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カテゴリー: 日本史(中世)

税と権力

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)

著者 似鳥 雄一 、 出版 早稲田新書

中世人はどうして税を払うのか、というサブタイトルのついた新書です。

私の事務所は消費税に苦しめられています。10%を一律5%に引き下げてほしいというのが、目下の私の切なる要望です。だって、 消費税は不公平です。トヨタのような輸出企業は戻し税として消費税は支払うものではなくて、もらうものです。そして、消費税の目的が福祉の充実だなんて嘘っぱちです。健康保険の自己負担割合は1割から2割、そして3割に上がりましたし、介護保険料もどんどん値上がりしています。やめてほしいです。こんなムチャクチャな税は……。タックス・ザ・リッチ。大金持ちの税率をもっと引き上げるべきです。税金と聞くと、私はすぐに興奮してしまうのです。

そして、この本は、中世人はなんで税を払っていくのかと問いかけています。なるほど、考えてみれば、不思議ですよね。今は税務署があって、目を光らせていますが、中世にそんな役所はなかったのに、それなのに税を支払ったのは、なぜなのか……。

中世には荘園というものがあった。まずは開発し、人々の生活を安定させ、そこから税を取り、うまく運ばせることで荘園の目的が果たされる。その達成と挫折の歴史が中世という時代だ。すなわち、荘園は、中世において税を取り、税を払う最大の場である。

税は、支払った者への対価として財・サービスをその場ですぐに提供するものではなく、徴収されたあとに運用され、再分配されることがうたわれていなくてはならないもの。

8世紀前半の日本の総人口は450万人ほど。そのうち20万人が兵士として登録されていた。ちなみに、現代日本の自衛官も22万人ほど(定員25万人を満たしていない)。

荘園と言っても庄園としても、どちらも間違いではない。

律令国家では、皇室領・公領、寺社の官田・御厨(みくりや)・御田(みた)・御園(みその)。 位田(いでん)・職田(しきでん)・勅旨田(ちょくしでん)・親王賜田(しんのうしでん)・神田(しんでん)・寺田(じでん)など、多様な名称のもとで土地を所有していた。

受領は一族とともに郎等を任国へ引きつれていった。受領の秘書官・代理人として 「目代」(もくだい)が活躍した。

百姓は安堵を求め、領主はそれに応えて撫民に努めなければならない。

「地頭」には、現地という意味がある。荘園の現地を任される荘官の呼称の一つが地頭。 地頭たちを国ごとに統率する役割を負ったのが守護。

源頼朝が到達した最高の官職は、権大納言・右近衛大将で、大臣には届いていない。

中世には、無償の忠誠などという一方的なものは存在しなかった。

中世という世の中を、税という側面から眺めてみる本です。勉強になりました。

(2026年4月刊。1320円)

日曜日に仏検(フランス語検定試験)1級を受けました。福岡の会場の受験者は16人でした。仏検は、もう30年来、受けています。準1級には10回、合格しましたが1級のほうは、とてもとてもです。6割とらないといけませんが、今回の自己採点は50点(150点満点)なので、4割もとれません。でも、ボケ防止ですので、年2回の受験に向けて、朝、晩、1ヶ月間は集中して準備します。なにしろ過去に受けた問題冊子だけでも30枚もありますので、振り返るのも大変です。残念なことに、毎回、新鮮な気持ちです。つまり、どんどん単語を忘れているということなんです。

 でも、くじけず、ひき続き、がんばります。

遊女の中世史

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)

著者 辻浩和 、 出版 吉川弘文館

昔から、売春は最古の職業だとよく言われています。売春は人類の歴史に普遍的なものだというのです。著者は、これは歴史的事実ではなく、神話に過ぎないと言います。このように言ったのは、イギリスの19世紀の小説の中でのことであって、学者が研究した成果ではないというのです。

日本では、売春が成立するのは、平安時代、9世紀後半以降のことであって、奈良時代より前には、売春という概念は存在しなかった。

遊行女婦(ゆうこうじょふ)という存在がある。貴族たちの宴会に同席し、歌をよんだり歌ったりする専門職人。遊行女婦と男たちの性的交渉は通常の男女関係と区別されていなかった。これは、売春として婚姻と区別する概念がそもそも成立していなかったということ。遊行女婦は遊女と同一視できない。

11世紀の遊女は、歌手として認識されていた。 芸能が重視されていた中世遊女にあっては、報酬が事後的に渡された。 売春が主目的となると、報酬は事前の交渉で取り決められる。

中世の遊女は、宿泊業や歌謡を重要な生業として営んでいたが、売春も重要な生業の一つだった。

中世の遊女に触れる史料のなかには、例えば、高齢の遊女が存在する。50歳ほどの遊女がいる。当時は寿命が短く、40歳から老いた人とみなされるので、40代、50代の遊女は、かなりの高齢ということになる。 つまり、中世遊女の生業を売春だけで理解することはできない。

中世の遊女は、家業を営む自営業者だった。 遊女集団は年功序列によって成り立っていた。 遊女集団は、メンバーの生活を守る、相互扶助的な側面をもっていた。 遊女集団はトラブルにおいて集団防衛を辞さなかった。

遊女は、一家の大黒柱だった。 遊女の長者は世襲された。

事前の交渉において重要なことは、客が気に入らないときには、その場で交渉が不成立となること。これは、客側の立場を強くし、客側が遊女を選ぶという意識の強化につながる。 遊女は、その見た目と価格とを比較した上で選ばれる「商品」になっていった。

中世の遊女なるものの実体を理解することができました。

(2026年4月刊。1980円)

武士の衣服から歴史を読む

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 佐多 芳彦 、 出版 吉川弘文館
 武士の衣服は、絵画に図像化されているので、その図像をイラストにもしたうえで解説している本です。
 有名な『信貴山(しきざん)緑起絵巻』『伴大納言絵巻』『男衾(おぶすま)三郎絵詞(えことば)』『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』などに描かれた武士の衣服を対象として解説されています。
 「直垂」は「ひたたれ」と読みます。武家の代表的な衣服です。鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされ、風折(かざおり)烏帽子(えぼし)や長袴(ながばかま)とともに着用されました。
 袖細(そでほそ)直垂は、袖が現在の和服のような袂(たもと)をもたず、細めの筒状のもの。袖は、現代人の洋服のように細い。
 鎌倉時代、武士相互のヒエラルキーの視覚指標化が進んだ。
 鎌倉時代の直垂は、絹製のものと布製のものが使い分けられた。
 室町時代は、直垂といえば絹製の裏地のある袷(あわせ)の仕立てのものをさす。そして、これが礼装として、武家服制の頂点にすえられた。直垂が礼装に格上げされたことから、本来の日常着・労働者の面、そして平時の正装を担う大紋や素襖が生まれた。
 足利将軍の家礼を貴族が武士の身なりをして勤めた。
江戸時代には、利便性を優先した肩衣(かたぎぬ)や武士個人の自由な選択が保証された胴服のような衣服が生み出された。
 江戸幕府の服制は、鎌倉幕府以来の武家服制、室町幕府末期から戦国期の衣服と服装習慣を一つにまとめ、そこに朝廷遺族社会の身分秩序である位階制度を組み合わせた。武家の官位の目的や意図を服制を用いて視覚化したのだ。
 木綿(もめん)が日本に伝わったのは、中世の、応仁年間(1467~69)の頃のこと。つまり戦国時代に広まった。したがって、その前の中世前半期にはまだ木綿は存在していなかった。
 『蒙古襲来絵巻』をみると、鎌倉時代の武家社会では、上位者は直垂、下位者は袖細というヒエラルキ
ーが見てとれる。
 源頼朝は、威儀を正す必要のあるときは、必ず水干(すいかん)を着た。鎌倉幕府の家人たちの射芸のおりの正装は水干だった。鎌倉幕府の実権を握っていた執権たちも水干を着た。頼朝は公的な場では水干を好んで着たが、日常生活や通常の政務などでは、狩衣や布衣(ほい)を着たり、ときに直垂を着ていた。
 たくさんの図があり、解説されていますが、残念なことに私には違いがよく分かりませんでした。でも、それなりに分かったこともありましたので、ここに紹介します。
(2023年10月刊。2200円+税)

もうひとつの平泉

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 羽柴 直人 、 出版 吉川弘文館
 平泉の中尊寺、そして金色堂には行ったことがあります。それはそれは見事なものでした。東北のこんなところに、京の都に優るとも劣らない堂があること、そして戦火で焼失することもなく、今に残っているのは、奇跡的としか言いようがありません。
 平泉の文化を築いた奥州藤原氏は中央の藤原氏に連なると同時に、土着の安倍や清原にもつながっている。
 この本は、平泉から北へ60キロメートル離れている「比爪(ひづめ)」にも、平泉とは別の奥州藤原氏がいて、この両者は、お互いが独立性を有する対等で並列な関係にあるとしています。まったく知らない話でした。そして、源頼朝が弟の義経とともに打倒した平泉の藤原一族が滅亡しても、比爪のほうは独自の動きをしていたというのです。
 12世紀の日本では、陸奥国が日本国の東端と考えられていた。平泉が陸奥国府よりも奥に位置し、比爪はさらに奥に位置する。
 奥州藤原氏の仏教信仰は阿弥陀如来信仰ではなく、薬師如来だった。
 12世紀当時、長子相続は確立しておらず、本家・分家といった概念も強い束縛はなかった。兄弟であっても、本家と分家であっても、器量や実力のある者が主導権をもち、勢力を伸張していく時代だった。これは陸奥国だけでなく、当時の日本国の一般的な状況だった。
 比爪にとって最大の重要事は、閉伊と北奥の経営だった。比爪の志向は東と北に向いていた。そして、平泉にとっての重要事は、奥六郡よりも南の地域での勢力拡張と維持だった。平泉の志向は西と南に向いていた。そして、平泉と比爪の双方にとっての重要事は、北奥の産物をめぐっての利益配分の調整だった。両者の利害関係の均衡の維持が奥州藤原氏の繁栄の大きな要因だった。
 源頼朝が平泉征伐するとき、源義経を打倒することから平泉政権自体を打倒することに目的がすり替わった。このとき、比爪の藤原氏は自ら戦いに加わらず、自らの拠点比爪からもいったん退いて、状況をうかがった。
 比爪方は、平泉の泰衡を比内で謀殺することを決めていて、頼朝も承知していた。これが、著者の推測です。そして、比爪の名分を守るため、泰衡を謀殺したのは泰衡の郎従(河田次郎)によるものと公表した。河田次郎は斬罪に処せられ、そのあと比爪の藤原一族は頼朝のもとに投降し、許される。とはいうものの、比爪の藤原一族は、結局、消滅したようです。そこが歴史の複雑怪奇なところなのでしょう。
 ともかく、平泉の北60キロメートルの地点に、別の藤原一族がいて、並立し、共存していたという話を初めて知りました。
(2022年8月刊。税込1870円)

安倍・清原氏の巨大城柵

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 浅利 英克 ・ 島田 祐悦 、 出版 吉川弘文館
 奥州藤原氏は、藤原氏と名乗ってはいるものの、京都の藤原氏とは縁のない、蝦夷(えみし)の血筋を引く在地豪族とされることが多かった。
 しかし、今では、安倍氏も清原氏も、父系出自は、中央氏族にあるとされている。つまり、安倍・清原氏は、安倍朝臣(あそん)、清原真人(まひと)氏に父系出自をもち、蝦夷系の血統を引く現地豪族に母系出自をもつ、「両属的」な氏族だった。
 平安時代、陸奥(むつ)国には、奥六郡と呼ばれた地があった。奥六郡とは、阿弖流為(あてるい)ら蝦夷(えみし)と呼ばれた人々と中央政府(ヤマト政権)との戦いのあとに、中央政府が支配するために置かれた郡。
 奥六郡を管轄していた胆沢城は、中央政府(ヤマト政権)が律令国家として統一を目ざすにあたり、延暦21(802)年に坂上田村麻呂によって、造営された。
 私は阿弖流為なる蝦夷の大将がいたことを少し前まで知りませんでした。その活躍ぶりを初めて知ったのは、高橋克彦の『火怨(かえん)』(講談社)でした(2000年2月)。そして、熊谷達也の『まほろばの疾風(かぜ)』(集英社)を同年9月に読み、久慈力の『蝦夷・アテルイの戦い』(批評社)を2002年9月に、さらに、樋口知恵の『阿弖流為』(ミネルヴァ書房)を2014年1月に読みました。いやあ、すごい人がいたものです。驚嘆しました。
 結局、アテルイは戦いに敗れ、京都に連行され、そこで処刑されてしまうのですが、東北の人々の不屈の意思はきっちり表明したのです。まだ読んでいない人には、一読を強くおすすめします。昔から日本人が長いものには巻かれろというのではなかったことを、現代に生きる私たちは学ぶべきだと思います。
 この本では、アテルイについて、「大墓公(たいものきみ)阿弖流為」と表記されています。
 安倍氏の出自としては、安倍頼良(頼時)は、五位の位階があった、れっきとした中央の官人だった、とされています。清原氏のほうは、都の清原氏が出羽国の有力氏族と婚姻関係を結ぶことによって清原氏が成長・成立していったと推測されています。
 この本は、巨大な城柵を現地の写真と図解で紹介していますので、イメージがつかめます。
 出羽国の古代城柵にはなく、清原氏の館(城・柵)にあるのは、四面廂(ひさし)建物、土塁と堀、段状、地形。
 東北の陸奥国で栄えた奥州藤原氏の前に存在した安倍・清原氏の巨大城柵を現地の写真とともに紹介している本です。
(2022年7月刊。税込2640円)

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