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「考える腸」が脳を動かす

カテゴリー:人間

(霧山昴)

著者 菊池 志乃 、 出版 集英社新書

 脳と腸は神経系、内分泌(ホルモン)系、免疫系を通じてつながっていて、そこに腸内細菌がかかわって、体にさまざまに影響している。

過敏性腸症候群は日本人の10人に1人がかかっている私も、かつてそうでした。便秘と下痢を繰り返すのです。東京にいたときは列車のなかで便意があり、駅のトイレによく駆け込んでいました。そうかと思うと、何日も通じがなく、腹が張って苦しい思いをしました。戦国時代の石田三成にも、この症状があったそうです。

 今では、この症状は立派な病気だと認識されています。著者は、「個人のこころの問題」による病気ではなく、「体の病気」として考える必要があると強調しています。ストレスに弱いのではなく、ストレスに対して脳と腸の反応が過敏でその結果として体の症状が現れると考えるのです。

そこで、脳(こころ)と腸のバッドコミュニケーションを断ち切る療法がすすめられています。たとえば、おなかへの過度な注意をそらすトレーニングを実践するのです。楽しいことを集中してやっているときにはおなかの調子がどうなのかなんて気にしません。それを実践するのです。自分にあった「注意のそらしかた」を見つけるのです。

脳と腸は自律神経でつながっている。

 脳腸回線では、休息時やリラックス時に働いて、消化、排便、排尿を促す副交感神経の働きが重要。腸は、脳の指令にただ従うだけの存在ではない。

 ストレスホルモンは、脳とせき髄を通して胃腸の不調を引き起こす。ストレスホルモンは免疫細胞の働きをおさえる。つまり、ストレスが続くと、免疫の機能が低下する。

腸には、免疫細胞の過半数(70%とも)が集まっている。腸内細菌において、善と悪は、どちらかに固定的に分類できるものではない。むしろ全体のバランスが重要。

幸せ物質であるセロトニンの90%以上は腸でつくられる。腸は本当に大事だと実感します。朝、すっきりした通じがあると、さぁ今日もがんばろうとなりますよね。

(2025年10月刊。1100円)

ポルトガル限界集落日記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)

著者 浅井 晶子 、 出版 集英社

 ドイツ文学翻訳者の日本人女性がドイツ人の夫と2人して、ポルトガルの山深い限界集落に移住した体験記です。とても面白く、一気に読みふけりました。

ポルトガル人は怠け者とコメントされることも多いけれど、実際には働き者なんだそうです。労働時間は短くないし、時間外労働もいとわない。

 ところが、予定通りに仕事が進まないのはよくあること。そんなとき、ポルトガル人は、あっさり明るく謝罪する。ときには、ビールをおごってくれたりもする。頼まれた仕事をすべて断らずに受けてしまって、対応しきれなくなったから仕事が進まないだけなのだ。

 ポルトガルの田舎では、ある世代より上の女性は、夫を亡くすと黒い服しか着ない。

ポルトガルの田舎では、ワインはほとんど水と同じ。日常生活の一部として、欠かせない存在。どの家にも「アデガ」と呼ばれるワイン蔵がある。

ポルトガル人にとって、昼食は聖なる時間。昼休みに入る時間は正確で、たいてい2時間ほど、ゆっくりたっぷり食べる。ワインは欠かせないお供だ。午後から仕事があっても、車を運転していても、かまわない。自家製ワインに防腐剤など一切入っていないので、悪酔いしない。店でワインを飲んでも料金はとられない。このマカ不思議だ。

ところが、多くの女性がワインを飲まない。ワインによる死亡事故、DVなどがあるため・・・。ワインには、人の愛も憎しみも恨みもこもっている。

うむむ、これは、なんということでしょう・・・。

ポルトガルで山火事は人災。育つのが早く、薪(たきぎ)や製紙の原料とするユーカリは、非常に燃えやすく、地下水を吸い上げ、土壌を乾燥させる。

ポルトガル料理は日本人の口によくあう。なんといっても魚介類が豊富だ。

塩タラは、ポルトガルでは特別な存在。バカリャウと呼ばれる。そしてポルトガル人は、よく米を食べる。豆や菜の花、そして、ニンジンの炊き込みご飯は、とても美味しい。

ポルトガル人はスープ好き。メインの食事の前に、必ずスープを飲む。スープは、日本人にとっての味噌汁のような、欠くことのできない食事の一部だ。

田舎生活は健康的だというのは必ずしも真実ではない。田舎には、都会にない多くの危険が潜んでいる。

ポルトガルで「移民」というと、国を出ていったポルトガル人同胞をさす。ポルトガル語は、2億人のブラジル人が話すものが世界標準になっている。

ポルトガル人の生活に欠かせないのがオリーブオイル。自家製オリーブオイルを何にでもかけて食べる。オリーブオイルは傷にも火傷(やけど)にも、肌の手入れにも使う、万能薬。ランプの明かりもオリーブオイルだった。

最後に、外国暮らしのために、もっとも大切なのは、滞在許可証とお金だとのこと。

ポルトガル人の収入は、ヨーロッパ平均より、ずっと低い。そして、物価は高い。ところが、みんな生活を楽しんでいる。現金収入の額だけでは貧富では測れない。ポルトガルの山奥での暮らしは、お金では買えない価値がある。

一緒にワインを飲んで笑いあう、なにげない「いま」を大切にしたい・・・。よく分かります。

でも、山奥の暮らしは、私には無理です。本に囲まれていないと私はダメなんです。

(2026年1月刊。1870円)

日本の馬

カテゴリー:生物

(霧山昴)

著者 近藤 誠司(編) 、 出版 東京大学出版会

 馬って、日本列島に昔からずっといたかと思っていました、違うようです。そして、馬というのも外来語であって、固有語はないそうです。

 日本にいる馬について、過去・現在・未来を語っている本です。

 3世紀の「魏志倭人(ぎしわじん)伝」では、邪馬台国に馬はいないとされていて、古墳時代中期以降に馬が登場する。4世紀以降のこと。

 鎌倉時代から戦国時代にかけての武将が乗った馬は、体高148センチから135センチと、非常に大きな馬格をもっていた。戦場に使う軍馬は大きかった。

 農村地帯の馬は四尺(120センチ)ほどの小型が好まれた。飼料が少なくてすみ、荷を積みやすいから…。

 日清・日露戦争のころ、日本の軍馬について、諸外国の軍人から「日本の馬は馬ではない。馬の皮をかぶった野獣だ」と酷評された。それほど、かみつき、けとばし、扱いにくかった。それで、日本政府は、在来馬をすべて去勢し、西洋馬におき換えることにした。

日本の在来馬は、すべてモンゴル在来馬に由来する。

 宮崎県の都井(とい)岬にいる御崎馬は、半野生の馬。江戸時代、高鍋藩には5000~8000頭の馬がいた。ここでは、周年自由放牧している。現在は111頭(2020年末)がいる。春にはオス1頭、メス2~3頭のハレム群が形成され、毎年15~20頭の子馬が生まれる。

 ビジターセンターがあり、観光客がガイド付き御崎馬を観察できる。

 大牟田市にあった三池炭鉱では、坑内運搬のため対州馬を使役していたことがある。一度坑内に下げられた馬は、死ぬまで坑外に出されることはなく、平均2年10ヶ月しか生きることができなかった。それだけ過酷な労働(衛生)環境だったわけです。

野生馬の寿命は長くて32歳で、30歳ほど。

 日本の在来馬は側対歩(そくたいほ)をする。側対歩とは、2拍子のリズムを刻む対称歩法。同側の前後肢がほぼ同期して動くところが速歩と異なる。側対歩は重心を左右に移動する必要があるため、キリンやラクダなど重心が高い位置にある四肢の長い動物で見られる歩法。

 側対歩するモンゴル馬はそれをしない馬の2倍の高値がつく。それは、長時間馬にのって移動するとき、騎乗者は、上下動の小さな側対歩をする馬に乗るほうが疲れが少ないから。

 在来馬はタフであり、粗食にもよく耐えることを学問的に裏付けています。さすが学者ですね。馬のことをいろいろ知ることが出来ました。引退したサラブレッド馬に観光牧場で乗ったことがありますが、意外に高いので、怖いくらいでした。

(2021年10月刊。4950円)

「平和国家」日本の軍事を考える

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 佐道 明広 、 出版 吉川弘文館

 アメリカのトランプ大統領がいきなり始めたイラン攻撃は、まさしく国際法にも国連憲章にも明らかに反します。そのアメリカに対して批判することもしない(できない)高市首相は情けないとしか言いようがありません。スペインの首相はいち早くトランプを批判しましたし、極右と言われているイタリアの首相までトランプを批判しました。

 高市首相がアメリカに行って、手を差しのべて握手しようとするトランプに抱きついている映像はみっともない限りです。アメリカの航空母艦の上で、トランプの横に立った高市首相はとんだりはねたりという醜態をみせました。日本の首相がこんな低レベルの人間だというのを世界に見せて、同じ日本人として恥ずかしいとしか言いようがありません。

 本書は、戦後日本の軍事との関わりをたどっていますが、最後にトランプ下のアメリカとの関わりで次のように厳しく指摘しています。

 トランプ大統領の言動は、自由や民主主義という価値観を重視せず、パワーによって諸国を動かす、場合によっては服従させようとしているようにも見える。そのため、ヨーロッパではNATOによる安全保障体制に頼るのではなく、独自の安全保障体制を構築しようとする試みが生まれている。アジアの多くの国々でも米国への不信は増大し、米中のどちらにも組しない在り方が模索されている。

 トランプ大統領は、在日米軍基地駐留経費の負担や、冷戦終了後に国際法共財的役割を担ってきたはずの日米同盟について、基本的な理解が足りないのではないかと思える。

 財政的には、現在の日本は余裕がなく、しかも現在進められている日米の一体化は、最悪の場合、日本の国土が戦闘に巻き込まれることになる。多くの国民は、沖縄が戦場になる危険は認識していても、自らの居住地がそうなる可能性は考えていないだろう。

 トランプ政権の登場によって生じた事態は、日本も含めた多くの国の予想を超えているのではないだろうか。トランプ大統領は、国際秩序の意義を認めようとせず、破壊に導くような政策を展開している。国際社会はパワーが第一となり、まるで19世紀に戻ったかのような様相を呈しつつある。

 日米安保体制に依存する日本の安全保障政策についても、徹底的に議論すべきであると考える所以(ゆえん)である。

もっとも重要なことは、在日米軍基地は日本の防衛を直接の役割としていないことである。米軍は世界全体を視野に入れて戦略を作成しており、日本という一つの戦域だけで判断できることには限界がある。

トランプ政権は、高関税政策で自由主義貿易体制を混乱させ、米国内政治でも自由主義や民主主義、法の支配とは相いわないと思える施策を行っている。日米同盟は、自由主義という精神的基礎を失いつつあるのだろうか。

 米中対立が本格化した場合には、日本を戦火に巻き込む可能性も生じるものとなっている。トランプ大統領の、一方的に高関税や防衛費増額の要求をしてくる姿勢に、同盟国としての信頼性も揺らいでいる。

今後の日米関係に不安を感じるものが多くなり、米安保体制の見直しや自主性が改めて唱えられるようになっているのも不思議ではない。

幸いにして一度も戦線に出ることがなかった自衛隊は、本当の戦場を知らない「甲隊」でもある。実際に死傷者が出る戦闘に耐えられるのかという問題もある。

 本書の刊行は昨年(2025年)12月20日です。今年はじまったアメリカとイスラエルによるイランへの先制攻撃、しかも交渉途中であり、宣戦布告もない突然の攻撃でした。戦前の日本の真珠湾攻撃について多くのアメリカ人は卑怯だと怒ったわけですが、それでも数時間遅れではあっても宣戦布告はしたのです。アメリカは卑怯すぎませんか………。

 戦後日本の「専守防衛」対策の破棄をふくめて、基礎的な軍事知識も得て、大変勉強になりました。

(2025年12月刊。2750円)

鳥羽伏見の戦い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 野口 武彦 、 出版 中公新書

 幕末の状況を調べています。徳川幕府の失墜が誰の目にも明らかとなったのが、この鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍に完敗したことでした。

 慶応4(1868)年1月3日から6日までの4日間、薩摩藩を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激突した。両軍あわせて2万人の兵士が激しく戦った。戦死者は薩長側100人、幕府側290人。

前年の慶応3(1867)年10月に、将軍慶喜は朝廷(孝明天皇)に対して、大政奉還を建白した。しかし、慶喜は将軍職を辞めて引退するつもりではなかった。むしろ、朝廷を形ばかりのものとして引き続き政権を担当する(実権を握る)つもりでいた。

 薩摩の西郷隆盛はそれを見破り、幕府を武力で打倒するつもりだった。それが鳥羽伏見の戦いで現実化した。

それには仕掛けが必要だと西郷隆盛らは考えた。それが江戸市中を不安にかきたてることだった。諸国の浪人を募集して、500人の浪士隊を組織して前年11月から、挑発行動を開始する。押込み・掠奪・強請(ゆすり)が頻発し、御用金強盗が続発した。12月23日、江戸城二の丸が炎上した。庄内藩の警備屯所に銃弾が撃ち込まれた。

 12月25日、薩摩藩焼打ちの命令が下され、千余人が包囲。猛烈な市街戦となって、薩摩藩側は49人が戦死した。首謀者は薩摩藩の軍艦に逃げ込んだ。これによって、大坂城内にいた幕府側の将兵は大いに沸き立ち、慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩に宣戦布告した。

 ところが、慶喜は明治になってから、知らぬ顔を決め込むようになった。敗戦した戦いの責任を回避しようとしたのだ。

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗したのは新式銃がなかったので、新式銃をもつ薩長軍に完敗したという説は間違い。幕府軍側も元込銃である新式のシャスポー銃を装備していた。このフランス産シャスポー銃は射程600メートルで1分間に6回は発射できた。

 幕府軍は、シャスポー銃を備えた伝習歩兵が活躍した。ところが、薩長側は、それを上回る大砲と水銃を備えていた。薩摩軍の砲弾は1門から5月ずつ正確に発射された。敵の大砲に命中したのも、セオリー通りのこと。

 鳥羽街道では幕府軍は開戦準備の出来ていないところを撃ち込まれて大敗北。伏見では、長州藩の兵士は前に市街戦の経験もあった(禁門の変で敗退)ので、場馴れしていて奮戦した。そのうち、慶喜討伐の詔勅が出て、薩長側は勇気百倍。慶喜はついに公的に「朝敵」とされた。

幕府軍は指揮命令系統がなく、統制がとれずに、各隊はやがて勝手に引き揚げ始めた。戦場に錦旗が出現すると、慶喜はたちまち悲嘆し、朝廷に逆らう意思はなかったと言い出した。

戦局の大勢を決したのは大砲。フランス式の旋条山砲、四斤山砲を両軍とも使用した。4ポンド(1814グラム)の円錐弾を発射した。

 薩長軍が勝利して進軍すると、住民が歓呼して迎えた。それは戦争を終わらせたことを歓迎してのこと。そして、慶喜は1月5日に大坂城大広間で、大演説をぶったあと、1月6日の夜9時ころ、ひそかに大坂城を脱出し、軍艦に乗って江戸に向かった。部下を見捨てるなんて、まことに無責任な将軍です。

(2025年7月刊。946円)

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