弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2018年9月11日

ゲッベルスと私

(霧山昴)
著者 ブルンヒルデ・ポムゼン 、 出版  紀伊國屋書店

ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの秘書をしていた女性が106歳まで長生きしていて、103歳のときに69年前のことを語ったのです。残念なことに私は映画を見逃してしまいました。だって、朝8時半から始まる映画なんてそう簡単に見れませんよね・・・。
103歳ですから、まさしく梅干しのようにしわの多い顔です。30代のころの選ばれし女性秘書の姿を想像して結びつけるのは、とても困難です。
何も知らなかった、私には罪はないというトーンで語られます。でも、彼女にはユダヤ人女性の親友がいて、いつのまにか行方が分からなくなっています。そして、どうやらユダヤ人男性の恋人もいたようです。
白バラ事件のことが少しだけ語られますが、もともと政治に関心のない彼女は深く知ろうとはしなかったようです。つまり、知ろうと思えばユダヤ人大虐殺が進行していることを詳しく知りえる位置にいたけれど、自分の身の安全を第一に考えると、余計なことは知らないように努めるのが一番。そういう処世術で生きのびたようです。
それは、ベルリンがソ連軍によって占拠(占領)されるときも、最後まで宣伝省の地下室にいたことからも裏付けられるのでしょう。彼女は地方に逃げる機会はあったのに、ベルリンへ戻ってきたのです。
彼女がナチ党の党員になったのは、国営放送局で仕事するためだった。ナチ党という運動には無関心でゲッベルスの演説もさめた思いで聴いていた。
彼女は速記の技術を見につけていた。ユダヤ人で高級衣料品店を営む人の下で彼女は2年のあいだ働いた。そのあと、ユダヤ人で保険の仕事をしているところでも彼女は働いた。
1933年以前には、ユダヤ人のことが頭にあった人は、ごくわずかだった。人々の最大の関心事は、仕事とお金を得ること。1933年より前は、誰もとりたててユダヤ人について考えていなかった。あれは、ナチスがあとで発明したようなものだった。
ナチズムを通じて私たちは初めて、あの人たち(ユダヤ人)は私たちと違うのだと認識した。何もかも、ナチスによってのちに計画されたユダヤ人殲滅(せんめつ)計画の一部だった。
私たちは、ユダヤ人に敵意など持っていなかった。父さんは、むしろ顧客にユダヤ人がいることを喜んでいた。彼らはいちばんお金持ちでいつも気前が良かったから、私はユダヤ人の子どもたちと遊んでいた。
ヒトラーが政権を握ると、たくさんのものごとが突然良いほうに変わった。人々は単純に、こう言うしかなかった。やあ、これはなかなか素晴らしいじゃないか、と。
ともあれ、最初の数年は、そしてオリンピックのころまでは、ドイツは素晴らしい国だった。ユダヤ人の迫害は行われておらず、万事がまだ順調だった。
白バラ事件について・・・。あの事件の首謀者は、あまりに若かった。まだ、学生だった。即座に処刑するなんて残酷すぎた。誰も、そんなことを望んではいなかった。でも、あんなことしでかすなんて、それは彼らが愚かだった。黙ってさえいたら、今ごろきっとまだ生きていたのに・・・。それが普通の人々の見方だった。
「ノー」を言うことはできなかった。「ノー」と言うのは、命がけのことだった。人々は、自分のことばかりにかまけていて、貧しい人々のことにいつもは思いが至らなかった。
近所では、ユダヤ人が消えるという事態は、まだ起きていなかった。でも、いったん始まったら、あっというまだった。
ゲッベルスにとって、秘書は部屋の中にある家具や机と同じだった。秘書を女だとすら見ていなかった。スターリングラードでの陸軍の敗北が、ターニングポイントだった。万事が困難になった。
これが恐ろしい戦争だということは、みんな分かっていた。そして、この戦争は不可欠なのだと私たちは教えられていた。国民のために、そして世界中から敵視されているドイツの存続のために、不可欠な戦争なのだと教えられてきた。
宣伝省の仕事の大半は、前線や帝国内で起きているありのままの事実を粉飾することに関連していた。事実は、国民の目にポジティブに映るように、指示にもとづいて修正されていた。
戦争の末期、迫りつつあるソ連軍の背後にヴェンク軍が回り、不意打ちを食らわせるはずだと、まだ信じていた。ナチスが権力を握ったあとでは、国中がまるでガラスのドームに閉じ込められたようだった。私たち自身がみな、巨大な強制収容所のなかにいた。ヒトラーが権力を手にしたあとでは、すべてがもう遅かった。
ポムゼンの話を聞いていると、共感や連帯意識の低下、そして政治への無関心こそが、ナチスの台頭と躍進を許した要因の一つであることがよく分かる。
ええっ、これって現代日本とまったく同じことですよね。クワバラ、クワバラ・・・。早いとこ、嘘つき政権に引導を渡しましょう。
(2018年7月刊。1900円+税)

2018年9月 5日

ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅(下)

(霧山昴)
著者 ラウル・ヒルバーグ 、 出版  柏書房

この下巻だけでも、上下2段組みで420頁超という大著です。
著者は1926年にオーストリア・ウィーンで生まれたユダヤ人で、アメリカに脱出し、アメリカ兵としてヨーロッパ戦線に出かけ、戦後はドイツにおけるアメリカ軍の尋問担当教授でした。その後、アメリカのコロンビア大学で学び、ヴァーモント大学で政治学を教えています。この本の初版は1961年に刊行されました。
著者は、ハンナ・アーレントより前にユダヤ人の無抵抗・文書や口頭による請願のほかは危機的に服従するだけというユダヤ人のとった態度を強調していた。
ユダヤ人評議会がゲットーを存続させるために行ったあらゆることは、結局のところ、ドイツ人をユダヤ人絶滅という目標に近づけることを助けた、と指摘した。
600万人ものユダヤ人がなぜヒトラー・ナチスに抵抗せずに、易々と羊のように殺されていったのか・・・。
何世紀にもわたって、ユダヤ人は生き残るためには抵抗を避けなければならないと学んできた。繰り返し、彼らは、攻撃を受けた。十字軍、コサックの襲撃、ツァーリの迫害などを耐え忍んだ。このような危機の時代には、多数の犠牲者が出たが、潮が引いたあとにあらわれる岩礁のように、常にユダヤ人の共同体は再生した。つまり、ユダヤ人を抹殺することはできない。この考えが律法のような力を持つほどになっていた。
2000年間に学んだことをユダヤ人は忘れることは出来なかった。考えを切り替えることが出来なかったのだ。
ユダヤ人は、「登録」、「移住」、「風呂」、「吸入」という言葉に騙された。
ユダヤ人指導者は、犠牲者たちが切迫した死に直面しているという明白な証拠がなければ、ドイツの命令を拒絶できないという主張に確執していた。
デンマークのコペンハーゲンではユダヤ人の99%以上が生き残った。
ポーランドのワルシャワはユダヤ人の99%近くが亡くなった。
ドイツ人官僚はユダヤ人絶滅のため仕事の成就に向けて突進した。最小限ではけっして満足せず、常に最大限のことを行った。
イタリア人のように口実に頼ることはしない。ハンガリー人のように見せかけの措置をとることはしない。ブルガリア人のようにぐずぐずすることもなかった。
虐殺したナチス・ドイツの側の記録では、ユダヤ人の反応パターンの特徴は、抵抗がほとんど欠落していたこと。もし、ユダヤ人が何らかの組織をもっていたら、何百万人は救われていただろう。実際には、自分たちにふりかかる災難に、これほどまでに無頓着だった民族はいないだろう。
ユダヤ人の多くは逃亡を無益だと考えていた。
ハンガリーのユダヤ人が他のほとんどの国のユダヤ人と違うところは、たんに中産階級であるというのではなく、大部分は唯一の中産階級であり、ハンガリーのすべての専門職と商業の活動の主力であったことである。1930年代のハンガリーの開業医と弁護士半分以上がユダヤ人、貿易業者とジャーナリストの3分の1がユダヤ人だった。ユダヤ人は通常の経済生活にとって真に欠くべからざる存在だった。
ブタペストには全部で3万の商店があったが、ユダヤ人の営業所は1万8千であり、その閉鎖は、「かなりの支障」をひきおこした。
ヨーロッパに住んでいた何百万人ものユダヤ人を絶滅する過程で何が起きていたのかをあますところなく実証していった画期的な労作です。
ながく積ん読く(つんどく)状態にあったのを、この猛暑のなかで、ついに完読しました。決して忘れ去ってはいけない歴史です。かのアベ君に頭を押さえつけてでも真っ先に読ませたいのですが、残念ながら無理でしょうね・・・。図書館で借りてご一読をおすすめします。
(1997年11月刊。1万9千円+税)

2018年8月31日

ホロコーストの現場を行く

(霧山昴)
著者 大内田 わこ 、 出版  東銀座出版社

ポーランドには、ナチスがただユダヤ人を殺す、それだけのために建て、計画が終わったら事実を消すために、すべてを取り壊した絶滅収容所がある。そこで200万人のユダヤ人を殺した。
ナチスは肉体的に殺しただけでなく、ユダヤ人がこの世に存在していたという事実をも消そうとした。しかし、彼らすべてに名前があった。家族もいれば、生活もあった。未来もあったのだ。そのすべてが一瞬にして葬り去られた。
ところが、このひどい歴史がいまだに広く知られていない。
ナチスは200万人をこえるユダヤ人をガス殺した。そのあと、施設をすべて破壊して更地にした跡に樹木を植えて、殺戮の跡をきれいに消し去った。だから、アウシュヴィッツのような引込み線、ガス室跡は何もない。
著者は、そこへ出かけ、虐殺を感じとるのです。
ベウジェツ絶滅収容所で虐殺された50万人のうち、脱走に成功したのは、わずか5人のみ。その一人が体験記を書いている。
移送は、毎日、1日も絶えることはなかった。1日に3回、1列車は50車両、1車両に100人が詰め込まれていた。ナチスの隊長が大声で叫ぶ。
「きみたちは、これから浴場へ行く、それから仕事場に送る」
人々は、瞬間、うれしそうになる。仕事に就けるという望みから、目が光った。しかし、実際には裸にされてガス室へ追いたてられ、たちまち苦悶死に至る。
「ママ―、ぼく、いい子にしていたよう。暗いよう、暗いよう・・・」
なんという叫びでしょうか・・・。
ユダヤ人を放っておくと、優秀なアーリア人(ドイツ人)が逆に絶滅させられるという危機感をヒトラーたちはあおっていたのでした。ひどすぎます。
アウシュヴィッツ強制収容所に音楽隊がありましたが、ベウジュツにも音楽隊があったようです。アコーディオンをかかえた人、バイオリンを弾いている人、トランペットを吹いている人などがうつっている写真があります。これらの人々も、きっと殺されてしまったことでしょう。
決して忘れてはいけない歴史です。日本から現地に行った人がとても少ないようで、心配です。といっても、残念ながら私も行ったことはありません。
(2018年6月刊。1389円+税)

2018年8月28日

ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅(上)

(霧山昴)
著者 ラウル・ヒルバーグ 、 出版  柏書房

ヒトラー・ドイツによってヨーロッパのユダヤ人が絶滅されていく過程をきわめて詳細に明らかにした大部の書物の上巻です。長いあいだ課題図書として「積ん読(ど)く」状態にしていましたが、箱から取り出して読みはじめました。なにしろ上下2段組みで上巻の本文だけで515頁もありますし、内容が重すぎますので読み飛ばしも容易ではありませんでした。
ヨーロッパ各国でユダヤ人はヒトラー・ドイツの要求の下で移送・絶滅の道をたどっていったわけですが、イタリアではそうではなかったのですね。イタリアの国王は「ユダヤ人に限りない同情」を感じていると高言し、イタリアにはユダヤ人の運命に動揺している「2万人もの意気地ない人間がいる」とムッソリーニが言ったとき、国王は、「自分もその一人だ」と答えたのでした。
イタリアでは、比較的多数のユダヤ人が官吏や農民として生計を立てていた。イタリアのユダヤ人社会は、2000年の歴史をもっていた。イタリア・ユダヤ人はイタリア人の隣人と疎遠にはならなかった。彼らはイタリアの言語や文化を吸収した。小さなユダヤ人共同体が、芸術・科学・商業・政治の各分野で多くの地位の高い個人や目立った人々を生み出していた。
ユダヤ人の非常に多くが軍の教授であるばかりか、政府の最高のレベルで公僕として活動していた。首相・外相・国防相・蔵相・労働相・法相・教育相にユダヤ人が就いていた。
イタリアのファシストは、有言不実行だった。イタリア人は、心のなかでは、ドイツ人やドイツの生活様式をひどく嫌っていた。
問題はイタリアには存在しない。ユダヤ人は多くないし、例外はあるが、彼らは害にはならない。ヒトラー・ドイツはイタリアではユダヤ人絶滅を思うように進めることが出来なかった。
フランスにいたユダヤ人はイタリアのように安全ではなかった。1939年末、フランスのユダヤ人は27万人。パリだけで20万人以上のユダヤ人がいた。そして、フランス人はドイツ支配下においてユダヤ人絶滅のための「移送」を「効率良く」すすめていった。
ヒトラー・ドイツがユダヤ人絶滅する必要があるとしたときの「理由」に一つが、「ユダヤ人はコレラ菌だ」というものでした。その「伝染力と浸透力」を考えたら、絶滅するほかないとしたのです。
ヨーロッパで迫害されたユダヤ人たちは、迫害者に対する他国のユダヤ人組織による報復行動を拒絶した。それは、状況をいっそう悪化させないためだった。
なるほど、これがヒトラー・ナチスによるユダヤ人の絶滅策が粛々と進んでいった要因の一つなのですね。
ユダヤ人は暴徒が来ることを知ると、共同墓地に避難し、群がり祈りながら死者の衣服を身につけて殺害者たちを待った。屈従である。ユダヤ人にとって、反ユダヤ主義的な法令への屈従は、常に生きることと同等だった。暴力に対するユダヤ人の反応は、つねに苦難軽減への努力と屈従だった。
いやはや、これはとても理解できない反応です。
ポーランドにおけるユダヤ人評議会は、ユダヤ人の苦しみをやわらげようと、ゲットーにおえける大量死に歯止めをかけるという見込みのない努力を最後まで続けた。同時に、ユダヤ人評議会はドイツ人の要求に素直に応じたし、ドイツ人の権力者へのユダヤ人社会の恭順を呼びかけた。こうしてユダヤ人指導者たちは、ユダヤ人を救いもしたし、滅ぼしもした。
ユダヤ人のアンナ・ハーレントはユダヤ人評議会の屈徒を厳しく批判したため、戦後のユダヤ人社会から激しく非難されたのです。でも、どうなんでしょうか・・・、銃殺される寸前にユダヤ人は羊のように従順でおとなしく、ジプシーたちは騒々しく抵抗したと聞くと、無神論者の私なんか、湧き上がる疑問を抑えることができませんでした。
ゲットーのユダヤ人組織のなかでも、本部のユダヤ人たちはブーツを履いて快適な事務室で執務していたようです。また、ゲットーにも金持ちのユダヤ人たちの生活区画があったとのこと。なかなか疑問は絶えません。
ポ^ランドのワルシャワ・ゲットーにおけるユダヤ人の武力衝突は、2000年におよぶユダヤ人の服従政策の歴史のなかの突然変異だった。
ユダヤ人からなる評議会は、ドイツ政府との完全な協力という方針にすべてを賭けていた。ええっ、そんなのが「生き残る方策」としてありえたのでしょうか・・・。
なぜ、我々は黙っているのか。
なぜ、森に逃げるように叫ばないのか。
なぜ、抵抗を呼びかけないのか。
私にも、この「なぜ」は、その実行できなかった理由がとても理解できません。「2000年の屈従の歴史」と言われても・・・、という感じです。
ユダヤ人評議会のリーダーたちは、このように考えたのでしょう。
ワルシャワ・ゲットーに38万人のユダヤ人がいる。ナチス・ドイツに抵抗すると、その少数者のために多数者が犠牲になることは目に見えている。6万人を移送したとしても、38万人すべてを移送することはないだろう。では、しばらく様子見て見よう。ともかく、今は武力行動はやめておこう・・・。
そして、もう一方では、ドイツ人は報復しても、数万の命であって、まさか30万人ではないだろう、という見方もありました。現実には、このどちらも甘すぎたのでした。ユダヤ人絶滅策は、文字どおり実行されたのです。なんと難しい思考選択でしょうか・・・。
(1997年11月刊。1万9千円+税)

2018年8月18日

鉄道人とナチス


(霧山昴)
著者 鴋澤 歩 、 出版  国書刊行会

ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺を可能にした有能な道具はドイツ鉄道でした。
そのドイツ国鉄総裁を長くつとめていたユリウス・ドルプミュラーに戦争責任はないのか、そんな問題意識で書かれた本です。
本人は、戦後まで生きのびて、ユダヤ人大量絶滅作戦なんて知らないと言い通したようです。そんなはずはありませんよね・・・。
ユダヤ人迫害は、その資産の略奪・没収する側にまわった人間にとっては、決して不合理でも非経済でもなかった。
ドルプミュラー総裁以下のライヒスバーンは、組織全体としては、基本的に受け身で場当たり主義的な対応に終始した。結果的には、組織内外のユダヤ人への迫害を重ねたが、輸送という鉄道業本来の業務によって大量虐殺への直接的関与を大々的におこなうには、やはり第二次世界大戦の勃発という契機が必要だった。
ドルプミュラーたちは、ユダヤ人大虐殺の事実を知っていながら、知らないふりをし、ユダヤ人という他人の運命に無関心を通した。
ドルプミュラーは、ユダヤ人虐殺について、くわしいことは何も知らなかった。都合の悪い事実は、すべて忘れることにした。
列車によるユダヤ人移送のピークは1942年だった。本数にして270本、14万人が移送された。狭い車両に押し込められ、ものすごい密集状態で運ばれたという体験、それだけが生き残った犠牲者の思いだせることだった。
まさしく、隣は何をする人ぞ、という世界へいざなっていきます。
ナチスとドイツ官僚とのあいだに若干の矛盾があったことは間違いないでしょう。しかし、ヒトラーのユダヤ人絶滅に手を貸した責任はやはり免れないものです。
(2018年3月刊。3400円+税)

2018年8月16日

ソウル・ハンターズ

(霧山昴)
著者 レーン・ウィラースレフ 、 出版 亜紀書房

シベリアに住む少数民族、ユカギールの社会を研究した学者の本です。
ユカギール人は、トナカイ牧畜によって生活している。イヌが唯一の家畜である。
ユカギール人は、エルクを狩猟によって得ると、狩猟者たちのあいだで、森の中でシェアされる。
分け前は、集団内の狩猟者の数に応じて山積みにされ、全員が年齢や技術に関係なく平等な分け前を得る。
村に戻ると、肉は再びシェアされる。狩猟者は全員と分け合う義務はなく、親戚にだけそうする義務がある。親族は「よこせ」と言う。そこには「お願いします」とか「ありがとう」という言葉はない。肉が調理されてしまうと、それは再び、その場にいる者、通常は、世帯の全員にシェアされる。肉が保存とか貯蔵されることは、ほとんどない。ユカギール人は、新鮮な肉を食べることを好む。
ユカギール人の狩猟者は、森に行くとき、わざと食料は2日か3日分しか持っていかない。古い世代のユカギール人は、野草を食べることをかたくなに拒絶する。赤くて脂肪の多い肉が何より重要視され、そんな肉のない食事は、まったく正しい食事ではないと、ほとんどの人は考えている。
ユカギールの子どもたちは、寄宿学校に入れられて学ぶよう義務づけられるが、ほとんど6年くらいで脱走して、両親の元へ戻った。
学校を必要としない社会、親と子のつながりで生きていける社会もあるのですね・・・。
(2018年4月刊。3200円+税)

2018年6月19日

エマニュエル・マクロン

(霧山昴)
著者 アンヌ・フルダ 、 出版  プレジデント社

昨年(2017年)5月、フランス大統領にエマニュエル・マクロンが当選した。
人好きのする笑顔と、いかにもフランスの名だたるエリート校(グランゼコル)で学んだ高級官僚といった、つるりとスマートな外見をもつマクロンは、どうにもとらえどころがない。
実のところ、誰もマクロンのことをよく知らない。友人もほとんどいない。
マクロンは、グランゼコルを卒業したあとロスチャイルド(ロチルド)系の投資銀行につとめていた。そしてオランド大統領の下で大統領府(エリゼ宮)の副事務総長に抜擢(ばってき)された。
マクロンの妻ブリジッドは、マクロンが高校生16歳のときに知りあった(生徒と教師として)、24歳年上の人妻で3人の子をもつ教師だった。マクロンの両親は、ともに医師で、離婚している。マクロンに大きな影響を与えたのは妻の母、つまり、祖母だった。祖母(故人)は中学校の校長だった。
16歳のマクロンに教師として接したブリジットは39歳だった。夫と3人の子どもと、何ひとつ不自由のないブルジョアの暮らしを過ごしていた。アミアンのマカロンで有名な老舗の菓子店を営む名家の娘でもある。しかし、何かが物足りなかった。夫は銀行家だった。
二人は高校で演劇を通じて急速に親しくなった。エマニュエルにとって、ブリジットは唯一の女性であり、自分の子どもを持つことをあきらめても一緒になりたかった女性だった。
すごいですね。16歳のときに24歳も年上の教師に恋をして、結局、「ものにする」のですから・・・。
ブリジットにしても、マクロンとの愛を貫くために、銀行家の夫と3人の子どもを捨てたのですから、勇気がありました。「捨てた」といっても、マクロンの選挙戦で勝利したとき、妻ブリジットは子どもたちと孫と一緒に祝福したようですね・・・。
長男はエンジニアに、長女は心臓医に、次男は弁護士になったとのこと。
妻ブリジットは、家庭内で絶えずマクロンに自信をつけてくれる存在だ。一番の話し相手であり、マクロンが16歳のときから、その解放者であり、同伴者だった。マクロンに寄り添い、選挙や就職などのキャリアアップ、そして恋愛上の成熟を支えてきた。
フランスの若き大統領の素顔を少しのぞいてみることができました。
(2018年4月刊。2000円+税)

2018年6月 8日

私はガス室の「特殊任務」をしていた


(霧山昴)
著者 シュロモ・ヴェネツィア 、 出版  河出文庫

アウシュヴィッツ収容所でゾンダー・コマンド(特殊任務部隊)としてユダヤ人の大量虐殺・遺体焼却の仕事をしていたギリシャ生まれのイタリア系ユダヤ人青年(当時21歳)の回想記です。
あまりにも生々しくて、正視に耐えませんが、事実から目を逸らしてはいけないと、必死の思いで読み通しました。
チクロンBが投入されるガス室。その場には命令するドイツ人もいるけれど、実際の作業をするのはゾンダー・コマンドとなったユダヤ人です。
そして、あるとき、著者に対してガス室から生きて出た人はいないのかという質問が寄せられます。そんな人なんているはずがない、という答えを予想していると、実は著者は一人だけ目撃したのでした。それは、母親の乳首をくわえていた赤ん坊でした。その赤ん坊はどうなったか・・・。発見したドイツ人がすぐさま射殺してしまいました。赤ん坊は息をとめて乳首をくわえていたため、毒ガスをあまり吸っていなかったというのです。
ああ、無惨です。なんということでしょうか、人間を殺すことに快感を覚える人間(ドイツ人たち)がいたのです。
ゾンダー・コマンドは3ヶ月ごとに総入れ替えで殺されていった。
では、ゾンダー・コマンドの反乱は起きなかったのか・・・。実は、反乱は起きたのです。勇気ある指揮者(リーダー)がいて、武器や火薬を所持して立ち上がったのですが、密告者(裏切り者)が出て、うまくはいきませんでした。でも、焼却炉の一つを爆破することには成功しています。
なぜ、ユダヤ人の集団がみんなおとなしくガス室で殺されていったのか・・・。
到着した集団は、希望を失い、もぬけのからになってガス室に入っていった。みんながみんな、力尽きていた。
著者はゾンダー・コマンドにいるあいだ、考えることはしなかった。日々、何も考えずに前へ行くしかなかった。どんなに恐ろしい生活でも続けるしかなかった。
ゾンダー・コマンドで自殺したものはいない。何がなんでも生きると言っていた。
あまりにも死の近くにいたが、それでも一日一日、前へ進んでいった。
恐怖に震えあがっていた。
ロボットになっていた。何も考えないようにして、命令にしたがい、数時間でも生きのびようとしていた。
ドイツ軍は収容所で家族を一緒にしていた。もしひとりなら、脱走する考えに取りつかれたかもしれない。でも、親や子を捨てて、誰が脱走などするだろうか・・・。
著者がアウシュヴィッツの経験、悪夢を語りはじめたのは、実は、なんと、自由になってから47年もたってから(1992年から)のことです。それまでは、話しても周囲から信じてもらえなかったという事情もありました。重い、忘れたい記憶を語ることの難しさを示しています。だからこそ、私たちは、このような記録をきちんと読む必要があると思うのです。
ちなみに、まるでレベルが違う話ではありますが、司法試験の受験体験記を本にまとめようと私が思ったのも45年たってからのことです。私にとって、それほど重い記憶なのでした。
(2018年4月刊。880円+税)

2018年5月30日

シリアの秘密図書館


(霧山昴)
著者 デルフィーヌ・ミヌーイ 、 出版  東京創元社

本が人間にとっていかに大切かを思い知らされる本です。シリアの反政府軍の人々がひそかに本を集めて地下に図書館を開設したのでした。
図書館は包囲された町の支柱の一つとなった。礼拝の日である金曜土曜を除いて、午前9時から夕方5時まで開館し、1日に平均25人の来館者がある。基本的に男だけ。
図書館を開設した若者は、実は、戦争がはじまる前は読書が好きではなかった。
戦争のなかで、本に書かれた文章は新たな感動を生みだす。すべてが消え失せる運命にあっても、時の中に残る印を刻む。知恵の、希望の、科学の、哲学の、すべての言葉、爆薬にも耐え抜くすべての言葉全体が息づいている。
棚の上に完璧に分類され、整理された言葉は確固として、勝ち誇り、勇敢で、耐久性と活現性があり、心理に刻み込んでいる。考察の手がかりやあふれるような思想と物語を、そして手の届くところに世界全体を差し出してくれる。
ダラヤの人口は、かつては25万人。それが今では1万2千人。ほとんどの住人に見捨てられた亡霊の町である。ダラヤはシリアの首都ダマスカス近郊にある。
戦争は悪であり、人間を変えてしまう。感情を殺し、苦悩と恐怖を与える。戦争をしていると、世界を違ったように見てしまう。ところが、読書はそれを終らかしてくれる。人々を生命につなぎとめてくれる。
本を読むのは、何よりもまず人間であり続けるため。読書は先在本能だ。生きるために欠くことのできない欲求なのだ。
隣の家に本が1冊あれば、それは弾をこめた鉄砲があるのと同じこと。
本、それは教育の大きな武器、圧制を揺るがす武器だ。
そもそも、ダラヤには図書館はなかった。なのに、内戦がはじまってから、地下に秘密の図書館が出来て、ひそかに運営されていた。
ダラヤの人々はフランス映画の「アメリ」を、そして「レ・ミゼラブル」を何回も何十回もみました。同じように本を読んだのです。一瞬たりとも活字なしでは生きていけない私にとっても切実なテーマでした。
シリアから、そして、朝鮮半島から内戦、戦争をなくしてほしいと切に願います。
(2018年2月刊。1600円+税)

2018年5月 4日

隠れナチを探し出せ

(霧山昴)
著者 アンドリュー・ナゴルスキ 、 出版  亜紀書房

フリッツ・バウアー検事、アイヒマンなどが登場するナチ残党を探し出していく大変な仕事の苦労を紹介した本です。
アルゼンチンに潜伏していたアイヒマンを探し出す苦労については前に紹介しましたが、簡単にはいきませんでした。それでも、イスラエルのモサド長官ハルエルの陣頭指揮で成功したようです。
アイヒマンの裁判をイスラエルですすめるのも大変苦労したようですが、アイヒマン調書は貴重な資料になっています。有名なハンナ・アーレントの「怪物」ではなく、「殺人マシン」の一部にすぎないというレポートの反響も詳しく紹介されています。まるほど、アイヒマンを「怪物」に仕立てあげてしまえば、その他大勢のドイツ人は責任がなかったとして無罪放免になってしまいます。それも、いかがなものか・・・という気がします。
著者は、アイヒマンには相反する特性があったといいます。アイヒマンは全体主義体制のなかで上官を喜ばせるためなら何でもする出世主義者だった。同時に多くのユダヤ人を死に追いやることに無上の喜びを覚え、ナチの手を逃れようとする者は一人残さずつかまえる悪意に満ちた反ユダヤ主義者だった。そういうことなんですね。
アイヒマンは死刑判決が確定したら2時間もあけずに処刑された。なぜか・・・。アイヒマンのシンパが処刑を中止させるために、ユダヤ人の子どもを人質にとったりすることのないようにするためだった。なるほど、そういうことまで考えなければいけないのですね・・・。
ワルトハイム国連事務総長(元)がナチスの一員だったことを暴いた話は当時、私にとっても大変な驚きでした。戦前、ナチスの一員だったことを、そんなに簡単に隠せるものなのかという点と、そんな過去があるのに、そのことを隠したまま、反省することもなく国連事務総長という世界的要職に就いてバリバリ仕事をしていたことに大変な衝撃を受けました。
これには、オーストラリア人の心性が大きく関わっているようです。ヒトラーもオーストラリア出身の伍長だったと思いますが、オーストラリア人の多くが戦前・戦中はナチスの熱狂的支持者だったのです。ところが、戦後は一転して、オーストラリア人はナチスの第三帝国の被害者だったという強固なイメージをつくりあげ、世界に定着させていたことと関わっています。なるほど、微妙な問題なのですね。
ナチ・ハンター同士のいさかいもあったようです。世間には一般的に名高いジーモン・ヴィーゼンタールについては、口から出まかせ、人気とりに長けているという批判(非難)があるなかで、一定の功績はあるとされています。
本文480頁の、読み応え十分の本でした。
(2018年1月刊。3200円+税)

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