弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2017年8月28日
チャップリン
(霧山昴)
著者 大野 裕之 、 出版 中公文庫
私はチャップリンの映画が大好きです。『街の灯』は最高ですし、『キッド』は泣かせます。日本人はチャップリン映画が大好きで、『街の灯』は戦前に歌舞伎座に翻案されて上演もされたということです。
チャップリンは日本にも4回来ていますし、あのステッキは日本は滋賀県産の根竹(こんちく)だそうです。1932年の5.15事件のときには、バカな日本人将校がアメリカ人俳優(チャップリン)を暗殺してアメリカを怒らせて戦争にもち込もうと計画したといいます。犬養首相の招待を断っていなかったら、ともども殺されていたかもしれなかったのです。
銀座で海老のてんぷらを30本も食べて新聞に「てんぷら男」と書かれたなんて、失礼な話も初めて知りました。そして、チャップリン全盛期の秘書は高野虎市という日本人でした。運転手になってから、「看護夫、侍者、個人秘書、護衛、何でも屋」。1926年当時、チャップリン邸の使用人17人は、全員が日本人だった。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・。
世界の喜劇王を支えた日本人がいたことは、私も日本人の一人として、なんだかうれしく思います。
チャップリンの『独裁者』は画期的な映画だと思います。チャップリンとヒトラーは同じ年(1889年)の同じ4月生まれ(16日と20日ですから、4日しか違いません)。そして、1914年に、同じチョビヒゲを生やし始めます。一方は笑いで人々に生きる喜びを与え、他方は人々を大量虐殺する。
ヒトラーはチャップリンの映画『独裁者』をみたあと、公衆の面前での演説はしなくなったといいます。笑いが、ウソに勝ったのです。アベ首相がウソと真相隠しで逃げようとしているとき、それを徹底して笑い飛ばす必要があるのだと思いました。笑いこそが、独裁政治への武器となるのです。
チャップリンに弟子入りした日本人映画監督がいました。牛原虚彦。7ヶ月間、チャップリンのそばにいて、ロープを700回渡り、ライオンと200回演技をして、笑いを追求するその姿を目に焼きつけた。
この本は、チャップリンが映画撮影のためにとったものの、公開された映画には使われなかったボツ(NG)フィルムが400巻あり、それを2年かけて全部みて整理・分析したという著者によるものですから、その薀蓄の深さに圧倒されます。この400巻の全部を全部みた人は世界で3人だけで、そのうちの一人が日本人である著者というのですから、頭が下がります。ありがとうございました。私は大分からの特急列車のなかで読みふけってしまい、あっというまに幸せな気分のまま目的地に到着しました。
チャップリンは台本らしきものを用意せずに撮影を進めていって、現場でひらめいたアイデアをもとに何度も撮り直して作品をつくりあげていった。
かと思うと、ラストシーンを初めてつくりあげて(多少の修正はあっても)、そこに至るシーンを撮影していったというものもあるようです。
360頁の文庫です。たくさんのNGフィルムの写真が紹介されていますが、文庫本じゃなくて、もっともっと知りたくなる本です。
「モダンタイムス」のラストシーンの現場(ロケ地)にまで著者は訪ねています。二人が歩き出したときは影が前に伸びていて、後ろ姿になったときには後に影が伸びている。そんな細かいところにまで著者は目を配っています。さすが・・・、です。
チャップリンは、ユダヤ人にも、ゲイにも、そして日本人にも差別しない普遍的な笑いを追求した。大金持ちの残酷さも見落とすことがなかった。そして、戦争に反対するという信念を映画のなかでも表明した。
幼いチャップリンは、帝国主義的なテーマに満ちたミュージックホールで修業し、街中が戦争を礼賛する言葉であふれているなかに生まれ育った。しかし、「偏執的愛国熱」なる虚しい観念に染まることなく、貧苦という現実とたたかった。そして、そのたたかいを支えたのは、舞台女優だった母がくれたユーモアに満ちた笑いと人間味あふれる愛の灯だった。この幼少時代の体験は、チャップリンの人生を貫く戦争観となる。
チャップリンはバイオリンを弾き、作曲もしていたのですね・・・。さすが天才です・・・。
ぜひ、この本を読んで、もう一回、チャップリン映画をみてみましょう。
(2017年4月刊。920円+税)
2017年8月17日
「フランクル『夜と霧』への旅」
(霧山昴)
著者 河原 理子 、 出版 朝日文庫
フランクルは1905年にオーストリアのウィーンで生まれたユダヤ人の精神科医で、強制収容所から解放されたときは40歳。そのとき、再会したい家族は、この世にいなかった。
フランクルは、1969年に初めて来日し、合計3回、日本に来た。
強制収容所のなかで、フランクルは、仲間に対して、生きる意味に目を向けるようにと、話しかけた。
人々は決して奪われないものがある。一つは、運命に対する態度を決める自由。もう一つは、過去からの光だ。
フランクルは、本を出版してから、五大陸のすべてに講演に招かれるようになり、いくつもの大学の名誉博士になった。ところが、故郷のウィーンでは、冷たい仕打ちを受けた。
フランクルがアウシュヴィッツ収容所にいたのは4日間だけ。37歳の秋から40歳の春までの2年7ヶ月間に、テレージェンシュタット、アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウ、ダッハウ強制収容の支所の二つにいた。
テレージェンシュタット収容所でフランクルは専門を生かして医師として働き、保健部門の一隊を率いて、収容された人々の自殺防止活動など、精神衛生の問題にとりくんだ。
この世界にあって、自分の人生には使命があるという意識ほど、外からの困難と内からの問題を克服する力を与えてくれるものはない。
輝ける日々。それが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに、ほほえもう。これがフランクルのモットーだった。
最後の収容所の所長は、囚人を殴ることを禁止し、追加の衣服や食べ物を与え、自費で薬を買って与えた。
フランクルは、親ナチスだったのではない。集団に「悪魔」のラベルを貼ってみることを拒んだ。人間には、天使になる可能性もあれば、悪魔になる可能性もあって、同じ人のなかでも変わりうると考えた。
フランクルは、1997年にウィーンの病院で亡くなった。92歳だった。長生きしたのですね・・・。ダイアナ皇太子妃が事故で亡くなった直後のことでした。
フランクルの『夜と霧』は、希望の書。心にしみいる希望の書だ。
『夜と霧』には、二つの訳書があるそうです。新旧、二つとも読んでみたい(読み返してみたい)と思いました。
(2017年4月刊。800円+税)
お盆休みに天神の映画館でチェコ・英仏合作映画「ハイドリヒを撃て!」を観ました。
ナチス・ドイツのナンバー3の高官であったハイドリヒの暗殺事件がテーマです。ユダヤ人絶滅政策を推進し、その残虐性から「金髪の野獣」と呼ばれていたラインハルト・ハイドリヒは、まだ38歳なのに、ナチス親衛隊大将でした。
暗殺指令はチェコ亡命政府によるもの。しかし、暗殺に成功したときの報復の規模の大きさから現地レジスタンスには消極論が根強いのです。そして、暗殺チームには、暗殺成功したあとの計画が何もありません。要するに、亡命政府としては、このままチェコ国家が無視されないようにしたいというだけなのです。実際にも、暗殺成功はその成果をもたらしました。
しかし、罪なき市民が5000人も殺害され、リディツェ村は村人とともに地上から消え去ってしまったのです。
オサマ・ビン・ラディンをアメリカ軍特殊部隊が暗殺した状況を映画化した『ゼロ・ダーク・ワン』を観ましたが、たとえ暗殺に成功しても物事の大勢がそのことによって変わるということはほとんどありません。かねてよりアメリカは金正恩暗殺計画をもっているという噂があります。朝鮮半島で戦争勃発なんて恐ろしいことは、ぜひやめてほしいです。
2017年7月25日
シリアからの叫び
(霧山昴)
著者 ジャニーン・ディ・ジョヴァンニ 、 出版 亜紀書房
シリアで内戦が始まって、もう何年にもなります。
「戦争は、いつ終わるの?」 この子どもの素朴な質問に対して、「もうじき終わるのよ」と答えるとき、胸が痛むと書かれていますが、まったくそのとおりです。シリア内戦が始まってからの5年間で、シリア国民の平均寿命が79.5歳から55.7歳にまで20年以上も縮まったとのこと。哀れです。
推定死者は47万人。負傷者は190万人。殺害されたジャーナリストは94人。
イスラム教徒は、死者を死んだ当日の日没前に埋葬しようとする。死者の名誉を称えるた
めに。湯灌(ゆかん)させ、白い死装束を着せる。葬儀の祈りを唱える。頭がメッカの方向を向くように埋葬する。
普通の人々にとって、戦争は何の前触れもなく始まる。娘たちのために歯医者の予約を
し、バレエのレッスンを手配していたのに、突然、カーテンが下りる。ATMは機能し、携帯電話もつながり、日々の習慣は続いていたのに、突然、何もかもが停止する。
バリケードが築かれる。徴兵がおこなわれ、近隣では自衛団ができる。政府高官が暗殺
され、国は混沌に向かっていく。父親が消える。銀行は閉鎖され、富も文化も生活も一気に消滅する。
戦争とは、破壊。骸骨、そして人の生命の抜け殻。
昔の世界は、すっかり消えている。煙草の煙のように・・・。
戦争とは、延々と待つこと。
終わりのない退屈。ここには電気もテレビもない。
本は読めず、友だちにも会えない。絶望が深まるが、それを燃やす方法はない。
ここには、ほとんど何も残ってない。パンを焼くための動力がなかった。料理をするガスがな
かった。ここでの生活は欠乏だらけだった。
ここで生きていくために重要な二つのルールがある。一つは、政府軍の摘発を受けずに身
を守ること。もう一つは、食料を見つけること。
戦時下の人々の生活はすさんだものだった。だれも停戦など気にかけない。戦時下では、
もっともなことだけど、犯罪と不信と悲嘆しかない。
シリアの人々の苦難な状況がなんとなく分かった気になりました。
著者は、シリアの現状を現地まで出かけて取材したのというのですから、その迫力は並み
たいていではありません。いったい全体、誰がこんな戦争するのか当たり前の状況になったのでしょうか・・・。シリアの近況を写真とともに見ることの出来る本です。
(2017年3月刊。2300円+税)
2017年7月23日
アガサ・クリスティーの大英帝国
(霧山昴)
著者 東 秀紀 、 出版 筑摩選書
アガサ・クリスティーの推理小説は、私も何冊か読んでいます。読むたびに、そのトリックと推理の見事さに驚嘆したものです。
アガサ・クリスティーを、観光ミステリ作家と形容する人がいるそうです。なるほど、「オリエント急行殺人事件」など、観光地を舞台としていますよね。アガサ・クリスティーの2番目の夫は考古学者で、オリエントの発掘現場にも行っていたそうです。その体験が本に生かされています。
日本で観光ミステリ作家と呼べれる一人に松本清張のミステリがある。あれほど登場人物たちに日本各地を出張の形で回らせなければ、戦後日本を代表するベストセラーにはならなかったのではないか・・・。多くの読者が、小説を読んで旅への願望を紛らわせ、出張の際に各所に立ち寄っていた当時の日本人をあわわしている。
松本清張の本のなかに、南フランスの「レ・ボー」という村を舞台とするものがあります。私も、タクシーに乗って出かけました。列車の駅から遠く離れているところですので、レンタカーを借りるか、タクシーに乗らなければいけないのです(もちろん、ツアーに加わればいいのですが・・・)。岩だらけのアメリカの西部劇映画に出てくるような村でした。
アガサ・クリスティーの描いた小説の舞台は、二つの大戦の間の束(つか)の間の平和。そして、その時期の大英帝国の栄華。
アガサ・クリスティーが前夫との離婚話の起きた1926年に失踪事件をひきおこしたということを初めて知りました。そして、本人は真相を死ぬまで明らかにしなかったというのです。よく出来たミステリーを考えた作家は、なんと自分の人生にもミステリーを秘めていたわけです。
1930年代に、アガサ・クリスティーは、毎年2作のペースでミステリを世の中に送り出した。1年に5作という年もあります。驚くべき多作です。私が読んでない本がこんなにたくさんあるかと思うと、ぞっとしてしまいました。
ヒトラーが登場してくる本もあるようです。その本のなかで、ヒトラーは、当時のイギリス人の多くが望んでいたように、平和を望んで引退するというのです。まさしくチェンバレン首相と同じく、著者もヒトラーへの幻想に踊らされていたのですね。
アガサ・クリスティーのミステリー小説を改めて読んでみようという気にさせる本でした。
(2017年5月刊。1600円+税)
2017年7月17日
「レ・ミゼラブル」の世界
(霧山昴)
著者 西永 良成 、 出版 岩波新書
ヴィクトル・ユゴーと、「レ・ミゼラブル」について掘り下げた本です。あの大作を改めて読みたくなりました。といっても、実は、私は全文を通して読んだことはないと思います。子ども向けの本はもちろん読みましたし、フランス語を勉強していますので、いくつかの章は原文でも読んではいるのですが・・・。
ユゴーが死刑廃止を必死で訴えていたというのを初めて知りました。日本の弁護士には、死刑制度の存続を強烈に主張する若手弁護士の集団がいて、私には違和感があります。
死刑とは何か? 死刑とは、野蛮さの特別で永遠のしるしである。死刑が乱発されるところは、どこでも野蛮が支配する。死刑がまれなところは、どこでも文明が君臨する。
驚くべきことに「レ・ミゼラブル」は、カトリック教会の禁書リストに1962年まで入っていた。それは、協会の正統的な教義に反する深刻な内容がふくまれていたからだ。
ユゴーは、洗礼を受けておらず、自分が新でも宗教的儀式とすることを禁止した。しかし、ユゴーは無神論者ではなかった。
ユゴーはルイ・ナポレオンを初めは賛美していたが、あとではナポレオン3世を徹底的に批判した。「レ・ミゼラブル」の発表から8年後、1870年にナポレオン3世は、普仏戦争で捕虜となって退位する。そして、ユゴーは、亡命先からフランスに戻った。1885年に亡くなり、国葬とされたときには、200万人もの人々が葬列に加わった。
ユゴーは、貧困が犯罪を生み、刑務所が犯罪者をつくり出すと考えた。
これは、弁護士生活40年以上になる私の実感でもあります。
ジャン・ヴァルジャンは、意図的に何度もイエス・キリストになぞらえられ、あたかも殉教者のように描かれている。
500頁の文庫本で5冊という大長編小説。登場人物も100人をこえる。
フランスでは、聖書に次いで読まれている。
いやはや、大変な大長編小説なのですね。どうしましょうか・・・、読むべきか、読まざるべきか、それが問題だ。
(2017年3月刊。780円+税)
2017年7月14日
子どもたちの階級闘争
(霧山昴)
著者 ブレィディみかこ 、 出版 みすず書房
3歳児、4歳児でも、ちゃんと自己主張するし、できることも良く分かる本です。
イギリスの保育園で働く日本人女性がイギリスの保育事情を紹介しています。イギリスって、まさしく昔も今も階級社会なのですね。日本だと、それが見えにくいわけですが、イギリスでは、あからさまのようです。なにしろ、住んでいる地域が異なるし、コトバだってはっきり所属階級の違いが分かるというのです。そして相互に深く交流することはないのです。日本人として不思議な気がします。ええっ、英語って、ひとつじゃないの・・・。まあ、「マイフェアレディ」を思い出せばよいのでしょう・・・。
私立校で教育を受けたミドルクラスやアッパークラスの人々は、BBCのアナウンサーのような明瞭な英語を話す。対して、労働者階級の人々は、地域色豊かなアクセントになり、下層に行けば行くほど、単語の最後の音をいい加減に発音する。だから、イギリスは、口を開けば属している階級が分かってしまう。
イギリスの保育園に2歳児をフルタイムで預けると、1ヶ月で14万円もかかる。それで、イギリスの保育園はミドルクラス家庭の御用達施設と呼ばれている。
保育園は、下層幼児たちの受け入れを拒否している。幼児教育現場での階級分離が進んでいる。貧困エリアにおける肥満している子どもの割合は、少年の場合は豊かな地域の3倍、少女の場合には2倍になる。
イギリスの裕福な家庭は子どもパブリックスクールと呼ばれる私立校に通わせる。年間学費が300~400万円かかる。
貧しい人々は、家賃の安い地域、つまり地域の学校が荒れているので、親たちが敬遠する地域に住むことになり、富める人々と貧しい人々の居住地域の分離が進んでいる。
貧民街の子どもたちは、保育施設から小学校、中学校と一貫して貧しい地域の、自分と同じような階級の子どもたちに囲まれて学ぶことになり、上の階級の子どもたちと知り合う機会はもちろん、すれ違うことすらない。
人間は、希望をまったく与えられずに欲だけ与えられて飼われると、酒やドラッグに溺れたり、四六時中、顔をつきあわせなければならない家族に暴力をふるったり、外国人とか自分より弱い立場の人々に八つ当たりをしに行ったりして、画一的に生きてしまう存在だ。それは、セルフ・リスペクト(自己尊重)を失うからだ。
イギリスでも、フランスのル・ペンのように反移民・EU離脱を唱える右翼が伸長している。それは、イギリスにEU圏からの移民が急増しているから。
2011年の国勢調査では、イギリスで生まれる子どものうち、少なくとも両親の一人が外国人である子どもの割合は全体の31%で、2001年より10%も増加している。両親とも外国人だという子どもも18%いる。
アフリカや中東そしてアジアから来た移民の親たちは、決まって、イギリスのアンダークラス民、「ホワイト・トラッシュ」と呼ばれる人々が大嫌いだ。子どもを厳しくしつけず、やりたい放題にさせているから、この国、イギリスはダメになったと高言する。移民の多くは、勤勉で上昇志向の強い人々だ。イギリスの食べ物はおいしくなったが、それは、これらの人々のおかげだ。
イギリスは、もともとワーキングクラスという階級が誇りをもって生きてきた国である。終戦直後に、労働党政権は、無料の国家医療制度を実現し、公営住宅の大規模建設、大学授業の無料化など、底上げの政策を徹底的にすすめた。その効果が一斉に花開いたのが、1960年代だった。
ところが、このエキサイティングな階級の流動性は、もう遠い過去の話になった。今では、間違っても、下層階級の人間がそこから飛び出す可能性は支えられていない。
現代のイギリスは階級が固定化しすぎている。格差の拡大はよくないが、どんなにがんばっても、自分たちが再びクールになる時代は来ないという閉塞感が下層にいる人々を絶望させる。
そんななかで保育園を運営し、一人ひとりの子どもたちを保育していくのですから、日々まさしく困難の連続です。移民をどんどん日本に受け入れたときには、保育園だけでなく、社会の隅々まで、貧困と身の安全を守るために考え、行動しなければならないことがたくさんあることを実感させてくれる本でもありました。
(2017年6月刊。2400円+税)
2017年7月13日
オリーブの丘へ続くシリアの小道で
(霧山昴)
著者 小松 由佳 、 出版 河出書房新社
内戦まっただなかの2012年春、シリアの首都ダマスカスに3ヶ月いて、シリアの人々を写真に撮った日本人女性カメラマンによる写真集です。
いったい、なぜこんなひどい内戦が、こんなに長く続いているのか、日本にいて本をいろいろ読んでも、よく分かりません。一刻も早く内戦が終息し、人々が平和に生きられるようになることを願います。
暴力に対して暴力ではいけない。平和的手段でなければダメ。そう叫んでいた若者が、やはり暴力には暴力しかないと言って戦闘員に加わったという話も出てきます。たしかに、悲しい現実があるのですよね、でも、・・・。
2011年に内戦が始まって、すでに5年たち、シリアの難民・死者は相変わらず増え続けている。2200万人の人口のうち、25万人が死亡、470万人が国外で難民で暮らしている(2016年2月)。
そして、シリア国内にも760万人もの人々が避難生活を送っている。国民の半数以上が家を失った(2015年7月)。
シリア難民の子どもたちの通う学校の授業光景を撮った写真もあります。
シリアは日本と同じく、六・三・六制で、小学校の6年間が義務教育。男女共学は小学校だけで、中学校からはイスラム教の道徳によって男女別となる。
小学校の教室で、若い女の先生が男の子3人と女の子5人に歌を教えている様子がうつっています。この学校では、子供たちがシリアの文化を失わないよう、トルコ語のほか、アラビア語やシリアの歴史・文化を教えている。ということは、この学校はトルコにあるのですね。
この学校では、不発弾の取り扱い方法を子どもたちに教えている。近づいたり触ってはいけない。誰かを叫びなさい、と。
「教師として、希望をもちなさい、希望があるから私たちは生きていける、と子どもたちに話さなければいけない。しかし、現実には、自分でさえこの生活に希望をもてずにいる。子にとっても教師にとっても、希望をもつとか本当に難しい」
いやあ、本当に内戦が続くというのは大変なことですよね。難民の子どもたちは、いつかシリアの故郷に帰ることを夢見ている。
可愛らしく聡明そうなシリアの子どもたちの願いを一刻も早く実現させてやりたいと思わせる貴重な写真集です。
(2016年3月刊。1900円+税)
2017年7月12日
「ヒトラーの裁判官、フライスラー」
(霧山昴)
著者 ヘルムート・オルトナー 、 出版 白水社
第二次対戦下のドイツでヒトラーに反対して声をあげた「白バラ」グループに死刑を言い渡したナチスの裁判官として有名なフライスラーの人生をたどった本です。
「白バラ」グループとして捕まった学生たちは死刑判決を受けた、その日のうちにギロチンにかけられました。むごいものです。
フライスラーは51歳で敗色濃いベルリンで空襲にあって死亡しますが、その妻は裁判官の配偶者として戦後も長く年金を受給しました。つまり、フライスラーは死後も資格を剥奪されることなく「裁判官」だったわけです。同じように、ナチス時代の裁判官たちは、戦後の東西ドイツで司法界にとどまっていたのです。まあ、この点は、日本と共通していますね・・・。
ドイツ弁護士会は、ナチスが政権をとると、まもなく、「民族および帝国の健常化に貢献するために」全力を傾注することをナチス政府に確約した。
1933年10月初め、ライプツィヒで開催されたドイツ法曹大会には、全国から2万人以上の法律家が参集したが、次のようにナチスに誓った。「我々はドイツ民族の魂に誓わん。我々がドイツ法曹人として、我らが、総統閣下に付き従い、我々の日が尽き果てるまで、ともに歩み続けるであろうことを」
日本も、大日本弁護士報国会をつくって戦前の弁護士たちは戦争に協力していきました。
1933年に、ドイツの弁護士1万9500任のうち、4394人、22%がユダヤ系だった。大都市では、もっと比率が高かったし、弁護士会の役員にもユダヤ人弁護士が幹部を占めていた。ドイツにはたくさんの優秀なユダヤ人弁護士がいたのに、全員、資格が奪われてしまったのです。
大都市では裁判官の10%をユダヤ人が占めていた。
フライスラーにとって、政治犯は最悪の裏切り者であり、国家の敵であった。24時間以内に起訴がなされ、24時間以内に判決が下され、犯罪者は直ちに処罰されなければならない。情状酌量を認めた時代は、もう終わらせなくてはならない。
人民法廷は、第一審かつ最終審であり、判決についての法的救済手段は一切認められなかった。被告人には起訴状が渡されず、弁護人は裁判の直前に起訴の内容を知るだけで、あらかじめ準備することは出来なかった。審理が終わると、弁護人は、起訴状を返還しなければならなかった。
したがって、ナチスの権力者にとって、いかなる形であれ、反対者を徹底的に排除し、せん滅させる場として、人民法廷に全幅の信頼を置くことが出来た。
1943年1月から1944年1月まで、「防衛力破壊」を理由として124件の死刑が宣告され、即時執行された。
1943年2月のスターリングラードでの敗戦以降、たいて死刑が言い渡された。「公正な判決」など、論外だった。
フライスラーが単独で裁判長をつとめた1943年上半期、1730件の有罪判決が出され、そのうち804件で死刑判決、無罪判決はわずか95件のみ。
死刑があまりにも多すぎて、刑務所のなかには死刑が追いつかないほどだった。親族には決して通知されず、死刑囚の遺書は捨てられた。
人民法廷の長官として、フライスラーは、数千人も人々を死へ送り込んだ。まさしく法服をまとった殺人鬼だった。人民法廷が1942年に言い渡した1200件の死刑判決のうち、半分以上の650件がフライスラーの第一部が下したものだった。1943年の1662件の死刑判決のうち、約半数の779件がフライスラーの第一部によるもの。1944年の2100件の死刑宣告のうち第一部が下したのは866件だった。
では、何が死刑判決の根拠になったのか。本書にはその死刑判決の理由がいくつか紹介されています。気心の知れた仲間内でヒトラーに対して漠たる疑念を冗談めかして語っただけの人がいます。それが密告によって、人民法廷にひきずり出され、見せしめ的に「国家反逆罪」「防御力破壊罪」といったものものしい罪名のもとで死刑が言い渡されたのです。
つい先日、日本で成立してしまった共謀罪の恐ろしさを実感させられます。
ほかにも、他愛のないジョークでしかないもの、今からみたら的を射た洞察が、その正しさゆえに、国家の存続を脅かす危険思想の発露とみなされて、死刑を言い渡され、即日、ギロチンで処刑されていったのです。まさしく、嘘でしょ、こんな冗談で死刑になるなんて・・・、と叫びたくなります。密告者だって、まさか死刑にまでなるとは思っていなかったことでしょう...。
ナチス・ドイツの反省にアベ政権下の日本人として、大いに学ぶところがあるように思いました。日本の裁判官って本当に大丈夫なんでしょうか・・・。ゾクゾクしてきました。
(2017年4月刊。3400円+税)
フランス語検定試験(一級)の結果通知が届きました。もちろん不合格なのですが、得点は64点で、自己採点を11点も上まわっていました。仏作文が少し評価されたのでしょう。150点満点ですから、4割をこえたところでした。合格点は87点ですから、やはり6割をとる必要があります。
めげず、くじけず、引き続き毎日フランス語の書きとりを続けます。そして車中はフランス語の聴きとりです。
2017年6月30日
ファニア、歌いなさい
(霧山昴)
著者 ファニア・フェヌロン 、 出版 文芸春秋
アウシュヴィッツにあった女性だけのオーケストラで奇跡的に生き残った女性音楽家の手記です。電車のなかで読むのに夢中になっていて、危く乗り過ごしてしまうところでした。
2年間の強制収容所生活で、歌手だった著者は、身長150センチ、体重はなんと28キロだった。それでも、1945年4月に解放されたとき、歌をうたうことが出来たのです。気力のおかげでした。
著者はユダヤ人の父とカトリック教徒の母のあいだに生まれ、22歳からモンマルトルのクラブでシャンソンを歌っていた。パリ音楽院のピアノ科を優等で卒業していて、歌だけでなくオーケストラ用の編曲ができた。
女性だけのオーケストラの平均年齢は20歳そこそこ。年ごろの娘たちが集まっていた。国籍も宗教も違っていた。ユダヤ人だけでなくポーランド人もいたり、共産主義者もいて、内部では反目、いさかいは絶えなかった。
オーケストラは、朝、労働行進曲を演奏しはじめる。勇ましく、明るく、まるで楽しい一日の始まりを告げるように。しかし、その音楽を聞きながら死んでいく人たちがいた。辛い労働に駆り立てられていった。
憎しみと侮辱のまなざしが刺すほど痛い。「裏切り者」、「売女」。そして、死の選別を終えてきたばかりのナチス親衛隊員を歌と音楽で慰める。
アウシェビッツ暮らしのなかのもっとも苦しい一瞬だった。ナチスに気に入られつづけるかどうか、それがオーケストラのメンバーが生存できるカギだった。
シューマンのトロイメライを聞いて収容所の所長は涙を流した。音楽を聞くことによって、選別の苦労を忘れようとしているのだ。
分割して統治することのうまいナチは、よくユダヤ人同士を反目させた。収容者代表、棟代表、労働班長、補助事務員、給食係などの特権的ポストは、ナチスから命令されたことを全力でやりぬくユダヤ人だけに与えられた。親衛隊員からみて熱意に欠けるものは、容赦なくポストを剥奪されるか、ガス室へ送られた。
強制収容所で出産した赤ん坊と母親が無事に生きのびたことも紹介されています。
『チェロを弾く少女アニタ』(原書房)にも、この本の著者ファニアが重要なメンバーとして紹介されています。
実は、この本の著者は『強制収容所のバイオリニスト』(新日本出版社)の著者と同じオーケストラにいました。後者はポーランド人女性で、ファニアがポーランド人を侮辱していると非難しています。民族と宗教の違いは当時も今も大変な反目を生んでいるようです。これが世界の現実なのですが、お互いにそれを乗りこえていく努力をするしかありませんよね。
「私が日本人であってよかった」という日本会議系のポスターが貼り出されて、ひんしゅくを買っていますが、実は、その「日本人」女性が、実は中国人だったとのこと。日本民族の「優秀性」を誇るのも、ほどほどにしたいものです。
それはともかく、この本は批判される弱点もあるとは思いますが、読みものとしては最近の本よりは断然迫力がありました。ネットで注文して読みました。
(1981年11月刊。1300円+税)
2017年6月25日
フランスの美しい村・愛らしい町
(霧山昴)
著者 上野 美千代 、 出版 米村推古書院
フランスには、「もっとも美しい村」と認定された村々があります。私も、そのうちのいくつかに行ったことがありますが、たしかに「もっとも美しい村」だと名乗っていいところだと思いました。
フランスが日本と違うところは(私がそう思うのは)、日本のように派手な広告・看板・ネオンサインがなく(少なく)、昔の外観を残して(内装は近代化しても)いることです。ですから、そこに行くと、心が本当に落ち着くのです。
そして、人々はテラス席、つまり店内よりも店の外のテーブルで飲食し、談笑し、のんびりと時を過ごしています。それは、、なぜか不思議なのですが、蚊やハエがいない(少ない)ことにもよります。日本だったら、蚊取り線香やらハエ取り紙をそこらじゅうに置いておかなければいけないのに、フランスは夜になっても外で食事をしても虫が寄ってこないのです。本当に不思議です。
そして、南フランスだと、夏に雨が降ることはなく、夜の8時まで昼間のように明るいのです。ああ、こんなことを思い出すと、またぜひフランスに行ってみたくなります・・・。
毎年のようにフランスに行っていたのですが、このところ残念なことにフランスに行っていません。それでも、フランス語のほうは日夜話せるように勉強し、努力しています。
この本の著者は英語オンリーでフランス中をまわったようですが、やはりフランスではフランス語を話せるのにこしたことはありません。私のフランス語力はたいしたことはありません(残念なことに・・・)が、それでもフランスで旅行するのには困らない程度のレベルではあるのです。なにしろ、弁護士になって以来、つまり40年以上、NHKのラジオ講座を聞き、仏検を受験しているのですから・・・。
フランスの美しい村、愛らしい町として本書に登場してくる場所のいくつかは、私も訪れたことがあります。南フランスのエクサンプロヴァンスには2回も行ってきました。初めは40代のとき、「独身」と詐称して妻子を置いて4週間も学生寮に入り、外国人向けの夏期集中講座に参加したのです。私は、これでフランスで暮らしていけるという自信がつきました。
日本にも、たくさんの美しい村や愛らしい町があります。いま私は、そんな町や村になんとかして残らず行ってみたいという「野望」に燃えています。
フランスの地方の良さがコンパクトに凝集された写真で、一見の価値があります。お値段も手頃です。著者の女性は、なんと福岡県は門司港近くでカフェを営んでいるとのこと。ぜひ、ご挨拶したいものです。
(2017年3月刊。1780円+税)