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平家物語と太平記

 

(霧山昴) 

著者 足立勇一 、 出版 朝日カルチャー 

源義経が源頼朝より圧倒された経緯が、この本を読んでよく理解できました。

一の谷合戦において、源義経は「ひよどりごえ」の逆落としという奇襲によって勝利したとされていますが、それは単なる伝説であって、史実ではないとしています。まず、一の谷の背後の崖が「ひよどりごえ」というけれど、現地の地形と合致しない。源義経は「ひよどりごえ」を多田行綱にまかせ、自分は一の谷を攻めたというのが実際。

屋島の戦いのとき、源範頼軍が主力で、こちらは九州に向かって進軍した。源義経は遅れて京都を出発し、瀬戸内海の現地の豪族、武士たちを統合して、屋島に進撃した。

そして、引き続いて、壇ノ浦の合戦にのぞんだ。このとき、大きかったのは、熊野三山を統率する田辺別当の湛増を引き込み、熊野水軍を率いて壇の浦に進撃した。

義経水軍の中核は熊野水軍と阿波水軍なので、平家軍よりはるかに強大だった。まず源義経は瀬戸内海の制海権を掌握した。他方、平家のほうは食料も武器も補給がままならない状況で、明らかに劣勢。勝負は始まる前からついていた。

敗北を悟った平家一門は次々に入水した。このとき、二位尼は安徳天皇を抱いて、「海の底にも都はありましょう」と言い聞かせながら入水した。

これは源頼朝にとっては大きな誤算だった。三種の神器のうち宝剣と神璽(しんじ)をもっての入水だった。神璽は回収されたが、宝剣は海の底に沈んだ。

義経が平家に降伏の機会をあたえず、性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想(三種の神器の回収)とはまったく異なる形で源平合戦は終結した。これが頼朝と義経の対立の伏線となった。

また、戦功を立てる機会を奪われた源範頼下の東国武士たちから義経は恨まれることになった。その意味で、義経の孤立と没落は必然だった。

頼朝は、義経が鎌倉に入るのを禁じて待機を命じた。頼朝は、自分の許しをえずに勝手な行動を繰り返す義経に深い怒りを覚えていた。なるほど、そういうことだったのですか……。

平家物語、そして太平記の生い立ちと位置づけをしっかり理解することができる本でした。

(2026年1月刊。990円)

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