弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮・韓国

2015年1月20日

降りられない船

著者  ウ・ソックン 、 出版  CUON

 昨年(2014年)4月16日に起きたセウォル号の沈没事件についての本です。
 私は、この事件について、残念でたまりませんでした。ニュースを読みながら、無念の涙を流してしまいました。だって、前途有為の高校生が300人近くも一挙に亡くなってしまったのですよ。信じられない大事故です。
 どうして、こんな大事故が起きてしまったのか、ぜひとも知りたいところです。
 このセウォル号は、韓国の前は、鹿児島と沖縄のあいだで運行していた船だったのですね。そして、韓国で船体が大幅に改造されています。
 船体の後部が増築されたため、本来なら左右をつないでいた船体後尾の甲板は、新設されたサンドイッチパネルの壁で最初から塞がれていた。残りの非常口も施錠したまま運行する習慣のため、開けることができなかった。
 セウォル号の船体が完全に傾いてからは、ドアは開かなかった。すでに海水が入り込んで傾いた船体から海に飛びこみ、水面下へ泳いで出て行った数人だけが最後に生きて戻った。船長以下の船員は脱出しています。
 高校生は、「じっとしているように」という船内放送の命じるままに、じっとしていたのです。これを書きながら、私は無念の涙が止まりません。いったい、この船内放送は、誰が、何のために出したのでしょうか・・・。
 この6千トンを超えるセウォル号の船長は、契約職であり、契約して1年にも満たなかった。
 もちろん、船長の責任は重いと私も考えます。現に裁判で重い有罪判決を受けました。しかし、問題は船長の個人的な資質にあったというのではないということです。
 セウォル号は済州島に行く船だった。済州島にいくのに簡単なのは飛行機だ。格安航空便もある。ところが、高校生が修学旅行で済州島に行くのを船で行くように行政がすすめていた。なぜか?
 1万トン以下のフェリーは、石油の高騰と交通手段としての競争力の低下などで居場所がなくなっていた。そこで、高校生の修学旅行が、教育当局の勧誘によって、カーフェリーに集中した。そして、この修学旅行生によって、途絶えていた路線の運行が復活したのだ。
 そのとき、船の寿命を20年から30年に延長して、日本では経済的寿命が尽きて退役する船が、韓国では中古として再稼働することが可能になった。
 日本の船を鉄くず同然の値段で買った人たちが、船についての基本的な原則と常識もないまま、都合のいいように改造した。船体が傾いたときの復元力に必要な、負荷を均等に合わせる最低限の作業もできなかった。縦方向の増築などで船尾がいじられてしまったため、左右のバランスをとることすらできなかった。
 この日、午前8時52分に船内にいた高校生から、「船が沈没中です。助けください」という電話を消防本部、そして海洋警察は受けている。ところが、午前9時30分に船長たちが海洋警察の船で救助されるとき、高校生は一人として救助されていない。何ということでしょうか・・・。
そして、セウォル号に近づいた警備艇は、二次被害を恐れて、船内に乗客がいることを知りながら、みすみす手をこまねいていた。しかも、他の船には接近するのを禁止してまで・・・。
これまた、信じられません。何があっても船内に侵入せよとの命令が出されるべきだったと著者は指摘しています。私も、まったく同感です。
 韓国の体育の授業には水泳の時間がなく、学校にプールがないそうです。これには意外というか、驚きでした。日本と同じように海に囲まれた国なのに、なぜなのでしょうか・・・。
 ともかく、国民の安全第一で行政はあってほしいものです。日本だって、フクシマの原発事故についての政府の対応をみていると、とても韓国政府の対応を批判できるとは思えません。放射能を今なおたれ流しているのに、早々と「収束宣言」するなんて、そして、原発再稼働を狙うなんて、日本政府も狂っているとしか言いようがありません。
 政府は、国民の安全第一で政治を進めるべきです。怒りが改めて湧きあがってきました。
(2014年10月刊。1500円+税)
 日曜日の午後から、ジャガイモを庭に植えつけました。メークインとキタアカリです。ダンシャクは店に売っていませんでした。いつものようにジョウビタキが近寄ってきましたので、写真にとってやりました。私の個人ブログで紹介します。とっても可愛いです。
 チューリップの芽が地上に出はじめました。春が近づいています。

2015年1月18日

韓国・北朝鮮とどう向き合うか


著者  東アジア共同体研究所 、 出版  花伝社

 韓国へ日本から5億ドルが支払われた。朴正熙大統領のときである。しかし、この5億ドルは、ひもつきのお金だった(タイドローン)。日本から物を買う。日本から技術を購入する。日本から人材を必要とする。そのための5億ドルだった。すなわち、この5億ドルは賠償金ではなく、あくまで商業ベース的なレベルで日本は拠出した。
 ソウル地下鉄とか、浦項(ポハン)製鉄所(現ポスコ)への資金も、この「賠償金」5億ドルから流れていっている。そして、日本にもキックバックされた。
 金正恩が張成沢を処刑したのは、金正恩はそうせざるを得なかったということ。それを進言したのは、北朝鮮の党・軍のなかの元老グループ。
 北朝鮮の労働党政治局員20人の3分の2は、70代、80代が占めている。
 4人の副委員長のうち、張成沢が切られて、残る3人は89歳の元軍政局長、84歳の元総参謀長、78歳の軍総参謀長。
 金正恩からすると、軍のほうから張成沢を外す方がいいと言われたら従うしかない。
 軍は軍で、この若さの三代目について、自分たちの権益・利権を守る。金正恩は彼らに乗っかかって金正恩体制をつくっていこうということなので、利害関係が一致している。そこに、弾き飛ばされる人間が出てきた。
 北朝鮮でも、韓流が入ってきていて、多くの若者の心をとらえている。韓流の映画俳優の顔に近づけたいといって二重まぶたにするというのは、そこらじゅうでやっている。医師でもない人が手術して、金もうけしている。
 情報閉鎖と教育をセットにし、かつ恐怖統治をそこに組み合わせると、人々はいろんな不満があっても、それがトップのせいだというよりは、身近にいる自分の真上にいる幹部がトップのいうことをよく聞かないでやっているせいだと思い込んでしまう。中間職が悪いんだと不平を向けさせることで、ガス抜きをする。
 金正恩には、思想・理論もないし、統治してきた経験もないから、金正日の遺訓ですべてを治めている。日本でいうと、水戸黄門の印籠をかざして、これが見えないかという形になっている。
 中国は、もしも金正恩が中国の国益を前面から害するような行動に出た場合は、金正男をカードとして抑えておこうとしている。
 北朝鮮では、朝鮮労働党の組織指導部が中核権力となっている。組織指導部は、国家保衛部と軍を動かせる。したがって、組織指導部を中核とする金正恩体制と言える。
 組織指導部では、部長は一貫して空席で、金正日時代も金正日総書記が兼任していた。組織指導部の内部に党、軍、政府それぞれの担当者がいて管理している。軍総政治局は、組織指導部の一課に過ぎない。
 先軍政治というのは、軍事を優先する政治であって、それを推進する権力中枢は組織指導部である。だから、権力の中枢は組織指導部に、権力の基盤は軍に置いている。
 工作機関が一つにまとまっているのが偵察総局。労働党の作戦部、調査部、そして軍の偵察局。この三つが拉致の実行犯。この特殊機関について、国家保衛部には監察能力はない。
 今回の北朝鮮側の特別調査委員会には、実際の権力を持っている機関が入ってない。
北朝鮮は中国の支援なくして戦争はできない。中国の習近平が訪韓したことから、北朝鮮は、戦争行為は、もはや出来なくなった。中国は金正恩政権を見放してもいいという状況になっている。
鳩山由紀夫・元首相の主宰する真面目な研究所における深く突っ込んだ分析が満載のブックレットです。価値ある1000円だと思いました。
(2014年10月刊。1000円+税)

2014年10月22日

北朝鮮、首領制の形成と変容


著者   鐸木 昌之 、 出版  明石書店

 北朝鮮の現在をどうみたらよいのか。その点について深く究明した本です。本当に大変勉強になりました。
 金正恩は張成澤を死刑にし、即刻、処刑した。張成澤は、金正日の妹である金敬姫の夫。ときに大将の階級章をつけて軍服を着て登場していた。
 張成澤は2013年12月8日、党中央委員会政治局拡大会議で、反党反革命宗派行為を犯したとされ、すべての職務から解任し、一切の称号を剥奪し、出党、除名された。その4日後の12月12日、国家安全保衛部の特別軍事法廷で、張は「国家転覆陰謀行為」が刑法60条に該当するとされ、死刑となり、直ちに処刑された。
 なぜ処刑されたのか、しかも秘密裏にではなく、報道して知らせたのか。今回の粛清は、北挑戦粛清史でも異例である。
金正恩は中国の介入を恐れた。張成澤は、北朝鮮で唯一外貨を豊富につかって国内の多くの問題を解決できる存在にあった。他方、金正恩は真綿で首を絞められる状態に陥った。張成澤の処刑と報道は、金正恩が中国と国際社会の要求する核兵器の放棄を拒絶したことを明らかにしたもの。首領制の核心は、核兵器であることを中国と国際社会に公然と示した。
 しかし、張成澤の処刑後、金正恩は、恐怖によって矛盾を一時的に押さえつけたものの、直面している問題を何ら解決できていない。金正恩が問題解決できるのか、そのカギは中国が握っている。北朝鮮が内閣中心制にかえようとしても、北朝鮮の外貨資金は中国の掌中にあるからである。
 金正日は、軍が非政治化する、すなわち党の統制から離れることをもっとも恐れた。党の統制から離れた軍は、いつ自分に刃を向けるか分からない。それがソ連崩壊から学んだ教訓だった。
 金正日は、金日成政治を継承すると言いながらも、それを部分的に否定し、自らの独自性を主張した。金正日は、父親を部分的に否定しなければ自らの時代を切り開けないことを知っていた。だからこそ、父親の百喪を契機に、「先軍政治」を言いはじめた。先軍政治の要締は、人民軍が金正日に対して無限の忠誠を誓っていることにある。
 先軍政治とは、朝鮮人民軍を金正日護衛軍としてつくることから始められた政治方式である。金正日は、自分の周囲の人々を信頼できず、徹底的に孤独だった。金正日の孤独感が、北朝鮮の孤立にも投影している。
 先軍政治は、軍隊に依拠すると強調しつつも、実際には、軍隊に対する党の優位は、金日成から金正日、そして金正恩時代になっても一貫している。人民軍は、党綱領にも憲法にも規定されているとおり、労働党の領導を受ける革命武力である。
金日成の時代は、人民武力部が総参謀部の上に常に位置していた。しかし、先軍政治が始まると、人民武力部長は総参謀長の次に座るようになった。
 金正日は、総政治局長、総参謀長、人民武力部長の三線垂直体制をつくり出した。金正日は、この三人を相互牽制するようにした。その結果、総政治局、総参謀部、人民武力部の順位となった。そして、護衛司令部、人民保安省、国家安全政治保衛部など、その麾下に実力部隊をもつ機関も人民軍と相互牽制させた。金正日は、それらのバランスの上に立って、独裁権力を維持しようとした。
 イデオロギー上の説明とは異なり、先軍政治とは、人民軍を中心としたものではなかった。その中核は、特殊部隊と核兵器だった。北朝鮮は、ソ連・中国という後ろ盾がないなかで、特殊部隊と核兵器に頼らざるをえない。核は体制の護持そのものである。
 特殊部隊は、人民軍の上に置かれた。そのため、党作戦部が先頭に立った。党作戦部は、特殊部隊のなかの特殊部隊となった。この結果、先軍政治を強調されながらも、最大の被害者は、皮肉にも人民軍だった。
 先軍政治は「首領の経済」と呼ばれるものが支えた。金正日は、外貨を内閣の管轄下や計画経済のもとに置くことを望まなかった。人民経済は、金正日の登場とともに、内閣の管轄に属されない特殊経済機関と単位によって浸食された。
 人民経済の市場化が進行した。北朝鮮は、社会主義でもない。
 国家の制度的統一性と継続性が失われていった。金日成と金正日の教示の絶対性がこれに拍車をかけ、社会を無秩序化し、混乱させた。北朝鮮社会は変化を起こしているというより、崩壊の過程に入っている。
 それでも体制が維持されているのは、むき出しの暴力が人々に向けられているから。
 とても納得できる分析が満載の本です。北朝鮮の内情に少しでも関心を有する人へ一読を強くおすすめします。
(2014年1月刊。2800円+税)

2014年9月14日

漢拏山へひまわりを


著者  金 昌厚 、 出版  新幹社

 済州島四・三事件を体験した金東日の歳月。これが、この本のタイトルです。
 済州島に生まれ育ち、四・三事件そして朝鮮戦争が始まってからは山中のゲリラ隊に参加もした。それから密航船で日本に渡って、東京は江戸川区で弁当屋を営んでいる女性の半世紀の聞き書きからなる本です。すごい経歴であるのに驚くと同時に、読みやすい文章なので、すっと頭に入ってきます。
 金東日は1932年(昭和7年生まれ。13歳のときに解放の日を迎えた。1947年に朝天中学院に入学。民愛青(民主愛国青年同盟)で活動をはじめ、連絡係としてビラを運んだ。
 四・三事件(1948年)のあと、山に入った。武装蜂起が起きたからには当然それに従わなければいけないと考えていたし、当然、勝てると思っていた。最後の血の一滴までもすべて捧げて闘うという気持ちだった。国のために、自分が死んでも国が生きのびるのなら・・・。
 言いたいことも言えないで生きていく生活のことを、冷蔵庫の中の凍った肉という。金東日たちは、すぐにでも解放されると信じていた。組織には楽観論が支配していた。
ところが、本の少し前までの山の人(ゲリラ側)にあんなに協力して食糧も届けていたような人々が、いつの間にかがらりと変わって敵に回ってしまった。山の人たちに勝ち目はなくなり、生き残ろうと思ったら、警察側につくという人が目立った。
 非合法生活をしているとき、逃亡だけだったが、かえってそれは希望があると思い込んでいた。なぜなら、これほど弾圧されて苦労しているのだから、済州島民が決起するに違いないと考えたのだ。指導部は当時の判断力不足で情勢を見誤った。
漢拏(ハルラ)山では、つらい毎日だった。死に向きあいながら、いつかきっと自分たちの世の中になると堅く信じていた。本人は意気揚々としていたが、人々が金東日を指さしながら、「この暴徒のアマ!」と言いながら集まってきた。それが、村で一緒に活動していた人たちばかりだった。
 朝鮮戦争が始まると、金東日は今度は智異(チリ)山で郡島委員会の秘書になった。18歳だった。そして捕まってしまうのでした。
金東日は、二回も捕まったのに、運が良く、再び済州島で母と生活するようになった。
 金東日が若いころに命をかけた戦いは正々堂々としたものだった。漢拏山や智異山に入ったことを後悔もしていない。
 2000年1月に本国(韓国)で四・三特別法が公布され、四・三事件真相相究明と犠牲者の名誉回復事業が本格的に始まり、「まるでひまわりに花が咲いたように」金東日の心を明るくした。
 済州島で大変な体験をした少女が、戦後50年以上も日本で生活していたことが発掘されたのでした。ご本人と、その発掘作業を本にした人たちへ、心より敬意を表します。
(2010年5月刊。1500円+税)

2014年8月21日

済州島、四・三事件(第3巻)


著者  済民日報四・三取材班 、 出版  新潮社

 1948年、済州島で発生した韓国現代史上最大の悲劇「四・三」の惨状は、米軍政下において韓民族がかかえていた矛盾が集中的に作用して引きおこされた事件だった。
 済州島において、米軍政と韓国政府側の討伐作戦が本格化していた5月13日、それに反抗する武装隊による逆襲事件が発生した。警察署が襲撃され、7人の警官が死んだ。また、武装隊が民家に放火し、百余戸が火災にあった。事態は「血の報復」の様相を呈しはじめた。
 当時は、山側(武装隊)のほうが力があるように見えた。情報も、山からのほうが早かった。警察は、毎日のように、避難嫌疑者の家族を署内に連れこんで拷問を加えた。
 住民にとって、応援警察隊は悪夢のような存在だった。応援警察隊が来ると聞くと、男も女も、年寄りも子どもも、みな身を隠すのに必死になった。法を守るべき警察官の存在によって、一帯は無法地帯と化した。討伐開始の1ヶ月間で、逮捕された「捕虜」が6000名に達した。これは、無差別逮捕を意味している。
 1948年5月20日、第九連隊所属の下士官11人をふくむ将兵41人が兵舎を抜けだし、武器・弾薬とともにゲリラ側に加担するという事件が発生した。米軍政は、この事件の後、第九連隊に不信感を抱いた。第九連隊は、全兵力の9割が済州島出身者で占められていた。
 警察と「西青」に反韓を抱く兵士が多かった。これらの将兵は「左翼思想」に染まっていたというより、警察と「西青」に対する反感が強かった。そして、このうち半数の20人は、2日後につかまり、射殺されてしまった。脱営そのものが緻密に計画された、組織的なものではなかった。
 1948年6月、ソウルに法曹人が済州島に入って現地調査をした。ソウルの検察官は、次のようにまとめた。
 「今回の事件の導火線は共産党系列の策動にあるとは言っても、その原因は警察官の済州島道民に対する誤った行動にあると断言することができる」
 彼らは、同じく済州島事態は、左翼系の扇動だけでなく、警察と「西青」、官公吏の蛮行と腐敗等が大きく作用していると指摘した。
 1948年6月18日、第11連隊において連隊長の朴珍景大佐が暗殺された。29歳だった。犯人ら4人の将兵は1948年9月に銃殺された。
 1948年8月、済州島道民保団が創設された。1949年4月には、この民保団は5万人を擁した。
 1948年8月、大韓民国が樹立し、韓米暫定軍事協定が締結された。
 駐韓米軍司令官は、韓国軍の指揮権とあわせて、米軍駐屯に必要な基地と施設の支配権を継続して確保した。
 「四・三」流血事態に、米軍指揮部が直接・間接に介入していた。
 10月20日以降、軍の行動が終了するまで、全島の海岸線から5キロメートル以外の地点と山岳地帯の無許可通行が禁止された。この布告に違反するものは、理由のいかんを問わず、暴徒とみなし、銃殺に処される。
 この中山間焦土作戦によって、6ヶ月間の内に少なくとも1万5000人以上の島民が虐殺された。
 「四・三」事件は、韓国社会にとって忘れることの出来ない歴史的汚点の一つだということがよく分かりました。
(1996年6月刊。4500円+税)

2014年8月 6日

先進国・韓国の憂鬱


著者  大西 裕 、 出版  中公新書

 日本と同じように、韓国も大きな矛盾を抱えている国だということがよく分かる本です。いずこも悩みは深いのです。
 2012年12月の韓国の大統領選挙で朴槿恵(パククネ)が勝利した。このときの投票率は2007年に李明博が当選したときの63%に比べて大幅にあがり、76%になった。
 街宣車による連呼が禁じられているため、静かな選挙戦だったが、有権者の動員は進んだのだ。朴槿恵も対立候補の文在寅(進歩派の隠健中道)も、新自由主義的改革で深刻となった経済格差を解消しなければならず、そのためには財閥改革と社会福祉の充実をしなければならないという点では一致していた。このように、政策的対立は乏しいけれども、深刻なイデオロギー対立が高い投票率につながった。
 文在寅は湖南地方と若年層の支持を得、朴槿恵は嶺南地方と高齢者の支持を得た。
 韓国経済の快進撃は財閥系企業による。そして、その利益の大半は、財閥とごく一部の社員が得ており、一般市民や中小零細企業は、その恩恵にあずかっていない。
 韓国が財閥中心の経済構造になったのには、二つの要因がある。その一つは、財閥が歴代政権によって特権的に保護されたこと。その二は、自由化がすすみ、弱肉強食の市場原理が働くなか、政権と強く結びついて強い立場にあった財閥の一人勝ちの状況になった。
 ジニ係数と相対貧困率をみる限り、韓国はOECD諸国のなかで、それほど平等性の低い国とは言えない。しかし。貧困層の困窮度合いは、かなり深刻である。相対的貧困層に属する人々は、数が多いだけでなく、平均してかなり貧しい。韓国は、OECD諸国のなかで65歳以上でみると、最悪に近い。すなわち、韓国の高齢者における不平等は深刻で、貧困層の厚さも、その困窮度合いも際立っている。それは、社会保障制度の整備が遅れたことによる。
 そして、韓国の若年層は就職がしにくい。ワーキングプア、高齢者、若年層などに着目すると、韓国の貧困の状況は、かなり深刻だ。そのうえ、政府の対策は量的に不十分である。弱肉強食の世界を招きかねない新自由主義的な改革を推進したのは、1998年から10年間続いた、金大中、盧武鉉という進歩派政権だった。なぜか・・・?
 1998年2月、金大中政権は、進歩派の人々から大きな期待を受けて登場した。ところが、この政権は、新自由主義的としか思えない経済改革を次々に断行していった。
 金大中政権は、進歩派からは裏切ったと思われ、保守派には不十分と評価された。金大中には、アカ(パルゲイン)のレッテルがついて回った。
 それでも、韓国は曲がりなりにも福祉国家を実現した。
 次の盧武鉉政権は、二つの新しい福祉圧力に直面した。その一つは、少子高齢化の進行。その二は、「新しい社会的リスク」への対応。
韓国の福祉政治で不思議なのは、市民団体や労働団体が政治過程に参加しているのに、福祉団体はあまり目につかないこと。そもそも福祉を推進する団体があまり存在しない。存在しても、福祉の拡大には、それほど積極的ではない。韓国の福祉団体は、地方自治体から行政指導を受けることも多いため、行政にきわめて依存的な存在である。韓国には、福祉に関心をもちながら保守的という特異な事情がある。
盧武鉉は、いわば地域の草の根保守に足もとをすくわれてしまった。
 盧武鉉は、アメリカとの交渉には成功したものの、国内での批准に失敗し、条約の発効にまで持ち込むことができなかった。
 三八六世代の台頭は、それまで親米反北朝鮮があたり前だった韓国世論を大きく変えた。三六八世代とは、1960年代に生まれ、80年代に学生生活を送った、2000年当時に30歳代の世代を指す。彼らには、韓国という国そのものへの拭い去れない疑惑があった。そこで、ナショナル・アイデンティティという争点が浮上した。
 韓国の新聞市場は、三代新聞社の寡占状態にあるので、新聞を読む限り、保守的な言説しか国民には伝われない。
 米韓FTAについて、保守派勢力が支持し、盧武鉉を支えた進歩派は勢力が反対した。盧武鉉は、彼の信念からすれば予想外だったろうが、進歩派からは背信者よばわりされた。
 盧武鉉は、低所得層にいる人々が、彼が従事している産業の低生産性ゆえに所得を得ることができないことに注目していた。所得の低い状態から抜け出すには、彼らに教育と訓練と機会を与えることが必要だと考えた。貿易自由化が福祉政策と重なれば、社会的弱者の生活の質につながると盧武鉉は考えたのだ。
 盧武鉉は、伝統的な進歩派の考えとは異なる発想のために支持者から批判を受けた。そして、不幸なことに、保守派からも支持されなかった。
金大中、盧武鉉と二代10年にわたる進歩派政権は、結果的に支持者を裏切るような経済改革を行ってしまった。福祉国家化には成功したものの、量的規模は小さく、新自由主義的な改革が進んだ。
 李明博は、強いリーダーシップを発揮することができなかった。彼は、大衆からも政治家からも任期のある大統領ではなかった。
 李明博は、進歩派の反対で挫折を余儀なくされた。大統領選挙と国会議員選挙で敗北したものの、進歩派は衰えてはいなかった。
 韓国政治の矛盾とダイナミズムを、生き生きと分析している画期的な名著だと思いました。
(2014年4月刊。840円+税)

2014年7月10日

順伊おばさん


著者  玄 基榮 、 出版  新幹社

 「スニおばさん」と読みます。1948年済州島四・三事件を取りあげた小説です。
 「順伊ねえさんは、ほんとはその昔に死んだ人だ。畑を取りまいてからに、それこそ雷みたいに銃を撃ちまくったんだけども、順伊ねえさんだけは擦り傷ひとつ負わんでな、ほんとに不思議だった」
 「どうも、射撃の直前に気絶して倒れてしもうたようなんだ。気がついてみたら、自分の身体の上に死んだ人間が何人も折り重なっていたという」
 「その畑で死んだ人たちが、ぐにゃぐにゃに腐って、肥やしになって、それであくる年の芋はすごい豊作じゃった」
 夜は部落出身の共匪たちがあらわれて、入山しない者は反動だと竹槍で突き殺し、昼は巡警たちが幌付きのトラックでやって来て、「逃避者」の検束をするものだから、結局、村の若者たちは昼も夜も身を隠して過ごすしかない立場だった。
 大部分の男たちは村にそのまま踏みとどまっていたが、暴徒に追われ、軍警に追われて右往左往しながら、結局は、なすすべもなく、ハルラ山麓の牧場へあがっていき、川のそばの洞窟内に非難した。済州島は、もともと火山地帯なので、至るところに洞窟があり、暴徒と軍警の板挟みになった良民たちが、人知れずに身を隠すのには誂え向きだった。
 西北青年出身の巡警たちは、子どもたちに洋菓子を与え、父や兄の隠れ場所を教えてほしいと騙した。無邪気な子どもたちは、竹ヤブのなかや家の床下、馬小屋やわら積みの下を掘った穴に隠れている自分の父や兄を指さして教えた。
 暴徒も恐ろしく、軍警も恐ろしくて山へ避難した良民を、軍警は暴徒と見なした。
 入山者の家族まで釈放されたという噂が広がると、若者たちが続々と下山してきた。彼らは下山すると、いっていの帰順手続を踏んでから、宣撫工作隊に編入されて討伐隊の協力者となった。
 ときには、幹部級の入山者の切り取られた頭が名札をつけて展示されもした。
 朝鮮戦争が始まり、海兵隊が募集されると、帰順者たちは一人残らず入隊を志願した。アカの汚名を拭うことのできる絶好の機会だった。
 鬼神を捕まえる海兵隊として勇名をとどろかせた草創期の海兵隊は済州島出身の青年3万人を主軸にして成立した。
 以北の人間たちにやられたことを以北の人間たちに仕返してやるという感情が認められた。済州島の青年たちが6.25動乱のときに見せた戦史に輝く勇猛さは、一時、軍警側で島の住民といえば無条件に左翼視し、その獰猛なアカ狩りの対象にした単細胞的な思考方法が、どれだけ重大な誤解を犯したかを反証している。
 済州島四・三事件を一般住民の置かれた状況から考え直させてくれる本です。
(2014年4月刊。1600円+税)

2014年6月13日

済州島四・三事件(第2巻)


著者  済民日報四・三事件取材班 、 出版  新幹社

 1948年に韓国の済州島で起きた事件を詳しく追跡した本です。
 1948年は私の生まれた年です。朝鮮戦争が始まったのは1950年6月のこと。その前夜の殺伐とした韓国内の状況が詳しく描かれています。
 1948年4月3日の早朝から、左翼武装隊が済州島内の11の警察署(支署)を一斉に襲った。このとき、武装隊の武器は九九式銃一挺の他は棍棒など、貧弱だった。
 この襲撃は北朝鮮がそそのかしたとか、南朝鮮労働党(南労党)中央の指令によるというものではなかった。四・三蜂起は、むしろ南労党の戦略的立場からは不都合なものだった。
米軍政検察総長は、官公吏の腐敗、警察の苛酷行為、西青(反共青年団)の蛮行などによってたまった膿(うみ)を左翼系が針でつついて噴出させたのが、済州島自体の真相だとした。別の検察官も、今回の事件の導火線は共産党系列の策動にあったとしても、その原因は警察官の済州島民に対する誤った行為にあると断言した。
 戦後の韓国警察の幹部は、戦前の親日警察官が主流であり、冷戦下の反共イデオロギーによって過去の薄汚れた経歴を覆い隠すことができるだけでなく、「新たな愛国者」に変身する道が開けたことから、それにしがみつき、あらゆることを反共の旗幟(きし)を高く掲げて処理しようとした。
 武装隊の武器は全体で小銃30挺ほどでしかなかった。それに対して、討伐軍警は米軍から常に新式の武器を供給されていた。
武装隊は、主力部隊が500人、同調加担者が1000人から3000人。しかし、四・三事件で殺害された済州島民は3万人以上。ゲリラと関係ない島民は「アカ」「暴徒」として殺されただけでなく、その遺族までが「アカ」の烙印を押され、連座制の鎖につながれて、言語を絶する苦しみをなめた。
 四・三蜂起の直接的な名分は「単独選挙・単独政府反対」だった。これについては、南労党などの左派勢力だけでなく、右派陣営まで同調・加勢していた。
 警察と警備隊(軍隊)は反目しあっていた。警備隊は、四・三事件の当時、第三者的立場に立っていた。それというのも、警察の苛酷な島民弾圧に対して不満をもって警備隊に入隊した済州島出身兵士が少なくなかったから。
 第九連隊の連隊長であった金益烈中佐(当時27歳)は、武装隊責任者の金達三(当時25歳)と4月28日、国民学校の校長室で会談をもった。そして、一応の和平協商が成立した。ところが、5月1日、放火事件が発生した。これは、警察の後援による西青・大青などの右翼青年団体によるものだった。
 4.28平和協商の翌日(4月29日)、米軍政長官ディーン少将が突然、済州島を事前連絡もなく非公式に視察した。
 4.28平和協商は「共産暴動」と言い、「早期鎮圧」を豪語していた警察幹部の面目を丸つぶれにするものだった。そして、ついに、ディーン少将の前で、警察幹部と連隊長が殴り合う自体となった。5月5日のことである。
 金連隊長を指さし、「そこに共産主義青年がいる」と趙炳玉警務部長が言った。金連隊長は「黙れ」と叫び、壇に駆け上り、襲いかかった。腹を殴りつけ、胸倉をつかんで警務部長を背負い投げで投げ飛ばそうとした。
 金連隊長は、翌日、解任された。これで、金連隊長の推進していた和平政策は頓挫した。
ディーン将軍は、金連隊長の後任となった朴珍景中佐に焦土作戦を命令した。これこそ、金連隊長と軍政長官マンスフィールドが反対してきた作戦だった。
 朴珍景は、済州島に赴任して1ヵ月後に討伐作戦の功労を認められて大佐へ特急昇進した。しかし、結局、部下たちに暗殺された。
 済州島四・三事件の殺戮作戦の過程で、それに反対して和平交渉を進めていた現地軍の連隊長がアメリカ軍のトップの面前で警察幹部と殴り合いまでしたというのは驚きでした。そして、アメリカ軍当局は和平派をおろして強硬派に鎮圧作戦を命じたというのです。四・三事件について、アメリカ軍の責任は重大だと痛感しました。
(1995年4月刊。4000円+税)
 夕食にマッシュド・ポテトを食べました。もちろん、素材は日曜日に我が家の庭で掘り上げたジャガイモです。牛乳ではなく、豆乳をつかったのですが、ツヤツヤして、のどごしも良く、本当に美味しく、やや小ぶりのジャガイモ6個からなるマッシュド・ポテトを全部たいらげて家人からとがめられてしまうほどでした。
 もちろん、完全無農薬の自家栽培ですから絶対安心です。地産地消の極みです。
 これこそ、田舎に棲む人間の究極のぜいたくです。

2014年5月16日

植民地朝鮮と日本


著者  趙 景達 、 出版  岩波新書

 1910年8月、韓国併合条約が調印され、大韓帝国は滅亡し、日本帝国の一部となった。
 首都の漢城府が京城府と改められた。
 韓国統監が初代の朝鮮監督に就任した。総督は陸海軍大将から選任された。
 天皇に直隷する総督は、実際にも総理大臣の指揮を受けなかった。その地位は、各省大臣と同格のはずだったが、実は総理大臣と同格とも言える政治的地位にあった。
 朝鮮総督は、軍事はもとより司法・行政・立法の三権を掌握し、天皇直属のもと小天皇ごとき存在として朝鮮に君臨した。憲法上においても、朝鮮は、それを施行しない異邦域のごとく見なされた。
 朝鮮総督の政治的地位は、内閣の監督下に置かれた台湾総督とは異なるものだった。
 総督府は、1907年に竣工した、南山麓の倭城台にたつ総督府庁舎をそのまま庁舎とした。
 1912年3月、総督府は朝鮮笞刑令を交付した。犯罪即決令によって笞刑に処された数は、総刑罰の5割近くを占めた。日本人には、当然のことながら適用されなかった。
 同じく、1912年3月の朝鮮刑事令では、判事が証拠を示さずに判決を言い渡すことができた。これによって、政治犯を恣意的に裁くことができた。
 朝鮮には、日本国籍法が適用されなかった。これは、台湾や樺太とは違っている。朝鮮人から国籍離脱の権利を奪い、第三国への帰化を認めなかった。
 帝国憲法が施行されなかったため、朝鮮半島にいる朝鮮人、そして日本人にも参政権が認められなかった。
 総督府の諮問機関として中枢院があったが、会議が開かれない時期もあり、議長は政務総監だった。
 1919年1月、高宗皇帝が亡くなった。高宗の国葬にあわせて、朝鮮独立運動の示威行動が企画された。それは、当初、3月3日を予定した。
 3月1日、パコダ公園には数十万人の市民が集まり、独立万歳を高唱した。
 当時、京城の人口は25万人ほどだったが、3月3日には、全国から50万人が京城に結集した。
 この3.1運動のなかで、16歳の女子学生、柳寛順が逮捕され、獄死した。
 3.1運動は、アメリカのウィルソン大統領が揚げた民族自決主義への期待を契機として展開された。しかし、アメリカ国務省は正式に朝鮮独立の要求を退けた。
 3.1運動に理解を示したのは、日本の大正デモクラシーの中心人物であった吉野作造だった。このころ、日本の社会主義者は大逆事件(1910年)のあと、「冬の時代」にあった。
 独立派の一部は日本支配層へテロ行為に走りました。
 1932年1月、桜田門外で天皇暗殺未遂事件が起こり、同年4月には上海で白川・陸軍大将が爆殺され、日本公使も重傷を負った。
 1925年12月、新しい総督府庁舎が景福宮の前に竣工した。光化門は移築された。
 939年11月、朝鮮民事令が交付され、創氏改名が決められた。創氏は義務(強制)であり、改名は「任意」とされた。それでも、20%の朝鮮人は創氏しなかった。
朝鮮人の労働動員は計画では86万人だったが、実際には70万人以下だった。
朝鮮人慰安婦は、数万人と考えられている。戦地で「性奴隷」とされた。
 日本帝国が支配していた植民地朝鮮の実情の一端を知ることのできる貴重な通史です。
(2013年12月刊。820円+税)

2014年4月23日

日韓・歴史問題をどう解くか


著者  和田 春樹・金 泳鎬 ほか 、 出版  岩波書店

 1965年の日韓条約には、批判されるべき重大な欠陥があった。日本側に植民地支配に対する反省がなく、それがもたらした損害と苦痛に対する謝罪がなく、補償をおこなう考えがなかったことである。
 日韓条約は、歴史認識の対立をそのままにして、併合条約の無効に関する条約第2条を日韓が都合のいいように訳し、解釈することを認めることで成立した。
残されている、解決を必要とする問題は四つある。第一に、強制された併合条約は当初から無効であったと解釈すること、第二に、日本側は自発的に、道義的に追加的な償いの行動を補完的にとること。第三に、日韓請求権協定で解決されていない深刻な問題があること、たとえば慰安婦問題や在韓被爆者への援護問題、サハリン残留韓国人の帰国問題などについて、日韓首脳会談で協議すること、第四に、独島・竹島問題についての合意。
 なーるほど、いろいろの問題がまだまだ未解決のまま残っているのですね・・・。
 併合条約の有効性の問題を政治家や官僚たちにまかせることはできない。そうではなく、市民社会が乗り出すべき問題である。これは、過去からの要請というより、未来からの要請なのである。
 韓国併合条約には、形式上も手続き上も、重大な欠陥が認められる。大韓帝国の宝印奪取、皇帝の署名偽造、公表勅諭の捏造など。そして、韓国では、国内手続を経ておらず、皇帝が裁可することもなかった。
 したがって、韓国併合条約は、「締結されてもいなかった」のである。
日本の敗色が濃くなっていた1944年12月、朝鮮・台湾の居住者への参政権付与案が検討され、翌45年4月に、選挙法が改正された。しかし、朝鮮の衆議院定数はわずか23人。有権者も直接国税15円以上納付に限定された。
 それまで、朝鮮人は立法にも予算の審議にも関与できなかった。
 「韓国併合」100年を記念して日韓知識人の共同声明が出された(2010年5月10日)。翌11日の韓国各紙は、この共同声明を大きく報道した。ところが、日本では、朝日、東京そして共同通信のみが報道するだけ、しかも小さな記事でしかなかった。
 2010年8月10日、菅直人首相は、談話を発表した。
 「日韓併合条約が締結され、・・・・植民地支配が始まった」
 「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反しておこなわれた植民地支配によって、国と文化を奪われた」
 いま、本屋の店頭には、韓国と韓国人をバカにするような本が平積みになって大々的に宣伝され、売られているようです。まさしく「ヘイト・スピーチ」が公然と大手を振って、まかりとおっています。恐ろしいことです。隣国とは、たとえ意見の違いが大きくても、仲良くしなければいけません。「敵」ではないのです。
 先日、私は娘の結婚式のためにソウルに初めて行ってきました。みんな平和に生きています。それが、私たちの願いです。戦争に駆り立てて金もうけしようなんている連中に乗せられてはいけません。
 植民地になって朝鮮はかえって良かったとか反映していたと主張する日本人がいます。残念でなりません。自由と独立のないところで、どうして「繁栄」があるというのでしょうか。日本人は開き直ってはいけないと私は思います。
 反省すべきところは反省し、償うべきは、きちんと償うべきなのです。それが未来への道を切りひらいていくことになります。
(2013年12月刊。2900円+税)

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