(霧山昴)
著者 記憶を記録する会 、 出版 集英社新書
祖国に渡った「在日」はどう生きたかというサブタイトルのついた部厚い新書です。
その答えは、結論として、こういうものです。
「あまりにも貧しくて、人民を苦労させすぎるから、北朝鮮を祖国と思いたくなかった。 北朝鮮に行かなかった在日は幸せです。渡った私たちは、代わりに地獄に行った」
「祖国はどこなのか、いまだに私の中で解けていない問いだ」
「北朝鮮に帰国して良かったという在日はひとりもいないだろう。日本で苦労した在日は、北朝鮮に渡って、日本とは別の厳しい現実に直面した」
越境ビジネスが生まれた。北朝鮮から中国への越境のピークは、1997. 98年。ブローカーの中には、よく言えば結婚紹介業、悪いと人身売買だった。ただし、越境した時に入国したあと、北朝鮮に戻った人がいることも紹介されています。少なくとも3人はいるようです。「日本に拉致された」と言っています。北朝鮮に残した子どもたちから、戻ってくるように懇願されたあげくの行動です。
北朝鮮で医師になり、労働党員になった人にも脱北者はいます。
「あの国には自由というものがない。自分で自由に動けることは何ひとつない」
北朝鮮への帰国運動の最盛期は1960年前後。この帰国運動には、自民党から社会党、共産党までの主要政党すべてが協力した。国境をこえた崇高な人道主義にもとづくものとされた。このころ、北朝鮮は「地上の楽園」のように美化されていました。
しかし、次第に貧窮している北の実態が日本にも知られるようになり、先に帰国した人たちは、まだ帰国していない「在日」に、遠まわしではあれ帰国しないよう連絡を送りました。それでも、多くの人が深刻に受けとめることなく帰国していきました。
この帰国事業は間違いだった。この本は、断言しています。私も、なるほどと思います。
日本敗戦時に日本国内(本土)にいた朝鮮人は200万人。うち140万人は、敗戦から1年内に朝鮮に引き揚げた。
帰国船に乗って北朝鮮の清津に着いたとき、在日の人々は大きな衝撃を受けた。
「乞食だと思った。あんな格好の人は日本で見たこともない」、ショックを受けて気絶した。
2月の寒いなか、歓迎の人たちが、ペラペラの服を着て、コートも着ていなかった。水道が未整備で、風呂に入れない。石けんもない。人々は臭い。半裸、全裸の子どもたちが走りまわる。裸足の子どももいる。
着いたばかりの在日の人が臭いのせいで食事を残すと、先に着いた帰国者たちがそれをがつがつ食べていった。
生活が苦しいと、人は自然と萎縮していく。まるで身震いみたいに口もきかなくなる。
北朝鮮のシラミ汚染はひどかった。
北朝鮮社会の意識水準は低かった。
インテリ帰国者幹部たちが60年代半ばから、次々に連行され、粛正された。
北朝鮮の政治と社会は1967年を機に大きく変わった。1967年は、私が東京に出て、大学1年生となった年です。社会統制が一気に強まり自由が失われていった。金日成から金正日への権力世襲のころです。
管理所ができ、12万人が収容された。いまは、管理所は4ヶ所と推定されています。
1990年代の飢餓のひどい時期は、「苦難の行軍」と呼ばれています。このとき、帰国者の10人のうち6人が死んだと考えられています。
500頁をこす部厚い新書です。歴史の残酷さを実感させられました。それでも北朝鮮という国が今なお存在している不思議さを考えざるをえません。
(2026年5月刊。1870円)


