弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年9月18日

革命と内戦のロシア1917-21

ロシア


(霧山昴)
著者 アントニー・ビーヴァー 、 出版 白水社

 大学生のころは、マルクスよりレーニンのほうが論旨明快だと思って読んでいました。哲学的思惟の深さがあると、なかなか読み進めるのが辛いのですが、レーニンのほうは事実をもとに展開していくので、どんどん読み進めていくことができました。いずれにしても、マルクス・エンゲルスもレーニンも、論理的な思考力を身につけるという点で、私には大いに役に立ったと考えています。
 この本は、ロシア革命の悲惨な現実を明らさまにしたうえで、レーニンの率いるボリシェヴィキが文字どおり少数派でありながら、赤色武装兵士と市民によって革命を強引に進めていった経過を、いつものように微に入り、細に入って論証していきます。
レーニンが決して聖人君子ではなかったということは、私もかなり前から、そうなんだなと思っていましたが、ロシア革命の推移する現実の詳細を知ると、ますますその感を深めました。
 まずは、ロシア革命前のロシア人民の置かれていた、あまりにも悲惨な現実があります。
無敵のロシア軍の基礎を形成するのは頑強なロシア農民であるという伝説は幻想に過ぎなかった。実際には、農民出身の若者の4人のうち3人は慢性的な健康上の欠陥から、兵役に就くことができなかった。農村からの徴募兵の質の悪さが指揮官たちの不満の種だった。農民の子どもの半数は5歳になる前に病気で死亡した。
 農村の女性のほぼ全員が婦人病にかかっている。村々は梅毒によって腐敗していた。
 ロシア軍の士官には、規律を守らない兵士の顔面を殴打する権利が認められていた。
 ロシアの首都ペトログラードに住む富裕層が、まるで戦争なんて起こっていないかのように豪楽的生活を楽しんでいる一方で、貧困層はパン不足から騒乱を起こしていた。
 あまりにも長いあいだ蓄積されてきた人民の憎しみが噴出し、抑えられなくなった。
 軍隊の内部に反革命の動きがなかったことは、もっとも保守的な軍幹部グループさえもが皇帝と后妃に絶望していることを意味していた。
 戦争に疲れていた兵士たちは、変革を歓迎した。レーニンも1917年2月に起きた二月革命によって不意をつかれた一人だった。
レーニンは強烈な自信家であり、自分以外の誰をも信用しなかった。レーニンにとってボリシェヴィキによる権力奪取に役立つことなら何でも許された。
 ゆるぎない自信にみちて快活に話すレーニンの演説は聴衆を魅了し、力強い指導者としてのオーラを放った。
 村部で圧倒的な支持を得ている社会革命党(エスエル)に比べると、ボリシェヴィキは人数からいっても極小政党に過ぎなかった。また、各地の労働者代表ソヴィエトの大半においてもボリシェヴィキはわずかな少数派にすぎなかった。このことはレーニンも承知していた。
 レーニンの長所は複雑な事柄を明快に説明し、納得させる能力にある。しかし、レーニンの演説は聴衆を乗せるようなものではなかった。これに対して、ケレンスキーの演説は聴衆の心に火をつけて燃え上がらせ、興奮状態に誘い込む。ケレンスキーは、聴衆の心をつかみ、恍惚の涙を流させることができた。レーニンは、人々の魂の中のもっとも暗い部分を鈍器で殴るような話し方をした。
 戦場では、ロシア兵と対峙しているドイツ軍の兵士とが撃ちあいをやめ、局地的な休戦を交渉し、局地的な休戦が成立した。なかには、共用の売春宿まで設立していた。
 ロシア軍の大本営(スカーフカ)による6月大攻勢は最悪の結果をもたらした。連合諸国の信頼を失ったばかりでなく、前線で戦うロシア軍兵士の大部分に、その努力や犠牲が不毛であることを確信させてしまった。これにより、戦争反対を主張するレーニンの立場は大幅に強まり、ケレンスキーの臨時政府の立場は弱体化した。
 レーニンは、バルチック艦隊の水兵たちがいかに制御不能かをよく知っていた。なぜなら、水兵は、少数派アナーキストの影響下にあったから。兵士たちは、すべての士官を潜在的な反革命分子と見なしていた。
 レーニンは、ボリシェヴィキ以外の勢力を少しも信用しておらず、ましてや「暗黒の大衆」には、いささかの信頼も寄せていなかった。
 銃剣を地面に突き立てて故郷に帰ろう。これこそ、灰色の兵隊外套を着た農民たちにとって、明瞭で、単純で、心を惹きつけるスローガンだった。ボリシェヴィキは、分かりやすいスローガンを繰り返すことで、大きな力を発揮した。
 ボリシェヴィキに対抗して戦う姿勢を示したのは、ドン・コサック大隊だけだった。
 マクシム・ゴーリキーはレーニンの親友だったが、レーニンの性格について何の幻想も抱いていなかった。
 「レーニンは、万能の魔術師などではなく、むしろプロレタリアートの名誉も生命も斟酌しない冷血の奇術師である」と、新聞のコラムに書いた。
 ボリシェヴィキの権力奪取に反対する蜂起は各地で多数発生した。しかし、互いに連絡も調整もなく、孤立して発生したため、個別に粉砕されていった。
 1918年2月、レーニンは、裁判などの司法手続なしに拷問し、処刑する権限をチェーカーに与えた。チェーカーへの応募者は後を絶たず、2年内に2万人に達した。
 チェーカーには、2つの優先課題があった。一は、犠牲者たちから、出来るだけ多くの現金と貴重品を回収して共産主義の大義を実現する資金とすること、二は、潜在的な敵対勢力を情け容赦ない階級戦争によって壊滅すること、だった。
 赤色テロルがロシア全土に広まり、食料徴発隊こそ問題を悪化させていた。
 あまりに悲惨な状況に、読んでいて声も出なくなりました。
(2025年5月刊。3900円+税)

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2025年9月17日

東大生に教える日本史

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 文集新書

 私は高校生のころ日本史も世界史も大好きで、得意中の得意科目でした。歴史を暗記科目だと考えたことはありません。ともかく、時代の流れと次々に登場してくる人物の個性に心が惹かれていました。これは小学生のころに偉人の伝記を読みふけっていた、その延長線にあったと思います。
 著者は東大の高名な歴史学者です。教養学部の東大生に対して歴史のダイナミックな視点を提起しています。とっくに大学生ではない私も、知的好奇心をかきたてられました。
 織田信長はフツーの戦国大名ではなかった。このように著者は強調しています。武田信玄も上杉謙信も自分の居城からまったく動いていないし、動こうともしなかった。戦国大名というのは、天皇にも将軍にも頼らず、自分の実力(武力)だけで自分の国を支配している者をいう。ところが織田信長は、清洲城、小牧山城、岐阜城そして安土城へと本拠地を大規模に、頻繁に移した。そして、商業の中心地としての京都をおさえた。そこに信長の革新性がある。なるほど、と私は思いました。
 秀吉の全国統一はわずか8年で達成された。ところが、それは旧来の勢力を温存したままだった。秀吉は部下の武将について、戦場での働きよりも、デスクワークを重視していた。秀吉は兵站(へいたん)を重視した。加藤清正は秀吉の期待にこたえたことから20万石の大名となった。
 石田三成などの秀吉政権の五奉行は見事に行政系ばかり。うむむ、そうなんですね...。秀吉には徳川家康と違って「家」という意識が希薄だ。私も同感です。秀次とその関係する女性を皆殺しにするなど、「家」を大事にする気持ちが少しでもあれば、こんなことは絶対に出来なかったと思います。
 徳川家康は、秀吉とは正反対に、武功に厚く行政官に冷たかった。実務官僚には他家から人材を個人として登用し、ちょっとしたことで禄を減らした。そして、秀吉が気前の良さを売りとしていたのに対して、家康は、とてもケチだった。うむむ、そんな違いもあるのですか...。
 室町幕府の足利義満は自ら天皇になろうとしていたという有力な説があります。私も面白い説だと思うのですが、著者は否定します。義満は、すでに天皇を超える立場にあった、いわば治天の君(ちてんのきみ)的な存在だったから、あえて自ら天皇になる必要なんかなかったというのです。そうか、そうなのか...と思いました。
 そして、義満にとって「不幸」なのは、親子の仲が良くなかった息子の義持が義満の死後、次々に義満の政策を否定してしまったことでした。
 こんな授業を大学1年生とか2年生のときに受けていたら、そうか学問の世界は底が深い、まだまだ解明されていないことがたくさんあることを知って、勉強する意欲を大いにかきたてられることと思いました。申し訳ないことに、セツルメント活動に夢中になり、ほとんど授業を受けていません(もっとも、2年生の夏ころからは東大闘争が始まり、授業がなくなりました。当時の私は、それを喜んでいたのでした)。一読をおすすめします。
(2025年2月刊。990円)

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2025年9月16日

カエルの見つけ方図鑑

生物


(霧山昴)
著者 松橋 利光 、 出版 山と渓谷社

 わが家の庭には、カエルもいます。モグラがいて、昔からヘビもいるのです。梅雨どきには、門柱あたりに小さな緑色のアマガエルがじっとしています。私は見るだけで、邪魔はしません。庭を耕すと、土色の小さなツチガエルがぴょこぴょこ出てきます。冬に庭を掘り返すと、冬眠中のカエルが出てきますので、そっと土のなかに戻してやります。
 すぐ下の田んぼが水田だったときにはウシガエルが鳴いて、うるさいほどでした。
 小学生のころは、カエルのお尻にストローを差し込んで、お腹をふくらませて、池の中にポーンと放り込んで、カエルがあたふたするのを見て面白がっていました。子どもは残酷です。
 ザリガニ釣りをするときは、そこらのカエルを捕まえて、地面に叩きつけたあと、カエルを股さきして、カエルのももに糸をつけてエサにしてザリガニを釣り上げていました。カエルをエサにするとよく釣れるのです。カエルを手にとって叩きつけて殺すことなんて、子どもはみんなまるで平気でした。
 この本によると、カエルは体を乾燥から守るための分泌物に毒性があり、手に傷があると、分泌物が染みて、ピリピリと痛みを感じたり、分泌物に触れた手で目を触ってしまうと目が開けられないほどの痛さを感じることがあるそうです。なので、カエルをさわったら、必ず手を洗うように、とされています。
 ヒキガエルは、耳線や皮膚から、白い粘性のある毒を出すことがあるので、親指と人差し指を輪にして、後ろ足のつけ根を持つとよいとのこと。
久しく森のなかの小川近くに行っていませんが、鳴き声に惹かれるのは、なんといってもカジカガエルですよね。
 オスはメスに気づいてもらうために必死で鳴いている。カエルを飼うときの注意として、カエルはよく食べるので、エサを十分に与えないと、やせてしまう、とあります。
 とくにヒキガエルは大食漢だそうです。ダンゴムシやワラジムシを好んで食べるとのこと。我が家には、ダンゴムシが、それこそウジャウジャいます。庭のカエルが何を食べているのか、気になっていましたが、謎の一つが解けました。
 コオロギも食べるそうですが、こちらは捕まえるのが難しいですよね。
 それにしても、池がなく、水気の乏しい我が家の庭のどこでオタマジャクシが育つのか、不思議でなりません。
 たくさんの身近なカエルの写真を眺められる、楽しい図鑑です。
(2025年4月刊。1760円)

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2025年9月15日

久留米城とその城下町

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 古賀 正美 、 出版 海鳥社

 久留米城と篠山(ささやま)城と、どちらが正しいのか...。
 この本によると、江戸時代まで久留米城と呼ばれていて、明治になってから篠山町にある城として、篠山城と呼ばれるようになったとのこと。藩も久留米城を公的な名称としていた。
 久留米が文書で登場するのは、14世紀半ばのこと。
 高良大社、高良山座生が久留米城主だった。
 戦国時代になって久留米城に小早川秀包(ひでかね)が入場した。毛利元就(もとなり)の九男として生まれ、小早川隆景の養子となった。
 小早川秀包とその妻(大友宗麟の娘)はキリシタンであり、城近くに教会堂を建てた。今は久留米市庁舎の敷地となっている。
その後、関ヶ原の戦いのあと、田中吉政は、柳川城を居城としながら、久留米城も支配した。
 さらに、有馬豊氏が、支配するようになった。久留米藩21万石である。久留米城には本丸はあっても、天守はない。
 黒田騒動が起きて、筆頭家老の栗山大膳は奥州南部藩へ配流されたが、有馬藩は栗山大膳の家臣9人を抱えた。このことから、福岡の黒田藩とは不仲となった。
 江戸時代初期、長崎・出島のオランダ商館のドイツ人医師ケンペルが江戸参府の途中で久留米城下を通行していて、日記を書き残している。元禄5(1692)年3月と5月のこと。久留米の城下町は1千戸とか2千戸とか書いている。
 幕末期の久留米城下町の町民人口は8千人ほど。それを8人の町別当でおさめていた。この8人の町別当のうち5人が藩から処分を受けたことがある。
 町別当は、8人いて、毎年2人ずつが交代で年番をつとめた(年行司)。
久留米の城下町の町人の生活ぶりを知りたくて読みました。お盆休みに3日間、久留米の図書館に行って調べものをしたときに、この本を知って購入したものです。
(2018年3月刊。2640円)

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2025年9月14日

江戸の食商い

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 権代 美恵子 、 出版 法政大学出版局

 東京メトロの「三越前」駅の地下コンコースの壁面には、17メートルもの長大な、日本画「熙代(きだい)熙覧」を1.4倍した複製画があるそうです。ぜひ今度みてみましょう。
 江戸時代の詳細な風俗絵巻です。登場人物だけでも1671人で、当時の問屋や商店が精密に描かれています。屋号や商標まで読みとれるというのですから、圧巻です。
 江戸に住む人々のうち町人とは、幕府が認めたのは家持(いえもち)と家守(やもり)だけ。家守は家持が貸す家や土地の維持管理人なので、いわゆる大家。
 宅地を借りて、そこに家を建てて住んでいるのは地借(じがり)人。家屋を借りて住む店借人(たながりにん)や借家人は町人とはみなされなかった。
 家持には「町入用(ちょうにゅうよう)」という税金が課された。そして、町役人は町人のなかから選ばれた。町人地には、表店(おもてだな)と、裏店(うらだな)がある。
江戸で火事は日常茶飯事だったので、消火のたびに出動する方法として、破壊消火だった。それもあって、長屋は、あえて壊しくつくられていたので、室内には、ほとんどなにもなかった。
長屋で米を炊くのは、朝の1回だけ。そして、毎朝、同じ時間に振売りが来るので、それを買って朝食を仕度した。豆腐売りは、朝昼夜と3回も売ってまわった。
 江戸時代、人々は夜は早く寝ていた。ローソクは1本200文もする、高価なものだった。行灯(あんどん)は菜種油も1合40文もする高価だった。
 庶民は、毎日100文で買えるだけの米を買っていた。100文で米が1升買えたり、3合しか買えなかった。
当時、人々は1日4合の米を食べていた。江戸の人々が「江戸わずらい」にかかったのは、白米を常食していたから。
 幕府は、毎日登場して政務をとる諸役人(2000人ほど)に対して昼飯を出す習わしがあった。いやあ、たまがりますね!
 そして、この本によると、将軍家も大名家も、ほとんどの野菜を自給していた。また、江戸の幕臣たちも野菜は一般に栽培していた。ええっ、そ、そうなんですか...。
 「四文屋」とは、四文均一の食商いの屋台のこと。
 江戸に住む町民をはじめとする人々の日常生活を知ることができました。
(2025年6月刊。2750円)

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