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カテゴリー: 日本史(戦前)

兵士たちの戦場

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴) 

著者 山田朗 、 出版 岩波現代文庫

私も靖国神社には見学に行ったことがあります。太平洋戦争でたおれた「英霊」がまつられているというのですが、「アジアを解放した戦争」という宣伝臭がぷんぷんしていました。ところが、この本を読むと、日本兵はとくに南太平洋では餓死、病死がほとんどだということが分かります。敵(アメリカ軍)弾によって殺されたのではありません。日本軍上層部が補給もなしに密林に送りこみ、放置したため、食べ物がなく、病気になっても薬はなく、日本兵が無惨に放置されて死んでいったのです。こんな扱いを受けた彼らが靖国神社に祭られて喜んでいるとは、私にはまったく見えません。餓死させられる寸前にあったものは、絶望と怒りだったと思います。自分たちは、これで日本国を守ったなんて思ったはずはありません。無責任な軍上層部への怒りにみちみちて、彼らを呪いながら死んでいったことでしょう。

軍事史研究の第一人者である著者は854点の戦争体験者の回想録を読んで検証し、再構成しています。1100人以上の人が登場します。

死んだ人は回想録を書くことが出来ません。生き残った人は生還した喜びと同時に、自分だけが生き残ったことへの「申し訳なさ」を語っています。

「戦争は人間が始めるものだが、戦場では、個人の力では終わらせることはできず、自らの生死も、その死に方も自分では選択できない」

フィリピン戦線で、日本はルソン島に28万7千、ネグロス・レイテ等に15万人、ミンダナオに10万人を投入した。ところが、初めから食料は乏しく、日本軍兵士はたちまち飢餓地獄に陥った。ネグロス島では1万3500人の日本兵のうち生き残ったのは3千人、6千から7千人が餓死した。

ビルマのインパール作戦において作戦が失敗し、撤退していくとき「後尾収容班」がつくられた。これは、落伍兵に肩を貸すところか、動けなくなった兵隊に自決を強要し、それを拒否されると射殺したり、注射して毒殺していった。インパール作戦では、撤退作戦を含めて戦死3万、戦病死・餓死2万をだした。

風船爆弾は9300発が放たれ、うち1000発がアメリカの土地へ着弾し、民間人6人が死亡した。日本軍は、風船爆弾に致死性の高い牛疫ウイルスを載せようとした。食肉牛を殺すことによってアメリカにパニックを起こし、戦意を喪失させようというもの。しかし、直前になってストップされた。同じようなことをアメリカ軍から報復としてやられるのを恐れたからだ。

繰り返しになりますが、日本軍は食糧その他の補給のことをまったく考えなかったのですね。これは、今のタカイチ政権が日本を守るため軍備と称してを大増強していますが、では、日本海側にたくさんある原子力発電所を守れるのか(守れるはずはありません)、ということをまったく考えていないことと同じです。

日本人を守るというのではなく、戦争をビジネスとして考え、軍需産業を肥え太らせ、それによって自分たちだけはぬくぬくともうかるという仕組みです。

昔も今も、「戦争屋」は、自分のことしか考えていないのに、多くの国民はそれに乗せられてしまっている悲しい現実があります。ぜひ、多くの人に読まれてほしい本です。

(2025年7月刊。1760円)

日本の戦争

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴) 

著者 安島 太佳由 、 出版 安島写真事務所

あの無謀きわまりない太平洋戦争に突入していった戦前の失敗を、今またタカイチは「自分は当時は生きていないんだから、反省なんかしない」とうそぶいて、戦争する国づくりに狂奔しています。恐ろしいことです。

太平洋戦争とは、どんな戦争だったのか、それを視覚的にとらえることのできる小冊子です。著者は30年間にわたって、国内外の戦跡を写真撮影してきました。

私が著者の写真集を初めて見て衝撃を受けたのは、愛知県知多半島南部にある中之院の軍人像の写真です。一般兵士の92体もの軍人像は、まるで戦場の兵士たちが目の前にいるかのように精巧かつ表情豊かなのです。中国の上海戦において倒れた若き兵士たちの像です。みんな、本当は生きたかったんだよと叫んでいるかのように思えました。迫力がありました。

著者は硫黄島にも行っています。そして栗林中将がいた狭い司令官室にも入ったのでした。地獄のような地下洞窟で戦わされ、ほとんど全滅した兵士たちが哀れです。

私は知覧(ちらん)特攻平和会館には行きましたが、近くの万世特攻平和祈念館には行ったことがありません。というか、そんな祈念館があること自体を知りませんでした。ここに、17歳の荒木伍長が笑って子犬を抱いている有名な写真があるのです。

ガダルカナル島は、餓島(がとう)(飢餓の島)として有名です。日本軍の戦死の6割は栄養失調による餓死です。補給をまったく考えない日本軍の体質を反映しています。

ペリリュー島にも行ったとのこと。平成天皇夫妻がはるばる出かけたことで有名になり、すぐれたマンガが出来て、アニメにもなりました。ごく一部の兵士のみが生きのびたことでも有名です。

貴重な写真が満載の本です。ご一読をおすすめします。

(2026年7月刊。2500円)

大正天皇

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 草森紳一、平山周吉 、 出版 コトニ社

明治天皇と昭和天皇にはさまれて、大正天皇の影はかぎりなく薄い。ところが、本書では、大正天皇は自由な精神をもった芸術家肌の君主だとされています。

大正天皇と原敬は特別に親密な関係をもっている。大正天皇は、人一倍、感受性が豊かだった。大正天皇は、幼時より、礼式を嫌い、籠の鳥となるのを嫌い、「操り人形」にしにくい個性だった。伊藤博文は、それを知悉していた。なので、「不運なこと」だと嘆いた。

大正天皇が国会の開院式で、勅語を読み上げたあと、その勅語を遠メガネのようにしてのぞきこんだというエピソードによって、頭の弱い天皇だというイメージがつくり出されたが、これは事実あったことではないらしいのです。

大正天皇は漢詩をよくした。その面倒な決まりである「平仄(ひょうそく)」の合わせかたも自在だった。

大正天皇は書もよくした。その運筆は、天衣無縫と評された。

明治天皇は読書を嫌ったが、大正天皇は、夜12時過ぎまで読書していた。

大正天皇は、まだ皇太子であったとき、全国をはつらつとまわった。神出鬼没、その際には、庶民や子供にも気軽に話しかけた。帝国憲法下の天皇陛下とはおよそ思えない、まさしく「人間天皇」と呼ぶべき、機智に富む、お茶目な「現人神(あらひとがみ)」未満の君主像を体現した。

大正天皇は、副島種臣と書において並んで、別格の存在だった。大正天皇の書は、まるで無規制、おうようで、無心、臆面もない野放図さがあった。

大正天皇は「軍部大臣現役武官制」だったものを「現役」を削除するのに大きな役割を果たした。これによって、予備役の陸海軍大将や中将でも大臣がつとめられるようになった。「現役」の2字があるかぎり、陸海軍が大臣を出さなければ、内閣は成立しない。内閣の生殺与奪を軍部が握る危険があった。これを解決した。

これは大正天皇に政治的なセンスもあったということです。

この本は、大正天皇を見直すという貴重な機会を与えてくれました。

(2026年2月刊。2750円)

関東大震災・虐殺の謎を解く

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 渡辺 延志 、 出版 筑摩書房

 日本人は「不逞(ふてい)鮮人」を恐れていた。なぜ、関東大震災が起きたとき、被災地の日本人が「不逞鮮人」が暴れているとの流言をなぜ信じたのか、なぜ、とんでもない流言に恐怖を覚えたのか……。恐らく、それは明治以来の近代日本が生み出した幻影だった。

 五大国に数えられ、列強の一つと自負する地位を得た日本だったが、国力は伴っていなかった。植民地支配でも、朝鮮の人々の抵抗は強まっていたが、何を意図して抵抗しているのかを把握できていたとは思えない。多くの日本人はどうしたらいいのか分からなかったのだ。

 そうした恐怖や戸惑い、そして得体の知れない不安を合わせたイメージとして日本人の胸の中に生み出されたものが、「不逞鮮人」という幻影ではなかったか……。

 どうでしょうか。この指摘は現代日本における外国人排斥と共通していますよね。毎日の生活の中で積み重なっていく、うっ屈とした不満と将来に対する不安が「外国人」排斥を叫ぶことによって、少しでも「解消」する気分を味わいたい、そんなところが大きいのではないでしょうか……。

 現代日本では、外国人抜きに社会が成り立たないという現実があります。コンビニの店員で外国人がいないほうが少ないですし、病院や介護施設にも主として東南アジアからやってきている介護師・看護師がたくさんいて、成り立っています。もちろん各種の製造現場もそうです。ところが、日本人は若い人も中高年層も不満だらけで、先行きの不安が強まる一方です。タワーマンションを買える人がどんどん増えているといいますが、それはごく一部でしかありません。

 関東大震災が発生したのは、1923(大正12)年9月1日の正午の2分前のこと。マグニチュード7.9で関東地方は震度7。10年前の熊本大地震も震度7だったのではありませんか。私の住むところでも震度5近かったと思います。心が震えるほど怖い思いをしました。

 関東大震災では火災が至るところに発生して、死者10万人超となりました。そのなかで朝鮮人等の大虐殺が起きました。加害者の大半はフツーの日本人です。中国人そして少なくない日本人が間違われて殺されました。

 ところが、殺された朝鮮人の被害者数が今に至るまで判明していないのです。日本政府は他人事(ひとごと)のように「事実関係を把握できる記録が見当たらない」と答弁してすませています。許しがたいことです。

 無政府主義者(アナーキスト)として高名な大杉栄殺害事件の主犯である甘粕正彦憲兵大尉は軍当局から手厚く処遇され、一時期フランスへ飛ばされたあと、満州に渡って満映の理事長までつとめています。

 関東大震災という自然災害が起きたとき、政府の治安当局は、ロシア革命や米騒動そして朝鮮における抗日暴動が日本でも起きやしないかと脅えていた。民衆の暴動に対する恐怖心から、朝鮮人の虐殺を指示し推進していったのではないか……。

 「不逞鮮人の放火によって全市火の海と化……」「付近鮮人不穏の噂」。こういう電報が内務省警保局長から発信されている。まったくのガセネタを国が送り恐怖をあおった。

「不逞鮮人が襲ってくる」という流言は、東京で9月2日午後から爆発的な勢いで拡散した。もちろん、今のようにケータイもない時代ですから噂話が人から人へ拡散していったのでしょう。SNSでデマ(フェイクニュース)が拡散している今日と似た状況が生まれたわけです。いったん理性を喪失すると、フダンは善良なる民衆が凶暴な暴徒と化し、そして正義の鉄槌を「不逞鮮人」にためらいなくおろすという惨劇を生んだことになります。今日も生かすべき重大な教訓です。

(2025年7月刊。2090円)

落とされなかった原爆

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 鈴木 裕貴 、 出版 人文書院

 ヒロシマとナガサキ、もちろんアメリカが原爆を投下した都市です。今、朝鮮人の被爆者がいると言うと、朝鮮半島にも原爆が落とされたのかと質問する若い人がいるそうです。原爆投下のことが意外に知られていないのですね……。

 アメリカは、原爆投下の対象として、まず17都市をあげた。次に5都市にしぼった。京都、広島、横浜、小倉、新潟。最終的には、京都について陸軍長官のヘンリー・スチムソンが反対して除外され、新潟は距離的に遠いので外された。代わりに、広島、長崎、小倉が対象地となった。広島に次ぐ2発目の第一目標は小倉造兵廠と市街地だった。第二目標が長崎中心部。

ボックスカーが小倉の上空に到達したとき、一面の雲に覆われていて、目視確認ができなかった。1時間ほど上空をウロウロしたあげく、長崎に向かった。それで、広島が8時台なのに、長崎は11時台になった。帰りの燃料が心配となって、ボックスカーは沖縄に立ち寄ってテニアン島に戻った。

広島が原爆でやられた直後、「次は小倉だそうだ」という噂がとんだ。どうして、こんなことが言えたのでしょうか……。

小倉が狙われたのは、風船爆弾をつくる工場があったからという話が紹介されています。アメリカは、そんなことまで知っていたのですね。日本人スパイがいたとは思えませんが……。

新潟も原爆投下の対象地でした。それで、大規模な空爆を受けていません。逆にいうと、大規模な空襲を受けていないのは、かえって危ないというわけです。京都もそうでした。広島、京都、新潟は、アメリカ側は通常爆撃禁止地域としていたのです。

そこで、広島に原爆が投下されたあと、新潟県の畠田昌福知事は8月10日、新潟市民に疎開するよう布告しました。国による指示はなく、独自の判断でした。新潟市はたちまち全市が空っぽになったとのこと。知りませんでした。

横浜は5月29日、3月10日の東京大空襲に匹敵する、いやそれ以上の精密じゅうたん爆撃を受け、全市が壊滅した。これは原爆投下予定地から解除されたから。

京都は原爆投下対象都市として「AA級」とされていた。AA級は、ほかに広島だけ。四方を山に囲まれた盆地であり、木造建築が多かったから。

 長崎は、京都が外されたことから、その身代わりとなった。京都を除外したのはアメリカ陸軍長官のヘンリー・スチムソン。弁護士であり、京都を訪れたこともあった。戦後の日本占領政策も考慮したうえのことなので、トルーマン大統領の同意も得ていた。

ところが、マンハッタン計画の総指揮官のレスリー・グローブズはなんとしても京都に原爆を投下しようとしていた。そこで、最後まで、京都を通常爆撃禁止区域としていた。3発目の原爆は京都に投下するつもりだった。

京都が原爆投下対象地から外されたことについては、いくつかの伝説があるようですが、スチムソン長官の尽力があったからだと本書はしています。

興味深い内容が盛り沢山の本でした。

(2025年11月刊。2200円)

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