弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年10月 1日
幕末維新と佐賀藩
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 毛利 敏彦 、 出版 中公新書
幕末のころ、佐賀藩が幕府から大いに頼りにされていたということを知りました。最新式の鉄製大砲を製造していたからです。長州藩が攘夷を実行して、逆に四国連合艦隊からコテンパンにやられたとき、まだ長州藩は青銅製の古式大砲でした。
ペリー艦隊が浦賀沖に出現した嘉永6(1853)年6月、老中首座阿部正弘は佐賀藩江戸留守居に対して、「鉄製石火矢(大砲)2百挺」を大至急製造するように頼んだ。佐賀藩は200門は無理だけど、とりあえず50門を支給納品すると回答した。
この当時、鉄製大砲を自力で製造配備しているのは、全国で佐賀藩だけで、薩摩藩や水戸藩は、青銅砲の試作段階だった。幕府では、伊豆で代官の江川太郎左衛門が開発中で、薩摩藩が鉄製大砲の製造に成功したのは、安政3(1856)年だった。
佐賀藩10代藩主に就いた鍋島斉正(のち直正、号は閑叟(かんそう))は17歳(満15歳)だった。お国入りする行列が藩の借金のため途中で止まるほどだった。藩政改革を進めた結果、表高35万7千石の実収高は90万石、いや100万石に達した。閑叟は長崎に出向き、オランダ船にも乗り込んだ。
天保8(1837)年には、佐賀藩は高島秋帆(しゅうはん)を介してオランダから各種の神式兵器を取り寄せた。鉄製カノン砲・臼砲など。佐賀藩は「火術方(かじゅつかた)」を新設し、ついに、嘉永5(1852)年7月、鉄製大砲を完成させた。
嘉永7(1854)年は11月に改元されて安政元年となるが、長崎でロシアのプチャーチンと交渉していた勘定奉行川路聖謨(としあきら)は交渉のあと、佐賀藩の大砲の演習を見学した。1500メートル先の標的に向けて発射された12発のうち10発が命中。川路たちは大いに感嘆した。
佐賀藩は幕府からの注文・納品した大砲50門をふくめ、全国から注文を受けて、300門以上を製造・納入した。これってすごいことですよね。伊豆の江川太郎左衛門の工房にも佐賀藩は現地に技術者と職人を派遣して応援したのです。まったく知りませんでした。
幕府がオランダ人教官を招いて安政2(1855)年に長崎で開設した海軍伝習所には佐賀藩からも48人参加した。
安政5(1858)年に長崎で英語伝習所が設立された。元治元(1864)年8月、フルベッキとアメリカ領事が佐賀を訪問した。慶応3(1867)年の秋から冬にかけて、佐賀藩は藩立英学校を開校し、フルベッキが教えた。
次は江藤新平。惜しくも明治7(1874)年の差が戦争(佐賀の乱)で大久保に斬首されましたが、鍋島閑叟に大いに期待され、活躍しました。
明治維新の新政府において、閑叟は事実上岩倉具視に次ぐナンバー2の地位にあった。ところが、明治4(1871)年1月、閑叟は58歳で病死した。江藤新平は大久保利通にねたまれて抹殺されたと著者はみています。江藤新平は司法卿もつとめ、日本の司法制度の近代化をすすめた。本当に惜しい人物でした。
(2008年7月刊。760円+税)