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カテゴリー: 日本史(古代)

ヤマト王権と難波・河内

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴) 

著者 吉村 武彦 、 出版 角川選書

皇室典範が改正されました。女性天皇の出現を絶対に認めないというタカイチをはじめとする極右の連中の執念の表れです。

この人たちは、明治以来の「伝統」を、はるか昔からある伝統かのようにウソをまことしやかに言い立てています。日本史を少しでもまともにかじった人なら、女性天皇は昔から日本には8人もいた事実を無視できないはずなのですが……。そして、「126代」万世一系だなんていうのも真っ赤なウソです。継体大王は「万世一系」とは無縁な存在です。

そして、古代の天皇家では、親と子、兄弟同士が殺しあうのがフツーにあっていたのです。平和的に世襲されたこともあったというべきだと私は考えています。

古事記も日本書紀も、女帝で終わっている。古事記のほうは推古天皇で、日本書紀は持統天皇。これを著者は偶然の結果だと考えていません。両天皇とも、孫ないし孫の世代に王位を継がせている。2人とも、ヤマト王権の中で、重要な位置をあたえられた女性天皇だ。 

女性天皇は中継ぎだと軽く見下す考えがありますが、まったくの間違いです。だいたい、日本最古(最初)の王はアマテラス大神という女王なのですよ……。

古い時代には、天皇の生存中に、次の新天皇を指名するという制度はなく、そうではなくて、「群臣推挙」という手続きが必要だった。新天皇は群臣から選ばれるが、新天皇の即位とともに、群臣の地位は、いったん解除され、新天皇によって新しい群臣が任じられ、仕奉(しふ)関係が築かれた。

推古天皇のときの聖徳太子について、厩戸(うまやど)皇子は、まちがいなく天皇位に就いていなかった。

古事記も日本書紀も、ともに初代の天皇とするのは、第10代の崇神天皇である。なぜか……。

7世紀代には、飛鳥に王宮が集中しているのは、蘇我氏の影響が強いから……。

卑弥呼の墓はまだ見つかっていない。箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墓と比定する人がいるが、それはありえない。

前方後円墳が天皇個人として営まれるのは継体大王で終わり、その後は合葬陵が多い。ヤマト王権は、いくつかの古墳を築造した民族集団から形成された。いろいろ勉強になりました。

(2026年1月刊。2530円)

縄文美術館

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴) 

著者 小川忠博(写真) 、 出版 平凡社

日本列島に住んでいた古代の人々が、こんなにも芸術力が高かったのかと、驚くばかりです。縄文時代の土器・土偶750点が紹介されています。まさに決定版そのものです。

地球全体がまだ氷河期にあった1万年前、朝鮮半島から九州に上陸した人々は、やがて日本列島各地に拡散していった。

土器を縄文人がつくり始めるとき、参考にする先例はなかった。真の創造があり、創作がなされた。なるほど、それまでのモデルというものはなかったのですね。これは大きいですよね。写実性と独創性が融合しているのは、そのせいなのですね……。

黒曜石によってカミソリのような鋭い刃をもつものが出来る。神津島出身の黒曜石が海を渡って、本土で発見されている。

旧石器人は、金属を使うことなく、硬い石に径数ミリという穴を開けた。これって、すごいことですよね……。土偶が何かを手にしているのは、乳児と土器だけ。お腹に手を当てた妊婦の土偶は、中近東やアメリカ大陸でも見かける。

この当時の平均寿命は40歳くらい。縄文人の足跡が粘土に残っている。23.5センチの大きさ。

縄文人の食材は、森のドングリ、野山の動物、それに魚だ。ドングリなどの木の実を大量に貯え、保存、食用、食糧を確保し、依存していた。

縄文人は弓矢もつくり出し、矢の先には黒曜石のやじりをつけている。弓はイヌガヤで作っている。

狩りをするときの大きな助っ人は犬だ。犬も土偶になっている。サルやシカも獲っている。イノシシは大きな獲物。たくさんの土製品が残っている。

縄文時代の木製品は、低湿地の粘土のなかに保存され、発掘された。縄文人は、果実を醸し、酒をつくっていた。アスファルトが、土器や土偶の接合、補修に使われている。

縄文人は釣りもしていましたし、鹿の角で裁縫い針もつくっています。耳飾りはピアス式です。耳に骨針(8センチもある)で穴を開けていました。大きな耳飾りは、土製ですが、透かし彫りなので、とても軽いそうです。櫛もあります。縄文人はネックレスもしていました。土偶にもあります。

ヒスイなど硬い石に丸い穴を開けるのは大変だったと思います。細い竹や鳥の骨にヤスリの役割をする硬い砂をつけながら回転させて揉み切りして、穴を貫通させました。とても辛抱強い作業だったと思います。

土器の始まりは、丸底や平底。それが次には底の尖った土器となりました。逆ではありません。地元の粘土を使い、砂目、雲母そして繊維を加えます。ロクロは使っていません。

火焔(かえん)土器と命名された土器は、まさに見事な芸術品です。外側には文様をつけ、内側は、貝殻や丸石で磨いて、水漏れの少ない土器を焼き上げました。

縄文人のランプもあります。私は初めて見ました。縄文土器とは、なぜか平皿(プレート)はありません。すべて深皿です。しかも直径20〜50センチもあります。

縄文時代中期の土器には、過剰なまでの文様がきめついています。そして、とても細かいのです。ベンガラを使った赤漆の土器もあります。いい手な赤色です。

縄文土器にはイノシシとともにヘビが多く登場します。それほど身近だったということなのでしょう。オオサンショウウオやマムシもいます。

縄文時代の土偶は全国で2万点以上も出土しているそうです。これまた、すごいことです。ゴーグルをつけたような土偶は、ひところ宇宙人説として騒がれました。

「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶は、いつ見ても、ほれぼれします。高さ27センチもあるそうです。一度は実物を拝みたいものです。

全国の図書館に一冊は常備して、多くの人に手に取って見てほしい美術品ばかりが紹介されている本です。

(2025年12月刊。3800円+税)

継体天皇

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴)

著者 河内春人 、 出版 中公新書

えっ、タイトルを見て継体って大王じゃなかったの…と思いました。もちろん、本文では「本当は継体大王だ」として紹介されています。

日本は昔から万世一系の天皇がいたのではありません。「万世一系」といのは、まったく史実に反します。

継体大王は、血縁的系譜を確実にさかのぼることのできる「最初の大王」。それまでの日本では、王族の内部に大王を輩出する王族集団が複数存在しており、近親が継承するとは決まっていなかった。政治的には統合しているものの、ヤマト政権が中央集権的に支配しているというイメージとは、ほど遠かった。

「万世一系」のはずの大王の血筋が武烈大王で途絶えて、世の嘆きとなった。そこで、越の国に応神天皇の五世孫の息子がいると知り、探し出し皇位につけた。

そして継体大王が死ぬと、その3人の息子、安閑・宣化・欽明が大王を即位して承継した、というのです。「万世一系」は断絶したのです。

ところで、初めて知って驚いたのですが、高校の日本史で継体大王の名前がまったく登場しないというのです。腰が抜けるほど驚きました。世襲王権は継体大王のときに始まった朝鮮半島との関わり、磐井(いわい)の乱など、継体大王は天皇制の確立を論じるのに欠かせない存在だと思うのですが…。

この当時、中国との外交は既に100年以上も中断していた。前方後円墳の築造も終わりかけている。

氏姓(うじかばね)は、ひっくりかえった。5世紀は、国王と王族のみが姓をもち、豪族以下は無姓だった。ところが、6世紀になると、大王と王族が無姓で、豪族以下が姓をもつ、氏姓制度が成立する。いやあ、私は、これも知りませんでした。

「万世一系の天皇」といいますが、5世紀の天皇(本当は大王)たちは、お互いに殺し、殺される非道の報復を繰り返していました。

「常に乱暴で恐ろしい」安康天皇は、殺され、雄略天皇が即位した。雄略天皇が亡くなると、内乱が起きている。

倭王権は、各地の有力集団を屈服させ、その上に君臨するという権力をもってはいない。継体大王の前の武烈大王が残虐だったというのは、架空の事実とされています。五世孫の即位を正当化するための論理(ロジック)だといいます。

大王から天皇にいつ変わったかというと、7世紀のこと、天武あるいは天智朝である。

継体大王の時代、日本列島と朝鮮半島は双方向の交流をしていた。

大王の言葉をもって伝達し執行する人をミコトモチ(御言持ち)とした。そして、「日本府」もミコトモチと呼ぶ。つまり、「日本府」というのは、行政組織ではなく、外交交渉のためのこと。なるほど、任那に「日本府」があったというのは、倭の出張所とか、日本の領土が朝鮮半島にあったというのではないのですね。

刺激的な内容が盛り沢山で、とても勉強になりました。

(2026年6月刊。1100円)

馬と人の古代史

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴)

著者 若狭 徹 、 出版 角川選書

 父の実家は福岡県大川市にあります。筑後平野の真只中で、私の子どものころ遊びに行くと、見渡すかぎり水田が広がっていました。その実家で戦前、叔父(父の弟)は競争馬(サラブレッド)の育成を副業としていたとのことです。すらっとした体格のうつっている、証拠の写真も残っています。けっこう儲かっていたと叔父は言っていました。戦前も競馬ブームがあったようです。

 一般には馬も牛も農耕馬でした。昭和30年代まで、関東平野でも農耕馬が活躍していました。しかし、やがてトラクターや耕運機がとって代わりました。

古代日本に馬が中国・朝鮮から入ってきたのは、「動力革命」も同然だった。

馬は権威の見せびらかし、敵を圧倒する騎馬軍団、そして農耕・荷役(にやく)への馬の利用は、社会構造を大きく変えた。

 ひところ私も心酔した江上波夫教授の唱えた「騎馬民族征服王朝説」は、今や残念ながら完全に否定されています。それにしても、全国各地に見事な馬形埴輪(はにわ)があるのですね。

 群馬県保渡日八幡塚古墳の馬形埴輪も見事です。「馬引き人」の埴輪もあります。 「踊る埴輪」は、踊っているのではなくて、馬の手綱を引く「馬引き人」なのです。

 馬形埴輪は、鞍を乗せたり飾り馬がすごいです。女性が横座りするための鞍も出土しているとのこと。

 馬は3世紀には倭に入ってきたが定着しなかった。そして、本格的に騎馬文化が日本に入ってきたのは5世紀、古墳時代の中期。

 馬の生産を支えたのは信州(長野県)というのも意外です。日本海ルートを介して、4世紀の長野盆地に朝鮮半島からの渡来人が定着し、古墳を築くほどの地域首長になっていた。

 そして、東北でも馬を生産していた。西国・九州でも名馬を生産していて、蘇我一族を名馬の産地である日向馬にたとえた推古天皇の歌がある。

 5世紀中葉の馬具は、九州全域に存在する。馬を扱う官庁として、左馬寮、右馬寮、兵馬司、主馬寮、内厩寮といろいろある。いずれも兵部省の管轄です。軍馬の確保は大切だったことが分かります。

 馬は国家で管理していたのです。高句麗から招来された技術者集団が波革加工集団として存在していました。

そして、道路に関して駅路と駅家が整備された。駅路は、両側に側溝を備え、幅員9メートルとか12メートルの直線道路だった。両側には柳の木が植えられていた。駅路の16キロごとに駅家が置かれた。ローマ帝国のアッピア街頭を思い出しますね。また、ペルーのインカ帝国も道路網を整備していました。

 飛鳥・奈良時代の馬具はシンプルだったが、その前の古墳時代の馬具は、巻絡豪華だった。豪族たちは持ち馬の見せびらかしに執心していた。

 馬と人との関わりを詳しく知ることが出来る本でした。

(2026年1月刊。2200円)

古墳時代の歴史

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴)

著者 松木 武彦 、 出版 講談社現代新書

 古墳は氏族のシンボルだった。古墳群は、そのつながりの拠りどころとなる血縁関係を、墓の並びという形で視覚的に表したもの。氏族とは、血縁の意識、ないしは同じ祖をもつという共通認識をきずなとして結びついた人々の集団である。実際に血はつながっていなくても、同じ祖をもつことにして、氏族のメンバーになることもある。

 氏族とは、実際の血のつながりよりも、それを軸にした意識や知識、すなわち祖先からの系譜やそれにまつわる神話・祭祀・世界観・価値観、あるいは生産や手工業の技術などまでを広きにわたって共有し、形にし、守り伝えるための結社のようなものである。

 古墳は東日本で発生した。北部九州は、墳丘のない無数の埋葬が群衆する集合墓地が主で、わずかな墳丘墓も、その中に埋もれて点在するだけ。遠距離交易と水田開発が古墳出現の基礎となった。傑出したスケールで築かれるのは、纏向(まきむく)の古墳群で、それまでの古墳群に比べ、核となる民族長の古墳は格段に大きく、かつ前方後円形を基調とし、階層性がはるかに強い。

 ヤマトによる武力統一を想定するならばあるはずの、大規模な武力による征服や衝突の考古学的痕跡は見つかっていない。

 古墳を築く氏族が各地に発生し、西方にも古墳が広がっていった。博多湾の西に面する糸島平野の平原(ひらばる。糸島市)の古墳からは、鏡30面、中国風のこしらえをもった長い鉄刀、珍しいメノウの管玉、ガラスの勾玉(まがたま)、連玉(れんだま)などの副葬品が出土した。鏡のうちの5面は中国産、ガラスの連玉は地中海原産と考えられる。

 箸墓(はしはか)古墳は、それ以前の纏向の前方後円墳の長さ3倍、体積10倍以上という、飛躍的な存在である。規模だけではない。墳丘が幾何学的な立面形になっている。

 箸墓は後円部が散弾に築かれて、高くそびえる。幾何学的な立体形が際立つ。また、葺石(ふきいし)や円筒形をしたスタンドの土製品(円筒埴輪)などのエクステリアが完備されている。箸墓の築造年代は、250年から260年前後ころ。したがって、卑弥呼の墓ということはありうる。

 吉野ケ里遺跡は、規模や他地域産土器の示す物流の量や拡がりの点で大きく劣っていて、邪馬台国とみるのは難しい。

 現在の考古学からは、邪馬台国が九州か近畿かは確言できない。しかし、西地は「邪馬台国」体制のもと、ほぼ一体の枠組みの中にあったとみれる。

 前方後円墳や前方後方墳は、箸墓や卑弥呼より前にすでに存在していた。

 4世紀中ごろのヤマトには、「畿内中枢勢力」と言えるような一つの安定した政治主体が確立していたわけではなかった。「諸王の割拠」する時代だった。

 卑弥呼の邪馬台国は北部九州にあったと私は信じているのですが…。

(2025年10月刊。1210円+税)

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