弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年10月 4日
きものの不思議
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 長崎 巖 、 出版 東京美術
いま、江戸時代末期の町人女性がどんな生活をしていたのか調べているので、読んでみました。
「きもの」は桃山時代に生まれたコトバ。「着るもの」から来ている。そして、それは「小袖(こそで)」を指していた。明治になって、洋装が入ってきて、これを着る人が現れると、「洋服」というコトバが出現。明治末期までは「きもの」が主流だった。ところが、やがて服と洋服をさすようになると、対比させる意味で「和服」と呼ぶようになった。なーるほど、ですね。
平安時代、武士たちは公的な場では公家と同じく大袖を着て、私的な場では小袖を着用して、リラックスしていた。
室町時代の後半になると、庶民は常に麻の小袖、そして武士は日常的には絹の袂(たもと)つきの小袖を着た。
浮世絵が完成した江戸時代前期後半以降の女性のファッションリーダーは、町人女性だった。「美人画」を見るのは男性だけでなく女性も見ていた。「小袖ひな形本」を女性たちは見ていた。
「見返り美人」が振り向いていて背中を見せているのは、きものの見どころが背面にあるから。小袖の生地・模様そして、帯の結び方や髪型まではっきり見せようという意図の下で描かれている。町人女性のトータルファッションをリアルに表現している。
友禅染が先に町人女性のあいだに普及すると、もはや武家女性同じようなものは使わなかった。
女性については、出産をもって成人と認める傾向があった。
明治より以降は、黒を最上位とするようになったので、黒留袖が最上位の礼服となった。
襦袢(じゅばん)は、男女共用の肌着。江戸時代の後期、男性や武家女性は丈の短い半襦袢を使い、町方女性は礼服や晴れ着では長襦袢を、日常では半襦袢を多く着用していた。
襦袢は、ポルトガル語。ジバーオから来ている。
百足(ムカデ)が着物の絵として描かれたのは、力の象徴として。
女性の着物の裏地は赤と決まっていた。大正時代の前半まで。女性の肌着として、下半身に巻く腰巻(女褌(ふんどし))も赤い生地が使われた。
江戸時代、「あか」は女性一般を象徴するのではなく、若い女性のみをイメージさせるもの。
室町時代の花嫁は白無垢(むく)姿で2日間を過ごし、3日目に緋(ひ)無垢に着替えた。これが「お色直し」だ。
着物について、少しだけ理解を深めることが出来ました。
(2025年8月刊。2750円)