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カテゴリー: 日本史(戦前)

河童自伝

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 細川 嘉六 、 出版 六花出版

 戦前(1942年)の「横浜事件」は、特高警察による典型的なデッチ上げ事件でした。この「事件」の首謀者とされた細川嘉六が戦後インタビューに応じたものがベースとなっている本です。話し言葉ですし、詳細な解説がついていますので、とても読みやすく、分かりやすい本でした。

 「横浜事件」において、細川嘉六は「再建共産党の委員長」という役割を与えられています。まったくのデッチ上げです。細川嘉六自身は3年間の獄中生活のあと、日本敗戦後の1945年9月に免訴で出獄しましたが、前途有為な青年たちが特高警察の拷問によって何人も死亡しています。

 細川嘉六は1942年7月、「あまり疲れたものだから、田舎(泊。とまり)に帰った。魚はあるし、ゆっくり疲れを治そうと思った」。そして、友人たちを田舎の旅館に招いて楽しく会食した。ただそれだけなのですが、この会食が共産党再建の謀議をこらしたというので、治安維持法によって、集まった全員が逮捕され、ひどい拷問を受けたのでした。

 細川嘉六は、このとき旅館で河童の絵を描いた。すると、特高警察は、この河童の絵が共産党員たる証拠だとしたのです。というのは、河童は水にもぐっている。まさに共産党員たる象徴にふさわしい。これこそ共産党員たるお墨つきだと決めつけたのです。なんという論理の飛躍でしょうか。呆れてしまって口が閉じられません。

 細川嘉六は「横浜事件」の背景を次のようにみています。細川嘉六は、「中央公論」や「改造」で平和を主張していた。権力は平和運動を始めはしないかと恐れた。そして、風見章を捕まえ、近衛秀磨を引っつかまえてやろうと考えた。それは唐沢俊樹(内務官僚)が内務大臣や岸信介あたりと組んで仕組んだものではないか…。

細川嘉六は一高・帝大法学部卒業なのですが、一高に入る前は、苦労の連続です。貧しい実家に育ち、なんとか苦労して高等科を卒業したあと、尋常小学校の代用教員を1年ほど勤めた。その後、上京し、氷屋・納豆売り・司法省雇い、そして新聞配達しながら中学校を卒業して、ついに一高に入学するのです。小野塚喜平次という政治学者の書生となって、大いに助けてもらっています。この小野塚喜平次から細川嘉六は大変気に入れられ、死ぬまで、暖かく面倒をみてもらっています。

 細川嘉六自身は生意気ざかりの書生だったにもかかわらず…です。きっと性格的にウマがあったのでしょう。

 一高時代には、かの有名な新渡戸(にとべ)校長弾劾演説をしたとのこと。

 細川嘉六が東京帝大に入学したのは、明治43年の日韓併合のあった年で、26歳だった。吉野作造は、小野塚教授の弟子になる。

 細川嘉六は、フランス(パリ)、ドイツ、イギリス、そしてソ連(モスクワ)に行っている。モスクワでは片山潜と会って「好かれた」とのこと。理論的だし、はっきりモノを言うところが評価されたのではないでしょうか…。

細川嘉六は、ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実(ほつみ)とも親しく、お互い評価していたようです。

 細川嘉六は、3年余りの獄中生活で、本を読んで、大いに勉強しています。「何をくよくよ川端、水の流れを見てくらす」。こういう心境だったとのこと。

 そして、日本敗戦を予測し、出獄後の活動に備えて、健康に留意していたそうです。いやはや、なんともすさまじい執念です。

 当時は、親族が弁当を差し入れるのが許されていました。弁当箱に、庭の木々の花を載せて、妻は庭の様子と季節感を伝えていたそうです。

 大変勉強になる自伝でした。細川嘉六は、戦後、共産党の国会議員を2期つとめ、GHQより罷免されました。この自伝を読んで、たいした人物だったんだなと心より敬服しました。

 

(2024年5月刊。2420円)

 チューリップが咲きはじめました。ついに春到来です。朝は2本だけでしたが、午後から庭に出てみると、8本ほど咲いていました。

 チューリップのほかは、小さな黄水仙が庭のあちこちに咲いています。ツルニチニチソウは、まだこれからです。

 事務所の通勤途上には、白いコブシの花が満開になっています。花粉症さえなければ春が一番なのですが、目が痛くて、鼻水が出てティッシュの箱を抱きかかえながら、法律相談に乗っています。

ブラック・スノウ

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 ジェームズM・スコット 、 出版 みすず書房

 1945年3月10日、東京は300機ものB29によってほとんど焼失し、10万人が亡くなり、100万人が焼け出されてしまいました。これは、当時38歳のカーチス・ルメイ将軍の指揮によるものです。

 戦後、日本はこの大虐殺を指揮したカーチス・ルメイ将軍に勲章を送りました。1964年のことです。それも、なんと最高の勲一等旭日大授章です。よくぞ罪なき市民(日本人)10万人を殺していただきました。日本国として深く感謝しますというわけです。まさしく日本人(正確には日本政府)の奴隷根性をよくあらわしている勲章です。とんでもないことではないでしょうか……。

 カーチス・ルメイは、この無差別じゅうたん爆撃によって、日本を「暗黒時代」に戻すと高言していました。そして、ベトナム戦争のとき、同じくカーチス・ルメイはベトナムを「石器時代」に引き戻すと断言したのです。また、ケネディとフルシチョフのキューバ危機のとき、カーチス・ルメイは核攻撃をためらうなとケネディに進言してもいます(幸いにも、ケネディはその進言を却下しました)。

 その後、調子に乗ったカーチス・ルメイはアメリカ大統領選挙にジョージ・ウォーレスという右翼候補の副大統領候補になりましたが、思慮に欠ける発言を繰り返したため、メディアの嘲笑の的となり、ついには「ジェット爆撃機に乗った石器時代人」とまで風刺され、戦時中の英雄という評価は吹き飛んで、1990年に死ぬまで悪評に悔やんだ。本人も「英雄から役立たずに転落した」と語っていたそうです。日本人がどんなに無惨に死のうが、苦しもうが、まったく良心の苛責を感じなかった男の哀れな顛末です。

 この本は、B-29がなかなか実用化しなかったこと、非武装の市民に対する大量無差別爆撃は犯罪ではないかという良心のとがめを感じていたアメリカ軍のトップもいたことを明らかにしています。

 この本には書かれていませんが、非武装の市民に対する無差別爆撃を世界で初めて実施したのは、日本軍なのです。重慶への無差別じゅうたん爆撃です。英米軍によるドイツのドレスデン無差別攻撃もひどいものですが、カーチス・ルメイは、日本全土を焦土にする目的で、執拗に最後まで実施しました。そして、昭和天皇が、交渉を有利にするため、どこかで必勝の一撃をアメリカ軍に加えたいと粘ったのも、日本人の被害を増大させる原因となりました。

B-29の開発費用は37億ドル。そして、実戦に使われはじめても当初はエンジン不調などで、うまくいかない機が続出した。東京大空襲は、低高度(1600メートル)なので、日本軍の対空砲火によって70%を失う恐れがあると見込まれていたのです。そこをカーチス・ルメイは強引に押し切ったのでした。賭けに勝って英雄となったわけです。

 3月10日の東京大空襲の被害にあった早乙女勝元氏の本は私も読みましたが、著者は、早乙女氏ほか日本人の被災者からも話を聴いています。

 戦争にならないようにするのが政治家の責務だというのを痛感させられます。好戦タカ派の高市首相にはぜひ読んでもらって、頭を少し冷やしてほしいと思いました。

 

(2025年12月刊。4620円)

しずくと祈り

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 朽木 祥 、 出版 小学館

 1945年8月6日午前8時15分、広島市の上空にあらわれたB29爆撃機3機のうち1機が、原子爆弾を投下した。その瞬間、空に巨大な日の球が出現した。まるで、もう一つの太陽のように。異様な太陽はすさまじい光と熱を発し、大地を底から鳴らすや、恐ろしい風で町をなぎ倒した。

 人々は生きながら焼かれた。鳩が地に落ちて、ぶざまに跳ねた。横倒しになって、のたうち回る馬の脇で。男とも女とも分からない人々が、いたるところに倒れている。

 焼かれてボロボロになった身体を引きずりながら、懸命に逃げようとしている人々もいる。顔が赤むけになってパンパンにはれている者、目玉が飛びだしている者、皮膚がめくれて身体や指先からぶら下がっている者。ほとんどが裸同然だった。腰ひもだけの姿で呆(ほう)けたように歩いている女の人もいた。みんな、生きながら焼かれた。

皆実(みなみ)町にあった住友銀行も、外壁だけになっていた。ただ、玄関は形を留めていて、石の階段が残っている。いま、広島の原爆資料館にある「人影(ひとかげ)の石」の黒い部分には、たしかに人間が座っていた。

「石の上に緑色の影がはっきり残っていた」というのは、直後に「死の人影」の主を収容した男性の目撃証言。それは、「子どもかと思うくらい小柄な女性の遺体だった」。あれっ、「人影」の主は男性じゃなかったの…?私は、ふと疑問に感じました。

 1945年、米軍カメラマンが石段の影を撮影したとき、近くにいた男性をすわらせて再現写真を撮ったことから、石段にすわっていたのは男性だというのが、いつのまにか通説になっただけのこと。なーるほど、そうだったんですね…。

 この本は、すわっていたのは越智ミツノさん(当時42歳)だとしています。娘が名乗り出て、前後の目撃者の証言と合致しているからです。

この石段は黒っぽい御影石で出来ていた。原爆の熱戦を浴びて白変したとき、人間がすわっていた部分だけ、黒く人の形に残った。戦後しばらくは、影の部分はコールタールみたいに真っ黒だったらしい。すわっていた人間由来の成分が石に染みついて黒い影のように残った可能性がある。

 奈良文化財研究所の調査によると、「人影の石」は、有機物がついたものであり、人間の皮膚などの生体成分の可能性があるという。貴重な掘り起こしの成果です。

核爆発の恐ろしさを再認識しました。日本は非核三原則を絶対に投げ捨ててはいけません。

(2025年10月刊。1540円+税)

刻印

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 松原 文枝 、 出版 角川書店

 満蒙開拓団、黒川村の女性たち。これがサブタイトルの本です。開拓団を守るため、彼女たちはソ連軍に差し出された。だが、それは、なかったことにされてきた―。

声を上げることで封印は解かれ、史実が刻まれる。自分を取り戻した女性たちの長き歩み。オビにはこう書かれています。

あまりに可哀想な女性たちの話ですので、購入したものの、積ん読にしておこうかなとも思ったのですが、意を決して読み始めました。そして最後まで読み通して、少しばかり救われた気持ちにもなりました。というのは、20歳前の若い女性がとんでもない人身御供の身になった事実を、本人が氏名を明らかにし、顔も出し、大勢の人の前で事実を語ったのですが、それを通して笑いのなかった生活から、孫と屈託ない笑顔で接するように変わったことが紹介されているからです。

黒川村というのは今はなく、今は岐阜県白川町の黒川地区です。有名な飛騨・高山より南側になります。

黒川開拓団は近くの村の人々もあわせて総勢129世帯、662人から成る。1940年当時の黒川村は人口4千人で、貧しい山村。

「貧乏人は満州に行け。次男坊・三男坊は満州に行け」と呼びかけられた。ところが行った先は、中国の農民が開墾した農地であり、そこに住んでいた。つまり、開拓団といっても、実は開拓者でも開墾者でもなかった。地区内に1000人の中国人と80人の朝鮮人が住んでいた。広い農地を開拓団だけではまかなえず、水田は朝鮮人に、畑は現地の中国人に貸し付けた。そして、現地の人々を小作人や使用人として使う、支配層だった。

日本の敗戦が近づくころになると、関東軍は次々に転出していったが、開拓団には何も知らされず置いていかれた。そのうえ、開拓団の青壮年は次々に兵隊にとられて、開拓団は年寄りと子ども、そして女性ばかりになった。

日本敗戦を知ると、それまで抑圧されていた現地の中国人が集団で開拓団を襲撃してきた。それに対して開拓団は多勢に無勢のうえ、頼りになるはずの壮年男子がいない。そこで、進駐してきたソ連軍と交渉して開拓団の安全を確保しようとした。そのときの条件が女性を差し出すこと、というもの。そうして、開拓団を守るためということで数えで18歳以上の未婚の女性15人が差し出されることになった。1回に4人ほどが接待所に行き、雑魚寝状態でソ連兵に犯されたとのこと。

その前に風呂に入り、終わったあと女性たちの子宮を医務室で洗浄する係がいた。それでも女性たちは梅毒にかかり、淋病に感染した。そして、チフスに感染するなどして女性4人が死亡した。この状況が11月まで続いた。

黒川開拓団が日本に帰国したのは翌46年8月から10月にかけて。満州に渡った662人のうち208人が現地で亡くなり、451人が帰国した。残留孤児は3人。

1982年3月に亡くなった女性4人を慰霊する『乙女の碑』が建立されたが、そこには何も書かれていなかった。しかし、何があったか歴史の事実として記録しておこうということになり、4000文字から成る碑文を書き込んだ。2018年11月にその除幕式が挙行された。碑文のなかには女性たちが「性接待」を余儀なくされたことだけでなく、開拓団は中国へ侵略していたものであることも明記された。

そうなんですよね。日本は戦争を始め、中国大陸を含めて各地で残虐な行為も敢行しているのです。二度と戦争をしないと誓ったはずの日本、それを明記している日本国憲法が踏みにじられようとしている最近の実情は背筋が寒くなります。

それなのに危機を煽りたてる高市首相の支持率が70%だなんて、とても信じられません。政府の行為による戦争の惨禍を二度と繰り返してはいけません。いい本でした。ご一読をおすすめします。 

 

(2025年8月刊。1870円+税)

昭和期の陸軍

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 筒井 清忠 、 出版 筑摩選書

 戦前の日本では、2・26事件を起こした青年将校たちにみられるように、軍人は自らエリート意識をぷんぷんさせる自信満々の野望家集団だと思い込んでいましたが、大正後期の軍縮時代には、軍人は抑圧されていて、劣等感と被差別意識を抱いていたというのです。これには驚きました。

大杉栄たちを虐殺した、かの悪名高い甘粕は、法廷で、「軍人は極めて殺風景で非常識なものと一般に世間から見られている」と述べるなど、当時の軍人の社会的地位の低さからくる劣等感を表明しているのです。

蔑視される軍人に対して、マスメディアで脚光を浴びている知識人とが対比されていました。

 後藤新平内務大臣は大杉栄のスポンサーのような関係にあった。大杉と一緒に殺された伊藤野枝は、頭山満(右翼の大物)の親類で、「お金に困ったら来るように」と言われていた。また、甘粕の妹(甘粕鍋子)は社会運動家だった。人間関係が、このように錯綜していることも初めて知りました。

大正7年ころ、陸軍将校生徒の志願者が著しく減少して、大きな問題となった。大正10年11月から、ワシントンで軍縮会議が開かれた。世論は軍縮を支持していた。そして、それは陸軍だけでなく、海軍にまで波及した。海軍兵学校の志願者が激減してしまった。犬養毅は、大正11年、軍学校の廃止も提案した。

新聞も軍縮の実行を政府に迫った。陸軍は、このころ「軍閥」として政撃され、激しい批判にさらされた。

ところが、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約に対して、軍人たちは激しく反発した。そして、翌昭和6年の満州事変勃発後は、今度は世論は雪崩(なだれ)を売って反対の方向につき進んでいく。風向きって、こんな風にころっと変わってしまうのですね。今の日本で、準与党ともいうべき参政党やら国民民主党(玉木雄一郎・党主)が目下、人気を集めているのは、結局、きっと一過性なんでしょうね。でも、その害悪は看過できません。

陸軍省と参謀本部こそ、陸軍を支える、もっとも重要な二つの柱。陸軍省は、陸軍大臣(次官)、軍務局長、軍事課長、軍事課高級課員というラインで、動いていた。ここがエリート軍人たちの究極的に目ざすポストだった。

参謀本部では、総長、次長、第一部長、作戦課長というラインがもっとも重要。

下級職ほど陸大成績の優等者が選ばれている。これに対して、上級職では成績にあまり関係なく、派閥的原理によって人事が進められていた可能性が高い。

準軍事的性格の強い参謀本部の作戦関係は成績に依拠する側面が強く、軍政にわたり政治的側面の強い陸軍省の軍務局関係はそれほど成績を配慮しなかった。なーるほど、です。

 乃木を批判するインテリは多かった。しかし、夏目漱石や森鴎外など、乃木支持インテリもいた。

昭和の初めころ、日本陸軍は軍事的に劣勢となっていて、軍事大国とは、とても言えない状況にあった。

 著者は私と同世代ですが、よく調べていて、大変勉強になりました。

(2025年7月刊。2090円)

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