弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年10月 2日
弁護士不足
司法
(霧山昴)
著者 内田 貴 編著 、 出版 ちくま書店
いま、日本の弁護士は4万7千人。50年前、私が弁護士になったときは1万2千人だった(と思う)。それから4倍になった。
私の身近な弁護士(複数)に、弁護士を増やしすぎた、だから弁護士は喰えなくなった、質が落ちた(低下した)、司法改革は失敗だったと声高に相変わらず叫んでいる人がいる。
でも、現実は違うと思う。東京の五大法律事務所は1つの事務所で50人から80人の新人弁護士を高給(約1400万円と聞く)で採用している。また、カタカナ事務所もまた、90人ほどの新人を入れている。どちらも日本全国に支店を展開しつつある。その結果、福岡を除く九州各県は弁護士会への新規登録者がゼロ・ワン状態になっていて増えていない。
また、ビジネスローヤーばかりに目が向いていて、法テラスのスタッフ弁護士の応募が激減し、司法過疎地に設置するひまわり公設法律事務所の維持が危ぶまれている。そこに送り出すために九弁連が設立した「あさかぜ基金法律事務所」は新人弁護士が入らず、現に所属している弁護士は司法過疎地へ赴任するため、ついに近く解散・閉鎖することになった。
いま、地方自治体の法務担当、そして企業の所属弁護士(インハウス・ローヤーと呼ぶ)は、大いに増えた。ところが、この本によると、企業はもっともっと所属弁護士を増やしたいのに、応募がないという。この現実を踏まえるなら、私は決して弁護士が多すぎるとはいえないと思うのです。
では、弁護士は喰えなくなったのか・・・。そんなこと言っても、五大事務所の新人弁護士の初任給が1400万円だというのを知ったら、何をバカなこと言ってるの・・・と、世間から笑われるだけでしょう。
私は最近、司法試験の合格発表待ちのロースクール生(複数)と話して、地方の弁護士に対する誤解があるとこを改めて認識しました。地方の弁護士は、東京の五大事務所の弁護士と比べて、小さな家事事件ばかりやっていて、多様性がなく、儲かっていない。人口は減る一方なので、将来性も全くない。そんな思い込み(先入観)に凝り固まっていました。
もちろん、家事事件は多いです。夫婦間の離婚・DV・不倫、そして親権争い、遺言無効・遺産分割・遺留分侵害などは日常茶飯事、不動産をめぐる争いでは境界争い、相続人多数土地の名義変更・相続財産の国庫帰属・空き家・マンションの管理・処分問題。企業間の取引では特許(実用新案)も扱うことがあるし、実質は相続人間の争いであっても形の上では株主総会決議無効裁判となったりする。
暴力団事務所が近くにあるときその対処をどうするか、地方自治体か第3セクターによって無謀な大金を支出したときの住民訴訟さらには第三者委員会にかかわることも珍しくない。
精神病院に長く閉じ込められている人の叫びにこたえる活動、そしてもちろん刑事事件の被疑者・外国人の弁護活動も当時より少なくなったとはいえ、相変わらず多い。
いまどきの大学生は、「法学部に進学すると就職に不利」だと聞いているという。信じられない。私のころは「法学部出身はつぶしがきく(何でも出来る)」とみられていて、就職に有利だと思われていました。
これだけグローバルな取引が盛んになっているので、それを扱う国際的業務を担う渉外専門弁護士はもっと増えていいとありますが、それはそのとおりだと私も思います。福岡の法律事務所でも海外に支店を展開している事務所があるのは、やはり同業者として心強いことです。
この新書のうしろのほうに今は福島県いわき市で弁護士をしている松本三加弁護士が、地方にも弁護士が必要とされていることを明らかにしていますが、まったく同感です。
松本弁護士が北海道の紋別の公設事務所に赴任した(2001年)ときは、それこそ「松本三加現象」と呼ばれるほど地方が脚光をあびました。そして、松本弁護士は地方の弁護士には仕事がないとか、人口減少の地方には将来性がないなんてとんでもないことだと強調しています。地方でこそ弁護士が必要とされることを実感できる。これが「やり甲斐」になるとしています。まったくもって同感です。
(2025年9月刊。960円+税)
2025年10月 1日
幕末維新と佐賀藩
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 毛利 敏彦 、 出版 中公新書
幕末のころ、佐賀藩が幕府から大いに頼りにされていたということを知りました。最新式の鉄製大砲を製造していたからです。長州藩が攘夷を実行して、逆に四国連合艦隊からコテンパンにやられたとき、まだ長州藩は青銅製の古式大砲でした。
ペリー艦隊が浦賀沖に出現した嘉永6(1853)年6月、老中首座阿部正弘は佐賀藩江戸留守居に対して、「鉄製石火矢(大砲)2百挺」を大至急製造するように頼んだ。佐賀藩は200門は無理だけど、とりあえず50門を支給納品すると回答した。
この当時、鉄製大砲を自力で製造配備しているのは、全国で佐賀藩だけで、薩摩藩や水戸藩は、青銅砲の試作段階だった。幕府では、伊豆で代官の江川太郎左衛門が開発中で、薩摩藩が鉄製大砲の製造に成功したのは、安政3(1856)年だった。
佐賀藩10代藩主に就いた鍋島斉正(のち直正、号は閑叟(かんそう))は17歳(満15歳)だった。お国入りする行列が藩の借金のため途中で止まるほどだった。藩政改革を進めた結果、表高35万7千石の実収高は90万石、いや100万石に達した。閑叟は長崎に出向き、オランダ船にも乗り込んだ。
天保8(1837)年には、佐賀藩は高島秋帆(しゅうはん)を介してオランダから各種の神式兵器を取り寄せた。鉄製カノン砲・臼砲など。佐賀藩は「火術方(かじゅつかた)」を新設し、ついに、嘉永5(1852)年7月、鉄製大砲を完成させた。
嘉永7(1854)年は11月に改元されて安政元年となるが、長崎でロシアのプチャーチンと交渉していた勘定奉行川路聖謨(としあきら)は交渉のあと、佐賀藩の大砲の演習を見学した。1500メートル先の標的に向けて発射された12発のうち10発が命中。川路たちは大いに感嘆した。
佐賀藩は幕府からの注文・納品した大砲50門をふくめ、全国から注文を受けて、300門以上を製造・納入した。これってすごいことですよね。伊豆の江川太郎左衛門の工房にも佐賀藩は現地に技術者と職人を派遣して応援したのです。まったく知りませんでした。
幕府がオランダ人教官を招いて安政2(1855)年に長崎で開設した海軍伝習所には佐賀藩からも48人参加した。
安政5(1858)年に長崎で英語伝習所が設立された。元治元(1864)年8月、フルベッキとアメリカ領事が佐賀を訪問した。慶応3(1867)年の秋から冬にかけて、佐賀藩は藩立英学校を開校し、フルベッキが教えた。
次は江藤新平。惜しくも明治7(1874)年の差が戦争(佐賀の乱)で大久保に斬首されましたが、鍋島閑叟に大いに期待され、活躍しました。
明治維新の新政府において、閑叟は事実上岩倉具視に次ぐナンバー2の地位にあった。ところが、明治4(1871)年1月、閑叟は58歳で病死した。江藤新平は大久保利通にねたまれて抹殺されたと著者はみています。江藤新平は司法卿もつとめ、日本の司法制度の近代化をすすめた。本当に惜しい人物でした。
(2008年7月刊。760円+税)
2025年9月30日
内務省
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 内務省研究会 、 出版 講談社現代新書
かなり前のことですが、私の大学同級生が某官庁のナンバー2になったと聞いて会いに出かけました。そのときの四方山話のなかに、彼がひょいと机の中から大きくない名簿を取り出して私に見せてくれました。内務省出身者だけが掲載されている名簿です。もちろん、今、内務省なんて官庁はありません。現在の警察庁・総務省・国土交通省・厚生労働者に所属する官僚たちの名簿です。彼は自治省出身でしたから、地方自治体へ出向していたこともあります。
「ほら、こうやって、今でも旧内務省官僚は横のつながりを持っているんだ。ともかく官僚は情報が決め手だからね...」
驚きました。官僚の世界の深淵をのぞき見た思いでした。
内務省は、明治のはじめ、1831(明治6)年11月から、1947(昭和22)年12月まで、74年間、「省庁の中の省庁」として官僚の世界に君臨していた。現代には比肩するものがない、空前絶後の巨大官庁。とりわけ、警察行政を所管していたことから、権力を用いて国民の権利や自由を抑制するものとして内務省はあった。
内務省の廃止は、消滅ではなく、発展的な解体だった。内務省出身者は、解体によって新設された各省で指導的な地位についた。そして、彼らを網羅する名簿がつくられ、人的な結びつきは維持された。戦後の官僚機構のトップである内閣官房副長官は、代々、内務省関係省庁から選ばれている。
内務省は発足当初から大蔵省と激しい権力闘争を展開してきた。内務省は、大蔵省の干渉のため、単独で自らの意思を決定できない省庁としてスタートを切らざるをえなかった。
大隈重信は、絶えず内務省行政に干渉しようと画策した。その大隈は1881(明治14)年10月に参議を辞任して退場した。内務省は大々的な選挙干渉をすすめた。巡査が戸別訪問し、民権党候補を誹謗した。
第二次大戦中、東条英機は首相のほか、陸相、参謀総長そして内相を兼任した。東条の意図は、内相として警察をおさえることで、国内の主戦論を取り締まること、陸相として軍人をおさえること、軍内の抑抗をおさえることにあった。
知見を大いに広げることのできた本でした。
(2025年4月刊。1650円)
2025年9月29日
読んで楽しむ野鳥の事典
生物
(霧山昴)
著者 上田 恵介・ねもと きょうこ 、 出版 成美堂出版
以前は、わが家には2ヶ所にスズメの巣がありました。トイレのすぐそばにもあって、ヒナが育つときには、朝早くからにぎやかでした。すぐ下の1反ほどもある田で米作りをやめてから、スズメはいなくなりました。カラスは団地を徘徊していて、路上のゴミ袋を破って、生ゴミをまき散らします。カササギは団地内の電柱につい最近まで巣をつくっていました。九電か九電工が定期的に年1回は撤去しています。
庭に来るのは、まずヒヨドリです。娘が植えたホーレン草を、そろそろ収穫できるころと思っていると、その直前に見事に食べられてしまいました。一度だけヒヨドリがスモークツリーに巣をつくりました。ある朝、ヒヨドリが2羽うるさく鳴いているので何事かと思うと、ヘビが木を登っているのです。地上から3メートル以上もある高さの巣にヒナがいるのを地面を這うヘビがどうやって探知するのか不思議です。いったんヘビは木から叩き落としましたが、2羽のヒナは、結局、ヘビに食べられてしまいました。以来、ヒヨドリを含めて、わが家の木に野鳥が巣をつくることはまったくありません。
可愛らしいのは春のメジロと秋から冬のジョウビタキです。ウグイスもたまに来てくれますが、その姿を拝むことはめったにありません。ツバメは団地内には見かけますが、わが家には来ません。駅舎に巣をかけるのも少なくなりました。
この本によると、「けんもほろろ」というのは、キジの声だそうです。鋭いキジの鳴き声がつっけんどんに聞こえることから来ているそうです。
「鷹は飢えても穂を摘まず」というのは、タカは肉食なので、飢えても穀物を食べないことから来ているそうです。
ときどき庭に来て、地面をはねるようにしてピョンピョンと移動する小鳥がいます。ツグミかなと思いますが、この本に描かれている姿とは少し違います。
ムクドリは、たまに下の休耕地に集団でやってきます。
たしかに読んで楽しい小鳥の事典です。
山に近い、田んぼがすぐ近くにある田舎に住んでいると、たくさんの野鳥を身近に観察して楽しめる良さがあります。田舎暮らしの良さをアピールするのも、年齢(とし)をとったからなのでしょうね。
(2025年6月刊。1540円)
2025年9月28日
国説・豊臣秀長
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 河内 将芳 、 出版 戒光祥出版
豊臣秀吉の弟・秀長について少し知ることができました。
秀吉と秀長の母は同じで、大政所(おおまんどころ)。ところが、父については不明。秀吉も秀長も父についてまったく語っていない。名もない人間だったのでしょうが、それでも少しくらい語ってほしかったですね。
それにしても、父の影が薄いことは、秀吉のかたちづくった「家」のありかたに影響を与えているという見方が紹介されていて、よく分かります。秀長が51歳で亡くなったあと、秀次とその妻妾たちを虐殺したことは、秀吉の家族を自ら根絶やししたようなものですよね。そこには、父親体験のなさがきっと影響しているのだと私も思います。
秀長は、その前は長秀と名乗っていたとのこと。順番を入れかえただけで、かなりイメージが違ってきますね。
「一銭切り」とは、軍勢の規律を乱したものを斬罪に処すること。
信長が本能寺の変で横死したあと、秀吉は信長の葬儀を取り仕切ったが、そのとき信長の「木像」をつくって、わざわざ火葬した。それによって、信長が仏=死者になったことを衆知させようとした。なーるほど、ですね。
秀吉は、小牧・長久手合戦では家康に手痛く敗北させられたが、このころから秀長と名乗りはじめた。
秀吉は四国の長宗我部勢を攻める前、病気になった。それなりに重篤だったが、危機を脱した。これも知りませんでした。
秀吉は関白になる前、内大臣から右大臣を避けて左大臣の昇進を望んだ。右大臣には、右大臣だった信長が倒された凶例(先例)があったから。それで秀吉は、近衛前久(さきひさ)の「御猶子」となり、左大臣の近衛信輔と「兄弟の契約」を結んで関白に就任した。
「凡下」(ぼんげ。一般市民)の秀吉を関白に任官させるため、公家社会を納得させるに必要な理由づけだった。秀長は参議(宰相)と近衛中将に任官し、従三位(じゅさんみ)に叙せられた。秀長も公家衆のなかのエリート層を意味する公卿になった。
関白秀吉、大納言織田信勝、中納言徳川家康、中納言羽柴秀長、参議羽柴秀次といった武家の序列が目に見えるかたちであらわれた。その後、秀長は大納言になったが、徳川家康と同時だった。
秀長夫人は、出自も実名も不明。ただ、大政所とは関係良好だった。
秀長が秀吉の後継者と目されていたが、秀頼の誕生で変わった。秀吉は生まれてまもない秀頼の関白職を譲ろうとした。秀長の体調悪化は秀頼の誕生によるとされています。本当でしょうか...。
天正18(1590)年1月、秀吉・秀長兄弟の妹。南明院が死亡。秀長が亡くなったのは、翌年の天正19(1591)年1月のこと。秀長の死によって、豊臣政権は落日のきざしが見えてきた。
写真と図によって、秀長の歩み、果たした役割をしっかり確認できました。
(2025年5月刊。2200円)