弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2018年2月 2日
これが人間か
(霧山昴)
著者 プリーモ・レーヴィ 誠二 、 出版 朝日新聞出版
「アウシュヴィッツは終わらない」の改正完全版です。前にも読んでいますし、このコーナーで書評を紹介したと思いますが、ポーランドのワルシャワ動物園でユダヤ人救出を実行していた実話が映画になったのをみたばかりでしたので、改めて読んでみました。その動物園では、園長宅の地下室を中継地点としてユダヤ人をゲットーから救い出して逃亡させていたのでした。命がけで、そんなことをしていた人々がいたのですね。そんな勇気と知恵には頭が下がります。
著者は1943年12月に24歳のとき、捕えられました。まだ若かったので、生きのびることができたのですね、きっと、、、。
貸車に詰め込まれて運ばれます。著者と一括の貸車にいた45人のうち、家に戻れたのはわずか4人のみ。
収容所に着いたとき、96人の男と29人の女だけが助かり、残りの500人は2日と生きていなかった。その選別はあまりに手早く簡単なものだった。ナチス第三帝国に有益な労働ができるかどうかが選別の基準だった。
ラーゲル(強制収容所)では、死は靴からやって来る。囚人は自分にあわない木靴をはかされる。足はふくれあがり、歩くのに困難となる。しかし、この判断で病院に入ると死が待っている。
起床時間になると、多くの者が時間の節約のため、獣のように走りながら小便をする。というのも、5分後にパンの配給があるからだ。パンは、収容所ではただ一つの貨幣でもあった。
よごれ放題の洗面所の汚れで毎日体を洗っても、健康をたもてるほど体がきれいになるわけではない。しかし、活力がどれだけ残っているかを知る手がかりとしては重要だし、生きのびるための精神的手段としては不可欠なのだ。
収容所(ラーゲル)とは、人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる。だから生きのびる意思をもたねばならない。証拠をもち帰り、残すためだ。そして、生きのびるためには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権限も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だが、それでも一つだけ能力が残っている。だから、全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら、それは最後のものだから。それは、つまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々は石けんがなく、水が汚れていても、顔を洗い、上着でぬぐわなければならない。人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らなければならない。体をまっすぐに伸ばして歩かなければならない。生き続けるため、死の意思に屈しないために、だ。
収容所にいる人々にとって、月日は、未来から過去へ、いつも遅すぎるほどだらだらと流れるものにすぎなかった。なるべく早く捨て去りたい、価値のない、余裕なものだった。未来は、月の前によけ壊しがたい防壁のように起状もなく圧色に横たわっていた。歴史などなかった。
冬が何を意味するか、それは、10月から4月までに、10人のうち7人が死ぬことを意味する。
人を殺すのは人間だし、不正を行い、それに屈するのも人間だ。
ドイツの軍事産業は収容所体制の上に築かれていた。収容所体制こそがファシズムにおおわれたヨーロッパを支えた基本制度だった。
アウシュヴィッツ収容所の内外における人間行動を直視し、究明することは、私たちとは何が、何をなすべきかを考えさせてくれます。
(2017年10月刊。1500円+税)
2018年1月23日
オクトーバー、物語ロシア革命
(霧山昴)
著者 チャイナ・ミエヴィル 、 出版 筑摩書房
1917年10月に起きたロシア革命が刻明に再現されています。まさしく情勢は混沌としていて、決してレーニン率いるボルシェヴィキが情勢を切り拓き、リードしていったという単純なものではないことがよく分かりました。
レーニンは始まったときにはロシア国内にいませんでした。始まったあとでドイツを封印列車で通過してロシアに帰還します。でも、それは大歓迎されることを予測してのものではありませんでした。レーニンはペトログラードに4月3日、到着する前、逮捕の危険があるのかと尋ねたほど。しかし、駅には数千人が歓迎に出迎え、花束を手渡し、敬礼した。そして、革命の遂行過程では、フィンランドへ身を隠すしかなかったのです。それほどレーニンの支持勢力は弱小だったということです。ところが、後半になって、情勢が一気に逆転していくのです。はじめて兵士と労働者が急進化して、一気に武力で権力中枢を支配するのでした。ロシア革命は決して一直線で進行していったのではなく、大変な紆余曲折があって進行します。いわば難産だったのです。
レーニンには、並みはずれた意思力があり、それを誰もが認めた。レーニンには血や骨の髄まで、政治以外には何もない。レーニンに会った人は誰もが魅了される。レーニンが特に傑出しているのは、政治的な時期を見きわめるセンスだ。
当時のロシア皇帝・ニコライ二世を定義するのは、欠如だ。表情の欠如、想像力、知性、洞察、衝動、決断力、覇気の欠如。妻は、夫に輪をかけて人気がない。
皇帝ニコライ二世は、日本人を「猿」と呼び、劣等民族とみなしていた。ところが、楽に勝てるはずの日露戦争で、次々に日本軍に敗退する。
ロシア帝国の当時の人口は1億2600万人。人口の5分の4が土地にしばられた農民、農奴。
3月9日、臨時政府を初めて承認し、祝福したのは、アメリカだった。その次に、イギリス、フランス、イタリアが続いた。
スターリンは、古くからのボリシェヴィキの活動家。才気煥発とは言えずとも、有能な組織者だった。よく言えば、まずまず。インテリ。悪く言えば、面倒な人物、党内の左派でも右派でもない。風見鶏的存在。
7月には、レーニンはスパイだ、ドイツの手先だ、裏切り者だという噂が広まった。ボリシェヴィキは身の安全を求め、上層部の多くは、進んで身を隠した。
10月、軍事革命委員会は銀行を占拠した。そして、レーニンは権力を握ったとする声明書を発表した。そこに書かれた内容は事実ではなく、願望だった。しかし、10月26日午前5時、レーニンの声明書は圧倒的多数で可決された。
レーニンは、1924年1月、病気のため死亡。そのあと、レーニンが危惧していたとおり、スターリンの暴政が始まります。しかし、そのことにレーニンも責任を負うべきではないかという指摘があります。
それはともかくとして、ロシア革命の複雑な過程を400頁あまりの本によって、一見することができました。大晦日(12月31日)に、事務所内に一人こもって読了した本です。2017年に読んだ単行本は580冊になりました。
(2017年10月刊。2700円+税)
2018年1月14日
いくさの底
(霧山昴)
著者 古処 誠二 、 出版 角川書店
福岡県に生まれ、自衛隊にもいた若手の作家です。前に『中尉』という本を書いていて、私はその描写の迫力に圧倒されました。それなりに戦記物を読んでいる私ですが、存在感あふれる細やかな描写のなかに、忍び寄ってくる不気味さに心が震えてしまったのでした。
『中尉』の紹介文は、こう書かれています。「敗戦間近のビルマ戦線にペスト囲い込みのため派遣された軍医・伊与田中尉。護衛の任に就いたわたしは、風采のあからぬ怠惰な軍医に苛立ちを隠せずにいた。しかし、駐屯する部落では若者の脱走と中尉の誘拐事件が起こるに及んで事情は一変する。誰かスパイと通じていたのか。あの男は、いったい何者だったのか・・・」
今度の部隊も、ビルマルートを東へ外れた山の中。中国・重慶軍の侵入が見られる一帯というのですから、日本軍は中共軍ではなく、国民党軍と戦っていたわけです。そして、山の中の小さな村に駐屯します。村長が出てきて、それなりに愛想よく応対しますが、村人は冷淡です。そして、日本軍の隊長がある晩に殺されます。現地の人が使う刀によって、音もなく死んだのでした。犯人は分かりません。日本兵かもしれません。
そして、次の殺人事件の被害者は、なんと村長。同じ手口です。
戦場ミステリーとしても、本当によく出来ていると感嘆しながら一気に読みあげました。だって、結末を知らないでは、安心して眠ることなんか出来ませんからね・・・。
(2017年11月刊。1600円+税)
2017年12月28日
フリッツ・バウアー
(霧山昴)
著者 ローネン・シュタインケ 、 出版 アルファ・ベータ・ブックス
アイヒマンを追いつめた検事長というのが本のサブタイトルです。映画にもなりましたので、私もみました。ドイツの未来のため、ナチの戦争犯罪の追及に生涯を捧げた検事長。ところが、順風満帆で追及できたわけではなかったのです。
ドイツ人の多くは、ナチスのイデオロギーの下で実行した恐ろしい犯罪を戦後になって忘れることを望んだ。フリッツ・バウアーは、1950年から60年代にかけて、それを語るよう強く求め、それを議論すべきテーマとして取り上げた。それは、戦後のドイツ社会で激しい討論を巻き起こした。それまで語られなかったことを、白日の下にさらしたため、フリッツ・バウアーは多くの敵をつくった。
ナチ政府においてナチスに追随していた者のほとんどが1950年代には司法および行政の機関に完全に舞い戻っていた。連邦刑事警察庁の指導的な47人の官僚のうち33人が元ナチスの親衛隊(S'S)の隊員だった。
フリッツ・バウアーは、ユダヤ人であり、社会主義者だった。フリッツ・バウアーは1933年に強制収容所に収容されたが、生涯そのことを語らなかった。
ナチスの犯罪者を処罰できない裁判官は、最終的には犯罪者の仲間になる。裁判官が再び殺人集団の加担者になろうとしているのを黙認してはいけない。
法律は法律なり。悪法であろうとも、法律である以上、それもまた法律なり。しかし、この理屈でナチス法を実行していた法律家を免罪してはならない。私も、そう思います。同じことは日本の戦前の司法官僚にも言えるわけですが、日本ではほとんどの司法官僚が戦後もそのまま温存されました。やがて青法協などの活動が盛んになって時代を大きく動かしていくのですが、それも1970年ころを境に弾圧されていきます。
ドイツでナチス時代の犯罪行為を正面から取り上げたフリッツ・バウアーの不屈の勇気に日本人の私たちも大いに学ぶ必要があると思いました。
(2017年8月刊。2500円+税)
2017年11月29日
チャヴ
(霧山昴)
著者 オーウェン・ジョーンズ 、 出版 海と月社
チャヴとは、イギリスの労働者階級を侮辱することば。この差別用語は、ロマ族のことばで「子ども」を指す「チャヴィ」から来ている。いまや、インターネットでは、チャヴを笑い物にする悪意が満ちている。ロンドンの中流階級は下の階級に不安や嫌悪感をもっていて、それがうまく利用されている。なぜ、労働者階級への嫌悪感がこれほど社会に広がってしまったのか・・・。
チャヴということばには、労働者階級に関連した暴力、怠惰、十代での妊娠、人種差別、アルコール依存など、あらゆるネガティブな特徴が含まれている。
「プロール」とは、プロレタリアートを短縮した軽蔑語で、貧しいから無価値という意味を伝えている。
これには驚きました。マルクス『資本論』発祥の地でプロレタリアートが馬鹿にされているなんて、信じられません・・・。
最下層の人々を劣等視するのは、いつの時代でも、不平等社会を正当化する便利な手段だった。
労働党の議員には、かつては工場や鉱山の現場からスタートした人が多かった。今では、肉体労働していた議員は下院に20人に1人もいない。国会議員のうち、私立校出身者は国民平均の4倍以上。保守党議員は5人のうち3人が私立校の出身者だ。
イギリスのエリートには、中から上にかけての中流階級出身者があふれている。貧困者が犯罪を起こせば、似たような出身の全員が非難はされる。これに対して、中流階級の人間の犯罪はそうはならない。
公営住宅に住んでいるのは貧困層だけ。公営住宅の半数近くは、下から5分の1までの貧しい地区に存在する。30年前は、上から10分の1にあたる富裕層の20%が公営住宅に住んでいた。そのときと現在はまったく様変わりしている。
公営住宅にはイギリスの最貧層が住んでいるので、その地域はチャヴに結びつけられる。公営住宅は、社会の掃きだめのようになってきている。
イギリスの保守党は、裕福な権力者たちの政治執行部門だ。保守党の存在意義は、トップに君臨する人たちのために闘うこと、ここにある。それは、まさに階級闘争だ。ところが保守党は、多くの巧妙な手段で労働者階級の「個人」の機嫌をとって選挙に勝っている。
炭鉱労働者のストライキが敗北したとき、炭鉱労働者はイギリス国内でもっとも強力な労働組合をもっていたのに大敗してしまった。それでは、ほかの者にどんな希望があるというのか・・・。炭鉱労働者を叩きのめせるなら、ほかの誰でも叩きのめせるということ。残ったのは、長年の失望と敗北主義だった。この現実はイギリス映画『ブラス』とか『パレードにようこそ』によく反映されていると思います。
サッチャーたちの攻撃が始まったとき、イギリスの労働者の半数は組合員だった。それが1995年には、3分の1まで後退していた。
イギリスの貧困者は、1979年に500万人だったのに、1992年には1400万人になった。しかし、サッチャー哲学は、「貧困」は現実には存在しないとする。貧しい人々は、自分で失敗しただけのこと。貧困らしきものはあるかもしれない。しかし、それは個人のごく基本的な性格の欠陥だけのこと、こう考える。
いやはや、「自己責任」の論理で「貧困」をないものとするのですね。今の日本とまったく同じですよね、これって・・・。
サッチャーの得票率は最高でも44%。有権者全体の3分の1以上の支持は得ていなかった。それでも、サッチャーが勝ち続けたのは、サッチャーを支持しない熟練と半熟練労働者の60%がどうしようもなく分裂したからだ。
サッカーは、長く労働者階級のアイデンティティの中心にあったスポーツだ。ところが今では、億万長者のよそ者が支配する中流階級の消耗品になってしまった。労働階級のファンは、愚かな暴力に熱中する攻撃的なフーリガンと見なされ、排除されている。
イギリスは、今では階級のない社会という幻想がすっかり定着してしまっている。しかし現実には、これまで以上に階級化されている。
貧困層をマスコミが攻撃し、民間労働者に公務員への敵意をあおる。これって、まるで、現代日本でやられていることですよね。日本の近未来が、こうあってはならないと思わせるに十分なイギリス社会の矛盾を鋭く分析した本です。
(2017年9月刊。2400円+税)
2017年10月31日
アフガン・緑の大地計画
(霧山昴)
著者 中村 哲 、 出版 石風社
著者は福岡県人の誇り、いえ、日本の宝のような存在です。今なお戦火の絶えないアフガニスタンで、砂漠を肥沃な農地へ変えていっている著者の長年にわたる地道な取り組みを知ると、これこそ日本がやるべきことだと痛感します。
残念なことに現地に常駐する日本人は著者ひとりのようですが、一刻も早く日本の若者たちが現地の人々と交流できるようになってほしいものです。
この本を読むと、砂漠地帯に水路を開設することの大変さが写真と図解でよく理解できます。日本から最新式の大型重機を持ち込んだら工事は速く進捗するかもしれませんが、その管理と保全策を考えると、現地にある機材をつかい、現地の人が技能を身につけるのが一番なのです。その点もよく分かります。
それにしても著者の長年の現地でのご苦労には本当に頭が下がるばかりです。すごいです。養毛剤の使用前と使用後の比較ではありませんが、砂漠で防砂材の植樹を開始したころ(2008年)と現在の緑したたる農場の二つを見せられると、涙がついついこぼれてきます。
農場で育つ乳牛でチーズをつくり、サトウキビから黒砂糖をつくる写真を見ると、これこそ平和な生活の基礎をなすものだと思います。アフガニスタンは、今は砂漠の国と化していますが、本来は豊かな農業国なのですね。水さえあれば、なんとかなるのです。
ところが、急流河川が多く、真冬の水位差が著しい。山麓部にある狭い平野で集約的な農業が営まれているというのがアフガニスタンの特徴。干ばつが起き、ときに大洪水が襲う。
重機やダンプカーをつかってコンクリートの突堤を築いても、その場は良いかもしれないが、長期間もつ保証はない。また、コンピュータ制御は、まともに電気がこない地域なので、無理。そこで登場するのが、福岡の取水堰の経験なのです。
この計画の全部が完成したら、耕地面積1万6500ヘクタール、60数万の農民が生活できるうえ、余剰農産物をアフガニスタン各地へ送ることができる。なんとすばらしい計画でしょうか。日本政府も財政的な後押しをすべきだと私は思います。
著者が現地の人々と一緒に苦労して水路を開設して農地をよみがえったおかげで、ジャララバード北部4郡は、抜群に治安が良いとのこと。ケシ栽培も皆無。食べ物を自給できる。ところが、ジャララバード南部は耕作できないため、多くの失業者を生み出した。現金収入を求めて、やむなく兵士、警察官、武装勢力の傭兵になっていく。治安は過去最悪となっている。やはり、生活が安定しないと、暴力抗争も発生してくるのですよね。
アフガニスタンの農村はかつての日本のように、強い自治性をもっているようです。
したがって、国家的な管理・統制はあまり効かないのです。援助するにしても、現地の自主性を尊重しながらすすめるしかありません。そこを、著者たちは長年の行動で強固な依頼関係を築きあげているのです。
この15年間の歩みが豊富な写真と解説によって私のような土木素人にもよく分かるものになっています。著者が、今後とも身体と健康に留意されてご活躍されることを同じ福岡県人として心より願っています。一人でも多くの人に読んでほしい本です。
(2017年6月刊。2300円+税)
2017年10月20日
マーシャの日記
(霧山昴)
著者 マーシャ・ロリニカイテ 、 出版 新日本出版社
マーシャは、1927年にリトアニアに生まれたユダヤ人。父は弁護士で、ナチス・ドイツと戦った。母と妹・弟はゲットー閉鎖のときに射殺され、マーシャだけ強制収容所に入れられ、苛酷な環境の下で、奇跡的に生きのびました。
14歳から17歳の少女になるまでの3年間、ずっと書いていた日記をもとに当時の状況が刻明に再現されています。
マーシャはあちこち移動させられていますが、日記を持ち歩いていたようです。その意味でも幸運でした。「生きて帰れたら、自分で話そう。帰れなかったら、日記を読んでもらおう」と日記の冒頭に書いています。
マーシャは、非人間的な状況のなかで記録することを使命としてメモを書き続けた。ゲットーで、また強制収容所で。紙と鉛筆を探し、書いたメモを隠し、書けないときには「記憶術」で頭に焼きつけて、記録し続けた。
解放された直後のマーシャの顔写真がありますが、いかにも聡明な美少女です。
マーシャの父親は弁護士として、さらに国際革命運動犠牲者救援会(モップル)に所属して、地下活動をしている共産主義者たちを裁判で弁護していた。
マーシャは、明日死ななければならないと思うと、恐ろしかった。ついこの間まで勉強したり、廊下を走ったり、授業で答えていたのに、突然、もう死ぬなんて、嫌だ。だって、まだ少ししか生きていないのに・・・。それに、誰ともお別れをしていない、パパとさえ・・・。
ユダヤ人はゲットーに入れられた。ゲットーの門の外側には、「注意!ユダヤ人街区。伝染の危険あり。部外者の立入禁止」と大書した看板がある。
第二ゲットーが閉鎖された。そこには9000人がいた。明け方、マーシャたちのいる第一ゲットーの門の近くで、第二ゲットーからはいずって逃げてきた産婦が見つかった。路上で子どもを産み、たどり着けずに死んだのだ。生まれたばかりの女の子はゲットーに運び込まれた。赤ちゃんには、ゲットーチカという名前がつけられた。
ゲットー内でコンサートが開かれていたのに驚きました。劇も上演されていたのです。
やはり、苦しいときでも文化は生きる希望として必要なのですよね。
コーラスもあった。困難なほど、情熱が燃える。オーケストラには団員が集まっている。
ナチスは、女性が化粧品を使うことを禁止し、装飾品をつけてはいけないと命令した。干からびた口紅が路上にあるのを見て、そばにいた女性を殴りつけた。
ユダヤ人警察として熱心にしていた男性が銃殺された。どんなに特権を与えられていても、どんなに熱心に占領軍・ナチスに尽くしても、結局のところ、ユダヤ人共通の運命は避けられなかった。
収容所のなかで、マーシャは幸運にも針を見つけた。ほんものの、ちゃんとした針。拾うためにかがみこんだのを見られて護送兵に殴られたけれどマーシャは平気だった。少なくとも、服をちゃんと繕えるから・・・。
マーシャは木靴をもらうとき、囚人番号5007が受領したと記録される。ここでは、姓も名前もなく、あるのは番号だけ。
この世には、収容所と作業と空腹と、そしてものすごい寒さ以外には存在しない気がする。点呼中に誰かが動いたように思われると、罰として、極寒の中に夜中まで立たされる。
大勢の男性が収容所から連れ去られた。道路や野原の地雷を除去するために。それは、地雷に触れて飛ばされるまで、地雷が埋まっている野原をただ歩かされるということ。
マーシャは、ソ連赤軍により解放されたときには18歳になっていました。そして、マーシャは、戦後になって自分の日記を出版し語り部になったのです。
マーシャは昨年(2016年)に亡くなりました。89歳だったのですから、少女期に苛酷な体験しても長生きできたわけです。
このような体験記は永く読み継がれていく必要があると思いました。戦争の愚かさを知るために。安倍首相のように力づくで北朝鮮をおさえこもうとしても悪い方向に動くだけです。もっと、広い心で対話を試みるしかないと思います。この秋、一読をおすすめします。
(2017年8月刊。2200円+税)
2017年9月12日
復讐者マレルバ
(霧山昴)
著者 ジュセッペ・グラッソネッリ、カルメーロ・サルド 、 出版 早川書房
イタリアのマフィアに挑んで生き残ったグループのリーダーであり、ヒットマンの青年の回想記です。ときは、検察官が公道上で爆殺されたころの話です。
1992年、27歳で逮捕された著者(本名がグラッソネッリで、本書ではアントニオ・ブラッソ)は終身刑4回と懲役30年の判決によって、現在も服役中。すでに20年をこえているが、妨害的終身刑なので、外出許可は認められない。つまり、普通終身刑なら20年間服役したあとは、1日、2日単位の外出許可を申請して認められることがあるけれど、妨害的終身刑の囚人は、塀の中で死ぬ運命にある
妨害的終身刑とはマフィアの抗争がらみの殺人を犯した者だけを対象とする刑だ。ちなみに、イタリアは日本と違って死刑は廃止されている。
著者は、3年間の昼間単独室処遇のあと、15年間の厳重拘禁措置がとられ、現在は、「高度に危険な囚人』扱いとなっている。ところが、著者は小学校しか出ていなかったが、塀の中で中学・高校の卒業資格をとり、ナポリ大学の特別講義も所内で受講し、ついに2013年、48歳で、文学・哲学科を満点評価で卒業した。
ですから、この著者が書いた回想録なのです。迫真性にみちみちているのは、そのためです。殺人場面など、下手な小説どころではありません。
著者は司法取引を拒否しています。いわゆる「改悛者」になると、かつての仲間たちからは裏切り者とされ、家族をすくめて報復の恐れがあるからです。
逮捕され、裁判になってから著者は多くの真実を知りました。
敵と味方どちらの陣営にも、ありとあらゆる卑劣な行為と裏切りがあった。していたことは、まったく気高くもなければ、名誉のかけらもない戦いだった。殺しにしても身勝手な理由、都合よくねじ曲げた理由で命じられたものばかりで、ひどいものだった。
それなりに崇高で明確な目的のために殺していたつもりだった。だけど、あんなに単純な理由で仲間を殺す人間がこんなに多いとは思わなかった。ヤクの代金を払いたくなかったとか、借金を返したくなかったとか、妻の愛人らしいとか・・・。
そして、どんな殺しにも偉大な理想の衣装を着せることが何より大切だった。
恐ろしい悪行の数々がこうして正当化された。
著者はシチリア(シシリー島)に1965年に生まれ、幼いころからワルで、盗みを重ね、少年ギャング団の頭となり、ついにはドイツへ逃亡し、ハンブルグでいかさまギャンブラーになって、生計を立てていた。それが、1986年夏、21歳のとき、シチリアに里帰りしていたとき、マフィアによって祖父たちが虐殺されたことから大暗転した。その報復を目ざして、ついに4年後に地元マフィアのボスたちの暗殺に成功した。
暴力とギャンブルそしてセックスがらみの放蕩の青春時代が生々しく描かれています。大薮春彦の小説顔負けです。
殺人は報復の連鎖を生むという実例でもあります。
ひるがえって日本の暴力団は、公共事業を安定的財源としていることは世間公知の事実ですが、なぜか警察はその点を一向に究明しようとしません。
いくら集会やデモ(パレード)で暴力追放を叫んでも、その点にメスを入れないと暴力団の資金源を断つことは出来ないと私は思います。イタリアのマフィアに関心のある人には強く一読をおすすめします。
(2017年6月刊。2200円+税)
2017年9月 8日
現代史とスターリン
(霧山昴)
著者 不破 哲三、渡辺 治 、 出版 新日本出版社
この本を読んで、スターリンという独裁者は、ナチス・ドイツの独裁者ヒットラーと同じレベルの最悪・最凶の人物だったとつくづく思いました。
たとえば、朝鮮戦争が始まったとき、国連の安保常任理事会にソ連代表は欠席したわけですが、これまで私はなぜなのか不思議でした。この本によると、スターリンは、アメリカを朝鮮半島で戦争に巻き込みたかったのです。それは、アメリカがソ連との間で二正面作戦をとることにつながり、それだけソ連への直接的な圧力が弱まることを狙ったというのです。アメリカとソ連がヨーロッパで直接対決する事態が生じないように、「第二戦線」をアジアにつくる狙いがあったわけです。
毛沢東も、スターリンの思惑を承知して、新生中国の力を見せつけるべく大量の人民義勇軍を朝鮮半島に送り出したということなのです。
うひゃあ、そうだったのか・・・、そんな驚きに満ちている本でした。
そして、ヒトラーによるナチス・ドイツ軍の電撃的なソ連侵攻をスターリンが最後まで信じなかったのは、スターリンはヒトラーと手を組んで、世界を独・伊・ソ連そして日本の四ヶ国で再分割しようという、ヒトラーの謀略的誘いに騙されていたからだというのです。ヒットラーのほうが、スターリンより騙しの役者の点では一枚上だったというわけです。
ところで、この本は、スターリンがヒトラーの侵攻で不意打ちを喰って1週間ほど雲隠れしていたという説をとっていません。ええっ、本当でしょうか・・・。ヒトラーにすっかり騙されたスターリンが、しばらく気落ちしていたというほうが私にとって素直に理解できるのですが・・・。
フランス共産党がフランス人民戦線政府に参加していたら、もっと世の中はいいほうに変わっていたと思うのですが、スターリンは断平として、それを認めませんでした。フランスの進歩など、スターリンにとってはどうでもいいことだったのです。
そして、ポーランドです。スターリンは、ドイツと分割統治の秘密合意を成立させ、ポーランドの共産党を壊滅させ、反対しそうな知識層を一掃しようとしました。すべては、自分のソ連領土の拡張のためなのです。
いま安倍首相の下に内閣人事局が置かれ、警察官僚がトップにすわっています。トップが「一強」としてすべてを支配しているとき、身内びいきから腐敗が起こり、官僚政治がズタズタにされるという状況が日本で展開しています。これにメスを入れてたださないことには、完全な独裁政治体制になってしまうと思います。
大変知的刺激にみちみちた本でした。80歳をすぎても学問的に究明しようとする不破さんには心から敬意を表します。
(2017年6月刊。2200円+税)
2017年9月 7日
私にはいなかった祖父母の歴史
(霧山昴)
著者 イヴァン・ジャブロンカ 、 出版 名古屋大学出版会
ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅作戦によって殺されていったユダヤ人たちの生きざまを丹念な取材によって極力再現しようとしたフランスのユダヤ人歴史学者による力作です。
先日、天神の映画館でみた映画「少女ファニーと運命の旅」の背景にあった歴史的事実も紹介されています。
ユダヤ人住民の保護を組織する機関の一つ「アムロ委員会」は、フランスにおけるレジスタンス組織のなかではもっともはやい時期に成立した。「休暇学校」は、ユダヤ人の子どもたちを田舎に住まわせ、強制収容所に小包を送る。1943年来、500人のユダヤ人の子どもが隠れて生活していた。パリに近い、パリから300キロの範囲内。農村家族による受け入れが目立つ。受け入れ家族に頼り、子どもたちを分散させる。
そして、強制(絶滅)収容所におけるゾンダーコマンドが、これまた映画「サウルの息子」に描かれた状況ですが、詳細に再現されています。私は、ゾンダーコマンドが武器をもって反乱に立ち上がったこと、そして死体焼却棟を必死で爆破しようとしたことに深い感銘を受けました。人間の崇高さを感じ、頭が下がります。
1943年3月4日の晩に第49番列車から降ろされたユダヤ人は993人。そのうち男性100人と女性19人が選別され、残り874人は収容所に入ることもなく、ただちにガス室で殺された。彼らにとってアウシュヴィッツは、ただ殺害されるだけに降りた鉄道の終着駅だった。
1944年10月7日に起きたゾンダーコマンドの反乱は、第49番移送列車にいて選別された男性100人のうちの二人によって指揮された。この二人は、戦間期のパリで活動していたポーランド人組合活動家だった。
死体焼却炉をつくったトプフ社は、5台の焼却炉で1日につき1140体まで燃やすことできると言っていたが、実際には1日に1000「個」までいかなかった。それでも、トプフ社のナチ技師は自分の発明に大きな誇りをもって特許をとった。
ガス室から死体を引き出すのはユダヤ人からなる特別作業チーム「ゾンダーコマンド」。生き残った人は次のよう語る。
「一番ひどい瞬間はガス室を開けるときだった。あの耐え難い光景。人々は玄武岩のように押しつぶされ、固い石塊になり、なんとガス室の外に崩れ落ちてきた」
死体を焼くときには、人体の脂は燃焼を助けるが、「ムズルマン」と呼ばれる絶望した人々の死体を焼くときには体に脂がないので、コークス発生炉を運転させた。よく燃えなかった骨盤は取り出して砕く。
死体焼却炉で人々が焼かれる状況が描写されます。
「最初に火がつくのは髪の毛である。肌は気泡で膨れ、数秒にして破裂する。腕と脚はよじれ、血管と神経は引っ張られて四肢が動く。すでに体全体に炎がまわり、肌は破れて、脂が流れ出す。烈火の燃え盛る音が君にも聞こえるだろ。もう体は見えず、地獄の猛火が内側で何かを焼き尽くすのが見えるだけだ。腹が破裂する。腸や内臓が噴き出し、数分でもう跡形もない。頭は燃えるのに、もう少し時間がかかる。二つの小さな青い炎が眼窩の中で瞬いている。一番奥にある脳漿とともに燃え尽きていく眼だ。口の中では舌がまだ焦げている。全過程は2分続く。そして、一つの体、一つの世界が灰に帰す」
1944年夏。ハンガリーのユダヤ人絶滅のため、死体焼却炉はフル稼働し、このときゾンダーコマンドの人員は900人と最大になった。
1943年夏以降、ゾンダーコマンドの内部に抵抗の核が形成された。
1944年6月、ナチは反乱の計画を察知し、ゾンダーコマンドを昼も夜も死体焼却棟の中に閉じ込めた。
アウシュヴィッツの非ユダヤ人抵抗者は、できる限り長く持ちこたえるべきだと考える。それに対して、ゾンダーコマンドのユダヤ人は、自分たちがいつでも粛清される恐れがあることが分かっている。
レジスタンスたちは、外部のポーランド・レジスタンスと連携し、死体焼却棟における女性たちのガス殺の写真をとってひそかに外部へ送る。弾薬工場で働く女性たちが生命の危険を冒して渡してくれた爆薬を蓄えていく。
そして、1944年10月7日、パリ解放の1ヶ月半後、ゾンダーコマンドたちは決起した。大勢が収容所の外へ逃げていくとき、二人が残って死体焼却棟を爆破する。決起・反乱は失敗し、450人のゾンダーコマンドはナチによって処刑された。
指導者の一人は、収容所で起きたことを書いて、ガラス瓶に入れて地面深く埋めた。戦後になって発見され、活字になって紹介されたが、それは1970年代になってからのこと。
本書はフランス学士院賞をとったとのことです。思わず息を吞みこむほど、大変な迫力のある力作でした。
(2017年8月刊。3600円+税)