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カテゴリー: 日本史(戦後)

団塊ボーイの昭和

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)

著者 矢野 宣治 、 出版 弦書房

著者は私と同じ団塊世代で、大分県中津市の出身です。福沢諭吉の出身地ですよね。実家は居酒屋を営んでいて、子供のころから手伝わされていたとのこと。

私は炭鉱の街に生まれ育ち、私が小学1年生のときから父は小売酒屋を始めました。大勢の炭鉱夫が店を行き帰りします。店では客が立ち飲みします。炭鉱マンは立ち寄ると、焼酎(25度)をコップ1杯、一気に飲み干します。冬の寒いときは帰っていく途中で腹の中から暖まって丁度よいのだと聞きました。小売酒屋だったので酔っ払いはたくさん見ました。大声を出ししてからんできたりして、嫌な目にあったことは何度もあります。なので当時から今も酔っ払いは嫌いです。お酒は楽しく飲むものです。ケンカするために飲むものではありません。

著者は居酒屋の手伝いをしていたようですが、私も酒やビールの配達、そして集金に加わりました。ツケで買ってくれているアパート団地に月1回、給料日過ぎに出かけるのです。ちょうど、テレビで「ペリー・メースン」というアメリカの格好いい弁護士がでている番組をやっていました。いつも見逃して残念でした。父は45歳のとき、脱サラをして小売酒屋を始めたのですが、はじめのうち客に頭を下げられませんでした。それまで会社員として、人を使う立場だったので、「失対」で働いているような人に頭を下げることが出来なかったのです。小学生の私は、もっと腰を低くして、頭を下げたらいいのに…と思いながら父を見ていました。

この本には、団塊世代が子どものころ、どんな生活をしていたか、あきれるほど詳しく紹介されています。

私の家にテレビが入ったのは私が小学校4年生のころだったでしょう。それまでは、銭湯に見に行ったりしました。「怪傑ハリマオ」とかです。我が家にテレビが入ったのはそれほど早くはありませんでしたので、テレビを見せてと近所の子どもたちが我が家にきていたという記憶はありません。

著者はテレビでプロレス、力道山の出場する番組をみていたようですが、私の父もプロレスの熱心なファンでした。

この本に小鳥を飼うのがはやっていたとありますが、私のところでもジュウシマツを飼っていました。そしてスピッツです。キャンキャン鳴いて困るのですが、座敷犬でした。それで畳はいつもガサガサしていました。

さらに映画です。市内のあちこちに映画館がありました。「鞍馬天狗」で嵐寛寿郎が馬を疾走させて、少年を救いに行く場面では、満員の館内は総立ちになり、声をかけて励まします。その熱気などは今でも覚えています。

貸本屋漫画にのめり込んだと著者は書いていますが、私は「少年サンデー」「マガジン」を読むくらいでした。大学に入って駒場寮で「ガロ」を読み、白土三平を知って、その面白さと迫力にぶったまげました。

中学時代は、13クラスあったと思います。プレハブ教室です。今は少子化で統廃合されて消滅しています。

著者は370人中5番の成績だったとのこと。たいしたものです。1クラス50人とすると、7クラスあったわけです。成績順の張り出しは高校ではありましたが、中学でもあったのか、覚えていません。著者は中学3年生の1学期に全校1番の成績をとったそうです。すごいです。

高校に入ると、理数科2クラスがありました。女子生徒はクラスに5人ほどしかいません。私は図書室に入って古典文学全集などを読みましたが、坂口安吾など知りませんし、読んでもいません。かなり傾向が違いますね。ただ、高校2年生のとき、同人誌を創刊し、小説もどきを載せてもらいました。例のごとく、3号で挫折しました。受験戦争に突入したからです。

そして、著者も私も大学から東京に出ていきました。生活レベルがまったく違う学生がゴロゴロしていました。いわゆるアイビールックがよく似合うシティボーイたちです。合格祝いに買ってもらったマイカーで登校してくるのです。でも、私は地方出身の苦学生。駒場寮に入りました。6人部屋で、プライバシーも何もありませんでしたが、私にとって天国のような居心地の良いところでした。なにより、国立大学ですから月1千円の授業料、それから寮費も月1千円です。月3千円の奨学金と月1万円の仕送りを受け、家庭教師のアルバイトなどをして生活していました。

著者の大学生活は、私よりはるかに波乱に満ちています。うらやましいとしか言いようがありません。でも、私にとっても、セツルメント活動にのめり込むなかで、現実をみつめるものの見方、考え方を地についたものにすることができました。そんな私の生き方を振り返らせてもくれる、とてもいい本でした。

(2026年5月刊。1980円)

手塚マンガで憲法九条を読む

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴) 

著者 手塚治虫・小森陽一解説 、 出版 子ども未来社

手塚治虫は敗戦の年(1945年) 7月10日に大阪大学医学専門部に入学しますが、アメリカ軍のB29大編隊による爆撃を勤労動員先の工場で受け、すんでのところで爆死するところでした。工場を駆け抜けて淀川の堤防に出ると、そこはもう死体の山だったのです。

思春期のときの残酷で強烈な戦争体験が、その後の手塚治虫の作品に何度となく繰り返し登場します。そして、自分の体験にとどまらず、ベトナム戦争だったり、米ソの核実験や東西冷戦構造抗争も取り入れ、平和の大切さを投げかけます。

1945年8月15日、日本敗戦を聞いて、手塚治虫は、「これで自由にマンガを描ける」と喜びました。そして、1946年1月から四コママンガの連載を始め、1947年2月からはマンガ「新宝島」を刊行し、これがなんと40万部を完売したのです。18歳の手塚治虫は一躍有名になりました。

私の子どものころは、なんといっても「鉄腕アトム」です。マンガはアニメにもなり、夢中になって読み、見ました。高校生から大学生のころは、「ブラックジャック」にしびれました。弁護士になってからは、「アドルフに告ぐ」です。

いかにも正統派の絵ですが、ともかくストーリーの展開が素晴らしいです。よくぞこんなどんでん返しを思いつくものだと、いつもつくづく感心します。

敗戦間近の日本では、特攻機に乗って若者が出撃していきます。しかし、なかには機体は故障して基地に舞い戻ってきます。もう死んで英雄になっているのに生きているのは困ると軍部は考え、再度、特攻を命じるのです。実話でもあります。それでも死なない兵士は閉じ込めて隔離してしまうのです。

「またもや政府がきな臭い方向に向かおうとしている。子どもたちのために、当然大人がそれを阻止しなければいけない。同時に、子ども自身がそれを拒否するような人間になるよう育てなければならない」

「生命あるものすべてを戦争の破壊と悲惨から守るのだという信念を子どもに植えつける教育、子ども文化はその上に成り立つものでなければならない」

手塚治虫の1986年の言葉です。高市首相は戦争する国へ日本を加速しています。とんでもない危険な政権です。国民の生活の大変さを救う政治ではなく、国民がますます苦しくなる方向にすすめている高市首相には一刻も早く退陣してもらいたいものです。

(2026年6月刊。1650円)

出稼ぎの時代から

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)

著者 本木勝利編集委員会 、 出版 社会評論社

 私が九州から上京したのは1967年(昭和42年)4月のこと。そのころ、東京を含む関東周辺には出稼ぎ労働者がたくさんいました。どこもかしこも建築ブームだったので、しかも機械化が今のように進んでいませんから、多くの現場は人海戦術でした。「ヨイトマケの唄」にあるような光景はなくなっていましたが、それに似た状況はありました。

出稼ぎは冬に雪深い東北地方から東京に出てきていましたが、九州からも行っていました。そして、若者は集団就職です。中学卒業したばかりの、青年というよりまだ子どもという感じの若者が「金の卵」ともてはやされながら列車を借り切って東京へ向かったのです。

私は大学に入ると同時に、先輩に誘われてセツルメント活動をするようになりましたが、その舞台となった若者サークルに青森や岩手から集団就職でやってきた、東芝などの大手電器・化学工場で働く青年労働者がいました。

そして、川崎で弁護士として働くなかで、福島からの出稼ぎ労働者がビル建築現場の足場解体作業中に転落して脊髄を損傷して車イス生活を余儀なくされた斉藤さんの労災裁判を担当しました。

足場解体作業といっても、下から2段目で、高さ2メートルからの転落事故でした。一人作業だったので、会社の責任が追及できるのか、斉藤さんは大いに心配していましたが、弁護士2年目で怖いもの知らずでしたから、裁判を提起し追行しました。幸い、なんとか勝利的和解をすることが出来ました。すでに故郷に戻っていた斉藤さんから招待されて福島の大きな村の山奥にある斉藤さん宅に行って一泊してきました。なるほど、こんなところに住んでいると、川崎まで出稼ぎに行くのは無理ないなと思いました。

この本には、夫が出稼ぎに行って故郷に残された妻の嘆きをつづった詩「村の女は眠れない」が紹介されています。夜、布団の中で足を絡(から)ませ、腰を抱いてくれる夫がいない村の女は眠れないという一節は大変印象的でした。

子どもたちも訴えました。「とうちゃんがいない。雪ばかりの冬は泣きたい」、「雪がなかったら、とうちゃんは働けるのに」

詩集「村の女は眠れない」(草野北佐男)の最後の詩は「たたみのうえで死にたまえ」「きみに人間のほこりがあれば、たたみのうえで発想したまえ。たたみのうえを砦としたまえ。たたみのうえが死場所の人間の首尾をつらぬきたまえ。たたみのうえで死にたまえ」

出稼ぎ者の2割は労働災害にあった。しかし、行政はその実態を把握していない。

労災事故が起きるのは午前中ではなく、昼休み明けでもなく、あと少しで今日の仕事が終わるという時刻に集中した。

私が担当した斉藤さんの転落事故もそうでした。やれやれ、今日もあと少しで終わると思ったとき、集中力が鈍り、疲れもあって事故を起こすのです。

同情が毛穴ほども通用しない飯場では、自分に関係のない怪我人は、見て見ないふりをした。自分の身の上に降りかかる火の粉は自分で振り払うので他人の火の粉まで振り払う必要はない。これが飯場の不文律だった。

出稼ぎ死亡事故も多発していたが、ほとんど統計(数字)がない。会社から見舞金も出なかったり、きわめて少額のものでしかなかった。最高300万円というのもあるが、たいていは1万円から5万円というのが多い。

資料として『出稼ぎ』スライドが紹介されています。私が上京する直前のころの写真が主です。宿舎となる飯場はザコ寝状態。朝5時30分に「朝食だ」と起こされ、トラックの荷台に乗せられて今日の現場まで行く。夕方5時30分に仕事が終わる。1日の労働時間は9時30分。合計1350円から、食代270円、座布団代280円などを差し引くと、1日1060円となる。

飯場に待ち遠しい故郷の家族からの手紙が届く。夜、布団のなかで、繰り返し、何度も手紙を読む。

 紹介されているスライドの写真はよく撮れています。私にとってもなつかしい光景です。

 そして、今や、かつての飯場跡には高層ビル・タワーマンションがそびえたっているのです。まったく時代の外観は変わりました。でも、中に住む人々の心象は変わっていないはず。

 出稼ぎ労働者の実態が要領よくまとめられているのに驚嘆させられました。貴重な資料になっています。

(2025年9月刊。2200円)

南方抑留

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)

著者 林 英一 、 出版 新潮選書

 1945年8月、日本敗戦のあと、ソ連軍によって北方(シベリアなど)に抑留されたのは130万人(うち軍人軍属57万5000人)。これに対してアメリカ・イギリスなどで南方(東南アジア)に抑留された日本人も、ほぼ同数の119万人(うち軍人軍属107万人)いた。

 北方については体験記が2000点ほどあるのに対し、南方については100点もない。この本は、その南方抑留者の置かれた実情を当事者の日記などによって明らかにしています。

ソ連はスターリンの意向によって日本人を無償労働させたわけですが、イギリスも同じように日本人を無償労働させていたのでした。このときの論理は、「捕虜」ではなく、「降伏日本軍人」として扱ったことによる。ええっ、どうして、「降伏日本軍人」なら無償(賃)労働させてよいのでしょうか…。不思議な話です。

 アメリカ政府が批判したことから、イギリスは1947年3月から元日本兵の日本への帰国を再開したのでした。

 日本軍がその敗戦前に英米の捕虜を手荒く扱った(たとえば、「バターン死の行進」のように)ことから、イギリスやオランダ軍には日本軍兵士への報復の気持ちが強かったようです。

 オランダ軍は、戦犯容疑者136人に死刑判決を下しています。捕虜収容所や憲兵隊関係者の責任が厳しく追及されました。

 インドネシアでは、現地のインドネシア人が独立戦争に立ち上がりましたので、元日本兵を兵器ごと必要として取り込もうとしたのでした。

 敗戦直後の日本政府は海外にいる日本人が、兵士も民間人も、すぐに日本に帰国しないことを願った。なぜなら、日本本土には330万人もの失業者がいて、50万人の餓死者が予想されるほど、食糧事情が悪化していたから。まあ、それも分からんじゃありませんが、日本政府が国の方針として海外に送り出しておきながら、現地に残って自分の力で生活の安定を期せというのは、あまりにも責任放棄というか、無責任きわまります。

 ビルマにあったモバリン収容所には、日本人による劇団が2つもあって、交互に毎週、上演していたとのこと。すごいです。

 フィリピンの収容所では食糧不足のなか、炊事員たちは「特権階級」のように振る舞った。もはや旧軍の階級差は消滅していた。兵隊が将校を殴るということも起きていた。そして、親分が炊事場を掌握して子分を集めて「暴力団」をつくって、暴力的に支払するようになった。ひどいものです。

 レイテ島に日本人が5万人もいて、元日本兵による壁新聞がよく読まれていたことも紹介されています。大岡昇平の「レイテ島戦記」で有名ですし、私も一度、レイテ島に視察に行ったことがあります。ODAによって日本が公害を輸出している現場を確認しました。

 貴重な記録を掘り起こした労作です。日本人が昔から日記をよく書いていることにも改めて驚かされます。

(2025年7月刊。1650円+税)

昭和天皇の敗北

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 小宮 京 、 出版 中公選書
 昭和天皇が、いったい何に敗北したというのか…。
 昭和天皇は、戦後、敗戦の責任をとって退位することもなく、日本国憲法ができて「象徴」となっても、最近、ちっとも首相が内奏に来ないが、どうしたことかと不満たらたらだった。
 つまり、戦後も、戦前と同じように内閣に対して助言、ひょっとしたら指導するつもりだったのです。それをしようとして、周囲が慌てて制止していた。これが天皇にとっての「敗北」ということのようです。
1946年1月25日、マッカーサーはアメリカ本国に対して、天皇制の存続が重要だと連絡した。日本を円滑に支配で運営するうえで、天皇制を利用したほうがよいと、マッカーサーは判断していたわけです。
 昭和天皇は皇室財産が国会の審議対象となったら、「その収支が白日にさらされるので、かなり窮屈になる」、このように苦笑したと記録されている。
 マッカーサーは、「会談」の場では、一方的にまくしたてるのが常態化していた。マッカーサーはいつも好き勝手に話す。一人でしゃべり続けるので、マッカーサーとの対話は成立しない。
マッカーサーは幣原(しではら)首相と会談(対談)したのではなく、一方的に命じただけのこと。つまり、9条は幣原の提起したものではなく、マッカーサーが発案したもの。なーるほど、恐らくそうなんでしょうね。
 昭和天皇は国民主権の明示に納得しなかった。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは事実ではない。むしろ実態に反する虚構に近い。
 昭和天皇は、自らの地位や主権に関する事項について、強い関心を抱いていた。
 昭和天皇は、天皇大権がある程度は制限されることは覚悟していたが、統治権をすべて放棄するところまでは想定していなかったと思われる。
 昭和天皇は、日本型の立憲君主制を模索した内大臣府案を高く評価していた。昭和天皇からすると、政府も内大臣府も臣下にすぎない。ところが、幣原首相や松本国務相は、昭和天皇の意向を無視した。
 昭和天皇は、キングの存在を大前提として、君主主権でも国民主権でもないものを希望すると明言した。これは「聖断神話」を真っ向から否定するもの。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは、幣原がつくり上げた物語にすぎない。
 GHQ側は、「天皇を軍法会議にかけることもできるし、証人に呼ぶこともできる」と言って、日本側を恫喝した。政府は、この恫喝に屈した。
 占領軍(GHQ)のサゼスチョン(示唆)に反対するのは、当時、きわめて困難だった。貴族院は、公職追放などによって恫喝されて、自発的に決定したという体裁をとらされて最終的に可決した。
 昭和天皇に対して、片山内閣が総辞職するときに、拝謁(はいえつ)したこと、芦田首相が内奏したことにマッカーサーは寛容だった。昭和天皇は、自らが主権者であることにこだわり、イギリスのキングと同じく元首であることを希望していた。
 そして、昭和天皇は、戦後も元首であり続けようとした。周囲(たとえば田島・宮内庁長官)が、新憲法のもとでは元首でないと釘を刺した。
 「将来変わるから、当面は辛抱してほしい」と言って昭和天皇をなだめた。
 昭和天皇は、与野党が拮抗し、政局が混乱したとき、政治的調停者としての役割を果たすつもりでいた。昭和天皇は、奨励や警告というレベルをこえて、戦後政治において自らが果たすべき役割を模索していた。
昭和天皇は、当時、「すべての新聞」に目を通していて、その動向を注視していた。
 田島宮内長官の書き残した『拝喝記』によって、昭和天皇が元首としての役割や権限にこだわり、その拡張を目ざしていたことが明らかになる。結局、GHQの圧倒的な権力によって国民主権が憲法に明記され、昭和天皇の希望は実現しなかった。すなわち、昭和天皇は「敗北した」。
 福岡県生まれ(1976年生)の著者による論旨明快な本で、頭がすっきりしました。すでに3版発行というのですから、これまたすごいですね。こんな硬い本でもテーマによっては読まれるわけです。
(2025年4月刊。2200円)

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