弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年9月 3日

自由民権創成史(上)

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 明治の初め(7年、8年ころ)、新聞の発行部数は、「日日」が223万部、「報知」206万部、「朝野」55万部、「曙」80万部、「真事誌」53万部となっている。新聞史上の戦国時代だった。すごい部数ですね。今はどの新聞も大激減し、みんな青息吐息の状況です。
新聞の絶大な威力に脅威を感じた太政官政府は、本腰を入れて対応しはじめた。
 「真事誌」が目の上のコブとなっていたことから、政府は編集者のブラックを内国人でないとして編集にあたられないようにした。明治8年6月、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が制定・公布され、内務省の所管となった。そして、「曙」、「朝野」、「報知」の各編集長が、禁獄2ヶ月とか罰金20円などに処せられた。
 明治5年、民事訴訟の代理人として代言人を制度化した。刑事訴訟の弁護が認められるのは明治15年1月の治罪法施行のあと。
 福沢諭吉も代言人制度には強い関心をもっていて、塾内に代言社を組織した。
明治8年5月から、大審院以下の裁判所制度が行政と分離して確立しはじめるなかで、全国の代言人の数は増加していった。
 当初は、裁判所の許可さえあれば、誰でも代言人をつとめることができた。しかし、明治9年2月、代言人規則を制定し、代言人試験に合格したものだけに資格を付与することにした。明治9年から、年に数回の試験が実施された。
幕府を倒すのに力があったのは頼(らい)山陽で、今は福沢諭吉だ。そう言われるほど、福沢諭吉の影響力は絶大だった。
 太政官政府は、王政復古と廃藩置県という二大変革を断行することによって、近世天皇、朝廷制度を確固として支え続けてきた将軍制度、そして大名制度を結果的に廃棄してしまった。
 明治8年6月、第1回の地方官会議が木戸孝允の議長のもとで開会した。この開催前に、公選民会を既に開催しているところがあった。ただし、福岡県にはなかった。
国会設立が先か、地方民会が先か、こんな論争があり、刃傷沙汰まで発生した。
 国会開設運動の中心には士族民権的色彩の強いものと、反華士族の立場を明確にした平民民権的なものとが混淆(こんこう)していた。
 士族の廃藩処分に対する思いは複雑だった。家禄を支給されつづけている士族たちは、数年前までの支配階級としての身分意識・自尊心を抱きつつ、自らの社会的存在意義を示す必要を痛感せざるをえない。
彼らにとって、対外危機は絶好の機会となる。士族の不満を外に転換させるための台湾出兵決定は、明治7年2月のこと。
 百姓・町人の立場からは、士族がその識を失ったあとも家禄が支給され続けていること自体が問題だった。すなわち、士族は人民保護の役割が消滅したと同時に、士族の兵役義務も存在しなくなった。
 士族以外の平民が民選議院の主体にならなくては、国政の根本的変化を惹起させることは不可能だというのが、平民民権論だった。華士族の家禄泰還こそが平民の辛苦を除去する方法とするのが平民民権論の特徴の一つだった。
 民選議院設立建白そのものが日本全国に衝撃を与え、全国の農民に新しい視野と斬新な展望を与える起爆剤となった。
 明治初めのころの激動する日本の実情を生き生きと紹介している本でもあります。
(2024年10月刊。3800円+税)

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