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太陽光発電マジわからん

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 峰六 高志 、 出版 オーム社

今や、あちこちに太陽光発電のパネルを見かけます。 山に登るとメガソーラーというんですか、広大なパネルが広がっていますし、街中でも、ちょっとした空地に もパネルが敷きつめられています。 民家の屋根にソーラーパネルが張られているのはフツーの光景です。

この本のタイトルは、「太陽光発電マジわからんと思ったときに読む本」というものです。

政府は原発推進ばかりに熱を入れていますが、再生エネルギーにこそ力を入れるべきです。 太陽光、風力、地熱発電いろいろあります。 原発なんて、後始末問題の処理費用を考えたら、とんでもない金食い虫です し、ミサイル一発で日本列島 はおしまいに至るという危険きわまりないものです。 日本国民を守るというんだったら、まずは原発完全閉鎖のはずなのです。

太陽光パネルの発電単価は14円/kWhなので、電力会社の電気料金 よりも明らかに低く、安上がりです。

太陽光発電システムの寿命は30年。 原発と違って、災害にも強いという利点があります。

太陽光の総エネルギーは 年間340万EJ(エクサジュール)。 世界全体の年間エネルギー消費量は450EJ。 つまり、太陽がもたらすエネルギーは、地球の総需要量の7500倍の規模。 そりゃあ、もったいないですよね。 使わしてもらうのが一番です。

太陽電池モジュールの生産は中国が8〜9割を占めている。日本も、2000年代初めは太陽光発電分野では世界をリードしていたが、今や中国が圧倒している。これは政府の再生エネルギー軽視政策の 帰結です。

太陽電池が光を受けると、その光エネルギーがシリコンの中で、マイナスの電荷をもつ電子とプラスの電荷をもつ正孔を発生させ、この電子をマイナス電極に、正孔をプラス電極へと選択的に 移動させることによって電流が生まれ、電気として取り出すことができるというもの。 つまり、半導体の性質を利用して、電子と正孔を発生、分離させるのが太陽電池の核心メカニズム。

太陽光発電は熱エネルギーではなく、あくまで光子のエネルギーを直接に電気エネルギーに変換するしくみ。

暑い日差しでパネルの温度が上がると、性能は少し低下する。 太陽光発電は、大きさを増やしても効率は変わらない。

この本によると、営農型太陽光発電というのもすすめられているそうです。 農地と共存するのです。

また、海上や湖の上にパネルを置いたり、ビルの壁に貼りつけたり、透明な窓ガラス太陽光であったもののままパネルとするというのもあるようです。 さすがに自動車を太陽光発電で走らせるのは、まだまだ実用化は先のようです。

太陽光発電について深く知ることのできる本でした。

(2026年5月刊。1980円)

愛の平壌冷麺

カテゴリー:北朝鮮

(霧山昴)

著者 ムン・ヨンヒ 、 出版 徳間書店

苦労して北朝鮮を脱出し、今は千葉市で平壌冷麺「ソルヌン」の店を営み、繁盛させている女性の話です。

私は、まだ一度も平壌冷麺なるものを、残念ながら食べたことがありません。韓国の冷麺とは一味違うんだそうです。そう言えば、韓国と北朝鮮にあったとき、平壌から韓国に味、材料も器までも持ち込んできたことがありましたよね。それほど違いがあるようです。

主人公のヨンヒは北朝鮮の名門大学を卒業しています。

北朝鮮と中国との国境を流れる濁流の鴨緑江をヨンヒが渡ったのは、2015年、29歳のとき。翌年、母と弟も脱北させた。2019年には韓国ソウルの江南エリアに平壌冷麺の店「ソルヌン」をオープン。平壌の一流ホテル「高麗ホテル」仕込みとして売り出し、人気を集めた。

ヨンヒのルーツは、済州島。あの四・三事件があった島です。母方の祖母は、海女(あま)だった。日本に来て、大阪で結婚した。1965年に北朝鮮へ渡る。

その祖母は、北朝鮮の海辺で食堂を開き、繁盛した。

ヨンヒの祖父は朝鮮総連の幹部だった。そして、北朝鮮でもエリートとして処遇され、元山のマンションで生活する。

父親は人民軍総政治局に所属するエリート軍人。ヨンヒは猛勉強して、平壌商業大学に入学。これには組織秘書とのコネとお金も動いたとのこと。北朝鮮では、やはりお金かモノを言うのです。

この大学は8割を女性が占め、残る2割の男性もほぼ既婚者。若い男女の出会いは国家のイベントのとき。

ヨンヒは北朝鮮で公開処刑を2回、目撃させられています。2度目は、アダルトビデオを見ていたという平壌外国語大学の学生など8人。高射砲を使っての処刑。あっという間に人体はこっぱみじん。形もわからなくなり、地面は真っ赤な血の海。金正恩が叔父の張成沢を処刑したときもそうでしたね…。恐ろしい国です。むご過ぎます。

脱北するにはブローカーに大金を支払いますが、ブローカーから騙されることもあります。そして、濁流を乗りこえたり、中国の警察に見つからないようにというのは本人の運が試されるのです。

中国に入ってラオス経由で韓国にたどり着きました。

「ソルヌン」のソルは正月、ヌンは雪。なので、「正月の雪」。

北朝鮮から来た女性のたくましさに圧倒されてしまいました

(2026年3月刊。1980円)

平家物語と太平記

カテゴリー:日本史(鎌倉)

 

(霧山昴) 

著者 足立勇一 、 出版 朝日カルチャー 

源義経が源頼朝より圧倒された経緯が、この本を読んでよく理解できました。

一の谷合戦において、源義経は「ひよどりごえ」の逆落としという奇襲によって勝利したとされていますが、それは単なる伝説であって、史実ではないとしています。まず、一の谷の背後の崖が「ひよどりごえ」というけれど、現地の地形と合致しない。源義経は「ひよどりごえ」を多田行綱にまかせ、自分は一の谷を攻めたというのが実際。

屋島の戦いのとき、源範頼軍が主力で、こちらは九州に向かって進軍した。源義経は遅れて京都を出発し、瀬戸内海の現地の豪族、武士たちを統合して、屋島に進撃した。

そして、引き続いて、壇ノ浦の合戦にのぞんだ。このとき、大きかったのは、熊野三山を統率する田辺別当の湛増を引き込み、熊野水軍を率いて壇の浦に進撃した。

義経水軍の中核は熊野水軍と阿波水軍なので、平家軍よりはるかに強大だった。まず源義経は瀬戸内海の制海権を掌握した。他方、平家のほうは食料も武器も補給がままならない状況で、明らかに劣勢。勝負は始まる前からついていた。

敗北を悟った平家一門は次々に入水した。このとき、二位尼は安徳天皇を抱いて、「海の底にも都はありましょう」と言い聞かせながら入水した。

これは源頼朝にとっては大きな誤算だった。三種の神器のうち宝剣と神璽(しんじ)をもっての入水だった。神璽は回収されたが、宝剣は海の底に沈んだ。

義経が平家に降伏の機会をあたえず、性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想(三種の神器の回収)とはまったく異なる形で源平合戦は終結した。これが頼朝と義経の対立の伏線となった。

また、戦功を立てる機会を奪われた源範頼下の東国武士たちから義経は恨まれることになった。その意味で、義経の孤立と没落は必然だった。

頼朝は、義経が鎌倉に入るのを禁じて待機を命じた。頼朝は、自分の許しをえずに勝手な行動を繰り返す義経に深い怒りを覚えていた。なるほど、そういうことだったのですか……。

平家物語、そして太平記の生い立ちと位置づけをしっかり理解することができる本でした。

(2026年1月刊。990円)

ナポレオン戦争の会戦と戦術

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)

著者 ロリー・ミュア 、 出版 国書刊行会

ナポレオン戦争というと、1789年のフランス大革命のあとですから1815年ころになります。そうすると日本では、関ヶ原の戦い(1600年)から200年がたち、江戸時代も後期になります。

当時の軍隊は、先込め式の火燧(ひうちいし)式マスケット銃、鉄球を撃ち出し発射時に反動で砲自体が後退する青銅製の大砲、サーベルやピストルを装備した騎兵などで構成されていた。

戦闘の目的は、敵兵の殺傷・せん滅ではなく、敵部隊の陣形を乱し、敵兵の戦意を挫(くじ)き、組織的な戦闘力を崩壊させることにあった。これは、最近の戦争とはまるで異なりますよね。

ナポレオン戦争における兵士たちは、戦争が「心地よいもの、祖国のために死ぬのにふさわしいもの」だと信じていた者は少数だった。

概して、イギリス軍とフランス軍はお互いの捕虜をかなり公正に扱った。ひとたび降伏が受け入れられ貴重品を奪われたあとは、ほとんどの捕虜は、それ以上に虐待を受けることはなく、負傷者も状況が許す限り手厚い治療を受けた。しかし、軍が敗北し、退却を余儀なくされているときには、兵士たちは捕虜に対しより敵対的になり、気遣う余裕・意欲を失ってしまう。

第二次大戦中の中国戦線において、日本軍兵士が苛酷な命令を下す将校を背後から殺害したケースが少なくなかったと聞いていますが、同じことはナポレオン戦争のときにもあったようです。

戦死した将校の死因がすべて敵弾によるものとは限らない。ナポレオン時代においても、他の時代と同じく、兵士が人望のない将校を始末するのに戦争という喧嘩を利用した例があるはずだが、記録としては残っていない。ただし、ナポレオン時代の将校は、第一次世界大戦のときにあったような部下を脅して前進させるようなことはなかったと思われる、とされています。

戦闘中に生じる将校の損害は甚大だった。フランス軍の将校は、部下の兵卒と比較して率で44%も多い死傷者を出している。ワーテルローの会戦で、ウェリントン軍の兵卒のうち22%が死傷した。将校の死傷率は29%だった。

イギリスのライフル兵は将校を狙い撃てと特に命令されていた。将校は、兵卒なら後方に送られるような軽傷を負っても戦い続けた。なので死傷率が増すのは当然のこと。負傷した将校は、部下の兵卒よりもより良い治療を施され、より多くがより迅速に回復する。その結果、将校は戦場で立派に死ぬか、部下の兵卒よりも生きのびやすかった。

ナポレオン戦争期の会戦の目的は敵軍の殲滅ではなく、敵兵を浮き足立たせ、敵を敗走逃走で後退させることにある。

ナポレオンの皇帝親衛隊は全軍から憎まれていた。それでも、ナポレオンは、大きなメリットがあると考えて、大切に育成していた。

兵士の戦闘能力はある期間を過ぎると、戦闘疲労あるいは「燃え尽き」となって低下してしまう。1807年以降のフランス軍の衰退の原因の一つは、下士官や将校の疲労と消耗にある可能性がある。

日本軍も軍旗をきわめて重要視していましたが、それはナポレオン戦争のときも同じだったようです。軍旗は、連隊の誇りと同様の強力なシンボルだった。それで軍旗を守る軍曹などが次々に狙われ負傷していた。

フランス陸軍は、1807年を境として、徐々に劣化した。あまりにも多くの訓練未了の新兵が加わり、経験豊富な能力の高い将校が薄くなり拡散していった。加えて、親仏同盟国の軍隊への依存度を増していたから……。

ナポレオンは、兵士をよく覚えていて(あるいは覚えているふりをして)、兵士に適切なコトバをなげかけた。大勢の兵の心をつかむことで部下の忠誠心を維持しようと懸命に努めた。 

ナポレオンのカリスマは折り紙つきで、それを惜しみなく活用する。ウソやお世辞を厭わないほどに、公報によって、巧みに普及した。兵士はナポレオンに熱狂すると同時に、不平不満をつぶやいていた。

資料紹介を入れると800頁超の大作です。久しぶりです。井上ひさし「吉里吉里国」を厚さの点で思い出しました。

人間ドックで一泊したとき読みあげようと思って必死に読みすすめました。ナポレオン戦争時代の戦争・戦術の実際がよく分かりました

(2026年4月刊。5800円+税)

証言・北朝鮮帰国者

カテゴリー:朝鮮

(霧山昴) 

著者 記憶を記録する会 、 出版 集英社新書

祖国に渡った「在日」はどう生きたかというサブタイトルのついた部厚い新書です。

その答えは、結論として、こういうものです。

「あまりにも貧しくて、人民を苦労させすぎるから、北朝鮮を祖国と思いたくなかった。 北朝鮮に行かなかった在日は幸せです。渡った私たちは、代わりに地獄に行った」

「祖国はどこなのか、いまだに私の中で解けていない問いだ」

「北朝鮮に帰国して良かったという在日はひとりもいないだろう。日本で苦労した在日は、北朝鮮に渡って、日本とは別の厳しい現実に直面した」

越境ビジネスが生まれた。北朝鮮から中国への越境のピークは、1997. 98年。ブローカーの中には、よく言えば結婚紹介業、悪いと人身売買だった。ただし、越境した時に入国したあと、北朝鮮に戻った人がいることも紹介されています。少なくとも3人はいるようです。「日本に拉致された」と言っています。北朝鮮に残した子どもたちから、戻ってくるように懇願されたあげくの行動です。

北朝鮮で医師になり、労働党員になった人にも脱北者はいます。

「あの国には自由というものがない。自分で自由に動けることは何ひとつない」

北朝鮮への帰国運動の最盛期は1960年前後。この帰国運動には、自民党から社会党、共産党までの主要政党すべてが協力した。国境をこえた崇高な人道主義にもとづくものとされた。このころ、北朝鮮は「地上の楽園」のように美化されていました。

しかし、次第に貧窮している北の実態が日本にも知られるようになり、先に帰国した人たちは、まだ帰国していない「在日」に、遠まわしではあれ帰国しないよう連絡を送りました。それでも、多くの人が深刻に受けとめることなく帰国していきました。

この帰国事業は間違いだった。この本は、断言しています。私も、なるほどと思います。

日本敗戦時に日本国内(本土)にいた朝鮮人は200万人。うち140万人は、敗戦から1年内に朝鮮に引き揚げた。

帰国船に乗って北朝鮮の清津に着いたとき、在日の人々は大きな衝撃を受けた。

「乞食だと思った。あんな格好の人は日本で見たこともない」、ショックを受けて気絶した。

2月の寒いなか、歓迎の人たちが、ペラペラの服を着て、コートも着ていなかった。水道が未整備で、風呂に入れない。石けんもない。人々は臭い。半裸、全裸の子どもたちが走りまわる。裸足の子どももいる。

着いたばかりの在日の人が臭いのせいで食事を残すと、先に着いた帰国者たちがそれをがつがつ食べていった。

生活が苦しいと、人は自然と萎縮していく。まるで身震いみたいに口もきかなくなる。

北朝鮮のシラミ汚染はひどかった。

北朝鮮社会の意識水準は低かった。

インテリ帰国者幹部たちが60年代半ばから、次々に連行され、粛正された。

北朝鮮の政治と社会は1967年を機に大きく変わった。1967年は、私が東京に出て、大学1年生となった年です。社会統制が一気に強まり自由が失われていった。金日成から金正日への権力世襲のころです。

管理所ができ、12万人が収容された。いまは、管理所は4ヶ所と推定されています。

1990年代の飢餓のひどい時期は、「苦難の行軍」と呼ばれています。このとき、帰国者の10人のうち6人が死んだと考えられています。

500頁をこす部厚い新書です。歴史の残酷さを実感させられました。それでも北朝鮮という国が今なお存在している不思議さを考えざるをえません。

(2026年5月刊。1870円)

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