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カテゴリー: 日本史(江戸)

海の幕末日本

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 後藤敦史 、 出版 人文書院

アメリカのペリー提督が日本に来る前に、イギリスの測量船サマラン号が1845年8月(弘化2年7月)に長崎にまで来ていて測量したことを初めて知りました。長崎奉行は測量禁止を通告したのに、勝手に測量したようです。

次に1849年5月(嘉永2年4月)に、イギリス艦マリナー号が江戸湾口の三崎沖合にやってきて測量しました。この船には、かの有名な漂流民の音吉(おときち)が通訳として乗っていました。伊豆の下田港にもやってきて、測量していたようです。

そこで幕府は、天保13(1842)年に撤廃されていた異国船打払令を復活させるべきか、老中や奉行たちが議論したのです。しかし、復活については反対意見は強く、復活されなかったようです。

ペリー来航(黒船来航)は1853年7月(嘉永6年6月)のことです。ペリー提督の率いる、東インド艦隊の4隻の軍艦が浦賀沖に出現しました。「たった4杯で夜も眠れず」といわれたほど日本社会に激震(大きな動揺)を与えました。

その後、アメリカ海軍は北太平洋測量艦隊を日本に派遣しています。1854年12月に鹿児島湾、翌55年3月から5月にかけて、下田や箱館に来航し、測量を実施したようです。

1853年9月、ロシアとオスマン帝国との間でクリミア戦争が始まり、翌54年3月には、イギリスとフランスがオスマン帝国側に立って参戦した。

イギリス測量艦隊に対して幕府は伊能図を提供した。これによって日本の海岸線を測量する必要はないとイギリス側は判断した。伊能図の精密度、正確さにイギリス側は感嘆したとのこと。なるほど、それはそうでしょうね…。

日本側は、その後、アメリカの測量船に「稽古」のため日本人5、6人を載せて、測量技術を習得させようとしたとのこと。

イギリスはアヘン戦争で中国・清を打ち負かしたわけですが、攘夷を実行してきた長州藩などに接して、対日戦争を意識した計画を立案していたとのこと。これまた、知りませんでした。具体的には瀬戸内海封鎖と大坂攻略。江戸は海に面しているので可能だけど、京都は内陸部にあるので無理。大坂は可能性ありと考えたようです。このころ、日本側は大坂まで攻められることはないだろうと安易に考えていたとのこと。考えが甘いようです。

1864(元治1)年3月、慶喜が将軍後見職を辞し、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。慶喜は島津久光を警戒していた。参与会議によって国を運営する構想があったが、薩摩藩の主導で運営される危険を察知し、慶喜は、参与会議の構想を3ヶ月で解体した。

アメリカでは1861年から65年まで南北戦争が戦われていましたが、この間、外へ目を向けられなかったアメリカに代わってイギリスが積極的に動いていたようです。

海と測量の点に重きを置いた幕末政治史として興味深い内容がたくさんありました。

(2026年4月刊。3850円)

討幕開戦への道

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 中村 彰彦 、 出版 中公選書

時代小説の大家が幕末期の政治の実相に迫っている本です。

幕末のころ、将軍家茂と孝明天皇が重大な局面のさなかに相次いで亡くなりました。

まず、将軍家茂です。慶応2 (1866)年7月20日、まだ数え21歳の若さで死亡。「脚気(かっけ)衝心(しょうしん)」とされていたのを、侍医の松本良順は、「心臓内膜炎」とした。これは歯の衛生状態の良くない人が発症しやすいもので、心臓の弁の内壁に細菌が付着、感染して起きる。

家茂は大の甘党で、体質的に虫歯になりやすいところ、虫歯から体内へ侵入した細菌が心臓内膜炎を引き起こし、それが、胸痛とうつ状態の原因となった。見舞品として届けられた甘いものが家茂の虫歯をますます進行させ、征長軍からもたらされる相次ぐ敗戦の知らせが家茂の衰弱した心身に激しい衝撃を与え、ついには死に至った。

続いて 孝明天皇。同年12月25日に36歳で死亡した。痘瘡による死が定説。これに対して 著者は岩倉具視を黒幕とし、女官がヒ素を飲ませて毒殺したとします。

岩倉具視は孝明天皇から遠ざけられていたのですが、天皇の死によって一気に黒幕としての行動を再開し、王政復古、そして徳川幕府の終わりに結びつけていった人です。

でも、そう簡単に天皇を毒殺できるものでしょうか…。

最下級の公家であった岩倉具視は風采(ふうさい)が上がらず短躯(わいく。背が低い)でもあるため、「岩吉」というあだ名をつけられていた。それでも、侍従、従四位上、侍従兼近習と出世していった実妹の堀河紀子は孝明天皇の後宮に入って、兄を引き立てようとした。岩倉具視は公武合体としての和宮降嫁に奔走している。

岩倉具視は孝明天皇から勅勘をこうむっていたが、その天皇が亡んでしまえば、勅勘は自動消滅する。

ヒ素は猛毒だが無色無味無臭で、水によく溶ける。かのナポレオンについても、ヒ素による毒殺説がありますよね…。

孝明天皇の死の直前の状況は急性ヒ素中毒の特徴と合致している。

著者はヒ素を孝明天皇に飲ませたのは女官のトップである大典侍の中山績子(いさこ)だとしています。

岩倉具視の指示によって孝明天皇の死を仕組んだ女官たちは、岩倉の復権とともに公職に復帰して残留し、罪を問われることなく、天寿をまっとうした。

坂本竜馬の暗殺についても、著者は大胆な問題提起をしています。慶応3 (1867)年11月15日、京都見廻組の今井信郎らによって、坂本竜馬と中岡慎太郎は斬殺された。このとき坂本竜馬の居場所を見廻組に教えたのは、薩摩藩の西郷たちではなかったか、というのです。それというのも、西郷隆盛は暴力をもって徳川幕府を倒すことを決意して、着々と布石をうっていました。ところが、坂本竜馬は、なお公議政体案を主張して徳川慶喜を要職に登用する案を主張していたのですから、邪魔な存在だったわけです。

歴史を教科書どおりに表面から眺めるだけでなく、一人ひとりの内面にまで迫って考えていこうとする著者の視点には大変教えられるところが、多くありました。続刊が楽しみです。

(2026年3月刊。3300円)

きみがなきあと

カテゴリー:日本史(江戸)

 

(霧山昴) 

著者 木内 昇 、 出版 集英社 

幕末のころ、長州そして福岡で活動していた勤王志士の一人、野村 望東尼(ぼうとうに)を主人公とする小説です。

私は、今、幕末のころの久留米藩の様子を小説として描くのに挑戦していますので、そこに登場する女性として関心があって読んだのです。

江戸幕府はペリー来航のあと、開港を決めました。ところが、そのころは尊王攘夷を叫ぶ人々の声が高まっていました。開港によって諸物価が高騰して、庶民の生活が苦しくなっていたからです。それでも、幕府の中枢にいた人々は、中国・清がアヘン戦争で敗れて、みじめな状況になっていることを知り、西洋列国の近代的な兵器を前にして、口先で「攘夷」と言うのは簡単だけど、本気で実行したら日本も惨憺たる状況になることを心配していました。しかし、朝廷の側に立つ人々は、幕府はもはやあてにならないと思い始めていました。尊王攘夷とは、倒幕でもあったのです。ただ、公武合体、つまり朝廷と幕府とが一体となって難局を乗り越えようという考えも有力でした。薩摩の島津久光もその一人です。

孝明天皇の妹が将軍家茂に降嫁します。もっとも、それには攘夷を実行することという条件がついていました。幕府は、こんな条件は、実行を先送りしたらよいと考えたようです。

そのころ夫を亡くしたモトは尼僧となった。

桜田門外の変が起きて、大老井伊直弼が暗殺された。やがて生麦事件が起き、薩英戦争が起きた。薩摩もそれなりに健闘したが、城下の大半を焼かれてしまった。やはり西洋の新式大砲にはかなわない。

七卿落ちが起きて、長州勢は押し込められた。攘夷を実行した長州藩は西洋4ヶ国艦隊の砲撃を受け、たちまち砲台を占拠されてしまった。

福岡の勤王党に加勢していたモトは、福岡藩から姫島に流刑に処された。同じころ、福岡勤王党の志士14人が斬首となった。

モトは望東尼と呼ばれた。そこへ高杉晋作が救出しにやってきた。

長州征伐の幕府軍を高杉晋作の率いる奇兵隊が打ち破る。しかし、高杉晋作は病気で倒れてしまった。

面白きこともなき世を面白く、これが高杉晋作の上の句。棲みなすものは心なりけり。これは望東尼がつないだ下の句。

当時の社会状況を踏まえての心理描写はさすがです。

(2026年4月刊。2640円)

武器と農具の江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 武井弘一 、 出版 ちくま学芸文庫

現代日本では鉄砲も刀剣も身近にあるものではありません。アメリカでは弁護士のような知識人の家庭でもベッド脇にピストルがあるのは珍しくないようですし、殺傷能力の高い銃器を持つ人は少なくないどころか、ありふれているようです。そして、実際、ひんぱんに学校でも殺傷事件が発生しています。

江戸時代の農村では銃を持つ農民は珍しくありませんでした。しかし、日本刀を少し小さくした脇差(わきざし)を持つ人も少なくありませんでした。刀狩令によって農村から鉄砲、刀剣が消え去ったというのは、まったくの誤解です。

ところが、百姓一揆のとき、百姓が鉄砲を使うことはありませんでした。領主側でも鉄砲を使って百姓側に死傷者を出したというのは、幕末期を除いてはないようです。

山あいの村なら、村高100石につき、鉄砲は15挺まで許すという明確な基準があり、おおむね守られていた。猪、鹿、そして狼がうろうろするので、用心に鉄砲を持てるよう藩に願い出ている。

天保の改革で有名な水野忠邦は火薬の流通を規制することによって鉄砲が不法に使われないようにした。これは悪党(アウトロー)的な策だった。

山間部では猪などの獣害が多発して困っていたので、隠し鉄砲が多かった。

江戸後期には、山間部は耕地化されていたというより、乱伐によって荒廃していた。そのため猪、鹿、ウサギが出没して畑を荒らす。鉄砲は、獣害を防ぐためには欠かせない「農具」だった。

発砲して捕獲した猪や鹿は食用となり、保存食として活用した。獣肉は、百姓にとってタンパク源として大切な食料だった。

江戸時代の農村の実情を知ることが出来る本でした。

(2026年4月刊。1430円)

朝鮮漂流

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 町田康 、 出版 新潮社

江戸時代、文政2年に薩摩藩士ら25人を乗せた船が暴風雨に襲われ、朝鮮国にたどり着いた顛末(てんまつ)です。

末尾に、漢文体で書かれた『朝鮮漂流日記』(安田義方、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 住田文庫)を歴史的事実として創作されたものと注記されています。, すなわち実話にもとづいているのです。

著者の安田義方(よしかた) (30歳)は薩摩藩士であり、沖永良部(おきのえらぶ)島に代官附役として赴任していた。 任務を終えて沖永良部島を出発し、奄美大島まで北上、そこで順風を待ち、トカラ列島の島をへて薩摩に戻るつもりだった。

 出発したのは6月14日。ところがまもなく激しい風雨に見舞われたのです。 烈風は船の人々の頬を殴るように吹き、烈風に殴り倒された人がようやく起きあがると、今度は押し寄せる波濤が人を押し倒す。船にあった真水が残り少なくなった。大釜で海水を沸かして真水をつくる。といっても、真水が大量につくれるわけではない。

ようやく島が見えてきた。しかし山の形からして、日本ではない。では、どこなのか…。恐らく、朝鮮国。

それを知った人々は恐慌をきたしはじめた。恐怖心からくる精神的苦痛に顔を歪め、寒くもないのに身体をガタガタと震わせる。

朝鮮の船がやってきて、来航の目的を問う。 朝鮮の役人は薩摩国の存在自体を知らないので、問答がまったくかみあわない。

お互いのコトバは分からないけれども、幸い漢字という共通語がある。そこで筆談する。これで、なんとか意思疎通はできたのでした。

8月にようやく日本に戻る旅に出航する。そして、文政3年1月に、対馬に至った。

アーカイブという形で昔に書かれた書物が入手できるなんて、本当に幸せです。 そして、今や手間が省けてダイレクトに書かれたものに迫ることができる世の中です。便利な世の中になりましたね…。

(2026年1月刊。3250円)

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