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鳥羽伏見の戦い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 野口 武彦 、 出版 中公新書

 幕末の状況を調べています。徳川幕府の失墜が誰の目にも明らかとなったのが、この鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍に完敗したことでした。

 慶応4(1868)年1月3日から6日までの4日間、薩摩藩を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激突した。両軍あわせて2万人の兵士が激しく戦った。戦死者は薩長側100人、幕府側290人。

前年の慶応3(1867)年10月に、将軍慶喜は朝廷(孝明天皇)に対して、大政奉還を建白した。しかし、慶喜は将軍職を辞めて引退するつもりではなかった。むしろ、朝廷を形ばかりのものとして引き続き政権を担当する(実権を握る)つもりでいた。

 薩摩の西郷隆盛はそれを見破り、幕府を武力で打倒するつもりだった。それが鳥羽伏見の戦いで現実化した。

それには仕掛けが必要だと西郷隆盛らは考えた。それが江戸市中を不安にかきたてることだった。諸国の浪人を募集して、500人の浪士隊を組織して前年11月から、挑発行動を開始する。押込み・掠奪・強請(ゆすり)が頻発し、御用金強盗が続発した。12月23日、江戸城二の丸が炎上した。庄内藩の警備屯所に銃弾が撃ち込まれた。

 12月25日、薩摩藩焼打ちの命令が下され、千余人が包囲。猛烈な市街戦となって、薩摩藩側は49人が戦死した。首謀者は薩摩藩の軍艦に逃げ込んだ。これによって、大坂城内にいた幕府側の将兵は大いに沸き立ち、慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩に宣戦布告した。

 ところが、慶喜は明治になってから、知らぬ顔を決め込むようになった。敗戦した戦いの責任を回避しようとしたのだ。

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗したのは新式銃がなかったので、新式銃をもつ薩長軍に完敗したという説は間違い。幕府軍側も元込銃である新式のシャスポー銃を装備していた。このフランス産シャスポー銃は射程600メートルで1分間に6回は発射できた。

 幕府軍は、シャスポー銃を備えた伝習歩兵が活躍した。ところが、薩長側は、それを上回る大砲と水銃を備えていた。薩摩軍の砲弾は1門から5月ずつ正確に発射された。敵の大砲に命中したのも、セオリー通りのこと。

 鳥羽街道では幕府軍は開戦準備の出来ていないところを撃ち込まれて大敗北。伏見では、長州藩の兵士は前に市街戦の経験もあった(禁門の変で敗退)ので、場馴れしていて奮戦した。そのうち、慶喜討伐の詔勅が出て、薩長側は勇気百倍。慶喜はついに公的に「朝敵」とされた。

幕府軍は指揮命令系統がなく、統制がとれずに、各隊はやがて勝手に引き揚げ始めた。戦場に錦旗が出現すると、慶喜はたちまち悲嘆し、朝廷に逆らう意思はなかったと言い出した。

戦局の大勢を決したのは大砲。フランス式の旋条山砲、四斤山砲を両軍とも使用した。4ポンド(1814グラム)の円錐弾を発射した。

 薩長軍が勝利して進軍すると、住民が歓呼して迎えた。それは戦争を終わらせたことを歓迎してのこと。そして、慶喜は1月5日に大坂城大広間で、大演説をぶったあと、1月6日の夜9時ころ、ひそかに大坂城を脱出し、軍艦に乗って江戸に向かった。部下を見捨てるなんて、まことに無責任な将軍です。

(2025年7月刊。946円)

徳政令

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)

著者 早島 大祐 、 出版 講談社現代新書

 徳政令が発令されると、土地を売り払った人々が売った土地の返還を要求する事案が頻発した。そこで、土地を買った側は、買いとった額の1割から2割を追加で支払うことによって、売買を確定させていた。それを示すのが、徳政落居状。

 徳政令によって債務が破棄されることを人々は初めのうちは歓迎していた。しかし、16世紀の終わりころには、忌避すべき悪玉的存在になっていた。

 中世の社会では、借りたお金は返さなければいけないという法とともに、利子を元本相当分支払っていたら、借りたお金は返さなくてもよいという法も、条件つきながら存在していた。

 中世の金融業者は、12~13世紀の借上(かしあげ)、そして13世紀からの土倉(どそう)がいた。中世の利子率は、一般に日5%。年にすると60~65%。

 祠堂銭(しどうせん)金融というのもあった。祠堂銭とは、永代供養などを目的に寺社へ寄進された資金を安定して運用するための金融のこと。元本保障と引きかえに、月2%という低利で貸し付けがなされていた。

 遣明船は、うまくいったら、200億円という巨大な利益が得られた。ほぼ毎年のように派遣されていた。室町幕府は、これによって、朝廷や寺社を圧倒していた。足利義満は、これでもっていた。ところが、次の足利義持は日明貿易を中心にしたので、この貿易利潤を失ってしまった。

 人々の不満を馬借(ばしゃく)たちが結びつけることによって大規模な蜂起へと結実した。残された手段は実力での債務破棄しかなかった。これが求めていた徳のある政治だった。

 蜂起した一揆は債務破棄という大きな成果を手にした。ところが、債務破棄を徳政だと主張した人々の思惑を超えて、徳政がひとり歩きを始めた。

 室町幕府四代将軍・足利義持の時代、応仁32(1425)年に幕府は民事訴訟制度を整備して、利用を呼びかけた。その対象には地下人(じげにん)と呼ばれる一般の人々も含まれている。幕府の法廷に一元化され、幕府法が寺社法の上位に定置された。

 分一(ぶいち)徳政令が発布した。幕府は、徳政を認めるかわりに、帳消しにした額の10分の1を幕府に納めさせた。「分一」とは、「〇〇分の一」というのに由来する。借金を帳消しにするかわりに、幕府に負債額の1割をよこせという法令。その背景には、室町幕府の財政難があった。

 ところが、分一徳政令によって1割を収納するはずの幕府には、担当者が1人しかいなかったことから、きちんと取り立てることが出来なかった。担当者は、1人から20人に増やされた。

借用ではなく、「誘取(さそいとり)売券」という売買の体裁をとって貸付がなされるようになった。徳政令の対象とならないように、借用書ではなく、売券をつかってお金を貸した。土地を担保にして「貸した」のではなく、担保地を「買った」という体裁とした。

 やがて、徳政令は戦争と一体化し、徳政には戦のにおいがつきまといはじめた。徳政に対する嫌悪感が強まった。徳政一揆そして徳政令の内実が軍隊による略奪を追認するものへ変化したため、徳政令は人々に忌み嫌われるようになった。徳政は、経済慣行だけでなく、中世社会の絆までも破壊しはじめていた。

徳政指置(さしおき)状は、土地売買を徳政から保障する文書。そして、徳政落居状という独自の方法による土地売買契約の保障が行われた。徳政によって、地域社会の疲弊は極限にまで達していた。

日本中世の貨幣経済は中国からの輸入銭に依存していた。その輸入が15世紀末ころに不調となった。江戸時代の石高(こくだか)制は輸入銭の不足も原因となっていた。

 借銭を帳消しにすることを庶民が求めたあと、実は、それがむしろ嫌われるようになっていったことがよく分かる本でした。

(2018年8月刊。880円+税)

 チューリップが咲きはじめました。3月15日(日)には初めて2本の花を見つけましたが、午後には6本の花が開いていました。

 22日(日)には、もう数え切れないほど花が咲いています。

 朝、雨戸を開けると、チューリップの色とりどりの花が出迎えてくれます。春が来たことを実感させてくれます。

 赤、真紅、黄色、白そしてまだら模様の茶色など、本当にカラフルで、見ているだけで心がなごみます。

 花粉症さえなければ、春は最高なんですが・・・。

城下町江戸の町人地

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 髙山 慶子 、 出版 原書房

 いま江戸時代をずっと調べています。江戸の町人の生活の一端が紹介されている本です。

 夏目漱石の生家(実父)も養家(養父)も、どちらも江戸の名主(なぬし)でした。実父の夏目小兵衛は、牛込馬場下横町の名主で区長、養父の塩原昌之助は四谷太宗寺円前の名主で、添年寄と戸長。漱石の自伝的小説「道草」に名主の生活ぶりが描写されているとのこと、私は、この「道草」を読んだ記憶はありません。名主の家に育った漱石は、多様な文化に接することの可能な環境で成長したようです。

名主は副業として商売を営むことが許されていなかったとのこと。驚きます。ところが、金融業は許されていたというので、二度びっくりです。金融業は商売ではなかったのでした。なんということでしょう。江戸の金融(金貸し)は、それ単独では一つの職種・生業として位置づけられていなかった。本業の合間に営まれる余業だった。だから、名主は余業として金融活動を行っていた。

 名主は幕府から、たとえば1万両の拝借金を受けとり、それを貸し付けて利子収入を得ることが出来ていたのです。なんだか不思議なからくりですよね・・・。

 町屋敷を所持し同所に居住する者が家持(いえもち)。土地を借りて自前の店舗・家主を持っているのが地借(じかり)、家屋も借りているのが店借(たなかり)、狭義の町人は家持に限られる。江戸には1600~1700ほどの町(ちょう)に50万人の町人が住んでいた。3人の町年寄がいて、250人ほどの名主が存在する。各町には月行事がいた。江戸の町年寄には、奈良屋、樽屋そして喜多村という三家があった。住民の大半は店借で、九尺二間という狭小な住居で暮らしていた。家主(いえぬし)は、家守(やもり)とか大家(おおや)という。九尺二間は、幅1間半(1.5間)に奥行き2間、つまり3坪(6畳)の広さ。ここに一家族が居住する。

 町屋敷は表店のうしろに長屋がある。上水井戸、便所、芥溜は共用で、風呂はない。住人は湯屋(銭湯)を利用する。

 江戸の名主には、一般的な町人には許されていない玄関を居宅に構えることができたし、世襲も許されていた。

 江戸時代の江戸では100件以上の水害が発生した。明暦(めいれき)3年(1657年)3月の明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれるが、出火原因は不詳とのこと。このとき、数万人レベルの焼死者が出たことは間違いない。そして、幕府は、この大火のあと200年間、江戸城を火災から守り抜くことに成功した。町火消の制度・体制を確立した。

 江戸の町家での暮らしぶりの一端を知ることが出来ました。

(2025年12月刊。3960円)

 私は弁護士になって以来ですから、もう50年になりますが、毎朝、NHKのフランス語ラジオ講座を聞いています。

 入門編と応用編です。朝7時半から15分間、なるべくテーブルについて聞くようにしています。ちっとも上達しませんので、いつまでも入門編は欠かせません。

 ところが、なんと、NHKは3月3日から午後2時に放送すると変更します。深夜2時に聞けるはずもありません。聞き逃がし配信を利用するしかありません。

 英語のほうはこれまでどおりのようですから、フランス語の聴取者が減っていることからのようです。本当に残念です。

人間と昆虫のこれからを考える

カテゴリー:生物

(霧山昴)

著者 沼田 英治 、 出版 岩波ジュニア新書

 前にも聞いていましたが、マゴットセラピーという治療法があります。ハエの幼虫(ウジ)を使って、治りにくい潰瘍(かいよう)を治療する方法のこと。

傷の治療にウジが有効なことは古くから知られていました。19世紀のアメリカの南北戦争のとき、負けた南軍の兵士の傷が放置され、傷口にウジがわいていた。ところが、あら不思議、南軍の兵士の傷は治って生存し、消毒してもらっていた北軍の兵士のほうが逆に死亡率が高かったのです。今や日本でも生かされています。ウジが悪化した部分を消化して食べると同時に細菌の繁殖を抑制し、新しい肉が再生するのを促進するのです。

 キイロショウジョウバエという体長3ミリほどの小さなハエは、これまでに5回ものノーベル生理学・医学賞に貢献している。いやあ、これはすごいことです。容易に手に入り、安価なエサで飼育でき、世代時間が短く、体が小さくて場所をとらないので、狭い実験室でどんどん増えることになる。

 法隆寺に王虫厨子がある。このタマムシは色のついた物質によるものではなく、構造色なので、その構造が維持されているかぎり色が保たれる。色落ちというのがないのです。

 イネに害を与えるウンカは、温暖な中国南部やベトナム北部で冬を過ごし、初夏に海上を移動して日本にやってくる。上昇気流に乗って下層ジェット気流という南西の風の吹く高さまで上がり、それに乗って日本にやってくる。すごいですね、こんな遠方から、あんな小さな虫たちが大挙して飛んでくるとは信じられません。

 日本でマラリアの発生は1959年が最後。1935年までは、日本でも年に数万人もの患者が発生していた。この本によると、アレクサンドロス大王も平清盛もマラリアで亡くなったとしています。

 この本では、コオロギを食べることをすすめています。安価なエサで容易に飼育できるからです。でも、まあ、なんとなく、すすんで食べようという気にはなりませんね……。

 次に、すすめているのがアメリカミズアブです。生ごみをエサとして育てて、これをエサとして食用のタイやブリを養殖するというのです。これなら文句ありませんね。ぜひ大いにすすめてほしいものです。

(2025年11月刊。880円+税)

馬と人の古代史

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴)

著者 若狭 徹 、 出版 角川選書

 父の実家は福岡県大川市にあります。筑後平野の真只中で、私の子どものころ遊びに行くと、見渡すかぎり水田が広がっていました。その実家で戦前、叔父(父の弟)は競争馬(サラブレッド)の育成を副業としていたとのことです。すらっとした体格のうつっている、証拠の写真も残っています。けっこう儲かっていたと叔父は言っていました。戦前も競馬ブームがあったようです。

 一般には馬も牛も農耕馬でした。昭和30年代まで、関東平野でも農耕馬が活躍していました。しかし、やがてトラクターや耕運機がとって代わりました。

古代日本に馬が中国・朝鮮から入ってきたのは、「動力革命」も同然だった。

馬は権威の見せびらかし、敵を圧倒する騎馬軍団、そして農耕・荷役(にやく)への馬の利用は、社会構造を大きく変えた。

 ひところ私も心酔した江上波夫教授の唱えた「騎馬民族征服王朝説」は、今や残念ながら完全に否定されています。それにしても、全国各地に見事な馬形埴輪(はにわ)があるのですね。

 群馬県保渡日八幡塚古墳の馬形埴輪も見事です。「馬引き人」の埴輪もあります。 「踊る埴輪」は、踊っているのではなくて、馬の手綱を引く「馬引き人」なのです。

 馬形埴輪は、鞍を乗せたり飾り馬がすごいです。女性が横座りするための鞍も出土しているとのこと。

 馬は3世紀には倭に入ってきたが定着しなかった。そして、本格的に騎馬文化が日本に入ってきたのは5世紀、古墳時代の中期。

 馬の生産を支えたのは信州(長野県)というのも意外です。日本海ルートを介して、4世紀の長野盆地に朝鮮半島からの渡来人が定着し、古墳を築くほどの地域首長になっていた。

 そして、東北でも馬を生産していた。西国・九州でも名馬を生産していて、蘇我一族を名馬の産地である日向馬にたとえた推古天皇の歌がある。

 5世紀中葉の馬具は、九州全域に存在する。馬を扱う官庁として、左馬寮、右馬寮、兵馬司、主馬寮、内厩寮といろいろある。いずれも兵部省の管轄です。軍馬の確保は大切だったことが分かります。

 馬は国家で管理していたのです。高句麗から招来された技術者集団が波革加工集団として存在していました。

そして、道路に関して駅路と駅家が整備された。駅路は、両側に側溝を備え、幅員9メートルとか12メートルの直線道路だった。両側には柳の木が植えられていた。駅路の16キロごとに駅家が置かれた。ローマ帝国のアッピア街頭を思い出しますね。また、ペルーのインカ帝国も道路網を整備していました。

 飛鳥・奈良時代の馬具はシンプルだったが、その前の古墳時代の馬具は、巻絡豪華だった。豪族たちは持ち馬の見せびらかしに執心していた。

 馬と人との関わりを詳しく知ることが出来る本でした。

(2026年1月刊。2200円)

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