弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2025年5月29日

陸軍作戦部長 田中新一


(霧山昴)
著者 川田 稔 、 出版 文春新書

 石原莞爾を失脚させ、武藤章と激突、佐藤賢了を殴り、東条英機を罵倒した男。このようにオビで紹介されている人物です。
 田中新一作戦部長と部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の3人が日米開戦の強力な主唱者だった。そして、有力な対抗者だった武藤章軍務局長は日米開戦に慎重な姿勢をとっていた。ところが、日本敗戦後、慎重論の武藤章はA級戦犯として死刑になったのに対し、開戦論の田中新一のほうは戦犯指定も受けず、1976年(昭和51年)に83歳で亡くなった。東京裁判では証人として出廷して証言しただけ。ええっ、なんて不公平なことでしょう...。
 韓国映画(たとえば「ソウルの春」)をみてると、軍部内に「ハナ会」という秘密結社があって陸軍を牛耳っていたという情況が出てきます。戦前の陸軍にも、皇道派と統制派というわけでなく、「一夕(いっせき)会」という非公然組織があって、陸軍の人事で暗躍していたようです。メンバーには、永田鉄山(陸軍省内で斬殺されました)、石原莞爾、東条英機そして田中新一がいました。
 武藤章と田中新一は陸士(陸軍士官学校)同期で、作戦課長と軍事課長をそれぞれつとめた。
 田中新一は軍事課長として、石原莞爾の不拡大方針に反対した。日本の中国大陸における権益を保持するには、不拡大方針は棄てるべきだと主張した。田中新一は、全面戦争は望まないが、協力かつ短切なる武力の行使が必要だと主張した。
 1937(昭和12)年8月、武藤作戦課長と田中軍事課長は今や田中全面戦争は避けられないと一致した。そして、上海で日中両軍は交戦状態に入った(第二次上海事変)。
 ところが、日本軍は優勢な中国軍によって苦戦した。中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導と援助のもとで張り巡らされたトーチカ陣地によって果敢かつ強力に抗戦してきた。日本軍は3ヶ月あまりのうちに4万人の死傷者(戦死者1万人)を出した。
 このころ、田中新一は、次のように述べた。まさしく侵略戦争だと宣言、自白したのです。日中戦争は、中国の征服に乗り出すものであり、元や清の中国支配に比肩するものだ。
なんという思い上がりでしょうか、信じられません。
 石原莞爾は日中戦争が長期戦になることを恐れていた。ところが、早期解決の可能性はまったくなくなった。1938年、陸軍中央から石原系の軍人は一掃された。
1940年10月、田中新一は、作戦部長に就任した。47歳だった。これは東条英機陸相の意向によるものだった。
 田中作戦部長は、タイ・仏印の勢力圏下を考えていた。
1941年6月22日、ドイツはソ連領内に侵攻した。田中作戦部長は独ソ戦がドイツの電撃的勝利に終わり、北方で好機が到来するとみた。しかし、その後、陸軍内でもっとも強硬な親独派の田中でさえ、ドイツとの連携を脱する「対米英親善」を再検討した。
 1941年8月、田中作戦部長は、即時対米開戦決意のもとに作戦準備を進めるべきとした。その理由としては、日本軍のジリ貧、アメリカ軍の大増強によって、比率がどんどん悪化していくということ。やるなら今のうちしかないというのは、初めから勝てるはずがないということですよね。無責任な大ボラ吹きもいいところです。でも、当時は、勇ましい決意表明だということで、批判を圧殺していったのでしょう。
海軍は、開戦して2年間は自信があるが、アメリカを軍事的に屈服させる手段はないとしていた。これは開戦前のことなんです。いかにも無責任きわまりありません。よってたかって、どいつもこいつも、軍のトップ連中はみんなそろって無責任なんですが、口先だけはいつだって勇ましいのです。
 今でも同じことですね。「日本を守る」といったって、国民のことは眼中になく、ミサイルなどの軍事産業育成だけなんです。自分がもうかったらいい。国民保護なんて、ハナから眼中にありません。嫌になってしまいます。
(2025年1月刊。1210円)

2025年5月18日

脱露


(霧山昴)
著者 石村 博子 、 出版 角川書店

 日本敗戦後、シベリアに送られた日本人は軍人だけではなかったのですね。
 敗戦後はソ連領になった南樺太(カラフト。サハリン)で民間人として生活していた日本人。鉄道員、炭鉱夫、大工、運転手...などさまざまな職業の人たちがソ連軍によって逮捕され、一方的な裁判で囚人としてシベリアのラーゲリ(収容所)に連行される。
 ラーゲリで苛酷な労働を強いられたあと、刑期が明けてもどこかに強制移住させられ、ソ連本土に残留させられた。その後も、いろいろな理由で日本へ帰れないまま、数十年にわたって生死不明の状態が続いた(このとき「戦時死亡宣告」とされた人もいる)あと、ソ連の崩壊によって「発見」された。この人たちを「シベリア民間人抑留者」と呼ぶ。
 元日本兵がシベリアに抑留されたのは57万5000人、うち5万5000人が死亡した。民間人については、200人ほどしか判明していない。
シベリア民間人抑留者は3つのグループに分けられる。その一は、一般人として暮らす元軍人。その二は、軍隊経験のない正真正銘の民間人。その三は密航者。サハリンから密航して北海道に上陸した人は少なくとも2万5000人いる。
 民間人抑留者の集団帰国が実現したのは、日ソ両国赤十字社代表による共同コミュニケが1953年11月に調印されてからのこと。1956年12月まで11回の引き揚げがあった。
しかし、日本に帰らず残留を選択した日本人も少なくなかった。現地の女性と結婚し、子どもをもうけた人たち。285人が判明している。
 現地の女性と結婚したといってもロシア人とは限らない。朝鮮人だったり、ドイツ人だったり、いろいろだ。ロシア人は、夫を戦争で亡くした女性がたくさんいた。
この本に登場する日本人は著者が話を聞いたりしていますので、その所在が日本側に判明した人であり、また80歳になっても元気でいる人に限られる。
 亡くなった人のお墓には、生前の顔写真が大きくはめこまれているのが、ほとんどです。日本にはない風習ですが、ソ連そしてロシアではよく見かけます。
 貴重な記録が掘り起こされています。
(2024年7月刊。2250円+税)

2025年5月 1日

「治安維持法100年」


(霧山昴)
著者 萩野 富士夫・歴教協 、 出版 大月書店

 治安維持法が制定されたのは、今からちょうど100年前の1925年。その後、2度の改正を経て、猛威をふるった。そして、日本国内だけでなく、植民地として支配していた朝鮮と台湾にも運用された。
 日本では1945年に廃止されたが、朝鮮と台湾では戦後も長く戒厳令が敷かれたりして、人権を蹂躙する治安体制が続いた。
 1925年に制定された治安維持法は1945年に廃止されるまでの20年間、社会変革の運動や思想をおさえこみ、戦争遂行の障害とみなしたものをほぼ完璧に封殺した。
治安維持法の成立は、普通選挙法の成立と同じ時期。このことは私も知っていましたが、同時に日ソ国交の成立とも関連しているのこと、これは全く知りませんでした。ロシア革命が1917年に成功して、それからまだ8年しかたっていませんでしたから、日本の支配層が非常なる危機感をもっていたのでしょうね...。
弾圧のなかで思想転向者が多数うまれた。その方向で転向を促進するため、思想犯保護観察法が1936年に成立・施行された。
1925年に制定されたときの治安維持法はわずか7条だったのが、1941年3月、2度目の改正によって65条にまで増えた。それまで拡張解釈していたのを条文にした、つまり運用の実態を条文化した。これって、いかにも本末転倒ですよね。
1945年8月の日本敗戦後も日本政府は治安維持法を廃止など念頭になく、運用の継続を図った。驚くべきことです。そこで、GHQ(占領軍)が10月15日に「人権指令」を発して、ようやく治安維持法は廃止された。
1945年8月15日をもって直ちに収容されていた政治犯全員が釈放されたというわけではないのです。そのため、三木清などが敗戦後なのに、刑務所のなかで病死しています。本当に残念なことです。
特高警察の解体も、GHQの指令によってようやくなされたのでした。ところが、特高警察官たちは、しばらく野に伏せていただけで、やがて大手を振って表に出てきて、国政トップにまで出世していきました。ひどいものです。
朝鮮半島での治安維持法の運用は、日本以上に苛烈でした。
拷問もひどいもので、それによって得た「自白」により、死刑が科されていった。
日本では判決として死刑はなかったが、朝鮮では48人が死刑判決を受け、最終的に18人が死刑となった。
中国の「満州国」でも治安維持法と同旨の法令があった。七三一部隊の殺戮工場へ「マルタ」として送られた人々も少なくないようです。
この本には、治安維持法に抗した人々の運動が紹介されています。この人たちは、治安維持法に反対するためというより、自分たちの目ざすものを一生けん命に追い求めていたところ、官憲のほうが、それを許さず、治安維持法違反として次々に検挙していったのだと思います。京都学連事件。長野県の教員赤化事件、兵庫県の新興教育運動、唯物論研究会、北海道綴方教育連盟...。
そして、治安維持法が、今、再び生き返り、日本を戦争へもっていこうとする動きがあるという警鐘が乱打されています。この12月、長崎の人権擁護大会で、日弁連(日本弁護士連合会)は「戦争をしない、させない、長崎宣言」を採択しようとしています。
再び千雄の惨禍を受けないよう、過去の歴史に学ぶことの大切さを改めて認識させてくれる本です。ぜひ、あなたもご一読ください。ついては、昔学生の眼から見た昭和初めの時代を描く「まだ見たきものあり」(花伝社)もおすすめします。
(2025年3月刊。2200円+税)

2025年4月28日

口笛のはなし


(霧山昴)
著者 武田 裕熙 ・ 最相 葉月 、 出版 ミシマ社

 口笛の世界チャンピオンに「絶対音感」の著者がいろいろ質問している面白い本です。
 口笛も指笛も周波数が高い。指笛だと数キロ先まで音が届く。女性が口笛を吹いてはいけないというのは文化を超えて世界共通。霊や悪運を呼ぶという。
口笛のコミュニティは狭いので、口笛を吹けると、世界大会やオンラインでつながって、世界中の人とつながる。
口笛は楽器で、口笛音楽は器楽。
ビートルズのポール・マッカートニーは、楽譜の読み書きが苦手だから、作曲するときは、ジョンと口笛を吹きあったと話している。
 アメリカには職業口笛奏者を養成する学校があった。1909年に設立され、1990年代まで続いた。
ディズニー映画に口笛は欠かせない。「夕陽のガンマン」で楽曲を担当したエンニオ・モリコーネは口笛をテーマ曲に使った。
 口笛は、今も科学的には完全に解明されていない。口の中で何が起きているか見えないので、説明できない。誰もが学べる教育システムが確立していない。
声道全体が楽器と考えられている。その中を空気が通ったときに、出口のところで小さな空気の渦ができて音が出る。さまざまな周波数の音の一部が口の中の空間と共鳴して、音程をつくる。
口笛はヘルムホルツ共鳴だとされてきたが、今では間違いだとされている。口笛は非常に独特な原理で鳴っている。口笛に一番近いのはフルート。気柱共鳴の一種で音が鳴っている。
 声にはいろんな波が混ざっているが、口笛は単純、純粋な音と言える。
男性も女性も口笛に違いがない。そこは歌と違う。口笛は声帯の振動を使っていない。だから、男と女で違いがない。下とあごで音程が決まっている。
口笛は自分で音をつくる作音楽器。口笛はバイオリンやトロンボーンと同じで、機械的に音程が決まっていない。
 口笛で和音が吹ける。一人でハモれる。
 ハーモニカと同じで、吸っても音が出る。息継ぎをしないでずっと演奏が出来る、夢のような楽器。日本には全国各地に口笛教室がある。これは世界的には珍しい。
「上を向いて歩こう」の坂本九は、自分で口笛を吹いている。
 いやあ、口笛のことを初めて知りました。口笛が上手に吹ける人が、歌のほうは音痴だということもあるそうです。
 この本にはQRコードがのっていますから、聞いてみました。すごいです。読んで聞いて楽しい本でした。
(2025年2月刊。2200円)

2025年3月19日

わたしの人生


(霧山昴)
著者 ダーチャ・マライーニ 、 出版 新潮クレスト・ブックス

 第二次大戦中、イタリア人が日本で収容所に入れられているということを初めて知りました。
 著者は2歳のとき日本に来ました。父親は北海道帝国大学でアイヌ文化を研究していました。なので、札幌で幸せな生活を過ごしました。その後、京都に移っていたところ、1943年にイタリアが連合国軍に降伏したため、日本政府は在留イタリア人に踏み絵を迫ったのです。あくまでファシスト政権に忠誠を誓うかどうか、です。
 両親そろって拒否したため、名古屋郊外の天白村にあった民間人抑留所に入れられました。両親は孤児院に入れるか問われたとき、それも拒否し、一家4人(娘2人)で収容所で厳しい・苦しい生活を過ごすことになりました。
 7歳から9歳まで、育ち盛りの少女なのに、すさまじい飢えを体験することになったのです。
 監視する警察官たちは、日本政府の支給する食料を横取りしたため、収容されていた人たちは栄養不足から病気になっていきました。警官たちの残飯まであさり、野菜をとって食べ、ヘビやカエルを捕まえて子どもたちに食べさせたのです。
 たまに親切な日本人もいましたが、たいていは敵性外国人だとして、またイタリア人は裏切り者だと罵倒する日本の軍人たちがほとんどでした。日本の風習を知っている著者の父親は彼らの前面で包丁で指を切断して抗議までしています。
 野菜不足から脚気になり、すると頻尿になった。
 収容所では、子どもがいても子どもは配給の対象にはなっていなかった。なんということでしょう...。子どもだった著者は空腹のあり、地面をはっているアリまで食べたとのこと。指でつぶして口に入れ、かみもしないで呑み込んだ。しばらくして中毒にかかって、もう食べられなくなった。いやはや、アリを子どもが食べただなんて...。
 毎晩、死ぬ準備をした。輪廻(りんね)観を信じていたから、死んだらすぐに、生前のふるまいによって、別の姿に生まれ変わると思っていた。
 収容されたイタリア人は16人。ユダヤ人教授、宣教師、商人、元外交官など...。
 日本人の警官たちは、毛布を1枚ふやしてとか、ノミやシラミ退治のための殺虫剤がほしいと頼むと、「おまえらは裏切り者だから死んであたりまえなんだ。寛大だから生かしてやってるんだ」と答えた。
 日本の敗戦が色濃くなっていくと、配給が減っていった。1日の配給はひとり生米一ゴウ(130グラム)のみ。
 日本の敗戦によって解放された。自由の味は、かけがえのないものだった。そして生命と太陽に恋する肉体を回復させるエネルギーが戻った。
 著者は、過去の記憶を未来に生かすべきだと考え、自分の収容所での体験を語り、また書いたのです。
(2024年11月刊。2145円)

2025年3月14日

大本営発表


(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版 幻冬舎新書

 「大本営発表」というコトバは、今でもデタラメなことを公然と言って恥じないという意味で使われることがあります。この本では、「あてにならない当局の発表」とされています。
3.11福島第一原発事故は、危く東日本全滅という超重大事故になるところでしたが、政府(原子力安全・保安院)と東京電力はあたかも重大事故ではないかのような発表を繰り返しましたので、これこそまさしく現代の「大本営発表」だと批判されたのは当然のことです。
 大本営発表とは、1937年11月から、1945年8月まで、大本営による戦況の発表のこと。大本営とは、日本軍の最高司令部。
 ところが、当初の大本営発表は事実にかなり忠実だった。なぜなら、緒戦で日本軍は次々に勝利していたからです。嘘をつく必要なんてありませんでした。
 問題は、日本軍が次々に重大な敗退をきたすようになってからです。本当は敗北したのに、それを隠そうとして、「大戦果」を華々しく報道しはじめました。
 大本営発表によれば、日本は連合軍(その内実はアメリカ軍)の戦艦を43隻も沈め、空母に至っては戦艦の2倍、84隻も沈めたとする。ところが、実際に喪失したのは、戦艦4隻、空母は11隻でしかなかった。ひとケタ違います。これに対して、日本軍の喪失は戦艦8隻か3隻、空母19隻が4隻に圧縮された。そして、撤退は「転進」、全滅は「玉砕」。本土空襲はいつだって「軽微」なものだった。
 大本営のなかで、作戦部はエリート中のエリートが集まる中枢部署で、傲岸(ごうがん)不遜であり、発言力がきわめて強かった。報道部は、作戦部に逆らうのが難しかった。
 新聞は、部数拡大をめぐってし烈な競争をしていた。そこで新聞は前線に従軍記者を送り込み、「従軍記」を連載し、世間の耳目を集めることによって販売部数を伸ばしていった。
 新聞は結局、便乗ビジネスに乗ったわけで、それは毒まんじゅうだった。事態を批判し検証するというメディアの使命を忘れ、死に至る病にむしばまれてしまった。
 しかも、大本営は新聞用紙の配分権を握っていたので、報道機関をコントロールできた。こうして、日本の新聞は、完全に大本営報道部の拡声器になってしまった。
 戦果の誇張は、現地部隊の報告をうのみにすることに始まった。ミッドウェー海戦で、日本の海軍は徹底的に敗北した。アメリカ軍は日本軍の暗号を解読していた。日本軍には情報の軽視があった。日本軍は、そもそも情報収集と分析力が不足していたので、戦果を誤認しがちだった。
 「転進」発表が相次ぐなかで、国民のなかに大本営発表を疑う人々が出てきた。決して大本営発表のいいなりばかりではなかった。
 山本五十六・連合艦隊司令長官が戦死したことを知り、海軍報道部の平出課長はショックで卒倒した。さらに、山本の次の古賀峯一司令長官も殉職してしまった。
海軍は敗北の事実を国民に伝えなかっただけでなく、陸軍にも真実を告げなかった。その結果、陸軍はフィリピンで悲惨な戦いを余儀なくされた。
 特攻隊に関する華々しい大本営発表によって、地上戦の餓死や戦病死という現実は、国民の視界から巧みに消し去られた。
 アメリカ海軍の空母は1942年10月以来、1隻も沈んでいない。それほどまでに頑丈だった。逆にいうと、日本海軍はアメリカ海軍にほどんど太刀打ちできなかった。
 大本営発表は、確たる方針もなく、その時々の状況に流されやすい性質をもっていた。とりわけ損害の隠蔽は、これに大きく影響を受けた。
 今のマスコミが、かつての大本営発表のように、当局の意のままに流されないことを切に願います。と同時に、SNSにおけるフェイクニュースの横行を同じく大変心配しています。
(2016年8月刊。860円+税)

2025年3月 9日

一身にして二生、一人にして両身


(霧山昴)
著者 石田 雄 、 出版 岩波書店

 東大の社会科学研究所(社研)の教授であり、政治研究者として高名な著者が父親のこと、戦後日本のことを語った本です。
父親は戦前、内務官僚として警視総監もつとめました。熊本の五高時代からの親友である大内兵衛(東京帝大経済学部教授)が治安維持法違反で特高警察に逮捕された。
 人民戦線事件。前年まで警視総監をして管内各署を巡視していて、すべてを知り尽くしていたと思っていたところ、大内兵衛が留置されていた淀橋警察署に出かけて想像もしない状況を見聞した。自分の親友が狭い雑居房でスリや強盗と一緒に劣悪な条件でスシ詰めにされていたのを知った。それを知った父親はすぐに警視庁に行き、そのときの警視総監である安倍源基(特高の警察の元締として悪名高い)に会い待遇改善を要請した。大内兵衛は「憎むべき」思想犯なので、安倍警視総監が快く改善に乗り出したとは考えられない。ただ、先輩の頼みなので、無下には扱えず、淀橋署より混み方の少ない早稲田警察署に大内兵衛は移された。そういうことがあったのですね。留置場のひどさは想像できます。 
日本の敗戦後、父親は、「たくさんの人を縛った罪滅ぼし」をするため、刑事被告人の国選弁護人をしはじめた。そして、国選弁護人として何回も小菅刑務所(東京拘置所)で被告人に面会し、話しているうちに、犯罪者に対する観方が180度変わった。
 権力の側から見ていたときは、被疑者・被告人は悪い人間で、それを捕えて罰するのは必要だし、当然のことだと思っていた。ところが、被告人の眼で見ると、彼らは、まさしく社会的矛盾の被害者だと考えられる。また、死刑囚の弁護をしているうちに、死刑制度は廃止すべきだと考えるようになった。
 そうなんですね。昔も今も、目の前の現実をしっかり受けとめると、考え方が180度変わってしまうことがあるのですね...。
 著者は、「政治改革」をマスコミと多くの学者が礼賛するなかで、結局、小選挙区制が導入されたことを苦々しく振り返っています。今の日本の政治をおかしくしている原因の一つが、この小選挙区制です。元の中選挙区制に戻すか、全国完全比例代表制に変えて、民意が国政に正確に反映されるようにすべきだと思います。
 日本人が第二次世界大戦の被害者であることは間違いありません。しかし、同時に加害者側でもあったことを忘れてはいけないと、著者は再三強調しています。まことにそのとおりです。朝鮮半島そして中国大陸への侵攻だけでなく、東南アジアへ広く進出していって、多くの罪なき民衆を殺し、資源を奪い、市民生活を破壊していったのです。
 それは、戦後の朝鮮戦争そしてベトナム戦争についても言えます。日本は明らかに加害者であり、戦争による利益を受けたのです。
考えさせられる事実、そして指摘がありました。
(2006年6月刊。2400円+税)

2025年3月 7日

忘れられた無差別爆撃


(霧山昴)
著者 纐纈 厚 、 出版 不二出版

 検証・錦州爆撃というサブタイトルのついた本です。
1931年9月18日に始まった満州事変の翌月(10月)8日に日本軍は錦州を爆撃した。世界最初の都市への無差別爆撃だった。日本軍が攻撃したのは中国軍の兵営というより、錦州駅など市内の中心地。錦州市は当時の人口180万人、日本人も多く住んでいたが、日本人居住区は攻撃対象からはずされた。錦州爆撃はきわめて用意周到な計画にもとづくものだった。
 この錦州無差別爆撃はアメリカやイギリスをひどく怒らせ、国際世論は日本を厳しく糾弾した。錦州爆撃は国際社会から猛烈な批判を浴びた。それまでは日本の軍事行動をある程度は容認していたアメリカも姿勢を一変させた。
 このとき石原莞爾は自ら出撃機に搭乗して陣頭指揮した。石原ら関東軍と陸軍中央は目ざすところは同じだったが、主導権をどちらが握るかで争っていた。石原莞爾の性急ぶりに、陸軍中央が振り回された。
 関東軍が独走し、それを陸軍中央が追認するというパターンが常だった。
錦州爆撃で出撃した日本陸軍機は、複合機の八八式偵察機とポテー機。まだ専用の爆撃機は完成していなかったのです。25キログラムの爆弾を吊しておいて、結局、手で放り投げたようです。出動した飛行機は11機で、爆弾は80個。この爆撃による死者は35人で、うち1人はロシア人の教授だった。その未亡人に対して150円の見舞金が支給された。
日本軍は、この爆撃について偵察飛行していると、地上から中国軍が銃撃してきたので、自衛のために爆弾を投下しただけだと強弁した。もちろん国際世論は納得しなった。
 昭和天皇は、当初こそ関東軍の独断専行を心配していたが、錦州を占領すると、勅語によって関東軍をたたえた。
 「朕、深くその忠烈を嘉(よみ)す」(1932年1月8日)
 これによって、満州事変が天皇によって正当化された。そして、もはや関東軍の独走を止める者はいなかった。
 
 1932年2月に来日したリットン調査団も、10月に発表した報告書で、満州事変における関東軍の行動を自衛的行為とは認め難いとし、錦州爆撃も非難した。
 この錦州は、1948年10月、毛沢東の八路軍と蒋介石の国民党軍の満州を舞台とする決戦場にもなっています。八路軍20万人に包囲され、国民党軍10万人は激戦の末、降伏した(『八路軍とともに』花伝社に詳しい)。大変勉強になりました。
(2024年11月刊。3300円)

2025年2月12日

昭和文化、1925-1945


(霧山昴)
著者 南博・社会心理研究所 、 出版 勁草書房

 亡父は17歳のとき、働くあてもないまま単身、上京しました。昭和2年(1927年)3月のことです。それから7年間、東京で生活しました。この7年間、日本はまさしく激動の時代であり、戦争へひた走りに突き進んでいきました。軍部の横暴を止める力がなかったのです。
 金融恐慌があり、満州事変があり、五・一五事件が起き、「満州国」が建国しました。国際連盟も脱退します。
 亡父は幸いにも逓信省にもぐり込むことが出来、仕事が決まると、次は法政大学で学ぶようになりました。初めは夜間の文学部国語・漢文科、そして法文学部の法律学科に移りました。我妻栄に学び、司法科試験を受験しました(不合格)。
 そのころの学生生活をしっかり調べ、刻明に再現していきました。『父の帝都東京日記』というタイトルをつけて出版したところ、父が日記をつけていたのが残っていたと誤解する人が出てきました。もちろん、そんな「日記」なんて、何もありません。私が亡父になりかわって当時の社会状況との関わりあいを明らかにしていったのです。亡父の日記はありませんが、法政大学の古ぼけた卒業記念アルバムが残っていて、その余白に父が貼りつけた写真が何枚もあり、学友たちと肩を組んでいる写真もあります。
 根が真面目な亡父は、きっと「マルクス・ボーイ」たちから、いろいろ勧誘されたのだろうと思いますが、「道」を踏みはずすことはなかったようです。
兵隊にとられて(応召)中国に渡りましたが、幸いにも病気にかかり、無事に日本に生還することができました(そのおかげで今日の私がここにいるわけです)。
 昭和6(1931)年ころの給料(賃金)は、陸軍少佐160円、陸軍大尉130円、中尉85円、軍曹67円。
1円で買える「円本」なるものが売り出され、爆発的な人気を得た。
 「現代日本文学全集」は各巻が1冊1円だったのに、第1回配本(尾崎紅葉集)は予約購読者が25万部だった。「世界文学全集」も刊行され、「レ・ミゼラブル」は58万部もの予約読者がいた。まさしく、すさまじいばかりの数字です。それにも大量ですね...。次に岩波文庫が対抗するように出現した。
 雑誌「キング」は、1927年に売り出したとき、140万部を発行した。これはすごいですね。
 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年3月のこと。10年たっても(1934年)ラジオの普及率は15.5%しかなかった。ラジオの普及率が65%に達したのは戦後の1953年のこと。
軍歌が一般に普及したのは案外に遅く、「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからにゃ」(露営の歌)は、1930年代も後半のころ。
 「出てこい=ミッツ、マッカーサー。出てくりゃ、地獄へ蹴落とし」
 かけ声だけは勇ましいのですが、裏づける物質がありませんでした。兵站無視の日本が戦争に勝てるはずもなかったのです。
 戦前を複眼的に見るときには欠かせない本だと思いました。
(1987年4月刊。4800円+税)

2025年1月30日

不条理を生き貫いて


(霧山昴)
著者 藤沼 敏子 、 出版 津成書院

 「34人の中国残留婦人たち」というサブタイトルのついた本です。550頁もある部厚い本ですが、読後感もずっしり重たいものがありました。
戦後生まれの著者による、戦前、満州に渡り、日本敗戦後も中国に残留していた女性(その大半が日本に帰国)にインタビューしたものが中心です。
日本敗戦直後の日本政府の方針は、日本への帰還を進めるどころか、「居留民はできる限り定着の方針をとる」というものでした。これは、敗戦直後は日本国内の食糧が良くないことを理由とするものではありましたが、「満州」国にいる日本人がどのような悲惨な状況に置かれているかを無視したものであり、まったく人道的配慮のない方針です。
その結果、1945年6月、満州国にいた日本人166万人のうち、敗戦直後に24万5千人が死亡した。日ソ戦により6万人、終戦後18万5千人だと厚生省は推計している。そして、日本から満州に渡っていた開拓団の死亡者が8万人を占めた。
満州に残留した日本人女性は、敗戦直後の混乱の中を生きのび、やっと収容所や避難所にたどり着いたときは裸同然。飢餓と戦い、寒さと戦い、怒涛の大河に飲み込まれつつも、浮き沈みしながら、奇跡的に命をつないだ。収容所では、「今日、死ぬか、明日、死ぬか」って、朝、目が覚めてみると、「あ、今日も生きとった」と。
 中国残留孤児たちは、中国では「リーベンクイズ(日本鬼子)」と言われ、日本では、「中国人、中国へ帰れ」と言われ、いったい「自分は何人なのか?」と悩む人が多かった。
 それに対して、残留婦人は、日本人としての揺るがぬ自覚が強く、それは中国にいたときも日本への帰国後も変わらない人が多い。なかには戦前のまま封印された美しい日本語を話す人も多かった。
 残留婦人たちは、身をもって体験した満蒙開拓の真相を語った。
 満蒙「開拓」とは名ばかりで、実は中国人の畑や家をタダ同然で奪ったものだった。また、「五族協和」と言いながら、トップは日本人だった。
日本の敗戦後、ソ連兵や現地中国人の襲撃・略奪そしてレイプ(強姦)にあったとき、「日本人が悪いことをしてきたから、仕返しされた」とつぶやいた。
 収容所では、飢えと寒さと伝染病が延し、バタバタと仲間の日本人が死んでいくなか、「野垂れ死にか、さもなくばトンヤンシー(幼な妻)か、現地人の妻妾になるか」の選択肢しかなかった。
著者が1995年ころ、残留婦人にインタビューに行ったとき、正座して何度も何度も謝る女性がいた。「中国人と結婚して申し訳なかった」と言う。
 日本人のいない田舎、ラジオも新聞もなく、いわば閉じ込められてしまったような生活を過していた。その生活が嫌だといっても逃げ出すことのできない生活が続いていた。情報も通信手段もない状況に置かれたのが日本人女性たちだった。
 中国では、嫁さんもらうのにお金かかるし、貧しい人は中国人の嫁さんがもらえない。小さいときには養女として引き取って、大きくなったら自分の子どもと結婚させる(トンヤンシー)。
 開拓団って、関東軍のために食料つくっていたんだけど、国(日本)にはそう思ってもらえなかった。軍人だけが国を守ってきたんじゃない。軍人と開拓団への扱いがあまりにも違いすぎる。日本の政府って、あんまり不公平だ。軍人には恩給あるのに、開拓団には何にもない。
今になると、「あの戦争は間違っていた」と分かる。でも、あのころはそんなことは考えもしなかった。働くばかりで、そんな暇なかった。
 とても貴重なインタビューを集めた本だと思います。
(2019年7月刊。2500円+税)

1  2  3  4  5  6  7  8

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー