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法律学とキャリア(上)

カテゴリー:司法

(霧山昴) 

著者 加藤新太郎・中村直人 、 出版 商事法務

有名な元裁判官(現弁護士)と、これまた企業法務の第一人者である弁護士が、キャリア形成で大切なものは何かを対談している本です。

この本の中で紹介されていて、私が経験したことのない話は、弁論準備手続の進め方です。なんと毎回2時間かけて、10回も裁判官がホワイトボードに要点を書きつけながら、論点を整理していったというのです。驚きました。まるで、大学のゼミか研究会のようです。それを踏まえて弁論期日を1回で終わらせて判決したのでした。証人調べは不要だったようです。

企業法務の代理人弁護士は、企業の持つ営業秘密を同業他者に知られないようにする必要があり、企業の了解なしに、安易に書いたもの以上には自由に話せないという制約があるとのこと。初めて知りましたが、なるほど……、です。

企業法務の弁護士は、「自分の責任を問われたくない」という思考から思いついた論点や主張を全部並べて、後になって、「先生は、あのときあれを言わなかった」と言われないよう、認められるはずもない主張まで並べてしまいがちになる。うむむ、そうなんですか…。

裁判官にとって一番大事なことは、書面を読んで、何を言おうとしているかが明確に分かること。一生懸命に取り組んでいるとか意気込みがあるなんていうアピールは不要。

裁判官にとって身内の一番の評価ポイントは、事件処理において赤字を出さずに黒字を続けていくこと。赤字をださないことこそ、大きな価値がある。

赤字とは、新受件数より既済件数が少ないこと。黒字とは逆に既済件数のほうが新受件数より多いこと。

裁判官等に求められる基本的資質として、正義感・使命感、責任感の3つがある。これには異存ありませんが、現実には、大企業や国・地方公共団体などの強いものに対して、使命感をもって正義感を貫いているとはとても信じられない裁判官が少なくないと思います。

裁判官が判断に迷う事件は、10件に1件、あるいは20件に1件ほど。そうなんですか…。裁判官って、もっと迷っているのかと思っていましたが……。だって、この本にも紹介されていますが、双方の代理人弁護士がそろって何が正しいのか、真実はどこにあるのか分からないというケースは、もっと多いと思うからです。

法律事務所によっては、イソ弁を「道具」のように扱い、とことん使い込み、労働力として消耗させる、そして、顧客が奪われないよう、コミュニケーションをとらせないようにするところがある。嫌ですね、そんな事務所に入るなんて最悪です。そんなところだと分かったら、一刻も早く抜け出さなければいけません。

何でも「ダメです」「リスクがあります」と並べたてて、自分の責任回避ばかり考える弁護士がいる。

つらく悲しく仕事をする、正直な意見を言わない、仕事が遅い弁護士が現実にいる。

依頼者全員から愛される必要はない。10人のうち2〜3人が強いファンになってくれたら十分。中くらいの相性の人が5人、残り2〜3人は、「合わない」と去ってもらう。それでいい。まったくもって同感です。これが一番ストレスがたまらない弁護士のあり方です。

大手の法律事務所は、たいてい何件か弁護過誤訴訟をかかえていて、ピリピリしている、そうなると、守りに入る傾向が強い。

私も弁護過誤訴訟をされたことがあります。敗訴したのを全部私のせいにされたのです。理不尽な訴訟でした。もちろん勝訴(請求棄却)されましたが、ずっと嫌な気分でした。懲戒請求やら苦情申立にいたっては52年間の弁護士生活に両手以上ほどあります。これはもう避けられません。幸いにも、これまで戒告を含めて懲戒されたことはありません。

裁判官に求められるミニマム像は、極端にシャープでなくても良いけれど、おおよその事件を大きく間違えずに処理できる力と、普通レベルのコミュニケーション能力を備えていること。

ためて良いのは知識とお金、ためてまずいのは、仕事とストレス。

仕事は前倒し主義で、前倒しするスタイルでやる。これによって仕事に追われなくなる。翌日から起案を始める。どんな仕事でも前倒ししてどんどん進めていき、常に自分の時間に余白をつくっておく。そうなると、突然大きな事件が来ても対応でき、逃がさない。これまた私と同じ流儀です。

この書評も、1週間分のストックをつくっておくようにしています。これが20年以上も続いている根本的理由です。仕事に追われたことはありません。いつだって心に余裕をもちたいものです。ついでに金銭的にも……。

読書は充実した人間をつくり、会話は機転のきく人間をつくり、書くことは正確な人間をつくる。これはフランシス・ベーコンが「学問の進歩」(岩波文庫)においているコトバだそうです。いいことを言っていますね……。

中村弁護士は、大都会(東京)の弁護士にありがちな、田舎の弁護士には「なれあい」があると思っていたようですが、加藤元判事は、釧路地裁にいた経験から、少ない弁護士たちが実にフェアに戦うことを知っています。フェアでない行動をとると、必ず自分にどこかではね返ってくる。なので互いに誠実であることを重んじる。まったく、そのとおりなんです。狭い地域社会を生き抜くにはそれしかありません。大変勉強になる本でした。

(2026年8月刊。2860円)

宇宙138億年の歴史

カテゴリー:宇宙

(霧山昴) 

著者 佐藤 勝彦 、 出版 角川新書

宇宙の年齢は少し前まで137億年とされていたのが人工衛星による観測が飛躍的に進歩した結果、1億年のびて138億年となった。うひゃあ、知りませんでした。人間はわずか100年という一生ですから、1億年のびたといっても、まるで実感が湧きませんよね…。前の本のタイトルには、たしかに「宇宙137億年の歴史」となっていました。

著者とはまったく面識ありませんが、著者の弟は東大で同学年で、駒場寮では同じサークル(部室)でしたから、よく知っています。顔つきはそっくりです。やはり兄弟ですね。

宇宙の真空には何もないかというと、そうではなく、正体不明のエネルギーを隠し持っている。宇宙全体のエネルギーの7割を占めている。すべての約73%を占めている。そこでは素粒子が沸き立っていて、素粒子が生まれては消えている。真空は「絶対的無」というものではない。

宇宙誕生から1万分の1秒後はばらばらなクォークたちが2〜3個の単位でくっつき始める。宇宙が誕生して3分後、急激な膨張によって宇宙内部の温度は10億度にまで下がり、陽子と中性子が集まって、水素などの軽い原子核をつくり始める。

宇宙が誕生して38万年後、それまで散乱していた光が進みはじめる。そして、原子核と電子から成る原子がつくりあげられた。

2億年後、核融合によって輝く、最初の星が誕生する。

人類は、宇宙という巨大な生態系の中で、星くずを原料として生まれた。

宇宙は、まるで蜂の巣のような分布をしていて、蜂の巣の縁にあたるところに銀河が集中していて、真ん中の穴にあたる部分には銀河はほとんど存在しない。

人間の身体は、おもに炭素化合物からできている。骨にはカルシウムやカリウム、血液中には鉄分が含まれている。これらの元素のほとんどは超新星爆発によってつくられ、あるいは、星のなかでの核融合反応によってつくられ、爆発時に放出されたもの。

強い力は、電磁気力よりも1桁から2桁強く、重力は磁気力よりも40桁も弱い。ミクロな世界ではなく宇宙レベルになると、支配的なのは4番目の動力(重力)が効いている。というのは、強い力や弱い力は、力の届く範囲が極端に短いため。電磁気力は遠くまで届くけれど、宇宙全体で見ると、ほぼ同数なので、打ち消しあってしまう。引きあう力である、重力だけが宇宙の主役になる。強い力は、原子核の内部の力。

太陽のエネルギーは、核の反応(核融合)がその源。世界のエネルギーのほとんどは、この「強い力」がもとになっている。

今ある物質の世界は、ビッグバンに先立つ宇宙創生の瞬間に存在した、ほんのちょっとした「対称性の破れ」から生まれた。もし、宇宙が完全な対称性をもっていたら、物質とその鏡像の性質をもつ反物質は同量だけ生まれて、すべてが打ち消しあって光だけが残ったはず。しかし、この微妙な対称性の破れのおかげで、物質だけがわずかに生き残り、星や銀河そして人間が存在する。

宇宙が誕生した真空のエネルギーは、体積が100倍、1000倍になろうが、エネルギー密度としては一定。ほとんど無に近いようなごくわずかの真空のエネルギーさえあれば、それを巨大な宇宙のエネルギーの源にすることも可能になる。

なぜ宇宙の空間の形は、138億年たった現在も、限りなく平坦な状態を保ち続けているのか…。これを平坦性問題と呼ぶ。この平坦性問題がインフレーション宇宙論で解決できるのは、宇宙が急激に膨張するから。

素粒子の一つである光子は質量がゼロなので、秒速30万キロの光速で飛べる。ところが、電子やアップ・クォーク、W粒子など、ほとんどの素粒子は光速では進めない。質量をもっているからだ。

分からないなりに、なんとか宇宙の成り立ちを知りたくて読みすすめました。

(2026年6月刊。1320円)

世界へ飛び出た100人の日本人

カテゴリー:社会

(霧山昴) 

著者 おか けいじゅん(聞き手) 、 出版 集英社インターナショナル

これは、とてもとても面白い本でした。いつもそんなことはしないのですが、昼食をさっさと済ませて、昼休み時間も読みふけりました。いつもの昼休みはインターネットやFBを見たり、ユーチューブを見たりしています。

日本を出て外国で暮らす日本人は130万人ほど。日本の総人口1億2千万人の1%だ。しかし、最近の日本人はパスポートを持っていない。持っているのは3割ほど。韓国人は5〜6割がパスポートを持っているのに比して、明らかに少ない。

かつては、海外カニ族なるものがいた。若い人々が、「なんでもみて世界各地へやろう」と意気込んで、自由な旅に出かけた。今は、それも珍しくなった。

この本はロコタビという、海外在住の日本人にいろいろな仕事を依頼できるウェブサービスによる。2017年にロコタビに登録していたのは数千人だったが、今は179ヶ国8万人が登録している。

この300頁、本文2段組の本には、100人の海外に住む日本人へのインタビューが紹介されている。どれもこれも、すこぶるつきの面白さだ。

私自身はコロナ前から海外旅行は卒業した気分で、これからは国内旅行に出かけたい。

日本は同調圧力がすごく、ストレスがたまる社会。それに比べて同調圧力がまったくない(ノルウェー)とか、すべてが自己責任なので、他人から責められることがない(サウジアラビア)とか、まるで社会が違い、人生観の違う多様性を体験するなかで自分を解放していくことができる。

人生は1回きりなので、後悔しない生き方をしよう、今しか出来ないことをしよう、と思い切って日本を脱出し、海外で生活している人がこんなに多いのか…。みんな勇気があるなあ、と驚嘆してしまいます。それにしても何かの特技を持っている人はいいですね。踊りだとか楽器だとか、また写真や絵を描けるとかもいいですよね。

日本で10代のときストリートダンスを始めダンサーをしていた女性がセネガル(アフリカ)に行ってセネガルでダンスを学び、やがてイスラム教に改宗したとのこと。すばらしい。

今楽しいことが最優先なので、先延ばしてきたものはすべて「明日はやる」とするが、その「明日」は永遠にまわってこない(ケニア)。

給料をもらったら、みなすぐに使いきってしまう。給料日にはお金がない。「今が楽しければいいじゃない」、 「バナナを食べたらOK」。なので給料日は法律で月2回とすることになっている(フィリピン)。

手持ちのお金は、あるだけ使う。足りなければ、分割したり、借りてでも、「今ほしいから、今買う」という考え方の人が多い。家計が火の車であっても、とくに困っている様子はなく、むしろ明るい(エクアドル)。

ふわっと生きたい人にとっては楽しい国(スリランカ)。

とにかく優しい人が多い。お金に困っていると知らぬ人がごはんをおごってくれる(カンボジア)。

気軽にフットワーク軽く、「とりあえず行ってみる」といい(ガーナ)。

自分らしく、自由でいられる人がオープンで、明るくて笑顔なので、こちらまで笑顔になる(南アフリカ)。

自然豊かな場所で、スローな時間を過ごしたい人。時間がゆっくり流れている感覚を肌で感じられる(ブルガリア)。

世界をのぞき見た気分に大いに浸ることができました。感謝します。

私は40代半ばのころ、夏に40日間、南フランスのエクスアンプロヴァンスに行き外国人向け夏季集中講座に参加しました。大学の寮に宿泊まりし、まさしく学生気分にたっぷり浸ることができました。本当に行って良かったと思っています。妻と子どもを放っぽらかして「独身」のように出かけましたので、いろいろ言われましたが、今となってはそれもいい思い出です。

外国に出かけて、外から日本と比較してみるのは、とてもいいことだと思います。

(2026年4月刊。2200円)

ノマドという生き方

カテゴリー:フランス

(霧山昴) 

著者 左地亮子 、 出版 世界思想社

これまでの依頼者に長距離トラックの運転手が何人もいましたし、今もいます。1年の大半をトラックの中で過ごす人々です。家に帰るのは月のうち数日だけという人も少なくありません。寝るのはトラックの運転手のうしろ。そしてトラックは高速道路のパーキングエリアかコンビニの駐車場。トイレはもちろんそこにありますし、シャワー室もパーキングエリアにあるそうです。まあ、こういう人たちのおかげで日本の物流は成り立っているわけですが、これも「移動しながら生きるひと」に含まれるのではないのかな…、ふとそう思いました。

この本にも紹介されていますが、日本でもキャンバンカーで日本中を漂泊している人々がいて、たまに集合することがあるそうです。

本書は、フランス南部を拠点としつつも、移動して生活しているマヌーシュの人々に焦点をあてています。移動しながら生きるとは、どういうことなのか、なぜ彼らは一箇所に定着しない、しようとしないのか、考えさせられました。

今日、世界のジプシー・ロマのほとんどが定住生活を営むなか、マヌーシュは移動生活を続ける。フランス南西部、ピレネー山脈に近いポー地域には1300人のマヌーシュが暮らしている。著者は、20年来、ここで研究を続けている。

ジプシーは日本では蔑称とされ、ロマと言い換えられることが多い。しかし、彼らは自分たちをロマとは呼ばない。

世界各地に1200万人ものジプシーあるいはロマと呼ばれる人々が存在する。

現在のフランスには、マヌーシュ、ジタン、ロマという多様な集団が暮らす。フランスに暮らすジプシーの総人口は30万人から50万人と推計されている。しかし、正確な数値ではない。ジプシーと呼ばれる人々の目の色、肌の色そして髪の毛は実にさまざまであって、決して一定していない。

それでも、多くのフランス人は区別できる。話し方、歩き方、身ぶりや服装、つまり「身体を用いる作法」に特徴がある。サポサンダル(かかとのないサンダル)、目につく付けた胸元を飾る金色のアクセサリー、身ぶりの大きさ、堂々とした歩き方などだ。そこでは髪の毛や肌の色は問題にならない。

マヌーシュ共同体は移動のなかで離合集散をくり返してきた。ポー地域のマヌーシュは、1年の大半をここで過ごし、旅に出るのは春から秋にかけて。せいぜい数ヶ月間。

マヌーシュは、今も「定住民」ではなく、移動生活者であり続けている。自分の勘定で働き、収入も労働時間も自由度が高い働き方を選ぶ。マヌーシュの家の中はシンプル。マヌーシュは、家を手に入れても、キャンヴァン(車)は手放さない。キャンヴァン内部の空間は清潔な状態に管理され、汚れの侵入は避ける。家は、移動を前提とした生活を支えるための拠点。自由に、出発し戻ってこれる移動の条件を確保し、社会の連鎖を活発化させる。

マヌーシュにとって、ファミリアは一番重要な社会的基盤。老人ホームに親を預けるなんてことは、マヌーシュではありえない。子育ても、母と父だけのものではない。子どもの欲求や要望は、できるかぎり受けとめようとするのがマヌーシュ流の子育て。

ふだんは散在し、必要なときに集結する。連帯を常に意識しつつ、群れすぎない。マヌーシュの社会組織には権力が存在しない。親は既婚の子に何かを強いることはない。マヌーシュは、基本的に夫婦や親子であっても他人に何かを強いることがない。個人を強い力でしばることはない。あえてしばらない。

マヌーシュの結婚は、今も昔も「駆け落ち」という形態をとる。

問題が起きたとき、その解決手段として、「移動し、離れる」ことがある。

私にはとてもマネできませんし、しようとも思いませんが、世の中には多種多様な生き方があるという事実だけは、しっかり理解できました。

(2026年6月刊。2200円)

海の幕末日本

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 後藤敦史 、 出版 人文書院

アメリカのペリー提督が日本に来る前に、イギリスの測量船サマラン号が1845年8月(弘化2年7月)に長崎にまで来ていて測量したことを初めて知りました。長崎奉行は測量禁止を通告したのに、勝手に測量したようです。

次に1849年5月(嘉永2年4月)に、イギリス艦マリナー号が江戸湾口の三崎沖合にやってきて測量しました。この船には、かの有名な漂流民の音吉(おときち)が通訳として乗っていました。伊豆の下田港にもやってきて、測量していたようです。

そこで幕府は、天保13(1842)年に撤廃されていた異国船打払令を復活させるべきか、老中や奉行たちが議論したのです。しかし、復活については反対意見は強く、復活されなかったようです。

ペリー来航(黒船来航)は1853年7月(嘉永6年6月)のことです。ペリー提督の率いる、東インド艦隊の4隻の軍艦が浦賀沖に出現しました。「たった4杯で夜も眠れず」といわれたほど日本社会に激震(大きな動揺)を与えました。

その後、アメリカ海軍は北太平洋測量艦隊を日本に派遣しています。1854年12月に鹿児島湾、翌55年3月から5月にかけて、下田や箱館に来航し、測量を実施したようです。

1853年9月、ロシアとオスマン帝国との間でクリミア戦争が始まり、翌54年3月には、イギリスとフランスがオスマン帝国側に立って参戦した。

イギリス測量艦隊に対して幕府は伊能図を提供した。これによって日本の海岸線を測量する必要はないとイギリス側は判断した。伊能図の精密度、正確さにイギリス側は感嘆したとのこと。なるほど、それはそうでしょうね…。

日本側は、その後、アメリカの測量船に「稽古」のため日本人5、6人を載せて、測量技術を習得させようとしたとのこと。

イギリスはアヘン戦争で中国・清を打ち負かしたわけですが、攘夷を実行してきた長州藩などに接して、対日戦争を意識した計画を立案していたとのこと。これまた、知りませんでした。具体的には瀬戸内海封鎖と大坂攻略。江戸は海に面しているので可能だけど、京都は内陸部にあるので無理。大坂は可能性ありと考えたようです。このころ、日本側は大坂まで攻められることはないだろうと安易に考えていたとのこと。考えが甘いようです。

1864(元治1)年3月、慶喜が将軍後見職を辞し、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。慶喜は島津久光を警戒していた。参与会議によって国を運営する構想があったが、薩摩藩の主導で運営される危険を察知し、慶喜は、参与会議の構想を3ヶ月で解体した。

アメリカでは1861年から65年まで南北戦争が戦われていましたが、この間、外へ目を向けられなかったアメリカに代わってイギリスが積極的に動いていたようです。

海と測量の点に重きを置いた幕末政治史として興味深い内容がたくさんありました。

(2026年4月刊。3850円)

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