し、事件の本質を明らかにすることが大切である。これを十分に行わず、単に被告人の人間像を描くことのみに力を注ぐことは、お涙ちょうだい式の人情論か、せいぜい情状論でしかないだろう。
 検察側が提出したテープをよく聞くと、「奴らにやらせるようにしむけますから、よってたかって現認して」とあった。同じ国鉄の労働者を「奴ら」と呼んだうえで、謀略をこらしていたのだ。そして、この助役が隠し取りしていた録音テープのなかに、この場面が録音されているのを発見したのは、あのオウムに殺された阪本堤弁護士でした。
坂本弁護士と最後に会っていた岡田弁護士は、坂本さちよさんの依頼で変わり果てた坂本弁護士の遺体と対面します。すると、そこには5年10ヵ月も山の中に埋められていたけれど、変わらぬ坂本弁護士の身体だったというのです。オウムの連中は、本当にむごいことをしたものです。許せません。坂本弁護士の無念さは、いかばかりだったでしょうか。
 国労組合員の採用差別事件で東京高裁の村上敬一裁判長は、「分割民営化という国是に反対したのだから、差別されて当然」という判決を下した。とんでもない裁判官です。今、この人は、どこで何をしているのでしょうか・・・。国是だったら、何でも許されるのですか。裁判所は一体、何をするところなんですか。そもそも国是とは何なのですか・・・。
JR東海の葛西敬之会長の尋問を担当した加藤要介弁護士は尋問の準備の過程で緊張のあまりに眠れなくなり、ワインを1日1~2本明けても、1日3時間以上は眠れず、苦しい思いをした。尋問が終わってからも2週間ほどなお緊張が解けずに苦労した。大変なプレッシャーだったことがよく伝わってきます。それにしても、ワインを毎晩1~2本とはよくぞ飲んだものですね。私なんか、せいぜい2晩に1本ですし、それも滅多にしません。
 国鉄改革は、中曽根康弘の企画・立案にもとづくもの。その実行上の戦略は元大本営参謀の瀬島龍三の作戦による。現場指揮官として葛西が辣腕を振るい、その法律顧問は裁判所から出港していた江見武弘が担当した。
 江見武弘は、「団交については、方針を変えることを前提に交渉する必要はない。聞き流しておけば足りる」と助言し、国労との国交をまったく形骸化させた。
 400頁もの部厚い証言集ですが、とても読みごたえがありました。国鉄闘争のみならず、戦後日本の労働運動に関心のある人には必読の文献だと思います。
(2012年4月刊。非売品)

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2012年8月30日

対米従属の正体

司法

著者    末浪 靖司 、 出版    高文研 

 驚き、かつ呆れ、ついには背筋の凍る思いをしました。
 最高裁長官が大法廷に従属中の事件について、一方当事者でもあるアメリカ大使に評議内容を漏らしていたのです。なんということでしょうか。もちろん、古い話ではありますがアメリカ公文書館で公開されている米国側資料に明記されていた事実です。ときの最高裁長官は田中耕太郎、1959年11月のことです。
この田中耕太郎の行為はもちろん罷免事由に該当します。今からでも遅くないと思います。叙勲を取り消し、最高裁は弾劾相当であったことを明確にして、一切の顕賞措置を撤回したうえ、もし顔写真等を飾っていたら、直ちに最高裁の建物から撤去すべきです。
田中耕太郎・最高裁長官がマッカーサー駐日大使と会ったのは、砂川事件について大法廷が審理している最中のことです。そこでは、アメリカ軍の日本駐留は憲法違反だという一審の伊達判決を受けて、違憲か合憲かを審理中でした。
 マッカーサー大使は、伊達判決の翌日に藤山愛一郎外相と密談して、最高裁に跳躍上告することを勧めた。そのうえで1959年4月22日に田中耕太郎最高裁判官と会った。そのとき、田中長官、時期はまだ決まっていないが、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと述べたうえで次のように語った。
できれば、裁判官全員が一致して適切で現実的な基盤に立って事件に取り組むことが重要だ。最高裁の裁判官の幾人かは手続き上の観点から事件にアプローチしているが、他の裁判官は法律上の観点からみており、また他の裁判官は憲法上の観点から問題を考えていることを示唆した。
 重要なのは、15人の最高裁判事のうち、できるだけ多くの裁判官が憲法問題にかかわって裁定することだと考えているという印象を与えた。
 これはマッカーサー大使が、アメリカの国務長官あての電報に記載されていることなのです。評議の秘密を一方当事者に洩らすなんて、およそ裁判官にあるまじき行為です。古い話だとすませていいことだとはとても思えません。ひどすぎます。
ところで、アメリカ政府が長官と直接接触する機会をどうやってつくったのかまで明らかにされています。ロックフェラー財団が日本の最高裁に法律書を寄贈することにして、最高裁は駐日大使を贈呈式に招待したのです。こうやって表向きの口実をつかって、裏では裁判の内情を知らせ「意見交換」したというわけなのです。涙がこぼれ落ちてくるほど情けない話でもあります。最高裁長官の椅子って、こんなにも軽いものだったんですね、トホホ・・・・。
 次に最高裁長官になった横田喜三郎も同じようなものでした。東大教授だったころは、外国の軍隊を日本に駐留させることは憲法9条に反するとしていたのに、突如としてアメリカ軍の基地は日本にとって戦力となるものではないから合憲だと言いはじめ、そのことがアメリカから高く評価されて最高裁長官になることができた。うへーっ、なんとおぞましいことでしょう・・・。
アメリカ兵が日本国内で刑事犯罪をおかしても、その大半は処罰されません。日本は主権国としての刑罰権を行使しない(できない)のです。ところが、それは1960年代までは必ずそうとばかりは言えませんでした。原則として、当然、日本の主権、統治権下にあり、日本の法令が適用されるということだったのです。それが、次第にアメリカの言いなりなっていくのでした。まさに逆コースですよね。
 今回のオスプレイにしてもそうですね。アメリカ軍の言いなりで、日本政府は何も言わない(言えない)なんて、情けない限りです。これで愛国心教育を国民に押し付けようというのですから、どこか間違っていますよね。
 為政者たる者、愛するに足る国づくりを本気でしてほしいものです。自らの努力を怠っていながら、国民にばかり押しつけるなんて、間違っています。広く読まれてほしい、画期的な本です。
(2012年6月刊。2200円+税)

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米軍基地の歴史

江戸時代

著者   林 博史 、 出版    吉川弘文館 

 日本全国に戦後65年もたつのにアメリカ軍基地があります。首都に外国軍基地がある独立国は日本くらいだというのですが、考えてみれば異常な事態が続いていますね。オスプレイを岩国基地に配備する問題も、日本政府がアメリカの言いなりで、主権がどこにあるのか改めて疑わせました。
 この本はアメリカ軍基地が世界のどこにあり、日本はどんな位置を占めているのかを明らかにしています。私は、フィリピンにならってアメリカ軍基地を一刻も早く日本から追い出し、そこを広大な商業、住宅地として再生すべきと思います。日本の景気回復に役立つのは明らかです。
 世界各地にアメリカ軍は展開しているのが、1万人以上のアメリカ兵がいるのは、ドイツと日本そして、韓国のみ。
アメリカのメア元日本部長は沖縄の人々を「ゆすりとたかりの名人」と中傷したが、思いやり予算をみたら、その言葉は、そっくりアメリカ政府にあてはまる。そうなんですよね。アメリカ軍ほど、日本人の税金によって恩恵をこうむっているものはありません。盗っ人、猛々しいとはメア元部長のことです。
 アメリカは対ソ連との戦争を予想して、そのとき大量の核兵器をつかう計画を立てていた。1949年12月、オフタックルという戦争計画は、292発の核兵器と2万発近くの通常爆弾をソ連に投下するものだった。それを実行する部隊は、アメリカ本土だけでなく、沖縄からも出撃することになっていた。
 イタリアは、今日にいたるまで旗艦1隻を母港として受けいれてはいるが、空母は受けいれていない。日本は空母をふくめて10数隻の艦船を母港として受け入れている。
 アメリカはトルコに核ミサイルを配備し、ソ連はキューバに核ミサイルを配置していた。アメリカは、冷戦期には、アメリカのほか18ヶ国に、海外領土19ヶ所に核兵器を配備していた。沖縄には、17種類の核兵器が1954年から1972年6月まで配備されていた。そして、日本本土には、1954年12月より1965年7月まで配備されていた。
 1960年ころのアジア太平洋地域におけるアメリカ軍の核兵器配備数は沖縄800発、韓国600発、グアム225発、フィリピン60発、台湾12発、合計1700発だった。
 1967年には、沖縄に1300発、韓国900発、グアム600発、その他あわせて3200発が、アジア太平洋に配備されていた。アメリカ軍にとって、沖縄は核の貯蔵と核兵器作戦を沖縄から展開する自由が確保された場所だった。
 沖縄に1000発前後の核兵器があっただなんて、そら恐ろしくて身震いしてしまいます。その廃棄処分はちゃんとやられたのでしょうか・・・?
アメリカは独裁国家ではなく、自由と民主主義を建前とする国だ。だから、野党がアメリカ軍基地の全面撤去あるいは縮小を公的に揚げて選挙で勝利して政権についたとき、その新政権の要求をまったく拒否することはできない。
 日本保安条約だって、一方的に破棄通告すれば1年後には失効するのです。日本は冷戦の克服に真剣に取り組もうとせず、むしろ冷戦を利用してみずからの戦争責任・植民地責任を棚上げして、経済成長を遂げるなど、自国の利益しか考えてこなかった。
 日本人として耳の痛い指摘もありますが、世界中にあるアメリカ運基地のため、武力紛争が多発しているのも現実ですよね。一刻も早くアメリカ軍基地を日本からすべて撤退させるべきでしょう。
(2012年5月刊。1700円+税)

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2012年8月29日

続・悩む力

人間

著者   姜 尚中 、 出版   集英社新書  

 『悩む力』は、最新の広告によると100万部も売れたそうです。すごいベストセラーになりました。どうぞ、10月4日(木)午後の佐賀市民会館での姜教授の話を聞きにきてください。「教育の原点をとりもどすために」という内容です。お願いします。
 3.11のあとの日本社会をともに考えようという呼びかけもなされています。
 人間はなぜ生きるのか。生きる意味はどこにあるのか。何が幸福なのか。この問いをギリギリまで問い続け、答えを見出そうとした先駆的な巨人がいる。夏目漱石とマックス・ウェーバーである。漱石やウェーバーが重要なのは、東西でほぼ同時代を生きた2人の巨人が既に100年以上も前に、慧眼にも「幸福の方程式」の限界について、ほかの誰よりも鋭く見抜いていたことにある。
 いまの私たちの日常世界を圧倒的に支配しているのは、幸福の弁神論である。つまり、自由競争のルールに従って優勝劣敗が生じることは当然であり、強者、適者が栄え、弱者、不適応者が滅びることには一定の正当性があるという考え方である。
 そのためか、自殺した人が亡くなるときには、「すみません」という言葉を残して生命を絶つことが多い・・・・・。
近代までは、自然や神といった、実態を反映していると考えられた秩序に慣習的に従っていれば、よくも悪くも人生をまっとうできていた。ところが、近代以降の人々は、自分は何ものなのかとか、自分は何のために生きているのか、といった自我にかかわることを、いちいち自分で考えて、意味づけしていかなければならなくなった。
 しかも、一人ひとりがブツブツと切り離されていて、つながりがなく、共通の理解もない状態なのだから、お互いに何を考えているのか分からない。そのため、それぞれ内面的には妄想肥大となり、対人的には疑心暗鬼となり、神経をすり減らしていくことになる。
 近代文明のなかで個人主義が進行し、人々の孤独が強まり、また自意識がどんどん肥大していくからこそ、逆説的に、宗教は昔よりも自覚的に、かつ熱烈に求められるようになった。
 ホモ・パティエンス(悩む人)である人間は生きている限り悩まずにはおれない。そのほうが人間性の位階において、より高い存在なのだ。
 『吾輩は猫である』のなかに次のような記述がある。気狂いも、孤立しているあいだは、どこまでも気狂いにされてしまう。しかし、団体になって、勢力が出てくると、健全な人間になってしまうかもしれない。大きな気ちがいが金力や威力を濫用して多くの小気ちがいを使って乱暴を働いて、人から立派な男だと言われ続けている例は少なくない。
 100万人のうつ病患者と、年間3万人をこえる自殺者がいて、10人に1人は仕事の状況で、しかもやがて訪れるという年金だけの生活におののきつつ、自分はどう生きていくかという、切羽詰まった自分探しをしている。
 そして、「ホンモノを探せ」と叫び、私たちをあおっているのは、ほかならぬ資本主義なのである。ホンモノ探し、自分らしくありたいという願いが、自分に忠実であろうとする近代的な自我の一つの「徳性」を示しているとしても、それが時には、ナルシズムや神経症的な病気をつくり出しかねないことにもっと注意を払うべきである。
漱石やウェーバーなどの生き方にあやかる意味でも、あの3.11の経験を、どうしても「二度生まれ」の機会にしなければならないと思う。ところが、マスコミの動向は、忘れることの得意な日本人たちは、早々と3.11を忘れ去ろうとしている。
 日本人は、世界のなかでことさら宗教心の乏しい国民というわけでもない。それは、鎌倉時代のころ、12ないし13世紀に登場した、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍といった人々が次々にあらわれ、宗教改革を起こしたことからも分かる。ただ、戦前そして戦中に、政治的エネルギーを一種の宗教のように進行した結果、手痛い敗北をきっしたトラウマはとても大きかった。そのため、政治と宗教については、色をもたないほうがよいという教訓が導かれた。そして、ひいては何事に対しても、無逸透明であることが習い性のようになってしまった。
過去をもっと大切にしよう。いまを大切に生きて、よい過去をつくることだ。幸福というのは、それに答え終わったときの結果にすぎない。幸福は人生の目的ではないし、目的として求めることもできない。よい未来を求めていくというよりも、よい過去を積み重ねていく気持ちで生きていくこと。
恐れる必要もなく、ひるむ必要もなく、ありのままの身の丈でよいということ。いよいよ人生が終焉する1秒前まで、よい人生に転じる可能性がある。何もつくり出さなくても、今そこにいるだけで、あなたは十分あなたらしい。だから、くたくたになるまで自分を探す必要なんてない。心が命じるままに淡々と積み重ねてやっていれば、あとで振り返ったときには、おのずと十分に幸福な人生が達成されているはずだ。
 漱石とウェーバーをこれほど深く読み込むとは、さすがに大学の先生は違いますね。正編が100万部売れたとして、続編のこの本も何万冊と売れるのでしょうね。それはともかくとして、10月4日午後は、ぜひ佐賀市民会館に足を運んでくださいね。私も姜教授のナマの話を楽しみにしています。
(2012年6月刊。740円+税)

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2012年8月28日

それをお金で買いますか

アメリカ

著者   マイケル・サンデル 、 出版    早川書房 

 価値あるものがすべて売買の対象になるとすれば、お金を持っていることが世界におけるあらゆる違いを生みだすことになる。これが、この数十年間が、貧困家族や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由である。
 貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなった。市場には腐敗を招く傾向がある。
かつては非市場的規範にしたがっていた生活の領域へ、お金と市場がどんどん入り込んできている。たとえば、行列に入りこむ権利だって、お金で買える。ええーっ、行列に割り込む権利をお金で買うですって・・・。ほら、飛行機に乗るとき、ファーストクラスだと優先搭乗できるようなものですよね。
 罰金と料金の違いは何か?罰金は道徳的な非難を表しているのに対し、料金は道徳的な判断を一切ふくんでいない。スピード違反の罰金に収入に応じて上がるシステムをとっている国がある。フィンランドがそうだ。時速40キロの超過の罰金が21万ドル(2100万円)だった金持ちがいる。うひゃあ、すごいですね。
 イスラエルの保育所で実験があった。子どものむかえに遅刻した親から罰金をとることにしたら、遅刻する親は減るどころか、かえって増えてしまった。遅刻の発生率は2倍にもなった。親たちは、罰金をみずから支払う料金とみなしたのだ。お金を払うことで迎えの時間に遅れないという道徳的義務がいったんはずれると、かつての責任感を回復させるのは難しくなった。うむむ、難しいところですよね、これって・・・。
 従業員保険というものがある(これは日本にもあります)。会社が従業員の同意をとらずに(今では同意が必要だと思います)生命保険をかけていて、従業員が死亡すると、その遺族ではなく、会社に死亡保険金が入るというものです。そのとき、遺族には会社規定のわずかな見舞金が交付されます。会社は死亡保険金の一部を遺族に渡すのです。
 この従業員保険は、今ではアメリカの生命保険の全契約高の3割近くを占めている。アメリカの銀行だけで、1220億ドルもの生命保険となった(2008年)。このように、生命保険は、今や遺族のためのセーフティーネットから企業財務の戦略に変質している。つまり、従業員は生きているより、かえって死んだほうが会社にとって価値があることになる。そんな条件をつくり出すのは、従業員をモノとみなすことだ。会社にとって価値が、労働する人々としてではなく、商品先物取引の対象として扱っている。かつては家族にとっての安心の源だったものが、今や企業にとっての節税策になっている。うへーっ、これって許されることでしょうか・・・?
 お金をもらってタバコをすうのを止めようとした人の9割以上が、そのインセンティブがなくなった6ヵ月後にはタバコをすい始めた。金銭的インセンティブでは、一般に長期的な習慣や行動を変えることなく、特定のイベントに参加させることにのみ効果を発揮する。人々にお金を払って健全でいてもらおうとしても、裏目に出る可能性がある。健康を保つ価値観を養えないからだ。
なーるほど、なるほど、さすがは名高いハーバードの教授の話ではありました。
(2012年5月刊。2095円+税)

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2012年8月27日

なぜ男は女より多く産まれるのか

人間

著者    吉村 仁 、 出版    ちくまプリマー新書 

 アメリカには、13年とか15年に一度、セミが大量発生する地域があります。どうして、そんなことが起きるのか?
 セミの幼虫は、木の根っこから葉っぱに水を運ぶ導管というパイプに口を突っ込み、本の根が吸い上げた水を分けてもらって、その吸い上げ量に比例して成長する。植物はある程度以下の気温になると休眠するので、冬に木の根が休んでいるあいだはセミも冬眠する。そして、春になって木が水を吸い上げ出すと、セミたちもその水分をもらう。温度が高くなると、それに比例して水分の吸い上げ量が増加する。セミの成長は、植物の水分を吸い上げ量に比例している。だから、気温が高くなると、セミの幼虫の成長がどんどん早くなり、アブラゼミなら成虫まで7年かかるのが、2年とか3年に短縮してしまう。
 氷河期になって気温がどんどん下がってしまった。成長できない冬が長く、短い夏もあまり暖かくないので、5年で成虫になっていたセミが10年たってもまだ成虫になれなくなった。
 そして、13年とか17年という素数周期は絶滅の出会いをうまく避けていた。このように、変動する環境への対応の本質は、「絶滅の回避」なのである。
モンシロチョウの雌はキャベツ畑で卵を生み付けると、近くにあるアブラナ科の野草にも卵を生みつける。なぜか?
 キャベツ畑は効率はよいが、モンシロチョウにとっては、殺虫剤散布の危険、そして人間が収穫して絶滅してしまうリスクがある。そこで。絶滅のリスクを分散させるため、野生のイヌガラシにも卵を生み付ける。
 なーるほど、モンシロチョウの絶滅回避作戦って、すごいですね。
人間の性比は、男子がわずかに多く、55対45の比になっている。これは日本だけでなく、多くの社会で共通の普遍的な現象である。そして、幼児に限らず、あらゆる年代で男子の死亡率は高く、寿命やがんの死亡率にも、その違いが反映されている。
オスがメスに比べて死にやすいということは、人間だけでなく、広く動物にみられる現象である。なぜなら、オスは種付けで役割が終わるが、メスは出産・子育てと長生きが必要だからである。
 つまり、男子の死亡率が高いときには、いくらか男子を余計に生むと、全員が女性となって絶滅してしまう可能性(確率)を最小にできる。
 人間がモンシロチョウほどは賢くないのではないかという指摘もあり、なるほど、そうかもしれないと思わされたことでした。面白い本です。
(2012年4月刊。780円+税)

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2012年8月26日

リハビリの夜

人間

著者   熊谷 晋一郎 、 出版    医学書院 

 出産のときの酸欠から脳性マヒとなり、手足が不自由のなったにもかかわらず、ナントあの超難関の東大理Ⅲに入学し、東大医学部を無事に卒業して、今では小児科医としてフツーに働いている著者が書いた本です。
 すごいね、すごいなと思いつつ読みすすめました。自己分析力が、すごいのです。感嘆してしまいました。
 図解もされているのでたいへんわかりやすいのですが、意思という主観的な体験に先行して、脳の中ではすでに無意識のうちに運動プログラムが進行している。自らの意志は、実は無意識のかなたで事前につくられており、それが意識へと転送される。著者は発声器官の障害がないため、言葉でのやりとりには大きな支障がない。ところが、首から下の筋肉が常に緊張状態にある。
 いったん目標をもった運動を始めようとすると、とたんに背中から肩、腕に至るまでが、かちっと一体化してこわばる。背中から腰、足にいたるまでも同時に硬くなっている。つまり、身体が過剰な身体内協応構造をもっている。
 パソコンをうつにしても全身全霊で打つ。手首、ひじ、指の関節などの末端にある部分だけが動くということはない。ところが、夢のなかでは自由に歩いたり走ったりしている。風を切って走っているときの身体の躍動や弾むような爽快な気分も夢の中では味わっている。
 著者は大学に入った18歳のときに一人暮らしを始めた。トイレに行くのも、着替えをするのも、風呂に入るのも、車いすに乗るのも、みんな自分ひとりでできないのに・・・。
 いつか、これを始めなければ、両親亡きあと、生きていかれないのではないかという不安からだった。すごいことですよね。これって。
まずはひとりでトイレに行くことから始まりました。そして、物の見事に失敗したのです。でも、そこでくじけなかったのですね。えらいです。さすが、ですね。トイレは改装してもらいました。さらに電動車いすによって外出が自由にできるようになったのです。
電動車いすという身体を手にすることによって、地を這っていたときには触れることもできなかった本棚や、冷蔵庫や、自動販売機にも手が届くようになった。電動車いすは、つながれる世界を二次元から三次元へぐんと広げてくれた。
 今では、車いすから降りたとたんそれまで近くにあったモノが急に遠くへ離れていってしまうような感覚がある。
人間は、他の多くの生き物と違って、外界に対して不適応な状態で生まれ落ちる。この不適応期間があるからこそ、人間は世界との関係のとり結び方や動きのレパートリーを多様に分化させることができた。無力さや不適応こそが、人間の最大の強みでもあるのだ。
この本では、脳性マヒによって身体が思うように動かないということの意味が図解され、同時に人間をふくめた外界との関わり方が考察されています。そして、トイレ・トレーニングというか、不意の便意への具体的な対処法まで紹介されています。
 リハビリ、トレーニングの意義についてもたいへん勉強になりました。世の中には、これほどの身体的ハンディにも屈せずにがんばっている人がいるのですね。私も、もう少しがんばろうと思いました。
(2010年10月刊。2000円+税)

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2012年8月25日

教育の豊かさ、学校のチカラ

社会

著者   瀬川 正仁 、 出版    岩波書店 

 橋下「教育改革」は、要するにエリート教育を重視しようというものです。グローバル化社会に勝ち抜く人材を養成しようというのですが、早くから差別と選別を教育分野に取り入れていいことは何ひとつないと私は思います。
 文部省の「日の丸」・「君が代」による教員統制は、子どもの学力を全体として伸ばそうというものではなく、国家にとって必要な人材を確保するために、教師を画一化し、強力に有無を言わさず統制しようとするものです。
 でも、現実の子どもたちは大半がそんなエリート養成教育からはみ出しています。そして、そのはみ出した子どもたちと格闘している教師集団がこの本で紹介されています。
 まずは静岡県の南伊豆町にある「健康学園」です。ここは、東京都中央区立の上東小学校の分校です。全校児童31名が、寮生活をしながら学んでいる。生徒は中央区に住民票のある小学3年生から6年生まで。教員は6名。ここでは心身の健康の回復を第一にしているため、学力を身につけることは期待されていない。だから、授業は伸び伸びした学びの場になっている。好奇心旺盛な小学生時代に、生きた知識や興味をどのように伝えるかに苦心がある。
 教師は一人ひとりに目配りできるし、しないわけにはいかない。
寮にテレビは一台のみ。そして、1時間だけ。テレビゲームもなし。公衆電話はなく、ケータイは禁止。だから手紙を書くしかない。寮生活を支えるのは、保育士の資格をもつ16人というスタッフ。中には発達障害児もいる。そして、この学園で自己肯定感を育てて子どもたちは伸びていく。
児童自立支援施設、そして海外にある日本人学校の様子も紹介されています。世界各地にある日本学校は88校。
 福島県三春町の学校も登場します。3.11の前のことです。
 沖縄には70代生徒の通う夜間中学校があります。そう言えば、山田洋次監督の映画『学校』は東京の夜間中学を舞台とする感動的な映画でしたね。
 さらに、長野県松本市にある刑務所のなかの中学校(桐分校)の今も紹介されています。いまでは、在日中国人が生徒の大半を占めるというのです。また、中学校を出ていても学力のないものを聴講生として受け入れているとのこと。世相の移り変わりを知りました。
『世界』で連載されていたものが本になりました。エリート偏重教育では決して日本は良くならないということを痛感させられる本でもありました。
(2012年7月刊。1700円+税)

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2012年8月24日

日本近現代史のなかの救援運動

司法

著者   山田 善二郎 、 出版    学習の友社 

 交通事故のひき逃げを疑われている人から相談を受けて、警察をそんなに信用しすぎてはいけません、ときに罪なき人を警察官は有罪にしてしまうことだってあるのですからねと助言することがあります。すると、警察官がひどいことをするなんて、今の今まで思ってもみませんでしたという反応がかえってきます。警察は正義を実現するところ、悪い人を捕まえるところという思い込みをほとんどの市民が思っています。私だって、弁護士になる前は、もちろん、そう思っていました。でも、弁護士になってからは、警察はときとしてとんでもない間違いをおかし、そのことに気がついても容易に誤りを認めようとしない鉄面皮のところがあると考えています。
 ですから、ぬれぎぬ(冤罪)で泣く人が生まれます。そのときに役立つのが国民救援会です。私も、救援会には少しだけ関わっています。この本は救援会の会長をつとめた著者が戦後日本の救援運動が果たしてきた役割をざっと紹介してくれるものです。著者自身が戦後まもなくの冤罪事件で、「犯人」の逃亡を手助けしてアメリカ軍からにらまれたという体験の持ち主です。そして、その事件のあとは、ずっと救援運動に関わってきました。
 最近有名なのは、布川(ふかわ)事件、そして、その前の足利事件です。いずれも再審で無罪となりました。それに至るまでの苦労がなんと長く困難だったことか・・・。救援会が無罪を獲得するのに大きく下支えをしました。
 それはともかく、2001年にパソコンから流出した愛媛県警察本部の被疑者取り調べ要領の一部を次に紹介します。
○粘りと執念をもって「絶対に落とす」という気迫が必要。調べ官の「絶対に落とす」という、自信と執念にみちた気迫が必要である。
○ 調べ室に入ったら、自供させるまで出るな。
被疑者の言うことが正しいのではないかという疑問を持ったり、調べが行き詰まったりすると逃げ出したくなるが、そのときに調べ室から出たら負け。お互いに苦しいのだから、逃げたら絶対ダメ。
○ 取り調べ中は被疑者から目を離すな。取り調べは被疑者の目を見て調べよ。絶対に目をそらすな。相手を呑んでかかれ。呑まれたら負け。
○ 被疑者はできる限り取調室に出せ。自供しないからといって留置場から出さなかったら、よけい話さない。
どんな被疑者でも、話をしているうちに読めてくるし、被疑者も打ちとけてくるので、できる限り多く接すること。否認被疑者は、朝から晩まで取調室に出して調べよ。

戦前、13歳の少女が、与謝野晶子の『みだれ髪』(歌集)を買って寄宿舎に置いていたところ、特高警察に知られて拷問されたというケースが紹介されています。その少女は、拷問されたあと帰されて寄宿舎の寮長に「茶わんいじほうって何のこと?」と尋ねたそうです。治安維持法という悪法も知らない13歳の少女を拷問していたぶった特高警察の非道さに思わず涙が抑えきれませんでした。
 また、戦後の一大謀略事件として有名な松川事件の起きた直後、「米日反動の陰謀だ」とか言葉だけ激烈に訴えても、誰の心にも動かさなかった。そうではなくて、具体的な事実と、率直な心情を自分自身の言葉で語りはじめたとき、広津和郎をはじめとする世間の人々の心に訴えが届いた。
 これは、今に生かされるべき教訓ですよね。
 日本民主主義がどの程度根づいていると言えるのか、この救援運動の歴史を知らずして語ることはできないと私は確信しています。
(2012年6月刊。1429円+税)

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2012年8月23日

それでも、読書をやめない理由

アメリカ

著者   デヴィット・L・ユーリン 、 出版    柏書房 

 1946年2月、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングはニュルンベルグ裁判のときに裁判官に向かってこう言った。
 もちろん、民衆は戦争など望んではいない。しかし、政治的な判断を下すのは、結局のところ国の幹部であり、国民を引きずりこむのはどんな国でも造作のないことだ。民主主義政権であれ、ファシズムの独裁政権であれ、議会統治であれ、共産主義独裁政権であれ、やり方に変わりはない。国が攻撃を受けそうだと国民に告げ、平和主義者を非国民呼ばわりして国を危険にさらすものだと非難する。これだけでいい。これは、どんな国でも効き目がある。
 なーるほど、今の日本でも通用している手法ですね。尖閣諸島を守れ、北方領土を守れ、北朝鮮のテポドンが脅威だと言いつのるマスコミには、本当にうんざりしています。
本を読むとき、初読と再読の違いは、次のようなもの。初読は疾走、再読は深化。初読は世界を閉め出して集中し、再読はストーリーを熟考する。初読は甘く、再読は苦い。しかし、再読のすばらしい点は、初読をふくんでいることである。
うむむ、そうも言ええるのでしょうね・・・。
読書には、余裕が必要だ。読書は、瞬間を身上とする生き方から私たちを引き戻し、私たちに本来的な時間を返してくれる。今という時の中だけで本を読むことはできない。本は、いくつもの時間の中に存在する。まず、私たちが本と向きあう直接的な時間経験がある。そして、物語が進行する時間がある。登場人物や作家にも、それぞれの人生の時間が進行している。誰しもが、時間との独自の関係を背負っている。
 本に集中することで、私たちは知らずしらずに内面生活という領域へ戻っていけるのだ。有史以来、今日ほど人の脳が多くの情報を処理しなければならない時代はなかった。現代人は、あらゆる方角から飛び込んでいる情報処理に忙しく、考えたり感じたりする習性を失いつつある。現代人が触れる情報の多くは表面的なものばかりだ。人々は深い思考や感情を犠牲にしており、次第に孤立して他者とのつながりを失いつつある。
 人と人との心の内面に結びつくようなふれあいは、たしかに少なくなっていますよね。
読書とは没頭すること。読書は、もっとも深いレベルで私たちを結びつける。それは、早く終わらせるものではなく、時間をかけるものだ。それこそが読書の美しさであり、難しさでもある。なぜなら、一瞬のうちの情報が手に入るこの文化の中で、読書するには、自分のペースで進むことが求められるからだ。
読書の最中には、私たちは辛抱強くならざるを得ない。一つひとつのことを読むたびに受け入れ、物語るに身をゆだねるのだ。
さらに私たちは気づかされる。この瞬間を、この場面を、この行を、ていねいに味わうことが重要なのだと。
世界からほんの少し離れ、その騒音や混乱から一歩退いて見ることによって私たちは世界そのものを取り戻し、他者の精神にうつる自分の姿を発見する。そのとき、私たちは、より広い対話に加わっている、その対話によって自分自身を超越し、より大きな自分を得るのだ。
 インターネットが万能であるかのような現代でも、活字による書物を読むことの意義はとても大きいと主張する本です。スマホに無縁な私にとって、共鳴するところの多い本でした。
(2012年3月刊。1600円+税)

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2012年8月22日

薬害肝炎・裁判史

司法

著者    薬害肝炎全国弁護団 、 出版   日本評論社  

 薬害肝炎に取り組んだ福岡の弁護師団から贈呈されました。560頁もの分厚い本ですし、私自身が関わった裁判ではないので、少しばかり気が重たかったのですが(なにしろ手にとると、ずしりと重くて、とてもカバンに入れて持ち運びながら読む気にはなれません)、せめて、弁護団の苦労話を語った座談会だけでも読んでみようと思ったのです。ですから、この本を通読したわけではありません。でも、私が読んでも大変勉強になるところが多々ありました。
 弁護士、とりわけ若手弁護士のモチベーションをいかに高めるか。これには、事件に対するモチベーションの問題と組織の中で働くことのモチベーションを高めることの2つがある。新人弁護士だからといって、事務的な雑用だけをやらせるのではなく、責任のある仕事をできる限り頼んで、その責任ある仕事が成果として見える、そんな仕事を若手弁護士にどう割り振るかに苦心した。
 弁護士としては、訴訟活動を抜きにして、モチベーションを維持するのは難しい。また、地元の被害者の救済があるので、地元提訴は有効だ。これが、東京・大阪の訴訟の応援だけだと難しい。5地裁で提訴したのは、非常に有効だった。
 大型集団訴訟は、特許事件のように、東京と大阪だけに絞り込むべきではないかという極端な意見もあるが、全国に被害者が散在している事件では、それはありえない。
 東京地裁だと扉が大きく開かれないが、関門海峡を越えると治外法権になるとか、法が違うとか、いろいろ言われるように、驚きの連続だった。
 福岡では扉が広く、原告弁護団側から裁判所にどんどん働きかけができて、争点を設定して訴訟進行の主導権をとっていけた。
 先発組がぽろぽろと負けたあとで、後発組がきちんとした戦略を立ててやっても、その問題について既に負け判決が出ているなかで勝っていくのはものすごく困難だ。
 新しい集団訴訟で勝つというのは、理屈だけではできない。被害をきちんと伝えて、「原告を勝たせなければ」と裁判官に思わせるには、多様な力がいる。言いたいことを言い、証拠さえ出せば勝ち判決がころがり込んでくるという甘い見通しではダメ。この裁判官に、勝判決を絶対に書かせる、そのための戦略と力量と意欲が必要。
 目標は、社会における誤った政策を変えること。そのための手段として裁判を使う。負けては何にもならない。たくさん裁判があればよいというのは、50年前の発想。
東京では22人の原告全員の本人尋問はできなかった。しかし、東京以外は、原告全員について本人尋問した。九州は18人、大阪は13人、名護屋は9人、仙台は6人だった。
被告となった国は、関門海峡を越えた福岡では勝てそうにない。大阪もどうも風向きが怪しい。そこで、東京に集中して、東京で勝とうという戦略を、途中からとったと思われる。
 国は、各地の弁護団の弱い分野を意識して証拠を立てた可能性がある。九州は有効性が強くて、重篤性がいくらか弱い。そこで、国は重篤性についての証人を九州で申請した。
5地裁に提訴すると、同一争点に関する証人尋問を5回も行うことになりかねない。そこで、争点一つにつき、原被告とも証人1人を選抜し、それを各地で分散しながら立証していく計画を立てた。
 また、中間的に提出した統一準備書面はすごく効率があった。
 集団訴訟の勝訴判決は、被害の重大性を直視した裁判官によって、ある程度の飛躍がないと書けない。
 薬害肝炎については2002年10月に東京・大阪で提訴してから、2007年12月の政治判決まで5年かかった。しかし、5地裁判決がそろってからは、わずか4ヵ月で解決した。しかも、東京地裁判決直後の官邸入りから9ヵ月で解決したのは、かなりハイスピードの解決だった。
大阪地裁のときも福岡地裁のときも、判決が出た時点で国会は閉会中だった。つまり、司法判断をテコにして政治問題化していくときの、その舞台が用意されていなかった。
 裁判所は、大規模訴訟については4年以内でおさめる、裁判迅速化法も受けて4年内に解決するために計画審理をする方針をとっている。しかし、薬害肝炎のような薬害訴訟を2年で終わらせようとすると、弊害のほうが大きくなる危険がある。
5地裁のどの裁判長も、自ら指揮をとってこの問題を和解で解決しようというそぶりがまったく見られなかった。だから、わざわざ裁判所に、判決の前に和解勧告してほしいと言いに行く動機がもてなかった。
薬害肝炎訴訟において、仙台地裁では国が勝ったけれど、これは使えない勝訴判決だった。最悪の勝ち方をしてしまった。
 国はいくつ負けても、一つ勝てば責任を否定して解決を遅らせるので原告はすべて勝たなければならないという教訓があるのも事実だ。
 原告になった人は、匿名から実名になったときに、自分の問題としてやっていかざるをえない立場に立たされ、どんどん成長していった。
 新しい課題は、いつも若手、新人弁護士が切り開いていくものだ。裁判戦略は法的責任を明確にすること。訴訟の重要性を改めて認識することだ。
 被害に始まり、被害に終わる。弁護団は国民に共感を広げ、裁判所に共感を広げ、政治の舞台に共感を広げていく。その共感が広がれば、その先に勝利は約束される。逆を言うと、苦しいときには共感が広がっていないということ。薬害肝炎でも、試行錯誤しながら結果的に勝てた。
 なかなか味わい深い統括の言葉だと受けとめました。
 福岡の八尋光秀、浦田秀徳、古賀克重弁護士が、裁判でも本のなかでも大活躍していて、うれしくもあり心強い限りでした。
(2012年1月刊。4000円+税)

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2012年8月21日

未完のファシズム

日本史

著者   片山 杜秀 、 出版    新潮選書 

 第一次世界大戦そして戦前の日本について鋭い分析がなされていて驚嘆してしまいました。まだ40歳代の思想史を専門とする学者の本です。さすがは学者ですね。着眼点が違います。
 第一次世界大戦で、日本は中国の青島(チンタオ)にあるドイツ軍の要塞を攻略します。そのあとのドイツ軍捕虜が日本各地に収容所で暮らし、伸びのびと生活していたことは有名です。
 1914年、第一次世界大戦が勃発した。日本軍は9月より中国・青島のドイツ軍要塞の攻撃をはじめる。総攻撃開始は10月31日。ドイツ軍が白旗をあげたのは11月7日。1週間で陥落したことになる。
 日露戦争の旅順戦の経験から、歩兵を突撃させても堅固な要塞の前では屍の山を築くだけ。やはり、移動の容易な大口径砲、遠戦砲、破撃砲で、遠くから撃ちまくることにこしたことはない。45式24センチ榴弾砲は1912年に新採用されたばかりの大砲。28センチ砲は、24センチ砲より大口径だが、移動させるのに苦労するという難があった。
 青島は、日露戦争後の日本陸軍近代化のほどを試すための恰好の実験場となった。歩兵突撃の時代は既に終わった。
実は、この青島攻撃戦には久留米から師団が派遣されて大活躍したのでした。私の母の縁者が英雄として、登場してくるので少し調べたことがあります。私の母の異母姉の夫は中村次喜蔵という軍人でした。青島要塞攻略戦で名をあげ、なんと皇居で天皇に対して御前講義までしたのです。のちに師団長(中将)にまでなりましたが、終戦直後に自決(ピストル自殺)しています。偕行社(戦前からある由緒正しい将校の親睦団体です)に問い合わせると、その状況報告書が残っているとのことでコピーを送ってもらいました。そして、その報告書には地図までついていました。
 この中村次喜蔵は、陸軍大将・秋山好古の副官にもなっています。その足どりを調べているうちに、『坂の上の雲』が急に身近なものに感じられました。
青島戦は、何よりも火力戦だった。榴弾砲よりも一般に砲身が細くて長い、射程も伸びる大砲をカノン砲と呼ぶ。山砲とは、バラして人や馬で運べる大砲のこと。山にも担いでいって、頂上からでも撃てる。だから山砲だ。
 ドイツ軍の青島総督は、敗戦後、日本軍の長所は、大砲の射撃と斥候の明敏と塹壕つくりの巧妙なるにありと語った。
日露戦争のときの日本軍は、当時の工業生産力や資金力では、ロシアの大軍そして旅順の要塞を相手に撃ちまくれなかった。だから、人命軽視といわれても仕方のない、やみくもな突撃に頼った。ところが、1914年の青島では鉄の弾が足りた。
この青島戦役で、日本は新しい戦争をした。近代戦は物量戦でしかあり得ないことを大々的に世界に証明してみせた。世界大戦は物量戦で、総力戦で、長期戦で、科学戦なのだ。
 ところが、日本軍は、その後、兵隊や兵器や弾薬が足りなくてあたりまえ、それでも戦うのが日本陸軍の基本だと完全に開き直ってしまった。
 玉砕できる軍隊をつくること自体が作戦だった。玉砕する軍隊こそが「もたざる国」の必勝兵器だった。玉砕できる軍隊を使って、実際に玉砕を繰り返してみせれば、勝ちにつながる。つまり、玉砕は、作戦指導部の無策の結果、兵を見殺しにすることではなく、勝利のための積極的な方策なのだ。
うへーっ、とんでもないことを真面目な顔をして言うのですよね。おお、クワバラ、クワバラという感じです。助けてくださいよ。これでは誰のために戦争するか分からないですね。兵隊を見殺しにして、権力者だけはぬくぬくと助かるということなのでしょうが・・・。
(2012年3月刊。2800円+税)

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2012年8月20日

地球全史

宇宙

著者   白尾 元理・清川 昌一 、 出版   岩波書店

 宇宙の中から地球が形づくられ、そこに生物が誕生していくさまが、地球上のさまざまな地点の写真と共に描き出されています。やはり写真の迫力にはすごいものがあります。
 46億年前。地球は、無数の微惑星が衝突・集合して形成された。初期の微惑星は、直径10キロメートルほどの小惑星や彗星のような天体だったと推測される。
 月には直径500キロメートルもの巨大なクレーターが数多く残っているが、これは、40~38億年前の激しい衝突の時期にできたもの。月にはプレート運動がなく、水や大気もないので、遠い過去の記憶が残っている。
7億年前、地球全体が厚い氷に覆われていた。地球表面の全部が凍りつき、宇宙からは雪玉(スノーボール)のように見えた。
 このスノーボールから地球を救ったのは、火山が供給した二酸化炭素。
 5億年前、スノーボール・アースが終わった直後、エディアカラ動物群が出現した。カナダのニューファンドランド島には、たくさんの化石が認められている。
5億年前、三葉虫とアノマロカリスが出現し、その化石がニューファンドランド島に見られる。
4億年前のサンゴ化石がバルト海のゴトランド島に見つかる。
 3億年前。アイルランド島に両生類の足跡化石が残っている。
1億5000万年前。アンモナイトの化石の壁がフランス・アルプスにある。
 同じく、ドイツ・バイエルン州には始祖鳥の化石が見つかった。さらに、アメリカ・ユタ州には恐竜化石が大量に発見されている。
4000万年前。エジプトにクジラの祖先の化石が見つかっている。クジラの祖先は、5000万年前のオオカミに似た哺乳類、パキケトゥスである。
 200万年前。アフリカ・タンザニア北部のオルドバイ峡谷から原人ホモ・アビリスを発見した。
いま、地球上には70億の人類が住んでいる。この総重量は330兆グラム。これに対して牛が650兆グラム、豚が170兆グラム、羊が120兆グラム、馬が20兆グラムで、人類と家畜を合計すると1350兆グラムである。
 これに対して、陸上の野生動物の合計総重量は150~300兆グラムで、人類と家畜合計の5分の1にすぎない。
 すごくスケールの大きい写真集でした。
(2012年4月刊。4400円+税)

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2012年8月19日

遣隋使がみた風景

日本史(古代史)

著者   気賀澤 保規 、 出版   八木書店

 中国の隋王朝は、唐朝300年にとどまらず、後世にまで計りしれない影響を支えた、中国史上の大きな節目に位置づけられる。隋は、法令と仏教という日本の柱を通じて、初めて東アジア世界に共通する足場を築き、その中心に立つことになった。
 隋王朝では、万事締まり屋の文帝に対し、その後の煬帝(ようだい)は派手好きで権勢欲に燃えた皇帝だった。14年間の治世において、父の残した蓄えを使い尽くし、全土に広がった反隋の嵐の中で没した。
 煬帝に暴君の汚名を着せた第一の要因は、その即位以来、休むことをしらない大規模土木事業によって、民衆を疲弊の底に落としたこと。洛陽をつくり、大運河をつくった。洛陽には、在位中、3分の1ほどしかなかった。そして、3回にわたって、高句麗遠征が強行された。
 煬帝は兄を押しのけて権力の座についたが、煬帝の行動に無駄なものはなく、着実に一つの方向に向かって歩を進めていることが明らかである。統一帝国の隋を強化し、南北を一体化させ、次いで周辺諸国を従えた東アジアの盟主となる道である。
 倭国は、隋末の動乱が激しさを増している、まさにその時期に遣隋使を出した。倭国は、高句麗や反済などを通じて、隋の国内の動きや高句麗遠征の結末、煬帝の置かれた立場などを把握する努力をしていたと思われる。
 隋に渡った官人である小野妹子の位階である大礼は冠位十二階のなかの第五位であり、それほど高くはない。しかし、晩年は大徳の地位にあり、冠位十二階の最高位となった。
 日出処と日没処について、従来の有力な学説は日出処は日没処に優越すると解釈していたが、それは成立しがたいことが明らかになった。要するに日出処は東方、日没処は西方というだけなのである。方角の違いで価値判断が動くわけはなく、むしろ問題になったのは「天子」という言葉。国書に「菩薩天子」と書かれているが、これは当時の皇帝である煬帝ではなく、先代の文帝をさす。
朝鮮半島から渡来した僧侶が政治的に重用されるのは、推古朝で珍しいことではなかった。
 当時の中国王朝の認識は、倭国とは遠い海の彼方から文明の恩恵を求めてやって来た未開の小国というものだった。
 7世紀の奈良時代、箸(はし)が一般的に使われはじめていた。まださじは使っていなかった可能性がある。地方では、ほとんどの食事は手づかみだったろう。
このころ(8世紀末)、日本の人口は600万人もいなかった。したがって、遣隋使の時代である7世紀前半は400万人より少なく、2~300万人だったろう。
 6世紀末の日本では、文字文明の進んだ朝鮮半島からやってきた渡来系の人々だった。文字を使いこなすのは、6世紀末の日本では、まだ一般化していなかった。
 倭からみた遣隋使の派遣回数は4回、隋からみて3回ということになる。
遣隋使のころの日本と中国、そして朝鮮半島の状況を知ることのできる本でした。440頁もある骨のある大作です。
(2012年2月刊。3800円+税)

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2012年8月18日

人生と運命(2)(3)

ロシア

著者   ワシーリー・グロスマン、 出版    みすず書房 

 スターリングラード。予備の兵力からやってきた部隊をよく考えずに先を急いでいきなり戦闘に投入したことを隠すために、部隊のほとんど無駄ともいえる死を隠すべく、士官は上層部にお定まりの報告を送った。
 「到着後、直ちに投入された予備の部隊の戦闘行動は、敵の進撃をしばし食い止め、本官に託された部隊の再編を実行可能にした」
 1937年.スターリンの粛清が続いている。前の晩に逮捕された人々の名前がほとんど毎日のように取りざたされていた。
 「今日、夜にアンナ・アントレーエヴナのご主人が病気になって・・・」
 そんなふうにして逮捕について互いに電話で知らせあっていた。スターリンの粛清。文通の権利剥奪10年の判決。これは銃殺を意味していた。ラーゲリのなかには、文通の権利剥奪10年の刑を受けている囚人は一人もいなかった。
ロシアの重砲、迫撃砲そして武器貸与法によってアメリカから入手したドッジとフォードのトラックの縦隊がスターリングラードの方向へ向かうのを数百万の人々が目にした。ドイツ軍は、スターリングラードへの部隊の移動を知っていた。だが、スターリングラードでの攻勢はドイツ軍には分からないままだった。スターリングラード地域でのドイツ軍包囲は、ドイツ軍の中尉と元師たちにとっては寝耳に水だった。
 スターリングラードの赤軍は、もちこたえ続けた。大量の兵員が投入されたにもかかわらず、ドイツ軍の攻撃は決定的な成果を上げなかった。じり貧状態のスターリングラードの赤軍諸連隊は、わずか数十人の赤軍兵士が残るだけだった。恐ろしい戦闘の極度の重圧をその身に引き受けた、この数十人の兵士こそが全ドイツ軍のすべての想定を狂わせる力だった。
 1941年12月、モスクワでのドイツ軍への勝利によって、ドイツ軍に対するいわれなき恐怖は終わった。スターリングラードでの勝利は、軍と住民が新しい自意識をもつ助けとなった。ソヴィエトのロシア人は、自分自身について、これまでとは違った理解をするようになった。
この時期、国家ナショナリズムのイデオロギーを公然と宣言するチャンスをスターリンに与えた。かつて、ドイツ人はロシアの百姓家の貧しさを笑いものにした。しかし、今の、捕虜のドイツ人はぞっとするほどひどかった。
 「ドイツ野郎たちには自業自得だ」
 「我々がドイツ人を呼んだわけではない」
 1000年のあいだ、ロシアは徹底した専制と独裁の国だった。ツアーリと寵臣たちの国だった。しかし、ロシア1000年の歴史に、スターリンの権力と似た権力はなかった。
 スターリン、偉大なるスターリン。もしかしたら、鉄の意志の男は誰よりも意志の弱い男であるのかもしれない。
 ええーっ、こんなことをまだスターリンが生きているうちに書いたソ連作家がいたなんて、信じられませんね。これでは発禁になるのも当然ですね。
スターリンが党大会の休憩時間にどうして懲罰政治の行き過ぎを許したりしたのかとエジョフに質問した。うろたえたエジョフは、スターリンの直接の指示を実行していたのですと答えた。スターリンは、取り囲んだ諸代表のほうを見ながら、悲しそうに、「こんなことを言うやつが党のメンバーなのだからね」と口にした。
 この『人生と運命』を書くことで、グロスマンは、ドイツのナチズムとソヴィエトのスターリン主義が同じ全体主義のカテゴリーにくくられるという結論にたどり着く。そのうえで人間の自由への希求が変わらぬままであることが、国家の独裁に対する人間の永久的な勝利を約束すると言い切った。
 ヒトラー・ドイツと戦ったスターリンのソ連が両者よく似た体質をもっていることを明るみに出しながら、同時進行でいくつものストーリーが展開していく大長編小説です。
(2012年3月刊。4500円+税)

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2012年8月17日

悩む力

人間

著者  姜 尚中 、 出版    集英社新書 

 夏目漱石をこんなに深く読み込んでいるのかと、驚嘆してしまいました。
 私は、高校生そして大学生のころに漱石を一心不乱に読みましたが、それからはすっかり卒業した気分になっていました。イギリスに留学中に夏目漱石がひどい神経衰弱になったという本は少し前に読みましたが・・・。
 著者は私の2歳下で、熊本で生まれ育っています。大学生のときに上京するとき、いかに心細かったか、その心境が描かれていますが、私も似たようなものでした。私は、幸いなことに大学に入学すると同時に6人部屋の学生寮に入りましたので、孤独感にさいなまれることは全然ありませんでした。今でも、本当にラッキーだと思っています。おかげで五月病とは無縁の忙しい、張りのある学生生活でした。
 夏目漱石とマックス・ウェーバーがほとんど同時代の人だと言うのを初めて認識しました。ウェーバーのプロテスタントの倫理意識が資本主義の価値観を支えたという本は、余り真面目に授業に出なかった私ですが、しっかり記憶に残っています。
青春とは、無垢なまでにものごとの意味を問うこと。それが自分にとっては役に立つものであろうとなかろうと、社会にとって益のあるものであろうとなかろうと、「知りたい」という、自分の内側から沸いてくる渇望のようなものに素直に従うことではないか・・・。
未熟故に疑問を処理することができなくて、足元をすくわれることがある。危険なところに落ちこんでしまうこともある。でも、それが青春ではないか。
青春というのは、子どもから大人へ変わっていく時期であり、険峻な谷間の上に置かれた丸太を「綱渡り」のように渡っていくようなものではないか。一歩間違えば、谷底へ転落してしまう危うい時期だ。
青春時代の、心の内側からわき出てくるひたむきなものを置き忘れて大人になってしまえば、その果てに精気の抜けた、干からびた老体だけを抱えて生きていくことになるかもしれない。
私も、こんな干からびた老体だけにはなりたくありません。そのため、毎日たとえばフランス語を一生懸命勉強しています。
ヒトが一番つらいのは、自分は見捨てられている、誰からも顧みられていないという思いではないか。誰からも顧みられなければ、社会の中に存在していないのと同じことになってしまう。
 社会というのは、基本的には見知らぬもの同士が集まっている集合体である。だから、そこで生きるためには、他者から何らかのかたちで仲間として承認される必要がある。そのための手段が働くということ。働くことによって初めて、「そこにいていい」という承認が与えられる。
この新書本が90万部も売れたというのは、とても信じられません。でも、たしかに味わい深い指摘がたくさんありました。
 10月4日(木)の午後、佐賀市民会館で弁護士会主催の教育問題シンポジウムにおいて著者は問題提起していただくことになっています。お近くの方はぜひ、今から予定しておいてください。ご参加をお願いします。
(2012年3月刊。2800円+税)

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2012年8月16日

宇宙はなぜこんなにうまくできているのか

宇宙

著者   村山 斉 、 出版   集英社  

 気温は、太陽の高度の違いによって変化する。
 だったら、太陽が低いほうが太陽の熱に低くなって熱いと思いますよね、ところが、違うのです。
 日本では夏のほうが冬より太陽が空高く昇るので、より多くの太陽光線を受けるから、暑くなる。うひゃあ、まるで逆でしたね・・・。
ニュートンが発見したのは、惑星が太陽のまわりを回るのも、石やリンゴが落ちるのも、まったく同じ原理によるものだということ。これによって、天上と地上とが別世界ではなくなった。
 アインシュタインの天才的なところは、それまで変化すると思われていた光速が一定になった代わりに、それまで不変だと思われていた空間が変化すると考えたところにある。
  E = mc²
 アインシュタインの有名な方程式は、それまで別々のものだと考えられていたエネルギーと質量が、本質的には同じであることを示した。物質の質量が、エネルギーに変わるということ。
人間は温度の高さを皮膚で感じて、暑い(熱い)、寒い(冷たい)などと言うが、これは分子の動きによるもの。夏の暑い日は、空気(酸素や窒素など)の分子が冬の寒い日よりも元気よくビュンビュン飛び回り、それが人間の皮膚にバチバチと激しく当たっているということ。ふやっ・・・、そうだったんですか。それにしても猛暑の夏です。
 ニュートリノは、人間の身体を1秒間に何十兆個も通り抜けている。ええーっ、それでも私たちは何も感じていないし、その痕跡すらないのですよね。不思議なことです・・・。
 大昔に超新星爆発を起こした星がさまざまな元素を宇宙空間にバラまき、それがまた集まって次の世代の星の材料になるといったサイクルが、宇宙ではくり返されている。
 太陽も、そうやって生まれた第二世代が第三世代の星。だから、太陽の惑星である地球に炭素や酸素や窒素や鉄などの元素があり、そのおかげで人間の身体も作られている。要するに、はるか昔に爆発した星の残骸によって私たち人間の身体はできているのだ。
なーるほど、私たちは、「宇宙で生まれた宇宙人」なんですね・・・。
 光は物質ではない。しかし、単なる波でもない。波であると同時に、粒であるという不思議な性質をもっている。
 空気のない宇宙空間では音が聞こえない。しかし、光は、空気がなくても伝わる。そして、真空にもエネルギーがある。ええーっ、何、これ・・・?
宇宙の話は、まるで手を伸ばして雲をつかむようなものばかりです。でも、そのスケールの大きさに圧倒され、しばし俗世間を忘れることができます。
(2012年6月刊。1100円+税)

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2012年8月15日

あくがれ

日本史(平安時代)

著者   水原 紫苑  、 出版   ウエッジ  

 久々に平安時代の和歌を詠み、貴族になった気分に浸ることができました。
 それにしても、気の利いた和歌をその場でつくって相手に返す早業は並みのひとにはむずかったのではないでしょうか。私には、とても自信はありません。
 冥(くら)きより冥き道にぞ入りねべき はるかに照らせ山の端(は)の月
 この世は暗い。だが、その闇よりも、さらに濃い闇に入る日が来るのだろうか。あるはずもない山の端に、大きな月が一輪。
 これは和泉式部の代表作とされるものです。恋多き平安の女性の奔放ともいえる生活の実情が小説として描かれています。
 和泉式部は、源氏物語の空蝉(うつせみ)とは異なり、ここ一番の賭けでは、危険を顧みず一歩踏み出してしまう女性だった。夫がいる身であっても、雲の彼方への恋に和泉式部は踏み出していくのです。父の大江雅致は、そんな和泉式部を勘当してしまいます。
 男が女のもとに通う貴族社会では、逆に女が男のもとに行って逢うのは、屈辱的な行為だった。親王と受領(ずりょう)の妻という、圧倒的な身分の隔たりはあっても、恋においては対等、という誇りを持ち続けてきた和泉式部は、踏みにじられた心地だった。
 ここらあたりは、現代とは、いささか状況が異なりますね。
 白露も夢もこの世もまぼろしも、たとへていへば久しかりけり
 白露も夢もこの世もまぼろしも、およそはかないもののすべてでも、あなたとの逢瀬に比べれば、久しいものです。
 どんなにはかないものよりもはかない一瞬に、人は生きている。ここには恋によって恋の彼方、うつしみによってうつしみの彼方を見る詩人の魂がある。
和泉式部は愛し、愛されれば、より一層、愛の向こう側にあくがれる、この世なら魂をもった女性であった。
 飽(あ)かざりし昔の事を書きつくる 硯(すずり)の水は涙なりけり
 幸せだった昔のことを書きつける硯の水は涙なのですよ。
 今の間の命にかへて今日のごと 明日の夕べを嘆かずもかな
 今このときの命と引きかえにして、明日の夕べは今日のように嘆かずにしたい。
 夕暮はいかなる時ぞ目に見えぬ 風の音さへあはれなるかな
 夕暮れというのは一体どんな時なのだろう。目に見えない風の音さえ心にしみる。
 藤原道長と同じ時代に生きた和泉式部の生きざまを、その日記(もちろん現代文で)たしかめてみたいと思いました。それと、日本女性は昔から強かったんだなと改めて思ったことでした。
(2012年5月刊。1400円+税)

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2012年8月14日

橋下徹の金と黒い人脈

社会

著者   一ノ宮 美成+グループK21、 出版    宝島社 

 どうして、こんなデタラメな男をマスコミが大々的にもてはやすのか、信じられません。
 この本は、橋下徹の実像を鋭くあぶり出しています。広く読まれたらいいなと思いました。
 橋下市長は当初、原発再稼働に華々しく反対していたのに、いつのまにか再稼働容認に変身してしまった。そして、その変身直後の2週間、ツイッターを2週間も休止した。たたくのは得意であっても、たたかれるのは弱いからだ。
弱いものいじめが橋下徹の身上なんです。これって、いやな性格ですよね。
 自分が批判される立場になると、すぐさま雲隠れしてしまう卑怯な人間なのだ。
 メディアが本来果たさなければならない、権力監視が不十分だからである。橋下の言い分をマスコミはたれ流している。
大阪市民の支持率は、7割近くを誇った府知事時代から54%にまで下がった。
 「大阪市民はぜいたく」だと言い放って、市民サービスの予算を3年間で488億円も削減する。ところが、橋下のブレーンを特別顧問・参与として、合計50名に対して総額680万円も支払った。
維新の会は、全国で300人候補者に出すという。合計30億円をどうやって工面しようというのか。実は、候補者本人が選挙資金を自分で出せるかどうかが選考の基準になっている。
 橋下徹と維新の会を応援する財界は財界アウトサイダーである。紳士服のアオキ、ドトール、家具のニトリ、人材派遣のパソナなど・・・。
 橋下市長は、原発再稼働容認をうち出す前、ひそかに関西経済団体のトップと会食した。これで財界から取りこまれてしまったようです・・・。
 橋下市長は、サラ金特区そしてカジノ(ギャンブル)特区を提唱しています。ひどいものです。もっと実体をあばいてほしい、マスコミもきちんと正確な実情を伝えてほしいと思ったことでした。
(2012年7月刊。993円+税)

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2012年8月13日

ガリ版ものがたり

社会

著者   志村 章子 、 出版    大修館書店 

 ガリ版というと、私にとっては大学生時代に切っても切れない関係にありました。高校生のときには、日本史の教師から手作りの日本史の流れの早わかりをもらって重宝していました。大学生になると、自らカッティングしなければいけなくなりました。自分の考えを他人に知ってもらうためには、どんなに下手でも自らカッティングするしかありません。鉄筆を握って、ヤスリ版の上においたロウ厚紙に一字一字ていねいに字をカッティングしていくのです。一字は四角います目に納めるような方眼紙になっていますから、私の字も次第に読みやすい、丸っこい字になっていくのでした。これって、ちょうど、今の学生にとってパソコン入力できなければ何も意思表示できないのと同じ状況です。世の中、現象的には変わっても、本質的には変わらないものだと、つい思ってしまったことでした。
 ガリ版の魅力は、その仕事にたちまち自らの魂が乗り移ってしまうことにある。これは、活字その他の版式の遠く及ばないガリ版の独壇場である。
1930年代の日本。ガリ版印刷がこなせなかったら小学校教員の資格はない。謄写技術の習得は絶対に必要とされた。
 映画『二十四の瞳』には、検挙された綴方教師の文集が教頭によってあわてて焼き印される場面がありました。戦前の教師はガリ版で学級通信をつくったりして、子ども、そして親たちとの交流を密にしていました。そのことで国民的に評価された女教師が、あとになってアカという烙印を押されてしまうといった悲しい悲劇も発生したのです。このガリ版印刷なんていっても、今どきの若者には理解できないものでしょうね。
 先のとがった鋼鉄製の鉄筆ロウ厚紙に字を書き、孔をうがちます。ロウ厚紙は、極薄葉和紙(雁皮100%の手抄き)にパラフィン加工したもの。有名なのは四国厚紙です。
 2011年現在、新品を入手できるのは、鉄筆とローラー分野だけ。ロウ厚紙を書くのを、厚紙を切る(カッティング)、「刻む」と表現した。
 第一次世界大戦、ドイツの捕虜を収容した日本各地の収容所で、ドイツ人は有料ガリ版ニュースを発行した。2年間で55万枚を印刷したというから、すごいですね。最大発行部数は300部だった。
 なつかしい、学生時代とは切っても切れないガリ版を思い出させる本でした。
(2012年3月刊。2400円+税)

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2012年8月12日

灰色の地平線のかなたに

ロシア

著者   ルータ・セペティス 、 出版   岩波書店

 第二次世界大戦の最中のことです。スターリン・ソ連の命令によってリトアニアの人々がいきなりシベリア送りになるのでした。私はそんなことがあったとは知りませんでした。スターリンが、気にくわない民族を勝手に動かしていたことは知っていましたが、そのなかにリトアニアの人々も対象になっていたのでした。
 この本はシベリアに送られたリトアニア人の苦難の日々が語られ、読みすすめられるのは辛いものがありました。多くの日本兵が戦後、シベリアに連行され、強制労働させられたのとまるで同じだと思いながら読みすすめていきました。
 1940年、ソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国を占領した。そして、反ソビエト的と考えられる人々の名簿をつくり、殺すか、刑務所へ送るか、シベリアに追放して重労働に従事させるかした。人口の3分の1もの人々が亡くなった。
 追放されたリトアニア人は、シベリアで10年から15年間を過ごした。1953年にスターリンが亡くなり、1956年ころまでに故郷に戻ることができた。しかし、故郷にはソ連の人々が住みついていた。そして、シベリアでの辛い経験を口外することは許されなかった。
1991年、ようやくバルト三国は独立を取り戻した。50年間もソ連の残酷な占領下にあった。
本の表紙に書かれている一節を紹介します。
第二次世界大戦中のリトアニア。画家を目指していたら15歳のリナは、ある晩、ソ連の秘密警察に捕まり、シベリアの強制労働収容所へ送られる。
極寒の地で、過酷な労働と飢え、仲間の死に耐えながら、リナは、離ればなれになった大好きな父親のために、そして、いつか自由になれる日を信じて、絵を描きためていく。
不幸な時代を懸命に生きぬいた、少女と家族の物語。
作者は、父親がリトアニアからの亡命者だというアメリカ人です。取材して書きあげたというわけですが、実体験がそのまま紹介されていると思わせるほど迫真の描写です。
(2012年1月刊。2100円+税)

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2012年8月11日

霖雨

江戸時代

著者   葉室 麟 、 出版  PHP研究所

 豊後日田にあった咸宜園(かんぎえん)を主宰していた広瀬淡窓とその弟・久兵衛の生き方を描いた小説です。しっとり読ませてくれる時代小説でした。
 咸宜園は私塾といっても、今の公立大学のようなものだったのでしょうね。心ある若者たちが入門して勉強にいそしんでいました。
 咸宜園では、毎朝5時に起きて清掃し、6時から7時まで輪読する。朝食のあと8時から正午まで学習し、昼食をとったあと1時から5時までが輪読と試業で夕方6時に夕食となる。夜7時から9時まで夜学して、夜10時に就寝する。
咸宜園では、女性の門人も受け入れていた。
 広瀬淡窓の実家は屋号を博多屋と称し、淡窓の8歳下の弟が家業を継いでいる。そして、この博多屋は、日田代官所出入りの御用達(ごようたし)商人として財をなしてきた。
 日田は幕府直轄地の天領である。北部九州の中央に位置し、筑前、筑後、豊前、肥後と日田を結ぶ日田街道が通る交通の要衡だ。美しい山系に囲まれ、河川の多い風光明媚な水郷であり、豊後(ぶんご)の小京都とも呼ばれる。
日田の代官所にいる西国郡代は九州の天領15万石を差配すると同時に、諸大名にもにらみをきかせる、いわば幕府の九州探題であった。
 広瀬淡窓が咸宜園を開いたのは文化14年(1817年)。この年、日田に新しい代官として塩谷大四郎が着任した。この年、49歳。それまで幕府の勘定吟味方(かんじょうぎんみがた)をつとめ、日光東照宮の造営などにあたっていた。
 塩谷大四郎は、日田代官所に着して4年後に西国郡代に昇格し、布衣(ほい)を許された。そして、塩谷君代によって咸宜園への干渉はさらに強まった。
広瀬淡窓は、16歳のとき、福岡の亀井昭陽の父である亀井南冥(なんめい)の塾に入門して萩尾徂徠学を3年にわたって学んだ。しかし、淡窓は徂徠の考え方に批判があった。徂徠学は、ややもすれば政治学に傾き、聖人君子の道である儒教から遠ざかることへの不満だった。
 淡窓は、塾の運営において、入門者に対してまず「三奪」を行った。入門するにあたっては、年齢、学歴、身分の三つを奪って平等とし、同じことから出発させる。これは、武士、農民、町人の身分差のつきまとう社会にあっては、容易に成しがたいことであった。月旦評(げったんひょう)とは、月初めに塾生の前月の評価を行い、これによって4等級(あとでは9等級)に分けること。さらに、成績によって、塾内の都講(とこう)、講師、舎長、司計などの役職を分掌した。成績至上主義のようだが、淡窓の評価は厳正であり、学問だけでなく、日頃の素行も評価の対象とした。身分制にしばられないなかで月旦評は、一人ひとりを平等に評価することであり、塾生たちを発奮させた。
 日田の商人のうち、代官所御用達の富商は、7、8軒あり、七軒衆とか八軒士などと呼ばれた。広瀬家も、その中に数えられるが、日田地生え(じばえ)の商人ではなく、初代が筑前福岡から移住して田畑を耕し、かたわら小さな商いを行った。四代目が岡、杵築、府内三藩の御用達となり、大名貸しなど、金融業も行うようになった。五代目は、鹿島藩、大村藩の御用達もつとめるようになった。
 六代目の久兵衛は、日田代官所の年貢米の集荷、江戸、大坂への回漕、さらには納入された金銀を預かる掛屋となった。掛屋は、代官所から公金を見利息で預かり、大名や町人、農民に貸し付けることが認められていた。これを日田金(ひたがね)と呼ぶ。
 日田金は代官所の公金であることから、借りた大名が踏み倒すとは考えられない。そのため、掛屋には、社寺、公家、富豪から資金が流れ込んだ。日田金は総額2百万両に及び、このうち百万両が大名貸しにまわった。
 淡窓の咸宜園と同じころ、大阪では大塩平八郎が洗心洞という私塾を起こして盛んだった。
 このあと、小説は大塩平八郎の乱との関わりが語られていきます。
大変勉強になる本でした。男女の心理の機微についても学ぶところ大でした。
(2012年6月刊。1700円+税)

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2012年8月10日

インカ帝国

アメリカ

著者   島田 泉・篠田 謙一 、 出版   東海大学出版会

 私もふくめて、多くの日本人が一度は行ってみたいと思っているのが、インカ帝国最後の都、マチュピチュでしょう。とは言っても、はるか彼方にあって、遠すぎます。そこで、せめて活字の上でインカ帝国をしのびたいと思って読みはじめました。
悪らつなスペイン人侵略者たちによってたちまち崩壊されたインカ帝国。文字がなく、キープというひもを使った記録がどの程度有効なものだったのか、謎は深まるばかりのインカ帝国の実相を少しだけ知った気分になりました。
インカ帝国は、自然環境の面でも社会文化的な面でも、モザイクのような性格をもっていた。
インカ道は軍事遠征の途上で敷設され、広大な帝国のほぼ全域に通じており、その統延長は2万5千キロメートル、海岸部と高地に2本の幹線道路が並行して走り、その間は何十本もの横道で結ばれている。それらの道路上に設置された行政センターや倉庫その他の帝国の施設が、インカ帝国のインフラ設備の基盤となっていた。
 キープの情報の解読は難しい。文字で書かれた使用説明書は今もってひとつも見つかっていない。インカ時代に存在した組織に関する生きた知識や技術は、植民地化で消え去ってしまった。
 1533年まで、神の地位をもつ一族がアンデスを支配していた。首都には、インカすなわち「太陽の子たち」が君臨していた。
南北アメリカ大陸の先住民は、全体としての遺伝的多様性は小さいが、地域集団同士の間の遺伝的な違いは大きい。
 インカの外交は、表面上は寛容であったが、厳格で無慈悲な支配が裏に存在した。進んで独立をインカに明けて渡さず、インカが太陽の子であることを認めなかった人々は軍によって壊滅させられ、貢納に従事させられた。
 インカは、征服した社会から何人かを戦争捕虜とし、その他多くをクスコへと連れて行き、恒久的な使用人ないし、奴隷として用いた。
インカ帝国の3分の2が3000メートル以上の高度に居住し、青銅器時代に相当する技術を用い、効率的な水上輸送手段や車輪をもつ運輸具がない状況で、困難は計り知れないものがあった。
基本的な納税単位は結婚した夫婦だった。一般的には、召集されると、世帯あたり1回2~3ヵ月の労働奉仕を負担した。軍事奉仕だと、長いあいだ家を離れる必要があった。
 インカにとって、農地と同じように重要だったのが、リャマとアルパカの群れだった。
 インカは、民族集団の特殊技能を利用して、それぞれ特殊な任務を与えた。たとえば、ルカナス族は輿の担い手、コリャ族は石工、チュンビビルカ族は踊り手として取り立てられた。また、チャチャボヤ族、カニャリ族、チュイェス族、チャルカス族は兵士として傑出していた。チリャシンガス族は食人の習慣をもっていたことから重宝された。
 近年、キープの記録能力については、多くのことが分かってきた。
 クスコは、インカ帝国における最高権力、権威の中心だった。ここで、「唯一のインカ」(サパ・インカ)であるインカ王が后であるコヤと王宮で統治した。クスコにおける行政装置に配置されたのは、10人から12人いたインカ王の直系の、あるいは傍系の子孫だった。インカ王はクスコで統治したが、帝国の広大さのわりには、その期間は驚くほど短い。
十進法による労働税システムがあった。労役は、双分制と五分組織に従って十進法の集団単位で組織化された。つまり、各地の共同体での10人の労働者が5つ集まると、50人の労働者集団となり、同規模の集団と組になって100人の労働集団となる。
 インカの王は、娯楽や儀礼のための施設だけではなく、自分が休息に訪れるための宮殿を王領につくった。
 この本を読むと、ますますインカ帝国をこの目で見て偲びたいと思ったことでした。でも、やっぱりやめておきましょう。
(2012年3月刊。3500円+税)

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2012年8月 9日

人生と運命(1)

ロシア

著者  ワシーリー・グロスマン  、 出版   みすず書房

 ソ連赤軍の従軍記者として名高いグロスマンのスターリングラード攻防戦を舞台とする長編小説です。グロスマンはユダヤ人の作家でしたから、必ずしも身の安全は保障されていませんでした。それを文才で乗り切ったのです。
 グロスマンのスターリングラードの従軍記事は、戦時中もっとも読まれた赤軍の週刊誌である『赤い星』に定期的に連載され、グロスマンの名前は軍においても銃後においても広く知られるところとなった。そのため、スターリンはグロスマンが好きではなかったにもかかわらず、それを『プラウダ』に転載するように命じた。
 グロスマンは好ましいソヴィエト作家というわけではなかった。戦時中から、グロスマンの作品のいくつかは党の精神にまったくそぐわないものだった。グロスマンはユダヤ人であり、しかも非党員のユダヤ人であった。グロスマンの作品は出版されなくなった。活字にするのがますます困難になっていくにもかかわらず、グロスマンは仕事をやめなかった。
 グロスマンの書いたものは1953年、スターリンの死後に初めて刊行された。しかし、それはまったく別の作品になっていた。そして、1961年に家宅捜索され、小説は没収された。1962年、グロスマンはフルシチョフに手紙を書いて訴えた。
 1962年、ソ連共産党の幹部であったスースロフがグロスマンを引見し、あなたの本を出版するのは不可能だと言い渡した。
 1964年9月、グロスマンは病死した。その直前、外国でもよいから出版してほしいと友人たちに最後の頼みをした。そして、ついに1988年、本書は出版された。
 本書はスターリングラード戦を舞台としているのに、戦闘場面は読者の期待を大きく裏切ってほとんど出てこない。グロスマンにとっての告白の書でもある本書には、多くの自伝的要素が率直に書かれている。
グロスマンの小説においては、運命は人々を非人間化したり従順な大衆に変えたりはするが、運命は自覚的な人間の選択なのである。
人間は際限のない暴力の前では従順になることを明確に知ったうえで、人間と人間の未来の理解のために意義のある最終結論を出す必要がある。
自由に対する人間の自然な希求は根強く、弾圧はできるが、根絶はできない。
全体主義は暴力を手放すことができない。暴力を手放せば、全体主義は死ぬのである。直接的あるいは偽装されたかたちで永遠に続く絶えざる圧倒的暴力が全体主義の基礎である。
人間は自らの意志で自由を放棄することはない。この結論のなかにこそ、われわれの時代の光、未来の光がある。
3巻本のうちの1巻で、ぎっしり500頁という大作です。
(2012年1月刊。4300円+税)
愛されている実感に乏しい子どもたち
 稚内の校長先生は、今の子どもたちは淋しい、愛されているという実感に乏しいと、何回も繰り返していました。
 また、最近は子どもたちが荒れない。それがかえって心配だといいます。そんな荒れる力まで失っているのではないか・・・。本当だったら、心配ですね。
 久しぶりに校舎に落書きがあり、トイレットペーパーが詰まらせた。あの子たちだなと見当がつく。その子たちへの指導のきっかけにしよう。非行のサインを見落とさず、しめしめと手ぐすねひいている校長。先生の話を聞いて、いかにも頼もしい教師集団だと思いました。
 人材育成なんていう、エリート養成ではなく、子どもたちをまるごと受けとめる教育実践が稚内にあるのを知って、心からうれしくなりました。教育委員が、それを上からの統制ではなく、下から支えているのです。

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2012年8月 8日

ひさし伝

社会

著者   笹沢 信 、 出版    新潮社 

 井上ひさしは、私のもっとも尊敬する作家の一人です。憲法9条を守れという九条の会の呼びかけ人であったのもすごいと思いますし、「ひょっこりひょうたん島」には、今なおお世話になっています。というのも、弁護士会の役員を一緒にやった仲間の集いは「ひょうたん島」グループと命名されているのです。博士もガバチョも、そして村長もいます。
 この本を読むと、その「ひょうたん島」が実は、死んだ子どもたちの新しい世界が舞台になっているという、実に衝撃的な裏話が紹介されているのです。ええーっ、ま、まさか、とのけぞりそうになりました。
 人形劇「ひょうたん島」がNHKで放映されたのは、昭和39年(1964年)4月から。昭和44年(1969年)まで、5年間続いた。私が高校生のときから大学2年生までのことです。夕方に15分間だけでしたが、この人形劇は本当によく出来ていました。「ひょうたん島」について、食糧問題を考えていないと非難した人に対する弁明として、井上ひさしは平成12年に次のように弁明したのでした。
 「あの登場人物は、みな死んだ人たち、死んだ子どもたちなのだ。死んでいるからこそどこにでも自由に行ける。死んだけれど、死にきれないでさ迷っている人たち。いわば、お化け集団なのだ。だから、ひょうたん島には食料問題はない。あの番組のなかで親たちの生き方を根本から批判して、新しい時代の人間関係をつくるというルールを考えていた。議論はするけれど、ケンカはしないのが、これからの時代だ。意見が合わなくても、一つの目標が共通なら、一緒になれるんじゃないかというのが『ひょうたん島』のテーマだ。
 『ひょうたん島』の明るさは、実のところ、絶望の果ての明るさ、死後の明るさなのだ」
ええーっ、そ、そんなバカな・・・と私は思いました。底抜けの明るさの背景には、こんな絶望があったんですね。ここにも著者の非凡な発想と才能がみちあふれているのでした。
 『吉里吉里人』(新潮社)は、昼寝の枕代わりになるとも言われた分厚い本です。東北の一地方が独立国家をつくるという、奇想天外のストーリーです。東京オリンピック開催のころ(1964年)、NHKラジオで放送されたところ、「冗談にしてもひどすぎる」と批判された。このあとNHK芸能部から声がかからなくなったというのですから、冗談話ではなかったのでした。
 井上ひさしは、東北地方の孤児院に弟とともに3年ほどいたのでした。父親が早く死に、母親も苦労していたからです。この孤児院の神父たちは自ら汗を流して子どもたちを励ましていたようで、偉いものです。これが、後に上智大学に入って出会った神父たちの「墜落」になじめなかった原因をつくり出したのでした。
一家離散の悲しくも厳しい生活を思春期にしたことが井上ひさしの作品の原点になったようです。希望や愛を語るひさしではなく、絶望を語るひさしがいる。
ひさしは、4年のあいだ住み込みの倉庫番をしながら、脚本懸賞に応募していた。145回の応募のうち、入選18回、佳作39回。3割9分3厘の打率。獲得した賞金は34万6千円。これを上回ったのが藤本義一だった。うひゃあ、上には上がいるのですね。
 井上ひさしの難は、とにかく原稿が遅いこと。並の遅さとはわけが違う。ギリギリまで出来あがらない。むろん、原稿の出来は、ディレクターの思惑をこえて、いつも及第点だった。井上ひさしは、可能な限り資料を渋猟し、資料の表裏を徹底的に分析してからの執筆だから、遅筆は避けられなかった。井上ひさしの考証は徹底している。
なかなかマネできませんね。ともかく、神田の古書店から関係図書がごっそりなくなってしまうほど買い漁るのです。
井上ひさしのユーモアは、過剰なまでの言葉選びによっている。笑いは娯楽であると同時に人々を救うものであるというのが、井上ひさしの思想である。
 井上ひさしは努力の人でもあったのですね。まだまだ読んでいない作品がたくさんあることを思い知りました。さあ、読みましょう。あなたも、いかがですか?
(2012年4月刊。3000円+税)
地域ぐるみの子育て
 稚内そして宗谷というと、今までは南中ソーラン節で全国に有名です、非行に荒れる中学校をたて直していったという背景があります。
 私が稚内に行ったのは、稚内をふくむ宗谷が、地域ぐるみの子育てに取り組んでいることを知ったからです。学校と教育委員会と地域が、文字どおり一丸となって子育てに取り組んでいるのを知って、感動的でした。
 たとえば、小学校の学校だよりが全戸配布されています。サマーフェスタは地域のお祭り。子どもたちも主体的に参加。小中一貫教育もすすんでいます。いえ、施設一体というのではなく、相互に授業内容を公開しあうのです。
 子どもが気軽に校長室に顔を出します。学年だより、学級通信も2日に一度。クラスには市費負担の教員がおかれたり、支援委員というおばあちゃんたちがクラスの「問題児」の対応にあたります。手厚く人が配置されているのです。教育はやっぱり人ですね。そして、それを支えるお金が必要になります。

教育委員会に子ども課
 タテ割り行政で相互連携するというのではなく、子どもに必要なことはなんでもやれる子ども課があります。
 子どもが家を出て帰ってこない、何日もごはんを食べていない。そんな情報が寄せられると、子ども課の出番です。学校よりも機動性があり、保護の必要なときには、すぐ手が打てる。
 大変気骨のある教育長さんの話を聞いて、教育行政の原点を知った思いでした。

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2012年8月 7日

台湾海峡1949

中国

著者   龍 應台、 出版   白水社

 中国解放戦を勝者側から描いた過程については、これまでずっと読んできましたが、この本は敗者であった国民党軍側から描いていて、とても新鮮でした。
 1984年11月、河南省の南陽市にある16校の中学・高校から5000人の生徒と教員が集合した。千里の道を歩いて、まだ戦火の及んでいない湖南省まで疎開しようというのだ。
 5000人もの青少年が一人ひとりリュックを背負って隊列をつくった。
 1949年3月、隊列は湖南省南西の零陵に落ち着き、授業を再開した。
 これらの教員の多くは、考え方が旧式だった。北京大学や精華大学出身の教員の思想は保守的で、新しい潮流を追いかけるタイプではなかった。共産党の考えを信じなかった。先生が生徒を引率するのは、母鶏がひよこを連れ歩くのと同じで、はぐれるものなどいなかった。先生と生徒とのあいだには、人間的な結びつきがあった。先生と一緒なら保護者も安心していた。
 1949年10月、教育省から緊急電報が入った。現地を即時撤退し、疎開せよ。これを受けて学生は二手に分かれ、雨風をおして湖南と広西の省境まで歩いた。広西省に達したとき、5000人の子どもは、半分になっていた。そして、国民党軍97軍246連隊が偶然そこに通りかかって、学生を守りながら進むことに同意した。ところが、共産党軍が追いつき、激戦のなか険しい山中を逃げまわった。南陽を出発した5000人の子どもたちが1年後にベトナム国境地帯に到達したとき、その数は300人にまで減っていた。
そして、フランス兵によってベトナムで捕虜収容所に収容された。しかし、すごいのです。300人にまで減った生徒と教員が、5000人だったときと同じように、腰を下ろして授業を再開したのです。
水も電気もないベトナムの鉱山の空き地で始まった青空学校で、河南省の南陽から携えてきた『古文観止』は、残された唯一の教科書だった。教師は全生徒に、30篇の詩を諳んじるよう厳しく指導した。
 1953年6月、ついに台湾に渡ることができた。そのとき生徒数は208人。
中国の東北地方がまだ満州国だったころ、多くの台湾人が出稼ぎに来ていた。当時、5000人以上の台湾人が満州国で働いていたが、その多くは医師と技術者だった。
 日本軍はたくさんの中国人を捕らえて収容所に閉じ込め、炭鉱作業に従事する苦力(クーリー)とした。逃亡を防ぐため、見張り役は錠を何重もかけた。就寝前に労働者たちから衣服をはぎ取り、パンツまで回収した。まるで豚扱いだ。そして共産党軍が東北へ進軍するとき、十分な兵員数を保持して国民党軍と対決するため、日本軍の方法をそのまま採用した。寝る前に総員のパンツを回収した。それでも、少年兵たちは必死に逃げた。3万2500人いた兵が4500人も減った。
 さらに、共産党軍は「兵力現地補充」作戦をとった。国民党軍の兵士を捕虜にとると、次々に戦場の最前線に送り、さっきまで味方だった国民党軍と戦わせた。解放軍(共産党軍)は、百万の民工の肩と腕を頼りに、前線まで物資を運び、傷兵を後方へ送った。民工は銃前と銃後を働きアリのように行き来していた。兵士1人のうしろに9人の人民がいて、食糧の手配、弾薬輸送、電線架設、戦場掃除、傷兵看護を担っていた。
 満州人は、日本人を「日本鬼」と読んだが、台湾人のことは「第二日本鬼」と呼んだ。台湾人は、必死で自分が日本人でないことを証明しようとした。
台湾接収を任務とする国民党軍と、「王の軍隊」の到来を期待していた台湾の民衆。両者は正面からぶつかりあった。相互不理解は内出血のごとく、あっという間に悪化して、化膿した。
 そして、1947年2月28日、台湾全島で動乱が起きた。2.28事件である。
 本書は、台湾へ逃げてきた国民党政権と軍隊について、台湾支配者という強者としてではなく、故郷を失った弱者として描いたところに特徴がある。
 なーるほど、本当にそうなんです。国民党軍との内戦のすさまじさを描いた中国映画を少し前にみました(申し訳ないことに、題名は忘れてしまいました)が、中国解放戦の過程では勝者も敗者も大変な苦しみを味わったことを少しばかり実感することができました。
 2009年8月に発売され、1年半で40万部も売れるベストセラーになりました。中国本土では禁書とされているようですが、実はかなり読まれているということです。たしかに勝者の側だけでは分からないことがありますからね。
 中国解放戦の内実を知るうえで、欠かせない本だと思いました。
(2012年7月刊。2800円+税)
さすがは海の幸
 稚内に来たら、やっぱり海の幸。一晩目は、居酒屋「竹ちゃん」。ほっけ、タラバガニそして、うに、いくらをしっかり堪能しました。最後は銀杏草(ぎんなんそう)という海草のみそ汁でした。
 二晩目は、地元の人の推薦の居酒屋「いつみ」。ここは家庭的な味わいです。まるごと食べられるハタハタのからあげを初めていただきました。八角(はっかく)の軍艦焼きは、甘いみそだれです。いつもは焼酎お湯わり2杯と決めているのですが、ついつい3杯目まで頼んでしまいました。

サロベツ湿原
 ラムサール条約にも指定されている広大湿原です。泥炭が採られていた歴史があります。稚内から鈍行に乗って一時間近く。そこからタクシーで行こうとしても、なんと町に一台。30分待ちでした帰りはバス。ところが、稚内行きは、4時間後しかないのです。
 ビジターセンターは近代的建物で、湿原は板道を歩けます。20分ほど。3回歩きました。残念ながらユリ科のエゾカンゾウはすっかり終わっていました。黄色一色のお花畑が広がるのを期待していたのですが・・・。ところどころ、わずかに紫色のハナショウブ、そして、エゾニュウの白い花を見かけるくらいで、緑の大草原です。その先に、利尻富士が見えます。海を隔てていますが、間近に感じます。傑作風景写真を狙ったのですが、もう一つでした。

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