(霧山昴)
著者 田中 彰 、 出版 岩波新書
高杉晋作は、このコーナーで前に紹介したように、幕末の文久2(1862)年に2ヶ月間、中国の上海に渡って滞在しています。密航したのではありません。藩主の許可を得て、幕府の所有する千歳(せんざい)丸に乗って、長崎から上海に行ったのです。上海では、清朝に反抗する太平天国軍と外国軍が応援する清朝の軍隊との戦闘を見聞しています。当時の上海は、イギリスやフランスなどによって半植民地化されていて、中国人は「ことごとく外国人の使役」となっていました。その現実を見て、日本はそうならないようにしないといけないと考えたのです。
ところが、日本に戻ってきた高杉晋作は、攘夷を実行しようとします。まず、横浜の外人公使を暗殺する計画をたてました。これは実行寸前に計画がもれて、藩主の世子(毛利元徳)から待ったがかかって中止しました。次に、品川御殿山に新築中のイギリス大使館の焼打は実行したのでした。外国の軍事力の強大さを知りながら、なぜ攘夷に走ったのか…。安易に開国したら大変なことになるという、開国論への身を挺しての抵抗運動だった、とされています。
文久3(1863)年5月10日、長州藩は攘夷を実行した。アメリカ船(ベムブローク号、200トン)を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカとフランスが反撃した。この状況下で、奇兵隊が結成された。「奇兵」とは藩の「正兵」に対する「奇兵」、ゲリラ軍事力。銃隊と弓隊が共存した。
奇兵隊は、成立当初から藩にとって「諸刃の刃」のような存在だった。奇兵隊は、伝統的な家臣団を無能視するといった批判的な雰囲気が強かった。
文久3年8月18日に京都で起きた政変によって、長州勢は京都から排除された。七卿落ちする公卿の警衛を奇兵隊は命じられ、両者の関係は深まった。
元治1(1864)年6月5日、京都で池田屋事件(騒動)が起きた。このとき、奇兵隊員の2人が負傷(のちに死亡)した。さらに、7月18日から禁門の変が起こり、長州勢は会津・桑名・薩摩を中心とする幕府軍と戦って敗れた。この変に、奇兵隊は参加していない。
引き続いて、8月2日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関(馬関)を攻撃した。総司令官はイギリス海軍中将のキューパー、副司令官はフランス海軍少将ジョーレス。軍艦17隻。その狙いは長州藩を撃破することによって、もはや鎖国は不可能なことを思い知らせることにあった。逆に言えば、全面戦争にならず、開港しているところには危険を波及させないようにしていた。なので、幕府にも知らせていた。幕府は、朝廷から長州藩追討の命を受けて、準備をすすめていた。
8月5日、四国連合艦隊の砲撃が始まると、長州藩の砲台はたちまち壊滅し、その大砲70門は全部が持ち去られた。
このとき、地上の白兵戦で長州藩は小銃のほか、槍や刀そして弓矢を使用した。長州藩の兵士の身につけた鎧(よろい)は小銃の前には役に立たなかった。それでも弓矢のほうは意外に威力を発揮した。
幕府による第二次征長戦は、各地で農民一揆・都市騒擾・村方騒動が起きるなか、7月20日に将軍家茂が大坂城で死亡したことで休戦となった。翌、慶応3年4月14日、高杉晋作は29歳で亡くなった。暗殺されたのではなく、病死でした。
奇兵隊と同じような組織(兵制)を久留米藩もつくっています。惣兵隊といいます。武士層は面白くなかったようです。
(1985年10月刊。480円)


