弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮・韓国

2008年5月27日

分断時代の法廷

著者:韓 勝憲、出版社:岩波書店
 いやあ、すさまじい闘争がお隣の韓国では、戦後ながく続いてきたのですね、改めて思い知りました。韓国で民主主義と人権擁護のためにたたかってきた弁護士の弁論集を一冊の本にしたものです。読むにつれ、思わず襟を正されました。
 先日、有楽町の映画館で『光州5.18』という韓国映画をみてきました。土曜日朝の上映なのに、始まる前から観客がつめかけていました。大変政治色の濃い内容ですが、女性が多数を占めているのにも驚きました。
 光州事件は、1980年5月に始まった。10日間にわたって民主化を求める人々が軍隊(戒厳軍。全斗煥将軍による空挺特別部隊)の凶暴な鎮圧作戦のもとで、罪なき多くの光州市民が虐殺されました。軍隊は国家(というより、権力を握る特権階級)を守るためのものであって、フツーの市民を守るものではないことがよく分かります。
 この映画が『シルミド』『ブラザーフッド』など、韓国現代史の闇を正面からとり上げたものであるのに、興行収入としても歴代8位だというのですから、韓国映画界のすごさ、そして韓国民の意識の高さに対して、日本人として素直にシャッポを脱がざるをえません。たとえば、日本でいうと、「60年安保」や沖縄返還闘争を真正面から描いた映画ということになるのでしょうか。でも、そんな映画に日本人が740万人も映画館まで見にきて大ヒットとするなんて、とても考えられませんよね、残念ながら。
 最近、小林多喜二の「蟹工船」が流行している(売れている)そうですが、映画化されて、多くの日本人がみたということにでもなれば、少しは違うでしょう・・・。それはともかく、この『光州8.15』は、とてもいい映画です。ぜひ、みなさん映画館まで足を運んでみてください。韓国で、20年ほど前に、現実に起きた事件です。そして、日本政府は韓国の凶暴な軍事政権を物心両面にわたってずっと支えてきたのです。
 著者は検事を5年つとめたあと、1965年に弁護士に転身した。それからの40年間に、2度にわたる有罪判決を受け、8年のあいだ弁護士資格を剥奪され、また、2年ほど政府の監査院長に在任した。
 朴正熈の独裁政治のもとで、弾圧の裏面で、支配階層の腐敗が蔓延した。これに対する不満を防ぎ、抵抗を抑えるため、朴政権は階級意識の鼓吹と容共嫌疑で逆襲した。筆禍事件のとき、著者は、次のように弁論した。
 月を指しているのに、月を見ないで指だけを見るようなものだ。
 まったく言いえて妙な、たとえです。韓国の刑法には、宣告猶予というものがあるそうです。執行猶予より、さらに軽い判決だということです。
 有名な詩人である金芝河の『五賊』が、反共法で起訴されたとき、著者は『五賊』が共産主義的階級思想を鼓吹するものではなく、社会の不正腐敗を告発する作品だと強調した。
 ところが、弁護人である著者の弁論までもが反共法違反に該当するとして拘束され、被告人である金芝河と同じソウル拘置所の中で顔をあわせることになってしまった。
 日本でも、戦前、共産党員の弁護をした弁護人(弁護士)が治安維持法違反で検挙されたということがありました。目的遂行罪というものです。処罰の要件なんて、あってないような代物です。恐ろしい世の中になっていたわけです。
 韓国ではキリスト教信者が日本に比べて大変多いようです。そして、教会の牧師さんたちが社会的運動に積極的に関わっています。牧師が教会で説教し、ビラを信者に配布したところ、政府転覆を企てた、内乱陰謀にあたる、と起訴されるという事件が起きました。
 聖書と賛美歌をもって集まった女性中心の信者たちが暴力で放送局と政府庁舎を占拠し、政府の転覆を図ろうとしたということで、牧師に懲役2年の実刑が言い渡された。ところが、その2日後には保釈が認められた。信じられないことですよね、これって。
 未成年ではないが未婚の女性なので、本物の判別能力が微弱と認定されるなどの情状を酌量し、執行猶予とする。こんな判決が下されたこともあったそうです。まったく女性と若者を馬鹿にしています。でも、要するに裁判官は執行猶予にしたかっただけなんでしょうね、きっと。
 韓国では、北朝鮮スパイ事件というのも少なくないようです。その事件で、被告人が否認していると、検事が、「どこのスパイが、私はスパイですと正体を現すものか」と言ったのに対して、著者は、「だからといって、私はスパイではないという者はみんなスパイだという論法は成立しない」と切り返した。うむむ、な、なーるほど、これって、すごい反撃になっていますよね。
 民青学連事件と人革党再建委事件は2002年9月に、当時のKCIAによるでっちあげだとされたが、合計8人もの被告人が、大法院で上告が棄却されて1日もたたない18時間後に絞首刑が執行され、生命を奪われてしまった。これは拷問によるでっち上げを隠すためのものだったと思われる。いやあ、ひどい、ひどい。またく許せません。
 スパイとして死刑になった人物について「ある弔辞」というエッセーを著者が書いたところ、その哀悼文が反国家団体を利しているということで反共法違反となったということも紹介されています。まことに独裁国家は法無視の存在だと実感します。
 光州事件のあと、犠牲者の追悼行事さえも処罰の対象となった。金大中(元大統領)もこの当時、拘束されました。
 1987年6月、巨済島にある大宇造船で大規模な労使紛争が発生した。このとき、盧武鉉弁護士(つい先日まで韓国大統領でした)が、釜山から巨済島へやってきていました。このとき盧弁護士は、葬儀妨害等で警察に拘束されてしまいました。警察のうった催涙弾で死亡した労働者の埋葬地をどこにするかについて、弁護士が意見を述べただけで罪に問われるなんて、非常識きわまりありません。
 やはり、韓国は朝鮮戦争を経ているだけに、利害対立が日本に比べて格段に激しいことを実感される本でもありました。70歳をすぎた韓弁護士のますますのご壮健とご活躍を心より祈念します。
(2008年2月刊。2800円+税)

2008年5月16日

打ったらはまるパチンコの罠

著者:若宮 健、出版社:社会批評社
 うひゃあ、ちっとも知りませんでした。お隣の韓国では、パチンコ店が1万5000店もあったのに、2006年10月に法律でパチンコ店が禁止されて全廃したというのです。なんで、こんな大切なことを日本のマスコミは紹介しないのでしょうか。呆れるというより、怒りすら覚えます。
 韓国では、コンビニより多い1万5000軒ものパチンコ屋があり、夜通し営業していて、売上総額は日本円にして3兆6500億円に達していた。そして、このパチンコ台はすべて日本の機械であり、玉の替わりに商品券が出る仕組みだった。この点は、ちょっとイメージがわきません。
 韓国は、当局がパチンコ業界と癒着していなかったから、禁止できた。
 ところが、日本では、自民党60人、公明党6人、そして野党の民主党も20人がパチンコ協会のアドバイザーとして名前を連ねている。そして、パチンコ関連業種は警察官僚の重要な天下り先になっている、このこともよく知られている事実です。
 この本の後半は、パチンコ依存症は病気であること、そこから脱出することが口先の言葉に反して、いかに至難なことであるのか、多くの実例をあげて紹介されています。
 パチンコ依存症者の多くは、台に執着している。だから、正確にはパチンコ台依存症だ。リーチとか絵柄がそろって当たるところに、サブリミナル効果のようなものが潜んでいるようだ。液晶画面は恐ろしい。
 さらに、この本には、パチンコ業界誌の編集部に働く人々の多くがパチンコ依存症者だという内部告発が紹介されています。パチンコ誌は、パチンコ広告によってもうかっているのです。パチンコ誌には、いかにも事実かのように確率分析データがのるが、ガセであることが多い。パチンコで勝つのは運だけ。負けない法は、ただひとつ。パチンコをしないこと。
 パチンコ攻略法にひっかかって何百万円もつぎこんだという相談をときどき受けます。インチキ商法に決まっているのですが、先日、内容証明郵便を出したところ、先方に東京の弁護士がついて、だまし取られたお金の8割を返すという示談が成立しました。詐欺商法にも顧問弁護士がついているのかと驚いてしまいました。5月中に返金されることになっているのですが、本当にお金が戻ってくるでしょうか。
 クレサラ多重債務をかかえてしまった人の少なくない人がパチンコ依存症者です。日本でも、中小パチンコ店は倒産していますが、全国大手パチンコ店は一人勝ちですし、オーナーは世界的な超リッチマンです。パチンコ店の全廃なんて、日本では夢のまた夢なんでしょうが・・・。
 実は、この本は、著者からの寄贈本です。前に『失敗から学ぶ』(花伝社)を紹介したので、そのお礼として送られてきました。しかも、この本の中で、『弁護士会の読書』を紹介していただきました。あわせて、心よりお礼を申し上げます。
(2008年5月刊。1500円+税)

2008年3月 5日

民主化の韓国政治

著者:木村 幹、出版社:名古屋大学出版会
 戦後の現代韓国政治の変遷の本質がよく分かる本だと思いました。
 現在の韓国は第六共和国体制と呼ばれている。1987年6月に民主正義党の廬泰愚が大統領に当選した。韓国の民主化は、民主化を求める国民の激しい闘争と、熱狂と絶叫と希望に満ちた大統領選挙の末、結局、民主化以前の軍事政権における与党の流れをくむ、そして、わずか7年前に人々の民主化への思いを押しつぶしたクーデターの首謀者の一人を大統領に選び出して幕を閉じるという皮肉な結果に終わることとなった。
 しかし、重要なことは、惜敗した野党をふくめて、韓国の人々が、この選挙結果と第六共和国体制を受け入れたことにある。
 1948年の大韓民国建国以後、1987年に至るまで8回の憲法改正を経験した韓国において、第六共和国は、一度も憲法改正がなされず20年間も続く最長の安定した共和国なのである。
 「第六共和国」の前、人々は選挙結果を信用せず、選挙に敗れた勢力も、その結果を受け入れようとはしなかった。それがなぜ変わったのか、という点を本書は解明しています。
 朴正熈の1961年の軍事クーデタと1972年の維新クーデタは質的に異なっている。1961年のとき、朴正熈らクーデタ勢力は、クーデタ直後の体制はあくまで暫定的な体制であるという前提のうえに将来の民政移管をちらつかせ、自らの正統性を確保し、野党勢力を懐柔しようとした。
 しかし、1972年には、かつてのような「民主主義」的体制へ戻ろうとはしなかった。自らの新体制を正統化しようとする試みを完全に放棄した。思想・宣伝活動を展開することもなかった。
 「言葉」を失った朴正熈は、「説明」を断念し、「説明」なくして自らの体制を維持しようとした。しかし、それは、朴正熈にとって、出口のない大きな落とし穴でもあった。皮肉なことに、以前よりもさらに強力な政治体制を敷いた結果、はじめて国会議員選挙において得票率において野党に敗北を喫した。この状況を少しでも改善すべく、朴正熈は、政府をしてさらなる野党弾圧へと向かわせた。そのなかで1979年10月26日に側近であった金載圭中央情報部長により暗殺されてしまった。
 金大中と金泳三という二人の政治家はいずれも第三共和国期において、代表的な野党内「穏健派」の「中間ボス」であった。ところが、「40代旗手論」を契機に、二人とも、あたかもそれまでの経歴が嘘であるかのように、急速に強硬論へと傾斜し、野党内における代表的な対政府強硬論者となっていった。
 それは状況の方が変化したからであった。朴正熈政権の側が、二人の本来の活躍の場を奪ってしまったからである。「維新クーデタ」の勃発は、二人の行動を見事に正統化した。「維新憲法」の下、国会の権限が剥奪され、大統領選挙を儀式化された彼らには、もはや「強硬派」に転じる以外の選択肢はなかった。二人が「転向」したのではない。変わったのは状況の方である。二人とも、ただ前と同じように自らが活躍することを求めていたに過ぎない。
 「維新クーデタ」は、韓国内における政府・与党の言説の信頼性を損ない、逆に野党にこれを攻撃する絶好の口実を与えた。以後、野党新民党の多数は強硬派によって占められ、政府・与党への対決姿勢を明確にしていった。金泳三は、この政府・与党に対する「鮮明野党」路線の主唱者であり、政治活動を封印された金大中は「民主化」の象徴的存在となった。
 これに対して朴正熈は力で抑えこむことを選択して緊急措置を連発する。そこには、国民に対して自らの体制を論理的に説明することを事実上放棄した政府・与党があった。
 政治、社会、そして教育面の大きな変化に何回となくさらされた近代以降の朝鮮半島によって、人々の受けた教育の程度や内容が大きく異なる。朝鮮王朝期の科挙受験のための教育を受けた世代と、日本統治下に近代教育を受けた世代、そして解放以後の独立韓国において教育を受けた世代が、現実社会に対する認識を異にするのは当然である。
 1940年代には大学生の数は少なく、彼らが力をもって政局を主導することは考えにくい。1960年代の韓国では、学生の数的増加を背景として学生運動は社会的に大きな意味をもった。そして1960年から70年までの10年間に、それは劇的に変化した。1960年代半ば、韓国の大学生は10万人をこえていて、毎年2万人以上もの卒業生が社会へ送り出されていった。
 うむむ、なーるほど、ですね。こういうのを、まさしく歴史の弁証法というのではありませんか。
(2008年1月刊。5700円+税)

2008年1月25日

北朝鮮を継ぐ男

著者:近藤大介、出版社:草思社
 東京・神田に事務所を構える「成甲書房」の主である朴甲東(パクカプトレ)の生い立ちを語ることは、日本と朝鮮半島(韓国と北朝鮮)の関わりを明らかにする現代史を語ることです。
 両班(ヤンバン)の名家に生まれ、戦前、早稲田大学で学び、戦後は朝鮮に戻り、朝鮮共産党の指導者であった朴憲永(パクホニョン)につかえ、李承晩(イスンマン)政権と対決する南朝鮮労働党(地下党)の層責任者もつとめた。朝鮮戦争が始まってから、北朝鮮へ行き、文化宣伝省ヨーロッパ部長に就任した。そして、1957年に金日成の粛清を逃れて中国経由で日本に亡命して現在に至っている。いまは「金日成ー金正日王朝」の崩壊後をにらんでつくった朝鮮民主統一救国戦線の常任議長である。
 戦前の朝鮮の独立運動は、両班層、富裕層の子弟たちが中心となっていた。日本敗戦後、日本という重しが取れるや、朝鮮政界は、よく言えば百花繚乱、率直にいうと混乱状態にあった。五大派閥があって、そのほかに海千山千の政治団体がうごめき、収拾不能の事態に陥っていた。
 朝鮮共産党の幹部の多くは、両班出身のインテリだった。
 1946年夏ころ、朴憲永の指導する朝鮮共産党は全国に60万人の党員をかかえていた。金日成は、朴憲永の暗殺を企て、刺客まで送っていた。
 1948年8月、北朝鮮で最高人民会議代議員選挙が実施された。このとき、南では直接投票ができないので、南労党員たちが、知人から党の決定した選挙に投票を委任するという署名・捺印を集めてまわった。このとき、集めたのは673万人もの委任状を集めた。これは実に8割近い人から委任を受けたというすごい高率です。信じられません・・・。
 金日成が生きのびるためにとった戦法は次のようなものである。
 金日成は自分に忠誠を誓わない連中を、まず2分する。そして、一方を優遇し、優遇した側に他方を粛清させる。その後、優遇していた一方も粛清する。このような巧妙な手をつかって、対立分子を次々に排除していった。朴憲永副首相、許可誼(ホガイ)党副委員長、金抖奉(キムトウボン)最高人民会議常任議長・・・。
 1950年代の後半に、大物政治家が次々に粛清されていった。
 いま北朝鮮の核開発が国際的に注目されています。アメリカも、ひところは「悪の枢軸国」などと決めつけて武力侵攻一本槍でしたが、アフガニスタンやイラクでの軍事制圧が依然として完了していないことから、少しずつギアチェンジし、対話路線をとるようになりました。
 にもかかわらず、日本政府はアメリカにも逆らって北朝鮮との外交交渉もしないまま今日に至っています。なんたる無為無策でしょうか・・・。日本は、もっと北朝鮮に対しても平和外交のレベルで積極的にイニシアチブを握って、行動すべきだと思います。
(2003年2月刊。1700円+税)

2007年9月20日

北朝鮮はなぜ潰れないか

著者:重村智計、出版社:ベスト新書
 北朝鮮は、すでに社会主義国ではない。社会主義の柱である「配給制」をやめたからだ。社会主義は事実上、崩壊した。支配機構としての労働党が存在しているに過ぎない。社会主義というよりは、政治学の分類では「軍事独裁」といった方が正確だろう。
 北朝鮮は、2002年7月1日から配給制を廃止した。国民は、すべて自分で稼いで生活しなければならなくなった。事実上の初歩的な市場経済の導入である。このため、給料を20倍から30倍に引き上げた。
 ええっ、そうだったんですか・・・。私は、知りませんでした。
 韓国は、なぜ北朝鮮の崩壊を望まないのか。東西ドイツの統一を見て、尻込みしてしまった。ドイツは、統一後、不景気や失業に悩まされた。かつての西ドイツ国民の生活水準が下落した。統一ドイツは、旧東ドイツに毎年10兆円の補助金を出した。10兆円は、韓国の国家予算の6割にあたる。とても、こんな負担には耐えられない。
 韓国民にとって、統一は理想だ。しかし、今すぐの統一は「悪夢」だ。だから、北朝鮮が崩壊しないよう、食糧や肥料の支援をせざるをえない。
 キム・デジュン(金大中)前大統領は、金日成総書記と面会するとき、面会料として、5億ドル(600億円)を支払った。
 韓国が、いま崩壊した北朝鮮を引き取ると、経済が停滞し、大混乱に陥るのは間違いない。統一すれば、韓国民の一人あたりのGDPは、今の1万4000ドル(170万円)が、半分の7000ドル(80万円)に落ちこむ可能性がある。
 北朝鮮を崩壊から救っているのは、韓国と中国である。
 北朝鮮は暴発する能力をもっていない。正規軍100万人いるのに、軍が最大限つかえる石油は45万トン。これではまともな訓練もできない。日本の自衛隊は、年間150万トンの石油をつかっている。空軍のパイロットは、アメリカ軍や自衛隊では、年間200時間の飛行時間が求められる。北朝鮮では、それがやっと年間20時間。訓練もままならない。50万トンしかない石油では、10日以上は、戦闘を継続できない。
 テポドンもノドンも、最新鋭のミサイルではない。三代前くらいの古いミサイルである。なぜ古いのか。まず液体燃料をつかっている。新鋭のミサイルは、固形燃料でないと武器として意味がない。
 液体燃料は、事前に発見されやすい。攻撃を受けやすい。発射直前に燃料を注入するから。早くから燃料を注入すれば、金属が腐食して発射できなくなる。また、注入に時間がかかるから、発見される可能性が高い。
 うむむ、北朝鮮からミサイルが飛んできたら、どうするのか、というのが憲法改正の大きな理由の一つとなっています。この本を読んで認識を改めないといけないと思いました。
(2007年7月刊。680円+税)

2007年8月10日

朝鮮戦争スケッチ

著者:キムソンファン、出版社:草の根出版会
 「コバウおじさん」で有名な金星煥氏が朝鮮戦争を体験して描いた画(スケッチ)集です。
 韓国では朝鮮戦争は6.25戦争とも呼ばれます。1950年6月25日に北朝鮮が韓国へ侵攻して始まった戦争だったからです。金日成の指揮する北朝鮮軍は、3日目の6月28日にはソウルに到達しました。前日の27日に、ソウルにあった政府と国会は、「ソウル死守」を呼号していたのですが、その舌の根も乾かぬ28日午前2時に大韓民国政府首脳陣は漢江を渡ってソウルを脱出し、その1時間後に漢江橋を爆破してしまいました。その結果、大勢のソウル市民がソウルを脱出できませんでした。いつの世も、為政者(支配者)は我が身の安全が第一で、民草の生命はあとまわしなのですね。著者は当時、高校3年生。この様子をソウル市内で目撃し、スケッチしています。
 このとき私は、太陽がさんさんと照りつける真昼に漆黒のような暗黒を見た。絶望にあえいだ戦中の3年間、歴史とはどのようなもので、何のためにそれを反芻せねばならないのかについて、深く考えざるをえなかった。この戦争スケッチは、すばらしい美術作品とは言えない。ただ、苦難の時代を経験した人びとの記憶を残し、思い返すため、そして当時まだ生まれていなかった若い世代に、過去の実相を知るために参考になれば、と願う。
 たしかに、写真とはまた違って、同胞が殺しあった朝鮮戦争の惨禍が生々しく再現されています。キムさんは、今も健在です。
 中肉中背、がっしりとした体格で、ごくフツーのおじさんといった感じ。ほとんど日本人といってもいいほど、うまい日本語を話す。
 6月28日にソウルに入城した北朝鮮軍はトラックが不足していたらしく、その一部は木の枝で偽装した牛車に乗っていた。その、場違いにのどかな光景は笑わせます。
 北朝鮮軍による国軍兵士狩りが始まります。捕まって真っ白になった捕虜の顔も描かれています。市内には、双方の兵士と民間人の死体が散乱しています。
 北朝鮮軍の鉄カブトは、第二次世界大戦中にソ連軍のつかっていたもの。小銃に装着されていた槍も同じで、長くて鋭いものだった。
 やがて、アメリカ軍が9月15日、仁川に上陸し、反攻が始まります。北朝鮮軍兵士たちが武器を捨てて敗走していきます。その直後の9月13日夜、彼らの死の行軍の様子が描かれています。
 しかし、アメリカ軍が仁川に上陸してソウルに到達するまで20日間かかりました。ソウルをアメリカ軍が完全に支配したのは9月28日の夕方5時ころ。その状況も描かれています。
 そして、1950年12月、中国軍が参戦します。1951年1月4日、アメリカ軍はソウルから脱出します。これを1.4敗退と言うそうです。
 著者は、最前線の将兵の顔をスケッチします。まさに童顔の兵士もいます。
 朝鮮戦争の実情の一端を紹介する貴重なスケッチ集です。
(2007年6月刊。5800円)

2007年5月21日

奪還

蓮池透×本そういち 双葉社
週間アクションに連載していた漫画なんですが、
大変読み応えのあるドキュメンタリーになっています。
監修は、北朝鮮の拉致被害者蓮池さんのお兄さん。
『奪還総集編』として第11話まで掲載した増刊号も
販売されました。単行本も出ています。
単なる奇麗事に終わらない、報道されなかった
拉致被害者本人と家族との確執や日本政府の
不十分な対応を政治家から全て実名で記載されて
います。報道は編集されてるんですね、未だに。
 漫画アクションは、女子高生コンクリート殺人
事件をモチーフにした『17歳』という漫画も並行
して当時連載してまして(こちらも原作者は
藤井誠二という上記事件を徹底取材した
ノンフィクションライターです)、とても『クレヨン
しんちゃん』をかつて連載していた漫画雑誌とは
思われない有り様なので(何せキャッチ
コピーが「タブーを斬れ!」ですから)、今度いつ
休刊になるか分からないのですが、増刊号として
販売された『奪還総集編』だけでも読んでほしいと
思います。

ほんのクツワムシ

2007年3月 7日

朝鮮通信使をよみなおす

著者:仲尾 宏、出版社:明石書店
 朝鮮王朝がはじまったのは1392年。日本では足利義満が南北朝の抗争をおさめた年。李成桂(イソンゲ)将軍が衰えていた高句麗王朝を倒し、太祖として即位した。
 それ以来の日本と朝鮮との往来をたどった本です。いわば朝鮮通信使に関する百科全書のような内容となっています。
 室町時代、朝鮮から5回の通信使が派遣され、3回が京都にやってきた。世宗国王のときのこと。日本から、60回以上もの日本国王使が漢城(今のソウル)を訪れ、交隣関係は密接かつ多様になっていった。
 江戸時代はじめ、京都の相国寺(しょうこくじ)に西笑承兌(せいしょうじょうたい)という禅僧がいた。承兌は秀吉の朝鮮出兵の前線基地の名護屋城にまで出かけた。承兌は、朝鮮から回答兼刷還使が来日したとき、「朝鮮の使臣は日本に有益に非ず。薄侍すべし」と進言していた。ところが、その承兌は、朝鮮からやって来た松雲大師の詩文や書を見て、次のように言って舌をまいて感嘆した。
 句々奇なり、言々妙なり。欣然にたえず。筆跡もまた麗し。予、私宝となすは快然たり。 徳川家康は朝鮮との国交回復を図った。それは家康が秀吉から1万5000人の陣立てを命じられたものの、朝鮮へ出兵することがなかったことも幸いしている。しかし、家康はすんなり謝罪する意思をもってはいなかった。さすが老獪な政治家ですよね・・・。
 朝鮮から連行されてきた被虜人のうち、第一回使節とともに帰国したのは、わずか  300人に過ぎなかった。このとき、大名や日本人のあるじが手放さなかったり、日本人と結婚したり、子どもの誕生・養育、また帰国後の生計の見通しがたたないことを理由として断る者も多かった。
 朝鮮通信使がやってきたとき、黒田家では三代の藩主(忠之、光之、継高)が検分を口実に博多湾にある藍島まで出かけて朝鮮使節を見物している。
 貝原益軒は、秀吉の朝鮮出兵について、貪(むさぼ)る兵、驕(おご)れる兵、忿(いか)れる兵と酷評した。
 徳川吉宗は、朝鮮伝来の人参生草や種子の採種、播種、栽培によって、享保から元文年間にかけて人参の国産化を実現した。これによって対馬藩の朝鮮貿易は決定的なダメージを蒙った。
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。1668〜1755)は、釜山に渡って3年間、朝鮮語を学んだ。そのころ釜山には10万坪の倭館がおかれ、対馬の役人・商人が常駐して外交事務や藩と私の貿易に従事していた。10万坪というと、長崎の出島の25倍の広さだ。雨森芳洲は次のように言った。
 朝鮮は弱く、その人は愚かなり、と人は言う。しかし、これはまことの強弱智愚を知らない言葉だ。朝鮮の人は古今の記録をも多く覚え、物事ふかく思慮するものだから、日本国よりその智は10倍だ。秀吉の朝鮮出兵のとき、乱世に慣れた日本軍は緒戦には勝ったものの、帰陣のときにははなはだ難儀した。
 朝鮮人は手詰の戦いは日本人に及ばずとも、久を持するの謀りについては、日本人はかえって相手にもならない。お互いの文化、歴史、風俗の違いをよく知り、それを尊重しつつ、無用な紛争や誤解をさけ、偏見や侮りを捨て去ることが大切だ。
 なーるほど、そうなんですよね。まったく同感です。
 このところ、日本社会の排外主義と自民族優越意識がひどくはびこっている。
 著者はこのように嘆いています。本当にそのとおりです。それぞれの民族には固有の文化があり、優劣つけがたいのです。それぞれ違って、みんないい。金子みすずの詩を思い出します。

2007年3月 2日

地底の太陽

著者:金 石範、出版社:集英社
 済州島4.3蜂起のあと、日本に脱出してきた人々には、前にもまして苛酷な現実が待ちかまえていた・・・。
 済州島は、今や日本からも気軽に行ける観光地となっているようです。残念ながら、私はまだ済州島に行ったことがありません。その済州島は朝鮮戦争の始まる前、苛酷な戦場となっていました。
 済州島は自然も人間も焦土化、廃墟と化する。山にたてこもるゲリラ部隊が、仲間を裏切ったとして処刑し、また、拉致した警部幹部を身内がピストルで射殺した。ゲリラ司令官は討伐隊に殺された。討伐隊によって村民500人が虐殺され、全村が焼却されて廃墟と化した無男村があった。
 ときは、日本で松川事件が起きたころ。今ではアメリカ軍もからむ謀略事件とみなされている松川事件も、当時は多くの国民が共産党のしわざだと思いこまされていた。
 逆コースの政治弾圧の流れのなかで、日本でも朝連組織や民族学校が閉鎖されていった。このころ、日本社会が暗い気分におおわれていた。
 アメリカ支配下に李承晩独裁国家が軍警暴力によって成立した。やがて6月25日に朝鮮戦争が始まる。
 日本と韓国の暗いつながりを実感させる、鬱々とした重い雰囲気の小説です。
 私も「火山島」(文藝春秋、全7巻)を読みました。衝撃の内容です。息つく間もなく手に汗を握って、展開を追っていきました。いえ、決して心躍るという内容ではまったくありません。むしろ逆なのです。ともかく、ぐいぐいと力まかせに引きずりこまされ、目をそむけることもできずに読みすすめていきました。平和な日本にいては、とうてい想像できないような苛酷な現実がそこにはありました。それを日本でも引きずって生きる人々がいたわけです。

2007年1月25日

モスクワと金日成

著者:下斗米伸夫、出版社:岩波書店
 日本敗戦時、朝鮮半島に進出してきたソ連赤軍第25軍の役割は、当初、関東軍が朝鮮半島をつうじて日本本国に脱出することを防ぐことであって、朝鮮の占領や支配ではなかった。1945年8月8日、ソ連軍司令部は、12万5000人からなる第25軍に朝鮮半島北部の占領を命じた。
 スターリン治下のもとで、軍人たちが直接政治に関与する習慣はなかった。第25軍の政治面での責任者はシュトイコフ大将だった。彼は、もともとは軍人ではなく、スターリン統治下で台頭した共産党官僚であった。1930年代末にはレニングラード市党委員会の書記をしていた。
 朝鮮半島の57%の面積と人口1100万人の北朝鮮がソ連軍の占領地域となり、人口1700万人の南部はアメリカ軍占領地域となった。北は日本の残した工業が主で、南部は農業地域と考えられていた。
 38度線による分割は、あくまで暫定的措置のつもりだった。アメリカと同じく、ソ連外務省も、38度線での分断を正当化する考えは当初はなかった。スターリンも、この地域に社会主義やソビエト型秩序を目ざす構想は、少なくとも当初はなかった。
 ところが、スターリンにとってアメリカが日本に原爆を落として実践使用したことが大きな衝撃だった。これは対ソ警告の意味もあると解していた。当時、ソ連は国内でウランを産出しておらず、東欧と北朝鮮のみだった。そこで、スターリンにとって核開発は至上命題となった。
 スターリンは、パルチザン派出身のソ連軍大尉金日成を北朝鮮の指導者として選んだ。
金日成は、1945年9月19日、元山港に上陸した。主導的にではなく、受動的に朝鮮の解放を迎えたし、ソ連軍隊との協同作戦ではなく、ソ連軍の庇護下に、静かに、人々の噂にのぼることもなく上陸した。このとき、金日成は金成柱と名乗っていた。
 スターリンが金日成のような軍事専門家を北朝鮮の指導者として選んだのは、スターリンにとって、占領軍を通じて指令を忠実に実行させるのに、どちらかといえば無名の金日成は打ってつけの人物であったから。
 このように、金日成は、スターリンの指名によって指導者となった。ただ、金日成本人は、不得意な政治よりも、軍事、しかもモスクワでの軍務に戻ることを望んでいたという見方もある。
 10月14日、平壌のソ連軍歓迎集会で、金日成大尉がソ連軍服を着て、金日成将軍として登壇した。この集会は、金日成帰国歓迎集会ではなかった。ソ連軍金日成大尉は、第25軍が準備したロシア語草稿を田東赫が訳したものをそのまま演説した。
 金日成について、中国共産党側は必ずしも認識していなかった。かつて中国共産党員であったものの、指導幹部ではなかったからだ。名前も、金民松と誤記していた。
 1946年8月に北朝鮮労働党第1回大会が開かれた。このとき初代委員長には中国派の金?奉がなり、金日成は副委員長だった。名誉議長にスターリンが就任している。
 1950年代はじめ、ソ連からの軍備提供の見返りとして、北朝鮮は、金9トン、銀 40トン、そして放射性物資モナジットを1万5000トン提供することになった。
 金日成は、3月30日にソ連に入り、1ヶ月近く滞在した。4月25日、クレムリンでスターリンと会談したとき、金日成は、南でのパルチザンの活動が高まっており、やがて20万人の労働党員が南で蜂起するとスターリンに請け負った。
 スターリンは金日成の武力統一案を承認したが、同時に東アジアでのパートナーとなった毛沢東にも意見を求めるよう金日成に働きかけた。
 金日成は朴憲永とともに中国を極秘に訪れ、5月13日夜、北京で毛沢東と会談した。6月25日、北朝鮮が武力統一を仕掛けて戦争は始まった。とたんに誤算が続出した。
 最初の日から通信が麻痺した。各師団と本部の連絡は途絶えた。人民軍司令部は、第一日目から戦闘を管理していなかった。指揮官は未経験で、戦闘を管理しておらず、大砲や戦車を操作できず、連絡を失った。
 8月28日、スターリンは、金日成に電報を送り、次第に膠着していく状況に苛立っていることを伝えた。
 南労党の朴憲永が北に留めおかれたことも北の占領権力と南の民衆の距離を拡大した。
 金日成ら最高指導者は近代戦の経験をもたず、軍人、戦略家としての資質が低いことが直ちに露呈した。
 1950年12月13日、金日成は、密かに北京を訪れ、毛沢東に面会した。中朝軍司令部が出来て、金日成は彭徳懐と同格の地位となった。
 当時、北朝鮮軍は4コ師団、3万2800人、人民志願軍(中国軍)は18個師団、 20万3600人。中国軍が主体といってよい。ちなみに、対する国連軍(アメリカ軍)は12万3000人、韓国軍は8万8000人だった。
 このように北朝鮮指導部は彭徳懐が指揮する戦時体制を12月に承認していた。
 彭徳懐は、金日成が朝鮮戦争で多くの誤った判断をしたことを、口を極めてなじった。2人の間には深刻な亀裂が生じていた。
 朝鮮戦争は、ロシア資料によると、北朝鮮と中国の死傷者は200〜400万人、韓国40万人、アメリカ14万人。アメリカの専門家によると、中国兵90万人、北朝鮮兵 52万人が死傷した。ちなみに、ソ連は、航空機335機と飛行士120人を含め、全体で士官138人と 161人の兵士を失った。
 40万人の国連軍兵士が死傷したが、そのうち3分の1が韓国兵。
 朝鮮戦争の停戦は、北朝鮮の平和を意味しなかった。それは新たな粛正の波の始まりだった。金日成の影響が弱かった。党機関に対して打撃が加えられた。具体的な標的は、責任秘書として党機関に影響のあった、ソ連派の大物・許哥誼(ホガイ)を粛正することだった。
 金日成は、こうやって次々と粛正していき自らの独裁的な地位を確立したのです。いろいろ勉強になることの多い本でした。この本を読んで強く感じることは、ソ連と中国と北朝鮮が政治的に緊密な一体関係にあったという事実はなく、相互に強い不信感を抱いていたということです。決して共産主義の一枚岩ではありませんでした。
 金日成は南の蜂起は間近なので、北がちょっと南侵すれば朝鮮半島はすぐに統一化できると強引にスターリンと毛沢東を引きずりこんで戦争が始まったということのようです。

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