(霧山昴)
著者 ロリー・ミュア 、 出版 国書刊行会
ナポレオン戦争というと、1789年のフランス大革命のあとですから1815年ころになります。そうすると日本では、関ヶ原の戦い(1600年)から200年がたち、江戸時代も後期になります。
当時の軍隊は、先込め式の火燧(ひうちいし)式マスケット銃、鉄球を撃ち出し発射時に反動で砲自体が後退する青銅製の大砲、サーベルやピストルを装備した騎兵などで構成されていた。
戦闘の目的は、敵兵の殺傷・せん滅ではなく、敵部隊の陣形を乱し、敵兵の戦意を挫(くじ)き、組織的な戦闘力を崩壊させることにあった。これは、最近の戦争とはまるで異なりますよね。
ナポレオン戦争における兵士たちは、戦争が「心地よいもの、祖国のために死ぬのにふさわしいもの」だと信じていた者は少数だった。
概して、イギリス軍とフランス軍はお互いの捕虜をかなり公正に扱った。ひとたび降伏が受け入れられ貴重品を奪われたあとは、ほとんどの捕虜は、それ以上に虐待を受けることはなく、負傷者も状況が許す限り手厚い治療を受けた。しかし、軍が敗北し、退却を余儀なくされているときには、兵士たちは捕虜に対しより敵対的になり、気遣う余裕・意欲を失ってしまう。
第二次大戦中の中国戦線において、日本軍兵士が苛酷な命令を下す将校を背後から殺害したケースが少なくなかったと聞いていますが、同じことはナポレオン戦争のときにもあったようです。
戦死した将校の死因がすべて敵弾によるものとは限らない。ナポレオン時代においても、他の時代と同じく、兵士が人望のない将校を始末するのに戦争という喧嘩を利用した例があるはずだが、記録としては残っていない。ただし、ナポレオン時代の将校は、第一次世界大戦のときにあったような部下を脅して前進させるようなことはなかったと思われる、とされています。
戦闘中に生じる将校の損害は甚大だった。フランス軍の将校は、部下の兵卒と比較して率で44%も多い死傷者を出している。ワーテルローの会戦で、ウェリントン軍の兵卒のうち22%が死傷した。将校の死傷率は29%だった。
イギリスのライフル兵は将校を狙い撃てと特に命令されていた。将校は、兵卒なら後方に送られるような軽傷を負っても戦い続けた。なので死傷率が増すのは当然のこと。負傷した将校は、部下の兵卒よりもより良い治療を施され、より多くがより迅速に回復する。その結果、将校は戦場で立派に死ぬか、部下の兵卒よりも生きのびやすかった。
ナポレオン戦争期の会戦の目的は敵軍の殲滅ではなく、敵兵を浮き足立たせ、敵を敗走逃走で後退させることにある。
ナポレオンの皇帝親衛隊は全軍から憎まれていた。それでも、ナポレオンは、大きなメリットがあると考えて、大切に育成していた。
兵士の戦闘能力はある期間を過ぎると、戦闘疲労あるいは「燃え尽き」となって低下してしまう。1807年以降のフランス軍の衰退の原因の一つは、下士官や将校の疲労と消耗にある可能性がある。
日本軍も軍旗をきわめて重要視していましたが、それはナポレオン戦争のときも同じだったようです。軍旗は、連隊の誇りと同様の強力なシンボルだった。それで軍旗を守る軍曹などが次々に狙われ負傷していた。
フランス陸軍は、1807年を境として、徐々に劣化した。あまりにも多くの訓練未了の新兵が加わり、経験豊富な能力の高い将校が薄くなり拡散していった。加えて、親仏同盟国の軍隊への依存度を増していたから……。
ナポレオンは、兵士をよく覚えていて(あるいは覚えているふりをして)、兵士に適切なコトバをなげかけた。大勢の兵の心をつかむことで部下の忠誠心を維持しようと懸命に努めた。
ナポレオンのカリスマは折り紙つきで、それを惜しみなく活用する。ウソやお世辞を厭わないほどに、公報によって、巧みに普及した。兵士はナポレオンに熱狂すると同時に、不平不満をつぶやいていた。
資料紹介を入れると800頁超の大作です。久しぶりです。井上ひさし「吉里吉里国」を厚さの点で思い出しました。
人間ドックで一泊したとき読みあげようと思って必死に読みすすめました。ナポレオン戦争時代の戦争・戦術の実際がよく分かりました
(2026年4月刊。5800円+税)


