弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮・韓国

2014年4月 2日

北朝鮮経済のカラクリ


著者  山口 真典 、 出版  日系プレミアシリーズ

 北朝鮮が日本にとって不気味な国であるのは間違いありません。ところが、安倍首相は、そんな日本国民の心理を利用して、北朝鮮にミサイルを先制攻撃できるようにしようというのです。それは戦争です。恐ろしいことです。北朝鮮が反撃として、日本に50以上ある原発にミサイルを撃ち込んだら、たちまち日本は破滅してしまいます。やめてください。安倍首相の危険な「火遊び」につきあわされて、日本という国が消滅するのを指をくわえて眺めているわけにはいきません。
この本は、北朝鮮経済のいびつな構造に迫っています。
 金正恩は、2012年4月に朝鮮労働党第一書記に就任し、主要な最高権力ポストをすべて引き継いだ。
 金正日の「遺言状」のなかには、海外銀行の資金は金正恩が管理しろ、原子力発電所を少なくとも3個は建設しろ、というのがあるそうです。前者は既に実現しているのでしょうが、後者はどうなのでしょうか・・・。
 父親の金正日の哲学は、権力を持つ第二人者(ナンバーツー)の台頭は絶対に許さないことにあった。頂点に立つのは、最高指導者ただ一人だけで、残りの側近は、全員を水平的に配置して、互いに牽制させた。自らを脅かす勢力が台頭してくる前にその芽を摘む。
 金正恩が、先日、張成沢を銃殺してしまったのも、その哲学を実践したということですね。
北朝鮮には、国の公式経済とは別に、予算数字に計上されない非公式の経済が存在する。軍需経済と王室経済だ。軍需経済は、労働党の中央軍事委員会と軍需工業部が統括し、第2経済委員会が傘下の武器工場や商社、金融機関などを通じて執行する。
 王室経済は、単に金正日ファミリーがぜいたくするためだけの資金ではない。自らの体制を支えてくれる幹部の忠誠心をつなぎとめる目的のための仕組みだ。この秘密資金を管理するのが労働党39号室だ。ところが、近年、北朝鮮では指導部の把握できない「ヤミ経済」がどんどん膨らんでいる、蔓延する「賄賂文化」もヤミ経済の一部だ。
 北朝鮮の社会は、出身成分でも将来が決まる。成分は大きく分けて三つ。核心階層、動揺階層、敵対階層。日本からの帰国者は敵対階層という低い成分に分類され、日常生活でもいろいろな制約を受ける。
どんなに庶民が貧しくても、平壌に住む幹部の生活さえ保障していれば、体制が揺らぐことはないとされる。
 平壌市民250万人のうち、十分な食料品や生活用品の確保など、手厚い庇護を受けている党や郡の幹部が50万人いる。なかでも2万人の高級幹部は、優遇されている。
 エリートたちの忠誠をたもつためには、現金や物資にあわせて年に10億ドルが必要だ。
 北朝鮮の全人口は2400万人。核心階層と労働党員が300万人いる。
北朝鮮の庶民が沈黙している理由の一つは、徹底した相互監視システムにある。
収容所にも二つある。生涯出所できない「完全統制区域」と、比較的罪の軽い政治犯で出所の可能性がある「革命化区域」。
 北朝鮮で軍のクーデターが起こる可能性は、まずない。その根拠は、ローヤルファミリーを警護する護衛司令部の存在。護衛司令部は、陸海空あわせて5~6師団の10万人。これは人民軍から切り離して、軍よりも最新鋭の武器や装備を供給した。
 軍は、クーデターを防ぐため、陸・海・空軍の指揮命令系統を別々にしている。
 平壌付近には、大規模な兵力を配置していない。軍の部隊が決定を下す際は、3人の指揮官全員の合意が必要だ。
 金正日の外交術には一定のパターンがあった。緊張を高めたあとで、少しだけ譲歩し、最大限の見返りを得る。日米韓の連携を揺さぶる。
 金正日の統治は、絶対に自分から指示しないことが特徴だった。失政の責任は全部を部下が負う。最高指導者の決定に間違いはありえないのだ。
 北朝鮮は、武器輸出で年に1~4億ドルの外貨を稼いでいる。アヘンや覚醒剤の生産もしていた。アメリカ・ドルの偽造もしていた。ニセ・タバコもつくっていた。
 北朝鮮は海外出稼ぎ大国である。世界40ヶ国に5万人の労働者を派遣し、年間3億ドルを稼いでいる。
北朝鮮人民軍は117万人。予備役は740万人をあわせると、全人口2400万人の4割が軍人となる。男性人口の1割は軍人だ。
 北朝鮮兵士の平均身長は韓国兵に比べて15~20センチも低い。これは栄養状態の違いによる。
北朝鮮という国が、いつまでもつのか分かりませんが、本当に異常な状況だと思います。そして、韓国も中国も、そして日本もアメリカも、すぐに国(金正恩体制)が崩壊しないように支えているというのが現実なのではないでしょうか・・・。
 そして、脅威だけはあおって、安倍首相のように利用しているのです。
(2013年12月刊。850円+税)
 月曜日に東京に行ってきました。日比谷公園の桜が見事に満開でした。しだれ桜もありましたが、これもソメイヨシノなのでしょうか。奈良から来ていた弁護士が、うちは5分咲きと言っていました。大阪は、なぜか東京より遅いのですよね。
 3年近くつとめていた日弁連の委員長職から解放されました。重責で肩の重味がとれて、ほっとしています。
 わが家の庭のチューリップも満開です。庭のあちこちに500本のチューリップの花が咲いて、春到来をまさしく実感させてくれます。
 紫色の豆粒のような、ハナズオウの花も咲いています。

2014年3月16日

検証・朝鮮戦争


著者  白 宗元 、 出版  三一書房

 この本は1950年6月25日、韓国軍が攻撃を開始し北進したのが朝鮮戦争の始まりだとしています。明らかに歴史的事実に反します。ただ、そのことを除けば、朝鮮戦争の前夜の状況を詳しく紹介していて、なるほどと思わせます。
 そして、この本は日本が朝鮮戦争といかに関わり、利益を得たかを明らかにしています。
 日本における特需景気は頂点に達した。特需は陣地戦に必要な土のう用麻袋、有刺鉄線、野戦携帯食糧、毛布など、広範囲にわたった。とくにナパーム弾や砲弾などの需要が激増した。52年だけで、大阪機工は迫撃砲528門を生産している。小松製作所は81ミリ迫撃砲弾を32万5000発、同4.2インチ砲弾を63万3000発、大阪金属は同じく30万発など、大量受注している。
 まさしく、日本は死の商人としてもうけ、そのおかげで日本経済は立て直しにつながったのでした。
満州にいた日本軍の引部隊の幹部だった北野政次は、GHQの命令で朝鮮戦線に派遣され、「4ヵ月のあいだ滞在しながら流行性出血熱ウイルスの確保」に従事していた。
 細菌兵器として、野ネズミが埼玉県内の農家で大量飼育されていた。
731部隊の元軍医中佐であった「ミドリ十字」の創始者は、朝鮮戦争当時、アメリカ軍兵士の輸血用血液を大量に供給する必要があったため、この会社をおこしたのだった。
 朝鮮戦争における仁川上陸、掃海作戦には、多くの日本人が参加した。
 朝鮮戦争が始まると、日本政府は特別調達庁を積極的に運用した。アメリカ軍の作戦にあたって必要なあらゆる調達の要求を直ちに対応する中央機関であった。
 1950年から55年までのアメリカの軍需発注は、武器弾薬の調達と役務をふくめて18億ドル近く、軍人・軍属による軍需品買付が17億ドルあって、朝鮮特需は合計35億ドルをこえるものがあった。1952年から55年までの砲弾特需は総計400億円にのぼり、そのうち小松製作所が160億円で、4割を占めた。
 トヨタは、1000大もの米軍用トラックを受注したことが発展の基礎となった。トヨタは倒産寸前にあったのが、これで息を吹きかえした。
 仁川上陸に成功したあと、マッカーサーは元山上陸作戦を立て、そのため機雷掃海を日本政府に命じた。日本政府は、25隻の掃海艇、巡視船からなる「特別掃海隊」を編成し、旧日本海軍軍人1200人を動員して1950年10月12日から12月12日まで、元山、海州、仁川、群山、南浦で機雷の掃海に出動させた。
 そのなかで10月17日、掃海艇1隻が触雷して沈没し、19人の死傷者を出した。
朝鮮戦争はまだ休戦状態にあり、終わっていません。そして、この戦争に日本も深くかかわっていたことを忘れるわけにはいきません。
 北朝鮮の金正恩の暴走は心配ですが、日本人も考えるべきことは多々あります。決して他人事(ひとごと)ではありません。
(2013年6月刊。2500円+税)

2014年1月16日

戦争記憶の政治学


著者  伊藤 正子 、 出版  平凡社

 ベトナム戦争は、私が物心ついたときには既に進行中でした。大学生時代には、ベトナム反戦デモに何回も参加しました。
 「アメリカのベトナム侵略戦争に反対するぞ」
 こんなシュプレヒコールを何度も何度も叫びました。深夜に、東京・銀座の大通りいっぱいを埋めるフランスデモをしたときには、気分も爽快でした。
 そのベトナム侵略戦争には、韓国軍も加担していました。
 1965年から1973年までの9年あまり、韓国軍の青龍(海兵第二旅団)・白馬(第九師団)・猛虎部隊(首都師団)など、31万人あまりがベトナムに行き、5000人ほどの戦死者を出した。
 この9年あまりのあいだに、韓国軍は1170回の大隊級以上の大規模作戦と55万6000回もの小規模部隊単位作戦を遂行した。そして、韓国軍は4万1400人の「敵」を射殺した。韓国では、ベトナム戦争への参戦は「武勇伝」として語られてきた。
 1999年からハンギョレ新聞はその実情を知らせるキャンペーンを展開し、大反響を呼んだ。
 2000年6月、ハンギョレ新聞社はベトナム参戦軍人2400人に包囲され、パソコンを破壊され、幹部が監禁された。
 ところが、これに対するベトナムの反応は複雑だったのです。
「反韓」感情が国民のなかで強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった。その結果、ベトナム戦争の終結後に生まれた世代が7割を占めるようになったベトナムでは、戦争中に韓国軍が引き起こした事件は当該地域以外であまり知られていない。
 ベトナム戦争によって、ベトナムでは30万人が亡くなり、450万人が身障者になり、200万人の枯葉剤被害者が発生した。でも、アメリカがベトナムに与えた苦痛に比べたら韓国軍の誤りはとても小さいと言える。
 ベトナム戦争に参戦した韓国側のNGOは、「負の歴史を刻んで未来の平和に生かそう」というスローガンで活動している。ところが、ベトナム国家は、それとは逆の「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガンを掲げている。過去に多くの国家から侵略を受けてきたベトナムは、グローバル化する21世紀を生きていくうえで、どの国家とも良好な政治・経済関係を維持・発展させていくために、この方針をとっている。
 2009年、韓国の国会で審議中の法律の条文に「ベトナム参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」とあるのに、ベトナム政府が抗議した。
 金大中(キム・テジュン)大統領は、非常に明瞭な形でベトナムに謝罪の言葉を述べた。その後、ODAによるベトナム中部地域への韓国からの投資が増大した。
 しかし、金大中大統領の謝罪は、自分たちの尊厳を冒瀆したとみなすベトナム参戦軍人たちが反撃に出た。「中途半端」な村の虐殺事件の記憶は、経済発展に慢心することこそが至上命題の現在のベトナム国家にとって、掘り起こしても何の得もない「歴史」にすぎない。
 ベトナム戦争をめぐる公定記憶は、人々の苦しいながらも国家に貢献した誇らしい記憶である。しかし、「輝かしい勝利」になんら貢献していない、生き残りの人たちが語る「ハミ村の虐殺」は、ベトナム国家の公定記憶になりえないのだ。つまり、韓国軍による虐殺の記憶は、ベトナムでは、ナショナリズムと結びついた記憶にはならない。結びつけようとした時点で、ナショナリズムがほころびてしまう。この点が、日韓や日中の関係ともっとも異なるところである。
 私が韓国軍のベトナム参戦とその問題点を知ったのは、1989年に『武器の影』(岩波書店)、1993年に『ホワイト・バッジ』(光文社)を読んでからのことです。それが今、ベトナムが経済成長優先策のもとで難しい局面を迎えているのを知り、複雑な気分になりました。
(2013年10月刊。2800円+税)

2013年5月29日

近代朝鮮と日本

著者  趙 景達 、 出版  岩波新書

両班(ヤンバン)とは、本来、東班=文官と西班=武官の総称であり、文部官僚を意味する言葉であった。両班とは官僚を意味したが、いつしかその意味が拡散し、長きにわたって官僚を輩出していない家門のものであっても、在地社会では両班と認知されることがあった。
 両班とは、一貫して、法制的な手続を通じて認定された階層ではなく、社会慣習的に形成された階層であり、両班がそうでないかの基準は非常に相対的で主観的なものであり続けた。両班には、大きく京班(在京両班)と郷班(在地両班)があったが、在地両班の場合には、ある地方では両班と認められても、他の地方に行けば両班と認定されないこともあった。
 地方官志願者は多数存在し、それを勝ち抜くには賄賂が必要であり、地方官は君子然としてばかりいてはなれるものではなかった。また、胥吏(しょり)は役務であったために俸給がなく、給与の自己調達=行政手数料のようなものとして、勢い民衆収奪するしかなかった。民衆の側も、納得できる範囲であれば、権力の側の収奪を必ずしも不正とは考えなかった。救難事には、守令は確かに賑恤(しんじゅつ)を行おうとした。胥吏も、凶作時には収奪をゆるめて徴税に手心を加えた。
 民衆は、儒教的民本主義に訴えて、賑恤を正当な権利として要求した。治者と民衆との間には、奇妙な共生関係=秩序が成り立っていた。
 朝鮮社会にあって、氏族と農民は村々で共生した。民衆の両班観は、愛憎相反ばするアンビバレントなものであった。やがて、両班に士族とは何かが問われはじめていった。士とは朝鮮の固有語ゾンビに対応する漢語であり、本来、身分を超越して学徳を備えた人格者を指称する語である。
 朱子学にもとづく仁政イデオロギーは、朝鮮でも日本でも確かに機能したが、朝鮮では統治の原理そのものであった。日本では統治の手段であった。原理をもった社会というのは、そうたやすく自らを変えることができない。
 民衆をもっとも不安にさせたのは、何よりも飢餓の恐怖だった。民衆はもはや真人の出現を待つ余裕をなくしていた。
 東学は、人間平等の論理をはらんでいた。
 近代日本の膨張主義のうえで重要な人物は吉田松陰である。松陰は、将来ロシアに奪われるであろう富の代償として、朝鮮を手はじめとする大陸への侵攻を構想した。松陰にあっては、朝鮮は日本の下位に位置づけられ、古来、日本に朝貢すべき国として認識されていた。兵威をもって朝鮮を屈服させるべきだとけしかけたのは、松陰の弟子・木戸孝允だった。木戸孝允は、朝鮮が天皇に朝貢してこないときには、侵略すべしと岩倉具視に提言していた。明治維新は、その初めから侵略思想を内包していた。
 大院君の改革は士族の反感を呼び起こしたが、民衆の大院君に対する人気は絶大だった。しかし、景福宮再建工事は、大院君失脚の大きな一因となった。
 1987年5月の辛未(しんぴ)洋擾では、朝鮮軍はアメリカ艦隊に敗北はしたが、大変な激戦だった。これはアメリカの公使や指揮官にとって意外なことだった。崇文の国だと自負する朝鮮が、武威の国だと自負する日本以上に頑強に抵抗したのであった。
高宗の妃である閔氏は戚族と組んで、大院君の失脚を企んだ。そして、ついに失脚させることに成功した。1873年12月のこと。
 1876年2月、黒田清隆全権大使は、軍艦6隻を率いて江華島に現れ、兵員4000名と号した。ペリーの故知に倣うような威圧外交である。朝鮮側は、日本の威圧外交に憤慨はしたが、御前会議では開国やむなしが大勢を占めた。そして、江華島条約が結ばれ、日本の治外法権が認められ、朝鮮の関税自立権も否定された。しかし、治外法権は、倭館外交対馬藩に認めていたこともあって、不平等条約という認識は朝鮮側にはなかった。
 1882年7月、壬午軍乱によって大院君は政権に帰り咲いた。しかし、翌月、中国軍が大院君を拉致して、大院君の反乱は終息した。
 1884年12月、甲申政変が起きた。開化派は信頼していた日本にも裏切られた。
日清戦争直後の1895年10月、日本軍は、朝鮮王宮に侵入し、閔妃を殺害して死体を焼き払った。閔妃虐殺事件である。一国の公使が赴任国の王妃をほぼ公然と虐殺するというのは、世界史に類例をみない驚天動地の事件である。しかも、事件の背後には大本営が控えていた。首相の伊藤博文も同意していた。
 日清戦争後、日本人は朝鮮各地に入り込んで高利貸しを行い、朝鮮人の名義で土地を入手しはじめた。日本は朝鮮半島を丸ごと軍事占領しようとした。これが日露戦争につながった。
 韓国併合に先立って、朝鮮は実質的に日本の植民地になっていた。
日本と朝鮮との密接なかかわりを改めて知り、考えさせられました。
(2012年11月刊。840円+税)

2013年2月10日

拉致と決断

著者  蓮池 薫 、 出版  新潮社

著者は1957年に生まれ、1978年、21歳のとき、中央大学法学部3年に在学中に拉致され、以来24年間、北朝鮮での生活を余儀なくされました。
 何の落ち度もないのに、異郷の地に連れ去られ、仮面を被った生活を過ごさざるをえなかったのです。どれほど悔しい思いをしたことでしょうか・・・・。
 日本で考えられている自由の基準からすると、拉致被害者はほぼ完全に自由を奪われていた。「身体の自由」もままならない状態だった。行きたいところには行けず、連絡したい人とも連絡ができない。その理由は、拉致という事実、拉致被害者が存在するという極秘事項の漏洩と拉致被害者の逃亡を防ぐことにあった。招待所の周辺を散歩する自由くらいしかなかった。
 一番悔しかったのは、人生の幸せを追い求める自由を奪われてしまったことだった。
 著者一家は、日本人ではなく、「帰国した在日朝鮮人」と偽装した。著者たち拉致被害者が帰国できたのは、北朝鮮経済の不振が極限に達していて、指導部を窮地に追い込んでいたことによるものだろう。
 著者は子どもたちに日本語を教えなかった。それは、将来、工作員のような危険な仕事をさせられることのないようにするためだった。これは、夫婦で話しあって、ひそかに決めた。
 北朝鮮の社会はほぼ慢性的に食糧不足に苦しんでいた。だから、北朝鮮の人々は、食糧配給にことのほか敏感だった。引っ越しはもちろん、出張・旅行するときにも、配給制はついてまわった。配給制は、北朝鮮の人々の運命を大きく左右する国家のかなめの制度だったが、1990年代に入ってから、それがほころびを見せはじめた。
 子どもたちが寮に入ったとき、食べ物を小包で送ることはできなかった。届く前に郵便局員に奪われるのが常だったから。そこで、寮に戻る前に、子どもたちには煎った大豆をもたせた。十分に成長できないまま大人になってしまうのを心配して、1日2回、5、6粒ずつ数えて食べろと念を押して送り出した。うひゃあ、これはすさまじいことですね。
北朝鮮では、食べられるものが捨てられることなどない。
 節酒令や禁酒令は国民の健康や社会風紀維持のためというより、穀物(トウモロコシ)の浪費を防ぐのが重要な目的だった。著者も、トウモロコシが1粒落ちていても、拾っていたということです。厳しい社会環境ですね。日本にいると、とても想像できませんよね。
 著者は日本に帰国したあと、中央大学に復学し、今では著述業、翻訳家として活動しています。この本を読みながら、とても理知的な人だと思いました。
(2013年1月刊。1300円+税)

2013年1月31日

北朝鮮現代史

著者  和田 春樹 、 出版  岩波新書

北朝鮮とは、いかなる国なのかを知る、コンパクトな新書です。
 1942年、ソ連領内に抗日連軍があった。みなソ連軍の軍服を着ていた。崔康健も金日成も、みな大尉だった。軍事指導は中国人、党は朝鮮人という分業があった。そして、朝鮮人としてはトップは崔康健であり、金日成はその下だった。
 1942年、金日成の妻である金貞淑は男の子をソ連領内で産んだ。金正日である。
 ソ連は戦後の朝鮮占領に対する準備をほとんどしていなかった。かつてコミンテルンで働いていた朝鮮人の共産主義者のほとんどは、1930年代にスターリンの指令によって日本のスパイとして処刑されていた。
 中国では党の軍隊だから、中共党の軍事委員会が中国人民解放軍を管理している。北朝鮮の場合には、党とは別個に軍が組織された。
 1948年2月、朝鮮人民軍の創建が公表された。北朝鮮人民軍ではなかった。
 朝鮮民主主義人民共和国の首都は憲法ではソウルとなっており、平壌は仮首都である。
 1949年3月、金日成、朴憲永らは北朝鮮政府代表団としてソ連を訪問し、スターリンと秘密に会見した。金と朴は「国土完整」の希望を伝えたが、スターリンはこれを許さなかった。
 1949年4月、中国人民解放軍が南京を陥落させた。北朝鮮の士気はますます上がった。スターリンのソ連は、1948年末まで、朝鮮の米ソ分割を前提とする政策を改める気配をみせなかった。
 1949年10月、毛沢東が天安門の上で中華人民共和国の建国を宣言した。
 1950年4月、金日成と朴憲永らは、モスクワでスターリンと会見した。スターリンは最終的にOKしたが、中国に行き、毛沢東の意見をきいて決定するよう求めた。
 1950年5月13日、金と朴は北京に到着し、毛沢東に会見した。毛沢東はアメリカ軍が参戦する可能性があるとみていて、そのときには中国は軍隊を派遣すると述べた。
 1950年6月25日未明、38度線の前線で北朝鮮軍による軍事行動が開始された。このとき、北朝鮮にはT34戦車が258台あったが、韓国側には1台もなかった。
 スターリンにとって、ソ連が支持して北朝鮮が南に攻めたということは絶対に世間に知られてはならないことだった。
 6月30日、アメリカ政府は東京のマッカーサーに地上軍の派遣を許す決定を下した。これはスターリンと金日成の予想に反していた。
 10月19日、中国人民志願軍12個師団が鴨縁江を超えた。18万人を超える大兵力は静かに米韓軍に接近し、重大な打撃を与えた。うろたえたアメリカのトルーマン大統領は原爆のしようもありうるとしたが、イギリスのアトソー首相にいさめられて、思いとどまった。
 1950年12月、金日成は戦争の作戦指導から完全に排除された。金日成にとって、これは屈辱的な事態だった。戦争は、組織的にもアメリカ軍と中国軍との戦争になった。
 アメリカは、李承晩大統領の意見は聞きもしないし、説得もしなかった。
 朝鮮を統一民族国家として再建したいという民族主義者の願望を実現しようとしてはじめられた朝鮮戦争は、北の共産主義者の側からみても、南の反共産主義者の側からみても失敗に終わった。朝鮮戦争は朝鮮の統一をもたらしえず、失敗した。この失敗の責任を誰にとらせるかがスターリンの関心事だった。
 1953年1月から、平壌で、朴憲永ら南労党系が逮捕された。朝鮮戦争は、金日成の軍事的失敗を意味したが、結果は金日成の政治的勝利だった。
 停戦の時点で北朝鮮にいた中国人民志願軍は120万人だった。
 1956年2月、スターリン個人崇拝批判が始まった。このとき、北朝鮮では、個人崇拝とは朴憲永崇拝のことだとされた。金日成崇拝は「個人崇拝」ではないという論法で対処された。
 今の北朝鮮は「先軍政治」をとっている。これは、正規軍国家ということ、つまり党国家というより、軍国家体制なのである。
血なまぐさい権力闘争を経て成り立っている北朝鮮の政治体制の内実が実にコンパクトに分かりやすくまとめられた新書です。
(2012年4月刊。820円+税)

 東京でデンマーク映画『アルマジロ』をみました。アフガニスタンに派遣されたデンマーク軍の兵士たちの活動を紹介する映画です。アルマジロというのは、農村地帯にある前線基地で、そこから兵士たちがパトロールに出かけ、タリバンと戦います。デンマーク軍が村民に対して「あなたたちを守ってやっているから、情報を知らせてくれ」と頼むと、村民たちは拒否します。「そんなことをしたら、タリバンに殺されてしまう」。子どもたちも口々に、「家に帰れ」と兵士に言います。
 タリバンとの戦闘場面が生々しく(フィクションではありません)、軍隊は結局、人々の生活も平和も守ることは出来ないことを実感させます。デンマークで公開されたら、アフガニスタンへの派遣支持が一挙に低下したそうです。当然だと思いました。

2012年12月 7日

天が崩れ落ちても生き残れる穴はある

著者  李 貞順 、 出版  梨の木舎

韓国に生まれ、日本で育ち、今はアメリカに住むコリアン女性のたくましい半生記です。1942年生まれの著者は、終戦前の静岡の大空襲の記憶があるとのこと。3歳になったばかりです。空が真っ赤になり、防空壕に入ったとき、中学生の叔母が泣いていたのを覚えているといいます。
この夜の空襲によって静岡市は廃墟と化し、24人の市民が死んだから、3歳の幼児に鮮明な記憶が残ったのだろう。
戦後、著者一家は韓国に戻った。ところが、まもなく(1950年6月25日)朝鮮戦争が始まった。そのとき8歳で、小学3年生だった著者の父親は、その前に日本へ仕事しに行っていた。そして、著者たち残された一家も再び日本に渡ることになった。1953年8月のこと。密航船で対馬の無人島に着いた。何とか博多にたどり着き、神戸に落ち着いた。
やがて、東京に移り、朝鮮中高級学校で学ぶようになった。そのとき、帰国運動が起きた。東京朝鮮高校の優秀な生徒たちのほぼ全員が北朝鮮への帰国戦意乗ることを志願した。進学を保障し、就職を保障すると約束する祖国の北朝鮮は、生徒たちにとって輝かしく魅力的であった。
著者は、卒業する1年前に、行進の練習や自己批判会や抗日パルチザンの回想記にうんざりしていて朝鮮高校を中退していた。それがなければ、きっと地上の楽園である祖国・北朝鮮への帰国という巨大な台風の虜となって、ともに新潟港から北朝鮮に向かっただろう。
 このとき、老人も壮年も若者も、在日同胞の多くが巧妙な政治宣伝の虜となり、一方では在日朝鮮人の一を減らしたい日本当局の思惑も巧みに働いていて、10年間にほぼ10万人の在日同胞そして日本人配偶者が北朝鮮に渡った。それは在日同胞の6人に1人の割合だった。
 自由意思とはいえ、宣伝でつくりあげた幻の祖国を求めて、かくも大量の人間が北朝鮮に渡ったことは、在日朝鮮人にとってやるせない戦後史の一章である。
 そして、韓国は朴正熙大統領の軍事独裁制によって、経済的には立ち直りつつあったが、その代償のように国民の人権は抑制されていた、北への幻想に目覚め、荒れ狂う南の反共法に嫌悪する著者たちはアメリカに仕事を求めて渡った。
 アメリカで韓国人と付きあうとき、在日同胞に対するかすかな蔑みの気持ちを感じることがあった。本国でくいつぶして日本に渡った無知な人々とその子孫。ろくな仕事ももたず、パチンコ屋をして金持ち面をして・・・など。そして、1960年代、アジアの人々からエコノミックアニマルと言われた日本人に対する反感を日本に住む在日の同胞にも向けていた。強弱の度合いはあるが、「韓国人のくせに、韓国語もろくに話せない」と在日同胞の韓国語をわらった。日本で生まれ育ち、日本人と同じ教育を受けた多くの在日韓国人にとって、韓国語を流暢に話すのがどれほど難しいか想像できない韓国人エリートの卵たちがいた。
著者と同じ同年配の、アメリカに住むベトナム人がこう言った。
 「あなたは、国籍イコールその国への愛国心または民族への愛着と思っているのでしょう。私は愛国心を振りかざして殺し合うのを私の国で見てきたわ。もし選べるとしたら、自分に最大限の保護と利益を与える国籍をとればいいのよ。あなたが、どこの国籍を持っていても、自分の民族や文化への愛着を持つのを妨げないでしょう」
この本の最後に、著者の東京朝鮮中高校時代の恩師である李進熙先生が登場するのに驚きました。その『広開大王陵碑』の研究は私も読みましたが、その斬新かつ鋭い問題提起に大変な衝撃を受けたものです。
 学問的な研究がすすみ、「帰化人」という言葉が消えて、「渡来人」という言葉がつかわれるようになりました。なるほど、そうですよね。中国大陸、そして朝鮮半島のほうが当時の日本より断然文化レベルが上だったのですからね。
シルクロード沿いの小国や数ある南方の少数民族が歴史のなかで次々と消えていくなか、中原からすぐにも手の届く距離にある李氏朝鮮のような「崇文」の弱小国が漢民族の胃袋にも飲み込まれず、コブにもならず、清朝が滅びることまで存続できたのはなぜなのだろうか・・・。
 朝鮮民族のしたたかな自民保存性と強烈な自意識のせいだろう。しかし、それは、朝鮮民族だけの特性でもない。
日本、韓国そしてアメリカの三国でたくましく生き抜く朝鮮人女性に圧倒される思いでした。
 私の尊敬する先輩弁護士である内田雅敏氏より贈呈されて読みました。遅くなりましたが、お礼を申し上げます。
(2012年10月刊。2000円+税)

2012年11月 1日

兄・かぞくのくに

著者   ヤン ヨンヒ 、 出版   小学館 

 切ない話です。映画は残念ながら見ていません。近くて遠い国、北朝鮮と日本とは案外、身近な関係にあります。
 戦後、朝鮮総連は地上の楽園の地である北朝鮮への帰国をすすめました。そして、日本政府は、「厄介者扱い」として、それを後押ししたのです。
 そして、北朝鮮は、実は地上の楽園どころか、今もって国民が腹一杯食べられるのが理想の国のままというのです。飽食の国、日本では想像もできない事態です。
 でも、そんな北朝鮮にも人々は真剣に生きているのです。
北朝鮮の国民は3つの階層に分けられる。一つ目は、北朝鮮の建国当時に労働者や貧農、愛国烈土の家族だったものや、朝鮮労働党員からなる「核心階層」。二つ目は、知識人、民族資本家、中農、商人からなる「動揺分子」。彼らは、「要監視対象者」として当局よりマークされる。三つ目は、「敵対分子」。解放前の地主やキリスト教信者、親日家や親米家がこれに入る。彼らは「特別監視対象者」だ。
 日本からの帰国者は、長く「動揺分子」と見なされてきた。自らも望み、祖国も望んでいると信じていた「帰国者」は、北朝鮮から見れば、資本主義の思想や堕落した生活を持ち込む反乱分子だった。ちょっとでもおかしな行動をとれば、即「敵対分子」のレッテルを貼られた。相互を監視しあわせることで、北朝鮮の人々のあいだでは、常に疑心暗鬼の感情がはびこっていた。
 出身成分が低い帰国者は結婚相手として人気がなかったが、経済的には激しい貧富の格差がある状況のなかで生きのびていかなくてはならないため、「日本から定期的な仕送りのある帰国者」は縁談に困らない。
 そして、キム・ジョンイルが帰国者である高英姫(コウ・ヨンヒ)を正妻に迎えたことはセンセーションを巻き起こした。
帰国者を帰国同胞といい、略して、「帰胞」、キポ。朝鮮語で「キポ」というと泡という意味。帰国者は泡のようにすぐ消える。すぐ消せる存在だ。自分たちが見下し、蔑むために「キポ」と呼んだ。そして、帰国者のほうは、北朝鮮より進んだ国から来たという自負がある。だから、現地の人のことを原住民の「原」といって、「ゲンちゃん」と呼んでバカにした。
 うむむ、なかなか人間感情というのは複雑で、錯綜していますよね。
北朝鮮に持ち込む品物に「メイド・イン・コリア」のタグがついていると即没収される。ところが、メイド・イン・USAもメイド・イン・ジャパンも許される。公式には韓国は最貧国ということになっていて、質のいい工業製品をつくっていることが、メイド・イン・コリアの品物を通じて公然の事実となることを北朝鮮当局が恐れての措置。もちろん、北朝鮮の人々も韓国が裕福な国であることは誰でも知っていること。
 日本から北朝鮮に行くには、朝鮮総連の許可がいる。少なくとも渡航希望の1ヵ月前に総連に申請を出さないといけない。費用は20~30万円、北朝鮮に家族のいる訪問者は1回、1人あたり総計100万円をもっていくのが相場だ。家族に渡すお金のほか、担当幹部に渡す袖の下(賄賂)がいる。万景峰号に100人乗っていくとして、1人段ボールを20個もっていくので、2000個の段ボールとなる。そして、荷物検査で一日つぶされる。
 北朝鮮では、住居は政府から支給される建物になっている。アパートが足りないため、独り暮らしは基本的に認められない。毎日、水が出るアパートはほとんど不可能に近い。
三人の兄たちが北朝鮮に渡り、妹だけが日本に残った。
 そのとき、兄たちは、歯向かえなかった。父に歯向かえなかった。あのとき、学校にも、組織にも、親にも歯向かえなかったばかりに、もはや絶対に歯向かうことが許されない地で生きていくことになった兄たち・・・。その兄は、決して愚痴らない。
本当に胸の締めつけられる思いです。妹の感じる切なさがじわーんと読み手の胸に迫ってきます。
 エリート校に入った子どもは、マスゲームの動員対象から外され勉学に専念できるというのをはじめて知りました。
(2012年7月刊。1600円+税)

2012年9月 5日

路上の信仰

著者   朴 炯圭 、 出版    新教出版社 

 激動の韓国現代史を生きたキリスト者の証言とオビに書かれていますが、この本を読むとまさしくそのとおりで、心の震えるほど感動していました。こんな気骨のあるキリスト教のリーダーがいたのですね。なにしろ、何回も警察に捕まっては刑務所に入れられ、教会堂での礼拝が当局に妨害されたら、なんと警察署前で6年間も路上礼拝を続けたというのです。まさしく信念の人です。信仰を実践し続けた不屈のキリスト者です。
 『世界』に連載されていた「韓国からの通信」の裏話も紹介されています。この「通信」は1973年から1988年まで15年にわたって続いたものです。KCIAがやっきになって犯人探しをして、妨害しようとしたのですが、果たせませんでした。
 著者の「TK生」が誰なのか、ずっと謎でした。これは、キリスト教のNCCKが金観錫牧師を中心として、徹底した安全対策を講じて資料を日本に送った。送ったのは主として宣教師ときに外交官郵袋や米軍の軍事郵便も利用した。これを日本で呉在植先生のところに集め、池明観教授が原稿をかいた。それを、『世界』の安江編集長が自らないし夫人によって書き写して植字工に渡した。並々ならぬ注意が払われたのですね。15年間、よくぞ続いたものです。
 王に直言し、民衆の堕落を告発し、またそのため、ときには犠牲を受けるのが旧約聖書の予言者の伝統である。キリスト教の牧師として監獄に行くのは、聖書からすると当然のこと。旧約の時代から予言者たちは絶えず監獄に出入りするのを当然のことと考えてきた。聖書の伝統は、キリスト教が何か哲学的、仏教的な空の思想というが、世を捨てて山中にこもり神秘境にひたるというか、脱世俗的な宗教ではなく、少なくともキリスト教の正しい伝統は世俗の中に入っていき、この世の問題に関与し、その時々に神の意を明かし、それに背くものに対しては直言する。そのような伝統がある。
 なーるほど、これはよく分かる話でした。
 韓国の民主化闘争の過程においてキリスト教を信じる人々の力は大きかったと改めて認識させられた本でした。
(2012年4月刊。2381円+税)

2012年4月26日

サムスンの真実

著者   金 勇澈 、 出版   バジリコ

 著者は私よりひとまわり年少の韓国の弁護士です。特捜部検事をつとめたあと、サムスンに入り、会長秘書室で7年間、財務チームと法務チームに所属し、裏金作りと賄賂渡しという汚れた仕事をしていました。そして、弁護士になって良心の告白をし、サムスンの不正を世に知らしめたのでした。ところが、いわば生命がけの告発も不発に終わり、サムスンは今もなお韓国政治を牛耳る巨大な存在として君臨しています。
 韓国法曹界に対する違法なロビー活動の実態には刮目せざるをえません。
 モチ代検事リストというのがある。賄賂をもらった検事たちの名簿である。
 ところが、サムスンから賄賂を受けとっていた公職者は失職するどころか、要職に就いていった。これはとくに今の李明博政権になって、さらにひどくなった。
 大韓民国は民主共和国ではなく、サムスン共和国である。
大韓民国の主権は1%の富裕層が握っており、法は1万人に対してのみ平等だと言われている。権力層に顔の広い大物の前では無力になるのが韓国社会だ。人々は何か問題が起きると、まず人脈を探して解決しようとする。原理、原則では、不可能なことも、人脈を使えば解決できるという後進的な文化がある。
 検察庁の部長は、後輩検事の捜査を督励するのではなく、上司の意向を尊重し、捜査を妨害する役職だ。そして、血気盛んな後輩たちを意のままに操る部長になるためには、スポンサーとなる後ろ盾が必要だ。ときには豪勢な場所で部下たちを飲み食いさせてこそ、本物の部長を言われる。
ある地域の判事、検事、弁護士はみな同窓生で、それを理由として普段から頻繁に酒席をともにしていた。弁護士は、判事と検事を盛大に接待するのが当たり前になっている。これは日本では、ありえないと弁護士歴40年になろうとする私は確信しています。
 相手方の弁護士を買収したり、担当裁判官を買収する。判事を買収するのは当たり前と思われている。だから、今回は我々サイドの判事だ、ところが相手サイドの判事に変わった、などという報告があがってくる。うひゃあ、日本ではそんな話を聞いたことがありません。もちろん、権力に弱い判事はいるのですが・・・。
 裏金はサムスンの系列会社でつくり出す。そして、借名口座で裏金を管理する。テーマパークの無料利用券や衣料商品券を現職の検事に渡したことがある。
 初めは、ちょっとしたものを贈る。これを受けとる鈍感が大きな不正へとつながっていく。慣れたら、結局、賄賂も受けとるようになる。たしかに、慣れは恐ろしいですよね。
公職者に一度お金を渡すと、ずっと渡し続けなければならない。後になってお金を渡すのをやめたら、相手は不快に思い始める。
 恥も数を重ねると、何とも思わなくなる。不正なお金を渡す側も、もらう側も同じだ。公職者がサムスンからはばかることなくお金をもらう背景には、サムスンのお金は安全、もらって危険がないと言う意識があった。彼に賄賂をもらって公職から追放されても、サムスンが職場を用意してくれる。
サムスンに不利な判決を下した判事は、私は反企業的な法曹人ですと宣言したも同然、反企業的な法律家だという噂が流れると、韓国社会の主流から一瞬のうちに排除される。うへーっ、そこまでなんですか・・・。
 今では、サムスンが、政府、司法、議会の上に君臨している。大統領といえども簡単には接することのできない巨大権力だ。
 サムスンの不正を告発した著者は、左翼共産主義者だと非難されたそうです。しかし、むしろサムスンこそ資本主義の市場経済体制を脅かしていると反論しています。まったく同感です。韓国の繁栄の裏側を鋭く告発した本だと思いました。
(2012年3月刊。1800円+税)

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