弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
人間
2021年1月12日
生き物が大人になるまで
(霧山昴)
著者 稲垣 栄洋 、 出版 大和書房
子どもと大人の違いをいろんな角度から考えた本です。なるほど、そういうことだったのかと、思わずうなずかせてくれるところが満載でした。
キングペンギンは、成長した子どものほうが、大人より体は大きい。うひゃあ、そんなこともあるのですね...。
アベコベガエルは、オタマジャクシのときは25センチの大きさがあるのに、大人のカエルは6センチほど。大人になると子どものときの4分の1になってしまう。
このように、子どもが大人になるというのは、単に体が大きくなるということではない。そして、オタマジャクシの尻尾のように、大人になることで失うものもある。
カブトムシの体の大小は、幼虫のときに食べたエサの量で決まる。
イノコヅチは、葉の中にもイモムシの成長を早める成分をふくんでいるので、このイノコヅチの葉を食べたイモムシは、十分な葉を食べることなく大人のチョウになってしまう。すると、小さな成虫にしかなれず、卵を産む力はない。つまり、イノコヅチは、こうやってイモムシを退治している。
人間の赤ちゃんが可愛いのは、おでこ(額)の広さにある。「子どもが可愛い」のは、哺乳動物の大きな特徴。それは哺乳動物の赤ちゃんは「大人に守られるべき存在」だから。
そして、おでこが広いと可愛いと思うのは、そのように感じるように大人の脳にプログラムされているからでしかない。うむむ、なるほど、なるほど...。
毒針をもつ恐ろしいサソリは、子育てをする虫、じつは子煩悩な虫だ。
ハサミムシの母親は、子どもたちを産み終えると、自らの体を子どもたちの最初のエサとして投げ出す。同じようにカバキコマチグモの母親は、赤ちゃんグモを産むと、赤ちゃんグモに自らの体を支え、体液を吸わせる。これが子育て。
哺乳動物にとって、「遊ぶこと」は、重要な生きる手段になっている。遊びながら子どもたちは生きるための知恵を身につけていく。
人間の経験は、AIの情報量を上回る。
哺乳動物の親の役割は、安全な環境で子どもに経験を積ませることにある。
哺乳類は、生きるために必要な最低限の技術さえも、親から教わらなければならない。それが知能。水中をうまく泳いでいるカワウソも生まれつき泳げるのではなく、母親に泳ぎ方を教えてもらわないと、満足に泳ぐことはできない。
そして哺乳動物は、親もまた、親となるための練習が必要となる。本能だけでは環境の変化に対応できないので、教え方は変化するという戦略を選んだ。
ゴリラは、子どもが小さいうちは母親がずっと抱っこして育てる。ゴリラが離乳することになると、母親はオスのゴリラのところへ子どもを置きにくる。オスのゴリラのまわりは子どものゴリラでにぎやかになる。まるで幼稚園のよう。オスのゴリラは子どもたちの面倒をみるというより見守っているだけ。しかし、子どもたちがケンカを始めると仲裁に入る。その仲裁は平等。ゴリラ同士のルールや社会性を、そこで教えている。やがて子どもたちは、父親のベッドで寝るようになったあと、父親のベッドの近くに自分のベッドをつくって寝るようになる。これが自立の証し。
ごっこ遊びは模擬練習。大人のマネをして、子どもを育てるという大切な技術も遊びを通して学ぶ。
この本は最後に、大人だって成長したいし、成長できることを強調しています。体が大きくなるばかりが成長ではないのです。
心の底から楽しいと思える好奇心や心の底からやってみたいと思える挑戦心や向上心があったら、それこそ今の成長ステージで発揮される成長する力なのでは...。
子どもは育てるものではなく、子どもは育つもの。大人にできるのは、子どもが育つ環境をつくってあげること。すっかり納得できる話でした。
(2020年8月刊。1400円+税)
2021年1月 8日
小説をめぐって
(霧山昴)
著者 井上 ひさし 、 出版 岩波書店
私の心から敬愛する井上ひさしが亡くなって、もう10年になるのですね...。
井上ひさしは、たくさんの本を書いたうえ、日本ペンクラブ会長や九条の会の呼びかけ人となったり、社会的な発言も惜しみませんでした。
「むずかしいことをやさしく」という井上ひさしの言葉を、私はいつも忘れないようにしていますが、言うは易くで、ついつい難しい言葉で逃げようとします。
井上ひさしの妻のユリさんによると、井上ひさしは、「手で書く」、「手で覚える」のを大事にしていたとのことです。よく分かります。私も、こうやって手書きで他人の文章をうつしとっています(パソコンに入力して、ネットにアップするのは秘書の仕事です)。
毎日、忙しいのに日記をつけていたというのにも驚きます。ともかく、よくメモをとっていたとのこと。私も、ポケットの中、車中にはメモ用紙とペンを置いておきます。すぐに忘れてしまうからです。
私が真似できないのは、井上ひさしは、文章だけでなく、図や絵も入れるというところです。私も絵に挑戦したことは何度もありますが、下手のまま、いつまでたっても上達しないので、最近は絵のほうはなしですませています。
藤沢周平の傑作小説『蝉しぐれ』について、海坂藩の城下町が見事な絵図面として再現されていて、この本でも見開き2頁で紹介されています。少し丸っこい、読みやすい字とプロの描いたと思わせる絵図面なので、その見事さについつい唸ってしまいます。
井上ひさしは江戸時代後期の女性について、「労働奴隷」というのはあたらない、案外のびのびと勝手に暮らしていたとしています。持参金制度も、夫をしばるもので、女性(女房)は夫から大事に扱われていたのです。働き者で経済力があり、笑いさざめきながらも物見遊山の旅を楽しむ女性たちもいたそうです。私も、まったく同感です。
井上ひさしの本に『東京セブンローズ』というものがあります。これは、一井人の日記を題材(素材)にしています。
市井人の日記を古書店で入手するわけだが、高値のつくのは、そのときどきのモノの値段を丹念に記録している日記が断然、値が高い。
これは、なるほどだと私も思います。天候(その移り変わり)とモノの値段は、あとから(後世に)、書き足しようがありません。嘘はいつかバレますし、嘘がバレたら、もう取り返しはつきません。少なくとも表舞台からは追放されると思います。
アベ政治を継承したというスガ首相の国会答弁のブザマなことは腹が立つと同時に涙がほとばしるほど悲しくなります。首相が自分の言葉で日本をどうするのか政策を語らないというのは、ちょっと信じられません。
井上ひさしが生きていたら、今、何と言うかな...、そう想像するキッカケになった本でもありました。
(2020年8月刊。2000円+税)
2021年1月 3日
もっと!ドーパミンの最新脳科学
(霧山昴)
著者 ダニエル・Z・リーバーマン 、 出版 インターシフト
脳内に存在するドーパミンがイギリスで発見されたのは1957年。
ドーパミンの本質は快楽ではない。ドーパミンは快楽物質ではなく、その本質は期待物質だ。
ドーパミンは報酬予測誤差によって始動する。この報酬予測誤差は目新しいものから来る興奮。実際に起きたことが予測よりも良ければ、それは未来予測の誤差となる。
私たちの脳は、予想外のものを希求し、ひいては未来に、あらゆるエキサイティングな可能性が始まる未来に関心を向けるようにプログラムされている。
青少年の脳のなかで、成人ともっとも大きく違うのは前頭葉。この前頭葉は、大人に分別のある判断をさせている。前頭葉はブレーキのように機能している。
天才はドーパミンのおかげ。ところがドーパミンは天才についてしばしば人間関係を苦手とさせる。アインシュタインも、その一人。
ニュートンは狂気にとりつかれていて、50歳のときには本格的な精神病になり、精神病院で1年を過ごした。
ドーパミンは指揮者であり、オーケストラではない。
ドーパミンは進歩のエンジン。
ドーパミンは、大きな快感を生んだ驚きが二度と驚きにならないように手を尽くす。つまり、ドーパミン自らが快感を消している。これは、私たちが生き続けるうえで、必須・不可欠のもの。私たちを人間たらしめているもの、それがドーパミン回路だ。
ドーパミンについて知り、人間の行動の奥深さもあわせて知ることのできる、面白い本でした。
(2020年10月刊。2100円+税)
2021年1月 2日
最後の湯田マタギ
(霧山昴)
著者 黒田 勝雄 、 出版 藤原書店
マタギの世界をうつしとった貴重な写真集です。
ときは1977年から1997年までの21年間。場所は岩手県和賀郡湯田町(現・西和賀町)。ここは、東北地方でも有数の豪雪地帯。かの有名な沢内村に隣接し、またカマクラで有名な秋田県の横手市は20数キロ先。
この湯田町の長松地区にはマタギと呼ばれる人々が暮らしていた。
マタギの頭領は「オシカリ」と呼ばれ、長松地区では世襲の地位だった。
熊獲りには10人ほどの隊を組んで出かける。獲った熊の肉は均等に分けられ、くじ引きによって全員に分配される。丁寧に乾燥され、成形された高価な胆のうもグラム単位で平等に分けられる。
著者は熊獲りに同行を許され、3年目にしてようやく熊獲りの現場に立ち会って写真をとることができました。
猟場に向かい、猟場を遠望し、待人とトランシーバーで連絡をとりあい、村の中で獲物の熊が来るのを待つ射手。いずれも1989年から1991年にとられた写真です。みんな若くて元気です。
今ではマタギの世界もなくなり、猟をする人はいても10人で隊を組んで出かけるということはないようです。
白黒ですが、くっきり鮮明な写真集です。人々の生活が躍動感あふれる写真集になっているのに心が震えました。
歌手の横井久美子の名前が出てきたり、オビの推薦文はなんと瀬戸内寂聴というのにも驚かされます。あなたも、ぜひ図書館で手にとって眺めてください。
(2020年6月刊。2800円+税)
2021年1月 1日
白嶺の金剛夜叉
(霧山昴)
著者 井ノ部 康之 、 出版 山と渓谷社
山岳写真家・白籏史朗の一生をたどった本です。白籏史朗の写真集は、私も何冊か買って持っていますが、そのド迫力には圧倒されます。
尾瀬写真美術館というものがあるそうです。ぜひ一度行って、高さ9メートル、幅15メートルの巨大写真を5つのスピーカーで再現した滝の轟音(ごうおん)を聴きながら、じっくり眺めてみたいものです。そして、樹々のトンネルをくぐるように2階にすすむと、落ち着いた、いかにも尾瀬らしい雰囲気に浸ることができるそうです。いやあ、ぜひぜひ実感してみたいですう...。
私は尾瀬沼には一度行きましたが、一度しか行っていません。私が大学2年生のとき(1968年6月)、授業をサボって、駒場寮の後輩と3人で行きました。東大闘争が始まる直前の、まだフツーに授業があっているときのことでした。尾瀬沼の本道を歩いて、「夏がくれば思い出す、はるかな尾瀬」の世界に浸ったのでした。
白籏は中学校を卒業して、高校進学をあきらめ、東京の写真家・岡田紅陽に弟子入りした。このとき18歳。いやあ、すごいですね。それ以来、写真ひと筋で86歳まで70年間近く生きたわけです。
山岳写真家として本人も何度か危険な目にあっていますし、弟子を3人(うち1人は交通事故で)亡くしています。いやはや、山は、とくに冬山は怖いですよね、きっと...。
白籏は師匠と同じく富士山も撮っているが、それは富士山込みの風景写真ではなく、あくまで山岳写真としての富士山。つまり、新幹線や茶摘み娘、大漁旗漁船、田植えをする人々などを組み合わせた写真ではない。それは、横山大観の富士山の絵と共通している。なーるほど、ですね...。
白籏は「白い峰」という写真家集団の育成に心血を注いだ。30人で出発し、250人もの強力集団にまで成長した。中学校までの教育しか受けていない、山梨県の田舎出身の白籏は、そのコンプレックスを内に秘めたまま、刻苦勉励、精進潔斎し、山岳写真界の第一人者に到達した。
白旗の撮影の基本は、可能な限り高いところに登り、360度を見すえて、じっくり撮る。これに尽きる。
白籏が山に正対するとき、三面どころか四方八方、頭上足下に五つの眼にも匹敵する鋭い視線を走らせ、六本はないが両手と十本の指を六通り以上に駆使し、三脚を据え、カメラを固定し、レンズを交換し、フィルムを装填し、ファインダーをのぞき、シャッターを切る。それは、まさに金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王の姿そのものだ。
いやはや、なるほど、こんな姿で構えて、あの数々の傑作写真が生まれたのですね。納得できました。白籏(しらはた)史朗の写真集を改めて手にとってみることにします。
(2020年5月刊。2000円+税)
2020年12月28日
善と悪のパラドックス
(霧山昴)
著者 リチャード・ランガム 、 出版 NTT出版
ヒトラーもスターリンも、そしてポル・ポトも何百万人もの人々の処刑を命じたが、親しい人には愛想が良く、いつも温和な態度を示していたという。つまり、ひどく邪悪な人間も穏やかな一面をもつことはありうるのだ。
人間は生まれつき性善か性悪か、単純な議論に意味はない。人間は生まれつき善良であり、同時に生まれつき利己的だ。すべての人が善にも悪にもなりうる。
生物学的な条件が人間のもつ矛盾する性質を決定し、社会が両方の性に影響を及ぼすのだ。善良さは、強化されることもあれば堕落することもある。同じく、利己心には強まることも、弱まることもる。人間が特異なのは、ふだんの社会生活ではいたって穏やかなのに、ある状況では、すぐに相手を殺すほど攻撃的になるという組み合わせだ。
チンパンジーは、オスがメスより優位で、比較的凶暴だ。ボノボは、概してメスがオスより優位に立ち、平和的で、攻撃の代わりに性行動をとることが多い。
そして、人間は、ボノボのように非常に忍耐強いものの、同時にチンパンジーのように非常に凶暴だ。ボノボは人間によって家畜化されたのではない。ということは、ボノボは「自己家畜化」したのだ。
ニューギニアの隔絶された高地に住むダニ族は、他部落との領地(ナワ張り)をめぐる争いは深刻で、死因の3分の1は、その争いに起因する。しかし、村のなかでの暴力は厳しく統制されている。敵を威嚇しても、自分の村のなかでは、決して暴力をふるわない。
これは、文明国の兵士が戦場と母国とで行動がまったく異なることと同じ(共通している)ことだ。
日本軍の兵士が中国大陸で残虐行為を繰り広げていたのは事実としてあるわけですが、今やその体験者がごくごく少なくなっていっています。
オオカミは犬とは違う。どれほどオオカミを飼い慣らしても、家畜されることはない。
おとなの類人猿は安全ではない。どんなに慣れたチンパンジーでも、人を攻撃しないという保証はない。
家畜化された動物と野生種との違いが四つある。その一は、家畜は野生種より小型になる。その二は、家畜は顔が平面的で、前方への突出が小さくなる。その三は、オスとメスの違いが家畜では野生動物より小さい。その四は、家畜は野生より脳が明らかに小さい。ただし、能力が劣化するというのではない。
チンパンジーのオスがメスにしばしば暴力をふるのは、目につけたメスをおびえさせて交尾要求を容易に受け入れさせるのが目的だ。そして、このメスをおびえさせるだけ多くの子孫を残す、オスの戦略の重要な要素になっている。
ところが、ボノボは、食べ物をすすんで分かちあい、他者が自分の食べ物を食べることに寛容だ。ボノボにとって食べ物より仲間のほうが重要なのだ。
チンパンジーとボノボは、90万年前から210万年前に共通の祖先から分かれた。ボノボの頭蓋骨は、子どものもののように見えて、実は大人なのだ。ボノボの発情期は長く、メスがオスに対して主導権を握っている。ボノボは、おとなになっても同性愛的な行為(ホカホカ)を続ける。交尾と遊びは一体となっている。ボノボの群れの中心には常にメスの集団があり、オスよりメスの数が多い傾向にある。メスのほとんどは近い血縁関係になく、メスは安定した結びつきを築くことで、防衛的な協力体制をつくりあげている。オスは、それによって、攻撃を無効化され、おとなしくなっている。
ボノボは人間の手が加わらなくても家畜化している(自己家畜化)が、人間も同じように自己家畜化している。
カンボジアやルワンダで大量虐殺の実行者(犯)たちは、狂信者というのではなく、家族や同胞をふつうに愛する平凡な人々だった。恐怖と凡庸は、お決まりの組み合わせだ。
人間に近いチンパンジーとボノボの違いというのは何度読んでも大変興味深いものがあります。そして、人間の自己家畜化のきっかけは「言語」を操る能力だったということに大いに注目しました。
人間が本来善であり、悪であるという認識に立ち、いかにして世界の平和を守り、戦争にならにようにするか、その努力が大切だと痛感しました。
(2020年10月刊。4900円+税)
2020年12月20日
草原の国キルギスで勇者になった男
(霧山昴)
著者 春間 豪太郎 、 出版 新潮社
いやはや、いまどきの日本の若者(男性)にも、こんな無茶な冒険をする人がいるんですね、驚き、呆れ果ててしまいました。いえ、決して非難しているのではありません。私なんか絶対に真似できない(したくない)冒険をあえてしている話に接して、指をくわえて、ひたすらうらやましがっているというわけです。
どんな冒険かというと、キルギスの草原を馬と一緒に行く、2頭の羊そして犬と一緒に同じく草原を行くというのです。
まあ、馬と一緒に行くというのは分かりますよね。でも、羊と犬を連れて歩いていくというのにどんな意味があるのか...。とくに意味はないのでしょうね。
ところが、著者は、なんとそれをどちらも成功させるのです。しかも、パソコンは自由自在どころか、ドローンまで飛ばすのです。そして、各地で親切な人々と出会い、そこで何泊もさせてもらったりもします。
そのとき、京都・祇園や新宿・歌舞伎町でキャッチをした経験をいかすのでした。つまり、この人は信じられるか否かを、一瞬で見抜く技(ワザ)を見につけているというのですから、たいしたものです。
著者の自己紹介によると、主なスキルとしてまず語学があげられています。英語、フランス語、アラビア語、ロシア語ほかが話せるようです。たしかに、キルギスの草原では、せめてロシア語くらい話せないといけないでしょうね...。
著者のスキルには、まだほかに、気象予報士、応用情報処理技術者、そしてキックボクシングもできるといいます。まさしくスーパーマンですね、これって...きっと...。
見知らぬ大地を冒険するには、それくらいの資格が必要なのでしょうし、また、とれたらチャレンジしたくもなるのでしょう...。
(2020年10月刊。1900円+税)
2020年12月15日
これからの男の子たちへ
(霧山昴)
著者 太田 啓子 、 出版 大月書店
小学6年生と3年生の2人の息子の子育て真最中の女性弁護士が男の子の育て方について体験をふまえて問題提起しています。
なるほど、なるほど、そうなんだよな...と私も反省させられるところが多々ありました。
子育てするなかで、人間というのは、ごく幼いうちから社会の中で生きる「社会的存在」なのだとつくづく感じさせられた。
「カンチョー」は性的虐待だ。スカートめくりは激減した。なるほど、これまた、そうなんですよね...。
男性学なるものがあることを初めて知りました。
男性学とは、充実した仁政を送っているとはとても言えない、さまざまな問題をかかえている悩める男たちが、より豊かな人生を送るために生み出された、男性の生き方を探るための研究。うむむ、私も改めて勉強しなくては...。
アルコール依存症患者の9割は男性。アルコール依存症は否認の病。自分にお酒の問題があることをなかなか認めない。「助けてほしい」「気持ち分かってほしい」と、自分の弱さや悩みを言葉にして周囲に援助を求めればいいのに、しらふでは「男らしさのとらわれ」から出来ず、飲酒によって子どものように退行することで周囲にケアさせる行動がみられる。
インセルという言葉も初めて知りました。自分で望んだわけでもないのに、女性と性的関係をもてない男性のこと。
「女嫌いの女体(にょたい)好き」という表現もあるそうです。女性を蔑視しながら、女性との性的関係に固執する男たちのことです。女性を泥酔させてレイプする性犯罪を繰り返していた集団に属する男たちがそうです。女性と仲良くなって同意のうえでセックスするのではなく、女性の意思を無視して、いかに数多くの女性とセックスしたかを競い、自慢しあうという男たちです。私なんか、そんな話を聞くだけでも嫌になります。
痴漢被害者に気がつかない、気がついても助けようとしない大人たちがいかに多いか...。ここは私も大いに反省させられました。いえ、目撃したということはないのです。ただ、目撃したり、助けを求める叫びを聞いても、それに応えて行動できるか心もとない、自信がないということです。やはり、勇気がいります。
「ひるまない」ことの大切さが強調されています。すぐに行動しなければいけないっていうことも多いわけなんですよね。むずかしいことですが...。
この本で著者は3人と対談して、さらに問題点を掘り下げていて、これまた視点が広がり、大変勉強になりました。5歳と2歳の2人の男の子(孫です)と格闘中の娘にもぜひ読んでもらいましょう。増刷が相次ぎ、早くも5刷です。これは、すごーい。この分野に世間の関心が集まるのは、とてもいいことだと思います。
(2020年11月刊。1600円+税)
2020年12月14日
それでも読書はやめられない
(霧山昴)
著者 勢古 浩彌 、 出版 NHK出版新書
私と同じ団塊世代の著者は大変な読書家のようです。
「それでも」というのは、2018年10月に軽い脳梗塞をしたからのようです。私も、読書はやめられない部類です。しかも、電子書籍ではなく、紙の本に限ります。赤エンピツ片手に、ここぞと思ったところにはアンダーラインを引きます。この作業のとき、2度読み、あとで書評のために引用するため3回読んで、そのあと、すっかり忘れてしまうのです。
そして、著者は面白そうな本を死ぬまで読みつづけると言うのです。私も、面白そうな本が最優先ではありますが、もう一つ、この世の中がどうなっているのかを知りたいという欲求に応えてくれる本なら、面白そうでなくても挑戦します。新規性がなく面白味もなかったら、ガッカリするだけですが、ともかく最後まで手早く頁を繰って、なにが面白いことがないか、目新しいことが書かれていないか、最後まで読み通します。あとがきや解説を読んで、なるほど、そういうことだったのかと思い至ることがあります。
人間的成長に資するかどうかなんていうことは、私の読書とはまったく無縁の観点です。幅広い読書をすると、総合的な判断を下すことができる。なーるほど、ですよね...。
読書は人間の幅を広げ、器を大きくする。そうかも...。
読書は、コミュニケーション力を育てる。たしかに話題は豊富になりますけど...。
古典への挑戦は、私も何回もしました。その典型はマルクスの「資本論」です。弁護士になって2回読みました。一応全巻通読です。といっても、理解できたとは、まったく考えていません。読み通したことの自信が残っているだけです。あと、「源氏物語」は、古典ではなく、新訳で挑戦したいとは思いますが...。プルーストの「失われた時を求めて」は、敬遠し続けるつもりです。
私は、本を買って読む派です。図書館は資料として読むために利用するだけです。
現代小説を読まず、時代小説と海外ミステリーが残っているという著者です。なので、ノンフィクションの類がまったく紹介されていません。それだけは残念でなりませんでした。
(2020年3月刊。900円+税)
2020年12月13日
映画の匠、野村芳太郎
(霧山昴)
著者 野村 芳太郎 、 出版 ワイズ出版
映画ファンなら、「七人の侍」と並んで名高い「砂の器」をみなかった人はいないでしょう。山田洋次監督の師匠にあたる映画監督です。親も映画監督で、息子さんも映画プロデューサーです。
でも、「張込み」はみた記憶がありますが、「伊豆の踊子」とか「五弁の椿」は今でも見てみたいなとは思いますが、残念ながらみた記憶はありません。
「砂の器」は、1974年(昭和49年)制作ですから、私が弁護士になった年のことです。東京の映画館でみたときの圧倒的な衝撃は今も身体に残っています。上映時間は2時間23分の超大作映画です。毎日映画コンクール大賞など、いくつもの賞を受賞しています。
音楽の芥川也寸志もしびれましたが、なにしろロケ地が良かったですね。このロケハンに1年もかけたといいます。
冬の厳しさには、本州・北端の龍飛(たっぴ)埼、春は生活感のある花として信州・更埴市のあんずの里、新緑の北茨城、真夏の亀嵩村そして秋は北海道・阿寒にロケを敢行したのでした。
勝負どころの音楽会は埼玉会館で3日間の勝負、エキストラは連日1200人...。
野村監督は趣味を問われると、なんと、丹精こめて映画をつくりあげること、そして、自分の作品が上映されている劇場に行って観客の顔をみること。充実した顔で劇場を出ていく観客をみるのが楽しいから...。なーるほど、ですね。
野村監督は実は、戦争中、かのインパール作戦に従軍しています。補充将校として1943年(昭和18年)4月にビルマに出発。第15師団独立自動車第101大隊小隊長として、2年間、ビルマ戦線で弾薬を輸送する任務についていた。後方部隊ではあったけれど、それでも決して安全なところにいたわけではない。ビルマの戦場では19万人もの日本兵が死に、インパール作戦だけでも6万5千人もの戦死者がいる。野村監督は、現地の戦場で人間が腐って死んでいく姿を見ていた。
人間の腐敗は、生きているうちに始まる。重傷を負い、また栄養失調と疲労で動けなくなった兵士の皮下に、ハエが卵を産みつける。皮下で卵がかえってウジとなる。すると、そのウジは、兵士の肉を食べて成長する。やがて兵士の体は異常に膨張しはじめる。皮下で無数のウジが、どんどん育っていく。そして、あるときピッと皮膚がはじけて、ウミとウジが流れ出てくる。そして流れ出たあとに白い骨がのぞいている。腐敗がはじまって、ビルマの赤い土になるのに半月とかからない。「猿の肉だ」と言って、死んだ戦友の身体の肉を食べて生き残った兵士もいた...。まさしく生き地獄だった...。
山田洋次監督は師匠の野村監督について、クール、冷静で鋭い頭脳の持ち主だったと評する。突き放したところで観察していて、ときおり的確な助言をする、そんな教え方だったと...。
20年間に70本もの映画をつくったというのですから、今では考えられませんね。短期間に大量生産したわけですが、それだけ映画製作スタッフが充実していたということなんでしょう。美空ひばりや、コント55号などそのときの有名人を主人公とした映画も見事につくっていますので、よほど映画監督が性にあっていたのでしょうね...。
堂々、500頁の大作ですが、なつかしい思いが一杯あふれる本でした。
(2020年6月刊。3600円+税)