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世界へ飛び出た100人の日本人

カテゴリー:社会

(霧山昴) 

著者 おか けいじゅん(聞き手) 、 出版 集英社インターナショナル

これは、とてもとても面白い本でした。いつもそんなことはしないのですが、昼食をさっさと済ませて、昼休み時間も読みふけりました。いつもの昼休みはインターネットやFBを見たり、ユーチューブを見たりしています。

日本を出て外国で暮らす日本人は130万人ほど。日本の総人口1億2千万人の1%だ。しかし、最近の日本人はパスポートを持っていない。持っているのは3割ほど。韓国人は5〜6割がパスポートを持っているのに比して、明らかに少ない。

かつては、海外カニ族なるものがいた。若い人々が、「なんでもみて世界各地へやろう」と意気込んで、自由な旅に出かけた。今は、それも珍しくなった。

この本はロコタビという、海外在住の日本人にいろいろな仕事を依頼できるウェブサービスによる。2017年にロコタビに登録していたのは数千人だったが、今は179ヶ国8万人が登録している。

この300頁、本文2段組の本には、100人の海外に住む日本人へのインタビューが紹介されている。どれもこれも、すこぶるつきの面白さだ。

私自身はコロナ前から海外旅行は卒業した気分で、これからは国内旅行に出かけたい。

日本は同調圧力がすごく、ストレスがたまる社会。それに比べて同調圧力がまったくない(ノルウェー)とか、すべてが自己責任なので、他人から責められることがない(サウジアラビア)とか、まるで社会が違い、人生観の違う多様性を体験するなかで自分を解放していくことができる。

人生は1回きりなので、後悔しない生き方をしよう、今しか出来ないことをしよう、と思い切って日本を脱出し、海外で生活している人がこんなに多いのか…。みんな勇気があるなあ、と驚嘆してしまいます。それにしても何かの特技を持っている人はいいですね。踊りだとか楽器だとか、また写真や絵を描けるとかもいいですよね。

日本で10代のときストリートダンスを始めダンサーをしていた女性がセネガル(アフリカ)に行ってセネガルでダンスを学び、やがてイスラム教に改宗したとのこと。すばらしい。

今楽しいことが最優先なので、先延ばしてきたものはすべて「明日はやる」とするが、その「明日」は永遠にまわってこない(ケニア)。

給料をもらったら、みなすぐに使いきってしまう。給料日にはお金がない。「今が楽しければいいじゃない」、 「バナナを食べたらOK」。なので給料日は法律で月2回とすることになっている(フィリピン)。

手持ちのお金は、あるだけ使う。足りなければ、分割したり、借りてでも、「今ほしいから、今買う」という考え方の人が多い。家計が火の車であっても、とくに困っている様子はなく、むしろ明るい(エクアドル)。

ふわっと生きたい人にとっては楽しい国(スリランカ)。

とにかく優しい人が多い。お金に困っていると知らぬ人がごはんをおごってくれる(カンボジア)。

気軽にフットワーク軽く、「とりあえず行ってみる」といい(ガーナ)。

自分らしく、自由でいられる人がオープンで、明るくて笑顔なので、こちらまで笑顔になる(南アフリカ)。

自然豊かな場所で、スローな時間を過ごしたい人。時間がゆっくり流れている感覚を肌で感じられる(ブルガリア)。

世界をのぞき見た気分に大いに浸ることができました。感謝します。

私は40代半ばのころ、夏に40日間、南フランスのエクスアンプロヴァンスに行き外国人向け夏季集中講座に参加しました。大学の寮に宿泊まりし、まさしく学生気分にたっぷり浸ることができました。本当に行って良かったと思っています。妻と子どもを放っぽらかして「独身」のように出かけましたので、いろいろ言われましたが、今となってはそれもいい思い出です。

外国に出かけて、外から日本と比較してみるのは、とてもいいことだと思います。

(2026年4月刊。2200円)

ノマドという生き方

カテゴリー:フランス

(霧山昴) 

著者 左地亮子 、 出版 世界思想社

これまでの依頼者に長距離トラックの運転手が何人もいましたし、今もいます。1年の大半をトラックの中で過ごす人々です。家に帰るのは月のうち数日だけという人も少なくありません。寝るのはトラックの運転手のうしろ。そしてトラックは高速道路のパーキングエリアかコンビニの駐車場。トイレはもちろんそこにありますし、シャワー室もパーキングエリアにあるそうです。まあ、こういう人たちのおかげで日本の物流は成り立っているわけですが、これも「移動しながら生きるひと」に含まれるのではないのかな…、ふとそう思いました。

この本にも紹介されていますが、日本でもキャンバンカーで日本中を漂泊している人々がいて、たまに集合することがあるそうです。

本書は、フランス南部を拠点としつつも、移動して生活しているマヌーシュの人々に焦点をあてています。移動しながら生きるとは、どういうことなのか、なぜ彼らは一箇所に定着しない、しようとしないのか、考えさせられました。

今日、世界のジプシー・ロマのほとんどが定住生活を営むなか、マヌーシュは移動生活を続ける。フランス南西部、ピレネー山脈に近いポー地域には1300人のマヌーシュが暮らしている。著者は、20年来、ここで研究を続けている。

ジプシーは日本では蔑称とされ、ロマと言い換えられることが多い。しかし、彼らは自分たちをロマとは呼ばない。

世界各地に1200万人ものジプシーあるいはロマと呼ばれる人々が存在する。

現在のフランスには、マヌーシュ、ジタン、ロマという多様な集団が暮らす。フランスに暮らすジプシーの総人口は30万人から50万人と推計されている。しかし、正確な数値ではない。ジプシーと呼ばれる人々の目の色、肌の色そして髪の毛は実にさまざまであって、決して一定していない。

それでも、多くのフランス人は区別できる。話し方、歩き方、身ぶりや服装、つまり「身体を用いる作法」に特徴がある。サポサンダル(かかとのないサンダル)、目につく付けた胸元を飾る金色のアクセサリー、身ぶりの大きさ、堂々とした歩き方などだ。そこでは髪の毛や肌の色は問題にならない。

マヌーシュ共同体は移動のなかで離合集散をくり返してきた。ポー地域のマヌーシュは、1年の大半をここで過ごし、旅に出るのは春から秋にかけて。せいぜい数ヶ月間。

マヌーシュは、今も「定住民」ではなく、移動生活者であり続けている。自分の勘定で働き、収入も労働時間も自由度が高い働き方を選ぶ。マヌーシュの家の中はシンプル。マヌーシュは、家を手に入れても、キャンヴァン(車)は手放さない。キャンヴァン内部の空間は清潔な状態に管理され、汚れの侵入は避ける。家は、移動を前提とした生活を支えるための拠点。自由に、出発し戻ってこれる移動の条件を確保し、社会の連鎖を活発化させる。

マヌーシュにとって、ファミリアは一番重要な社会的基盤。老人ホームに親を預けるなんてことは、マヌーシュではありえない。子育ても、母と父だけのものではない。子どもの欲求や要望は、できるかぎり受けとめようとするのがマヌーシュ流の子育て。

ふだんは散在し、必要なときに集結する。連帯を常に意識しつつ、群れすぎない。マヌーシュの社会組織には権力が存在しない。親は既婚の子に何かを強いることはない。マヌーシュは、基本的に夫婦や親子であっても他人に何かを強いることがない。個人を強い力でしばることはない。あえてしばらない。

マヌーシュの結婚は、今も昔も「駆け落ち」という形態をとる。

問題が起きたとき、その解決手段として、「移動し、離れる」ことがある。

私にはとてもマネできませんし、しようとも思いませんが、世の中には多種多様な生き方があるという事実だけは、しっかり理解できました。

(2026年6月刊。2200円)

海の幕末日本

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 後藤敦史 、 出版 人文書院

アメリカのペリー提督が日本に来る前に、イギリスの測量船サマラン号が1845年8月(弘化2年7月)に長崎にまで来ていて測量したことを初めて知りました。長崎奉行は測量禁止を通告したのに、勝手に測量したようです。

次に1849年5月(嘉永2年4月)に、イギリス艦マリナー号が江戸湾口の三崎沖合にやってきて測量しました。この船には、かの有名な漂流民の音吉(おときち)が通訳として乗っていました。伊豆の下田港にもやってきて、測量していたようです。

そこで幕府は、天保13(1842)年に撤廃されていた異国船打払令を復活させるべきか、老中や奉行たちが議論したのです。しかし、復活については反対意見は強く、復活されなかったようです。

ペリー来航(黒船来航)は1853年7月(嘉永6年6月)のことです。ペリー提督の率いる、東インド艦隊の4隻の軍艦が浦賀沖に出現しました。「たった4杯で夜も眠れず」といわれたほど日本社会に激震(大きな動揺)を与えました。

その後、アメリカ海軍は北太平洋測量艦隊を日本に派遣しています。1854年12月に鹿児島湾、翌55年3月から5月にかけて、下田や箱館に来航し、測量を実施したようです。

1853年9月、ロシアとオスマン帝国との間でクリミア戦争が始まり、翌54年3月には、イギリスとフランスがオスマン帝国側に立って参戦した。

イギリス測量艦隊に対して幕府は伊能図を提供した。これによって日本の海岸線を測量する必要はないとイギリス側は判断した。伊能図の精密度、正確さにイギリス側は感嘆したとのこと。なるほど、それはそうでしょうね…。

日本側は、その後、アメリカの測量船に「稽古」のため日本人5、6人を載せて、測量技術を習得させようとしたとのこと。

イギリスはアヘン戦争で中国・清を打ち負かしたわけですが、攘夷を実行してきた長州藩などに接して、対日戦争を意識した計画を立案していたとのこと。これまた、知りませんでした。具体的には瀬戸内海封鎖と大坂攻略。江戸は海に面しているので可能だけど、京都は内陸部にあるので無理。大坂は可能性ありと考えたようです。このころ、日本側は大坂まで攻められることはないだろうと安易に考えていたとのこと。考えが甘いようです。

1864(元治1)年3月、慶喜が将軍後見職を辞し、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。慶喜は島津久光を警戒していた。参与会議によって国を運営する構想があったが、薩摩藩の主導で運営される危険を察知し、慶喜は、参与会議の構想を3ヶ月で解体した。

アメリカでは1861年から65年まで南北戦争が戦われていましたが、この間、外へ目を向けられなかったアメリカに代わってイギリスが積極的に動いていたようです。

海と測量の点に重きを置いた幕末政治史として興味深い内容がたくさんありました。

(2026年4月刊。3850円)

タリバンの世界

カテゴリー:中近東

(霧山昴) 

著者 川上珠実 、 出版 毎日新聞出版

いまアフガニスタンを支配しているのはタリバン。アメリカは20年間も、アフガニスタンを支配しようとしましたが、結局、見事に敗退してしまいました。かつてのソ連と同じです。その失敗を教訓として学ぶことなく、先日イランを攻撃して支配しようとはしたが、これまた見事に失敗。ところが、見栄っ張りのトランプは近く「勝利」宣言するようです。バカバカしい宣言です。それにもろ手をあげて賛同するのは、日本のタカイチ政権くらいではないでしょうか…。

問題は、タリバン支配下のアフガニスタンで女性が抑えつけられていることです。女性は小学校も大学も行けないというのです。これまたバカげた政策です。

著者がタリバン政権の要人とインタビューすると、女子生徒の通学の安全性が確保できないからだというのです。ひどいものです。政権を担当していながら、女子生徒が学校に安全に登下校できないのを、社会のせいにするのです。それでも、少女たちは、(地域にある)秘密の学校に通っています。著者は、そこに潜入して取材するのです。簡単なようで実は命がけ(の取材)というのに驚かされます。

少数民族であるハザラ人の学校がテロリストに襲われ、命をかけて通っていた54人もの女子生徒が亡くなったのです。痛ましいことです。そもそもイスラム教徒の女性が学校で学べないというのはコーラン(クルアーン)に明記されていることではありません。

タリバンがアフガニスタンを武力で制圧したのは、2021年8月15日。もう5年もまえのことです。一般には、治安はかなり改善されているようです。

タリバンはジャーナリストを抑圧している。2021年8月から3年間で、ジャーナリスト141人が逮捕拘束されている。拷問も受けているようです。

タリバン政府の大臣は、女子生徒に道を歩かせたり公共交通機関を使わせることはできない。専用の車を用意すべきだけど、そんなお金はないと強弁しました。おかしな説明です。

首都カブールでは、マスク姿の女性は多いし、ブルカ姿の女性のほうが少ない。女性の意識は変わってきている。女性だけの街頭デモもあっている。女性たちは黙っているわけではない。

女性に対する学校教育が停止されたことから、女性の結婚が早まり、28%の女性が18歳になる前に結婚している。

アフガニスタンで活動していた中村医師が殺害されたのは2019年12月のこと。偶像崇拝を禁止するタリバン支配下なのに、大きな公園がありそこに顔写真が掲げられています。必要なのは武器ではなく、緑の大地、これを実践した中村医師の偉業を日本政府も少しは見習ったらいいのですが、タカイチはアメリカ頼み、武器頼み一辺倒です。残念でなりません。

勇気をもって現地取材してきた著者はすばらしいです。日本にもっとこんな記者が多くいてほしいものです。

(2026年3月刊。1540円)

兵士たちの戦場

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴) 

著者 山田朗 、 出版 岩波現代文庫

私も靖国神社には見学に行ったことがあります。太平洋戦争でたおれた「英霊」がまつられているというのですが、「アジアを解放した戦争」という宣伝臭がぷんぷんしていました。ところが、この本を読むと、日本兵はとくに南太平洋では餓死、病死がほとんどだということが分かります。敵(アメリカ軍)弾によって殺されたのではありません。日本軍上層部が補給もなしに密林に送りこみ、放置したため、食べ物がなく、病気になっても薬はなく、日本兵が無惨に放置されて死んでいったのです。こんな扱いを受けた彼らが靖国神社に祭られて喜んでいるとは、私にはまったく見えません。餓死させられる寸前にあったものは、絶望と怒りだったと思います。自分たちは、これで日本国を守ったなんて思ったはずはありません。無責任な軍上層部への怒りにみちみちて、彼らを呪いながら死んでいったことでしょう。

軍事史研究の第一人者である著者は854点の戦争体験者の回想録を読んで検証し、再構成しています。1100人以上の人が登場します。

死んだ人は回想録を書くことが出来ません。生き残った人は生還した喜びと同時に、自分だけが生き残ったことへの「申し訳なさ」を語っています。

「戦争は人間が始めるものだが、戦場では、個人の力では終わらせることはできず、自らの生死も、その死に方も自分では選択できない」

フィリピン戦線で、日本はルソン島に28万7千、ネグロス・レイテ等に15万人、ミンダナオに10万人を投入した。ところが、初めから食料は乏しく、日本軍兵士はたちまち飢餓地獄に陥った。ネグロス島では1万3500人の日本兵のうち生き残ったのは3千人、6千から7千人が餓死した。

ビルマのインパール作戦において作戦が失敗し、撤退していくとき「後尾収容班」がつくられた。これは、落伍兵に肩を貸すところか、動けなくなった兵隊に自決を強要し、それを拒否されると射殺したり、注射して毒殺していった。インパール作戦では、撤退作戦を含めて戦死3万、戦病死・餓死2万をだした。

風船爆弾は9300発が放たれ、うち1000発がアメリカの土地へ着弾し、民間人6人が死亡した。日本軍は、風船爆弾に致死性の高い牛疫ウイルスを載せようとした。食肉牛を殺すことによってアメリカにパニックを起こし、戦意を喪失させようというもの。しかし、直前になってストップされた。同じようなことをアメリカ軍から報復としてやられるのを恐れたからだ。

繰り返しになりますが、日本軍は食糧その他の補給のことをまったく考えなかったのですね。これは、今のタカイチ政権が日本を守るため軍備と称してを大増強していますが、では、日本海側にたくさんある原子力発電所を守れるのか(守れるはずはありません)、ということをまったく考えていないことと同じです。

日本人を守るというのではなく、戦争をビジネスとして考え、軍需産業を肥え太らせ、それによって自分たちだけはぬくぬくともうかるという仕組みです。

昔も今も、「戦争屋」は、自分のことしか考えていないのに、多くの国民はそれに乗せられてしまっている悲しい現実があります。ぜひ、多くの人に読まれてほしい本です。

(2025年7月刊。1760円)

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