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運慶講義

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)

著者 山本 勉 、 出版 新潮社

 運慶は平安時代の末に、奈良仏師・康慶の子として生まれた。運慶は、平安時代から鎌倉時代にかけての70年あまりを仏師として、数々の名作をつくり出した。

法橋(ほっきょう)の上は法眼(ほうけん)で、その上の最高位は法印。運慶の前、三派仏師と総称される三系統があった。円派と院派そして、奈良仏師。

 玉眼(ぎょくがん)とは、木彫像の眼の部分をくり抜いて、内側から瞳を描いた水晶のレンズをはめこむ技法。仏像を生身仏(しょうじんぶつ)として表現するための手近な工作として、また光沢ある眼球の現実感を表現する画期的な技法として、鎌倉時代以降、一般的となった。生身仏とは、生身の身体をもった仏、すなわち現生に具体的な形をあらわした仏像のこと。

円成寺大日如来像は、まるく張った頬や、胸を張って高い位置で智拳印を結び、腰をひきしめて坐る姿勢は緊張感に富み、はずむような若々しい肉体として表現されている。構造はヒノキ材の寄木(よせき)造りで、玉眼を獃入する。

 源平合戦の渦中で、東大寺・興福寺が焼かれ、大仏ほか多くの古像が失われた。それを知った右大臣の九条兼実(かねざね)は、「仏法王法、滅亡しおわんぬか」と、慨嘆した。

 正願院の本尊弥勒像をつくったのも運慶だった。北条時政のために仏像をつくったのも運慶である。

願成就院の毘沙門天像は、不動の筋肉が隆々と盛りあがり、毘沙門の甲(よろい)はたくましい肉体を内側に封じこめて、はりきれんばかり。そこには、ある種の野趣さえ感じさせる。

 六波羅蜜寺の地蔵菩薩像は堂々たる体軀や流動感に富んだ衣文になっていて、凛々(りり)しさをもった秀麗な面貌である。

 快慶は運慶の僚友にあたる。康慶門下の両雄といえる。

運慶は建久8(1197)年5月から翌年の冬にかけて、大仏師として小仏師数十人をひきいて東寺講堂内の仏像の修理にあたった。

 高野山の一心院にある八大童子像も運慶作とされている。運動感に富む体軀と玉眼のきらきら光る表情をもつ童子堂はいきいきと動き出しそうである。

 運慶は早くから京都を本拠にしていたと思われ、京都の貴族社会や宮中との関わる姿が目立つ。後鳥羽院政権の造像にも運慶は食いこんだ。

 東大寺俊乗堂の重源坐像は、深くくぼんだ上瞼、左右の大きさの異なる眼、たるんだ下まぶた、こけた頬、固くへの字に結んだ口、筋と皮だけの頸など、その老貌の写真は容赦ないほどに克明。

 運慶は法印という極位にのぼった。建仁3(1203)年のこと。同じく快慶も法橋となった。

 奈良の名だたる仏像をつくり出した運慶の足跡を、仏像の解説とともにたどることが出来ました。

(2025年8月刊。2750円)

落語と学問する

カテゴリー:人間

(霧山昴)

著者 森本 惇生・鈴木 亘 、 出版 水声社

 落語というのは明治なってからで、それまでは「落とし噺(ばなし)」と呼ばれていた。落語家も「噺家(はなしか)」と言われていた。

 落語という芸能は、その起源は前近代にさかのぼるとしても、笑いの近代的大衆化の一環として明治以降に確立した芸能。ふえーっ、そ、そうだったんですか…。

 落語は、演者が見えなくなることで成立する話芸。観客は語っている演者を意識せずに、演者が発する登場人物の語りの展開を通して物語の世界を想像する。

落語は騙されようとする観客をその望み通りだまし満足させる芸。演者の姿がいつのまにか消えて、登場人物が見えてくるのが芸人の極致。江戸期に誕生して以来、多くの噺家によって創作され、受け継がれ、また改良を加えられてきた落語という話芸は、日本人が繰り返し立ち戻ってきた虚構世界。

落語は、文学や戯曲などとならぶ言語芸術のひとつ。落語家は衣裳も書割(かきわり)もなしに、扇子(せんす)と手拭(てぬぐ)いのみを使って、自分の言葉だけを頼りに噺の世界を描ききる。

高座にあがった落語家は、まずは素(す)の自分で話はじめ、時事ネタなどを使って枕に入っていく。

落語は常に、素の落語家とマクラという、話の本体とは異なる次元によって枠付けられており、フィクションであることが、そもそもの初めから明示されている。

落語にはサゲ(オチ)があり、話の終わりには今まで話したことが冗談であったことが暴露される。サゲというのは、一種のぶちこわし作業。いかにも本当らしくしゃべっておいて、サゲでどんでん返しをくらわせて、「これは嘘ですよ。おどけ話ですよ」という形をとるのが落語。

落語は、聴き手に自分の想像力で話の世界を作り出させる芸。

古今東西を見渡しても、落語ほど貧乏人や阿呆を登場させ、彼らの生活や言動を描き、そこから共感に満ちた姿勢で笑いを引き出してきた芸能はないだろう。

落語を成立させている視点は常にこうした貧乏人や阿呆とほぼ同じレベルに位置している。

マクラとは、演者が直接に観客に語りかけることの出来る、貴重な自己表現の場である。

師匠のいないプロの落語家というのは存在しない。師匠がいるかいないかが落語家とお笑い芸人の違いだ。

落語家は、師匠に入門すると、見習い修業(半年ほど)を経て、前座(3年から5年ほど)になる。見習いのときから師匠の身の回りの世話をし、前座になると、寄席(よせ)やホールで他の師匠や先輩たちの世話もする。いま何が必要なのか、瞬時に察知し、全体がうまく回るように配慮し続けなければいけない。自分を殺すのが前座の修業時代。あらゆる時期の修業は、噺で笑いをとるための知識や技術の習得に向けられている。

師匠は弟子の前で、一つの話を、日をおいて3回喋(しゃべ)る。弟子は、その3回で噺を覚え、4回目は弟子が師匠の前で噺をして、講評を受ける。

「聞いて覚える」「見て覚える」という「模倣」が伝授の基本。「形」を細かく要素に分解し、それを難易度順に配列して、段階を踏んで徹底的に反復するという西洋式の教育方法はとられていない。

落語とは何かが、少しわかったような気になりました。寄席に行ったことはありませんが、前はCDでよく聴いていました。今なら、オーディオブックですね。目が悪くなって本を読めなくなったらこれでいくつもりです。それにしても、落語を聴いてスカッとした笑い、腹の底から笑い転げるというのはいいものですよね。静粛であるべき場所にいて、イヤホンで落語を聴いていたら悶絶しそうになりますよね、きっと…。

ものすごく勉強になりました。落語に関心ある人には必読の本だと思います。

(2025年3月刊。2750円)

顔を失った兵士たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)

著者 リンジー・フィッツハリス 、 出版 人文書院

 第一次世界大戦に従軍した兵士たちのなかには顔を大きく損傷した兵士たちがたくさん生まれました。

 手足を失っただけの兵士は英雄となった。しかし、顔を失った兵士たちは醜い外見に寛容でない社会において怪物となった。

 ところが、そこで外科医が奮戦努力して、顔の回復を目指したのです。この本の原題は「フェイスメーカー」ですから、顔をつくった人々、つまり形成外科医の始まりなのです。

顔を大きく損傷するというのは、死に匹敵するダメージを与えるものです。紹介された写真を見ると、はじめはまさしく「怪物」です。ところが、うまくいくと、ちょっとおかしいけど、「フツー」の顔にまで回復できるのです。たいしたものです。人間の顔にも復元力があるのですね…。

塹壕(ざんごう)戦では、その性質上、顔面の負傷が高い頻度で発生した。

戦車は砲撃には脆弱(ぜいじゃく)で、搭乗員はありとあらゆる怪物を負いやすかった。被弾すると、無防備の燃料タンクが炎上して火傷(やけど)を負った。

顔を損傷した兵士は、戦争から戻ってくると、孤独な生活を自ら選ぶ場合が少なくなかった。

頭部を損傷した兵士の姿には戦争で鍛えられた看護婦ですら使う撃を受けた。

顔の組織の欠損に対処する簡単な方法などなかった。手術するなら、まずは患者の体力を維持することが肝心だというのは分かっていたので、食事に特段の注意が払われた。

 顔の再建手術は段階的に行う必要がある。1人の患者に15回もの手術が必要なことがある。性急に手術すると、組織を取り返しのつかないほどダメにしてしまう。明日まで延ばせることは今日やるべからず。

 砕かれた腕は憐れみを誘い、失われた足は同情を呼び起こすが、砲弾の破片で破壊された顔は、少なからぬ嫌悪を覚えずにはいられない。そんな兵士の損傷した顔を外科医のギリースたちは努力を重ねていった。

ギリースは、形だけでなく、機能についても心を配った。

 ギリースは、内側から補都側へと順に取り組んだ。最初に内側の膜を再建し、それから骨や軟骨などの構造を支え、最後に皮膚を処理した。そうすることで、見た目にも機能にも満足できる結果を得ることができた。

 上腕から皮弁を一部とって鼻の形をつくり、それを損傷した鼻腔に縫合するという新たな技法。上腕を40日間のあいだ、包帯で顔の近くに吊り上げて固定した。その後、新しい「鼻」を腕から切り離し、残った皮膚の形を整えた。この方法は、顎や頬から皮膚をとらないので、顔をさらに傷つける必要がない。

 まず気道を保護するため、露出した傷に植皮片をあてがった。それから助骨の下から軟骨組織を採取し、それを矢じりの形に整えた。これがゆくゆくは鼻腔を形成する小鼻を側面から支えるものになる。これを顎の生え際近くに移植し、6ケ月間そのままにしておく。次に鼻腔側の裏打ちを再建するためのインレー移植片をつくり、これをその軟骨組織の下に埋め込む。安定した血流が確保されると、軟骨組織とインレー移植片を下方に移動させ、鼻柱をつくる。それから、その鼻柱を兵士の頬から立ち上げた皮弁で覆う。こうやって鼻は再建した。

病室に鐘はない。しかし、兵士に自分の顔を見ないでおくのは、いつも簡単なことではなかった。顔の傷は、心も傷つける。

 厄介なのは、手術する前に、砕けた顎(あご)の骨を並べなおして固定しなければならないこと。ところが、そのあいだ患者は顎を動かせないため、固形物が食べられない。3ケ月から12ケ月も液状の食事をとることになる。簡単なことではない。

ギリースは、外見が人の心にいかに影響を与えるか、身をもって学んだ。ギリースは、患者を楽しい気分にさせることを、とくに気にかけた。

顔面再建手術の創成期の苦難の取り組みを始めて知りました。それにしても戦争って、こんなにも残酷なものなのですよね。軽々しく「集団的自衛権を行使したらいい」なんて言ってほしくありません。

(2025年9月刊。3800円+税)

修羅場の王

カテゴリー:司法

(霧山昴)

著者 大西康之 、 出版 ダイヤモンド社

 この本の主人公の瀬戸英雄弁護士は、私と同世代です。日弁連の倒産法関係の委員会でしばらく一緒させてもらったことがあります。

 短く刈り込んだ頭髪に銀縁のメガネ。その奥に光る細い目は、資産隠しに走る債務者や貸付金回収に血眼の債権者を射竦(いすく)める。

 なるほど、この人物形容はあたっていると私も思います。

 瀬戸弁護士は「倒産村」の弁護士として、大型倒産案件の管財人として有名です。引き受けるときは、十数名の弁護士と公認会計士からなるチーム「瀬戸組」を率いる。

 この本は、まずSFCG大島健伸との対決を描いています。「じん臓売ってカネ作れ」「目ん玉売れ」と脅した、あの商工ローンです。この大島は刑事事件で逮捕され、起訴されたのに、すべて無罪となり、海外へ逃避させた巨額のお金で、今、ラオスにおいて商工ローンを営んでいるとのこと。いやはや、許せません。ひょっとして、今ではラオスを拠点として特殊詐欺に片足を突っ込んでいるのではないでしょうか…。

瀬戸弁護士は、失敗できない社会は、挑戦できない社会であり、成長できない社会である。日本は、「失敗してはいけない」息苦しさを打破し、「やり直しのできる社会」につくり替える必要があると考えているとのこと。これは、私もまったく同感です。

ところが、現実には、会社更生法の申請は、年に1社しかありません。私は1回も申請代理人になったことがありません。いえ、田舎にいても相続を受けたことは何回もあります。でも、高額の予納金がまず用意できませんし、相応の利益を確保できる目途も立たないのです。それより、転職・転業したほうが、よほど生産的なケースがほとんどでした。

瀬戸弁護士は、あくまで「実務の人」。その武器は、卓越した事務能力と人心掌握術にある。すべてのステークホルダーが押し黙ってしまうような「落とし所」を見つけ出し、「ようござんすね」と納得させる。数字の裏付と胆力が可能になる技(わざ)だ。

 本書は日本航空の倒産・再生が話の舞台です。毎月のように上京している私にとって、日本航空は株主優待券も使っていたのですが、一瞬にして株券がゼロとなってしまいました。ええっ、そんなこと許されるの…と思いましたが、またたく間に復活・再生した日本航空ですが、前の株券の復活の話は残念ながら、まったくありません。

 日本航空再生に身を挺することになった稲盛和夫は、このとき77歳。今の私とほぼ同じです。出社は週3回で無給、そして期間は最大3年というのが条件だった。77歳になってから超大会社の再建の旗振りをするのは本当に大変だったと思います。しかも、それまでの企業とはまったく毛色の異なる航空会社ですからね。

JAL再生にあたっての稲盛の心構えは、「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」というもの。私は聞いたことのないフレーズです。小さな善行はいいことをしているように見えて、大悪につながってしまうこともある。大きな善行は非情に見えることもあるという意味だそうです。

 会社更生法の適用は、まさしく非情。その一、従業員・保有材料・運航航路は3分の削減。その二、年金給付は現役社員2分の1、退職者は3割減。その三、一般の金融債権は87.5%カット。その四、44万人もの株主がもっていた株の価値はゼロ。私の保有していた株はこれでゼロとなったわけです。トホホ…。そして、その結果、JALは3年後の2012年度の営業損益は、2049億円もの黒字となったのでした。

 瀬戸弁護士は「倒産弁護士」と呼ばれ、同時に、「日本でいちばんベンツの似合う弁護士」と評された。いやあ、すごいものです。

 稲盛和夫に白羽の矢が立ったのは、「JALの改革は、既得権益の外にいる人間しか出来ない」ということから選ばれた。経団連で要職についているような経営者は、おおむね既得権益の側にいる。JALは既得権益の塊ともいうべき存在なので、それと本気で変えようとするのなら、既得権益と戦ってきた人間である必要がある。こういうことだったのです。

 なるほど、山崎豊子の『沈まぬ太陽』を読むと、日本航空が政・財・官の既得権益の塊だということが、外部にいる私のような人間にもひしひしと伝わってきます。それにしても、この本の著者はカネボーから来た伊藤淳二会長を無能な人間のように扱っているのについては、納得できません。労働組合無用論に立脚した論法ではないでしょうか。『沈まぬ太陽』の主人公のモデルとされた小倉寛太郎氏とは、石川元也弁護士(大阪)の東大同期ということで紹介されて挨拶したことがあります。古武士とはこんな人を言うのかと思った人柄でした。

瀬戸弁護士は、倒産弁護士になって30年、不可能の中に可能な見出す引き出しをいくつも持っている。「修羅場を経験したことのない者ほど、無用のリスクに怯(おび)えてしまう」

日本航空の再生は、再生支援手続と会社更生手続きを組み合わせ、しかも事前調整型の再生という、日本で初めての手続きですすめられた。商取引債権は従前どおりの条件で金額が支払われる。これによって、円滑な運航が可能となった。

稲盛が日本航空に乗り込んだとき、面従腹背の取締役も決して少なくはなかった。なので、荒療治は避けられなかった。

いやはや、瀬戸弁護士はたいした力技(ちからわざ)の持ち主なのですね…。改めて驚嘆・感嘆させたれました。よく調べてあり、一読する価値のある本です。

(2025年11月刊。2200円)

側近が見た昭和天皇

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 北野 隆一 、 出版 幻冬舎新書

 昭和天皇は戦争責任を追及され、退位を迫られることが何より心配だったし、嫌だったようです。

1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されたあと、昭和天皇はメッセージに「反省」という文句を入れたかった。しかし、それは自分だけが悪かったのではなく、「軍も政府も国民も皆わるい」として、広くみなに反省を促したいということだった。昭和天皇は、「私のした悪いことは、国務大臣の輔弼(ほひつ)が悪かったということにならなければならんと思う」と語った。つまり、天皇の戦争責任ばかりが問われるのに納得できないということ。

「責任転嫁の戦争観」だと評されていますが、私もまったく同感です。

開戦は昭和天皇の本意ではなかった周囲、とくに軍部から押し切られたのだ。終戦は昭和天皇の本意から決断された。だから昭和天皇は平和主義者であって戦争責任はないと、今も真面目にそう考えている人がいるようですが、とんでもない間違いです。

この本でも、昭和天皇がだんだん開戦論に傾いている状況が側近の記録から明らかにされています。

二・二六事件(1936年)が起きたときは、昭和天皇のもっとも信頼していた老臣が殺傷されたことから、昭和天皇は事件を起こした将校らを「凶暴」と強く非難し、自ら近衛師団を率いて鎮定(鎮圧)にあたるとまで言っていた。そりゃあそうでしょうね。この事件で宮中勢力はすっかり威信を損なってしまったのですから…。

昭和天皇がGHQのマッカーサー司令官11回も会見したというのに驚きました。すっかりマッカーサーの言いなりになったようです。たとえば、沖縄については、50年間、アメリカ軍の占領下におくことを昭和天皇が提案しただなんて、信じられません。仮に、それが良いと思っていたとしても、言ってはいけないことの典型ではないでしょうか…。

そして、昭和天皇は大の「共産党嫌い」でした。学生が学業よりも政治に興味をもつことについて、「どうも困る」「若いものが政治に興味をもちだすのは、困ったことだ」と言っていたようです。

靖国神社への参拝は、A級戦犯まで合祀(ごうし)されたのを嫌い、それ以来は昭和天皇は参拝していない。

戦後も、憲法上、象徴天皇になったことを昭和天皇はまったく理解せず、政治的発言をして、政治に介入しようとしたという実情がリアルで紹介されています。

昭和天皇の肉声が聞こえてくる気配のする貴重な新書です。日本の敗戦前後の状況に関心ある方には、強く一読をおすすめします。

(2025年7月刊。940円+税)

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