弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年7月27日
ヒトラーのオリンピックに挑め(上)
アメリカ
(霧山昴)
著者 ダニエル・ジェイムズ・ブラウン 、 出版 早川書房
アメリカで220万部を売り上げたベストセラーだそうです。大学のボート部が、ヒトラー・ナチスの主宰したオリンピック競技に出場するという話です。この上巻では、まだオリンピック競技にまではたどり着きません。ボート部の訓練の様子、そして、ボート競争では何が求められるかというのが、選手たちの心理に至るまで刻明に明らかにされていきます。
戦前のアメリカではボート競技というのはハイクラスの学生が関わるものだったようです。それでも、民衆の関心を惹く競技でもありました。
ボートは、筋力だけの勝負ではない。筋力の勝負であると同時に、それは一種の芸術であり、肉体的な強さと同じほど、鋭い知性が必要になる。
ボートは、恐らく、どんなスポーツよりも苛酷な競技だ。ひとたびレースが始まったら、タイムアウトも選手交代もない。漕手には、限界まで耐え抜く力が必要だ。
コーチは教え子に、心と頭、そして体で苦難を耐え抜く秘密を伝授しなければならない。
ボート競技の根本的な難しさのひとつは、漕手がひとりでもスランプになると、クルー全体がスランプに陥ってしまうこと。ボートは、シェル艇に乗ったすべての漕手が完璧にオールをひと漕ぎひと漕ぎしなければ、勝利をおさめられないスポーツだ。すべての漕手の動きは、密に連携しあい、ぴったりシンクロしなくてはならない。メンバーが、ひとりでもミスをしたり、不完全な動きをしたりすれば、リズムが断たれ、ボートはバランスを崩す。漕手は自分の前にいる漕手の動きと、指示を出すコックスの声に全神経を集中させなければならない。
ボート競争において、こちらにまだ力が残っていることを相手がまだ知らなければ、その力を見せたとき、相手は必ず動揺する。そして、動揺した相手は、ここ一番でミスを犯すはずだ。ボート競技で勝利をおさめるには、自信も必要だが、自分の心を把握するのも、また重要だ。
まず、長さ18メートル以上ある真っ直ぐなI型鋼をビームとして使って、トウヒやトネリコ材で精密な骨組みをつくる。それから骨組の肋材(ろくざい)にスペインスギを長く挽(ひ)いた外板を何千もの真ちゅう釘やネジで注意深くとめつけていく。釘やネジの出っ張りには、ひとつひとつ根気良くヤスリをかけ、それが終わったら、船舶用のワンスをかけてコーティングする。板を釘で骨組みに固定するこの作業は、全体のなかでもことに難しく、神経を使う。ほんのすこしノミがすべったり、槌(つち)を不注意に振りおろしたりすれば、何日分もの仕事が台無しになってしまう。
ボートは手づくりしていた時代なんですね...。
ベイスギは、驚きの樹木だ。内部の密度が低いため、ノミでもカンナでも手鋸でも楽に形づくることができる。連続気泡構造のせいで、軽くて浮力がある。
8本のオールがぴったり同じタイミングで水に入ったり、出たりするというだけの話ではない。8人の漕手の16本の腕はいっせいにオールを引き、16の膝はいっせいに曲がったり伸びたりしなくてはならない。8つの胴体は、いっせいに同じタイミングで前へ後ろへと傾き、8つの背中は同じタイミングで曲がったり、伸びたりしなくてはならない。
ほんのわずかな動作、たとえば手首の微妙な返しに至るまで、漕手全員が互いを鏡にうつしたように完全に同調し、端から端まで一糸乱れぬ動きが出来たとき、ボートはまるで解き放たれたように、優美に、すべるように進む。その瞬間、初めてボートは漕手たちの一部となり、それ自体が意思をもつかのように動きはじめる。苦痛は歓喜に変わり、オールのひと漕ぎひと漕ぎは、一連の完璧な言語になる。すばらしいウィングは、詩のようにさえ感じられる。
スピードは漕手にとって究極の目的であると同時に、最大の敵でもある。美しくて効果的なストロークは過酷なストロークなのだ。
すぐれた漕手には、巨大な自信や強烈な自我、すさまじい意志の力、そしてフラストレーションをものともしない強い力がなくてはいけない。自分の力を深く信じることのできない者、困難に耐え苦境を乗りこえる能力が己にあると信じられない者は、ボート競技の最高峰を目ざすことすらできまい。
ボートという競技は、選手の体をさんざんに痛めつける苦しいスポーツであると同時に容易には栄光をもたらさないスポーツだ。栄光を手にできるのは、何があっても自己をたのむ気持ちを失わず、目標に向かい続けることのできる一握りの選手だけ。
ボート選手には、自我を捨てることも必要になる。並み外れた才能と力の持ち主だが、そこにはスターはいない。重要なのはチームワーク。個々人や自我ではない。筋肉とオールとボートと水が織りなす動きがメンバー同士、一分の狂いもなく同調し、個々のクルーがひとつに結ばれ、全体が美しいシンフォニーのようになることが何より重要だ。
つまり漕手は、自立心や自己をたのむ気持ちを人一倍強く持つと同時に、自身の漕手としての個性や能力を、そして人間性を正しく把握しなければいけない。
レースに勝つのは、クローンではない。肉体的な能力と精神的な資質の両面が全体として絶妙にバランスのとれたクルーが勝負に勝つ。クルーの利益のために、自分の漕ぎ方をうまく調節する準備がなくてはいけないのだ。
ボートのクルーの話ではありますが、ここまで極端でなくとも、仕事を立派にやり遂げるにはチームワークこそ必要なことだと思いました。それを文章化していて、すごいすごいと驚嘆しながら読み進めていった文庫本です。あなたにも一読をおすすめします。
(2016年7月刊。980円+税)