法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

武器と農具の江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 武井弘一 、 出版 ちくま学芸文庫

現代日本では鉄砲も刀剣も身近にあるものではありません。アメリカでは弁護士のような知識人の家庭でもベッド脇にピストルがあるのは珍しくないようですし、殺傷能力の高い銃器を持つ人は少なくないどころか、ありふれているようです。そして、実際、ひんぱんに学校でも殺傷事件が発生しています。

江戸時代の農村では銃を持つ農民は珍しくありませんでした。しかし、日本刀を少し小さくした脇差(わきざし)を持つ人も少なくありませんでした。刀狩令によって農村から鉄砲、刀剣が消え去ったというのは、まったくの誤解です。

ところが、百姓一揆のとき、百姓が鉄砲を使うことはありませんでした。領主側でも鉄砲を使って百姓側に死傷者を出したというのは、幕末期を除いてはないようです。

山あいの村なら、村高100石につき、鉄砲は15挺まで許すという明確な基準があり、おおむね守られていた。猪、鹿、そして狼がうろうろするので、用心に鉄砲を持てるよう藩に願い出ている。

天保の改革で有名な水野忠邦は火薬の流通を規制することによって鉄砲が不法に使われないようにした。これは悪党(アウトロー)的な策だった。

山間部では猪などの獣害が多発して困っていたので、隠し鉄砲が多かった。

江戸後期には、山間部は耕地化されていたというより、乱伐によって荒廃していた。そのため猪、鹿、ウサギが出没して畑を荒らす。鉄砲は、獣害を防ぐためには欠かせない「農具」だった。

発砲して捕獲した猪や鹿は食用となり、保存食として活用した。獣肉は、百姓にとってタンパク源として大切な食料だった。

江戸時代の農村の実情を知ることが出来る本でした。

(2026年4月刊。1430円)

朝鮮漂流

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 町田康 、 出版 新潮社

江戸時代、文政2年に薩摩藩士ら25人を乗せた船が暴風雨に襲われ、朝鮮国にたどり着いた顛末(てんまつ)です。

末尾に、漢文体で書かれた『朝鮮漂流日記』(安田義方、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 住田文庫)を歴史的事実として創作されたものと注記されています。, すなわち実話にもとづいているのです。

著者の安田義方(よしかた) (30歳)は薩摩藩士であり、沖永良部(おきのえらぶ)島に代官附役として赴任していた。 任務を終えて沖永良部島を出発し、奄美大島まで北上、そこで順風を待ち、トカラ列島の島をへて薩摩に戻るつもりだった。

 出発したのは6月14日。ところがまもなく激しい風雨に見舞われたのです。 烈風は船の人々の頬を殴るように吹き、烈風に殴り倒された人がようやく起きあがると、今度は押し寄せる波濤が人を押し倒す。船にあった真水が残り少なくなった。大釜で海水を沸かして真水をつくる。といっても、真水が大量につくれるわけではない。

ようやく島が見えてきた。しかし山の形からして、日本ではない。では、どこなのか…。恐らく、朝鮮国。

それを知った人々は恐慌をきたしはじめた。恐怖心からくる精神的苦痛に顔を歪め、寒くもないのに身体をガタガタと震わせる。

朝鮮の船がやってきて、来航の目的を問う。 朝鮮の役人は薩摩国の存在自体を知らないので、問答がまったくかみあわない。

お互いのコトバは分からないけれども、幸い漢字という共通語がある。そこで筆談する。これで、なんとか意思疎通はできたのでした。

8月にようやく日本に戻る旅に出航する。そして、文政3年1月に、対馬に至った。

アーカイブという形で昔に書かれた書物が入手できるなんて、本当に幸せです。 そして、今や手間が省けてダイレクトに書かれたものに迫ることができる世の中です。便利な世の中になりましたね…。

(2026年1月刊。3250円)

将軍の都の客人   

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

エイミー・スタンリー  みすず書房

これはすごい本です。アメリカ人の学者(女性)が江戸時代末期に生きた名もない庶民の女性の生活を、その書き残した130点ほどの書状をもとに再現していった本です。よくぞこれだけの書状が残されたものだと感嘆しますし、それを学者とはいえ、背景の時代状況を踏まえて再現、解読していくのですから、面白くないわけがありません。それほど書状が残ったのは、実家がお寺だったことも大きいと思います。

越後国石神村のお寺(林泉寺)の住職の娘として常野(つねの)は生まれた(1804(文化1)年春に)。常野は折々に実家へ手紙を送ったが、受け取った父親と兄弟たちは、その手紙を全部、文庫箱に納めて大切に保存した。今は、新潟県立文書館に納められている。

常野は越後の林泉寺を出奔し、江戸で女中奉公を重ね、江戸に定着した。

常野が亡くなったのは1853年5月13日。ペリーが江戸に出現したころのこと。

常野の最後の夫となった博助の主人は江戸町奉行・遠山景元(金四郎)でした。常野はそれまでに三度結婚しているが、申し出を断った相手の男性は5人いる。江戸時代は、結婚も離婚も今よりは簡単だったようですし、再婚も十分可能だったのです。夫に甲斐性がないとみれば、女性はさっさと愛想を尽かして離婚していました。

常野が三度の結婚に失敗したということは、つまるところ従順なタイプではないことを表わす。

越後での結婚にはそれなりにお金がかかっています。婿の実家は、嫁入り支援用に15両を嫁側に渡していますし、結婚式には庶民が23人もやってきて、6斗の酒を空けたようだ。鯨肉1キロ、大きな豆腐8丁、そして漬けたりゆでたりした大根を客たちはたいらげた。

常野の一番初めの結婚は13歳のとき。新郎は大石田にあるお寺だったようです。15年を辛抱して離婚し、いったん実家に戻った。

新潟での江戸時代の農村の生活、そして江戸へ出てからの女中奉公の実情が手紙文の紹介とあわせて詳しく語られています。とても勉強になりました。やはり、日本の女性は江戸時代もたくましく生き抜いていたのです。

この本には、武陽隠士の『世事見聞録』が紹介されていますが、私はあわせて明治時代に熊本の農村に入って実情を紹介した「須恵村の女たち」を思い出しました。

面白い本なので広く読まれてほしいと思います。ご一読ください。

(2026年3月刊、3740円)

公家たちの幕末維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 刑部 芳則 、 出版 中公新書

 いま、庶民つまり、百姓と町人が幕末をいかに過ごし、明治維新をどのような思いで迎えたのかを調べています。とても面白いです。ちなみに、百姓とは正確には必ずしも農業を営む農民に限らないようです。

 15代将軍の徳川慶喜が朝廷に大政奉還したとき、天皇とその周辺の公家・貴族に日本という国を自分たちで治めていく自信があったなどとはとても思えません。江戸時代の200年間、まったく政治にわることなく、窮乏生活を余儀されていたのですから……。

 慶応3(1867)年10月の慶喜将軍からの大政奉還の申出を受けるかどうかの朝議(朝廷における議論)では、政権を返上されたときに朝廷が果たして政務を遂行できるのかが議論された。関白たちは慎重意見だった。しかし、結局のところ、すったもんだしたあげく、大政奉還を受け入れることに決まった。

 徳川家の支配地は従前どおりとし、国政については有力大名の合議によって運営することになった。むしろ、本当に大政奉還がなされるのか、公家たちは半信半疑だった。そして、公家たちの考えは、公家上層部で朝廷を占めて、大名たちは「監察」という副次的な役割を果たすだけというものだった。しかし、それで薩長が納得するはずはない。

 そして、12.9政変が起きた。薩摩・土佐・広島・尾張・越前・福井の5藩が御所(すなわち朝廷)を制圧した。天皇が王政復古の大号令をかけ、新政府の三職が発表された。江戸幕府が廃止され、摂政・関白も廃止された。大宰府から戻った三条実美、そして岩倉具視が議定となった。

 ところが、その後の3年半のあいだに、公家は政府の要職から遠ざけられていった。そして、公家たちは華族となったが、政府内の要職につくことはなかった。薩長土肥の藩士たちが政府の要職を占めた。やはり、力のある者が強いのです。

 公家華族が生活の苦しさからたちまち没落してしまう恐れが出てきた。それを心配した右大臣の岩倉具視は、明治9(1876)年に華族を統括する宮内省部長局を設置し、保護・監視する体制をつくった。

 公家には、京都御所の清涼殿に昇殿できる堂上(とうしょう)と昇殿できない地下(じげ)とがある。公家たちは、家格による身分秩序を基本とし、一族と門流という横のつながりを持っていた。

 和宮降嫁という公武合体策において、岩倉具視は、幕府の求める和宮降嫁を幕主朝従から、朝主幕従へと朝権回復の好機ととらえていた。

 孝明天皇が攘夷にこだわっていたことはよく知られていますが、本当に戦争になったとき、勝つ見込みがないことは理解していた。つまり、孝明天皇は、それほど愚かな人物ではなかったようです。

孝明天皇は慶応2(1866)年12月25日、天然痘で死亡した。孝明天皇というのは、死んだあとの「おくり名」なのですね。生前は何と呼ばれていたのでしょうか……。

 幕末・維新を公家の世界、朝廷を中心としてみた新書です。

(2018年8月刊。990円)

高杉晋作と奇兵隊

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 田中 彰 、 出版 岩波新書

 高杉晋作は、このコーナーで前に紹介したように、幕末の文久2(1862)年に2ヶ月間、中国の上海に渡って滞在しています。密航したのではありません。藩主の許可を得て、幕府の所有する千歳(せんざい)丸に乗って、長崎から上海に行ったのです。上海では、清朝に反抗する太平天国軍と外国軍が応援する清朝の軍隊との戦闘を見聞しています。当時の上海は、イギリスやフランスなどによって半植民地化されていて、中国人は「ことごとく外国人の使役」となっていました。その現実を見て、日本はそうならないようにしないといけないと考えたのです。

 ところが、日本に戻ってきた高杉晋作は、攘夷を実行しようとします。まず、横浜の外人公使を暗殺する計画をたてました。これは実行寸前に計画がもれて、藩主の世子(毛利元徳)から待ったがかかって中止しました。次に、品川御殿山に新築中のイギリス大使館の焼打は実行したのでした。外国の軍事力の強大さを知りながら、なぜ攘夷に走ったのか…。安易に開国したら大変なことになるという、開国論への身を挺しての抵抗運動だった、とされています。

 文久3(1863)年5月10日、長州藩は攘夷を実行した。アメリカ船(ベムブローク号、200トン)を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカとフランスが反撃した。この状況下で、奇兵隊が結成された。「奇兵」とは藩の「正兵」に対する「奇兵」、ゲリラ軍事力。銃隊と弓隊が共存した。

 奇兵隊は、成立当初から藩にとって「諸刃の刃」のような存在だった。奇兵隊は、伝統的な家臣団を無能視するといった批判的な雰囲気が強かった。

 文久3年8月18日に京都で起きた政変によって、長州勢は京都から排除された。七卿落ちする公卿の警衛を奇兵隊は命じられ、両者の関係は深まった。

 元治1(1864)年6月5日、京都で池田屋事件(騒動)が起きた。このとき、奇兵隊員の2人が負傷(のちに死亡)した。さらに、7月18日から禁門の変が起こり、長州勢は会津・桑名・薩摩を中心とする幕府軍と戦って敗れた。この変に、奇兵隊は参加していない。

 引き続いて、8月2日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関(馬関)を攻撃した。総司令官はイギリス海軍中将のキューパー、副司令官はフランス海軍少将ジョーレス。軍艦17隻。その狙いは長州藩を撃破することによって、もはや鎖国は不可能なことを思い知らせることにあった。逆に言えば、全面戦争にならず、開港しているところには危険を波及させないようにしていた。なので、幕府にも知らせていた。幕府は、朝廷から長州藩追討の命を受けて、準備をすすめていた。

 8月5日、四国連合艦隊の砲撃が始まると、長州藩の砲台はたちまち壊滅し、その大砲70門は全部が持ち去られた。

 このとき、地上の白兵戦で長州藩は小銃のほか、槍や刀そして弓矢を使用した。長州藩の兵士の身につけた鎧(よろい)は小銃の前には役に立たなかった。それでも弓矢のほうは意外に威力を発揮した。

 幕府による第二次征長戦は、各地で農民一揆・都市騒擾・村方騒動が起きるなか、7月20日に将軍家茂が大坂城で死亡したことで休戦となった。翌、慶応3年4月14日、高杉晋作は29歳で亡くなった。暗殺されたのではなく、病死でした。

奇兵隊と同じような組織(兵制)を久留米藩もつくっています。惣兵隊といいます。武士層は面白くなかったようです。

(1985年10月刊。480円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.