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カテゴリー: 日本史(江戸)

池田屋事件の研究

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 中村 武生 、 出版 講談社現代新書

 元治(げんじ)1年(1864年)6月5日に起きた池田屋事件の背景と推移を明らかにした新書です。

池田屋事件のきっかけは、古高(ふるたか)俊太郎の逮捕。古高が、その日の朝、新選組に捕らえられたことを知った長州毛利屋敷に集まった人々は実力で古高を奪還しようと考え、池田屋に集合した。古高は、実は、萩毛利家の世子の腹違いの兄の生母の再婚相手の孫。

文久3(1863)年、長州藩は、考えを改めた。外様猪俣は将軍の臣下ではなく、将軍をふくめて天皇の直臣(じきしん)とする。ただし、これは倒幕ではない。徳川政府はあってよいが、朝廷を決めたことを執行するだけの機関とするという考え方。

 8.18政変が起きて、薩摩島津家は、京都守護職の松平容保の協力を得て、長州の勢力を京都から放逐(ほうちく)した。同時に、三条実美ら七卿を西国・大宰府へ追いやった。(七卿落ち)。

 文久4(1864)年1月、天皇は、将軍や徳川譜代大名による合議制の政治をすすめた。そして、2月、長州征討が決められた。ところが、天皇の指示文書は薩摩がつくったことに慶喜が気がついた。天皇と島津久光が接近するなんて、とんでもなく危険なこと。そこで慶喜は、3月に参預諸俣の会議体を解散した。

 新選組は文久3(1863)年3月に創立された、京都守護職松平容保附属の浪士集団。新長州の浪士集団に対抗するためのもの。

長州関係者は、積極的に古高に近づき、有栖川宮家との多くの接触を依頼していた。

 長州は、宮家や堂上へ、スパイを潜入させていた。古高邸は、情報センターのような役割を果たしていた。新選組が古高を捕まえ、その供述によって池田屋襲撃が始まったという通説は間違い。新選組は、この日までに浪士たちの潜伏場所を207カ所もつかんでいた。

池田屋事件は、長州兵の大挙の京都攻撃=禁門の変を誘発する危険があった。新選組が池田屋を襲撃したとき、桂小五郎は、そこにいたが、すぐさま屋根を伝って逃れて対馬屋敷に入った。狭い池田屋を舞台として2時間あまりの死闘が繰り広げられた。しかし、その結果の戦死者が誰なのか、今なお不明。

 古高逮捕や池田屋襲撃をへて、会津の長州への敵意は頂点に達しようとしていた。先手を打たないと、こちらがやられるという危機意識をもっていた。

6月15日、長州の来島又兵衛が遊撃軍を率いて山口を先発した。ただし、長州勢は合戦のためではなく、嘆願のために京都に向かった。

 元治1年(1864)7月18日、慶喜は長州勢の排除を決め、孝明天皇が長州追討の勅命を下した。一橋慶喜は、孤立していた会津・桑名と手を組んだ。ここに一会桑権力が成立した。同日、禁門の変が始まった。長州は戦いに敗れた。

 一会桑権力の最重要軍事力は新選組だった。150人ほどの兵力というが決して少なくない。軍事的精鋭によって構成されているから。

池田屋事件について、本書は禁門の変の契機となった事件としています。

(2011年10月刊。1320円)

フェートン号事件

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 大井 昇 、 出版 長崎文献社

 幕末の長崎にイギリス船がオランダの旗を掲げて入港してきた。長崎奉行は焼き討ちを命じたが、警備担当の佐賀藩は当番でありながら出動が遅れ、結局、水や食糧を得てイギリス船は退去していった。直後に、長崎奉行は切腹した。そして佐賀藩主鍋島直正(閑叟)は逼塞(ひっそく)処分になった。これが有名なフェートン号事件のあらまし。

 ときは文化5(1808)年8月15日のこと。ヨーロッパではフランスのナポレオン皇帝が全盛期で、オランダはフランスが支配していた。

 フェートン号はイギリス海軍のフリゲート艦で乗組員350人。入港して出港するまで80時間。一発の銃声もなく、双方に物的な被害も発生していない。当時、日本側はロシア船の来襲を心配していた。とはいうものの、大砲(石火矢)の設置もされていなかった。

 出島のオランダ商館長(カピタン)はドゥーフで、長崎奉行がイギリス船を焼き討ちしようとするのを必死で制止した。フェートン号は風頼みの帆走軍艦。それでも大砲50門を備えていた。

 佐賀藩は当番でありながら、奉行所から減番を認められていて、兵士はほとんど佐賀に帰っており、番所に少数の兵しか残っていなかった。

日本側は、フェートン号に対して、4頭の良質な去勢雄牛(出島の牛舎にいた)、10頭ほどの山羊、鶏10羽、梨100個、野菜とサツマイモ、そして薪と水を提供した。イギリス側は対価を支払おうとしたが、受け取ったら交易したことになるので、日本側は受け取らなかった。

「水はとても清潔な大樽に容れられ」ていたとイギリス側の航海日誌に書かれている。

 大村・諫早の兵士800人、そして福岡藩から45隻の船に750人の兵士が到着したときには、フェートン号は出港していた。当番の佐賀藩がもっとも出遅れた。

 長崎奉行は、イギリス船が出港したあとの夜、庭で切腹した。誰も予想していなかった。41歳だった。

フェートン号の目的はオランダ船の拿捕(だほ)にあった。それで利益を得ようとした。ところが、当時、オランダ船は長崎にいなかったので、目的をとげることはできなかった。

 このフェートン号事件のあと、佐賀藩は苦しい藩財政にもかかわらず、軍備の近代化・西洋化を強力に推進し、最新式の大砲を製造できるようになっていきました。

 フェートン号事件の詳細を知ることのできる貴重な本です。

(2026年1月刊。1980円)

鳥羽伏見の戦い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 野口 武彦 、 出版 中公新書

 幕末の状況を調べています。徳川幕府の失墜が誰の目にも明らかとなったのが、この鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍に完敗したことでした。

 慶応4(1868)年1月3日から6日までの4日間、薩摩藩を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激突した。両軍あわせて2万人の兵士が激しく戦った。戦死者は薩長側100人、幕府側290人。

前年の慶応3(1867)年10月に、将軍慶喜は朝廷(孝明天皇)に対して、大政奉還を建白した。しかし、慶喜は将軍職を辞めて引退するつもりではなかった。むしろ、朝廷を形ばかりのものとして引き続き政権を担当する(実権を握る)つもりでいた。

 薩摩の西郷隆盛はそれを見破り、幕府を武力で打倒するつもりだった。それが鳥羽伏見の戦いで現実化した。

それには仕掛けが必要だと西郷隆盛らは考えた。それが江戸市中を不安にかきたてることだった。諸国の浪人を募集して、500人の浪士隊を組織して前年11月から、挑発行動を開始する。押込み・掠奪・強請(ゆすり)が頻発し、御用金強盗が続発した。12月23日、江戸城二の丸が炎上した。庄内藩の警備屯所に銃弾が撃ち込まれた。

 12月25日、薩摩藩焼打ちの命令が下され、千余人が包囲。猛烈な市街戦となって、薩摩藩側は49人が戦死した。首謀者は薩摩藩の軍艦に逃げ込んだ。これによって、大坂城内にいた幕府側の将兵は大いに沸き立ち、慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩に宣戦布告した。

 ところが、慶喜は明治になってから、知らぬ顔を決め込むようになった。敗戦した戦いの責任を回避しようとしたのだ。

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗したのは新式銃がなかったので、新式銃をもつ薩長軍に完敗したという説は間違い。幕府軍側も元込銃である新式のシャスポー銃を装備していた。このフランス産シャスポー銃は射程600メートルで1分間に6回は発射できた。

 幕府軍は、シャスポー銃を備えた伝習歩兵が活躍した。ところが、薩長側は、それを上回る大砲と水銃を備えていた。薩摩軍の砲弾は1門から5月ずつ正確に発射された。敵の大砲に命中したのも、セオリー通りのこと。

 鳥羽街道では幕府軍は開戦準備の出来ていないところを撃ち込まれて大敗北。伏見では、長州藩の兵士は前に市街戦の経験もあった(禁門の変で敗退)ので、場馴れしていて奮戦した。そのうち、慶喜討伐の詔勅が出て、薩長側は勇気百倍。慶喜はついに公的に「朝敵」とされた。

幕府軍は指揮命令系統がなく、統制がとれずに、各隊はやがて勝手に引き揚げ始めた。戦場に錦旗が出現すると、慶喜はたちまち悲嘆し、朝廷に逆らう意思はなかったと言い出した。

戦局の大勢を決したのは大砲。フランス式の旋条山砲、四斤山砲を両軍とも使用した。4ポンド(1814グラム)の円錐弾を発射した。

 薩長軍が勝利して進軍すると、住民が歓呼して迎えた。それは戦争を終わらせたことを歓迎してのこと。そして、慶喜は1月5日に大坂城大広間で、大演説をぶったあと、1月6日の夜9時ころ、ひそかに大坂城を脱出し、軍艦に乗って江戸に向かった。部下を見捨てるなんて、まことに無責任な将軍です。

(2025年7月刊。946円)

城下町江戸の町人地

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 髙山 慶子 、 出版 原書房

 いま江戸時代をずっと調べています。江戸の町人の生活の一端が紹介されている本です。

 夏目漱石の生家(実父)も養家(養父)も、どちらも江戸の名主(なぬし)でした。実父の夏目小兵衛は、牛込馬場下横町の名主で区長、養父の塩原昌之助は四谷太宗寺円前の名主で、添年寄と戸長。漱石の自伝的小説「道草」に名主の生活ぶりが描写されているとのこと、私は、この「道草」を読んだ記憶はありません。名主の家に育った漱石は、多様な文化に接することの可能な環境で成長したようです。

名主は副業として商売を営むことが許されていなかったとのこと。驚きます。ところが、金融業は許されていたというので、二度びっくりです。金融業は商売ではなかったのでした。なんということでしょう。江戸の金融(金貸し)は、それ単独では一つの職種・生業として位置づけられていなかった。本業の合間に営まれる余業だった。だから、名主は余業として金融活動を行っていた。

 名主は幕府から、たとえば1万両の拝借金を受けとり、それを貸し付けて利子収入を得ることが出来ていたのです。なんだか不思議なからくりですよね・・・。

 町屋敷を所持し同所に居住する者が家持(いえもち)。土地を借りて自前の店舗・家主を持っているのが地借(じかり)、家屋も借りているのが店借(たなかり)、狭義の町人は家持に限られる。江戸には1600~1700ほどの町(ちょう)に50万人の町人が住んでいた。3人の町年寄がいて、250人ほどの名主が存在する。各町には月行事がいた。江戸の町年寄には、奈良屋、樽屋そして喜多村という三家があった。住民の大半は店借で、九尺二間という狭小な住居で暮らしていた。家主(いえぬし)は、家守(やもり)とか大家(おおや)という。九尺二間は、幅1間半(1.5間)に奥行き2間、つまり3坪(6畳)の広さ。ここに一家族が居住する。

 町屋敷は表店のうしろに長屋がある。上水井戸、便所、芥溜は共用で、風呂はない。住人は湯屋(銭湯)を利用する。

 江戸の名主には、一般的な町人には許されていない玄関を居宅に構えることができたし、世襲も許されていた。

 江戸時代の江戸では100件以上の水害が発生した。明暦(めいれき)3年(1657年)3月の明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれるが、出火原因は不詳とのこと。このとき、数万人レベルの焼死者が出たことは間違いない。そして、幕府は、この大火のあと200年間、江戸城を火災から守り抜くことに成功した。町火消の制度・体制を確立した。

 江戸の町家での暮らしぶりの一端を知ることが出来ました。

(2025年12月刊。3960円)

 私は弁護士になって以来ですから、もう50年になりますが、毎朝、NHKのフランス語ラジオ講座を聞いています。

 入門編と応用編です。朝7時半から15分間、なるべくテーブルについて聞くようにしています。ちっとも上達しませんので、いつまでも入門編は欠かせません。

 ところが、なんと、NHKは3月3日から午後2時に放送すると変更します。深夜2時に聞けるはずもありません。聞き逃がし配信を利用するしかありません。

 英語のほうはこれまでどおりのようですから、フランス語の聴取者が減っていることからのようです。本当に残念です。

江戸の刑事司法

カテゴリー:日本史(江戸)

  

(霧山昴)

著者 和仁 かや 、 出版 ちくま新書

江戸時代には、もちろん今の六法全書のような便利なものはありません。しかし、それに代わるものとして公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)がありました。ただし、この法典は一般には公開されないどころか、閲覧を許された役人も限られていたのです。。すなわち、あくまでも役人の内部文書というものでした。しかし、実際には当時から多くの写本が作成されて民間にも流布していました。その結果、庶民を含む相当広い範囲に、その内容まで知られていたのです。

公事方御定書は上下2巻から成り、刑事法・民事法そして訴訟法的な規定も含む総合法典であった。

この本(新書)は、「御仕置(おしおき)例類集」を素材として取り上げ、江戸の犯罪とそれに対する処罰の実際を紹介している。

下人奉公をしていた新助に主人の妻・かめから恋文を手渡された。主人の妻と不義密通していたことが露見すると重罪となるので、新助は身を退(ひ)いた。ところが、かめは思い詰めて自害(自殺)してしまった。さて、新助に罪はあるのか…。

奉行所は不義密通はなく、単に言葉をかわしただけと認定した。しかし、性行為だけが密通ではない。事件を最初に担当した大坂町奉行は、新助は死罪にすべしとし、老中に提案した。このころ、死罪とするには老中の承認を要した。老中は、評定所に評議を命じた。しかし、評定所は死罪とした。老中は納得せず、評定所に疑問を投げかけた。それでも評定所が死罪相当の結論を変えなかったことから、ついに老中も折れ、新助の死刑は確定した。

ええっ、密通がなく、新しく言葉をかわしたくらいで、たとえ主人の妻が自害してしまったとしても、奉公人を死罪とするなんて、あまりに 可哀想ですよね…。

 寺につとめていた甚吉は住み込みで下男奉公にしていた。ところが働きぶりがよくないとして、ある日、暇(ひま)を出されてしまった。寺から追い出されると、甚吉は衣食住のすべて

を喪うことになる。せめて衣類だけでも取り戻したかったが、寺は応じない。そこで、困った甚吉は寺に忍び込んだ。暗闇のなか、目当ての品物を見つけるため火打ち石で火をつけ物置小屋を見てまわっているとき、火が小屋の中のワラに燃え移り、小屋が焼失してしまった。公事定御定書には、盗んだものが10両以上の価値があったら死罪と決めている。最初に取調を担当した大津代官は、甚吉が窃盗の目的を果たしておらず、過失で物置小屋を焼失させたのだから「中追放」とした。これに対して、評定所は、侵入については、故意(明確な犯意)があったと認定した。そして結論として「入墨のうえ御重追放」とした。奉行も評定所も一般的には可能な限り妥当な刑罰を志向していたことがうかがえる。

いやあ、そうなんですか…。切り捨て御免のような一刀両断の法の裁きというもんじゃないのですね…。江戸の司法でも、まずは物的証拠を確保し、そのうえで自白を得るべきだという意識が存在していた。なーるほど、です。

江戸の司法手続のうち民事紛争においては、なるべく和解(内済ないさい)で解決するよう仕向けられていた。まあ、いわば強制調停といった感じですね…。それでも、庶民は、手数料のいらない司法手続でしたから利用するのに、ためらいはなかったのです。

奉行から伺いが来ると、老中は、文書管理の専門職である「奥右筆(おくゆうひつ)」に調査をさせて検討したのでしょう。それなりの手続がとられていたわけなんです。

こうやってみてくると、江戸時代の司法は明治以降の日本の司法と連続性があったというのに、何の不思議もありません。大変勉強になる新書でした。

(2025年11月刊。990円)

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