弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年9月28日

国税・豊臣秀長

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 河内 将芳 、 出版 戒光祥出版

 豊臣秀吉の弟・秀長について少し知ることができました。
 秀吉と秀長の母は同じで、大政所(おおまんどころ)。ところが、父については不明。秀吉も秀長も父についてまったく語っていない。名もない人間だったのでしょうが、それでも少しくらい語ってほしかったですね。
 それにしても、父の影が薄いことは、秀吉のかたちづくった「家」のありかたに影響を与えているという見方が紹介されていて、よく分かります。秀長が51歳で亡くなったあと、秀次とその妻妾たちを虐殺したことは、秀吉の家族を自ら根絶やししたようなものですよね。そこには、父親体験のなさがきっと影響しているのだと私も思います。
 秀長は、その前は長秀と名乗っていたとのこと。順番を入れかえただけで、かなりイメージが違ってきますね。
「一銭切り」とは、軍勢の規律を乱したものを斬罪に処すること。
信長が本能寺の変で横死したあと、秀吉は信長の葬儀を取り仕切ったが、そのとき信長の「木像」をつくって、わざわざ火葬した。それによって、信長が仏=死者になったことを衆知させようとした。なーるほど、ですね。
 秀吉は、小牧・長久手合戦では家康に手痛く敗北させられたが、このころから秀長と名乗りはじめた。
 秀吉は四国の長宗我部勢を攻める前、病気になった。それなりに重篤だったが、危機を脱した。これも知りませんでした。
秀吉は関白になる前、内大臣から右大臣を避けて左大臣の昇進を望んだ。右大臣には、右大臣だった信長が倒された凶例(先例)があったから。それで秀吉は、近衛前久(さきひさ)の「御猶子」となり、左大臣の近衛信輔と「兄弟の契約」を結んで関白に就任した。
 「凡下」(ぼんげ。一般市民)の秀吉を関白に任官させるため、公家社会を納得させるに必要な理由づけだった。秀長は参議(宰相)と近衛中将に任官し、従三位(じゅさんみ)に叙せられた。秀長も公家衆のなかのエリート層を意味する公卿になった。
 関白秀吉、大納言織田信勝、中納言徳川家康、中納言羽柴秀長、参議羽柴秀次といった武家の序列が目に見えるかたちであらわれた。その後、秀長は大納言になったが、徳川家康と同時だった。
 秀長夫人は、出自も実名も不明。ただ、大政所とは関係良好だった。
秀長が秀吉の後継者と目されていたが、秀頼の誕生で変わった。秀吉は生まれてまもない秀頼の関白職を譲ろうとした。秀長の体調悪化は秀頼の誕生によるとされています。本当でしょうか...。
 天正18(1590)年1月、秀吉・秀長兄弟の妹。南明院が死亡。秀長が亡くなったのは、翌年の天正19(1591)年1月のこと。秀長の死によって、豊臣政権は落日のきざしが見えてきた。
 写真と図によって、秀長の歩み、果たした役割をしっかり確認できました。
(2025年5月刊。2200円)

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